ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年12月21日
 CHARON(1) (少年マガジンコミックス)

 アト・ランダムに召喚されたプレイヤーたちが特殊な条件下で互いを出し抜き、ときには殺し合う。サヴァイヴァル、デス・ゲーム、バトル・ロイヤルに喩えられるその手のパターンは、確かに00年代に流行りはしたけれど、流行りは廃れるものなので、2010年代には下火になるだろう、と踏んでいたのだったが、しかしそんなことはなかったぜ、であって、奇妙な変形を得、勢いを盛り返してきているようにも思う。一体誰が何のために登場人物たちを戦わせるのか。こうした問いに対し、じゃじゃーん、すべては神様の仕組んだことでしたー、プレイヤーたちは人類の命運を背負わされてましたー、とかの身も蓋もない(でたらめな)ロジックで応えるタイプの作品が増えているのである。この意味において、かのデウス・エクス・マキナまでもが堂々と姿を見せてしまった『未来日記』は本来退行(00年代における形式の最後列)であるはずなのに、それがアイディア的には先駆(2010年代における形式の最前列)であったという転倒すら起きている。

 正直なところ、人間同士の理不尽な(目的の隠された)殲滅戦であるようなフィクションは、東日本大震災以降、さすがに敬遠されていくんじゃないかな、と個人的には読んでいたのだった。そこにある殺伐さはトゥー・マッチなのではないか、と。だが、読みは外れた。現状は逆であろう。人間よりも上位のクラスが存在している可能性をエクスキューズにすることで、特殊な条件下での私闘にリアリティが、あるいはシンパシーが持たされているのかもしれない。

 山田恵庸の前作『エデンの檻』や以前の『EX 少年漂流』は、まあ少年マンガの範囲内ではあるものの、とりあえず孤島に流れ着いたらレイプという非常に凡庸な認識をベースにしたサヴァイヴァルであった。それが人間であったり男性であったりの本質を描いていることになるのかどうかは知らないけれど、お決まりのコースである以上は退屈だし、特筆すべきほどのものではない。サスペンスはむしろSF的な設定とともにあったかと思われる。SF的な設定といっても、身も蓋もない(でたらめな)ロジックによって回収されてしまうものである。そうしたSF的な設定が、この『CHARON(カロン)』ではさらに前面化されていることは1巻の時点でかなり明確だろう。なぜなら、正体不明の何者かに拉致された計18名の少年と少女とが、あらかじめ自分たちには規模の大きいミッションが課せられているのだと正しく地球を飛び出した場所で告げられるところから物語は動きはじめるのだ。

 もちろん、『宇宙戦艦ヤマト』や『機動戦士ガンダム』の昔よりサブ・カルチャーの歴史に存在してきた『十五少年漂流記』のヴァリエーションとして見てもいい。そこから『蠅の王』や『無限のリヴァイアス』のような残酷さを汲み取ってもいい。だが、規模の大きいミッションを強いられた少年と少女は皆、それぞれの思惑はどうであれ、限定された空間のなか、いかに共同体をキープするかをプライオリティとはしていない。このことが、サヴァイヴァルにもデス・ゲームにもバトル・ロイヤルにも転びうる展開を招き入れている点に留意されたい。そう、主人公である九十八(にたらず)密が、他の登場人物たちとは違って、積極的には自分が置かれた状況に荷担しようとはせず、〈騙し合いでも殺し合いでも好きにするがいい〉と言い放つ通り、敵対するプレイヤーを出し抜き、ときには命を奪うことを一つの前提として作品は構築されているのである。

 とある登場人物は、自分たちが召集された理由である「救世主(メサイア)計画」というそれについて、こうも言っている。〈要するにこれは…… 聖戦(クルセイド)〉なのであって〈己が信じる神の代理戦争なんだよ〉と。なるほど、様々な宗教や国家レベルの衝突と陰謀論が物語の背景には秘められているようだし、そのことによって動員された少年や少女たちには、全員がそうであるかは不明であるものの、どうやらサイキックに近い者も潜んでいるようだ。聖戦、確かにそうなのだろう。『CHARON』において、聖戦とは、たぶん比喩ではない。しかし、だからといって聖戦とそれに相応しいだけの神話を計18名の少年と少女とが繰り広げていくとは、少なくとも今の段階ではと保留しておくけれど、思われない。せいぜいがサヴァイヴァルやデス・ゲームやバトル・ロイヤルの派生もしくは発展形に止まるのだった。が、裏を返すなら、そこにこそ、この手のパターンの強度(2010年代における形式の説得性)が刻印されている。
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2013年12月15日
 このマンガがすごい! 2014

 『このマンガがすごい!2014』の「オンナ編」に参加しました。コメントで次点として挙げた『銀の匙』は『銀のスプーン』の誤りですね。チェック漏れしたようです。申し訳ありません。ランキング自体については、過渡期だなあ、という印象です。
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2013年12月10日
 ペーパーブレイバー 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 それが洗練なのか単なる野暮なのかはともかく、極めて現代的で世俗的な認識や価値観をメタ・レベルに設定することで剣と魔法のファンタジーやRPGのルール・ブックを吊し上げ、一種の倒置法として魔王や勇者を描くというのは最近の流行りである。そうしたトレンドのフォロワーに、このマンガ、藤近小梅の『ペーパーブレイバー』も入れられると思う。ルール・ブックをルール・ブックたらしめるのに必要なコンテクストをあえて理解しない。こうした態度は所詮、子供じみた遊びみたいなもので、そこにシリアスなテーマを被せたりしている作品を見ると、ちょっと白けてしまうときがあるのだったが、『ペーパーブレイバー』の場合、「あくまでもギャグですよ」式のスタンスを徹底している。本質はドタバタした学園もののコメディなのだろうし、ドタバタを展開するにあたり、リアリティをいったんワキに除け、モラトリアムのシンパシーを仮想化するために剣と魔法のファンタジーやRPGのルール・ブックが挿入されているといえる。

 実際、作品の舞台は、現実の世界(現代の日本)の至るところに遍在していそうな男女共学制の高校であって、なぜか主人公は、魔王を倒さなくてはならない立場なのに、平々凡々とそこへ通っている。ここで重要なのは、彼がレベル1から一向に成長していない未熟な勇者だという点である。これはもちろん、学園ものに古くから見られる軟弱で取り柄の少ない少年が主人公のヴァリエーションでもある。主人公の怠さを隠さないニヒリズムのような態度は、今日における若者の気分あるいは趣味を含んだ造形なのだろう。ルックスが良く描かれているのもそうかもしれない。が、彼が自分でアクションを起こさない代わり、彼と因縁のある登場人物たちが次々と関わってき、彼に無理やりでもリアクションを起こさせる。これがコメディの推進力となっている。正直なところ、序盤は、ワン・アイディアだなあ、ぐらいにしか思わないのだけれど、連載が続くにつれ、作者がペースを掴んできたからなのか、登場人物の個性とそれらのコンビネーションとができあがってくるからなのか、次の一コマに期待させられるだけの魅力を持ちはじめる。

 この1巻の終盤のエピソードには、アクションもあって、ストーリー形式の連続性も見られる。たぶん、そちらがメインになることはないと思われるものの、作品自体の可能性は着実に広がっている。
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 クロコーチ(3) (ニチブンコミックス)

 ストーリーの進みは現在、こちらのリチャード・ウー(原作)とコウノコウジ(作画)によるマンガ版より、それを元にしているはずのテレビ・ドラマ版の方がいくらか先行している感もある『クロコーチ』だが、実際、両者の制作過程にどのようなコンセンサスが取られているのかはわからないのだけれど、ベースとなっているエピソードに決定的な違いはないと思われる。それはつまり、作品を成り立たせている大まかなパーツは一緒だということである。まあ、同じ登場人物であっても年齢や性別、性格などに違いの顕著な者もいるにはいる。しかし、そのことが必ずしもエピソードの違いとはなっていない。そこから一つ推測できるとしたら、『クロコーチ』の場合、エピソードが「主」であり、登場人物が「従」の方法論によって、作品が組み立てられているかもしれないことであった。要するに、三億円事件をヒントにしながら警察を巨大な権力として、警察の内部を巨大な陰謀論として描こうとしてることが、マンガ版とテレビ・ドラマ版の内容を一致させているポイントなのではないか。

 他方、国家レベルのヒストリー(戦後史)をアレンジしつつ、それを多国籍的なクライム・サスペンスに落とし込むというのは、リチャード・ウー(長崎尚志)が関わってきた作品によく見られる趣向であろう。これを念頭に置いて、大まかなパーツを共有しているマンガ版とテレビ・ドラマ版とを比較するとき、リチャード・ウーの原作におけるテクニックみたいなものがうかがえてくる。おそらくは長編のストーリーを複数のエピソードにバラし、その複数のエピソードをあたかもジグソー・パズルのピースのように扱い、あらかじめこうと定まった枠のなかに順不同で組み合わせていく。このプロセスを読み手は全貌の隠された「筋」として見ているにすぎないのである。もちろん、登場人物は(その行動を含め)複数のピースを跨いだり繋いだりする「絵」の役割を果たしているわけだ。そして、語弊をおそれずにいえば、コウノコウジの作風は、そうした「絵」にえげつない魅力を与えるのに相応しい。

 最初に、マンガ版とテレビ・ドラマ版とでは大まかなパーツは一緒と述べた。けれど、この3巻からは、クライマックスに向かってか、あるいは連載の長期化に向けてか、独自の展開が顕著になりはじめている。無論、テレビ・ドラマ版が独自の展開に入っているという言い方もできる。が、マンガ版の場合、リチャード・ウーとすぎむらしんいちのタッグによる『ディアスポリス 異邦警察』の他、江戸川啓視名義でクォン・カヤと組んだ『プルンギル -青の道-』や石渡洋司と組んだ『青侠 ブルーフッド』にあった異邦人の介入と猟奇的なイメージとが強調化されていっているようだ。

・その他コウノコウジに関する文章
 『ゲバルト』1巻について→こちら
 『肉の唄』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
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2013年12月07日
 聖闘士星矢セインティア翔 1 (チャンピオンREDコミックス)

 マサミストとしては、既にアナウンスされている高河ゆんの『車田水滸伝』が非常に楽しみである。が、手代木史織の『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』といい、そしてこの久織ちまきの『聖闘士星矢 セインティア翔』といい、車田正美作品のブランドが女性マンガ家によって守られていくというのは、同人誌の大昔の時代からの定めなのか。もちろん、由利聡の『風魔の小次郎 柳生暗殺帖』であったり、岡田芽武の『聖闘士星矢 エピソードG』であったり、男性マンガ家(由利聡って男性マンガ家でいいんだよね)が手掛けた派生作品、公式二次創作もあるにはあるものの、前者は長らく連載が中断したままであるし、後者を入れたところで、数の上では女性マンガ家の活躍の方が目立ちはじめているのは確かだ。

 さてしかし、1巻が出た久織ちまきの『聖闘士星矢 セインティア翔』は、同じ『聖闘士星矢』のヴァリアントであっても、『聖闘士星矢 エピソードG』や『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』と、いくらか格好が違っているのは、それが女性を主人公にした物語となっているためだ。男性の登場人物たちの対決と共闘の相関図が、やはり車田正美作品のコアであろう。マサミズムとは本来、男のロマンと同義であったはずである。歴史を振り返ったとき、『スケ番あらし』の荒神山麗はむしろ稀少だったのであり、男勝りである女性のイメージは『リングにかけろ』の高嶺菊や『風魔の小次郎』の柳生蘭子に受け継がれはしたけれど、それらも次第に物語の後景と化していった。もちろん、『聖闘士星矢』にも『B'T-X』にも女性の戦士はいる。いた。が、それが作品の中核になるというのは異例のことと思う。そう、『聖闘士星矢 セインティア翔』に描かれているのは、正しく女性の聖闘士(セイント)が拳を握っていくバトルなのであった。

 現代に女性の聖闘士が描かれることのセクシュアリティにおける意義、あるいは需要については、サブ・カルチャーのその手の研究をしている人間に任せるとして、ただし『聖闘士星矢 セインティア翔』には、マサミズムに通じる大見得は(今の段階では)あまり感じないねえ、というのが正直なところである。意匠としては少女マンガのファンタジーの方に近いものがある。たとえば武内直子の『美少女戦士セーラームーン』の原型に『聖闘士星矢』を見ることができるとしたら、どちらかというと『美少女戦士セーラームーン』のフォロワーに位置付けられそうなところがある。まあ、こうしたトランスフォームの歴史についても、サブ・カルチャーのその手の研究をしている人間に任せたい点ではある。

 オリジナルの『聖闘士星矢』にも魔鈴やシャイナのように女性の聖闘士が存在したが、『聖闘士星矢 セインティア翔』の主人公である翔子が彼女たちみたいな仮面を装着していないのは、〈本来アテナ様を守護する聖闘士は男子のみ〉であって〈女子が聖闘士になるためには女であることを捨てなければならないという掟が〉あるのだけれど〈しかし処女神アテナ様が人としてご降臨されたとき〉〈ごく身近でお身体のお世話をすることを許されるのは女子のみ〉であり〈その役割を受けもつために女子のまま聖闘士となる者が特例として数名みとめられてきた〉わけで〈すぐれた素養をもち 純潔かつ完全なる「女子」のみがその資格を得る…〉のだし〈アテナ様側近の侍女ともいうべき特別な聖闘士〉それが聖闘少女(セインティア)だという設定が(当然、後付けで)用意されているためだ。この設定はただちに『聖闘士星矢 セインティア翔』が、少女が少年の役割を肩代わりするタイプのお話ではなく、少女が少女のままで少女の役割を果たしていくタイプのお話であることを示唆している。

 結局のところ、正式な続編は車田本人の『聖闘士星矢 NEXT DIMENSION 冥王神話』にしか許されないのか。基本的には『聖闘士星矢 THE LOST CANVAS 冥王神話』がそうであったように、『聖闘士星矢 エピソードG』がそうであったように、『聖闘士星矢 セインティア翔』もまた、『聖闘士星矢』本編のプリクエールだといえる。銀河戦争(ギャラクシアンウォーズ)開催以前、姉である響子の後を継ぎ、城戸沙織(アテナ)の聖闘少女になることを翔子は誓うのだった。あの黄金聖闘士も本筋に深く関わってきそうだし、『聖闘士星矢』初期の超重要人物である辰巳(!)も出てくる等のファン・サービス(?)もあるよ。
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2013年12月05日
 楔-kusabi-(初回限定盤1)(DVD付) 楔-kusabi-(初回限定盤2)(DVD付) 楔-kusabi-(通常盤)

 なぜ〈NO PAIN〉と叫び、「NO MORE PAIN」と願ったはずなのに、またもや受難の道を進まなければならないのか。警告を忘れ、どこまでも高い空を目指していったイカロスの墜落と神話とが、その運命に内蔵されているのか。それとも、幾多の傷を負おうと立ち上がるヒロイックなイメージが何より似つかわしいからなのか。受難とはもちろん、グループにとっての受難であって、彼らを求めるファンにとっての受難にほかならない。そんなもの決して望んでやしないのだったが、しかし、それが『楔-kusabi-』の通常盤に収録された「PHOENIX」における次のような一節を、KAT-TUNというエピック(叙事詩)にぴったりのきらめきとしてしまう。皮肉なことに。そう、〈すべてに理由がある〉〈何度も蘇ってみせるよ〉と告げるのであって、〈WE DO NOT FEAR さあ 共に羽搏(はばた)け 終わりのない楽園へ〉と力強く、〈這い上がれ 灼熱の夜明けへ〉と歌い、そして〈ルールの無い ルールを縛りつけていく〉のである。

 5人編成による楽曲を含まない『楔-kusabi-』の制作期間がどれぐらいだったのかは不明だし、事前にミニ・アルバムとアナウンスされていたことから急ごしらえであったのかもしれないが、初回限定盤1、初回限定盤2、通常盤の3枚を合わせた(「楔-kusabi-」と「GIMME LUV」のカラオケ・ヴァージョンは除く)全10曲の内容は、それでも2012年の『CHAIN』に続く作品としてカウントされるべきものだろう。田中くん脱退の経緯が経緯だからなのか。あるいは4人編成としての真新しいスタートを強調するためか。既発のシングルをあえて外してきた点は、むしろポジティヴに評価されたい。初回限定盤1に付属している「楔-kusabi-」のヴィデオ・クリップのメイキングで、中丸くんがインタビューに答え、「メンバーが4人だとセンターが発生しない」という発言をしているのは重要である。おそらくはそれが『楔-kusabi-』の、そして『楔-kusabi-』以降のKAT-TUNに対し、メンバー自身が想定しているに違いないヴィジョンなのだと思う。

 振り返るなら、オリジナルである6人編成のKAT-TUNには、奇跡のようなシンメトリーが存在していた。しかし、それは失われた。5人編成の第2期とでもすべきKAT-TUNでは、シングルなどのジャケットを見る限り、亀梨くんをセンターに据える式のプランに基づくものがあったと推測される。だが、それも失われてしまった。たぶん中丸くんの発言は、かくしてもたらされた「メンバーが4人だとセンターが発生しない」状況を、単なる引き算の数式ではなく、現在のKAT-TUNにとってプラスαとなるような逆転の領域にまで持っていかなければならないことを意図しており、つまりはその解答例こそが『楔-kusabi-』といえるのだ。

 タイトル・トラックである「楔-kusabi」は、なるほど、最近のシングルの傾向を汲みながら、ミステリアスで切ないというKAT-TUNの一面を改めて認識させるナンバーとなっている。が、打ち込みの硬いリズム、ダンサブルな重低音、メタリックなギターのリフ、ストリングスとシンフォニックなアレンジ、そこにナイーヴでいて扇情的なヴォーカルのメロディが組み合わさり、溢れてくる過剰なまでのロマンティシズム、ああ、これなんだよな、KAT-TUNだけが与えられた天性の資質とパフォーマンスは、と実感させてくれる根拠に関しては、他の楽曲の方に大きく表れている。

 2曲目の「GIMME LUV」のヘヴィなうねりはどうだ。ヴォーカルの線の細さは(良くも悪くも)KAT-TUNの特徴の一つに挙げられる。赤西くんのパワフルな声量、田中くんのドスが効いたラップといった飛び道具を頼れなくなった今、本格派のラウド・ロックやブラック・ミュージックをベースにしたとき、それは弱点になりかねない。けれど、その線の細さが異様にドラマ性が高いグルーヴを前に鮮やかな意味を持ちはじめる。悲壮であることの本質に備わった美しさと激しさとをダイレクトにしているのだ。たとえば「与えたり」「癒し合ったり」を題目に置くようなハッピーでいて優等生ぶったラヴ・ソングにはない儚さがある。否定することも否定されることも厭わず、独善的であるほどにぐいぐい「求めてくる」「迫ってくる」焦燥がある。衝動がある。アグレッシヴさがある。この押しの強さはもちろん、KAT-TUNの過去と現在とを一つのキャリアのなかで直結させるキーである。

 久々に中丸くんのヒューマン・ビート・ボックスを前面にフィーチュアした3曲目の「ON & ON」には、「SIGNAL」や「YOU」の頃を思い出させる爽やかさがあるし、アップ・テンポの中盤にEDM調のブレイクが入ってくる4曲目の「FIRE and ICE」は、しかし、それでもトレンドであるよりはクラシックであるような展開とリズムのセンスとが、ユニゾンで盛り上がるコーラスに〈例え絶対零度の現実も BURN IT DOWN HARDER さあ在るがまま〉〈鼓動の限り 燃やせFIRE and ICE〉という歌詞の通り、あたかも形而上へまで届きそうなパッションをもたらしているのだった。

 以上の楽曲は、初回限定盤1、初回限定盤2、通常盤に共通しているが、初回限定盤1の6曲目に収められた上田くんの「MONSTER NIGHT」は、『楔-kusabi-』におけるメンバー唯一のソロ・ナンバーであって、かつての「MARIE ANTOINETTE」や「ニートまん」と同様、洒落っ気と茶目っ気がたっぷりの仕上がりである。コンセプチュアルなヴィジュアル系、あるいはゴシック趣味とニコニコ動画等のネット・カルチャーやアニメ・ソングに散見されるシアトリカルなアプローチとを自由に横断し、ミックスしてみせたそのアプローチは、ジャニーズの枠内に限らず、非常に独特なものだ。

 ああ、そして通常盤の5曲目に入っている「BLESS」と7曲目の(事実上のラスト・ナンバーにあたる)「PHOENIX」は、紛れもないハイライトである。とりわけファルセットのヴォーカルに堂々と挑んだ前者は、メンバー4人の個性がこれまでのキャリアにはなかった色彩となって、混じり、淡い季節のエモーションをブライトに描き出す。黄昏にも似た叙情があるけれど、バラードというのではない。ポップにはじけていくクライマックスと軽やかなステップがある。作詞を担当したRUCCAがどのようなオーダーを受けたのかは知らないものの、〈信号(シグナル)〉であったり〈僕らの街〉であったり〈FACE〉であったり〈約束〉であったり、過去のタイトルの引用であるかのようなフレーズが随所に挟み込まれているのは意図的であろう。しかして、亀梨くんが裏声で歌う〈時は過ぎて〉〈6月の或る晴れた午後に SO, I'M MISSING YOU〉に刻まれた別離ばかりか、「6」という数字でさえも自然と象徴性を帯びてしまうのだったが、単なるセンティメントが「BLESS」を愛おしくさせているわけではない。どれだけのセンティメントを抱えようと新しい一歩を踏み出していくよ。やわらかなメロディは伸び、雨の止んだ向こうに開けた景色の眩しさを想像させる。

 高く舞い上がるための翼がまだある。結果はどうであれ、自分(自分たち)はそうと信じられる。少なくともこれを希望と呼ぶことができる。「PHOENIX」は、正しく不死鳥のストーリーを再現している。音楽的には『CHAIN』のラスト・ナンバーであった「SOLDIER」の第2章みたいでもある。オーケストレーションはリアリティを度外視したスケールを生み出し、打ち込みの硬いリズムはまるで勇者を讃えるマーチのごとくである。無限のファンタジーがある。感動的ですらある。それにしてもファンに向かって自身を戦士や不死鳥に喩えずにいられないアイドルとは一体何なのだ。とんでもないことになっているのは間違いない。その存在が、活動が、もはやエピック(叙事詩)だと述べるしかない。トゥー・マッチだろうか。だが、トゥー・マッチであるがゆえに〈WE DO NOT FEARさあ 共に燃えゆけ 命叫ぶ鳥たちよ〉という声に熱がこもる。そしてそれは〈撒き散らせ 閃光の世界へ〉と〈ルールの無い ルールを降り注いでいく〉のに相応しい。

・その他KAT-TUNに関する文章
 『FACE to Face』について→こちら
 「WHITE」について→こちら
 「CHANGE UR WORLD」について→こちら
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN』(2012年4月20日・東京ドーム)について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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