ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年08月29日
 Stand Up! 1 (マーガレットコミックス)

 心地いい青春の風が空を渡る。近年、河原和音が原作に付いた『友だちの話』では文字通り友情のシーンを、続く『やじろべえ』では複雑な家族たちのシーンを、それぞれ丁寧に描いてきた山川あいじだけれど、どうやらこの『Stand Up!』では春の季節をはじまりとしていく初々しい恋のシーンに着手しているようだ。と、1巻を読みながら思う。初期の頃のようなあざといポップさのなかに若者のイメージをくるませるのではなく、きめの細かい線が一本一本、爽やかな匂いのよく似合う光景を柔らかに織り成している。

 身長が高いわりに幼い性格のギャップを持ったヒロインが、高校に入り、隣の席の男子と比較的速やかに交際することとなるという内容は、所謂はじめての恋愛もののヴァリエーションであって、コンセプトとしては桃森ミヨシの『ハツカレ』や椎名軽穂の『君に届け』などに通じるところがある。が、しかし作者は、登場人物たちをことさらエキセントリックに仕立てたり、筋書きに運命の不思議を重ね合わせられるファンタジーを(少なくとも現時点では)盛り込んではいない。どこにでもいそうな少女が、誰の身にも起こりうるきっかけを経、どこにでもありそうな思春期のイメージを体験しているにすぎない。懐かしいようでいて、どこかしら羨まくなるような日々が、さんさんとした輝きとともに映し出されている。青春の光と影に喩えるなら、これはもちろん光の方である。かといって、充実した学園生活のヴァーチャル・リアリティが単に展開されているのでもない。そうではないだろう。もしも読み手が(至って平凡でしかない)作中の少女や少年の姿を目にしながら眩しいと感じ、憧れるとしたら、それはなぜか。関係性という名のミニマリズムにおいて、登場人物たちの心の動き、とりわけヒロインである古屋卯多子の心の動きが、透き通って見えるほど鮮明でいて、その翳りのないことに読み手の心もまた動かされるからにほかならない。

 事ある毎に頬と耳とを真っ赤にさせる卯多子のナイーヴさ、大変シャイである様子は彼女の心の動きを(作中のレベルでも作外の読み手にも)ダイレクトに伝える。大げさな振る舞いが、かえって彼女を素直で裏表のない存在として際立たせていく。そしてそれが身長が高いこと以外に特徴のないことが特徴であるような卯多子に少女マンガのヒロインに相応しいポジションを与えるという役割を果たしているのである。

 デリケートな卯多子のモノローグは、『Stand Up!』におけるエモーショナルなパートのキーだが、物語そのものを前に進めているのは、隣の席の男子、原田直行の積極性であろう。事実、登場人物たちの相関図は、卯多子よりもむしろ原田を中心にめぐり巡っているところがある。周囲に対する原田のアプローチによって、卯多子の心のなかに動きが現れるのだし、物語にも進展が出てくる。換言するなら、デリケートな卯多子のモノローグとは、要するにエコーなのである。学園生活の一部分であると同時に、学園生活の一場面が自然と引き起こしたエコーなのだと思う。そのエコーの濁りのない響きを通じて、読み手は爽やかな匂いのよく似合う光景に招き入れられる。

・その他山川あいじに関する文章
 『恋々。』について→こちら
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2013年08月17日
 Taedium Vitae

 端的にいえば、スタイルやエチケットとは生き様の問題である。その場面は常にお前の生き様を試しているんだぞ。生き様、おお、なんて暑苦しい言葉だろう。しかし、魂を溶鉱炉にするような熱のなかでしか抽出されないストイックな態度こそが、ヘラヘラとした笑いや浮き足だった気分に釘を刺す。ナアナアには染まらないスタイルやエチケットを徹底させるのではなかったか。と、こうした精神論がしばしば許されるのもハードコアを源泉としたジャンルの魅力であって、ラウドにヴォリュームを固定しながらスリリングなヒート・アップを果たしていくサウンドに自分たちが腑抜けじゃないことを証明しているバンドが好きだよ。手遊びの怠いナンバーは止めろ。

 米フロリダ州出身の4人組、CENTURIESのファースト・アルバムである『TAEDIUM VITAE』は大変はっとさせられる内容だった。超フル回転のエネルギーが正しくヘラヘラとした笑いや浮き足だった気分に釘を刺している。溢れんばかりのガッツにブレーキをかけない。妥協のポイントを一つ認めてしまったなら、それだけでもうサウンドの整合性が失われる。あるいは説得力が著しく低まる。このことを熟知しているがゆえのすぐれたインパクトが全編に渡って支配的なのである。全編に渡ってとはいっても(同系のアーティストの例外に漏れず)わずか20分程度の間隔にすぎないが、間隔の片時ですら息もつけない。完璧な暴風域がすべてを飲み込んでしまうところに真骨頂がある。

 いやまあ、とりわけ風速の激しい5曲目の「GELU」などは、まんま『YOU FAIL ME』期の(もしくはそれ以降の)CONVERGEだし、近年のラインでは同じSOUTHERN LORDからのリリースであるNAILSやBAPTISTSに近い。各パートの機動性は高く、それがカオティックな構成の楽曲をスーパー・チャージさせる一方、スラッジやドゥームのグルーヴを重低音に組み入れていく。当然、オリジナリティの面で判断するのであれば、いくらか遅れをとっていると見なされても仕方はないのだったが、しかし、二番煎じであるようなクオリティのダウンは頑として拒まれている。むしろ、参照すべきものを参照し、その参照がいかにも明確であることの是々非々を受け入れながら自分たちのスタイルやエチケットをこうと決定している印象であって、「こう」と振り切る迷いのなさが作品の精度をにわかには到達できないレベルへまで引っ張っていっているのである。

 純化といってもいい。先に述べた通り、ドゥームやスラッジを彷彿とさせる箇所もあるにはあるのだけれど、リミットを越えたフラストレーションを躊躇いなく叩きつけるそのスピードが具体化しているのは紛れもなく初期衝動だろう。なかでも絶叫の壮絶なヴォーカルとすばらしい手数のドラムに圧倒される。とにかくもう(繰り返しになるが)ヴォーカルとドラムがえらいことになっているのだ。それはまるで厳しい糾弾のようでいて、油断してはいけない。冷めた目をぐるりと覆される。

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2013年08月10日
 聖闘士星矢EPISODE.G 20 (チャンピオンREDコミックス)

 要するに手法としていうところの「対話篇」にほかならないのだ。聖闘士(セイント)による一対一(タイマン)のバトルってやつは。光速域で応酬される拳のラッシュは、雄弁に語られる思想の硬度を可視化させ、互いが互いにとってのアンチテーゼであることを具体的に強調するための演出となっているのであって、どちらが正しいか正しくないかを問うかのような交わりのなかに、ロジックを越えたスペクタクルが生じているのである。そして、それは車田正美のオリジナルのヴァージョンの段階で既に発明されていたものではあったが、岡田芽武の『聖闘士星矢 エピソードG』ではそうした方法論の更なる徹底が試みられているだろう。

 遂に最終決戦である。神王、クロノスは世界の崩壊を望みながら、黄金聖闘士のアイオリアに向かい、こう述べる。〈キレイダネ―― これが―― 人の命の輝きガ―― 陽の当たる場所へ昇ってユクヨ / イイナァ まるで宇宙だネ / キレイだなァ / あの全ての星が砕けて消えたら きっと もっと美シイヨネ / 漆黒の闇は―― アタタかくて悲しくテ…… 安心出来ル―― そンな夜空をボクが全ての命にあげルネ〉というそれはあまりにも孤独であるがゆえに魅惑的な思想なのだし、ポエムだ。

 しかし、これをアイオリアは〈宇宙の星は… もう死んだ星の最期が見えてる / でもその輝きは今でも残っていて見てくれてるンだ / 死んだ者達がそうやって生きる人を見守ってくれるってオレは思う / そうやって希望という光を―― 星々は静かに見せてくれている / 人は一人では無い―― 見えなくても共に歩んだ人は 光となって道を照らしてくれている / オレは… そう信じているんだ――〉と裏返す。つまりはクロノスが言う孤独を否定するがゆえに魅惑的な思想を、ポエムを述べてみせるのだ。絶望にも美しさがある。同様、希望にも美しさがある。だが、どちらか一方を正しいとしなければならないとき、黄金聖闘士の聖衣(クロス)は後者の美しさによってのみ輝くことを選ぶのであった。底の見えない絶望を前にしてさえ、希望をその拳に託し、運命に抗おうとするのである。

 時々、『聖闘士星矢 エピソードG』におけるアイオリアの登場(1巻)を思い出す。テロリストが引き起こした原子力発電所の暴走を食い止めるため、アイオリアは物語に召喚されるのだった。もしも聖闘士がいてくれたなら、どんな天変地異からだって我々は守られるんだぞ。もちろん、聖闘士は実在しない。だが、フィクションの描き出す希望をことごとく儚いとは言うまい。ちっぽけであろうが、世界の一片として、未来に関与すべく、踏ん張ること。様々な迷いを経ながらも、アイオリアの行動理念はこの最終巻(20巻)に至るまで一貫している。いかなる強敵を前にしようと、たとえ神をも向こうに回そうと、地上に光の道が敷かれることを願い、自らもそこに溢れた光の一筋であろうと信じ、戦い続けていたのである。

 果たして彼の想いはクロノスに通じたか。亡兄であるアイオロスにあらためて投げかけた次の言葉は、まだ発展途上である少年のそのエピソードのフィナーレに相応しい。〈兄さン… ボクは翼はないけれど―― 黄金の獅子の鬣を持つ資格のある―― そんな聖闘士になれたかなぁ?〉当然、これは読み手に投げかけられた問いでもあって、なれた、なれたに決まってらあ、と答えてあげたい。

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2013年08月08日
 Circumambulation

 繰り返し、反復することの官能という意味で、シューゲイザーとストーナーは共通している。してはいるが、もちろん、リフとコーラス、ダイナミズムのパターンを見るなら、非なるものであって、各々の熱心なファンからすれば、全然違うよ、であろう。スタイルとしては近距離でありながら、ジャンルとしては遠距離に存在している。か、あるいはジャンルとしては近距離でありながら、スタイルとしては遠距離に存在していると考えられることがしばしば。しかし、それらを発想の同一線上に置き、合併させ、合併させたサウンドを際立った個性にまで持っていっているバンドがある。米テキサス州はダラス出身のトリオ、TRUE WIDOWである。ストーンゲイズ(stonegaze)と称されることもあるそのサウンドは、08年のファースト・アルバム『TRUE WIDOW』で既に確認できたわけだけれど、2011年のセカンド・アルバム『AS HIGH AS THE HIGHEST HEAVENS AND FROM THE CENTER TO THE CIRCUMFERENCE OF THE EARTH』を経、EP『I.N.O.』をリリースした後、エクストリームなトライアルに意欲的なアーティストを数多く抱えるRELAPSE RECORDSへとレーベルを移したサード・アルバム『CIRCUMAMBULATION』では、スロウコアをも同期しうる基本の路線はそのまま、演奏のアンサンブルと楽曲の構成、ドローンの効果を適度にシェイプアップし、ポップ・ソングとしての強度を高めることで、相変わらず以上の深い憂鬱を再現している。当然、ここでいう憂鬱とは最高の褒め言葉にほかならない。

 近年、ストーナーと呼ばれるバンドの多くに近しく、TRUE WIDOWも音響の傾向としては非常にクラシックである。ただし、それが他と大きく違っているのは60年代や70年代のアーティストをロール・モデルにレトロスペクティヴなスタイルを発掘しているのではない。そうではなく、モダンなテクノロジーでテクスチャーを加工しているとは一切感じさせない。飾りっ気のないアプローチとアンプの出力によって、全体のイメージが決定されるかのような仕上がりに、あくまでも軸足が置かれているということだ。オールドスクールのハード・ロックを彷彿とさせるパートはほとんどない。かわりにシューゲイザーやスロウコアの技法を流用してきたサッドネスが土台となっているのは既に述べた通り。煙幕と幻想のなかに意識を彷徨わせる。陶酔の強固なサウンドを為しているのであった。

 ああ、〈Wait〉〈Yes〉〈Yeah〉〈Gateway〉と韻を踏んでいくフレーズがNIRVANAやALICE IN CHAINSのそれを思わせる。つまりはグランジのマナーを引っ張ってき、メロディのレベルで共有した1曲目の「CREEPER」に、『CIRCUMAMBULATION』の醍醐味、方向性は集約されている。描かれた情景は霞んでおり、色彩の妖しさにTRUE WIDOWならではの魅力が宿されている一方、情景を収めたフレーム自体はこれまでになかったほどに輪郭を明瞭にしている。ポップ・ソングとしての強度が高まっているというのは、正しくこの点において、であるし、他のナンバーについても同様のことが言える。2曲目の「S:H:S」でさえ、ドゥームの成分が濃いめに玄人好みのしそうなナンバーとなっているけれど、以前までと比べ、一音一音の並びはずいぶんと整理されており、クリアーになっている。シューゲイザーの系列によくある男女がともにヴォーカルを取るタイプのバンドだが、女性のヴォーカルがメインにきている3曲目の「Four Teeth」は、夜のとばりが優しく降りるのに似ている。キャッチーでありながら、バックの演奏は歪んだグルーヴを織り成し、覗かれた灰色の世界にしっかりとした足跡を残していく。もしもシューゲイザーのあのアーティストやあのアーティストがモダンなテクノロジーやダンス・ミュージックとは無縁なディスコグラフィを築き上げていたら、と想像させるようなIFがある。6曲目の「I:M:O」などは、インストゥルメンタルであるにもかかわらず、いや、トリオであるがゆえのアンサンブルが呼吸のひと息すら具体化させているかのよう。そのひと息から漏れた憂いが美しい。

 8曲目の「LUNGR」は大変立派なエンディングである。ひとわたりアルバムをプレイバックさせるのに相応しい。男女のヴォーカルが入れ替わりしつつ、繰り返し、反復することの官能を大々的にしている。軋み続けたドローンの向こうには底のない寂しさが上映されているみたいでもある。なんてパセティックなんだろうと思う。深い憂鬱なんだろう。クレジットを見ると2012年の11月にレコーディングされた作品であることがわかる。たぶん、ここにはその冬の冷たい匂いが消えず、生々しく漂う。
 
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2013年08月01日
 NHK ラジオ 英語で読む村上春樹 2013年 08月号 [雑誌]

 戌井昭人の『流れ熊』は『NHKラジオテキスト 英語で読む村上春樹 世界のなかの日本文学』の8月号に掲載された。創作短編である。この小説が同テキストのなかでどのような役割を果たしているのかは、「本誌の使い方」という最初の項に「世界的作家となった村上春樹の作品世界を、あらたな目で読み直そうという連載企画」であって、その「読み直しのため」に「村上春樹作品にトリビュートを捧げる気鋭の若手作家たちが、番組で読む村上作品とゆるやかなつながりを保ちながら、独自の作品を構築していきます」と述べられている。ちなみに4月号(創刊号)では淺川継太が『通り抜ける』という作品で。5月号では谷崎由依が『鉄塔のある町で』という作品で。6月号では中山智幸が『どうしてパレード』という作品で。7月号では羽田圭介が『みせない』という作品でもって登場しているのだったが、必ずしも村上春樹のフォロワーとは判じきれない作風の人も少なくはないし、実際、どのあたりが村上春樹へのオマージュなんだろう、このあたりはそうかもしれないけれど、でもこのあたりはまったく違うよな、全然違うよな、と思わされるものもあるにはある。しかしまあ、それが企画自体の「狙い」なのだということにしておきたい。

 したがってやはり、戌井の『流れ熊』も、どのあたりが村上春樹へのオマージュなんだろう、という態度で接するべき作品となっている。話の筋は非常に素朴である。主人公の〈わたし〉は東京の電気湯沸器を製造している会社で外回りの営業をしていた人物だ。大学を卒業して以後、十年間勤めていたその会社を辞めたのは、ある日の昼休みにデパートの屋上で弁当を食べている最中、意識を失い、倒れてしまったためであった。医者は心因的なものだと診断し、環境を変えた方が良いと勧められた。その〈二ヶ月後、わたしは会社を辞めた〉のだった。それから〈東北地方を旅して、気に入った町があったら、そこに長く滞在しようと思っていた〉ところ、日本海側のとある港町に辿り着いた。それは秋の頃のことであり、今はもう春。冬を通し、行きつけになった酒場で知り合いのツネさんから「今日、熊を見たべ」と聞く。ツネさんは舟下りの船頭をしている六十過ぎのおっさんで、彼に誘われた〈わたし〉は川上まで熊を見に行くこととなる。それで、熊を見たからどうした、という感慨の大きな小説ではない。熊を見た。餌にさくらんぼをやった。さくらんぼに夢中で熊が川に落ちた。翌日、河口のゴルフ場に熊が現れたと聞く。それは昨日のあの熊が流れてきたのだと思う。町中が騒ぎになり、捕まった熊が山に放たれる。単にそれだけのことが示されているにすぎない。

 村上春樹の『象の消滅(THE ELEPHANT VANISHES)』を扱った同テキストの8月号における「村上文学へのアプローチ」という項で、沼野充義が「村上春樹の小説には、様々な動物がしばしば登場します」と指摘しており、「こういった形で登場する動物たちは、普通のリアリズム小説に登場する現実の動物とは明らかに違いますが、同時に童話やおとぎ話に登場するような、人間と同じように話をして行動をするキャラクターにまではなっていません。しかし、奇妙なことに動物が人間の特性を帯びる反面、人間が動物の特性を持ったりもして、動物と人間がいわば自由に相互浸透するような半メルヘン的小説空間を作っているように思われます」といっているが、戌井昭人の『流れ熊』で、熊の担っている役割(熊を対象とした描写)は、村上春樹のそれに比べ、というよりも村上のそれとは大分異なっていて、純粋にリアリズムを基礎としているように思われる。それはつまり、メタファーでも暗喩でも隠喩でもいいのだけれど、比喩としての効果が極めて低い(おそらくは意図的に低く見積もってある)ということにほかならない。この点に関して、たとえば川上弘美の『神様』や舞城王太郎の『熊の場所』など、熊をイメージした小説として知られるそれらと『流れ熊』とを並べてみても明らかだろう。

 無論、『流れ熊』の熊に、何かしらの形で語り手である〈わたし〉の心情が投影されているのは疑いようがない。だが、それはあくまでもリアリズムを基礎とした作品の補助線として引かれていく。高度な資本システムをドロップアウトしたという意味で、〈わたし〉は村上春樹が用いる多くの主人公と共通しているものの、その眼差しはリアリズムであることの認識にきつく囚われている。そして、かような条件こそが、ぽつねんとした寂しさを〈わたし〉の内側から浮かび上がらせて、こちらに届かせてくるのである。
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