ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年07月28日
 Fairy Dirt No.5 <初回限定盤>

 近年のソロ・ワークでグランジ回帰(転向?)を果たしたLUNA SEAのINORANが、BUSH以降の英産グランジでは最もビッグ・ネームとなったFEEDERのタカ・ヒロセと合流、結成したのが、このMUDDY APESである。ヴォーカルは8ottoのマエノソノ・マサキが務めており(ドラムは別の人間がクレジットされている)、FEEDERのサポート・メンバーでもあるディーン・テディがギターとして参加しているのだったが、確かに。こうした足し算から想起されるような音楽性にそのサウンドはなっていると思う。

 リフのパターン、ギターのアプローチはINORANのソロ・ワークを引き継いでいて、ぶりぶりとしたベースの触感はFEEDERのいくつかの楽曲に通じているし、ヴォーカルのムードには00年代のロックン・ロール・リヴァイヴァル世代と共通したセクシーさがある。本質はやはりグランジなのだろうけれど、ロール・モデルとなっているのはQUEENS OF THE STONE AGEであったり、QUEENS OF THE STONE AGEのジョシュ・オム(ジョシュ・ホーミ)がプロデュースした『HUMBUG』期のARCTIC MONKEYSだったりするのではないか。後者に関してはバンド名にも類似が見られる次第である。

 正直なところ、グランジ化したハード・ロックあるいはハード・ロック化したグランジであるようなINORANの『TEARDROP』や『DIVE YOUTH, SONIK DIVE』に大きく欠けていたのはフックの強さであった。残念ながら。FAKE?やTourbillonにおけるキャッチーな面が他のメンバーによっていたことが明らかとなっていた。グルーヴは十分な上、演奏はかっこいいのにね、であろう。このことを弱点とするなら、それはしかしMUDDY APESでも2012年にリリースされたファースト・アルバム『CRUSH IT』の時点では払拭されていなかったといえる。FEEDERのあのポップなフィーリングや8ottoのあの素晴らしいメリハリが単純には持ち込まれていなかったのもある。

 もちろん、アーティストのサイドがそれを望んではいないのかもしれない。が、こちらとしては、もうちょっとキャッチーであったらなあ、という感想を抱かざるをえなかったのだ。だが、まさか、自分の願いが届いたわけではあるまいよ。セカンド・アルバムの『FAIRY DIRT NO.5』はもっとオープンな作品となった。つまりは総体的に段階的にフックの強さが増している。

 同一のクリシェ、コーラスのリピートを前面化したスタイルのサウンドにとって、やはりそのコーラスが担う役割はでかい。英産グランジのキー・パーソンであるクリス・シェルダン(クリス・シェルドン)にミックスを任せた1曲目の「NEW SUNDAY」では、『CRUSH IT』においてはいくらか控えめであったクリシェへのアプローチが全開になっている。ばかりか、録音のレベルでヴォーカルのポジションが以前と異なっているのが明らかであろう。結果、日本語詞には聞こえない日本語詞と英語詞の合体が一層不思議でいて、鮮やかだ。〈笑み Wants You 笑み Wants You〉というコーラスの「笑み」は、たとえば人名の「エイミー」のようでもあり、空耳で届いてくる「Any」のようでも「Every」のようでもある。

 ベースを軸に織り成されていくグルーヴは分厚い。グランジはもとより、ストーナーやデザート・ロックにも似たそのとぐろのなかへ、ギターは一筋のきらめきを差し込む。ヘヴィ路線の楽曲を陽性に引っ張り上げているのは、間違いなく、ヴォーカルとギターのパートである。これは続く2曲目の「KIZUNA DRIVE」の、タイトル通りのドライヴの基礎となって、よりはっきりさせられる。3曲目の「BEAUTIFUL DRUNK」や6曲目の「PEEP SHOW」も同様、ダンサブルであることとエモーショナルであることの並列に、ああ、これがもしかしたら完成形のMUDDY APESか、と思わされる。このバンドならではの妙味がある。

 8ottoの「GENERATION 888」を原曲にした9曲目の「GENERATION 555」は、線は太くなったものの、パンキッシュな衝動の薄れたアレンジに評価が分かれるだろう。しかしながら、その線の太さ、それこそが『CRUSH IT』と『FAIRY DIRT NO.5』とをまたぎ、繋がっている本質でもあるのだ。

 バンドのFacebook→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2013)
2013年07月27日
 ReReハロ 1 (マーガレットコミックス)

 海野つなみの『逃げるは恥だが役に立つ』と南塔子の『ReReハロ(リリハロ)』は序盤のプロットが非常によく似ている。もちろん、登場人物の世代も作品の本質も支持層もその後の展開もまったく異なっているのだから、単なるシンクロニシティでしかないし、まあ女性向けのマンガに定型的なパターンといってしまえばそれまでの話なのだったが、つまりは次のようなものである。

 金銭的には裕福な一人暮らしをしている男性のもとへ、成り行きからハウスキーパーとして訪れることになったヒロインに対し、雇い主であるその男性の態度はいくらか硬直的であった。家事全般を的確にこなしていくヒロインの能力を高くは買うが、それは契約上当然のことにすぎない。しかし、ある日、男性が体調を崩してしまう。熱を出し、弱まっているところ、ヒロインが看病に訪れるのである。あれこれ世話を焼き、気遣ってくれる彼女の姿を見、男性はついつい態度を軟化させるのだった。

 こうしたプロットを受け、海野ならではの(すぐれた批評性と換言してもいいような)ユーモアを交えながら、結婚という制度、現代的な成人のリアリズムを解体、再構成しているのが『逃げるは恥だが役に立つ』だといえる。他方、『ReReハロ』の場合、主体はあくまでも未成年であって、ティーンエイジャーのラヴ・ロマンスこそが最大のテーマであろう。無論、南のきらきらとした作風もそこで生きてくる。

 序盤のプロットは先に述べた通りである。便利屋を営む父親がピンチのため、かわりに依頼を引き受けたヒロインの早川リリコは、そこで同い年の高校生、金持ちの息子である周防湊に出会う。最初の印象は必ずしもよくなかった二人だったけれど、次第に距離の縮まるその様子がラヴ・ロマンスに落とし込まれている。リッチに過ごしている坊ちゃんは正しく王子様の立場にあり、貧乏暮らしをしているヒロインのヴァイタリティが彼の心を開かせるというのも定型的なパターンではある。

 だが、いいんだよな。少なくとも1巻の段階では、リリコと湊の、カップルとは見なし難く、まだ恋愛感情とは断定しえない、そういう妙ちきりんな関係がとてもいい。普通だったらエモーションが引き出されそうな場面、寸前に息継ぎの「間」を挟み、その「間」を通じることで、やさしいコメディに終始する二人のコミュニケーションに思わずニッコリさせられるのだ。

 饒舌にモノを語るのではなく、読み手の意識をリリコのリアクションに誘導し、同一化させていくかのような湊の視線、それが作中のおいては重要な効果をなしている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年07月20日
 爆音伝説カブラギ(7) (少年マガジンコミックス)

 おオオ。まさかのクライマックスっぷりに驚きを禁じえない。驚くほどのまさかとはつまり、佐木飛朗斗が原作を担うマンガでは、同時多発的な物語の拡張が長編としてのまとまりを飲み込んでしまうことがしばしばであって、本来は並行であるはずの時間帯が各々の速度でとりとめもなく引き延ばされた結果、あれ、メインのエピソードは一体どれだったんだろう、あらら、全体を総括するようなクライマックスがこないまま作品が終わっちゃったよ、というふうになるのが通常なのだったが、『爆音伝説カブラギ』はその、クライマックスを欠くことこそが佐木飛朗斗であるような流儀を鮮やかに返上している。佐木ががんばったのか。作画の東直輝がえらかったのか。この7巻に至り、おお、これぞ少年マンガぞ、と思わされるぐらいの盛り上がりを導き出しているのである。もちろん、筋金入りの佐木飛朗斗マニアからすれば、普通の少年マンガに堕したとか日和ったとか言われるかもしれない(いや、さすがにそれはないかもしれない)が、いずれにせよ、こんなにもテンションの高まる展開をまったくシカトすることはできやしねえんだ。

 ほとんど一本道化されたストーリーは、クライマックスの最中、とある登場人物が発した次の言葉によって正しく要約されているといっていい。そう、本来は対立的であった〈“朧童幽霊(ロードスペクター)”の為に“爆音小僧”が“獏羅天”と一緒に“魍魎”と大乱闘やってるなんてよ‥!!〉と。すなわち、てんでばらばらに描かれてきた複数の因縁がここにきてついに一箇所の総力戦へと整合されているのである。主人公が多くの仲間(ライヴァル)を得ながら最大の難敵(ライヴァル)に立ち向かうという展開は、やはり少年マンガならではのマナーを思わせる。前巻(6巻)のヒキに予告されていた“魍魎”と“朧童幽霊”の正面衝突は、圧倒的な数による“魍魎”の前に“朧童幽霊”があっけなく蹴散らされ、“朧童幽霊”の後方から“爆音小僧”が合流してくるのだったが、“魍魎”は“爆音小僧”をも歯牙にはかけない。そこにB・R・T(元“獏羅天”)の残党が乱入してき、彼らに急襲された“爆音小僧”は“魍魎”のトップからさらに引き離されてしまう。このまま“爆音小僧”は“朧童幽霊”とともに敗退するのか。正念場である。あわや危機的状況に陥った“爆音小僧”に意外な助け船が。現“獏羅天”の“三鬼龍”がB・R・Tの残党に対して鉄槌を下しにきたのだった。

 阿丸のピンチに駆けつけた“三鬼龍”かっこいい、であろう。彼らをドーピングにし、“爆音小僧”の体勢を立て直す多美牡も富弥也もかっこいいよな、である。“朧童幽霊”の尊も含め、これまで別個に並べられてきた因縁が、その点と点とが、一つに結びついていくという美しいシークエンスが、血なまぐさいヴァイオレンスを通じて、まざまざと浮かび上がっている。もちろん、中核に存在しているのは主人公である阿丸と“魍魎”の頂上である九曜の対照にほかならない。年上の幼馴染み、九曜のことを阿丸は“キリ”ちゃんと呼ぶ。霧澄が、九曜幸叢のかつての名字だからだ。昔、霧澄幸叢は鏑木阿丸と無邪気に約束しただろう。〈オーシ! 目指すは無敵だ! 超無敵な♪♪〉と。だが、九曜がどれだけ巨大な帝国に君臨していようと、それを前にした阿丸は〈“強力な単車(マシン)”と“超デケエ族”の頭領ン成って‥‥ “他の族”は無視(シカト)こいて踏み潰す‥ そんで“超無敵”に成れたんかよ?“キリ”ちゃん‥!!〉という疑問を突きつけずにはいられない。少なくとも阿丸の目に今の九曜は正しいとは映っていないのだ。

 多少の牽強付会を許されるのであれば、巨大な帝国の頭領である九曜は現代アメリカの比喩として解釈できる。このとき、先に引いた阿丸の主張はアメリカ主導のグローバリゼーションに向けられたアンチテーゼになりうるのではないか。過去、所十三と組んだ『疾風伝説 特攻の拓』や桑原真也と組んだ『R-16』、あるいは東直輝との前々作にあたる『外天の夏』において、比較的明らかにアメリカをはじめとした外国と日本との綱引きを登場人物たちのバック・グラウンドに設定していた佐木飛朗斗である。とりわけ『R-16』と『外天の夏』では、グローバリゼーションの権力や資本に固執した大人たちの姿が内容それ自体に暗い影をもたらしていたわけだけれど、『爆音伝説カブラギ』には、あまり大人は出てこない。出てきたとしても重要な役割を負ってはいない。そのかわり、子供たち、不良少年たちの寓話であるような側面が濃くなっていて、むしろ現実の諸問題がアレゴリーであることの強さをおおもとに引き寄せられている印象だ。もちろん、大人が出てくる出てこないの違いは掲載がヤング誌か少年誌かの判断によっているのだろう。

 少年誌のメソッドで『爆音伝説カブラギ』が描かれている以上、それが少年マンガに如実なカタルシスを全開にしていくのは必至であった。警察を斥け、一般車両を巻き込み、国道を堂々と制圧する“魍魎”のパレードは、当然のこと、ありえない。ありえないし、リアリティがないと揶揄されるのとは位相の異なったリアリティを備えている。この場合のリアリティとは、要するに〈“強力な単車(マシン)”と“超デケエ族”の頭領ン成って‥‥ “他の族”は無視(シカト)こいて踏み潰す‥ そんで“超無敵”に成れたんかよ?“キリ”ちゃん‥!!〉という疑問を阿丸から引き出すのに相応しい説得性にほかならない。「超無敵」とは、強権の発動を指していたのか。自分のルールによって他を圧倒することであったのか。阿丸がよく知る“キリ”ちゃんならこう言っていた。〈数集めて 年下狙って ヤバくなんと逃げちまう‥ ンなクソヤロウ共に負ける訳いかねーだろーが♪♪〉と。しかしその「クソヤロウ」と今の“キリ”ちゃんはどこがどう違うのか。こうした疑問が阿丸を巨大な帝国に立ち向かわせているのであって、以下のような二の句を継がせていく。〈爆音の十六代目が“クソヤロウ”に負ける訳にはいかねーからよ‥!!〉

 確かに、九曜には九曜の苦悩と思惑があるには違いない。天目駆と九曜礼奈の死が彼にいかなる影響を及ぼしているのかはわからない。が、決して不幸と悲劇を望んでいるわけではあるまい。にもかかわらず、九曜と“魍魎”が彼らに満たないマイノリティを容赦なく遮断し、それが阿丸の目に正しいと映らないのはなぜか。まるで解答はそこにはないかのように“魍魎”VS“爆音小僧”“朧童幽霊”“獏羅天”の総力戦は、武力の衝突から単車のスピード・レースへとステージを移していく。九曜のボルドールIIを先頭に。“魍魎”の親衛隊、蝶野の“Z650ザッパー”が。遊撃隊、不破の“XJ400(ペケジュー)”が。阿丸のあの“真紅のCB400F(フォア)”が。多美牡の“Z400FX”が。阿丸のために絵真という少女が陸送してきたZ IIを借り受けた富弥也が。兄である駆の形見“火焔模様(フレアライン)のZX-10”に乗った尊が。それら因縁のマシーンが象徴している通り、各々が負った因縁に決着をつけるべく、加速、団子状態のなかを一気に抜け出すのである。

 おオオ。なんというクライマックスっぷりだ。早々にリタイアしたかと思われていた“蛇破美會”大曽根の復活や悪化していく尊の傷口なども、まだまだ油断のならない要素となっている。独特の絵柄をキープしつつ、所十三や桑原真也の作風をハイブリッドした東直輝も見事である。本題からは逸れるが、コミックスの巻末に連載されている『変格不条理ミステリ! ゴスロリ探偵 巻島亜芽沙の事件簿』も毎回、ばからしくていいんだよな。ニコニコ動画調のコメントを導入したギャグ・マンガはほかにもあるけれど、それが佐木飛朗斗の過剰な様式美とメロドラマにぶっ込まれているところに、タブー破りとも似た痛快さがある。痛快さ、そう、デビュー当初の東には希薄であった痛快さが『爆音伝説カブラギ』の本編にもある。それがいつどこで身についたものか。一概にはわからない。とはいえ、二作、三作と続いてきた佐木とのコンビはターニング・ポイントとして間違いなく無視できないだろう。事実、『爆音伝説カブラギ』では、佐木のキャリアでも稀であるようなクライマックスを具体的なレベルでコマに落とし込み、これぞ少年マンガぞ、と思わされるぐらいの盛り上がりを導き出しているというのは前述した。

 6巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』(漫画・所十三)
  1巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年07月18日
 新潮 2013年 08月号 [雑誌]

 『新潮』8月号掲載。佐藤友哉の『ベッドタウン・マーダーケース』は、あれ、この題名に見覚えあるな、と思っていたら、ああ、そうか、以前発表された『ベッドサイド・マーダーケース』の極めて直接的な続編になっているのだった。前作の語り手=主人公とコンビを組んでいた男、六条がここでの語り手=主人公であり、本作のなかで〈おれと電卓は三年間にもおよぶ憂鬱な大冒険のすえ、『連続妊婦首切り殺人事件』の解決まで、あと一歩というところにせまった〉と語られ、しかしそれは〈電卓の物語なので、ここではくわしくは語らないが、そういう『枕元の物語(ベッドサイド・マーダーケース)』を、かつて体験した〉とされるそこから十三年後、『連続妊婦首切り殺人事件』の真犯人は、より大規模でいて無差別な殺戮を仕掛けはじめていた。これに対し、前作の語り手=主人公と分かれたあとの六条が『被害者の会』と名付けれらた組織とともにレジストしようとするその苦闘がつまりは『ベッドサイド・マーダーケース』にあたる。

 題名の「マーダーケース」が「ベッドサイド」から「ベッドタウン」へとスケール・アップしている通り、作中の事件も『連続妊婦首切り殺人事件』という特定少数を狙ったものを遙かに上回る。一個の町を崩壊させるほどの『ジェノサイド』に発展しているのだったが、物語それ自体はあくまでも語り手=主人公である〈おれ〉に寄り添っている。この点において『ベッドサイド・マーダーケース』と『ベッドタウン・マーダーケース』の基調に決定的な違いはないと思う。無論、荒唐無稽なフィクションであり、ノワールでありながら、一種の災害小説であって、原発小説の亜流であるような背景を持っているのも同様だ。あらましを取り出すのであれば、大きく二つのレーンがある。二つのレーンが、パラレルに進行し、ときには交差することで、『ベッドタウン・マーダーケース』とは一体何事なのかが明かされてく。二つのレーンのうち、一つは父子の再会と妻子を殺した人間への報復という、要するにプライヴェートな側面を負っている。もう一つのレーンは抑圧的なロジックによって構成されている(のではないかと信じられている)この世界の再編という、著しくプライヴェートをオーヴァーした目的に沿っている。運命(あるいは遺伝や環境)に束縛された者の個人的なテロルは、初期の作者にも見られたモチーフであるし、徹底管理された社会を意味する『文明更新(アップデート)』や『ジェノサイド』による不穏な成果は、伊藤計劃の『虐殺器官』や『ハーモニー』を通過してしまった読み手の多くにとっていささかアブストラクトであるかもしれない。したがって、目を引くのはやはり語り手=主人公である〈おれ〉の情緒にほかならず、〈おれ〉の情緒の深奥に集約されていくような物語それ自体になるだろう。

 一言でいうなら、エモい。作中の歳月を踏まえるなら、その〈おれ〉である六条はよっぽどのおっさんになるのだけれど、表向きはシニカルであったり、達観を気取ろうとする口ぶりが潜在的にナイーヴであることの翻しであるよう思われてくるためだ。そしてそれはたぶん、ハードボイルドや冒険小説の主人公が、ニヒルな態度の裏側に淡いロマンティシズムを隠し持っているのとは本質において異なる。行為のレベルでは同様であろうと、そのようなロマンティシズムに駆動されているのかもしれない自分自身を六条ははっきり蔑視しているのである。ロマンティシズムばかりではない。結局のところ、彼は何も信じていない。自分の傍に置かれた人間も体験も。何も信じられないでいるのである。この何も信じないがゆえにありとあらゆる表明にノーを突きつけることができるという態度は、必ずしも根拠を必要としないでいられる。非常に子供じみてもいる。この意味でナイーヴと評するに相応しいのだったが、逆説的に六条の表明も何ら説得性を有しない。決して誰にも届かない。そうした人物が家庭を築くというのがそもそもの誤りであり、こうした禍根はしばしば亡き妻と寝室の幻影となって彼を糾弾する。

 六条はこの世界に見捨てられた人間である。だが、彼のなかには自分こそがこの世界を見捨てた人間なのではないかという錯覚がある。六条が罪悪感と呼ぶもの、それはもしかしたら単なる快不快の揺らぎでしかないし、とどのつまりは錯覚を正当化すべく、謎めいた陰謀論に関わろうとしているにすぎない。クライマックスにさしかかり、とある人物に「この世はあなたの意志とは無関係に動いていますから」と言われた六条は「わかっちゃいるさ。そうだとしても、関与したいんだよ。だまって見ていることはできないんだよ」と反論する。しかし、結末における六条の独白を見られたい。ああ、〈真相に達してもなお、おれはこのざまだった。追い求めていたものを見つけても、世界の仕組みとやらを垣間見ても、一歩もすすんでいないように感じるのはなぜか。すべてが終わったというのに、明日も世界が敵でいるような気がするのはなぜか〉と述べられるそれは、やはり、非常に、エモい。設定の規模では、人類全体を襲った悲劇を『ベッドタウン・マーダーケース』を題材としている。そこから社会的なテーマを見出してもよい。とはいえ、物語の単位で考えるなら、あくまでも悲劇は個人としての〈おれ〉によっている。

 『ベッドサイド・マーダーケース』について→こちら

・その他佐藤友哉に関する文章
 『今まで通り』について→こちら
 『333のテッペン』について→こちら
 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2013)
2013年07月10日
 ワルツのお時間(1) (講談社コミックスなかよし)

 社交ダンス・マンガ・ブームはあるのか。あったのか。少なくともここ最近の講談社にはそのような動きがあったのではないか。たとえば、竹内友の『ボールルームへようこそ』が少年マンガのジャンルで、ヤマシタトモコの『BUTTER!!!』が(先般完結してしまったが)青年マンガのジャンルで、各々注目を集めていたわけだけれど、さあそこに少女マンガのジャンルから加わっていこうとしているのが、おそらくは安藤なつみの『ワルツのお時間』である。

 同じく社交ダンス(ソシアル・ダンス、ボールルーム・ダンス)を題材にしながら、少年性のガンバリズムを集中的に描いているのが『ボールルームへようこそ』であり、思春期特有の自意識やディス・コミュニケーションを回路としていたのが『BUTTER!!!』であったとすれば、やはり少女マンガならではのときめき、つまりはラヴ・ロマンスとビルドゥングス・ロマンの交差であるようなそれをきらきら光らせているのが『ワルツのお時間』だと、少なくともこの1巻を読むかぎりはいえよう。

 ダンス教室の息子だが、とあるいきさつから生徒相手の営業でしか踊らなくなってしまった南たんご。彼を再び競技ダンスに向かわせたいのが、今やjr.界のスターとなった須藤勇誠と白石菫である。三人は幼馴染みであった。勇誠と菫の期待にもかかわらず、たんごは決して重い腰をあげようとしない。しかし同じ中学校のクラスメイトである牧村姫愛(ひめ)がダンス教室にやってき、熱心な彼女と関わるうちに心境の変化を覚えはじめる。地味でぽっちゃりとしているため、異性にも同性にも低く見られていた姫愛もまた、たんごとの出会いやダンスを通じ、次第に自分の魅力を開花させていくのだった。

 内面に傷を負った王子様とシンデレラ・タイプのヒロインが互いに互いを必要不可欠としていくという内容は、正しく少女マンガの様式であるし、どうして自分がその人を選んだのか、どうして自分はその人に選ばれたのかというテーマは、社交ダンスにおけるパートナーの形式によって今後確認されるのだろうと思う。実際、序盤のストーリーと次のようなモノローグは、姫愛とたんごの未来を占う上で非常に暗示的だ。〈最高のパートナーに出会うと / 手をとった瞬間わかるんだって / まるで運命の人のように――…〉

 姫愛にとってたんごは、文字通り、導き手である。美しい名前には亡母の願いがかけられている。だが、美しくもない自分には不釣り合いだと強く実感せざるをえない14歳の少女が、王子様の差し出した手に導かれ、それに相応しいだけの輝きを備えたい。消極性のかわりに積極性を持たせる少年の存在は少女のなかで「魔法使いみたいにすごい人」だと喩えられることとなる。その魔法が少女に「お姫さま」になれることを信じさせるのだ。

 これまでのところ、社交ダンスのモチーフはあくまでも王子様の魔法と二重写しとなっている。だが、王子様であるたんごが競技ダンスに復帰したとき、以上の枠組みはいくらか違うものとなるに違いない。姫愛の主観から見られている社交ダンスの魅力ばかりではなく、たんごの主観から見られる社交ダンスの魅力を自然と含み、たんごにとって姫愛がどのような存在なのかも重要なパートとなっていかなければならないためである。

・その他安藤なつみに関する文章
 『ARISA』
  11巻・12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年07月09日
 サンケンロック 19 (ヤングキングコミックス)

 2012年、村上春樹が朝日新聞に発表したエッセイに「魂の行き来する道筋」というのがある。おそらく、それを国内ではじめて引用したマンガがBoichiの『サンケンロック』になる。引用は18巻にある。日本のヤクザと韓国の政界の巨大な権力が拮抗するなか、韓国でギャングのボスとなった日本人の主人公であるケン(北野堅)が、移民であるがゆえに韓国の下層に追いやられた暗殺者のバンフムと、ワケありの死闘を繰り広げるそこで引用されている。日中韓の関係を指した件のエッセイを日本で活躍する韓国人の作者が引用していることの意図は、もちろん、十分に汲まれるべきものであろうが、おいておく。それよりむしろ、作品の内部において、引用である「しかし魂が行き来する道筋を塞いでしまってはならない」という一節が喚起している展開でありテーマの方に目を向けられたいと思うからである。

 村上の「魂の行き来する道筋」に呼応する疑問=エモーションを作者はケンに次のように言わせている。〈この世の中の大体の人たちは良い人で善良だ / 守らないといけないと習った事を守りたがるし… 真実を追究する / そんな良い人々が… どうして互いに憎悪しながら暴力を擁護する事になるんだろう? どうして国籍が違うという理由だけで暴力を振るわれないとならない? 苦しんで生き続けて / その上 死んでいったりしないといけない? どうして… 国籍が同じという理由だけで犯罪者が保護され / その上 堂々とできる? 一人の良い人が悪魔になっていったのは… 何人かの悪党のせいなのか? じゃなければ―― 国家がギャングだからなのか…? バンフム 国家の正体がギャングだから… おまえが俺を憎悪しているのか? 俺らが互いに戦って… 互いの魂を遮断し合っているのか…!? 〉

 ギャングとは権力のことである。しかし、権力とは国家のことである。であるなら、国家こそがギャングなのではないか。ギャングを悪だとするのであれば、国家もまた悪なのではないか。ケンの疑問=エモーションは極めて素朴に発せられている。だがそれが、韓国とベトナムのミックスであり、ミックスであるがために虐げられてきたバンフムに向けられているとき、カテゴリーの差別がいかなる暴力を生じさせるか、その成果を純正の国家やギャングは不可避に備えていることをも同時に述べるものとなっていく。バンフムとケンの死闘は、さながらジョン・レノンがベトナム戦争の時代に歌った「イマジン」では変えられなかったこの世界のパートを剥き出しにし、あらためて権力と暴力とが、国家とギャングとが、本来的には区分されていなければならないそれらが、行為のレベルでは一致してしまうことの危うさを自ずから背負っているかのようでもある。

 それにしても、あの出来の悪いギャグみたいだった芸能界編は何だったのだろうか。不動産激闘編に入ってよりこちら、すさまじくシリアスな内容に『サンケンロック』はなっている。女性の胸や尻がたくさんのスケベを描きたいという作者の欲望は、鍛えられた肉体のマチスモと熾烈なバトルを描くための技術に変換され、いやまあヒロインであるユミンの陵辱シーンやらノーパン戦士とノーブラ戦士の謎の矜持やらあるにはあったが、物語の本筋はあくまでも不屈であるような意志が絶望や不幸をいかに凌駕するかであり、緊張の張り詰めた作画にテンションの高さを上乗せすることで、ガッツとガッツのぶつかり合いが、文字通り、他に類を見ないクオリティで具象化されていたのであった。そして、この19巻では、17、18巻と延々描かれてきたケンとバンフムの死闘がついに決着する。ああ、そのクライマックスたるや。ここ最近のマンガで一番に認めたいぐらいのアクションであろう。

 女性コマンドーの襲撃。ケンとバンフム、ユミンの三位一体。場面それ自体の急変と同じくして、登場人物たちの関係が大きく転回しているのがわかる。ケンの訴えがバンフムに影響を及ぼしたように、バンフムの訴えもケンに多くの影響を与えている。このことはしかし、韓国のギャングのボスであるケンと日本のヤクザの娘であるユミンのラヴ・ロマンスに対しても少なからぬ影響を持ちえていくのだろう。『サンケンロック』とは、そもそもソウルに渡ったヒロインを主人公が日本から追いかけていったことをはじまりとしていたのであって、少年だった主人公は韓国のアンダーグラウンドと深く関わる最中で青年への脱皮を遂げる。ヤクザの娘でありながら韓国で警察官となったヒロインもしかり。少女の立場をすでに終えている。国境や国籍を越えた場所で、当人の思惑をよそに、彼らは幾多の試練を、今までも前にしてきたし、これからも前にしていかなければならない。

・その他Boichに関する文章
 『ラキア』5巻(原作・矢島正雄)について→こちら
 『HOTEL』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)
2013年07月04日
 静かなるドン(108)(完) (マンサンコミックス)

 新田たつおの『静かなるドン』は、長いあいだ、コミックスのオビに累計4400万部とアピールされていた。実際、えらい数字ではあるのだが、どれだけ巻数を増やしてもそれが更新されることはなかった。ああ、このクラスのマンガでも(あるいはタイトルだけで内容を知っている気になってしまうようなこのクラスのマンガだからこそ)売り上げを大きく伸ばすのは難しいんだな、と思わされた。しかし、ついに最終巻のオビで「累計4500万部突破!」と相成った。最終巻というのはつまり108巻のことで、108という数字はもちろん除夜の鐘の音に相応しているわけだけれど、まあ、そこまでの含みがあるのかどうかはともかくとしても、まるですべての煩悩が遠く過ぎ去ったみたいに穏やかでいて静謐なラストを迎えるだなんて。本当に誰が予想したかよ。ギャグであること、シリアスであること、それからアクロバティックな展開を並立させながら、『静かなるドン』は一組のカップルの数奇な運命を、いや、大団円というのはとはまたちょっと異なる。感動とも似て非なる。けれど、確実に素晴らしく素晴らしい光明のなかへと到着させたのである。

 鬼州組の海腐が退き、白藤龍馬が台頭した当初、ああ、近藤静也はこいつと最終決戦を繰り広げるのだな、と予感させたよね。もしくは物語のスケールが拡大するにつれ、世界皇帝リチャード・ドレイク5世が姿を現したときは、ああ、近藤(と龍馬)はこいつと最終決戦を繰り広げることになるのかな、と想像させた。おそらく、構想の段階ではそのような筋書きもあったかもしれない。が、結果的にはそうはならなかった。龍馬は呆気なく退場し、ドレイクは容易く失脚してしまう。てっきり、カリスマとの壮絶な死闘を通じて主人公はエンディングに向かうのだと踏んでいたのだが、違った。これは大河型のストーリーにおける従来の文法を巧妙に逸しているということでもある。確かにシチリア・マフィアのドン・メタボーニやアメリカの政界を裏から操る死の商人チャック・グリードキンは巨大な権力であるし、世界を揺るがすほどの秘密を収めたメモリー・チップを巡り、主人公はもちろん、ヒロインの秋野明美をも巻き込んでいく陰謀劇こそが本筋という見方もできる。が、実のところ、それらも後景でしかなかった。メタボーニの脅威は日本国内における東西ヤクザの対立にあっさり上書きされ、グリードキンは最後までせこい悪役として描かれる。

 かくして、前景に浮上してくるのは、やはり、近藤と秋野のラヴ・ロマンスにほかならない。龍馬の復讐のため、ドレイクやグリードキンに単身挑んでいく主人公の姿、あれはヤクザと会社員の二極に引き裂かれる近藤静也とはまったくべつのものであろう。どちらの組織をも離れ、あくまでも個人としての責務を果たそうとしている。このとき、組織内におけるメタボーニの引退やドレイクの失脚も同様、個人への回帰であり、それがささやかな幸福を伴っているかのように表されているのは案外、象徴的である。その意味で、メタボーニやドレイクすら歯牙にかけず、どんな組織も敵わないグローバリズムの頂点に立ち続けようとするグリードキンは正しくヒールに相応しい。グリードキンのもとに辿り着いたはいいが、囚われ、死よりも強烈な拷問にかけられることとなってしまった主人公を一体誰が救えるのか。もちろん、『静かなるドン』が近藤と秋野のラヴ・ロマンスをメインのテーマにしているとするのであれば、その役割は秋野明美以外にありえまい。近藤を助けるべく、龍馬から託されたマイクロ・チップを手にグリードキンとの直接交渉に向かおうとする秋野が、下着会社であるプリティの社長の座を他に譲り渡していかなければならないのは、無論、それが組織の問題ではなく、恋愛という個人の領域に属したテーマによっているためだ。

 グリードキンと相対する秋野は「新鮮組三代目の妻」を名乗る。そうした肩書きにおいて比重が大きいのは「新鮮組」の方ではない。「三代目の妻」だという点だろう。近藤はアメリカに仇をなすテロリストとしてグリードキンに囚われた。いくら個人として行動しようが、日本のヤクザはアメリカの政府にテロリストだと断定されているからである。たとえ冤罪であろうと、そのテロリストに味方する行為はテロリズムになりかねない。ヤクザのパートナーという肩書きは、個人であること、それが図らずもパブリックな立場を負ってしまうようなアンビバレンスを暗に含んでいるのではないか。もしかしたら、そうしたアンビバレンスこそが『静かなるドン』の、近藤と秋野のラヴ・ロマンスにとって最大の困難を担っていたのであって、それがクライマックスにきて、とうとう一つの結論に統合される。秋野に救い出された近藤静也とは何者であろう。彼女と同じプリティの社員だろうか。「新鮮組三代目」なのだろうか。それらとは既に無関係ないち個人にすぎないのだろうか。二人の涙を通じて確認されるのは、そのような問いでさえもほぼ無効化された境地なのであった。それはたとえば、フランスの哲学者であるサルトルがいうところのアンガージュ(アンガジェ)と密接な存在を思わせる。アンガージュとはもちろん、英語でいうエンゲージ(engage)のことであり、もしも近藤をサルトルに喩えられるなら、公私ともサルトルに影響を与えたボーヴォワールは秋野となるわけだ。

 かように様々なドラマを乗り越えてきた近藤と秋野だったが、しかし、だからといって「いつまでも幸せに暮らしました。めでたしめでたし」とはならない。どれだけ深く愛し合っていながらも二人は別離という答えを出すのだった、ああ。多くの犠牲の上に成り立ったラヴ・ロマンスである。ギャグのタッチがそれを忘れさせるけれど、あまりにもたくさんの人間が血を流しては死んでいった。あるいは作中の当事者にあたる二人だけがそれを決して忘れてはいないので、近藤はヤクザに戻り、秋野は日本を旅立つ。ここで彼らが選び取っているのは、単純に自分たちで自分たちを罰するような罪悪感などではない。過去にあったすべてが無駄ではないのだとし、積極的に未来を築き上げるにはどうすればいいのかを決心している。最後のとき、秋野は近藤に次のような言葉をかける。〈あなたはちゃんと道を選んだわ / あなたは今 / 何も隠さず / あなたの選んだ道を突き進んで!/ もう誰にも卑怯だなんて言わせない〉というこれは、誰もが何らかの使者であるということ、運命からは逃れられないとしても、運命は変えられるものだということを示唆している。現在が未来へと通じているかぎり、運命は変わり続けるものだということを肯定している。そうであるがゆえに、二人の別離は悲しみよりも美しい。

 新鮮組に復帰した近藤は〈たとえそれが叶わぬ夢だとわかっていても…〉国内の暴力団の解体を目指す。そこにはもう迷いはない。かつて『静かなるドン』とは、昼はサラリーマン、夜はヤクザの組長、凶暴性を内に秘めながらもおっとりとした主人公の姿に由来していた。だが、それはラストのページでまったくべつの意味に変容している。トレードマークのサングラスはある種のペルソナに相違ないが、それは今や本性を隠すためのものでもないし、押しつけられる圧力を逃れるためのものでもない。どのような運命をも引き受ける。引き受けられるという覚悟と同義であろう。約束を守ることは約束に守られることでもある。約束を生きることの尊さが穏やかでいて静謐な場面に重なる。凪のイメージに投影される。

 それしても見事なエンディングだ。ワキの登場人物たちの進退にまで十分な気が配られている。(当初はそうでもなかったが)ギャグ・マンガのジャンルから飛び出してきた生倉と肘方はまるでギャグ・マンガのジャンルに帰っていったようでもあり、シリアスな劇画のジャンルから飛び出してきた鳴戸と龍宝はまるで劇画のジャンルに帰っていったようでもある。そう考えられるとしたら、いくらか牽強付会になるかもしれないけれど、近藤と秋野の選んだ道がどこに繋がっているのかがよくわかる。荒唐無稽なファンタジーをくぐり抜けた先でようやく二人はフィクションのなかの現実を歩きはじめたのである。分かれ、離ればなれであったとしても、同じ現実を。歩いていく。

 107巻について→こちら
 98巻について→こちら
 文庫版1巻、2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)