ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2014年04月21日
 真マジンガーZERO vs暗黒大将軍 4 (チャンピオンREDコミックス)

 ああ、0(ゼロ)とは正しく円環を意味していた。ついに終焉の魔神は〈我は最終にして原初 唯一無二のスーパーロボット マジンガーZERO〉なのだと宣言する。兜甲児は命を張った。剣鉄也は命を懸けた。選択肢が破滅ルートのみの世界を救うべく。そして、物語は再びゼロの地点にリセットされるのだった。結論からいえば、全9巻に渡る『真マジンガーZERO』のヴォリュームは『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』のプロローグにすぎなかった。しかるに、この4巻までに描かれてきた『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』の物語もまた、本当の決着を用意するためのプロローグでしかないことが明かされるのである。

 平行世界、リプレイ、時間ループものとして永井豪の『マジンガーZ』をアレンジしているのが、田畑由秋(脚本)と余湖裕輝(作画)の『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』(と前作の『真マジンガーZERO』)である。かのアニメ『魔法少女まどか☆マギカ』に喩えるなら(まあ、喩える必要はないのかもしれないけれど)ミネルバXがほむらで、兜甲児がまどか、剣鉄也は他の魔法少女の誰かといったところか。あるいは、兜甲児がまどかで、マジンガーZがきゅうべえ、暗黒大将軍がワルプルギスの夜あたりであろうか。いずれにせよ、無限に近い繰り返しを運命と呼び、それが悲劇であるようなとき、いかに絶望はキャンセル可能かという問いを、巨大なスケールのエンターテイメントのなかに導き出しているのだ。

 無論、Dr.ヘルとゴードンヘルは強敵であった。暗黒大将軍と七つの軍団はそれをも上回る強敵だった。絶望、絶望、絶望。『真マジンガーZERO』の主要人物たちがいとも容易く殺されていき、地球は無残に破壊し尽くされる。しかし、最もおそろしいのは魔神と化したマジンガーZであって、善も悪も関係なく、すべてが終焉に行き着くそのシナリオは、何度ループを経ようと結末だけを決して違えない。マジンガーZの暴走は止められないという『真マジンガーZERO』の展開によって覆されたはずの悲劇が、『真マジンガーZERO vs暗黒大将軍』のここに至って、再び繰り返されてしまう。ミネルバXは、とうとう諦めの言葉を述べるだろう。〈ゴードンヘルを倒し 人類が掴んだ幸せ これほど奇跡的な世界ですら魔神化が発動するというなら 何度世界を繰り返そうと運命に抗うことなんてできない〉と。

 だが、希望への突破口は必ずやある。これが主人公である兜甲児に課せられたテーマにほかならない。そうだ。〈信じろ!!!! この世界の円環を突破し 仲間たちを滅亡から救う希望がある!!!!〉と意気をあげた兜甲児は、剣鉄也とグレートマジンガーに協力を仰ぎ、もう一度世界を繰り返し、やり直してみようと試みるのだった。が、最高に燃えるのは剣鉄也である。兜甲児の試みにおいて、剣鉄也の役割はほとんど捨て駒なのだ。それなのに自分の命を投げ出すことに躊躇いはない。なぜなら〈出撃の時 命はとうに懸けてきた!〉からであって〈グレートと俺は受けた仕事はきっちりやり切る!どんなにボロボロになろうが!死ぬ寸前だろうが!最後は必ず勝利を掴む!〉と信じて止まない。

 それこそ「世界を救うために自分の命を犠牲にできるか」式に一般化された問いは偶に見かけるものであろう。そこで悩むのは、アマチュアであり、そもそも世界を救うだけの資格があるかどうか、あやうい。少なくともプロの勇者は、悩まない。世界を救うという断定のみを生きる。見よ。兜甲児をもって〈彼の戦士としての矜持は本物だ〉と言わしめる剣鉄也の奮闘は、今まさに終わろうとする世界のなかで世界を救うための活路を確実に切り開いた。
2014年04月20日
 熱風・虹丸組 1 (ヤングキングコミックス)

 周知のとおり、桑原真也をヤンキー・マンガのシーンに属させたのは、佐木飛朗斗と組んだ『[R-16]』だったわけだが、その続編として先般連載のはじまった『[R-16]R』に桑原は参加していない。いかなる理由があるのかは知れないが、まあ、桑原の場合、佐木のポエジーとは異なった路線を『疾風・虹丸組』によって確立してみせたのだから、そのままの調子で突き進んでいくことの方が、こちら読み手にとっても必然のように思われる。

 さておき、こうして1巻が出てばかりの『熱風・虹丸組』は『疾風・虹丸組』の続編である。続編とはいっても、物語は『疾風・虹丸組』の10巻からシームレスに繋がっているので、タイトル(前置詞?)の微妙なリニューアルと巻数のリセットは、パッケージ上の単なる仕切り直し程度にとらえておけばいい。要するに、架空の街であるナラシナ市を舞台に不良少年たちが、関東最強の証として七代に渡って受け継がれてきた「無限のジャケット」をめぐり、熾烈な抗争劇を繰り広げていく点に大きな違いはないのだ。

 しかしながら『熱風・虹丸組』においては、『疾風・虹丸組』の後半にかけ、とりわけわかりやすく出ていた特徴が、より顕著となっていることは指摘すべきであろう。その特徴こそが、つまりは桑原が確立したといえる路線であって、一対一(タイマン)によるバトルとアクションの様式にほかならない。一対一によるバトルとアクションの様式は、ともすれば、古典的なスタイルへの回帰でしかないのだった。が、そのリアリズムを度外視したパフォーマンスは、近年のヤンキー・マンガに強調されている「不良少年にだって内面があるんだよ」式の悪しきテーマ主義と因果話の退屈さを、明らかに打ち砕いていよう。

 確かに『疾風・虹丸組』の序盤には、主人公である虹川潤と幼馴染みである羽黒翔丸の対照(光と影の緊張状態)をベースにした暗さがあった。「虹丸組」というネーミングが二人の名前に由来していることを踏まえるならば、そこに作品の根幹を見出すことも可能であった。だが、次々と新しいライヴァルが登場し、彼らとの対決を経るごとに、あるいはヒロインである十文字魔子との(もしかしたら80年代的な)ラブコメ・パートや「虹丸組」の面々を巻き込んだギャグ・パートをシリアスなストーリーのあいだに挟んでいくことで、ポジティヴ馬鹿に等しい主人公の明るさが強調され、それが全編を覆う熱気のようになっていったのである。

 チームを越えて結集したナラシナ市の精鋭、虹川潤、羽黒翔丸、狗神塔馬、四騎森槐、卯月倫人の五人と、「無限のジャケット」を狙ってナラシナ市に侵攻してきた関東最大のチーム、ノスフェラトゥの総長、荒吐篤郎をはじめとする五人とが、お互いに雌雄を決すべく、団体戦形式の対人戦争(タイマンウォーズ)を果たしていくというのが、1巻で提示されている『熱風・虹丸組』の概要であって、もちろん、これはヤンキー・マンガに限らず、格闘をモデルにしたフィクションの古典的なスタイルであり、パターンだろう。

 対人戦争の背景では、他のチームの暗躍が描かれていたりもするが、基本としてカタルシスは一対一によるバトルとアクションの様式に起因している。絵のレベルで、これだけのバトルとアクションを示しているマンガは、現在、そうは存在しない。それはたとえば、橋ヒロシの『WORST』や市川マサの『A-BOUT!! 〜朝桐大活躍編〜』がクライマックスでコケてしまったのはなぜか、を考えさせるものだと思う。どうして不良少年は争わずにいられないのか。この回答が拳と拳のダイアローグとしてバトルとアクションのなかにきちんと埋め込まれているのだった。

 登場人物たちの大見得を前にしたら、タイマンなのにウォーズとはいかに、という疑問は小さなことにすぎない。

 『疾風・虹丸組』第1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2014年04月18日
 俺の心臓は彼女にしか撃ち抜けない (小学館文庫)

 西森博之は、本来はマンガ家だが、既に『満天の星と青い空』という小説がある。それ以外にも『道士郎でござる』のワイド版に『エリカの城』という小説を発表していたわけだけれど、まとまった作品としては、この『俺の心臓は彼女にしか撃ち抜けない』が第二作目にあたるだろう。『満点の星と青い空』の基本的なアイディアは、現在『週刊少年サンデー』に連載されている(自身が原作をつとめる)『何もないけど空は青い』に流用されており、それは要するにポストアポカリプスものに少年マンガのテンションをミックスしたものであるし、本格派のSFであるよりは、文体を含め、ライトノベルのスタイルに近いと見なせるものだったと思う。そして、ライトノベルのスタイルに近い点に関しては『俺の心臓は彼女にしか撃ち抜けない』も同様である。

 主人公の杵屋孝志は二次元の女性にしか興味がないため、同級生から「アニオタ」と呼ばれている。その彼が高校の帰り道に立ち寄った神社で、呼吸を忘れるほどの美少女と出会い、それと同時にとある天啓を授かったことがすべての発端であった。巫女の格好をした美少女、霞は言う。「あなたは神性力を持つ無敵の超人、神選者になりました。どのような望みも叶えられるでしょう」と。事実、孝志はどのような望みも自力で叶えられるほどに強力な肉体を得るのだった。が、当の本人は目の前に現れた美少女の方が奇跡だと思っていて、世界征服やヒーローではなく、ただ霞とともに平凡な日常を送り続けられることを願うのである。霞に自分のことを「お兄様」と呼ばせて喜ぶ程度の恩恵で満たされていた。しかし、超人に選ばれたのは孝志だけではなかった。同時期に神選者となった四十七歳のサラリーマン、加戸哲文が欲望のままに力を暴走させ、日本中を混乱させていったせいで、ついに孝志は加戸と対決せざるをえなくなってしまう。

 ライトノベルのスタイルに近いと述べたけれど、ここ最近のライトノベルの読み手からすると、作品の結構はいくらか古びて感じられるのではないかというのが正直なところである。なぜ孝志が神に選ばれたのか。孝志を選んだ神は誰か。神が美少女に与えた役割は何か。こうした問いがバック・グラウンドには用意されているのだが、それはメタ・レベルの存在を織り込み済みにし、物語を機能させるための手段でしかなく、仕掛けとして凝っているというより、ゲーム的なリアリズムを持ったフィクションにお馴染みのパターンの一つであろう。また、アニメ・オタクを主人公に設定しているものの、「妹萌え」といった今日において一般化された特徴を負っているにすぎず、作中で言及されるのもせいぜいが『ドラゴンボール』や『ジョジョの奇妙な冒険』、『未来少年コナン』等であったりするあたり、まあ大した問題ではないのかもしれないが、多少オールドスクールな印象をもたらしてしまう。

 ただし、孝志と加戸の対照は、所謂「俺TUEEEE」型の万能感をある種のツールに見立てたとき、いかなる使われ方をする(いかなる人間に使われる)のであれば、幸福に繋がるのかを探り探りするような止揚であって、それがエスカレートするのにつれ、ドラマもぐいぐい盛り上がっていく。残酷な面をより残酷にし、コミカルなパートをよりコミカルにしながら、単に美少女といちゃつきたいだけだったお話が、いつしか少年性の気高いロマンとエモーションとを獲得するのだ。西森博之のマンガのファンならわかるだろう。暴力によって輝かしい翼を折られ、窮地に立たされた主人公たちが、持ち前のガッツと理性とで起死回生の逆転劇を繰り広げるあれである。が、全編を通じ、説明と描写を混同しているせいか。『満天の星と青い空』と同じく、ああ、これ、マンガで読みたかった、という部分に残念さがある。

 『満天の星と青い空』について→こちら
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2014年04月15日
 彼女の倖せを祈れない (幻冬舎文庫)

 浦賀和宏の『彼女の倖せを祈れない』は、『彼女の血が溶けてゆく』と『彼女のため生まれた』に続くシリーズの第三弾であって、主人公=語り手はこれまでどおり、週刊誌へ寄稿しているライターの桑原銀次郎である。その銀次郎がとある報せを受けたことから物語は幕を開ける。ライヴァル誌のライターで仇敵ともいえる青葉幸太郎が日比谷公園で何者かに刺し殺されたと聞いたのだ。犯人は不明。もしかすると危険なネタを追っていたのかもしれない。同じ立場の銀次郎にとって、青葉の死は明日の我が身でもある。シンパシーからか。自分を恨んでいたはずの青葉に関する取材を引き受けた銀次郎は、事件を探り続けるうちに思いもかけぬ真相に突き当たるのだった。成り行き、当事者の一人となった主人公が、被害者や加害者の家族と対面することで、彼らの知られざる一面を覗き見、単調に思われていた事件の背景に潜められていた不吉な因果を、ついには暴き出してしまうというのは、このシリーズのパターンであろう。今回もやはり、銀次郎が様々な人物たちのあいだを右往左往し、ハードボイルドの探偵よろしく、苦悩とともに身を削りながらの大活躍を果たしていく。もちろん、青葉を含め、前二作に出ていた面々も物語に絡んでくるし、シリーズものならではの魅力が確かにある。

 と、おおよそのところを述べ、そしてそれが誤りではないことを断言してもよいのだけれど、嘘。うそ、うそ、うそ、全部うそ。いや、ウソじゃないのだが、嘘なんだ。おい、おまえは何を言っているのだ。ちくしょう。油断してたじゃねえか。こうしたシリーズものにおいて、ある種のパターンを確立することと作品の密度を高めることは、しばしば同義になりうるし、実際、『彼女の血が溶けてゆく』と『彼女のため生まれた』がそうであったとおり、優れた探偵の役回りを銀次郎がこなしてみせることで物語は次々とステップを進めていくものだから、浦賀和宏という作家がどのような資質の持ち主であったかをうっかり忘れていたね。忘れていた。ネタを割ってしまうことになるので、詳しくは触れられないが、まさかまさかの展開を前に、あらためて思い知らされたわ。

 ああ、内容の半分ぐらいしか他人に説明できない。説明しちゃだめな小説だ、これは、と思う。ミステリにおけるアクロバティックな仕掛けが云々というより、『彼女の血が溶けてゆく』や『彼女のため生まれた』では、ほとんど封じられていた浦賀和宏ならではのセオリーをぶち壊したサプライズが、ここにきて、まざまざと復活している(あるいは前二作で封じられていたがゆえに効果的に発揮されている)のである。無論、ミステリにおけるアクロバティックな仕掛けは、終盤、事件の真相を掘り下げるのに不可欠なキーとして存在しており、ある意味で映像化不可能な領域を作り出しているのだったが、それ以前の箇所で、ええ、それは禁じ手でしょう、のインパクトがでかい。ずるい。シリーズ全体のバランスを躊躇なく瓦解させているのだ。しかし、個人の欲望が(浦賀の初期の作品のように)人類や世界規模の陰謀論に接続されるのではなく、その矮小さがあくまでも矮小なものとして社会や政治のレベルで処罰されているため、心地の悪さはさほどない。さらに『彼女の血が溶けてゆく』も『彼女のため生まれた』も、その題名は比喩などではなかった。案外、物語の中身を直接指示していたわけだけれど、それはこの『彼女の倖せを祈れない』も一緒だといえる。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『彼女のため生まれた』について→こちら
 『彼女の血が溶けてゆく』について→こちら
 『女王暗殺』について→こちら
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2014年04月07日
別冊サイゾー×PLANETS(プラネッツ) 文化時評アーカイブス2013-2014 (月刊サイゾー5月号増刊)

現在出てる『別冊サイゾー×PLANETS 文化時評アーカイブス2013-2014』に、石岡良治さん、川原和子さんと一緒に2013年のマンガに関する座談会で参加しております。
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2014年04月06日
 バウンスアウト(2) (ヤングマガジンコミックス)

 近年、フィクションにおけるアウトローものは、たとえば「関東連合」や「半グレ」というモデルを新しく獲得することで、ジャンルそのものを延命させたといえる。しかし、それは単に今ふうのゴシップあるいはスキャンダル的なリアリティを導入したにすぎず、結局のところ、どんなに偉い連中も殴り殺して逃げちゃえばこわくないじゃん式の展開を描くことしかできていないし、エンターテイメントとして新しいフェイズに入ったとは見なしがたい。80年代から90年代にかけ、知的な経済ヤクザを台頭させることで、マネー・ウォーズやコン・ゲームのスリルを盛り込んでいた作品に比べるなら、むしろ、どんなに偉い連中も殴り殺して逃げちゃえばこわくないじゃん式の展開は非常に幼稚で、退行ですらあるだろう。もちろん、それが現実の社会を素直に追従した結果だとしたら、現実の社会そのものが既に退行しているのだと述べるよりほかないのであって、西条隆男(原作)と東元俊也(漫画)のコンビによる『バウンスアウト』も、そうしたフィクションの一例に挙げられるマンガだ。

 一年半ぶりに少年院を出た主人公の大和壮兵は、幼馴染みで現在はアダルト・ヴィデオの会社を立ち上げている木嶋からバウンサーの仕事を紹介される。バウンサーとは、クラブ等(この場合のクラブは、DJが音楽をかけるクラブであっても水商売のクラブであっても構わない)のセキュリティを指すのだけれど、その会社を運営しているのがヤクザであることを知り、大和は最初断ろうと思うのだった。が、偶々、覆面を被った物騒な集団が六本木のクラブを襲撃する現場に居合わせたために事態は一転してしまう。この襲撃事件をきっかけとし、大和は超野興行の会長、超野と出会い、彼が運営するバウンサー会社、バックドロップの一員に加わることとなるのだ。他方、襲撃犯である暴走連合の黒澤は、相対した大和に覆面を暴かれ、正体を知られてしまったせいで立場を悪くし、どうしても大和を追い詰めなければならなくなっていた。まず黒澤が狙ったのは木嶋である。罠にハメられた木嶋は逃れられず、黒澤が率いる暴走連合によって重傷を負わされる。というのが1巻のあらましであって、この2巻では、木嶋の仇を討つべく、大和の奔走がはじまっていく。

 作中の「暴走連合」のモデルが「関東連合」なのは明らかだが、それはともかく。アウトローものの大半がそうであるように、意趣返し、復讐、報復のテーマを、やはり『バウンスアウト』も負っていることが、物語を見ているとよくわかる。木嶋のリヴェンジが大和を動かしているのはもちろん、なぜ大和は少年院に入っていたのか。高校時代、恋人が暴走族に殺され、その報復を果たしたためであった。敵方の黒澤にしても、だ。襲撃の原因は、仲間を殺されたことのリヴェンジだったということになっている。復讐は止められるか。憎しみは止められるか。暴力の連鎖は止められるか。暴対法(暴力団対策法)の施行以降、意趣返しが必然的にテロリズムとして扱われざるをえない可能性のなか、ヤクザをモデルにしたフィクションによって探られてきた倫理がそれだとしよう。しかしながら「半グレ」を含め、ヤクザとは違い、暴対法の適用を免れているアウトローをモデルとした作品においては、少々様子が異なっているように思う。憎しみは止められない。復讐は必ずや果たされなければならない。スカウトマンを題材にした和久井健の『新宿スワン』でさえ、こうしたロジックを免れていなかったのは周知の通りである。

 憎しみは止められない。復讐は必ずや果たされなければならない。これが、どんなに偉い連中も殴り殺して逃げちゃえばこわくないじゃん式の展開と合わさるとき、比喩の上であろうとなかろうと、いかにしてテロリズムは肯定されるかの正当化と大した差異はなくなるであろう。『新宿スワン』の真虎は、どれだけ主人公のタツヒコがアンチテーゼとして機能し、がんばろうが、意趣返しとテロリズムのテーマを達成してしまった。本来、タツヒコが真虎を阻止できなかった時点で、物語は破綻したと見られるべきだけれど、それを破綻だとはしないことの切実さが現代にはあるのかもしれない。とはいえ、やはり、意趣返しとテロリズムは不幸の結果であると同時に原因でしかないし、否定の方が強くあって欲しいものなのだ。

 本題に戻るなら、『バウンスアウト』は、先にいったように(現段階では、と留保しておくが)今ふうのゴシップあるいはスキャンダル的なリアリティを導入したアウトローもの程度の作品である。どこまで取材が正確なのかは不明だけれど、現実の社会に影響を及ぼされているに違いない若者の気分や風俗、情報のパッチワークが、このマンガの説得性を支えているのだと思う。裏を返すと、それ以上の特徴は出てきていない。フィクションであるがゆえに乗り越えなければならないものをまだ見つけていない印象であって、そこが非常に残念な点でもある。

・その他東元俊也に関する文章
 『破道の門』
  10巻について→こちら
  1巻について→こちら