ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2015年08月28日
 ひるなかの流星 番外編 (マーガレットコミックス)

 やまもり三香の『ひるなかの流星 番外編』である。番外編だが、これから全12巻の本編の結末について言及せざるをえないのは、収められている「隣の男」という読み切りのことを取り上げたいからだった。『ひるなかの流星』は、当初は噛ませ犬(当て馬)のように思われていた人物がヒロインと結ばれるというトンビが油揚げをさらっていくタイプのエンディングを迎えていた。ヒロインである与謝野すずめ、そして、彼女と結ばれた馬村大樹の二人は、おそらく、幸福な青春時代を送ったに違いない。事実、二人のその後を描いた番外編もここにはある。では、喩えるならトンビに油揚げをさらわれた側にあたる獅子尾五月のその後はいかなるものなのか。それを描いているのが、「隣の男」なのだ。

 そもそも『ひるなかの流星』において、また、すずめと獅子尾の関係にとって、最大の障害となっていたのは、生徒と教師という立場であり、その年齢の開きであった。(だいぶ話を端折ってしまうけれど)結果、迷いながらもすずめは自分と同じペースで時間を過ごしていける馬村を選ぶこととなるのだった。しかしながら、あるいは当然なのだが、そうした結末は、決してすずめに対する獅子尾の気持ちを偽とするものではない。立場の対等性を抜きにするのであれば、単に獅子尾はフラれたのである。もちろん、単に、では片付けられない魅力が、獅子尾にはあった。それがすずめの迷いとなっていたのであって、いや、獅子尾が選ばれるというルートも、まったく不自然ではなかったのだ。それだけの魅力を持った人物が、最愛だと信じたはずの異性にフラれ、フラれたのち、どのような時間を過ごしたのか。

 本編から6年後の獅子尾の姿を「隣の男」は描いている。ファン・サービスとして優れているのは、獅子尾が以前のまま(内面を隠しているがゆえに)飄々とした魅力を損なわずに備えていることだろう。アパートの隣人である(世間に擦れ、やや無感動となってしまっているような)女性編集者の視線を通じ、果たしてすずめに対する獅子尾の想いはどこに行ったのかを垣間見せているところに、短編ならではの味わいがある。物語のレベルで見たとき、具体的にどうという展開はないものの、そこはかなとく獅子尾と女性編集者のラヴ・ロマンスが仄めかされているような気がしてしまうのは、獅子尾に特定の恋人がいないこと、ひいてはすずめに未練を残しているのかもしれない可能性と無関連ではない。

 誰かを一途に想うことを是にするとしたら、未練は必ずしも悪ではない。だが、未練のなかを生き続けることは、どうしたって悲しい。獅子尾が、長い時間をかけ、すずめが他の人物と結ばれてしまったことを、どのように受け入れたのか。これを(ある意味で特別な一日をあいだに挟みながら)アブストラクトに切り取ってみせたのが、「隣の男」だといえる。すずめを想像する獅子尾の表情は今でも優しい。優しいがゆえに切ない。その切なさに胸を打たれる。感傷の綺麗に澄んだ読み切りである。

 1巻について→こちら

・その他やまもり三香に関する文章
 『シュガーズ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 わたしの上司 1 (マーガレットコミックス)

 田島みみの前作『東南角部屋』は、それまでの中高生向けな作風からの脱却を心がけたマンガであった。同様にこの『わたしの上司』の1巻も、学校を出、社会人となった(社会人になろうとしている)ヒロインを主人公にした内容となっているのだが、やはり、本質として見られるべきは、かつての作品がそうであった通り、三角関係の揺らぎをベースにしたラヴ・ロマンスであるように思う。

 かわいいグッズを好きなことが高じ、念願のおもちゃ会社に新卒で入ったヒロイン、真野恵は、志望も叶い、ガールズトイ事業部に配属されることとなった。チームリーダーである上司の中島は、若くして社内で一目置かれる存在だが、しかし、恵に対する当たりは厳しい。中島のことを最初は苦手に感じていた恵である。だが、中島が時折見せる気遣いや優しさに触れるうち、彼に対する印象は大きく変わっていくのであった。

 序盤のエピソードに明らかだけれど、中島の厳しさは、学生気分が抜け切れていない恵に釘を刺すための必然にほかならない。それを恵が(頭で理解するというよりは)身をもって実感していくこと、つまり、学生の立場から社会人の立場への転換を体験しなければならないことが、彼女の心境の変化には投影されている。ただし、会社員として働くというライフスタイルを、あくまでもラヴ・ロマンスの形に回収している点が、まあ、読み手によっては甘いと評価されるかもしれないが、『わたしの上司』の基本である。

 意地悪な異性に、いつしか惹かれてしまう。これはある種の様式であろう。それを学生の立場を題材とし、描いてきたのが、以前の田島であったとしたら、『東南角部屋』と『わたしの上司』では、社会人の立場を題材としている。題材の違いだけではなく、絵柄にも変化が出ているが、物語の構造自体は一定しており、それを作者の持ち味と受け取ることもできるのだ。

 先に挙げた三角関係の揺らぎとは、恵に積極的なアプローチをかけてくる同僚の三浦を指している。ここで注意されたいのは、三角関係といっても(現段階では)三浦が噛ませ犬のポジションにぴったりとハマってしまっていることだろう。三浦と恵の間柄がいかに進展するかにはさほどの重要性がなく、中島と恵の間柄がいかに進展するのかに作品のイメージは規定されているのである。それは既に述べたが、恵の心境の変化と社会人の立場への転換とをイコールで結んでいるところに、題名でもある『わたしの上司』というテーマが現れているからだといえる。

・その他田島みみに関する文章
 『東南角部屋』1巻について→こちら
 『青春ロケーション』1巻について→こちら
 『君じゃなきゃダメなんだ』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『学校のおじかん』
  17巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
2015年08月22日
 落日のパトス 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 ああ、すごくスケベなマンガである。過去作の『三日月がわらってる』で、教師と教え子のエロティックな緊張関係を描いていた艶々だが、その緊張関係が離島という一種のクローズド・サークルに由来していたことは看過できない点であろう。そして、『落日のパトス』の1巻では、物語の舞台はさらに狭く、閉じ、その閉じた空間のなかに元教師と元教え子のエロティックな緊張関係が描かれていく。

 主人公の青年、藤原秋は駆け出しのマンガ家であり、東京の小さなアパートで執筆に励んでいた。あるとき、アパートの隣室に若い夫婦が引っ越してきたのだが、挨拶のために夫人である女性と顔を会わせて驚いたのは、それが高校時代の数学の教師、麻生真(現在は仲井間真)だったからにほかならない。真に対し、秋には後ろめたい過去があった。忘れていたかった過去は、しかし、意外な形で呼び起こされることとなったわけである。それだけではない。聞こえてくるのだ。夜、隣室の夫婦の営みが、アパートの薄い壁を通して聞こえてくる。想像だにしなかった真のその喘ぐ声に誘われ、秋はベランダから隣室の窓の奥を覗き見しようとしてしまうのであった。

 激しいセックスに淫している真の描写は直接的ではある。所謂アヘ顔や騎乗位で揺れる巨大な乳房を含め、それは確かにイヤらしい。だが、単なるカット(サービス・カット)である以上のイヤらしさを覚えることがあるとすれば、秋の立場と視線を経ることで、セックスに興じる真の姿が非常にインモラルな光景として現れているためだろう。気持ちがどうこうのではまったくなくて、狭く閉じた物理上の条件に左右され、二人の距離があまりにも接近したがゆえに、本来は不可侵であるはずのプライヴェートな領域が、お互いの了解も承諾も一切がないまま、剥き出しにされてしまう。そのようなプロセスがいびつである点にイヤらしさが宿らされているのだ。

 もちろん、性的な関心を抱いている人間が、たとえ相手が自分でなかろうと、普段からは考えられない格好をし、欲情しているのを目の当たりにすることは、それだけでイヤらしい。ああ、いつもは澄ましているのにあんな顔をしたり、あんな声を出したりするだなんて、である。同様に『落日のパトス』においては、アンバランスな秋と真の立場が、スケベな描写を一層イヤらしくさせる。

 少なくとも今の段階では、秋と真のセックスが描かれているわけではない。また、真の淫らな姿をもったいぶり、寸止め的に描いているわけでもない。むしろ、それは大っぴらに描かれている。今後の展開次第で二人がセックスをするかもしれない可能性がないわけではない。だが、二人の実生活があくまでも薄い壁に遮られていること、当然、スキンシップを重ねるような間柄ではないこと、それでいてプライヴェートな領域が剥き出しにされてしまっていること。このような矛盾が、ほぼ丸投げになっていることの当惑こそが作品のコアであり、エロティックな緊張関係をもたらしているのである。
2015年08月21日
 Runin 2 (ヤングジャンプコミックス)

 同じ雑誌の同じ号に最終回が載りながら、森田まさのりの『べしゃり暮らし』が大々的にフィナーレを迎えるワキで、ひっそりと完結した印象がある。猿渡哲也の『Rūnin』である。そんなに人気がなかったのかと思う。いやあ、カタストロフィ後、秩序の崩壊した近未来を舞台とし、猿渡ならではの筋肉ムキムキのハードなアクションが繰り広げられるという内容には、様式美を愛でたくなるのに近いような魅力があったのにな。だが、作画の面でのスペクタクルに比べると物語が異様に暗く、スケールの大きな設定の割に作品の世界そのものに広がりが乏しかったのも確かであった。

 2巻では、かつては栄華を極めた日本人が危機感のなさから外国人の虐殺に遭い、絶滅に近付いてしまったこと(こうした背景のため、日本人である主人公の少年、タケルが一種の選民のように描かれていること)が直接的に語られていて、そこに作者の思想なりを見て取ることもできるけれど、サムライとしてタケルを育ててきた日本人の男性、ガモンとタケルの関係に『高校鉄拳伝タフ』並び『TOUGH』におけるオトンとキー坊の関係を重ねることも可能だ。ただし、キー坊を主人公だと信じていたら実はオトンの方が主人公みたいだったという『高校鉄拳伝タフ』にもあった転倒が、『Rūnin』の場合、初期の段階から起きており、ガモンとタケルの役割があまりうまくは分担されていなかったように思われ、それが登場人物に対する感情移入のレベルでネックになってしまっていた。

 もしかしたら、この2巻のエンディングの後、ガモンから独り立ちしたタケルの成長こそが、本編として描かれるものであったのかもしれない。残念ながら、そこまで辿り着くことはなかったのである。
2015年08月12日
 Melk En Honing

 奇っ怪なドローン・マシンとダブ・マシーンを操る一人インダストリアル・ドゥーム・メタル・ユニット、AUTHOR & PUNISHERの通算6作目となるフル・アルバムが『MELK EN HONING』である。かのフィリップ・アンセルモ(DOWN、元PANTERA)に見初めされ、彼との共同プロデュースかつ彼のレーベルであるHOUSECORE RECORDSからのリリースとなったわけで、そうした背景がいかに作用したかといえば、まあ、基本的には変わりませんよ、と。地響きのような重低音とイカズチのようなノイズ、そして、ポジティヴなフィーリングを完全に拒んでいるかのような吐瀉型のヴォーカルとが、圧殺と狂気のイメージを描き出しているのだった。が、しかし、前作の『WOMEN & CHILDREN』(2013年)あたりからブレンドされてきたアンビエントな要素が、さらに主張的となったことにより、これまで以上の入りやすさが出てきたかな、と思う。もちろん、入りやすいといってもポップ・ソングのレベルからは、かけ離れてはいるものの。最近の作品を挙げるとすれば、THE BODYとTHOUのコラボレーションに近いところもあるが、そこまで偏執ではないといおうか。もう少し振り幅の大きさを感じさせる。特筆すべきは、ゴスペル風のバック・コーラスの入ってくる3曲目の「SHAME」とコーラスのパート自体がメロディアスとなった4曲目の「FUTURE MAN」であろう。おそらくは計算の上で、ある種の静謐さが演出されているのだ。それが圧殺と狂気のイメージを逆さまの側から強調するという形になっていて、あたかもNINE INCH NAILSとJESUとNADJAとSUNN O)))のミックスを彷彿とさせるサウンドに繋がっていく。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2015年08月11日
 監獄学園(18) (ヤンマガKCスペシャル)

 屈指の傑作シリーズ、ウロボロス編を読むことができるのは、この18巻である。いやはや、何度目を通してみようとウロボロス編は傑作シリーズだと信じてやまない。どこが素晴らしいのか。結局のところ、どうでもいいようなくだらないことだって圧倒的な技術と密度で描き込んだら、とても目が離せないものになるんだぞ、というアクロバットをやってのけているからにほかならない。大体、所謂シックス・ナインの体位(ウロボロスのポーズ!)となった裸の男女がお互いにオシッコをかけるかかけないかのやりとりを丸ごとコミックス一冊の長さにまで引っ張っていってしまうこと自体が異様だし、ワケがわかんねえよ、であろう。にもかかわらず、意味不明瞭な展開からクライマックスへと至った際の緊張感たるや。まるであらゆるサスペンスのお手本を見せられたような気持ちになってしまうのだった。

 まあ、明らかにおかしいだろう、と思うところはある。だが、ツッコんだら負け式の思考停止のみで場面や展開を受け止めてはならない、と思わされるところもある。これは『監獄学園(プリズンスクール)』の全体についてもいえることなのだけれど、前者の判断においては、『アゴなしゲンとオレ物語』以来、平本アキラによって培われてきたナンセンスが、ついに技術のレベルでも密度のレベルでも最高の基準に達したことを教えてくれている。後者の判断においては、ある種のコミュニケーション・ギャップを通じ、閉塞的な状況に追い詰められてしまった男女の全部をぶち壊しかねない絶望と欲望と、それでもギリギリの理性を頼りに一縷の希望を手探りで掴み取ろうとするかのような必死さとが、切実な訴えかけを持ちながら浮かび上がってくるのであって、切実な訴えかけが切実であればあるほど、いとおかし。大変人間らしい滑稽さをも上乗せさせられているのである。いやいや、まじで。まじで。冗談半分本気半分の本気の方を強調して、そう提言したい。いずれにせよ、のっぴきならないようなシチュエーションを題材にしたコメディ(あるいはギャンブル・マンガやデス・ゲームのパロディ)としては、ちょっと馬鹿にできないクオリティとなっているのだ。

 ウロボロス編の主要人物であるキヨシと花が陥った危機は、デタラメな出発点からして既にそうなのだが、作者の匙加減一つでどうとでもなるようなものである。しかし、その匙加減一つに細心の注意が払われていることこそ、重要なのだ。花のキヨシとオシッコに対する執着は、以前のエピソードより長く持ち越されてきた因縁で、それに一応の決着がつけられる。だが、その決着が二人にとっての新たな因縁の呼び水となっていく。〈答えを‥ ください‥‥!! オシッコをかぶった人間は どんな顔をして親や友人と接すればいいんです‥‥?〉というキヨシの叫びはもう滅茶苦茶だし、見事なオチを作り出しているのだったが、それまでのサスペンスが尋常ではなかったため、決して無視のできない迫力をともなう。
2015年08月10日
 百人の半蔵(2)(少年チャンピオン・コミックス)

 羽生生純と柴田ヨクサルと山口貴由の作風をミックスしながら『無限の住人』や『ヘルシング』を描いているような感じと喩えたなら、んん、と興味を持つ向きがあるのではないか。『百人の半蔵』というタイトルは、ゲームやアニメの『ミリオンアーサー』シリーズを想起させるが、勢いとハッタリ、無茶無鉄砲の熱量によって、アナーキーなストーリーとチャンバラとを繰り広げているところに、どかん、という魅力がある。

 百の技を持つ最強の忍、服部半蔵から技と名前を受け継いだ百人の弟子の起こした「半蔵の乱」に、徳川幕府が敗れたのは1682年のこと。結果、百人の半蔵たちは「弱き者はクズ」だという法の下、日本全国で各々の欲望を満喫するのだった。しかし、1702年(忍明十八年)一人の男が百人の半蔵を殲滅するために立ち上がる。その片目に釘を刺した男の名前は、極楽浄土無縁之助という。無縁之助は秘剣「仏斬り」を操り、次々に服部半蔵を打倒していくのである。以上が、横尾公敏の『百人の半蔵』のあらましであって、この2巻では、さらなる狂気をまとった半蔵たちとの死闘を通じ、無縁之助の正体がまた一段階掘り下げられるのだ。

 無縁之助の師匠、千切り屋の半蔵との対決や無縁之助の幼馴染みであるタンポポとの再会が、マンガを物語のレベルで見る上でのキーであろう。だが、やはり、勢いとハッタリに溢れたセリフ回しと無茶無鉄砲の熱量をキープし続けるテンポのコマ運びとに、引き付けられるのである。1巻の段階に比べると、作中の相関図はいくらか入り組んできているものの、それでも話の筋は至ってシンプル、とりあえずは関東の半蔵と関西の半蔵が関ヶ原に集結し、日本を取り合うための半蔵戦争の開始が予定されているところへ、いかにして無縁之助が介入するのかに、焦点は絞られている。登場人物が増え、思わせぶりな点も多くなってきたが、当初のインパクトが損なわれないままでいる一因は、そこにある。

 伸るか反るか。こう、無縁之助の行動原理を言い表すことができる。そして、それは作品の全体にまで敷衍するのが可能なイメージでもある。黒幕めいた謎の男、果心居士は常に乱世であるような混沌を望む。無縁之助の旅と命が続く限り、その混沌はえげつなさを伴いながら『百人の半蔵』のなかで具体化されていくに違いないと感じさせる。
 DRAGON SEEKERS(1)(少年チャンピオン・コミックス)

 少年マンガらしからぬショッキングな描写が頻出することに割と驚く(まあ、今どきの少年マンガにショッキングな描写は少なくはないものの、それらと比べても、だ)。米原秀幸の『DRAGON SEEKERS』は、1巻を見る限り、登場人物と設定の多くを『ROCK&GEM』と同一にしているが、続編というのではなく、おおもとのアイディアを共有し、そこにアレンジを加えてきた別のヴァージョンといえる。続編だと思っていると、ズレの大きさに戸惑うのである。そうしたズレは、おそらく作者の意図したものであって、作品の世界に相対する視線や認識の違いに根ざしているのかもしれない。

 西部劇を模したかのような架空の大陸、黒ずくめの衣装で列車強盗を繰り返す三人組の男たち、そして、彼らをサポートする少女は一体何者なのか。素性は明らかにされてはいない。これが作品のコアであろう。凄腕のガンマンであるロック・バースト、精密なスナイパーのクレイ・クールス、強力の持ち主であるラバァ・ヒートは、目的のためには殺人を厭わない。一方、頭脳であるサンド・ミラージュの指示を受け、悪党の金を奪い、庶民にまいて回ることで義賊とも噂されている。果たして四人がDシーカーズと呼ばれることになったのは(もはや誰もが伝説としてしか信じていない)ドラゴンの存在を追い求め続けているからであった。

 先述したズレは、ショッキングな描写を含め、作品そのもののテンションの違いとなって現れている。『ROCK&GEM』では、ドラゴンの存在を信じ、追い求めることが、明朗活発なロマンを生じさせていた。が、『DRAGON SEEKERS』では、同様のプロセスが、登場人物たちの暗いプロフィールをうかがわさせる。ダークなファンタジーを彷彿とさせるものになっているのだ。鉄道や列車の繁栄に象徴されるような文明の利器や人間の欲望とが、自然や夢想を破壊していってしまう、という背景が物語の奥に置かれている点に関しては、『ROCK&GEM』も『DRAGON SEEKERS』も変わりがない。ドラゴンの存在は、自然と夢想の比喩だといえる。ただし、それによって引き出された登場人物たちの表情が、『ROCK&GEM』と『DRAGON SEEKERS』とでは、対照的であるほどにかけ離れているのである。

 単に弱者だからという理由で女性や子供が虐げられ、因果応報や悪党だからという理由で性差や年齢を問わずにバンバンと殺されていくマンガである。『DRAGON SEEKERS』は。銃とバトルのアクションには、さすがのカタルシスがある。反面、それは必ずしも後味の良いものばかりではない。勧善懲悪で割り切れてしまう世界もまた残酷な要素を抱え込んでいる。だが、その残酷さを決して隠していないところにこそ、作者の視線や認識がよく出ているのではないかと思わされる。ロマンやファンタジーがロマンやファンタジーとしてハッピー・エンドに到達する以前の生々しい感覚が、作品の語り口に強い訴求力を与えているのだ。

・その他米原秀幸に関する文章
 『報道ギャングABSURD!』1巻について→こちら
 『風が如く』8巻について→こちら
 『南風!BunBun』1話について→こちら
2015年08月02日
 熱風・虹丸組 5巻 (ヤングキングコミックス)

 があああ、ここまで男の子が燃えるマンガだったかい。現在、桑原真也の『熱風・虹丸組』は、神話として読まれたい作品になりつつある。神話とは、この場合、車田正美の描く作品はすべて神話にほかならないという意味での、神話である。それはつまり、不良少年の日常やライフスタイルを中心的にしたヤンキー・マンガが台頭する以前の不良マンガや少年マンガのフォーマットを正しく汲んでいることでもある。根拠の有無にかかわらず、数々の少年たちが、自分の生き様をかけ、命をかけ、体一つで超人的なバトルを繰り広げていくのだった。

 事実、前巻(4巻)そして、この5巻における主人公、虹川潤の覚醒を見られよ。タイマンの最中、相手の特技を一度味わったことで、その特技を自分のものにしてしまう。異能とでもすべきそれにより、絶体絶命の状況を脱していく姿は、やはり、かつての少年マンガや神話の世界の住人を思わせる。潤のパートナーである羽黒翔丸は、覚醒した潤と渡り合いながら、ヒートアップし、やがて笑みすらも浮かべはじめた荒吐篤郎を見、言う。〈フン…ちっと理解(わか)んぜ その気持ちがよ…………!! 人の“性能”全開にして なおそれに応えてくる男… そんな男(ヤツ)には滅多に巡り逢えねェからな…!! 全力で喰らって 自分(テメエ)の全部でブチかます… 潤ってのはそういう男(ヤロオ)なんだよ……!!〉と。要するに、ライヴァルのポテンシャルが主人公のポテンシャルを引き出し、主人公のポテンシャルが主人公の生き様をダイレクトに投影しているとするとき、主人公のポテンシャルはライヴァルの生き様を問うためのカウンターでありうる、という図式が完成しているのである。

 しかし、ああ、潤と篤郎のタイマンをよそに、翔丸の運命に暗雲が立ちこめる。篤郎の兄である荒吐三郎の登場は、翔丸にとって不吉な兆候にほかならないことが、幾度となく作中で仄めかされるのである。成り行き、三郎と彼の率いるプロの暗殺集団と対決することとなってしまった翔丸のもとへ、虹丸組の副長である橘エイトの呼びかけを受けた狗神塔馬、卯月倫人、美剣號ら、ナラシナのオールスターが駆けつけてくるシーンは燃える。それまで孤独に生きてき、閉ざされていたはずの翔丸の心の動きが手にとってわかるように描かれた良いシーンだといえる。だが、それが良いシーンであればあるほど、翔丸に対するたむけの感動にも見えてしまうのだ。

 巨大な権力の荒吐家を後ろ盾にした三郎は〈確率を決定するのは「運」じゃねェッ 「遺伝」だ 「薄い血統」の貴様等はここで死ね 引き裂かれて自分(テメエ)の親を恨め〉と言う。おそらく、貧しい両親に虐待され、幼年期を過ごしてきた翔丸は、三郎の対極に位置しているのだろう。ここで不良マンガのヒストリーを振り返るのであれば、遺伝と環境に運命が決定されることの不幸は、車田正美をルーツとはしない作品やマンガ家が90年代以降に発見したテーマやリアリズムでもあった。それが翔丸のプロフィールには託されている。もちろん、車田正美の作品にも不幸な出自の主人公は少なくはない。ただ、それは神話の世界の住人の多くが不幸な出自であるというレベルでの表現にほかならない。両者には決定的な差異があるのだけれど、『熱風・虹丸組』では、夜の太陽に喩えられている虹川潤と闇の住人に喩えられる羽黒翔丸のコンビを通じ、両者が一つの枠内に統合されている。

 最初に述べた神話として読まれたい作品になりつつあるという言葉の「なりつつある」とは、それでも主人公である潤の〈オレにとっちゃあ… アイツこそが“太陽”… “光”だッ!! そんな翔丸(アイツ)をッ… 自分の“暗さ”と闘う事もしねェで エラそーに能ガキ並べてんてめェと… てめェごときとッ… 一緒にすんじゃ無ェッ〉という拳が荒吐篤郎を巨躯を砕く見開きの2ページに、作品の魅力そのものであるようなインパクトが宿らされている点を指しているのである。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら