ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年07月29日
 うぬぼれハーツクライ 1 (マーガレットコミックス)

 香魚子に関しては、『もう卵は殺さない』が(実験的とまではいわなくとも)トリッキーな趣向の読み切りをまとめた作品集だったので、ああ、今後はそちらの方向性を目指していくのかな、と思われた。しかし、この『うぬぼれハーツクライ』では、再び正統派であるような少女マンガへの揺り返しが生じている。

 確かに作者が「あとがき」めいた箇所にヒロインである葉山ゆりを通常の少女マンガだったら「かませ犬として登場するタイプ」だと述べている通り、たとえば幸田もも子の『ヒロイン失格』を前例に出せるであろうヒネリがその造形には加わっているし、またそれは今日において「残念」と形容されるイメージをも背負わされていることがわかる。ここでいう「残念」とは、新書の『一〇年代文化論』で著者のさやわかが肯定の修辞として解説していたものと同一であって、つまり『うぬぼれハーツクライ』は「残念な美人」をヒロインとしているのである。この意味で、現代的な感性と文化の水準に目配せをした内容ではある。

 葉山ゆりは高校二年生になっても彼氏がいない。ルックスが悪いわけではない。むしろ見映えは良い。ただし、ナルシシズムの傾向があり、恋人を選ぶ目は厳しい。並のレベルだったら言い寄ってこられても簡単に断ってしまう。彼氏ができないのは自分に相応しい男子がいないからだとすら思っている。そんな彼女の前に、ついに理想の人物が現れるのだった。それが同じクラスの綾倉真である。綾倉は、容姿のみならず、育ちに優れ、勉強でも部活でも秀でている。まるで欠点がない。彼こそが自分に相応しい。そう判断したゆりは、綾倉にアプローチを仕掛けるのだが、あろうことかまったく相手にされない。最初は軽い気持ちもあったゆりだけれど、頑なな態度の綾倉と接するうち、彼のことが本当に好きになってしまっていた。

 自分になびかない異性に対するヒロインの奮闘劇を予感させる筋書きである。そこに、ヒロインは「残念な美人」であるというヒネリが入ってきている。ゆりのプライドの高さは作品のユーモラスな語り口に繋がっている。が、彼女は必ずしもコンプレックスから自由なわけではない。いや、こうもいえる。とある失恋の経験=コンプレックスが現在のプライドの高さに反転しているのだ。

 繰り返しになるが、「残念」に喩えられるゆりの我の強さは『うぬぼれハーツクライ』のチャーム・ポイントであろう。外見と内面のギャップを、後者によって前者を補うのではなく、前者によって後者を補うということについて、何よりもゆりが自覚的であるところに、コンプレックスを反転させたプライドの高さが存在している。その彼女がどうして綾倉に惹かれるのか。それは綾倉が彼女とは決定的に異なった人間、外見と内面のギャップを埋め合わせる必要のない人間だからである。外見と内面とが見事に一致した綾倉の清々しさが、ゆりにとっては眩しい。ゆりばかりではなく、他の誰にとっても眩しい。その眩しさは、ときに顰蹙を買ってしまうほどでもある。綾倉をライヴァル視する新見の原動力も、おそらくは顰蹙と無関係ではない。

 ゆりや綾倉はもちろん、新見を含め、『うぬぼれハーツクライ』においては主要な登場人物を美男美女が占めている。その点では、美男美女による貴族のゲームとしてのラヴ・ロマンスに近い。綾倉の唯一の親友とされる小池でさえ、重要なポジションにいるようでいて(特徴のないルックスであるがゆえに)現時点では実質的にモブの役割を出ない。あるいは新見や、ゆりの友人である美優の、こいつらちょっと小賢しいよねえ、という立ち振る舞いも、それが貴族ならではの駆け引きだとすれば、当然のテクニックではあるのだろう。綾倉だってあれだよ、プロフィールが既に貴族みたいなもんじゃん。ただし、ギリギリのラインで『うぬぼれハーツクライ』を、貴族のゲームとは別種のラヴ・ロマンスに落とし込んでいるのが、ゆりの「残念な美人」であるという特徴だと思う。

 ゆりが「残念な美人」であることのなかには、貴族にはなりきれない人間に通じる共感が含まれている。そして、その共感と片想いの奮闘劇、ヒロインのガンバリズムをベースにしながら、ラヴ・ロマンスを描くことで『うぬぼれハーツクライ』は、正統派であるような少女マンガとなっている。

・その他香魚子に関する文章
 『シトラス』1巻について→こちら
 『隣の彼方』について→こちら
 『さよなら私たち』について→こちら
2014年07月24日
 Stranger Songs

 昨年リリースされたTHE SADDEST LANDSCAPEとのスプリットで名前を知った米マサチューセッツ州ボストン出身の4人組がMY FICTIONSである。が、その激情と喩えるのが相応しい(アンダーグラウンド・スクリーモとカオティック・ハードコアを行き来するかのような)サウンドは、なるほど、同郷のTHE SADDEST LANDSCAPEに通じるものであろう。緊急性を演奏に直接移し替えたスピードのなか、パセティックなギターとエモイッシュなスクリームとが抜き身の状態で切り結んでいく。それは絶望を遠景に掴まえるのではなく、間近に覗き込んでいったときにしか見出せない迫真の映像を思わせる。こうした魅力はBandcampに置かれたEP等で明らかだったのだけれど、もちろん、ファースト・フル・アルバムとなる『STRANGER SONGS』でも余すことなく確認できる。猛烈なテンションで勢いよく畳みかけてくる一方、スローなパートが静かに盛り上がり、ジリジリとした緊張感をもたらしてくる場面も少なくはない。とにかく、アグレッシヴに極まった衝撃がある。そこに神経質なまでの叙情性が同居させられている。これが『STRANGER SONGS』全体の(ひいてはバンド自身の)方向性といえる。ガッツ・ポーズを決めたくなるほどにジャストなのは、3曲目の「LOWER (A SELFISH SONG)」だ。テンポのダウンした後半に悲痛な叫びを満たしたナンバーだが、何もかもをなぎ倒してしまいかねない前半においてはフレーズの一つ一つに鮮やかなリリシズムが宿る。

 バンドのFacebook→こちら
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2014年07月22日
 何もないけど空は青い 1 (少年サンデーコミックス)

 西森博之が『今日から俺は!!』あるいは『甘く危険なナンパ刑事』の頃より描き続けているのは、ある種の人間性テストだといえる。そこが日常であるかぎりは気楽であったはずの人物が何かしらかの極限状態に陥ったとき、果たしてその人物はどのような本性と行動を見せるのか。そして、できるだけ理想的な姿=回答を正解に近いものとしてきたのだと思われる。たとえば、それは『今日から俺は!!』でドッキリにはめられた今井の同情を禁じえないのに笑えるリアクションであったり、ピンチに立たされた三橋の普段からは想像されない男気などを例に出してみるとわかりやすい。伊藤の正義感に関しては言わずもがな、であろう。また、それは立場や態度、性別は異なろうと、後の作品にも継承されてきたものであって、事と次第によったら悪役の者が人間性テストにかけられ、底の浅さを露呈した挙げ句、敗北したりもする。春風邪三太との共作である『スピンナウト』は、西森のキャリアにとっては異色のファンタジーだったが、あれも秩序や倫理の違う世界に飛ばされた少年たちの困難をベースにし、人間性テストを描いていたということに変わりはないのである。

 西森が飯沼ゆうきと組み、完全に原作の側に回った『何もないけど空は青い』はどうだろう。やはり、ここで繰り広げられているのも人間性テストに喩えられるような日常との対照にほかならない。いや、それはポストアポカリプス風の舞台装置(サヴァイヴァル)を取ったことで、一層顕著にすらなっている。巨大な隕石とのニアミスが原因で金属が腐敗しはじめ、これを契機に文明が崩壊し出した架空の現代日本という設定は、西森の小説である『満天の星と青い空』の流用だけれど、そこでは生き残るために必死となった人々のタガは外れ、他人を蹴落とすことも厭わぬ(文字通り)弱肉強食の価値観が主流を占めようとしている。食料は略奪によってのみ得られ、暴力が手段として必要とされる。以前の文化圏はまだ残っているが、徐々に失われつつある。野蛮であることを恥じる者は馬鹿を見るしかない。もちろん、主人公の少年的なヒロイズムはそのような状況に対するアンチテーゼにあたる。『何もないけど空は青い』において注意すべきは、環境の変化に適応した人間と適応できなかった人間の優劣を判断するのとは別の水準で物語が構築されている点だと思う。環境の変化に適応するということは生き残るということである。主人公が生き残っている以上、それはつまり彼なりのスタンスで環境の変化と適応しているのに等しい。少なくとも、この1巻の段階では、彼と周囲の人間との関わり(彼が周囲に及ぼしていく影響)を基礎にして物語は作られている。

 主人公だけではなく、あまたの人間が人間性テストにかけられる。それが『何もないけど空は青い』の概要である。このとき、主人公である河守仁吉がフォローし、仁吉をフォローする二人のヒロイン、同級生の七ノ宮華羅と母親とはぐれてしまった玲奈という幼い少女の存在は何を示しているのか。図式的に解釈するのであれば、華羅は仁吉が必要としているという意味での「他者」=鏡であり、玲奈は仁吉を必要としているという意味での「他者」=鏡であろう。それらの鏡を通して仁吉はこの人間性テストにおける「自分」の姿を確認していくこととなるのだ。清水洋三にも似たスタイリッシュさのある飯沼の絵柄は確かに『週刊少年サンデー』っぽい。一方、どういった形で原作が提供されているのかは知らないが、随所に西森のテイストを帯びたカットが入ってきている。

・その他西森博之の小説に関する文章
 『俺の心臓は彼女にしか撃ち抜けない』について→こちら
 『満天の星と青い空』について→こちら
2014年07月21日
 サイゾー 2014年 08月号 [雑誌]

 ただいま出ている『サイゾー』8月号で、村上春樹の『女のいない男たち』について宇野常寛さんと対談しています。「月刊カルチャー時評」のページです。基本的に文学は必要なものだというスタンスの上で、しかし村上春樹(と日本文学)は以前ほどの存在感をなくしてしまったのではないか等を話しております。対談ではうまく話せない部分もありましたが、このへんは現代における日本文学(小説)の役割を自分が考えるなかで色々と踏まえていきたいテーマ(のさわり)になっているかなと思ったりもしました。
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2014年07月16日
 春風のスネグラチカ (F COMICS)

 沙村広明は、作品自体がギャグであろうとシリアスであろうと、基本の文体に揺らぎがないので、果たしてそれが本当にギャグなのかシリアスなのか判断に迷うことがしばしばあるのだったが、この『春風のスネグラチカ』に関しては、おそらくシリアスな方に入れられるだろう。1933年のロシアを舞台にしたマンガである。革命後の粛正が続くなか、とある郊外の別荘へとやってきた若い男女が、その素性の知れなさゆえに秘密警察の監視下に置かれ、サディスティックな世界に身を投じることとなる。というのが、大まかな内容になるのだけれど、何より注意を引くのは、主人公にあたる若い男女、奇妙な車椅子に乗ったビエールカと彼女に付き従う片目のシシェノークが一体何者なのかであって、実際に二人の正体をめぐるサスペンスが、物語の中軸となり、周囲の人間の運命をも大きく動かしていく点だ。時代背景が必ずしもポピュラーではないことを考慮してか、巻末に「読み終わった人のための登場人物紹介」が載っているのは親切だと思う。しかし、確かにそれは本作を「読み終わった人のための」ものだと強く念を押しておきたい。なぜなら、次第に明かされるビエールカとシシェノークの正体こそが、あるいは突然に訪れるその真実と驚愕こそが、『春風のスネグラチカ』の本質にほかならないからである。別荘にやってきた若い男女が何者であったのか。これが序盤より敷かれてきた伏線に応える形でオープンとなったとき、スケールの小さなドラマで組み立てられていたはずの作品が見事に様相を変える。個人史レベルの悲劇と世界史レベルの暗部とがパースペクティヴの狂いもなく接続されてしまう。カタルシスがある。それにしても、改めて実感するのは、作品自体がギャグであろうとシリアスであろうと、沙村広明のマンガには一貫したテーマが存在するのではないか。もしかしたら「滅びの美学」と言い表されるものだ。結局のところ、容赦がないまでに非情な展開も目に余るほどの残酷な描写もそこに引き寄せられていく。終焉と同義であるような静寂もそこに由来している。

・その他沙村広明に関する文章
 『無限の住人』22巻について→こちら
 『ブラッドハーレーの馬車』について→こちら
 『エメラルド』について→こちら 
2014年07月14日
 Ix 

 いやはや、EYEHATEGOD、CROWBAR、DOWNとメンバー同士が決して無関係ではなく、またその手のリスナーにとってはニヤニヤとさせられるバンドのリリースが相次いでいるけれど、CORROSION OF COMFORMITY(C.O.C.)のニュー・アルバムも(当然のごとく)ファンがニヤニヤとしちゃうような1枚となっているのだった。一時期はフロントマンであったペッパー・キーナン抜きの作品としては、2012年の『CORROSION OF CONFORMITY』に続く2枚目である。その『CORROSION OF CONFORMITY』が、そもそも初期の頃にはペッパー・キーナンはいなかったもんな、とセルフ・タイトルに相応しく、原点回帰とキャリアの集大成とを併せ持つことで会心の出来映えを見せていたわけだが、この『IX』もそれに負けず劣らず。おそらくは9枚目のフル・アルバムであることに由来しているのだろうシンプルなタイトルは、堂々たる自信と態度の表れにも思えてくる。

 メンバーの交替、出戻りが少なくはないC.O.C.だが、現在のラインナップであるマイク・ディーン、ウッディ・ウェザーマン、リード・ムリンは、一般的にオリジナル・メンバーと目される3名だろうし、トリオ編成における彼らの実績はセカンド・アルバムにあたる85年の『ANIMOSITY』にまで遡れる。『ANIMOSITY』の頃のC.O.C.は、スピーディなハードコアとメタルの融合、所謂クロスオーヴァーの領域にいたが、ペッパー・キーナンの加入以降、ヘヴィでスローなグルーヴを重視しはじめたことで、ドゥームやストーナーのジャンルに近接したポジションへと収まっていく。その間にもメンバーの交替、出戻りはあったものの、果たして『ANIMOSITY』と同様のトリオ編成となった『CORROSION OF CONFORMITY』では、久々にハードコアのテンションを表向きにした荒ぶるC.O.C.が確認できたように思う。もちろん、ペッパー・キーナン在籍時に開発されたサザン・ロックばりの図太いフィーリングが完全に排除されたわけではない。むしろ、鋭角状に研ぎ澄まされた印象であって、それらの総和が2010年代版のC.O.C.を確立させていたのである。『IX』は、正しくその発展型といえるだろう。

 テンポの速さと直接的な攻撃性に関しては、『CORROSION OF CONFORMITY』の方に分がある。『IX』では、再度ヘヴィでスローなグルーヴが強調されているのである。しかしながら、改めて方向転換がはかられているというより、サウンドに含まれる諸要素の比率をいじることで更なる深化とヴァリエーションとが探られているという解釈が似つかわしいし、結果、アンダーグラウンドの大物であるような風格が作品に付与されているのであった。たとえば、3曲目の「DENMARK VESEY」や4曲目の「THE NECTAR」などは実にパンキッシュで、猪突猛進型のナンバーだ。が、展開のなかに加えられた独特のうねりが、はたまたそれを用意するためのブレイクが、演奏とアレンジのレベルでC.O.C.が一線級の位置にとどまり続けていることを教えてくれる。渋みを増したマイク・ディーンのヴォーカルにも、リード・ムリンのぶっきらぼうなシャウトにも、熱いものがある。まだまだ衰えることのない貫禄をアピールしている。

 『IN THE ARMS OF GOD』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2014年07月06日
 なにわ友あれ(29) (ヤングマガジンコミックス)

 掲載誌の『ヤングマガジン』で最終回(30号)を迎えたのに準じ、コミックスの方でもクライマックスに向かいつつある『なにわ友あれ』である。が、最終段階における総括として本作の特徴を大きく三つ挙げられるように思う。一つは、これが木尾士目の『げんしけん』に描かれていると覚しきオタク・サークルの裏面であるようなコミュニティを題材にしていること。不良、走り屋、今日では肉食系と喩えられるだろう若者の集団をモデルにしたマンガとなっており、シリアスなパートのみならず、ギャグのパートもそうしたイメージに由来している。

 もう一つは、作者である南勝久の実体験をベースにしていながら、あたかも架空の戦記が展開されているかのような触感を持っていること。もちろん、作者の実体験を担保にすることで(90年代の初頭を背景にした)物語にリアリティが付与されているのだが、作品の構造を見る上では『機動戦士ガンダム』にも似た架空の戦記のダイナミズムが物語のなかに時間軸をもたらしているのは間違いない。南は『機動戦士ガンダム』が好きだと公言しているし、実際に『機動戦士ガンダム』の引用を『なにわ友あれ』に盛り込んでいるけれど、前作にあたる『ナニワトモアレ』をオリジナルの『機動戦士ガンダム』になぞらえるなら、『なにわ友あれ』は『Zガンダム』に位置づけられる。『ナニワトモアレ』の主人公であるグッさんをアムロ・レイとするのであれば、『なにわ友あれ』の主人公であるテツヤはカミーユ・ビダンの役割だといえる。あるいは『ナニワトモアレ』と『なにわ友あれ』をセットで考えるとき、それは『機動戦士ガンダム』から『逆襲のシャア』までの成り行きに相応する。要するに、アムロ・レイであるグッさんの引退が同時にシリーズの完結となっているのである。

 三つ目は、一つ目に述べた点と関係しているのだったが、主人公が他の男に恋人を寝取られる(所謂NTR)タイプのストーリーになっていること。で、それは『ナニワトモアレ』と『なにわ友あれ』の双方に共通している。過程や結末は異なれど、テツヤの恋人であるナツが(読み手の目からすると)非常に呆気なく他の男に転んでしまうのは、グッさんのケースの繰り返しであろう。主人公に感情移入するとしたら、寝取られてしまった境遇とスケベなシーンは、ことさらエグいともいえる。しかし、繰り返して描かれているということは、それが作者の趣味でなければ、作品にとって必要であり、不可欠な要素にほかならない。

 以上の三つを並べてみるとき、すべてが現代における男性性の発露と問題にかかっていることがわかる。ある場合には、男性性の困難は(まあ半ばギャグではあるもの)直接インポテンツのクライシスとして現れている。そこにあるのは70年代や80年代のフィクションに顕在していた「硬派」の肖像とは違う。にもかかわらず、「男らしさ」とは何かを問うような(常に問わざるをえないような)態度なのであろう。いずれにせよ、「男らしさ」であるようなプライドをかけ、もはやそれ以外の理由はないとすらいえる抗争に拍車がかかっていくのが、この29巻だ。登場人物たちが口々にする「伝説になろうぜ」という欲望は、その伝説が同じ価値観を共有するコミュニティの規模に比例するかぎりは、正直なところ、子供じみているし、他愛のないものでしかない。だが、そうした欲望自体は、もしかしたら普遍的なものであるのかもしれないことが、男性性のテーマとともに浮上してきているのだった。

 余談(どうでもいい話)だけれど、ここでパンダが発見したナツのパンツが後々の伏線だったとは。いや、本当はパンダの残念さ加減も『なにわ友あれ』の注目すべき箇所ではあるのだが、詳しく触れてあげない方が彼のためという気になってしまう。

 12巻について→こちら
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 7巻について→こちら
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 1巻について→こちら 
2014年07月04日
 Gigantoid

 リフのロックが好きである。ギターのリフが見事に決まっていれば、嬉しい。そして、その音がエフェクターによって特徴的に歪んでいたなら、なお良い。と、米カリフォルニア州オレンジ・カウンティ出身の4人組、FU MANCHUの『GIGANTOID』を聴き、思う。09年の『SIGNS OF INFINITE POWER』に続く、通算10作目のオリジナル・アルバム(コンピレーションである『EATIN' DUST』を含めると11作目)となるが、基本のサウンドは90年代の頃から大きく変わっていない。もちろん、そうした一貫性はFU MANCHUの醍醐味でもある。ギュインギュインというよりはブリブリとファズが鳴り響き、リフのダイナミズムを倍加させる。ヘヴィなうねりはストーナーまたはデザート・ロックと呼ばれるスタイルに近く、それでいながらもパンクとハードコアのエッセンスがガツンと前のめりのパワーを産み落としている点は今も健在だ。

 いや、今も健在どころか。はっちゃけ具体でいったら、ここ最近の作品のなかではマックスなのではなかろうか。1曲目の「DIMENSION SHIFTER」は、後半でこそドゥーム・メタルばりにスロー・ダウンし、サイケデリックなムードを満載にしているが、前半の破竹であるようなドライヴにまずは掴まれるものがある。あるいは、それとの対比が後半のパートにおける渋いグルーヴを一層際立たせているのだ。2曲目の「INVADERS ON MY BACK」は、さらにエネルギーを爆裂させている。スピードを得た図太い演奏、タメとハネの利いた展開のなか、タイトル通りのコーラスを大声にしているスコット・ヒルの(ヘタウマ)ヴォーカルが素敵である。その独特な節回しとヘヴィなうねりの絶妙なブレンドをFU MANCHUのトレードマークとするなら、それは3曲目の「ANXIETY REDUCER」や4曲目の「RADIO SOURCE SAGITTARIUS」で確認できるだろう。6曲目の「NO WARNING」と8曲目の「TRIPLANETARY」は、正しくラウドなハードコア・チューンだ。5曲目の「MUTANT」と7曲目の「EVOLUTION MACHINE」には、ゴツゴツと巨岩の転がっていくイメージがある。

 スペーシーと喩えるのが相応しい8分にも及ぶ9曲目の「THE LAST QUESTION」まで、この道一筋の矜持が漲っている。このバンドに関してはニュー・アルバムが常に入門編にあたる。要するにハズレがないということであって、今回もその例に漏れない。あらためてリフのロックとFU MANCHUが好きである。

 『SIGNS OF INFINITE POWER』について→こちら
 『WE MUST OBEY』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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