ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年06月16日
 新潮 2013年 07月号 [雑誌]

 『新潮』7月号掲載。平野啓一郎の『Re: 依田氏からの依頼』には、同号に載っている第二十六回三島由紀夫賞の選評で平野がいとうせいこうの『想像ラジオ』に宛てて書いていることと少なからずリンクする要素が入ってきているように思われる。それはつまり〈「死者の声を聴け」というのは散々語られてきたことだが、いかに想像力によって循環しているとは言え、私はやはり、自己の死、近親者の死、赤の他人の死は、一旦、区別して考えるべきだと思う。(略)見知らぬ樹上の人の声を、同じ「想像の共同体」の一員だからといって、一種のオカルティズムにより「聴くことができる」とするのは乱暴に見える。死者の孤独は、その絶対的な反論不可能性にある。仮に私が、樹上の死者だったとして、下から見上げている赤の他人の自由な想像とは何なのか。何が聞こえるのか。聞きたいという思いと聞こえないという絶望のジレンマを想像力はどうやって乗り越え得るのか(略)読みたかった〉という箇所である。実際に平野がどこまで意識しているのかわからないし、三島由紀夫賞の選評と三島由紀夫に言及している『Re: 依田氏からの依頼』のどちらが先に書かれたのかは知れないけれど、他人の内面を想像し、仮構し、何かしらの物語を編み出そうとするときのその手つきについて、共通の認識が、おそらくは横たわっている。

 が、しかし、『Re: 依田氏からの依頼』と最も比較されるべきは『すばる』2月号に発表された瀬川深の『目の中の水』であろう。両者はともに、ある場合には災害を直接的な題材とはしない災害小説であり、ある場合には小説を書くことについて書かれた小説家小説であって、作中作の現実と作中の現実とが並列的に存在しながら、あるいは入り混じりながら、所謂メタ・フィクションとは異なったレベルでのリアリティ(共感)をフィクションのなかに出現させようとしているのである。実は『目の中の水』を読んだとき、発表された時期が近かったのもあって、並べてみたくなったのは『想像ラジオ』であった。たとえば『想像ラジオ』において「耳」に象徴されているのと同様のものが、『目の中の水』では「目」に象徴されているように感じられたのだ。失われた者、失われていく者を一方に置いた上で複数の視線をパラレルに展開するという意味では、もしかしたら第148回芥川賞の候補になった北野道夫の『関東平野』も近いラインに挙げられるかもしれない。『Re: 依田氏からの依頼』を含め、それらの作品には、年代に関係なく、今日の男性作家が自然と前提に汲んでしまうような条件ないしテーマが介在しているのではないかと思う。

 さて『Re: 依田氏からの依頼』である。〈東日本大震災から、丁度二年が経った頃〉に小説家の大野はとある演劇関係者より「依田氏からの依頼」というメールを受け取った。依田氏というのは劇作家、演出家の依田総作のことであって、大野はまだ新人であった90年代後半に二十歳年上の彼と対談し、以来、特に深い間柄ではないけれど、何度か顔を合わせる機会があった。だが〈この五年ほどはやや疎遠で、新刊は必ず献本していたものの、気がつけば、依田からの献本は絶えていた〉のだった。実際、この二年間、活動らしい活動を依田はしていなかったのだが。そのため、もしかしたら〈依田は何かの事情で、あの時被災したんじゃないだろうかと考え〉ていた大野は、しかし依田の妻である未知恵を通じて、依田が現在置かれている本当の状況を聞かされることとなる。それは〈とても俄には信じられな〉いものであった。「依田氏からの依頼」とは、なぜ依田がそのような状況に陥らなければならなかったのかを、未知恵から手渡された聞き書き原稿と録音データを頼りに小説化して欲しいということ。結局、大野はその意図もわからぬまま「依田氏からの依頼」を引き受けてしまうのだったが、こうして書かれた小説が作中作として小説の大部分を占めていく。

 小説の大部分を占めるのは依田を見舞った強烈な事件とその顛末ではあるのだけれど、最終的に具体化されているのは、大野の困惑だといえる。その困惑が一体どこからやってきているのか。こうと定めるのが憚れる。極めてアブストラクトであることは作者の狙いだろう。そこで別の設問を立てるとすれば、どうして「依田氏からの依頼」は、ルポ・ルタージュやノン・フィクション、自伝ではなく、ほかの人間の手により小説としてまとめられなければならなかったのか。小説というのはおおよそフィクションと同義である。確固たるモデルがあろうとも。必然として、他人の内面を想像し、仮構し、何かしらの物語を編み出してしまう。そうした物語に試される人間がいるとしたら、一番にそれは物語を書いた本人が当てはまる。真実を書いたつもりでいようが必ずしも現実と一致しないことがあるのだし、虚偽を書いたつもりなのに図らずも現実と一致してしまうことがある。ついに依田と直面した大野を襲った困惑は、たぶん根底の部分で『想像ラジオ』の「耳」や『目の中の水』の「目」と決して遠からぬ機能を果たしている。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2012)