ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2015年06月28日
 Foundations of Burden

 いやはや、こいつはもしかしたら、上半期最大のごめんなさい(あなたがたのことを侮っていました)対象かもしれない、と痛感させられたのが、PALLBEARERの初来日公演である。正直な話、これまでにリリースされた2枚のアルバムのどことなく優等生風にまとまった印象や海外のメディアのやたらと高い評価に、ハイプを思わせるような疑いの眼差しを抱いていたのたが、そのライヴにおけるパフォーマンスは、こちらの想像を一段階も二段階も越えていくものだった。

 直前に登場した日本のNEPENTHESが野蛮に暴れ回ることでハイ・エネルギーなドゥーム・メタルをアピールし、会場を大きく沸かせているのを目にしながら、このあとに出てくるPALLBEARERは少しばかり分が悪いんじゃないかと思っていたのだけれど、それとはまったく別の角度からドゥーム・メタルのドゥーム・メタルらしい側面を掘り下げ、そして、新世代を担うのに十分なポテンシャルを見せつけたのだから、恐れ入る。

 おそらくは、シヴィライズドといおうか音像的に洗練されたドゥーム・メタルと喩えるのが相応しい。確かに、そうしたイメージは2012年の『SORROW AND EXTINCTION』にも2014年の『FOUNDATIONS OF BURDEN』にも顕著なものではあった。アグレッシヴにど真ん中のストレートを狙うのではなく、緻密なコントロールでコースの隅を突いていくいくかのようなスタイルをトレードマークにしていたところがある。しかし、ライヴでは、アルバムのヴァージョン以上に低音の響きとダイナミズムが強調され、自然と体が仰け反るほどのインパクトを編み出していた。と同時に、それがかえって本来の楽曲に前面化されていたデリケートなアプローチと技巧とを、深淵と呼ぶことのできるレベルにまで引き上げていたのだ。

 デリケートなアプローチと技巧とは、特にヴォーカルのハーモニーとギターのハーモニーによって担われている。他方、ライヴを通じてよくわかったのは、低音の響きとダイナミズムの部分においてベースが非常に重要な役割を果たしているということだ。ヴォーカルのハーモニーとギターのハーモニー、低音の響きとダイナミズムのスクウェアなバランスが、ドゥーム・メタルとゴシック・メタルのミックスであるような(フューネラル・ドゥームやエピック・ドゥーム、プログレッシヴ・ドゥームと形容する向きもあるような)雰囲気とサウンドを作り出しているのである。

 出番が遅かったため、たぶん1時間ぐらいのセットリストなんだろうと踏んでいたのだけれど、実際には2時間に近いパフォーマンスが繰り広げられることとなった。1曲1曲が長尺なのもある。が、スローでありながら起伏が激しいというアンビバレントを飲み込んだ演奏からは、先に述べたとおり、スタジオの音源を遥かに越えるほどのインパクトが放たれており、反復のリフとフィードバックのノイズがいよいよもたらしたエンディングには、アルバムのアートワークを彷彿とさせるような呪術と終焉の景色とが魅惑的に宿らされていた。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2014年)
2015年06月09日
 ストーリーズ 〜巨人街の少年〜 1巻 (ヤングキングコミックス)

 これは大井昌和版『天空の城ラピュタ』であろうか。それとも大井昌和版『風の谷のナウシカ』か。あるいは大井昌和版『宇宙海賊キャプテンハーロック』のようでもあり、大井昌和版『ファイブスター物語』のようでも大井昌和版『天元突破グレンラガン』のようでもある。いずれにせよ、である。『ストーリーズ〜巨人街の少年〜』の1巻では、非常にスケールのでかいファンタジーと冒険活劇とが繰り広げられているのであった。

 根っこの部分に置かれているのは、おそらく、ボーイ・ミーツ・ガールの思想である。死海雲渚と呼ばれる有害な線量子に地上が覆われたため、天空に居場所を求めた人々が、巨大なロボットを次々に建造し、それぞれの機体を軌道国家(オービタリア)としながら暮らすようになって長らくが経った。三都暦945年、母親を小国「黒金の周落」の操縦者に持った少年、アキナケスが、大国「白銀の神無国」の軍勢に追われていた少女、ル=クィンを、素性も理由も知らぬままに助けたことが、正しく波瀾万丈を引き起こすかのようなトリガーとなっているのだ。

 そう、虫使いなる特別な力を背負わされ〈30年前――――オービタリア大戦の戦犯・青の終国…その軌道国家が手にせんんとした終末の剣 星剣「ワンマイル・ソード!!!」〉こそが、死海雲渚を払い、再び人々を地上に戻すことができると信じているがゆえに追われる身となってしまったル=クィンの役割は、ちょうど『天空の城ラピュタ』におけるシータのそれを彷彿とさせる。このとき、大国を敵に回し、ル=クィンとともに星剣が存在しているとされる「雲の向こう」を目指すアキナケスの姿は、『天空の城ラピュタ』のパズーに重なるものであろう。

 しかし、注意されたいのは、そうしたイメージを下敷きとしつつ、そうしたイメージからどれだけの飛躍を果たしているか(飛躍を果たそうとしているか)という点に、『ストーリーズ〜巨人街の少年〜』の本領が現れている点にほかならない。

 ボーイ・ミーツ・ガールをベースとした物語が、コマを進めるたびに前面化させているのは、少年性の熱血主義とでもすべきものだ。確かに、巨大なロボットを駆動させることのスペクタクルや迫力を持った空中戦、複数のカメラと伏線によって展開させられるサスペンスの数々に、見所は多い。だが、それらに増して強いフックとなりえているのは、狂的や難題を前にしようと屈託や躊躇を一切引き受けず、無鉄砲を地でいくような主人公、アキナケスのがむしゃらなガッツであろう。

 かくして、アキナケスのがむしゃらなガッツは〈「力」が男を決めんじゃねぇぞ 何をするかで男は決まるんだろうが!!〉という断言と同時に、拳と拳とが直接ぶつかり合うような超人同士のバトルをも大胆に引き寄せてしまう。正直なところ、超人同士のバトルが導入されるのは、いささかトゥー・マッチであるし、このあたりに眉をしかめる読み手がいるかもしれない。反面、わざわざ主人公にスカジャンを着させるといった趣味のデザインから察せられる通り、タイマン式の対決にこそ作者の熱気がよく込められているのかな、と思う。

・その他大井昌和に関する文章
 『流星たちに伝えてよ』について→こちら