ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年10月30日
 彼女のため生まれた (幻冬舎文庫)

 ああ、これが現代におけるハードボイルドなのかもしれない。でも、そこには自己犠牲とも似たヒロイズムを通じて獲得されるべき希望というものがほとんど見当たらない。殺伐とした事件の真相を、ニヒリスティックなアマチュア探偵が究明していくなかで、果てしない消耗が繰り返されるのみだ。救いはあったか。よくわからない。ただ、喪失の彼方でしか涙することを許されない主人公の姿に、たとえそれが絶望であったとしても、決して空虚とは思わされないだけの重量が備わる。浦賀和宏の『彼女のため生まれた』である。

 設定から述べると、『彼女のため生まれた』は同作者の『彼女の血が溶けてゆく』と登場人物たちのプロフィールを同一にしている。つまりは「彼女の」シリーズの続編ということになるだろう。もちろん、物語はそれぞれ独立したものであって、フリーランスで週刊誌のライターをしている桑原銀次郎が身近な人間の災難をきっかけに奇妙な事件と関わっていくという構成を(現段階では)シリーズの共通点としておけばいい。すなわち、大がかりな組織や犯罪に対して主人公の意志がどう立ち向かうのかではなく、規模が狭い世界の地盤沈下に対して主人公のスキルが行使されていることに着目されたいのだ。

 浜松にある実家が何者かに襲撃された。刃物に刺されて、父親は重傷を負い、母親は死んだ。東京から静岡へ駆けつけた銀次郎が刑事の質問を受けているとき、かつて彼が通っていた高校の屋上から一人の男が飛び降り自殺したとの報せを受ける。両親を襲撃した犯人である。なんとそれは地元の同級生、渡部だった。しかし親しかったわけではない。それがどうして銀次郎の母親を殺すに至ったのか。銀次郎の父親によれば、渡部は復讐だと言っていたという。高校の頃、銀次郎が赤井市子というクラスメイトに乱暴を働いたのだという。そのせいで市子は自殺したのだという。そして、渡部は市子の恋人だったと言ったのだという。だが、話を聞いた銀次郎からしたら心当たりはまったくない。何もかもが全部デタラメであった。大体、なぜ十数年後の今になって復讐がなされなければならないのか。その謎を解くべく、銀次郎は渡部や市子の家族との面会を試みる。

 以上がネタを大きく割らない程度の筋書きである。もしも渡部の言いが「真」だとしたならば、母親が殺された原因は銀次郎にあるということになる。実際には「偽」であったとしても、それを「真」と見なす者が一定数を越えるかぎり、真偽は不明となる。母親が殺された原因は銀次郎であるというテーゼは必ずしも「偽」とはならないのである。『彼女のため生まれた』において、主人公が挑まなければならないのは、そのような不確定性によって支配された世界にほかならない。

 作中では、銀次郎と渡部の背反したアピールをめぐるガジェットとして、ブログのコメント欄などが採用されている。上記した不確定性によって支配された世界とは、インターネットを基準としたリアリティ、価値観や群衆の心理、体験に対応しているのだろう。それを敷衍していけば、もちろん、陰謀論やデマへの信仰が立ち現れる。こうしたハーメルンの笛吹きゲームに図らずも参加してしまったこと、馬鹿げたルールであろうと参加を強制させられてしまったことに主人公の不幸はあるといえる。その際、彼を取り巻く世界がいかなる規模を持っているかはさして問題ではない。自分にとっては紛れもなく「真」であるはずのことが、他の誰かから「偽」であると否定される。自分にとっては絶対であるはずのことに、他の誰から疑惑を向けられる。いわずもがな、それはアイデンティティの否定へと通じているのである。

 思い返せば、浦賀和宏は、アイデンティティが脅かされることの不安をミステリの形式に落とし込んできた小説家であった。しかし、かつての作品では、メタ・レベルそのものであるような(SF的な要素ともいえる)現象が物語に介入してき、登場人物たちのアイデンティティに試練を与えることが多かったのだけれど、『彼女の血が溶けてゆく』や『彼女のため生まれた』には、そういう登場人物たちよりも上位の概念が、忽然と顔を出したりするような場面はない。デウス・エクス・マキナよろしく登場人物たちの運命を操作することもない。これが「彼女の」シリーズを、別のシリーズに比べ、一般的なミステリの仕様に近づけさせているのだろう。

 運命とは、他でありえたかもしれない可能性のなかからどうしてこの現在が選ばれたのかを問うことである。こうした問いが、死者である渡部と彼に母親を殺された銀次郎の対照には内蔵されている。本来、死者が生きている人間に反論することはできない。だが、死者の残した結果が、決定的な事実として認められしまっているとき、それに反論を加えることの方が難しい。それを覆そうとし、ニヒリスティックなアマチュア探偵は奔走するのだったが、殺伐とした事件の真相には、銀次郎の母親と渡部の母親とを含む、さらなる運命の対照が隠されていたのであった。

 浮かび上がってくるのは、銀次郎、渡部、市子、三者の母子関係であり、それは極度に個人化された社会のイメージと折り重なっていく。果たして母親は子供のために存在するのか。それとも子供が母親のために存在するのか。鶏と卵のジレンマを思わせる苦悩が、『彼女のため生まれた』という意味深長な題名とその悲劇には秘められている。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『彼女の血が溶けてゆく』について→こちら
 『女王暗殺』について→こちら
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
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2013年10月25日
 リアルサウンドにて、嵐のニュー・アルバム『LOVE』についてのレビュー書きました。
 http://realsound.jp/review/name/arashi/30love.html
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2013年10月22日
 本気! 外伝クジラ(1) (プレイコミックス)

 そもそも『極道の食卓』には、ヤクザ、学校、政治、子供、グルメ、と立原あゆみのキャリアを総括しているところがあった。他方で代表作である『本気!』のセルフ・パロディといおうかセルフ・オマージュといおうか、読み手に『本気!』を参照させることでコメディを成り立たせているようなところもあった。それが「獄中編」を経、この『本気!外伝 クジラ』では、題名にある通り、ついに『本気!』のストーリーと直接関わり合うこととなっている。なるほど、確かに『本気!外伝 クジラ』とは、『極道の食卓』の続編であるし、『本気!』の外伝となっているのである。

 作品のフォーマットは『極道の食卓』そのまま、つまり「食」をテーマにして一話完結に近いエピソードが作られているのだが、このエピソードのなかに『本気!』シリーズのダイジェストが盛り込まれている。マンガとしてはかなり特異なスタイルだといえる。たとえば、人気のあったテレビ・ドラマが終了後、総集編のスペシャル番組が作られることがある。その際、新規の撮影パートを加え、回想の形式でレギュラー放送をつなぎ合わせていくことがある。それを思わせる。しかしそれが立原のマンガにお馴染みのサンプリングといおうかカットの使い回しといおうか、要するにコピー・アンド・ペーストの技法とここまでマッチしようとは。実に正しい『極道の食卓』と『本気!』のマッシュアップなのではないか。

 中身の方をシリアスに見ていくなら、現在進行形の語り手である久慈雷蔵が、回想のなかに置かれた主人公である白銀本気の活躍を振り返るとき、そこにはおおむね、喪われてしまった人間に対しての感傷が寄り添っている。無論、作中の本気(マジ)は死んではいない。ちゃんと生きている。従って、語り手が感傷を寄り添わせている対象とは、あくまでも『本気!』シリーズを通じ、その物語の最中に命を落としていった登場人物たちになるのだった。が、ここで、本来は久慈雷蔵のものであるはずの語りが、構造のレベルにおいては所謂神の視点と同化していることに注意されたい。神の視点を語り手が所有しているかのような語りは、立原あゆみの諸作に共通する要素でもあるだろう。そしてそれが、先のコピー・アンド・ペーストの技法と並び、『極道の食卓』と『本気!』の二つの作品を『本気!外伝 クジラ』という一つの作品にまとめ上げる大きな基礎となっているのだ。

 もちろん、久慈雷蔵による喪われてしまった人間に対しての感傷は、老年期に入った作者自身の感傷を同時に代弁しているに違いない。さらにそれは、失われようとしている伝統的な風景や東日本大震災以降の復興に向けられた悲哀にまで敷衍されている。『仁義』シリーズの新作である『仁義 零』にも、東日本大震災以降の風景が現れていたけれど、そこには作者の実感であったり関心であったりが色濃く出ているのだと思う。あるいはそこに90年代に原発誘致の問題を描いた『花火』の残像を重ね合わせることもできる。おそらく、過去作からの引用は『本気!』ばかりに止まらない。療養中の五社谷に魚を届けにくる漁師、あれはもしかしたら『当選』の主人公なのではないか、とかね。『極道の食卓』がそうであったように、『本気!外伝 クジラ』もまた、立原のキャリアを総括しつつある。

・その他立原あゆみに関する文章
 『火薬』について→こちら
 『仁義S』
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『涙星〈アース〉チンピラ子守歌』1巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
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2013年10月19日
 ウルトラ・レッド(1) (チャンピオンREDコミックス)

 同じく『週刊少年ジャンプ』の出身であり、同じくアクションの豊富なマンガを得意としながら、同じく『週刊少年ジャンプ』のメインストリームからは外れていってしまった鈴木央が、このコミックスの1巻のオビに推薦文を寄せている。周知の通り、鈴木には同じく『Ultra Red』というタイトルの作品がある。このへんはまあ、洒落になっているのだろうが、それはともかく、野口賢の『ウルトラ・レッド』は西村寿行の小説『往きてまた還らず』を下敷きにしたクライム・サスペンスである。野口にはこれまで、夢枕獏を原作とした『KUROZUKA-黒塚-』『狗ハンティング』や、冲方丁を原作とした『サンクチュアリ THE 幕狼異新』などがあるけれども、まさか現代的な異能系ヴァイオレンス(文芸)とのコラボレーションを網羅するつもりか。今度は西村寿行ときた。そしてもちろん、作品の方向性はこの作者にお馴染みの行間が大きいサイキック・バトルを思わせる。

 テーマのレベルで見るなら、並行して(あるいは先行して)連載している横山光輝のリメイクである『バビル2世 ザ・リターナー』の双子ともいえる。我々(と呼ぶべき価値基準を共有した集団)は既に謎の敵に侵略され、支配されている。我々だけがそれを知らずにいる。こうした陰謀論が真であるような世界で、徹底的に個人化された人物が、その謎の敵に対し、単身で戦いを挑んでいくのである。おそらく背景には、この国の戦後史が、またはこの国とアメリカ合衆国との関係が、参照されるべき項目として横たわっている。かいつまんでいうなら、日米安全保障条約の問題があり、地下鉄サリン事件があり、アメリカ同時多発テロ事件があり、さらには東日本大震災以降の、福島第一原子力発電所事故以降の日本人から見られる世界像や国家観が、正体不明な脅威と攻撃とに変換され、サイキック・バトルのイメージを織り成しているのだ。

 確かに『バビル2世 ザ・リターナー』の主人公は、アメリカ合衆国に戦争、もしくはテロリズムを直接仕掛ける者であったが、『ウルトラ・レッド』の主人公はこの国の内戦、もしくはテロリズムに直接立ち向かう者となっている。しかし、それらはたぶん、同根の現象として扱われているのである。

・その他野口賢に関する文章
 『バビル2世 ザ・リターナー』(原作・横山光輝)
  1巻について→こちら
 『サンクチュアリ -THE幕狼異新-』(原作・冲方丁)
  1巻について→こちら
 『狗ハンティング』(原作・夢枕獏 / 構成・子安秀明)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『KUROZUKA -黒塚-』(原作・夢枕獏)
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2013年10月17日
 ハイ・ライズ(DVD付)

 ストーン・テンプル・パイロッツ(STONE TEMPLE PILOTS)は、96年のサード・アルバム『ヴァチカン(Tiny Music... Songs from the Vatican Gift Shop)』こそが最高だと信じてやまない。初期のグランジを部分的に採用しながら、スタイルの発展と多様化を試みると同時に、ポップ・ソング、ポップ・ミュージックとしての訴求力をバツグンにしていて、うん、今耳にしても最高なんだよね。その後のハード・ロック路線も決しては悪くはないのだけれど、もしかしたらストーン・テンプル・パイロッツの音楽性は『ヴァチカン』の時点で既に極まっていたのかもしれないな、と思う。

 スコット・ウェイランドを除いたメンバー、ギターのディーンとベースのロバートのディレオ兄弟、ドラムのエリック・クレッツに関しては、トーク・ショウ(TALK SHOW)名義で97年にリリースされたアルバム『トーク・ショウ(TALK SHOW)』もなかなかの作品であった。スコットのロック・スター然としたアピールは、ストーン・テンプル・パイロッツにとって確かに重大なフックだったのだろうが、それ無しでも充分にやれる。バンドのグルーヴとソング・ライティングの内容は、バックの3人が揃ってさえいれば、きっちりキープできることを証明してしまったのだ。

 まあ、紆余曲折があり、ついにストーン・テンプル・パイロッツはスコットの解雇へと至る。かわりにヴォーカルとして迎えられたのは、リンキン・パーク(LINKIN PARK)のチェスター・ベニントンである。チェスターといえば、過去の来日公演でジェーンズ・アディクション(JANE'S ADDICTION)を弾き語りでカヴァーしたり、サイド・プロジェクトのデッド・バイ・サンライズ(DEAD BY SUNRISE)ではメジャー・スケールのグランジを展開したりと、90年代のアメリカン・オルタナティヴが自身の背骨であることを明らかにしているけれど、さてしかし、このビッグ・ネーム同士の合流は、いやはや、疑う余地もなく、相性はばっちりであろう。

 事実、その新体制によって作られたミニ・アルバム『ハイ・ライズ(HIGH RISE)』は、近年のハード・ロック路線を踏襲した上で、グルーヴやメロディには初期の頃のようなアクの強さが戻ってきており、何よりどの楽曲もコンパクトでキャッチーで、ベテランの貫禄を感じさせる以上のフレッシュさが表にきているのである。06年にディレオ兄弟がフィルター(FILTER)のリチャード・パトリックと組んだアーミー・オブ・エニワン(ARMY OF ANYONE)にはいくらか欠けていたフットワークの軽さとパンチとがここにはあるといってもいい。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2013年10月13日
 FACE to Face(初回限定盤)(DVD付) FACE to Face(通常盤/初回プレス仕様)(DVD付) FACE to Face(通常盤)

 自分の経験則に従っていうなら、悲しいことは重なる。その悲しみが大きいほど重なるものである。10月9日、夜、ほとんど同じタイミングで二つの悲しい報せを聞いた。形容しがたい欠落がすぐそばにあった。闇があまりにも簡単に目の前を暗くした。一つは大変プライヴェートな出来事なので、ここでは触れないが、しかし、それだけでも充分こたえたというのに、もう一つ。まさかのニュースが悲しみをダブルにした。所属事務所との契約解除により、KAT-TUNから田中聖が脱退した(正確には9月の末に脱退していた)と聞いたのだ。KAT-TUNに田中くんがいない。悲しみはいつだって信じたくない現実を通して現れる。ああ、これもそのような教訓の一つなのだろうか。

 結局のところ、今年の5月にリリースされた「FACE to Face」は、後に期間限定で配信された「BOUNCE GIRL」を別にすれば、5人体制のKAT-TUNにとって最後のシングルになってしまった。正直な話、(少なくとも自分にとっては、と留保しておくけれど)ここ数作のシングルは、必ずしもKAT-TUNのポテンシャルを全開にしていたと受け取ることができなかった。悪くはないんだけどね、とは思う。でも、「悪くはないんだけどね」式に設定されたハードルなどそもそも無関係であるような高みにこそKAT-TUNのポテンシャルが見られたのではなかったか。タイアップである映画『俺俺』のテーマにそくしてアイデンティティの行方を題材にした「FACE to Face」は、早口のヴォーカル・メロディにユニゾンの強調、そしてフェイクのストリングスと打ち込みのビートという5人体制のKAT-TUNにスタンダードな方法論で組み立てられている。確かにここにはKAT-TUNならではのエピックがある。ロマンティシズムがある。ダークなヒロイズムがある。燃えてくるものがある。他方で、ある種の疑問が残る。物足りなさと換言してもいいそれがある。なぜだろう。

 6人体制のKAT-TUNが08年に作り上げた驚異の傑作アルバム『KAT-TUN III -QUEEN OF PIRATES-』(の初回限定盤のボーナス・トラック)に収録されていた「12 o'clock」の歌詞を引用したい。それはつまり、冒頭の〈Updateされたマシンで・Freeway駆け出そう・Next stage目指して・今しか出来ないRendezvous〉という箇所である。実際、「12 o'clock」が名曲ばりのハイ・センスを発揮していたのは、それがボーナス・トラックであるにもかかわらず、ネクスト・ステージを目指すのに相応しいアップデートされたマシンのようであったからだ。さらに同時期のシングル・ヒット「DON'T U EVER STOP」がそうであったように、このときのKAT-TUNはアップデートされたマシンを次々乗り継ぎ、正しくフリーウェイのど真ん中で現在進行形のランデブーを繰り返しながら、最強のポジションを確立していったのだ。6人が5人体制になっても停滞だけは決して引き受けなかった。そのことは2010年のアルバム『NO MORE PAIИ』や2012年のアルバム『CHAIN』の内容にきっちり刻印されている。

 あるいは、2010年のシングル「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」のスタジオ・ヴァージョンと脱退した赤西くんによるオートチューンのパートを田中くんのラップと中丸くんのヒューマンビートボックスに置き換えたライヴ・ヴァージョンとを聴き比べてみるべきだろう。そこには当のメンバーたちが楽曲のアップデートに対していかに自覚的であるかがくっきり明示されている。誤解をおそれずにいえば、ここ数作のシングルに関し、いくらか乏しかったのは、そうした「アップデート」されていくことの感覚である。もちろん、通算20枚目となる2013年のシングル「EXPOSE」のイントロ、07年のシングル「Keep the faith」を彷彿とさせる鋭いギターのリフに『NO MORE PAIИ』に収録されていた「RIGHT NOW」を引用するというマッシュ・アップ的なアプローチには、過去を参照して、さらなる更新を果たすかのようなアップデートへのきざしがある。だが、それがどこまで徹底されていたのか。ネクスト・ステージのサプライズをもたらしていたかどうかは、微妙なラインの判断になってくるものの、また別の問題なのだ。

 それこそ「EXPOSE」で歌われている〈ギリギリの状況じゃなきゃ味わえない昂揚感〉とは、あの06年のデビュー・シングル「Real Face」における〈ギリギリでいつも生きていたいから〉という宣言の繰り返しにほかならない。「ギリギリ」は修辞である。カッティング・エッジであることの同義でもある。常にカッティング・エッジであり続けること。これは当然、もうあとはないんだぞ、といった底辺寸前のサヴァイヴァルを意図しない。確かにKAT-TUNの活動状況をかえりみると、いささか予言的ではあるが、ベクトルはむしろ逆さまであって、どれだけの高みであろうとより高みを望む。墜落のリスクに惑わされない。飛躍、トライアルを指しているのだ。だからもし、スタンダードな方法論を選んだ「FACE to Face」に物足りなさを覚えるとしたら、それはそう、KAT-TUNならばまだこの先に挑めるはずだろう、このような(過剰かもしれないが)期待の裏返しなのだと思う。

 おそらく、必要なのはタイアップのチャンスのみではない。それにも増して、アップデートされたマシンとしての楽曲が必要とされているのである。しかし、そのとき、ここしばらくは控えめにされていた田中くんの、すなわちJOKERのラップは再びのキーとなるに違いなかった。2012年のシングル「不滅のスクラム」において最もスリリングだったパートはやはりJOKERのラップであったし、それはデビュー以前からずっとKAT-TUNをKAT-TUNたらしめていたトレード・マークの一つでもあった。自分がKAT-TUNにはじめてびびっときたのは、実は日本テレビの『ウタワラ』のコーナーのいつだったか、DEEP PURPLEの「SMOKE ON THE WATER 」をKAT-TUNがカヴァーし、ギターのリフに合わせて田中くんがラップしている姿を目の当たりにした際で、こんなアイドルがいるのかよ、と衝撃を受けたのだった。その衝撃はまた、デビュー以降のシングルについても同様で、強力なフックのいくつかはJOKERのラップとともに存在していたのだ。それだけに田中くんの脱退は信じがたい。ショックだよ。

 先にも述べた通り、赤西くんの脱退を経て「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」はライヴ・ヴァージョンとしてリ・アレンジされ、アップデートされた。そこでのキーはまず間違いなく、田中くんのラップであった。田中くんが脱退した今、残されたメンバーは4人体制のKAT-TUNにピントを合わせて、過去の代表曲を、それがコンサートで披露される可能性がある限りは、洗い直さなければならない。絶対に欠かすことのできない「Real Face」はまあ、これまでのコンサートでも他のメンバーがラップを(余興としてではあるが)担当する機会があったので、やれる、だろう。じゃあ「喜びの歌」は。「LIPS」は。「ONE DROP」は。単なる引き算で再構成されるだけだったら寂しい。不安のタネは尽きないのである。無論、KAT-TUNならばどんな困難も踏み越えられる。亀梨くんだったら、中丸くんだったら、上田くんだったら、田口くんだったら、異色のスターダムを必ずややり遂げる。と、信じるしかないのだけれど、現段階ではあまりにも根拠が弱い。

 6人でも5人でも4人でもKAT-TUNはKAT-TUNに変わりないというのは、ある種の価値観であろう。だが、絶対の真理ではない。6人体制のKAT-TUNと5人体制のKAT-TUNのあいだには、どうしたって無視できない揺らぎがあった。それを抜きにして、KAT-TUNはKAT-TUNに変わりないというのは、さすがにいい加減である。誤魔化しである。そうした揺らぎをむしろ、『NO MORE PAIИ』や『CHAIN』のようなトライアルへと見事転じてみせたところに、5人体制のKAT-TUNのポテンシャルはあったのだ。

 ただし、その5人体制のKAT-TUNも終わった。田中くんの脱退とともに区切りがついてしまった。返す返すもショックだし、非常に悲しい。そう簡単に気持ちの整理ができるぐらいだったらこんなにもファンになってやしねえんだ。しかるに4人体制のKAT-TUNがどんなキャリアを築いていくのか(これはいよいよメンバーの年齢が30歳代に入ろうかというKAT-TUNがどのようなヴィジョンを出してくるのか、でもあるが)。まだ何もわからないのである。

・その他KAT-TUNに関する文章
 「WHITE」について→こちら
 「CHANGE UR WORLD」について→こちら
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN』(2012年4月20日・東京ドーム)について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2013年10月09日
 ハルの肴(1) (ニチブンコミックス)

 都合上、掲載誌の休刊で連載の止まった『蒼太の包丁』の物語を全39巻で完結したと見ていいかどうか(もしかしたらどこかで続きが描かれるのではないか)判断に迷うところだが、末田雄一郎(原作)と本庄敬(作画)の同コンビによる新作『ハルの肴』には『蒼太の包丁』の終盤において中心的であったモチーフが流れてきているようにも思える。それはあの、北海道から東京に出てきた若者が、老舗であったり、飲食業であったり、そうした場所で働く人々と関わり合うことで自分の進路を新発見するという箇所である。所謂自分探しのヴァリエーションにあたるかもしれないものだ。

 たとえば、『ハルの肴』の主人公である春野ハルのプロフィール(グラフィックの専門学校に通っていたが、話の成り行きから老舗で料理人の見習いとなる)を、『蒼太の包丁』の終盤で登場してきた乙部孝太郎のプロフィール(動物園の元飼育係だったが、話の成り行きから老舗で料理人の見習いとなる)に置き換えてみるとわかりやすい。ともに北海道出身であり、そもそも料理人になるつもりはまったくなかった。コトの経緯は別なれど、田舎から東京に出てきたことになっている点も同様であろう。もちろん、『蒼太の包丁』の乙部は男性であって、『ハルの肴』のハルは女性なのだから、性別は入れ替えられているし、ハルが働く「大門」は老舗は老舗でも両国の大衆居酒屋であり、乙部が勤めている「富み久」のような銀座の名店ではない等々、基本の設定はだいぶ違う。いうまでもなく、乙部があくまでもワキ役だったのに対して、ハルは作品全体の主人公である以上、両者の役割は決定的に異なっているのだが、しかし、世間知らずで消極的な若者が、周囲に見守られながら、助けられながら、成長し、見聞を広めていく。こうしたパターンを揃って踏襲しているのである。

 もしかしたらそれを『蒼太の包丁』の主人公である蒼太の、そのオルタナティヴなイメージだとすることもできる。ただし、あらかじめ料理人を志していた蒼太のガッツ、真の強さをそのまま、時間軸のタテ糸として物語を編んでいたのが『蒼太の包丁』だったとしたら、『ハルの肴』の場合、ハルの人柄の良さは確かにヒロインに相応しい資格ではあるものの、時間軸のタテ糸で物語を読むとき、どうも頼りない。果たしてそれが作品の構造によって要請されているのか。それとも反対に作品の構造をこうと規定しているのか。一概には言い切れない。けれども、おそらく、今後、さまざまなエピソードのベースとなってくるのは、自分探しの不確かさを補うような関係性のヨコ糸なのではないかと思われる。

 『蒼太の包丁』に関する文章
  33巻について→こちら
  30巻について→こちら
  25巻について→こちら
  24巻について→こちら
  22巻について→こちら
  20巻について→こちら
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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2013年10月07日
 ヤンキー塾へ行く(1) (ヤングマガジンコミックス)

 巷では佐野菜見の『坂本ですが?』がスマッシュ・ヒットとなっているけれども、案外この荒木光の『ヤンキー塾へ行く』はヤンキー・マンガ版の『坂本ですが?』になりえるのでは、と思うことがある。ただし、荒木の手つきは、人工的な制度としての学校生活を(それが人工的な制度でしかないことをあたかも見透かすかのような)ギャグへと転化するのではなく、今日的なアンダークラスのリアリティを学校生活を中心としたミニマリズムのなかに落とし込もうとしているところがあって、そこに色合いの大きな分かれ目が見つけられる。

 他方、もしかしたら『ヤンキー塾へ行く』は2010年代版の(ハロルド作石の)『ゴリラーマン』なのかもしれない、と思うこともある。学校生活というモラトリアムの野蛮さ(自由、可能性)と黄昏(不自由、不可能性)とを不良少年の戯れに投影しているのだが、しかし『ゴリラーマン』の引用を示せば示すほど『ゴリラーマン』が持っていたリアリティとかけ離れていく柳内大樹の『ギャングキング』とは違い、目上からの視線が物語とオーヴァー・ラップしたり、それによって作品の基準をずらしたりはしない。あくまでも若い登場人物たちの実感、生活臭に寄り添うことで、当人はマジであろうと傍目には茶番劇にすぎない、ドタバタのコメディとも受け取れる様式を作り上げているのである。

 年代や掲載誌、読者層やジャンルを越え、ある種の学園ものにおけるパターンとして『ヤンキー塾へ行く』と『ゴリラーマン』『坂本ですが?』の共通項を挙げることは容易い。一般的な学校生活のその風景、そのシンパシーのなかに異物、ストレンジャーの役割を分担された主人公が導入されているのである。これはつまり、作劇上の普遍性でもある。

 たとえば、麻生周一の『斉木楠雄のΨ難』ならば、やはりストレンジャーであるような主人公のモノローグを、所謂ボケに対するツッコミの声とし、状況を俯瞰する立場とイコールで結ばれるメタ・レベルを作中に召喚することで、ギャグのスタイルを完成させているのだけれど、先の三者に関していうなら、主人公の思考や内面は極力(読み手にも作中のポジションでも)伏せられている。無表情に近く、さらには口数の少ないその姿は『斉木楠雄のΨ難』の主人公とさほど変わらない。にもかかわらず、『斉木楠雄のΨ難』とは異なって、彼らはメタ・レベルを召喚するための回路ではない。基本的にその寡黙さは、他とのギャップを暗示している。クリシェであり、主人公がストレンジャーであることを読み手に了解させるためのデフォルメにほかならないのである。無論、アピアランスや知性についてはまた別の問題だろう。

 さてしかし、ここまでの話は『ヤンキー塾へ行く』の連載ヴァージョンといおうか高校生編に入ってからの展開を前提としている。コミックスの1巻に収録されているのは主にプレ連載ヴァージョンの方である。あらためて読んでみると、プレ連載ヴァージョンの中学生編では不良少年のロマンとアンダークラスのリアリティとが「受験」すなわちターニング・ポイントのテーマを前にして不可避に衝突している感じがする。それが高校生編になると「受験」のかわりを「日常」が果たしていく。その「日常」を背景にしながら、モラトリアムの野蛮さ(自由、可能性)と黄昏(不自由、不可能性)とが前面に出てきているのである。主人公の碇石はより無口となり、明らかに池戸定治(ゴリラーマン)化が進んでいる。まあ、それは段々と思慮を得ているというイメージの具現であるのかもしれない。

 ただ、プレ連載ヴァージョンであれ、連載ヴァージョンであれ、たとえ「受験」がテーマであろうと「日常」を背景にしていようと、タイトルにある「塾」の存在が学校生活の外部として想定されている。このことは一貫している。「塾」に通う碇石はストレンジャーであると同時に外部を覗く人間なのである。もしくは帰属すべき集団の外部を覗いているがゆえにストレンジャーなのだ。ケンカの強さが最高のカタルシスなのはもう疑いようがない。イヤな奴はぶん殴っていいよ。燃えるしね。だが、それだけでは立ちゆかない社会の壁が主人公のすぐそばから彼の青春を覗きおろしている。
 
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2013年10月05日
 Feast of Love

 ギター・ポップ。シューゲイザー。グランジ。そして、エモと呼ばれるポスト・ハードコアの一群。これらを四つの象限とし、真ん中に小さなスクエアを描くようなサウンドが米ミシガン州アナーバー出身の4人組、PITY SEXのファースト・アルバム『FEAST OF LOVE』の主要を為している。WEEZERの影響を彷彿とさせるところもあるのだけれど、90年代の終盤、日本のSUPERCARに対応してイギリスから登場してきたLLAMA FARMERSのことを思い出した。LLAMA FARMERSのセカンド・アルバム『EL TOPPO』(00年)はシューゲイザーとエモのミッシング・リンクと解釈することのできるものだったが、それをもう少しパワー・ポップのシンプリシティに寄せていった印象であるし、実際、音響レベルの緻密さがどうこう凝っているというより、ジャブに喩えられるコンパクトな挙動の楽曲が『FEAST OF LOVE』の大半を占めているのだ。アルバムのランニング・タイムは30分に満たない。

 もちろん(いやまあ「もちろん」と言い切っていいかどうかはともかく、それがこの手のサウンドにおいては魅力の一つとなりえる以上)ヴォーカルは男女のダブルである。とりわけ、ギターを兼ねる女性ヴォーカルのスウィートでアンニュイな歌声は、ナードのロマンティシズムとジャスト・フィットするかのような。そういうドリームを充分に持っている。ギター・ポップやシューゲイザーのファンにだってアピールするものだと思う。女性ヴォーカルがメインの楽曲もあれば、男性ヴォーカルがメインの楽曲もある。ハーモニーも当然ある。正しくデュエットである3曲目の「DROWN ME OUT」を聴かれたい。典型的なヴァース・コーラス・スタイルのミドル・テンポだが、ざらついた触感のプロダクトはインディならではの特性であって、下地に置かれているのは明らかにアメリカン・オルタナティヴの文脈だろう。HUSKER DUやTHE PIXIESあるいはTHE BREEDERSへと通じながら、パンキッシュなアプローチは除けられ、そのかわり低音のグルーヴが強調されているところに、WEEZERをある種の参照点としたグランジ以降のパワー・ポップ、パワー・ポップのラインに等しいエモの力学を発見できる。男性ヴォーカルは微温のまま、先述した女性ヴォーカルと交差することで、モノローグに封じ込められないメランコリーを獲得していく。同一のフレーズを繰り返すタイプのギター・ソロも、ここでは大変ツボを押さえているといえる。

 3曲目の「DROWN ME OUT」ばかりではない。ソング・ライティングのセンスは極めてグッドである。ラスト・ナンバーの10曲目「FOLD」において幕を閉じるそのフィードバックのノイズが1曲目の「WIND-UP」に対してはイントロの役割を果たしている点を含め、アルバムの構成もきっちりバランスが取られている。前作にあたるEPの『DARK WORLD』(2012年)に比べ、レコーディングのクオリティが随分あがり、轟音はだいぶ整理された。ギザギザに尖った初期衝動の勢いが薄らいでしまったのは残念だけれど、バンドの指向に関してはいよいよ焦点が定まってきたという感想を抱く。シューゲイザーのアメリカン・リヴァイヴァルとしてはWHIRRやNOTHINGほど本格派ではないものの、それらと共鳴しつつ、THE WORLD IS A BEAUTIFUL PLACE & I AM NO LONGER AFRAID TO DIEやDADSなどポスト・ハードコアの新しい世代ともシンクロナイズドしうる可能性が、『FEAST OF LOVE』の、そしてPITY SEXに固有のアドヴァンテージとなっているのだ。

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