ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年06月06日
 僕だけがいない街 -2 (カドカワコミックス・エース)

 インターネット上でも次第に注目を集めつつあるようだし、「このマンガを読め!」で知られる『フリースタイル』誌の22号における個人レビューの欄で大根仁がこれを取り上げていたり、タイミング次第では年間の話題作ランキングで上位に顔を出してくるのではないかと予想される三部けいの『僕だけがいない街』だが、いや実際、すべてのコマに(と言ってしまっていいほど)張り巡らされた緊張の糸に絡め取られながら、ああ、まったくもう目が離せない。

 所謂ループもののSFであり、ミステリであって、サスペンスである。万能ではないけれど、時間の「再上映(リバイバル)」に立ち会えるという特殊な能力を持った青年が、文字通り自分の運命を一変させるような事件に巻き込まれ、関わっていくうち、未解決のまま忘れられた過去の因縁に立ち向かわざるをえなくなるのだ。もちろん、こうした筋書きそれ自体はいくらかの類型を帯びてはいるだろう。では、そこで謎解きゲームとしての強度もしくは精度、巧妙さが『僕だけがいない街』に圧巻のスリルをもたらしているのか。確かにそれはある。が、しかし、それを踏まえた上で自分みたいなどこからどこまでが伏線なのかを深く考慮しないタイプの読み手からしたら、大きく二つのポイントに作品の魅力は左右されていると述べたい。

 一つはやはり、主人公の認識、意識のありよう。マンガ家としてデビューしてはいるものの、28歳になった今もアルバイトを続けている藤沼悟は、俯瞰(諦観)した態度でしか他人と接せられない。編集者にも、仕事仲間にも、唯一の家族である母親に対しても。その姿には、成熟とは何かを問うことすら無効化された現代的な共感とイメージとが大変よく出ている。俯瞰(諦観)のメタ・レベルで物事を判断することは、果たして自分に言い訳を許すことにもなりうる。主人公に課せられた意識のありよう、プライドが具体化させているのは、ある種のエクスキューズであって、無論、そこには少なからぬ羞恥の裏返しが秘められているとしよう。このとき、時間を巻き戻せるという現象は、つまり、場面毎の判断を繰り返し試されるものである以上、必ずしも主人公にとって都合がいいわけではない。あらためて彼に自分の認識が決して万能ではないことを思い知らせる機会であり、条件となっていく。

 ごく当たり前の日常が、わずかずつ不穏な気配を孕みはじめる前巻(1巻)において、おそらくは重要な伏線だろう過去回想や、ショッキングな展開を通じ、最も強調的にプレゼンテーションされていたのは、主人公と母親の関係だ。一親等に向けられた主人公の視線は、ほかの誰に対するものとも違う。誰よりもウザいと見なすそれが甘えであろうとなかろうと、必然として彼の感情を明瞭とするのに至っている。換言するなら、徹底して俯瞰(諦観)が装われるなかにあって、母親との関係だけが例外的なバランスを持っているのである。受け取り方によっては、おいおい、案外マザコンなんじゃねえか、の印象を持つかもしれないが、さしあたりこの母親との関係が、青年のポジションからすれば、あくまでも稀少なケースである点に留意しなければならないと思う。結局のところ、それが稀少なケースであるぐらい、本当に昔から他人とのディスコミュニケーションを主人公は生きてきたのか。

 あらゆる結果にしかるべき原因があるとしたら。作中世界の現在である2006年から18年前、1988年に主人公がまだ小学生だった頃の「再上映(リバイバル)」が幕開け、いよいよリプレイものの本領をうかがわせる2巻では、そのしかるべき原因の追及に多くの紙幅が割かれていくこととなるのだったが、いや、これはでも、全然一筋縄ではいかなさそうだぞ、と謎めく物語にさらなる拍車がかかっているのは、やはり、そのヒキの強さゆえだろう。確かにサスペンスであることとヒキの強さは不可分であるには違いない。だが、連載ベースでもそうだし、コミックスで見てもそう、コマの単位で、ページの単位で、はっとさせられるような瞬間が次々織り成されては、それが新しい布石であるかもしれない可能性を招き入れる。手練れ。『僕だけがいない街』の魅力を為しているもう一つのポイントとは、要するにそのヒキの強さだといえる。1巻のお終いにはたっぷりのカタルシスがあったが、2巻のラストも実に見事である。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)