ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年09月30日
 バクト 3―高校生ギャンブル血風録!! (ヤングキングコミックス)

 指切り。指切り。指切り、である。ここでいう指切りとは、なんらかの比喩ではなく、文字通りに指を切断することであって、要するにヤクザのあれ。いわゆる指を詰めるってやつである。志名坂高次の作品においてはしばしば、ある種の通過儀礼としてギャンブルのなかに描かれる試練のことでもある。ああ、主人公の高校生が容易く足の指をちょん切られるという『凍牌』シリーズも倫理観の大変とち狂った展開がすさまじいマンガだが、この『バクト』も負けず劣らず。ニタニタしながら弱者をいたぶるド畜生がえげつない。異常であることを悪びれない連中が突きつけてくる要求は、3巻に入り、よりエスカレートしている。1、2巻はまだ肩慣らしであった。

 自分と同じく(家族のため)莫大な金銭を必要としている同級生の三神をパートナーにして、因縁の裏カジノ、紅龍へ乗り込んだバク(大村獏)は、そこでタイマン式の特殊なルールによる麻雀=紅龍麻雀での賭けを強いられる。苦戦しながら、クセのある紅龍の客を一人、二人とくだしていったバクは、そしてとうとう紅龍を取り仕切る大ボス、岡部との直接対局に漕ぎ着けるのだったが、それはさらなる窮地に立たされることでもあった。勝負の内容は二対二(ツーマン)での紅龍麻雀である。バクと岡部とが差し向かい、三神がもう一つの卓につく。二つの卓は運命共同体なのだが、三神と対局する田村という男がまた、とんだゲス野郎でよ。テレビ等でよく知られる教育評論家なのだけれど、裏では子供の人権なんて知ったこっちゃない。むしろ児童売春に積極的な変態なのだった。バクは当然、三神も絶対負けるわけにはいくまい。しかし、序盤のしくじりからバクと三神は相当苛酷な要求を飲まざるをえなくなってしまう。

 一般的な物語の水準で考えるなら、普通、この程度の(と思わされる)イージー・ミスで主人公は自分の大切な体の一部を失ったりはしないはずだ。使い捨ての端役じゃねえんだから、と。だが、その程度のイージー・ミスであっても主人公の指をちょん切るのが志名坂高次である。しかも一本からはじまって、ついには五指全部を詰めさせられる。そこまでやるかい、であろう。換言すれば、読み手の予断をいとも簡単に裏切っている。予断を裏切ることで、作中の勝負が本来いかにシビアであったかを徹底的に知らしめるかのような効果を引き起こしていく。いや、ごめん。なめていた。バクよ、三神よ、すまない。おまえらがどれだけギリギリのラインに置かれていたのか。おまえらがどれだけ極悪な奴らを相手にしていたのか。フィクションとはいえ、命懸けのシチュエーションを軽んじていたわ。そう、それは決して後には引けないからこそ、正しく命懸けで挑まなければならない場面だったのだ。

 にしたってまあ、ショッキングだわ。先に挙げた指の件はもちろんなのだけれど、それ以上にバクの弟であるナギサがえらいことになっている。昨今、よっぽどじゃない限り、登場人物の不幸なプロフィールに驚かされることはないし、『バクト』に関しては、ある程度の残酷ショーもストーリーの性質上、致し方あるまい。でも、これは久々に引いた。ひいたぞ。そもそもバクが紅龍に乗り込まなければならなかったのは、借金の肩代わりとして父親に売られたナギサを助け出すためであった。紅龍は少年専門の売春宿でもあった。命を奪われるような危ない目に遭ってはいなかったものの、しかし、ペドフィリア的には全然無事ではなかった。変態の玩具として既に仕込まれたあとだったのである。衝撃の事実をあっさり告げる岡部の外道っぷりや、素っ裸にされたナギサを目の前にしたバクの心境を含め、そこでのシークエンスが具体化しているのは蹂躙される者の無力感にほかならない。

 要するに、バクからは(一般的な物語における)主人公としての特権が取り上げられている。あるいは、そのギリギリにまで追い込まれた境遇こそが(ここでは)主人公の特権として与えられているものになっているのだ。誤解があってはいけないが、なにも作者は無力感を中心に描こうとしているのではない。そうではない。そうではないことの証拠として、無力感の真っ只なかにあってさえ、デタラメと敗北だけは絶対に受け入れまいという主人公の意志の方へ、その後の展開はスライドしていくのである。1巻の段階でアピールされていた通り、バクは是が非でもイカサマを許さない。勝利によってイカサマは覆せると信じている。頑ななアティテュードは、2、3巻ときても、まったくぼやけていない。つまりそれは、作者が中心に描こうとしているものが何なのか、はっきりしているということでもあるだろう。

 しかしながら、率直にいって、意志の強さではどうにもならないことがある。意志の強さを通じ、作品のルールやロジックがねじ曲げられてしまったなら、それこそデタラメである。そうした不文律に忠実である結果、バクは大切な体の一部を失わなければならなくなってしまうのだが、五指を失ってもなお、対局を投げ出そうとはしない。勝利を諦めていない。これを不屈の闘志と見るか。常軌を逸していると見るか。判断は人それぞれであろうが、どちらであっても構わない。いずれにせよ、ここからが問題である。逆転の目がないままであったならば、所詮、敗北するしかないのだ。

 志名坂高次のマンガにデウス・エクス・マキナのごとき神の定めが内蔵されているとしたら、それは誰に対しても容赦がない。その意味において、誰に対しても平等である。その意味において、無慈悲な悪魔と変わりがない。根性論も実際にはかなわない。にもかかわらず、バクが命懸けで挑み、掴もうとしているのは、そうした神の定めに根性論は関与できるか(不毛ではないのか)式の可能性であり、回答なのだといえよう。
 
・その他志名坂高次に関する文章
 『凍牌 〜人柱篇〜』3巻について→こちら
 『牌王伝説 ライオン』1巻について→こちら
 『凍牌』10巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年09月25日
 シャトル・プリンセス(1) (モーニングKC)

 ここ最近、本来のキャリア(?)であるスケベなマンガに路線をセットし続けていた咲香里だが、この『シャトル・プリンセス』でまたもやバドミントンの世界を描くこととなったのである。しかし、『やまとの羽根』や『スマッシュ!』のような少年を主人公にした青春と団体生活のイメージではなく、登場人物の年齢を少し上げ、実業団に所属する女性(女性たち)をヒロインにした大人のストーリー・テリングがここでの要であろう。掲載誌との兼ね合いがあるのかもしれないし、三たびバドミントン・マンガを手掛けるということで、ヴァージョンを書き換えてきた印象だ。

 山勢電機のプレイヤー、西条美香は、ある日、監督の周防から練習生の有沢由利を紹介される。天才的な資質を持ちながらも実業団入りを拒んでいる有沢を説得するように頼まれたのだ。だが、西条は他人を冷静に説得できるタイプではなかった。結局のところ、持論を思いっきり有沢にぶつける結果となってしまう。それはもはや説得というより説教に近いものであった。その熱弁が良かったのか悪かったのか。有沢は条件次第でチームへの加入を了解するのだった。条件とは、西条とのダブルスを組ませること。二人の相性を見抜いていた周防は当然、条件を受け入れる。反面、納得がいかないのは勝手に自分の身の振り方まで決定されてしまった西条であったが、周囲の思惑には逆らえず、有沢とのコンビでオリンピックへの出場を、世界戦での勝利を目指していく。

 以上が1巻のあらましであり、基本的にはバドミントンという競技を中心にして大人や社会がどう動くのかをシミュレートしているといえる。もちろん、西条と有沢の対照的な役割にパートナー・シップのドラマを見てもいいし、熱血とは決して無縁ではなさそうなスポ根のエッセンスもあるにはある。作品の大枠は異なるものの、女性が女性ならではの魅力によっていかに巨大な資本と渡り合っていくか、という部分では、今も連載中の『8♀1♂』と共通するところも少なからずある。いずれにせよ、女性たちのチャーミングな表情がフックの一つとなっていることだけは間違いない。

 ただし、男性の登場人物にもうちょっと(誰か一人でもいい。悪役であってもいいのだけれど)存在感があった方が、絵のレベルでも、物語のレベルでも、メリハリがついたのではないか。序盤の掴みから先にまだ出ていないという気がする。

・その他咲香里に関する文章
 『スマッシュ!』
  13巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年09月22日
 9021.jpg

 昨日(9月21日)は国立代々木競技場第一体育館へ「テレビ朝日開局55周年記念 テレビ朝日ドリームフェスティバル2013」 を観に行ったのである。あらかじめ断っておきたいのは、もちろん他の出演者もそれぞれの魅力を充分にアピールしていたし、ほほう、と思わされる場面も多々あったが、自分の目当てはあくまでも堂本剛であって、そもそもラインナップにその名前がエントリーされていたから会場に足を運んだ以上、ここでは堂本剛に関してのみ記すことになるのだけれど、いやあ、やっぱり、いいよね。堂本剛くん、いいよね。反時代的アイドルとしての剥き出しであるようなパフォーマンスを久々に堪能したわ。

 事前、これが一応はフェスティヴァルという形式のイベントであること、様々なアーティストとの競合であることを考慮に入れるなら、セット・リストは、比較的知名度の高いナンバーで固めた特別仕様のものになるか、あるいはまったく反対にシングル・ヒットなどはお構いなし、アティテュードを優先した通常のライヴに近いものになるか、いずれかの選択に絞られるだろうと踏んでいた。さて。結果を述べるならば、のちに堂本自身もMCで言及していた通り、普段のステージとは異なったシチュエーションであるがゆえにあえて後者の選択が採られることとなった。この「あえて」のセット・リストもファンにとっては実に「らしい」と思わされる。トライアルだ。実際、ツアーでお馴染みのメンバーをそのまま引っ張ってきたと覚しきバンドを率い、次々と演奏されていったのはあの、SLY & THE FAMILY STONEからの影響に独自の解釈を加えたファンキッシュなナンバーばかりであったろう。

 そう、ENDLICHERI☆ENDLICHERIのなかでも、ファンクという発見を、モダンなテクノロジーによるソロ・イズムの孤独ではなく、ビッグなスケールでバンドのグルーヴに落とし込んだ楽曲が、ショーの前半に弾みをつける。さすがに大幅に時間を割いたジャム・セッションは繰り広げられなかったものの、たとえば「Blue Berry -NARA Fun9 Style-」におけるエンディングの引き延ばしは相変わらず、飛び跳ねるリズムの繰り返しとヴァリエーションとが会場をフィジカルなレベルで一体化させる。メロディによる情緒のシンクロニシティとは違う。レコード(記録や経歴)に頼るのとは別の架け橋(それは大変直感的なもの)が、ステージの上と観客とのあいだを繋ぐ。ああ、こうしたコミュニケーションの在り方こそが、ENDLICHERI☆ENDLICHERI以降のサウンド、キャリアでは模索されていたのだ。

 熱を込めながらギターを弾く堂本の顔つきは渋い。サイドのスクリーンに映ったそれを眺める限り、このピッキングがすべて、とでもいうような表情を作る。一緒にいた友人も言っていたのだけれど、プレイのスタイルやファッションがなぜか、楽曲そのものの方向性は全然違うのに、リッチー・ブラックモアやイングヴェイ・マルムスティーンを彷彿とさせることがあった。あるいはウリ・ジョン・ロートまでをも。たぶん、ジミ・ヘンドリックスを元に派生したブルーズやファンク、ロックの受け皿であると同時に我流のアレンジであるという意識が、センスが、はからずもそうさせるのかな、と思う。

 BLACK SABBATHの「IRON MAN」をプロレスラーのど派手な入場テーマに改造したかのような「shamanippon 〜くにのうた」がひとまずのクライマックスである。「shamanippon」とは何なのか。そこでは、容易には判断しかねるそのテーマがアルバムのヴァージョンにはなかった切り口で確かに新しいイメージを完成させていた。当然、私見(戯言)にすぎないのだけれど、シャーマン+ニッポンの造語はどうしたってスピリチュアルな王国を仮想させる。では、そうしたスピリチュアルな王国においてキングやゴッドの存在はありえるか。まばゆいサイケデリックが照射されるなか、バックのメンバーによって力強くコールされる「shamanippon!shamanippon!」。このとき、それを背にした堂本剛こそがキングでありゴッドに相応するのだろう。少なくともスピリチュアルな王国のシンボルとしてフロントに立っていることだけは間違いあるまい、という気にさせられる。

 しかし本当のクライマックスは、ラストのナンバーにあった。それまでのファンクとはがらりと印象を変えて放たれる「街」だ。直前のMCで、かつて故郷である奈良に置いてきた自分自身のために書いた楽曲だということが告げられたが、だからといって楽曲は必ずしもパーソナルな印象に止まっていない。いや、パーソナルでありつつも、パーソナルな物語を越え、響き渡るエモーションがあるので、「街」はかくも親しく大勢の人間が持っている背景に寄り添う。一般化していうなら、おそらく「街」とはペルソナについての歌である。そして、誰もがペルソナとは無縁に生きられないので、しばしば迷い、不意に足を取られる。転び、立ち上がっては度々〈愛を刻もう傷ついたりもするんだけど / 痛みまでも見失いたくない〉と誓うことができる。

 いずれにせよ、ショーの最後を締め括った「街」は美しかった。唯一、内省にフィードバックした場面だったともいえる。イヤー・モニターに不備があったのか、マイクに問題があったのか、歌い出しの時点で堂本が指のジェスチャーでスタッフに指示を送っていたわけだけれど、どこかで改善されたのか、もしかしたら改善されないままだったのか。観客にはわからない。だが、そのヴォーカルはどんなトラブルをも一切飲み込み、遠くまで伸びていく。最新のシングルである「瞬き」が披露されなかったのはちょっとばかり残念であった。ただし、それが決してマイナスとはならないぐらい(短いながらも)充実した内容のライヴに、あらためて反時代的アイドルとしての堂本剛を確認した次第である。

・その他堂本剛に関する文章
 『NIPPON』→こちら
 「縁を結いて」について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI LIVE 「CHERI E」』(2010年8月24日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 DVD『薬師寺』について→こちら
 『RAIN』について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら
 『僕の靴音』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2013)
2013年09月18日
 L DK(13) (講談社コミックスフレンド B)

 他の誰かと強く惹かれ合うことで平凡なはずの日々が新鮮な1ページとして常にめくられる。このような思想(大げさだが!)の一貫性が、渡辺あゆの『L・DK』においては本質に相違ないのだけれど、この13巻では、家族というテーマがことのほか重要になっているのかな、と思う。ヒロインである葵の両親はもとより、ワキの登場人物に関しても家族を中心にしたエピソードが少なくはないのであった。まあ、葵と柊聖のあいだに噛ませ犬(当て馬)のような役割の登場人物を、入れ替わり立ち替わり、割り込ませ、一時的に発生した三角関係を乗り越えさせながら、雨降って地固まる式に二人の気持ちをアピールしてきたマンガである。それがようやく一段落したのに、さほどシーズンを変えないまま、再び横恋慕によってドラマを動かすというのではさすがに、またかよ、の感を免れないし、単なるルーティンでしかなくなってしまうだろうから、この流れは当然であるように思われる。ただし、ここで着目しておきたいのは、家族というテーマを経由することで作品の方向性にもいくらかの、しかし確実な推移が現れている点なのだ。

 葵と柊聖のカップルが、アパートの一室で二人きり、寝食をともにしながら、セックスには至らず、(キスやペッティングに近い行為はあったとしても)比較的ピュアラブルな間柄をキープし続けているのは、葵の父親が出した「卒業までの性交渉禁止」なる条件に従わなければ、現在の生活が取り上げられるためであって、つまりは第三者からの要請が二人の距離に作用を及ぼしているにすぎない。少なくとも今までの話の流れではそうなっていたのである。だが、家族というテーマの影響下で、自分が自分以外の大切な人間に対していかなる望みを抱いているかをより深く見つめることとなった結果、先の条件の意味合いが、必ずしも第三者からの要請に限ったものではなくなっている。未成年の立場において考えられる規律や責任を主体的に判断したものとなっているのだ。このことは、端的にいって、柊聖の心情(内面の成長)とオーヴァーラップするように描写されている。葵の家族の幸福に満ちたワン・シーンに含まれた柊聖は一体何を思ったのか。葵の母親の言葉を率直に受け止めた柊聖は一体何を思ったのか。おそらくそのとき、両親のいない柊聖にとっては「家族」というテーマが「居場所」や「将来」というテーマとにほぼ同一化させられている。

 是非を問わずにいえば、ラヴ・ロマンスの多くはセックスを通じて完成される私的な物語である。葵と柊聖とが住んでいる部屋であったり、二人が送っている学園生活であったりは、その物語を補強すると同時に未完成に止めておこうとする働きかけを持っている。そういう相反する働きかけの綱引きが、要するに雨降って地固まる式のエピソードをいくつも編み出してきたのであった。が、いつしか登場人物たちはラヴ・ロマンスを目的にしながら、狭い世界を生きつつも、そこから先の広がりへと想像をめぐらしはじめている。当然、これは高校卒業を射程に入れた今後の展開に繋がっていくポイントだろう。

 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年09月09日
 777スリーセブン 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 以前にも述べた気がするが、小沢としおはデビュー以来一貫して学園ものを描き続けている。現代少年マンガ史を振り返ったとき(一、二作でリタイアしたマンガ家を除けば)これは極めて異例のことといっていい。しかし、『ナンバデッドエンド』の頃からか。その手つきにはいくらかの変化が見られはじめていた。変化は『ナンバデッドエンド』に続く『ガキ教室』において、より顕著であったろう。『ガキ教室』も当然学園ものであったわけだけれど、学生を主人公にするのではなく、教師の側から見られる学校を作品の舞台としていたのである。いや、何も主人公の立場の違いを指して「変化」だと言いたいのではない。そうではない。学校の存在をこの社会の比喩として描いたり、社会のミニチュアとして扱うのではなく、学校の存在をあくまでもこの社会の一部分としていること、社会から切り離された空間=特区のようには描かなかった点にこそ変化が現れているのだ。

 さて、新作の『777 スリーセブン』である。今まで一貫して学園ものを描き続けてきた小沢としおだけれど、果たしてこれは学園ものだろうか。確かにこの1巻を読むかぎり、学生を主人公にした学園もののように見える。だが、それはフックにあたるものでしかないし、結局のところ、擬装にすぎない。と考えさせるのは、現在雑誌で連載中の分がどうなっているかを知っているからだ。そして、作者が『777 スリーセブン』で開示しようとしているのはもしかしたら、このようなことなのではないかと思う。我々は皆、サイコパスの隣人であると同時にサイコパスの芽である。もしもそうだとすれば、サイコパスとノーマルのあいだに区分はありえるのか。また、すべてがアブノーマルである以上、正義にも悪にもサイコパスが潜んでいるとしよう。では、サイコパスの罪は何によって罪と判断されるのか。無論、サイコパスによって判断されるよりほかない。こうしたロジックが正当であるとしても、だ。果たして我々はそれを当然のものと受け入れることができるのであろうか。

 誰もがいわれなき暴力の加害者になることがあるし、いわれなき暴力の被害者になることもある。学生であろうと未成年であろうと例外はない。たとえば、どうしてイジメはなくならないのか。なぜならそのようにして社会が、秩序が作られているからである。なぜならそのようにしてシステムのバランスは保たれているからである。こうした断言を思わせる一場面を主人公のスタート地点としているのが『777 スリーセブン』というマンガであって、それは次第に俯瞰され、学校の外、つまりは社会そのものへと作品の舞台を広げていく。イジメに遭っていた友人を庇ったせいで今度は自分がイジメの標的にされてしまった高校生、佐藤優希はそれでも我慢さえしていたらいつか嵐は過ぎ去るだろうと信じていた。だが、イジメはエスカレートするばかりであった。見かねたのか、とある男子生徒が優希を助けるのだけれど、その男子生徒が誰なのか優希には心当たりがまったくない。優希がイジメに遭っていたのとちょうど同じ頃、市内の通り魔事件を謎のマスクマンが解決したことがテレビのニュースとなっていた。

 ストーリー上、ネタを割ったことにはならないので言うが、優希を助けた男子生徒の正体は優希のもう一つの人格である。いわゆる多重人格が主人公には内蔵されているのだ。この多重人格の顕在と謎のマスクマンとの接近が、点と点のごとく繋がり、イジメの被害者であった少年のライフ・スタイルを大きく豹変させてしまう。優希の住んでいる東京立山市とは、たぶん『バットマン』シリーズにおけるゴッサム・シティのような磁場なのだろう。『仮面ライダーW』における風都でもいいが。そこで次々起こる凶悪犯罪にサイコパスと同質のダーク・ヒーローが立ち向かうというのが基本のプロットとなっている。どんなに残酷な行為でもそれを肯定する人間は必ずいる。暴力は止められるか。報復は否定されるべきか。『ナンバデッドエンド』の終盤で浮上してきていたテーマが、『777 スリーセブン』では学生生活というフレームをはみ出した場所にまで拡張させられている印象を受ける。

 サイコパスである登場人物がヤンキイッシュな価値観との対決を迫られる序盤の着想は井上三太の『隣人13号』を彷彿とさせなくもない。だが、あそこでの主人公があくまでも個人的な動機や欲望に従っていたのに対して、佐藤優希の場合、強いられているんだ、とでもいうようなアンガージュマンからの要請がベースとしてある。この社会と積極的に関わっていくなかでいかに自己は形成されなければならないのか。つまりはそうした使命を課せられているのが『777 スリーセブン』の主人公であって、彼が抱える多重人格は未だ形成されざる自己を象徴しているのだと察せられる。優希を仲間にしようとアプローチしていくる謎のマスクマンは、その理念が是であれ非であれ、少年が社会と積極的に関わっていくことの誘いかけを兼ねている。ガイドの役割にほかならない。矛盾を含んでもなお正義を主張してはばからないマスクマンの態度は、パラノイアを思わせる。マスクマンが一体全体何を目論んでいるのかはいずれ明かされるに違いないが、少なくとも『777 スリーセブン』の異様さをワキから補強している。勧善懲悪のロマンなどではない。サイコパスがあらかじめ確認されている世界の物語なのである、これは。

 それにしても、題材のみをすくい上げたならもっと表現が抽象的であったり観念的であったりしてもいいようなマンガであるにもかかわらず、かつての作品と同じく、登場人物たちの具体的なアクションとリアクションとを通して物語が構成されているところに、さすがの手腕がよく出ている。作者がここで参照しているのは、冒頭のくだりが暗示している通り、ワイドショー的なリアリティである。ワイドショー的なリアリティとは、我々にとって最も身近なフィクションであろう。あるいはノンフィクションとして消費されるエンターテイメントの最たるものだといえる。実際にはそのリアリティ自体、非常に歪んでいて、本来ドラマがないはずのことにドラマを与えてしまうことがあるし、いかなる特殊性をも一般化してしまうことがある。そうした歪みがしかし、『777 スリーセブン』においては、多少大げさかもしれないけれど、今日のこの国のこの社会を(もしかすれば、狂気の沙汰ですらも)真正面から投影したと覚しきカリカチュアライズの精度となっている。

・その他小沢としおに関する文章
 『ナンバデッドエンド』
  13巻について→こちら
  11巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ナンバMG5』
  18巻について→こちら
  17巻について→こちら 
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年09月06日
 Slave Vows

 どうか俺にお前の魂を救わせようとさせないでくれ。俺にお前の魂は救えない。救おうとしても救えはしない。ああ、黙示録としてのガレージ・ロック再び、である。

 ここにきてこんなにもスリリングな作品を出してくるとは。いやはや、正直なところ、期待は低かったのだけれど、その心証はまるで初期の頃の呪詛を取り戻したかのようなリヴェンジに裏返される。2001年のファースト・アルバムの『MONO』や続く2004年の『PENANCE SOIREE』で(自分を含めた)一部のファンに強烈なアピールを果たしたTHE ICARUS LINEだ。が、しかし、ギターのアーロン・ノースが脱退して以降、次第に勢いを失いつつあったかなと思う。

 つまり、2007年の『BLACK LIVES AT THE GOLDEN COAST』を経、前作にあたる2011年の『WILDLIFE』からは、あの、退廃こそが歓喜であるがゆえに奈落へ滑り落ちていくスピードのなかでしか獲得しえないであろう禍々しいまでのエネルギーがあっさり薄まって聞こえた。所詮、ピークは一過性のものであって二度とは取り戻せないのだ。期待が低かったのは、そう考えていたせいである。それがどうしたことか。この『SLAVE VOWS』を前にしては考えを改めねばなるまい。THE ICARUS LINEは現在もなお強烈なアピールを損なってはいないし、禍々しいまでのエネルギーは様相を違えながらバンドに新しいフェーズをもたらしている。

 サウンドの面で見るなら、おそらくは第三期に入ったといえる。ガリガリのパンクとヘロヘロのサイケデリックがTHE ICARUS LINEの基調だが、後者寄りの『WILDLIFE』に顕著であったポップ指向に、これでもかとギターのノイズを浴びせ、さらにインプロヴァイゼーションのヴァイヴをぶち込み、ついには『MONO』を彷彿とさせるジャンクのテイストをも復活させているのが『SLAVE VOWS』である。総体的にはヴォリュームの匙加減が明らかに壊れているほどラウドであり、アグレッシヴであって、もちろん、ジョー・カーダモンのヴォーカルは不機嫌なオーラのなかに殺伐としたカリスマを確認させていく。渦巻いているのは漏れなく闇黒のブルーズだ。

 クレジットによれば、アディショナル・プレイヤーがいるにはいるものの、ジョー・カーダモンが主にギターを弾いている。ジョー以外のオリジナル・メンバーであり、かつてアーロン・ノースとギターを分け合っていたアルヴィン・デガズマンは、一時期ベースに回っていたけれど、『SLAVE VOWS』ではキーボードを担当しているらしい。プロデュースはジョーである。こうなってくるともうほとんどジョー・カーダモンのワンマン・ユニットみたいだ。実際、バンドとしてどの程度機能しているのかは知れないが、だからといってスタジオ・プロジェクト的な内容ではなく、以前にも増してライヴでのパフォーマンスをイメージさせることに驚く。

 確かに、倦怠と衝動の相反するパートを無区分に連動させてしまう(負の固まりとでもいうべき)そのグルーヴはギターとヴォーカルとにリードされているだろう。だが、それは方向性を意味しているにすぎず、演奏の全体こそが感覚を痺れさせるような呪詛のフィーリングを決定しているのであって、およそ11分にも及ぶ1曲目の「DARK CIRCLES」はどうだ。ミニマリズムをヒントにし、低音をスロウなテンポで刻んでいくリズムは神経性の「毒」である。その「毒」が、ジョー・カーダモンというフックを通じて、意識の下の奥の奥の方に入ってき、怪しい蠢きを生じさせる。

 2曲目の「DON'T LET ME SAVE YOUR SOUL」にはTHE ROLLING STONESとTHE STOOGESとNICK CAVE & THE BAD SEEDSが同居している。本質はダークで、しかもフットワークは激しい。そのコントラストはある種のスタイルだが、スタイルであることの表面を単になぞっているわけではない。他のアーティストには代替できないイズムがある。THE ICARUS LINEにとっての新しいアンセムだろう。コーラスにおける〈don't let me save your soul〉という厭世的なフレーズがキャッチーであればあるだけ、このバンドの異様なポジションをはっきりとさせる。悲観の徹底が憐憫と甘えを斥けているのである。ああ、どうか俺にお前の魂を救わせようとさせないでくれ。

 当然、他の楽曲にもにわかには借り受けることのできないエネルギーが、アティテュードが横溢しているのであった。ガリガリのパンクとヘロヘロのサイケデリックとが混じり合い、研ぎ澄まされ、それがあたかも人力のインダストリアルに達したかのようなナンバーもある。ドゥームやゴシックを受け皿にしたかのようなナンバーもある。4曲目の「DEAD BODY」のグシャグシャに壊れたギターのノイズがたまらない。いずれにせよ、成熟や洗練とは別のレベルで持ちうるかぎりのポテンシャルを結実させたアルバムとなっている。

 思い返せば、THE ICARUS LINEとはTHE STROKES等と同時代のガレージ・ロックにほかならない。ハードコアやアンダーグラウンドのシーンと共鳴した裏ロックンロール・リヴァイヴァルだったのである。近年、THE STROKESやFRANZ FERDINAND、ARCTIC MONKEYSがコンパクトでスマートなニュー・アルバムを次々発表しているが、THE ICARUS LINEにはそうした洒落っ気がない。そんなにもメジャーじゃないからか。LA出身だからなのか。相も変わらず、やさぐれている。

 このとき、どちらが良い悪いとかの議論は関係ない。ただ、THE ICARUS LINEにしかありえない熱狂が『SLAVE VOWS』には再現されていて、それはもう絶対に素晴らしいものなんだぞ、という話だ。そのジグザグに歪んだ姿形を支持する。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2013)