ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2015年02月12日
 でぶせん(2) (ヤンマガKCスペシャル)

 学園ものにとって、教師のイメージをいかにアップデートするか、というのは重要な課題の一つに違いないのだが、この十数年、社会におけるトリックスターであるようなヤンキー先生の立場と段階から大きく進んではいない。確かに『暗殺教室』は良いところまでいった。ついには人間ならざるエイリアンが教師となり、地球の破滅を賭け、生徒との緊張関係を正しく命(タマ)の取り合いとして描こうとする手つきには、所謂セカイ系や『バトル・ロワイヤル』の殺伐とした授業風景以降にフィクションのなかで学校を機能させるための新しい展望が開きかけていたのであった。しかしながら、連載を経るにつれ、現代ならではの設定やモチーフよりもプロフィールに問題のある教師がプロフィールに問題のある生徒の更正に尽力する(ひいては問題のあった学校そのものが健全さを取り戻す)といった様式の方が全体化し、やっていることは要するに『GTO』と一緒じゃん、の段階まで後退してしまったのを残念に思う。

 学園ものと教師のイメージとを魅力的にアップデートすることはかくも難しい。そのような意味で、意外にも無視しちゃいけないマンガになりつつあるのではないか、と(あくまでも相対的にだが)持ち上げたくなってきているのが、安童夕馬(原作)と朝基まさし(漫画)のコンビによる『でぶせん』である。

 題名から『ごくせん』の(原作というよりはテレビ・ドラマ版の)フォーマットを下敷きにしていることは明らかだし、実際、筋書き自体もプロフィールに問題のある教師とプロフィールに問題のある生徒の衝突を軸にしているのだけれど、ここで注意しておきたいのは、その主人公の教師が、まったくのヤンキーではないかわり、完璧なサイコパスであることにほかならない。プロフィール以上に、人格に問題がある。それだけではない。主人公ばかりではなく、生徒も、生徒の親も、さらには同僚の教師もが、もしかしたらサイコパスなのかもしれないと見なされるような人格と挙動とを与えられているのだ。

 周知の通り、『でぶせん』を手がけているコンビは『サイコメトラーEIJI』及び続編の『サイコメトラー』の作者であって、そもそも『でぶせん』はそのシリーズのスピンオフとして描かれている。『サイコメトラーEIJI』では本編の幕間にコメディ・リリーフのように登場する機会の多い福島満(みっちゃん)が、ここでの主人公である。90年代、『羊たちの沈黙』のヒットにいち早く同調し、様々なサイコパスやシリアルキラーの凶悪犯罪をオンパレードにしてきたのが、『サイコメトラーEIJI』であった。もちろん、目的のためには殺人やテロリズムをも厭わぬ沢木晃などの巨悪に比べたら、福島は単なる変態にすぎない。とはいえ、それは程度の問題でしかなく、やはり、自分が変態であることを自覚しつつも、犯罪行為に対し、極めて無反省であるような人格は、一般的にサイコパスと判断されうる資質を兼ね備えたものだろう。

 大体、どうして教職ですらなかった福島が高校の先生をやっているのか。もっというのであれば、本来の性別は男であるはずなのに女教師をやっているのか。不幸な身の上に消沈し、自殺するつもりで訪れた樹海で発見した死体の(生前の)ルックスと名前とが偶々自分にそっくりであったため、入れ替わり、その死体の生活をごっそり奪取しちゃおうと思ったのだ。死体は女性のものであったが、女装癖のある福島には、ネックであるよりはむしろ好都合の条件でさえあった。こうして女教師、福島満子(みっちゃん)が誕生したのである。

 まあ、ほとんどギャグとして成り立っている展開に、シリアスな意見を投じるのは野暮かもしれないけれど、自殺する直前にもかかわらず、脳天気に樹海をさ迷い、挙げ句には他人の死体を活路にすることで安寧を得てしまうという切り替えの速さを含め、いささか常軌を逸している。だが、それがみっちゃんなんだよなあ、と『サイコメトラーEIJI』のファンだったら納得できるほど、福島のパラノイアは、かねてよりナチュラル(福島にとってはパラノイアであることが正常)なのであり、そうした社会の通念を逸した存在を、ヤンキー先生がそうであるようにトリックスターとして学園ものの教師に仕立て上げたのが、つまりは『でぶせん』なのだ。

 果たして筋金入りのサイコパス先生は、札付きの悪童たちと荒廃した教室に変革をもたらせるのか。しかし、先に述べたが、主人公だけではなく、生徒や生徒の親、同僚の教師までもが、どうやら常軌を逸していそうだぞ、と思われる。皆、サイコパスの可能性を秘めているところに『でぶせん』の特異さが強く出ている。家庭や周囲の環境のせいで生徒がぐれてしまう。これは学園もののセオリーである。それが『でぶせん』では相当に極端なレベルで採用されているのだ。1巻における緋熊五郎という生徒の家庭は非常に殺伐としていたが、この2巻に描かれた神夜晶という生徒の家庭も平穏とは程遠い。とりわけ神夜の父親は、『サイコメトラーEIJI』に悪役としてエントリーしていてもおかしくはなさそうな二面性と暴力を通じ、母子を抑圧しているのであった。

 学校へやってきた生徒たちの素行も常軌を逸しており、刃傷沙汰もリンチも常態化している。当然、主人公(ヒロイン?)であるがゆえに福島は、彼らと対決せざるをえないのだし、それは『GTO』や『ごくせん』のヤンキー先生よろしく事態を好転させているには違いないのだけれど、あらためて注意されたいのは(たとえ作中には顕著であっても)福島の眼中に生徒たちの不幸は一切入ってきてはいないことだ。福島は生徒たちの境遇や内面を徹底的に無視し続ける。それがマンガならではのレトリックにより、生徒たちを救った結果となっているにすぎない。

 通常、ヤンキー先生もそうだが、学園ものの教師は、一見ふざけているようでいて、その深奥には教育や理念に関する配慮を隠し持っている。『暗殺教室』ですら例外ではなかった。なのに『でぶせん』の福島には、それが完全に欠落している。いや、福島の同僚の教師たちにしたところで、聖職とはかけ離れた裏の顔が仄めかされている。本物の福島満子は何者かに殺害されたのではないか。その犯人は同僚のなかにいるのではないか。こうしたサスペンスは『サイコメトラーEIJI』の本編を彷彿とさせるテイストであって、序盤の時点で用意された伏線の一つだろう。

 いや、そんなに真剣に読むような作品じゃねえよ。まあね、である。だが、サイコパスの教師がマイルドな学園ものの様式を繰り広げるという倒錯、そこには単なるギャグでは済まされない現代ならではの不穏さが潜んでいることだけは確かだと思う。