ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年05月24日
 くろアゲハ(1) (月刊マガジンコミックス)

 00年代の後半からヤンキー・マンガのジャンルでは自伝をベースにした作品が数を増やしている。『ドロップ』シリーズが代表だが、芸能人が原作のものも少なくはなく、『ハダカの美奈子』のコミカライズ等もそこに入れられるだろう。他方、2010年代も半ばに差しかかり、別の傾向の作品が目立ちはじめているように思う。それはつまり、往年のヒット作の続編である。

 もちろん、『クローズ』の続編にあたる『WORST』等を挙げられる通り、続編もの自体は以前からあった。が、しかし、2014年のここにきて、『カメレオン』の続編である『くろアゲハ』や『[R16]』の続編である『[R16]R』、そして『湘南純愛組!』の続編である『SHONANセブン』等が、次々に登場している。それらの作品に共通するのは、当時の登場人物のその後の姿を直接描くのではなく、オリジナル版より数世代下の若者を登場人物にしている点だ。周知のように『湘南純愛組!』の続編としては既に『GTO』がある。『GTO』は『湘南純愛組!』の主人公、鬼塚英吉のその後の姿を直接描いている。これに対し、『SHONANセブン』は、鬼塚たちの数世代下の若者を登場人物にしている、という意味での続編になるのであった。要するに、オリジナル版と舞台や設定は一緒なのだけれど、時代とキャスティングが違う。『BADBOYS グレアー』や『WORST』のアプローチに近い。

 加瀬あつしの『くろアゲハ』は、たとえば『SHONANセブン』や『[16]R』(あるいは『特攻の拓』の続編として『爆音伝説カブラギ』を加えていいかもしれない)が、オリジナル版とは異なった制作陣で描かれているのと違い、『カメレオン』と同じく加瀬本人が手がけている。近年の『ゼロセン』や『ばくだん!〜幕末男子〜』では、あくまでもコメディではあるものの、テーマのレベルで見るならば、今日において硬派とヤンキーとに分類されるような日本男児のイメージ、またはそのルーツを戦時下や幕末にまで遡り、発掘してきた加瀬である。それが『くろアゲハ』では、自らのマンガ家としての初心に立ち返ったといったところだろうか。

 前作である『カメレオン』のエンディングより7年、相沢直樹は県警の交通機動隊員になっていた。その相沢が、ひょんな成り行きから市内最大の暴走族「罵多悪怒愚(バタードッグ)」のアタマ、山本信愛の妹である都姫(みやび)に、かつて自分たちが作った伝説のチーム「OZ」の二代目を受け渡したことによって、物語と騒動の幕は開ける。主人公の星野英太は都姫の同級生である。高校に通いながら、母親が残したスナックを元レディースの姉とともに切り盛りしている。当人は嫌々なのだけれど、姉に女装を無理強いさせられ、エイラと名乗り、夜の蝶を演じるのだった。が、まさか女装しているときに都姫と出会い、強い信頼と尊敬を得てしまったせいで、正体を隠しつつ、「OZ」の活動に協力しなければならなくなるのだ。

 英太は、いかにも加瀬あつしの主人公らしい巻き込まれ型のお調子者である。が、『カメレオン』の矢沢栄作と、少々タイプが違う。ある種の二面性を生きていることは似ているけれど、矢沢ほどのゲスではさすがにないし、口からの出任せもほとんど無自覚なのではないか。しかし、素性の偽り、口からの出任せ、ハッタリを繰り返すうち、暴走族の世界で身の丈に合わないヴァリューを持っていくのだと予感させる。

 基本は確かにコメディだ。正体を隠した少年と高値の花であるようなヒロインを軸にした展開は、昔の少女マンガや少年マンガにありそうなラブコメを思わせるものがある。そうした文法が、今の読み手にとって、古いかどうかはともかく、作品の内容にはちゃんとマッチしている。『くろアゲハ』にあって『カメレオン』にはないもの、それはたぶん「継承」というモチーフである。加瀬のキャリアになぞらえるなら、『ゼロセン』や『ばくだん!』を経、確立されてきたテーマでもある。もちろん、多くの場合、続編ものは「継承」の物語にならざるをえない。したがって、二つの必然が「継承」のモチーフを『くろアゲハ』にもたらしていともいえる。そもそも、主人公の英太は母親の店を「継承」している。都姫は「OZ」を「継承」させられる。接点がないはずの二人が結びつくのはなぜか。英太は店の手伝いをしていたためであり、都姫は二代目「OZ」のプライドを守ろうとしていたためであって、彼らのプロフィールにはあらかじめ「継承」という条件が織り込まれているのである。

 正直なところ、続編ものはジャンルであったり作者であったりのネタ切れと判断されかねない。まあ、その可能性はなきにしもあらずであろう。ただ、90年代にはヤンキー・マンガのニュー・ウェーヴでありえた『カメレオン』がもはや古典となった現在、前作と一緒の舞台、異なったキャスティングと「継承」のテーマを通じ、加瀬あつしが1巻の段階で大変愉快なエンターテイメントを送り出してきていることに変わりはない。

・その他加瀬あつしに関する文章
 『ばくだん!〜幕末男子〜』6巻について→こちら
 『ゼロセン』1巻について→こちら
2014年05月23日
 an・an (アン・アン) 2014年 5/28号 [雑誌]

 現在出ている『アン・アン』(マンガ特集号)で、ヤンキー・マンガについてコメントしております。
posted by もりた | その他。
2014年05月20日
 BORDER (2) (カドカワコミックス・エース)

 原案は金城一紀である。金城とは別の作家によるノベライズは未読だが、テレビ・ドラマ版は(今のところ)二話目がおもしろかったかな、と思う。連続殺人が起こる。サイコパスがいて、事件にタイム・リミットがあり、主人公の特殊能力とチームワークとが犯人を追い詰めていく。奇をてらっているようでありながら、サイコ・サスペンスならではのスリルをきちっと収めたエピソードになっていた。さて、このコミカライズに関しては、テレビ・ドラマ版と設定を同じくしている以上に、小手川ゆあの特徴がよく出ている内容でもある。加害者の側に立ってしまったなら、誰も被害者にはなれない(しかし、被害者であるかぎりは誰もが加害者にはなれる)そのことを逆説上の不運として描いた『君のナイフ』のあと、「罪」と「罰」の相関であるよりは「善」と「悪」の対照に焦点を絞り、物語を作ろうとするのであれば、なるほど、こうなる、という印象だ。小手川のキャリアを考えたとき、正直な話、前巻(1巻)にははっとさせられる点は少なかった。だが、2巻に入って、とりわけ後半のエピソードである「懊悩」に引きつけられるものが多い。

 たとえば「懊悩」において興味深いのは、死者と話せるという主人公、石川安吾のアドヴァンテージが通用しない状況が現れ、さらに彼は事件の核心へ迫ったにもかかわらず、ほとんど傍観者のように、その結末を見届けなければならなくなっている。ここで注意されたいのは、おそらくサイコパスと見なせるであろう人間が、なぜ「法」を逸脱した凶行に向かったのかではなく、同じく「法」を逸脱した別の人間によって、容赦なく裁かれてしまうことである。換言するなら、因果関係のレイヤーを形而上のレベルに求めるのではなくて、すべての成り行きが形而下で起こったものとして描かれているのだ。筋書きのみを取り出すならば、変態野郎に娘を殺された父親が変態野郎と仲間たちをぶっ殺して警察に捕まりました、と。これを越えるものではないだろう。しかしながら、それだけの筋書きであるはずなのに、どうしてか心境を複雑にさせられる。

 石川の〈白か 黒か 決めるのは脳〉〈それが死者だとしても〉〈脳に銃弾を受けてオレの世界が変わった〉〈世界は 黒か… 白か… あるいは…〉というモノローグは、「懊悩」を見る上で非常に示唆的であろう。小手川のファンは、そこに『おっとり捜査』の終盤(9巻)で、とある人物が主人公の秋葉に向かい(あるいは読み手に向けて)殺人鬼の腕を移植された人間の苦悩を描いたとされる映画の引用だと言い、次のように発する問いの残響を聞き取るかもしれない。「邪悪はどこに潜むのか」「脳か あるいは心臓か」「それとも… この右腕に?」こうした問いはもちろん、高橋ツトムの『地雷震』のクライマックスに通じるものであり、臓器移植法が施行された当時(90年代の終わりから2000年代のはじまりにかけ)盛んであった「命」は「脳」に宿るのか「心臓」に宿るのか式の議論を汲んでいるに違いない。石川の問いと『おっとり捜査』に見られた問いは一部でリンクしている。他方、決定的に異なっているのは「意識」や「思念」は必ずや「脳」に由来していると物語のレベルで『BORDER』が設定していることだ。

 実存の世界で「脳」の失われた死者が石川の前に出てくることはない。石川はそれを荼毘にふすと呼ぶ。このような設定を原案の金城が用意したのかどうかは知らない。が、先に挙げた『おっとり捜査』の問いと比較してみることで、明らかに浮かび上がってくるものがあるし、そしてそのことが、すべての成り行きは形而下の課題であるというリミッターを「懊悩」のエピソードにかけるものとなっている。少なくとも現時点において(と留保しておくけれど)『BORDER』とは「邪悪はどこに潜むのか」を問うマンガではない。〈白か 黒か 決めるのは脳〉であるとすれば、「悪」もやはり「脳」に宿り、そこに潜むしかないのだ。1巻にまで遡るなら、事件の容疑者たちは皆、心理学の解釈めいたエクスキューズ(トラウマへの責任転嫁)さえ与えられず、即物的に処断されてきた。要するに、彼らの内面がいかなる闇を背負っていようが、どう病んでいようが、その「罪」を軽減するための理由とはなっていないのである。犯罪者の動機は深く掘り下げられない。彼らはただ、自らがしでかしたことの結果を通じ、人格を判断される。それはしかし、石川についても同様だといえる。

 繰り返しになるけれど、石川は〈白か 黒か 決めるのは脳〉だと述べる。〈それまでのオレの世界には黒か白かしか無かった〉〈だが自分次第で世界は色を変える〉のだと。これは単に主観の在り方が変化する可能性のみを指しているのではないと思う。いや、主観の変化は当然含まれるとしても、個々のエピソードや2巻までの物語がどのように成り立っているのかにそって考えるのであれば、登場人物たちが「なぜ」そうしたのかであるよりは、一体「何を」したのかの部分に作品の軸足が置かれているとわかる。次のようにもいえるだろう。つまり『BORDER』は、その内面にフォーカスを絞ることで登場人物の資質を浮き彫りにするのではなく、行動と選択とを具体的に描くことで登場人物の資質を浮き彫りにしているのである。

 以上のことを踏まえるとき、「懊悩」というエピソードが心境を複雑にさせるのはどうしてなのか、少しばかり近づけるような気がしてくる。「懊悩」は、サイコパスに娘を殺された父親の復讐を描く。しかし、サイコパスのルーツが徹底解剖されもしなければ、目的を遂行するために手段を選ばない父親の悲哀を前に出しているわけでもない。また、主人公である石川は最終的に事件を解決しなければならない立場を手放しており、必ずしも勧善懲悪のロジックを優先すべく、両者の内面が切り捨てられているのではないことは明白だ。ドラマとしての厚みははっきりとある。迷いや苦悩を掘り下げるかわり、彼らの行動と選択に確固たる輪郭を与えている。これによって、不幸をエクスキューズにしてしまうタイプの安っぽい結末への着地を未然に防いでいるのだった。

 なかでも注意されたいのは、やはり主人公である石川の行動と選択にほかならない。先ほど、石川は事件を解決しなければならない立場を手放してしまうといった。だが、物語において単に刑事の職務を投げ出したとは判断されないだろう。なにゆえ石川がそのような選択をしたのか。そのような行動をとったのか。それはむしろ、読み手の側に引き渡しされた謎であり、テーマであるに違いない。クライマックス、石川の視線の動きはあまりにも多くの情報を含んでいる。正しく眼で語っているのである。と同時に、台詞で説明されないために生じうる曖昧さは、彼の行動と選択を通して、決して実体のないものではなくなる。容易くは看過できない膨らみの問いを読み手に寄越すこととなる。それはもしかしたら「善」と「悪」の対照をめぐる問いであって、石川の〈世界は 黒か… 白か… あるいは…〉という〈あるいは…〉のあとに続いていくのだろう問いでもある。もう一つ、娘を殺された父親、鷺沼はたぶん、これ、作中に絶対の証拠はないのだけれど、石川が刑事だと気づいているよね。さもないと、辻褄が合わない(簡単に騙されたなら、鷺沼のプロフィールと凄みが嘘くさくなる)し、翻って鷺沼が石川を同行させた意図にも勘繰りたいものが出てくる。いずれにせよ、石川は鷺沼に復讐の瞬間を見せられ、それをジャッジする役割を突きつけられたと考えるのが妥当であろう。

 それが登場人物であれ、読み手であれ、なんらかの回答を求められるのでもなく、問いを預けられる。小手川ゆあのマンガの特徴である。主人公が問いを抱えたまま死ぬ、という作品ですら、小手川には少なくない。しかし、絶えず問い続けることでしか辿り着けないエモーションがある。思考停止を免れ、新しく提起される問いがある。問いとともに歩みを進めていくかのような登場人物の姿に胸を揺さぶられる。原案は金城一紀だが、このことは『BORDER』にも共通している。

・その他小手川ゆあの作品に関する文章
 『君のナイフ』1、2巻について→こちら
 『ショートソング』(原作・枡野浩一)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『死刑囚042』第5巻について→こちら