ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年09月19日
 本日(19日)、22時40分ぐらいからTBSラジオ「Session22」に出演します。速水健朗さん、海猫沢めろんさんと一緒にヤンキー・マンガについての話をする予定です。

 http://www.tbsradio.jp/ss954/2014/09/20140919.html
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2014年09月16日
 Empress Rising

 ドゥームとは、超重量級のリフがもたらした恩恵の名である。我々はこのようなテーゼを信じてやまない。そして、それが真であることはこうも容易く証明されるのであった。スウェーデン、イエテボリ出身のトリオ、MONOLORDのデビュー・アルバム『EMPRESS RISING』の話だ。ドゥームやストーナーと称されるこの手のファンのあいだでは徐々に知名度を高めつつある(のではないかと思われる)RIDINGEASY RECORDSだが、そこからリリースされたなかでも、ヘヴィという観点で見るなら、『EMPRESS RISING』こそが、待ってました、の掛け声に相応しい。

 近年では「ヴィンテージであるがゆえにフェイクじゃない」式のプロダクションが目立ってきたジャンルではあるし、その傾向は(ことによるとWITCHCRAFT以降か)スウェーデンを含めた北欧のシーンに根強いような印象もある。それはそれで悪くはないのだけれど、正直なところ、音の厚みや圧のレベルにおいて、いくらか物足りなさもあった。刺激に乏しいといおうか。ああ、一度掴まれたが最後、背骨を砕かれるほどにヘヴィなリフが恋しいよ、であろう。こうした欲求を埋め合わせるものの一つに、つまり、MONOLORDの『EMPRESS RISING』はあたるのだ。

 タイトル・トラックである1曲目の「EMPRESS RISING」からしてもう、ほぼ完璧じゃんね。これぞドゥーム、であるようなうねりをモノにしている。無論、楽曲のテンポはスローであり(それがギターであれベースであれ)エフェクターをひずませながら、同一のフレーズを繰り返し、その繰り返しがズブズブとぬかるみにはまって身動きのとれないイメージを作り上げていく。全5曲だが、10分に近いナンバーがずらりと並ぶ。スタイルとして近いのは(トリオ編成ということもあって)初期のELECTRIC WIZARDやELECTRIC WIZARDの派生であるRAMESSESあたりではないか。低音をずしーんと響かせたグルーヴへの没入を延々とキープし続ける演奏は地下室のセッションを思わせる。あちこちに殺伐としたエッジが立っている。オジー・オズボーン・タイプの呪術的なヴォーカルもジャストである。

 MONOLORDの場合、リズムがよく跳ね、楽曲の構成と輪郭とがくっきりしているのは特徴だろう。混沌としたアンダーグラウンド臭が必ずしも濃くはないため、ハードコアなマニアの評価は分かれるかもしれない。しかし、ダイナミズムの前に出たサウンドが超重量級のリフによるインパクトを絶大にしているのは明らかであって、ぬおお、首までどっぷり浸かってしまうその中毒性もまたドゥームの系譜に通じていることの証明となるのだった。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2014年09月11日
 オイ!!オバさん 10 (少年チャンピオン・コミックス)

 近年の少年マンガにおけるハーレム型のラブコメは、メジャーの『ニセコイ』とマイナーの『オイ!! オバさん』に代表されるのではないかと思っている。いや、いづみかつきの『オイ!! オバさん』にしたって、もう10巻になるのだから、世間の評価も相応に高いのだろうし、マイナーと呼ぶのは大変失礼であるかもしれない。しかし、10巻に入った今も当初の方向性をキープしながら、充実したエピソードを増やし続けている点を見、その魅力を改めて確認したところで決してバチは当たらないはずである。

 スタイルの便宜上、ハーレム型のラブコメとはいったけれど、複数のヒロイン、美少女の恋愛感情は、必ずしも主人公の少年に向いているわけではない。タイトルの『オイ!! オバさん』に隠されているのは「甥」と「叔母」の関係である。主人公である沢田透と透の祖母の娘である安宅菅子の間柄が、つまりは「甥」と「叔母」にあたるのだが、驚くべきことに二人は同い年の同級生であって、成り行きから同じ家に住み、同じ高校に通うことになるのだった。さらに菅子が元々は有名なヤンキー、レディースであったため、彼女を慕ったり、彼女と敵対したりする美少女たちが、菅子と透の高校に次々とやってくることとなる。これが結果的に、ハーレム型のラブコメと似た相関図を作品のなかに作り出しているのだ。

 また、菅子と透の間柄に近親相姦の要素は一切なく、それは完全に「叔母」と「甥」の関係に固定されている。むしろ、平凡でしかない主人公の恋愛感情、片想いが、高値の花であるような対象としているのは、中学校からの同級生、持田愛という美少女であって、菅子は透を応援し、後押しする立場に撤している。ただし、ここで話がこじれるのは、菅子は透を「甥」として溺愛しているが、透は菅子を「叔母」として鬱陶しがっており、好奇の目で見られるのを嫌がった透が二人の関係を他の生徒には伏せていることである。そのせいで愛は、ざっくばらんで親しげな透と菅子を、二人が何と言おうと、熱々のカップルだと信じて止まない。

 透の立場からすれば、彼の恋愛感情には愛を目指したルートしか存在しない。にもかかわらず、周囲の視線においては、菅子をはじめ、続々と登場してくる美少女たちとのルートが生じてしまう。もちろん、美少女のなかには透に好意を抱く者もいるにはいる。が、それらはむしろ、菅子を中心とした共同体のテーマに引き寄せられていく印象である。かつてはヤンキーであった菅子が、高校進学を機にごく普通の学園生活を望んでいくというのは、『オイ!! オバさん』にとって(透の片想いと並ぶ)もう一つの大きな柱だろう。

 ごく普通の学園生活を望んでいる菅子は、ヤンキーであったというプローフィールをなるたけ隠しておきたい。「甥」である透の保護者を気取っているときは穏やかでいられるのだったが、透以外の人間に「オバさん」と声をかけられると、途端に激昂してしまう。どんな不良をも一蹴するほどのおそろしさを見せるのだ。このような二面性はヤンキー・マンガの文法から持ってきたギャグになっている。と同時に、ヒロインが二面性だったり何かしらの秘密だったりを持っていることは、ラブコメのジャンルでも非常にオーソドックスな設定であって、今日ではツンデレ等と解釈されうるタイプも、場合によってはそこに含まれるのである。

 菅子にかぎらず、『オイ!! オバさん』における美少女のほとんどが、二面性であったり何かしらの秘密であったりを持っている。そのギャップは、ある意味で彼女たちの可愛らしさを引き立てるものとなっている。しかし、それ以上に彼女たちのエキセントリックな資質を引き出し、作品のテンションを極めてハイなポジションへ引き上げる効果を兼ねているのであって、ハーレム型のラブコメを装いつつ、ラブコメというよりはコメディとして見られるような傾向が前にきているのは、おそらく、このためでもある。

 ヤンキーをモチーフの一部としているからか、初期の頃には西森博之の影響を多く感じさせるところがあった。反面、『オイ!! オバさん』ならではの発明として挙げておきたいのは、菅子を通して透が眺められる際、しばしば入ってくる「オバさんビジョン」と形容されるカットの存在だ。要するに「甥」である透の姿を「叔母」である菅子の主観によって掴まえること(「甥」である透のイメージに「叔母」である菅子が独自の解釈を加えること)なのだが、その特定の人物をSD(スーパー・デフォルメ)仕様のマスコットであるような位相に落とし込むという手法は、エピソードを経るにつれ、菅子(正確には菅子から見られる透)以外の人物にも流用されていく。

 そもそもがデフォルメ的な絵柄をよりデフォルメすることの作用は、それをほのぼのと評してよければ、作品にほのぼのとした一面を生じさせている。所謂サービス・カット(セックス・アピール)とは異なった基準で、肩の凝らない内容に添ったヴィジュアルを補うことに成功しているのだ。

 ストーリーについて述べるなら、高校一年のスタートから高校二年のヴァレンタイン・デイ、つまり二月にきている。卒業まで残すは一年、透の片想いは一進一退といったところか。ただし、この10巻には、おお、お前もいくらか立派になったね、と透の成長をうかがわせるエピソードが入っている。菅子に関しては、クライマックス近くにヤンキー絡みの大事件がもう一回ぐらい用意されているんじゃないかな。たぶん、タイトルにかけられた駄洒落のワン・アイディアではじまったマンガなのだと思うが、そこに足し算の工夫が重なっている。美少女のみならず、ユニークな人物の数々がワキに揃えられているのはでかい。
2014年09月06日
 キミに小さな嘘ひとつ(2) (プリンセス・コミックス プチ・プリ)

 活動の場を秋田書店(『プチプリンセス』)に移し、いくらか連載のペースを落とした吉岡李々子だが、それと同時に作風のデリケートでフラジャイルなニュアンス(といおうかドロドロとしたメロドラマ性といおうか)がより顕著になったかな、と『キミに小さな嘘ひとつ』の1巻の時点では思わされたのである。が、この2巻に入り、学園生活をピュアラブルなロマンスとともに切り取る手法が前に出てき、ある種の悲劇をベースにしていながらも単に暗いお話になるのとはまた違った展開を見せている。

 野村千星(ちせ)と明星(あかり)は、見た目はそっくり、でも性格は正反対であるような双子の姉妹だった。消極的で不器用な千星に対し、積極的で人当たりの良い明星は男子に特に人気がある。それが千星のコンプレックスにもなっている。二人に共通しているのは、幼馴染みである宮本昌行への恋心だ。だが、中学三年の春の終わり、二人の誕生日に明星が交通事故で他界してしまう。それからしばらくして、宮本は家族と一緒に海外へと渡っていき、一年が経った。千星は高校生になった。一人暮らしをはじめた。もう明星も宮本もいない。果たして同じマンションの隣人、里見映美との出会いは、千星にとって新しいチャプターを知らせるものであったのか。クラスメイトでもある彼は千星のことを以前から知っているかのように〈1年くらい前かな オレの目の前で車に轢かれたあの女の子かと思ったんだ〉と告げた。

 タイトルである『キミに小さな嘘ひとつ』の嘘とは、おそらく、事故の直前、電話越しに明星が千星に伝えた言葉を大本としている。それは明星が宮本に告白されたというものである。しかし、実際には宮本は千星に告白するつもりでいた。それを知ってしまった悔しさのために明星は千星に嘘をついたのだ。これは後に撤回されたとしたなら、他愛のない嘘でしかない。だが、撤回される機会を永遠に失ってしまったがゆえに千星のなかに深く残されていく。決して覆ることのない嘘は、場合によって真実と同然に通用してしまうことがある。当然、明星の死は重い。その重みが千星と宮本のあいだに横たわる。他方、小さな嘘が真実と同然に通用しているとき、(ちょっとおかしな日本語になってしまうけれど)本当の真実は、それが真実であるとは証明されがたい。宮本の言葉や態度がどうであれ、それは結果的に千星には真実かどうかの区別がつかないものとなるよりほかないのである。

 明星と宮本、親密であったはずの人間が去っていった千星が、里見との出会いを通じ、いかに変化していくか。ここに『キミに小さな嘘ひとつ』の主題を見つけることができるだろう。明星が亡くなって以来、千星が抱き続けている不安は、宮本をはじめとした他人をどう受け入れたらいいのかという認識の問題からやってきており、それは明星ほどの価値が自分にはないのではないか(自分は他人に受け入れられるのか)という思いなしと根底で一致している。そうした不安に差し伸べられてくる手の役割が、つまりは里見の存在なのであった。

 先に述べた通り、この2巻では、学園生活をピュアラブルなロマンスとともに切り取る手法が前に出てきている。千星に関心を持った里見と次第に好意を寄せてくる里見に戸惑った千星の二人の姿が、二人を取り巻く友人たちの姿とともに高校一年の若々しい風景のなかに描かれているのだ。千星と宮本の再会は確かに一つのハイライトだろう。しかし、それが重要なのは、宮本という過去の影を参照することで千星と里見の関係が次の段階に進んでいくような展開となっている点なのである。宮本が本当は(明星ではなく)千星を好きだった。そのことを千星や宮本と同じ中学だった井田から聞いた里見の言動に注目されたい。里見は、そのことを千星が知らない秘密というのであれば、その秘密を千星には黙っておくようにと井田に頼むのだ。これは明星の小さな嘘を再び真実として補強することにほかならないし、明星が発したはずの嘘が里見の嘘としてすり替わることをも意味している。

 裏を返すなら、千星と里見の関係は、あくまでも嘘という土台を隠蔽しているがゆえにピュアラブルなロマンスのように成り立っている。里見が、千星と宮本の再会にやきもきしたり、弱気になったりするのは可愛い。里見と千星とが、お互いの気持ちに触れ合い、ようやくカップルとなるシーンは良いシーンである。ただし、それは嘘が嘘として質されないかぎりにおいて、にすぎない。『キミに小さな嘘ひとつ』の物語は、細部に(吉岡李々子ならではの)いびつな軋みを作っている。このままハッピー・エンドにいくとは思われない。

・その他吉岡李々子に関する文章
 『月と太陽のピース』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『99%カカオ』について→こちら
2014年09月02日
 大奥 11 (ジェッツコミックス)

 平賀源内、死してなお、世に影響を与え続ける、か。いや、源内のみならず、死者の影響と生者の影響の綱引きが、よしながふみの『大奥』に、一本の太い大河のようなドラマをもたらしていることが、7、8巻のあたりからこの11巻までを読み進めるうちによくわかる。当初は男女の立場を逆転させた時代劇(SF)というアイディアに注目の集まりがちなマンガではあったけれど、荒唐無稽でありながら、骨の硬い、そして、血肉を備えた歴史の物語を編んでいるという点では、今日において北方謙三の時代小説に並ぶものなのではないかとさえ思わされるし(よしながのファンが北方を引き合いに出されて嬉しいかどうかは知らないが)結局のところ、実写化された際にクローズ・アップされたラヴ・ロマンスのエッセンスも血肉の一部に過ぎなかったのである。

 11巻における主人公、もしくは狂言回しの役割に近いのは、おそらく、前巻まで大奥に身を置き、ワキから静かに源内や青沼を見守っていた黒木になるだろう。大奥を追放された後、青沼のもとでともに蘭方医学を学んだ伊兵衛と療養所を開いた黒木が、源内らの意志を引き継ぎ、赤面疱瘡の予防(人痘接種)の可能性を追い求める姿が、ストーリーにおける一つの動力を為している。赤面疱瘡は『大奥』の舞台、及び設定、作品世界の根源にあたる災禍にほかならない。その根源へあと一歩に迫った源内の足跡を、今度は黒木が直に見聞していくのである。他方、黒木たちの去った大奥は、三代目将軍の家光以来となる男の将軍、十一代目将軍の徳川家斉を迎えたことによって、再び(つまりは本来の)男子禁制の園に変革されたのだった。幕府の政治のレベルと市民の生活のレベルを並行的に描くことで、作品世界の実感、説得性、リアリティのレベルを具体化させるというのは、作者が『大奥』の初期より駆使してきたテクニックの一つだが、それは初期からがそうであった通り、ここでも物語のレベルにすべての事象が緊密的であるような構造を作り出している。田沼意次を失脚させた家斉の母、徳川治済の謀略と黒木の研究とが、接点がないはずの二つの事象が、歴史や運命の不思議さを思わせる(もしくは反対に歴史や運命の必然を思わせる)展開を経、大局を動かしかねない天秤の上で不可分に結びついていってしまう。

 まさか黒木がこれほどのキー・パーソンだったとはな、なのだが、それ以上に驚かされるのは、いよいよ明らかとなった徳川治済の人物像である。治済の暗躍は伏線のごとく示されてはいたものの、松平定信に比べれば、必ずしも目立った存在ではなかったろう。けれど、次第に露わとなる異様さは『大奥』に登場してきた多種多様な人々のなかからも著しく突出している。前巻を振り返られたい。治済が権力を得る前の時点でその異様さに気づいていたのは、たぶん、田沼意次だけだ。他の誰にも知られない巧妙さで自らが異様であることを隠せてしまうぐらいに治済は異様なのだといえる。砒素による毒殺は、ひょっとしたら和歌山毒物カレー事件をイメージさせる。現代ではサイコパスやアパシーに喩えられる人物像が治済に託されているのかもしれない。が、同時に治済もまた田沼意次や祖母にあたる徳川吉宗という死者からやってくる影響とは無縁ではないことが描かれている。ただし、治済をあいだに挟み、死者の影響と綱引きをするような生者の影響は(現段階では)見られない。ただ死者の影響に引っ張られるがゆえに彼女は権力の絶頂において他人の命をも自由にしながら〈生きるとは何とむなしい事…〉と述べるのではないか。

 もしも生者の影響として、治済の異様さと対決しなければならない人間がいるとするのであれば、それはきっと、実の息子である十一代目将軍の徳川家斉になる。幼い頃、家斉は青沼の治療のおかげで赤面疱瘡から救われていたのだった。ああ、青沼という死者の影響こそが、やがて家斉と黒木を邂逅させるのだというのは、さすがに過言であろうか。少なくとも家斉と黒木は(各々形は違えど)青沼からのバトンを受け取っている。さらにそのバトンは青沼が他の誰かから受け取ってきたバトンでもあるに違いない。そういうリレーのような運動を通じ、歴史や運命の不思議さを思わせる(もしくは反対に歴史や運命の必然を思わせる)展開が育まれていることは確かだと断言できる。