ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年06月28日
 ノスタルジア (マーガレットコミックス)

 系統としては、羽柴麻央や咲坂伊緒あるいは初期のアルコを彷彿とさせる一方、ぼんやりとした輪郭の淡いタッチが、80年代から90年代初頭における『別冊マーガレット』のラインを思わせる。もちろん、新人である以上、こうした特徴は徐々に洗練され、変化していくに違いないし、現状、没個性だというのでもない。総じて、いなたい。だが、いなたさのなかにきらきら光るものがしっかり備わっていて、それを個性と呼びたくなるようなところがある。全六編を収めた読み切り作品集だが、「真っ赤なチューリップを君に」や「キンモクセイ」「ゆめのはなし」などは、少女マンガの枠にそいながら、ヤング誌あたりにひょっこり載っていても案外不思議ではなさそうな雰囲気を持っており、これを普遍性と呼びたくなるようなところがある。萩原さおりの『ノスタルジア』である。

 ここに入っている読み切りはどれも、ボーイ・ミーツ・ガールをモチーフとしているといってよい。たとえラヴ・ストーリーとは見なせないものであったとしても、一対の少年と少女を基本のユニットにし、二人の交流がどのような変化を心に及ぼすのかを掴まえているのである。おおよその場合、ボーイ・ミーツ・ガールとは、人と人の出会いはその人を変えられるか、という疑問形に、人と人の出会いはその人を必ずや変えられる、という断言で答えることであろう。「キンモクセイ」に描かれているのは正しくそれが起こったときの「記憶」であり「風景」にほかならない。はっきり〈秋は好きじゃない〉と否定されていたはずのことが、かつての同級生との穏やかな時間を通じ、〈もう少ししたら 秋を好きになれそうな気がする〉と肯定されるような結びに運ばれていく。

 同じく「ゆめのはなし」では、漠然とした将来、漠然とした不安、漠然とした自分自身を持て余した少女の、決して急ぐのではなく、ただ漠然とした日常を過ごしながら、次第にこうと足どりの定まっていく様子が、ボーイ・ミーツ・ガールの挿話として描かれる。

 美大の受験に備え、近辺の画塾に通いはじめたヒロインが出会ったのは、大変才能に恵まれた少年であった。彼女が直面するのは、彼との実力の「ひらき」である。少年の置かれている立場がトップだとすれば、少女の置かれている立場はボトムだといえよう。しかしどうしてか。少年は少女のことを気にかける。なぜ気にかけるのか。詳細を述べようとするなら、この、なぜ、には不思議な巡り合わせが隠されており、題名にある「ゆめのはなし」の「ゆめ」は一種のダブル・ミーニングになっているのだけれど、お話そのものはさほど複雑ではない。単純に、少年の少女に対する積極性によって両者の「ひらき」が越えられる(または埋められる)こうしたアプローチの在り方をロマンスだと解釈しても構わないと思う。ただし、作品の体温、優しい余韻はやはり、ラヴ・ストーリーとは一概に判断できない含みの方からやってきている。

 足が地に着いていない、という喩えがある。「ゆめのはなし」において、様々な角度の構図とアクセントの凝らされたコマ割りが再現しているのは、あくまでも日常を日常たらしめている「風景」だろう。だが、そうした「風景」が浮き彫りにしているのはむしろ、立場の違いこそあれど、足が地に着いていない、という一点で共通している少女と少年の姿なのではないか。引いたカットでは、確かに彼らは「風景」に溶け込んでいる。反面、寄ったカットになると、その眼差しは具体的な「風景」とは違うどこかに向かっている。少なくともそう感じられる対比が、いくつかのシーンに生じている。では、そのような乖離はどうしたら統合されるのか。

 答えは最後の場面にある。少年の発見した「記憶」は紛れもなくボーイ・ミーツ・ガールのそれであって、固く握られた手、走っていく二人の姿、まっすぐな足どりに象徴されているのは、人と人の出会いはその人を必ずや変えられる、という断言にほかならない。
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2013年06月26日
 SPA! (スパ) 2013年 7/9号 [雑誌]

 現在出ている『週刊SPA!』(7/2・9合併号)の「プロが論評[素人ネットレビュー]は凄いのか?」という特集で当ブログに関してちょこっとコメントしています。石井恵梨子さん、ご紹介ありがとうございます。
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2013年06月21日
 デビルマンG 3 (チャンピオンREDコミックス)

 そもそも『バイオレンスジャック』の時点で次元の複数化が見られはじめた永井豪のブランドは、現在もなお出版社や作者、シリーズをまたぎながらそのシェアード・ワールドを拡大化しつつある。なかでも『デビルマン』のタイトルを冠したものは、過去の公式二次創作群(傑作も多く、個人的にはPCゲーム『ラストハルマゲドン』を思わせる井上大助の『デビルマン戦団(バトラー)』の続編を今でも待っている)もそうだし、先般1巻の出たTEAM MOON『デビルマン対闇の帝王』がそうであった通り、基本的には黙示録的なカタストロフを題材としているのだったが、高遠るいの『デビルマンG(グリモワール)』に関しては、いや確かに黙示録的なカタストロフをバック・グラウンドにしてはいるのだけれど、むしろスケベとギャグの部分に永井豪のイズム(もちろん、それは高遠自身の持ち味でもある)を大きく感じられた。ドジな魔女、マキムラミキ(魔鬼邑ミキ)が悪魔族の勇者アモンを不動アキラの犠牲によって召喚してしまい、人類の平和を守るべく、どたばたタッチの奮闘劇を繰り広げていくのだ。

 しかし、この3巻に入り、物語は新たなフェーズに突入する。オリジナル版のキー・パーソンである飛鳥了が登場せず、タイトルに象徴されているデビルマンの存在もまた確認されてこなかった作品である。『デビルマンG』における不動アキラは、オリジナル版の設定上、デビルマンではない。ホスト(宿主)であるアキラを乗っ取ったデーモンにほかならない。正義感に溢れたミキをサモナー(召喚者、接触者)としているため、彼女に協力せねばならず、同族への裏切りを含めた彼の行為は「デーモンハンター」でしかないのだった。では、『デビルマンG』とは決してデビルマンの出てこない『デビルマン』なのかと思っていたら、ついにデビルマンきた。けど、不動アキラじゃねえんだ。実写映画版の代名詞と化したあの〈ハッピーバースデイ………悪魔人間(デビルマン)!!!!〉のフレーズが引用され、あらぬ人物がデビルマンへの覚醒を遂げるというのがここでのクライマックスである。

 大きなところのみを挙げるなら、1巻では牧村(魔鬼邑)家への襲撃が。2巻では悪魔降臨のサバトが。原作のヴァージョンとは異なったかたちで再現されていたわけだけれど、3巻ではオリジナル版のラスト・シーンがリメイクされている。不動明と飛鳥了の最後の語らいである。だが、それは半ばギャグとして見られたいものであって、パロディの範疇に入る。既にいったように、『デビルマンG』に飛鳥了そのものは登場してきていない。おそらく了の父親に対応している人物は、雷沼教授のパートナーとして2巻であっさり死んでいる。前述の場面で了の代理を務めているのは水妖族のニクスなる悪魔だ。が、意外だったのは、飛鳥了は登場しないとしても、その正体である魔王サタンはストーリーに関与してき(カヴァーも飾っているしね)、はからずもデビルマンの生誕を引き起こしてしまうことであろう。デビルマンとは何か。〈悪魔族(デーモン)に憑依されても人の心を失うことなく 悪魔の力を持った人間として悪魔と戦う者!!〉という解答がそこで、不動アキラではなく、他の人物により宣誓されることとなる。

 それぞれの思惑とは別にニクスやシレーヌが、デーモンの襲来に対し、アモンと共闘するという展開はいいね。どの作者のヴァージョンでもクローズ・アップされがちなシレーヌはともかく、ぶらりと登場したニクスはてっきりコメディ・リリーフかと思っていたよ。それが少年マンガ的な意味で正しくライヴァルの役割を帯びていくのはなかなか。テンポの良い話運びは、近年永井自身とダイナミック・プロの名義で発表された『改訂版デビルマン』や『激マン!』のヴァージョンよりもオリジナル版に近い。
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2013年06月20日
 常住戦陣!!ムシブギョー 10 (少年サンデーコミックス)

 架空の日本史が舞台となってはいるが、昨今の少年マンガが描くファンタジーにおいて主流派であるギルドものに、福田宏の『ムシブギョー』も入る。ギルドものでは通常、外敵と内敵が用意され、おおよその場合、前者はバトルのロマンに転じ、後者は陰謀論めいた要素を汲んでいくのであって、無論、ほとんどの作品は前者と後者とをワン・セットにしながらストーリーを練ってはいるものの、システムの成り立ちにこそ諸悪や本当の問題点は潜んでいるという内敵の発想の方に現代の様相は反映されているのではないか。あるいはここまで少年マンガは成熟したと言いたい向きもあるには違いない。しかし、時代遅れであることを承知の上で述べるなら、それはちょっとこう、なんかあんまりロマンを感じないんだよね、と思わされる機会が少なくない。

 題名にある「蟲奉行」をめぐる謎は仄めかされ、先送りにされてはいるけれど、システムにおける派閥争いを主人公のイノセンスによって割とあっさり乗り越えてきた印象の『ムシブギョー』である。それが真田幸村編に入ってよりこちら、さあ外敵のターンだといった感じになってきており、市中見廻り組と真田十傑蟲が直接相まみえることとなったこの10巻では、シリーズのクライマックスに向かい、ある種の総括がはじまっている。つまりはバトルのロマンを前面化し、そのなかに因縁の回収を描いていくのだった。

 シングル・マッチ(場合によってはタッグ・マッチ)の形式でヤマ場が作られていくというのは皆さんお馴染みのパターンであろう。外敵を強化しようとすると当初は異形であったそれが知能を持った人型として再現されるようになるというのもパターンではある。ワキの登場人物たちによる局所戦がクローズ・アップされることで主人公の活躍が後景化するというのもパターンにほかならない。しかしまあ『ムシブギョー』の最大の魅力はやはり、主人公である月島仁兵衛の無限に近いポジティヴ馬鹿さ加減なのではなかろうか。仁兵衛と同じ市中見廻り組の火鉢と恋川が強敵を前にそのポテンシャルを発揮するシーンを見られたい。そこで彼らを起爆させているのは、確かに過去の回想なのだったが、その過去の回想に対するアティテュードの極めてポジティヴであることが正しく勝利の要因を為しているのであって、そうしたアティテュードが仁兵衛との出会いによって開花されたものであることは1巻からの読み手に明らかだ。換言するなら、シングル・マッチの形式に主人公からの影響を(ダイレクトに、ではなかろうと)盛り込むことでチーム・ワークのテーマをも複合している。

 いずれにせよ、苦悩らしい苦悩を(今のところ)ほとんど持たない仁兵衛の存在は、現代の少年マンガの主人公としては意外と興味深い。鈍感ではあるのだろうが、内面が欠如しているというのではない。行き当たりばったりでありながら、まったく無反省というのでもない。そうではなくて、徹底してポジティヴ馬鹿であるようなスタンスにきっちり焦点が絞られ、そこから一切ずれていないのだと思う。
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2013年06月16日
 新潮 2013年 07月号 [雑誌]

 『新潮』7月号掲載。平野啓一郎の『Re: 依田氏からの依頼』には、同号に載っている第二十六回三島由紀夫賞の選評で平野がいとうせいこうの『想像ラジオ』に宛てて書いていることと少なからずリンクする要素が入ってきているように思われる。それはつまり〈「死者の声を聴け」というのは散々語られてきたことだが、いかに想像力によって循環しているとは言え、私はやはり、自己の死、近親者の死、赤の他人の死は、一旦、区別して考えるべきだと思う。(略)見知らぬ樹上の人の声を、同じ「想像の共同体」の一員だからといって、一種のオカルティズムにより「聴くことができる」とするのは乱暴に見える。死者の孤独は、その絶対的な反論不可能性にある。仮に私が、樹上の死者だったとして、下から見上げている赤の他人の自由な想像とは何なのか。何が聞こえるのか。聞きたいという思いと聞こえないという絶望のジレンマを想像力はどうやって乗り越え得るのか(略)読みたかった〉という箇所である。実際に平野がどこまで意識しているのかわからないし、三島由紀夫賞の選評と三島由紀夫に言及している『Re: 依田氏からの依頼』のどちらが先に書かれたのかは知れないけれど、他人の内面を想像し、仮構し、何かしらの物語を編み出そうとするときのその手つきについて、共通の認識が、おそらくは横たわっている。

 が、しかし、『Re: 依田氏からの依頼』と最も比較されるべきは『すばる』2月号に発表された瀬川深の『目の中の水』であろう。両者はともに、ある場合には災害を直接的な題材とはしない災害小説であり、ある場合には小説を書くことについて書かれた小説家小説であって、作中作の現実と作中の現実とが並列的に存在しながら、あるいは入り混じりながら、所謂メタ・フィクションとは異なったレベルでのリアリティ(共感)をフィクションのなかに出現させようとしているのである。実は『目の中の水』を読んだとき、発表された時期が近かったのもあって、並べてみたくなったのは『想像ラジオ』であった。たとえば『想像ラジオ』において「耳」に象徴されているのと同様のものが、『目の中の水』では「目」に象徴されているように感じられたのだ。失われた者、失われていく者を一方に置いた上で複数の視線をパラレルに展開するという意味では、もしかしたら第148回芥川賞の候補になった北野道夫の『関東平野』も近いラインに挙げられるかもしれない。『Re: 依田氏からの依頼』を含め、それらの作品には、年代に関係なく、今日の男性作家が自然と前提に汲んでしまうような条件ないしテーマが介在しているのではないかと思う。

 さて『Re: 依田氏からの依頼』である。〈東日本大震災から、丁度二年が経った頃〉に小説家の大野はとある演劇関係者より「依田氏からの依頼」というメールを受け取った。依田氏というのは劇作家、演出家の依田総作のことであって、大野はまだ新人であった90年代後半に二十歳年上の彼と対談し、以来、特に深い間柄ではないけれど、何度か顔を合わせる機会があった。だが〈この五年ほどはやや疎遠で、新刊は必ず献本していたものの、気がつけば、依田からの献本は絶えていた〉のだった。実際、この二年間、活動らしい活動を依田はしていなかったのだが。そのため、もしかしたら〈依田は何かの事情で、あの時被災したんじゃないだろうかと考え〉ていた大野は、しかし依田の妻である未知恵を通じて、依田が現在置かれている本当の状況を聞かされることとなる。それは〈とても俄には信じられな〉いものであった。「依田氏からの依頼」とは、なぜ依田がそのような状況に陥らなければならなかったのかを、未知恵から手渡された聞き書き原稿と録音データを頼りに小説化して欲しいということ。結局、大野はその意図もわからぬまま「依田氏からの依頼」を引き受けてしまうのだったが、こうして書かれた小説が作中作として小説の大部分を占めていく。

 小説の大部分を占めるのは依田を見舞った強烈な事件とその顛末ではあるのだけれど、最終的に具体化されているのは、大野の困惑だといえる。その困惑が一体どこからやってきているのか。こうと定めるのが憚れる。極めてアブストラクトであることは作者の狙いだろう。そこで別の設問を立てるとすれば、どうして「依田氏からの依頼」は、ルポ・ルタージュやノン・フィクション、自伝ではなく、ほかの人間の手により小説としてまとめられなければならなかったのか。小説というのはおおよそフィクションと同義である。確固たるモデルがあろうとも。必然として、他人の内面を想像し、仮構し、何かしらの物語を編み出してしまう。そうした物語に試される人間がいるとしたら、一番にそれは物語を書いた本人が当てはまる。真実を書いたつもりでいようが必ずしも現実と一致しないことがあるのだし、虚偽を書いたつもりなのに図らずも現実と一致してしまうことがある。ついに依田と直面した大野を襲った困惑は、たぶん根底の部分で『想像ラジオ』の「耳」や『目の中の水』の「目」と決して遠からぬ機能を果たしている。
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2013年06月15日
 銀のスプーン(7) (銀のスプーン (7))

 ぼろぼろ泣くでしょう、これ。ぼろぼろ泣くよ。ルカのかわいらしさといじらしさはずるいし、トミカの消防車でぼろぼろ泣く。前巻(6巻)に引き続き、自分にもう一人の弟がいることを知り、もしかしたらその弟のルカ(雨宮路加)が母親からネグレクトされているのではないかと思った主人公の律は、自分がどうすればいいのか、自分に何ができるのかを悩む。誰にも悩みを打ち明けられないせいで、ついにはあんなに親密となった夕子との距離も開きはじめてしまうのだったが、それでもルカのために多くの時間を割かずにはいられない。幸福を願うこと。幸福は伝えられるということ。律とルカ、そして早川家に訪れる新たな転機に、ちくしょう、幸福に見えることは不幸に見えることの何倍も泣けるんだな、と実感させられるのが、小沢真理『銀のスプーン』の7巻である。

 サイキックスがいい奴であった。相変わらず駄目な奴だけれど、いい奴であった。シリアスな展開が続くなかに、こういうユーモアを入れ、行き詰まりの展開をギア・チェンジさせるそれが無理のない筋を運んでくるところに、ああ、『銀のスプーン』の魅力はあるのだなあ、と思う。一個の人間から多方向に伸びる関係性の芽が、ある場合には夕子のようなすれ違いを生んでしまう。ある場合にはサイキックスのような励ましやアドヴァイスとなりうる。翻り、そうした様々な関係性の芽を束ねることでしか一個の人間は充実されえない。プライオリティの違いはあるかもしれないが、ルカを含め、誰もが律にとって欠かせない存在なのであった。料理マンガ(グルメ・マンガ)の体裁や家族というテーマで考えるなら、もちろん絵のスタイルや読者層は異なるものの、案外うえやまとちの『クッキングパパ』(とりわけ、まことが思春期を経て以降、70巻あたりから)の印象に近いものがあるのではないか。

 引き合いに出したついでに述べるなら、『クッキングパパ』が(題名にある通り)父親であったり父性であったりを頂点とした作品であるとすれば、『銀のスプーン』は、むしろ父親のいない舞台を描いているといえる。家族、家庭と生活において、母親がその核となっているのである。したがって、その母親を失ってしまうかもしれない可能性が、物語の序盤では、登場人物たちの困難となっていたのであって、反対にこの7巻では、母親の母親であることの寛容さを通じ、幸福なワン・シーンが、登場人物たちにもたらされていく。このとき、早川家の母親とルカの母親(律の実の母親でもある)を一つの対照として、たとえばそれは良い母親VS悪い母親のような図式で見ていいものだろうか。おそらくは微妙に違っている。なぜなら、ルカの母親が母親になることを拒んだ結果、ルカは育児放棄されているのだし、前例である律の立場も踏まえるとしたら、ルカの母親は母親のイメージそれ自体を徹底的に手放している。

 正直な話、ルカの母親が幸福か不幸かはわからない。一概には判断できない。しかし、少なくとも『銀のスプーン』の倫理においては、早川家の母親が幸福のイメージを支えているのは明らかだ。ルカのことで悩んでいた律だったが、サイキックスのアドヴァイスを受け、そしてとあるハプニングを得て、とうとう言えないでいたことを母親に打ち明けることとなる。そこで律は母親に救われている。いや、律ばかりではない。律をあいだに挟みながら、ルカもまた早川家の母親に救われているのであって、物語の暗さも、あるいはそうした物語を目にしている読み手も、元を辿るならすべて早川家の母親に救われているような構造が出来上がっているのである。ともあれ、ルカのかわいらしさといじらしさがもう、ずるいんだよ。トミカの消防車、つまりオモチャは子供にとって幸福のシンボルであろう。それを兄弟4人の複数で同時にプレイできるWiiのマリオカートへと移し換えたワン・シーンがあまりにも穏やかで平和で、ああ、これは涙もろい人間には仕方ない。ぼろぼろ泣くね。

 6巻について→こちら
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2013年06月13日
 手塚・赤塚賞受賞作品集 平成24年度上期

 久保拓哉の『鐘鳴らしのパン』は平成24年度上期(第83回)手塚賞の準入選作だが、偶々読んだら、なかなかヒットであった。一度『ジャンプSQ.19』に掲載されたらしいのだけれど、見逃していたのは不覚だった。騎士が出てくるような中世的な世界を舞台としたファンタジーになっているものの、冒険活劇が繰り広げられているというのではない。ドラゴンやモンスターなどと戦わないし、魔法使いも出てこない。しいていうなら、おとぎ話や童話をマンガでやろうとしているかのような印象を持っている。現代的な毒気のなさに対して注文をつけたくなる向きもあるだろう。しかし、少年性のイノセンスが何よりの正義になりうることを絶対的に信頼した上で最小限のギミックを使いながら編まれたドラマからは澄んだカタルシスが伝わってくる。やさしくあたたかい明かりが灯されるようにである。

 パンは、小さな体にもかかわらず、とんでもない怪力を持つ少年だった。とあるいきさつがあって、時計塔の番をしているミゲルはその仕事をパンに助けられている。老人であるミゲルには町中に時刻を知らせられるほど巨大な鐘を鳴らすことができず、ミゲルの生活を守るために(皆には隠れて)パンが彼の代理をしていたのである。パンは誰より他人に親切な少年でもあった。パンが、ミゲルの住む時計塔に、ガスという行き倒れになっていた青年を運んできたのと同じ頃、騎士団の入団試験が行われることとなった。ガスは、パンが騎士になりたいのではないかと思う。だが、入団試験は鐘を鳴らす時刻とちょうど重なってしまっている。参加するとしたらミゲルの仕事を手伝えない。花屋になろうとしてうまくいかなかったガスは、せめてパンには自分の夢を叶えて欲しいと考え、ミゲルに相談を持ちかけるのだった。それはつまり、パンを入団試験に送り出してやって、ガスとミゲルの二人で巨大なあの鐘を鳴らすこと。しかし、ガスが想像する以上にその作業は困難で、入団試験の最中、時間が過ぎようとしても鳴らないでいる鐘にパンの注意は奪われていく。

 入団試験のアトラクションとアクションに少年マンガらしさがよく出ている。が、事実上のクライマックスを担っているのはガスとミゲルの奮闘だろう。少年、青年(中年)、老人の三者が主な登場人物となっているのだけれど、三者の関係を冷静に見るのであれば、大の大人二人が非力で不甲斐なく、(精神的にも体力的にも)子供一人に負担をかけているにすぎないのだし、これに対して、だらしないぜ、情けないなあ、との感想を抱いても構わない。とはいえ、それはクライマックスのわずかな瞬間にほんのちょびっとだけ返上される。そのわずかな瞬間におけるちょびっとした返上が作品全体のカタルシスとなっているのであって、本質的にはショボいはずのドラマを数割増しで底上げできているのは、やはり、少年性のイノセンスを是とするような思いなしが前面化されているためだ。少年性のイノセンスがテーマとしてどうのという以上に、そうした前面化の手法が魅力の根っこを為している。魔法使いの出てこない物語に魔法を作っている。
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2013年06月09日
 エイト(2) (エイト (2))

 いやもちろん、『あいつとララバイ』や『シャコタン☆ブギ』にもロックン・ロールやブラック・ミュージックは流れていたが、これまで主にモーターサイクルあるいはモータリゼーションを題材にしてきた楠みちはるが直接的な音楽マンガに挑戦するというのは最初驚きであった。ここにきてどういう路線の変化かと思われた。しかし『湾岸ミッドナイト』そして『C1ランナー』と、この『エイト』を通して見るかぎり、基本は同様のテーマを描き続けているよう。それはつまり、国産(日本製)であることの歴史は継承できるか、にほかならない。『湾岸ミッドナイト』や『C1ランナー』において国産車と国産のマス・メディアとして現れていたものが、『エイト』では国産のロック・ミュージックと国産のマス・コミュニケーションに移し換えられている(だけ)だと考えられたい。あくまでも国産でしかありえない我々が本当はどこからやってきたのか。なおかつ、どこへいこうとしているのか。こうしたヒストリーへの問いを内蔵した現代というポジションが、かつては巨大な産業であり、ポップ・カルチャーであった音楽に今も関わる中年たちと少年の姿を通じ、ストーリー化されているのである。

 その少年、エイトは父親を知らない。父親の鮎川和人は80年代の伝説とされたバンド、ジャガーのギタリストであった。元ジャズ・ミュージシャンの祖父、トミーに育てられ、和人の形見のギターを携えるエイトだったが、父親が誰なのかを知らない。それが高校2年のとき、中学の同級生であるニーナ(新名)と再会、商業高校でバンドを組んでいる彼に才能を見出され、メンバーに誘われることとなる。それまで自宅で一人、誰にも聴かせることなくギターを弾き、満足していたエイトだったけれど、ニーナやバンドの熱に押されながら練習に参加し、ついには文化祭にステージに立ち、大勢の人前でプレイをする機会を得るのだった。というのが、1巻から2巻までのあらすじである。父親を知らないエイトが、父親と同じくギタリストへの道を歩みはじめる。これはいわずもがな、自分のルーツに近づいていくというプロセスであって、物語であろう。祖父が黒人であること、そして父親の形見であるギターが国産のもの、フェンダー・ストラトキャスターのコピーだという設定は、明らかにロック・ミュージック全体の歴史や、日本人と輸入文化であるはずのロック・ミュージックとの歴史を踏まえたものだ。伝説のマシーン、海外からやってきたアイディアを日本人が国産するなかで伝説となったマシーンを継承するという部分で『湾岸ミッドナイト』の「悪魔のZ」と『エイト』の「ドラゴンギター」は同じ役割を担っている。

 音楽マンガ、もしくはロック・マンガが大メジャーなジャンルとなった昨今、楠みちはるのアプローチはいくらかクラシックであると思う。たとえば『BECK』『NANA』『けいおん』『カノジョは嘘を愛しすぎてる』以降の作品でありながら、それ以前の青春像をあたかもトレースしているみたいである。無論、これは楠の年齢、年代的な問題でもある。しかし一方で、00年代や2010年代といった範囲で区切れる部分を現代としながら、そのイメージであったり気分を切り出し、スケッチしているのではなくて、数ディケイドにまたがるようなもっと大きめの範囲を現代としながら、総体的なヒストリーのダイジェスト化をテーマとしているのが『エイト』であるとすれば、こうしたアプローチ以外にはなかっただろうと感じられる。実際、作中に登場するレパートリーもビートルズであったり、ローリング・ストーンズであり、レッド・ツェッペリンであったりと古い。が、その古さを今日に奏でることが、要するに歴史を描くことと同義になっているのである。『エイト』における現代史、日本史においてキーとなってくるのは、やはり国産の「ドラゴンギター」であって、ジャガーの元メンバーである大物歌手、松永恭也の往年のヒット曲「ラブ・ユー」だといえる。

 果たして〈1970年 通販専用モデルとして生まれたフェンダー社のストラトをコピーした安価な国産品 ――だが製作者の志は高く 量産母体となるマザーモデルにとてつもない想いを込めた〉とされる「ドラゴンギター」と〈‥あれは和人のフレーズだ 和人が父であるトミーさんから受け継いだモノ もっというとその向こう ‥トミーさんの父 名ジャズマン ロニー・ピーターソンから流れてきた 音のブラッド(血)だ〉とされる「ラブ・ユー」を正統に継承しうる立場のエイトは何を求めるのか。その姿にはおそらく以下の問いが託されている。そう、つまり、あくまでも国産でしかありえない我々が本当はどこからやってきたのか。なおかつ、どこへいこうとしているのか。エイトがキーを握っているとするなら、ニーナは扉である。一人きりで完結していたエイトの世界を外の世界へと繋げていく扉にほからない。エイトはニーナを通じ、ニーナとのバンド活動を通じ、バンド活動で関わった人々を通じ、不特定多数と向かい合いという意味で、マス・コミュニケーションを成功させていくのではないか。さしあたり、文化祭でのステージはそのことを暗示するかのような一幕となっているのである。

・その他楠みちはるに関する文章
 『湾岸MIDNIGHT C1ランナー』
  11巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『湾岸MIDNIGHT』40巻について→こちら
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2013年06月08日
 シュガーレス 18 (少年チャンピオン・コミックス)

 週刊連載でマンガを読むことの体験として、たとえば水曜日に『週刊少年マガジン』で市川マサの『A-BOUT!』を読んだ次の日、木曜日に『週刊少年チャンピオン』で細川雅巳の『シュガーレス』を読むというのは、なかなかに悩ましいものであった。どちらも好きな作品である。が、『A-BOUT!』の後追いであるような展開を『シュガーレス』に見かける機会が少なくはなかったからだ。無論、単細胞の一年生が主人公であったり、その彼が不良高校のトップである三年生に挑まなければならなかったり、当初のアイディアにもいくらかの類似が確認できたのだけれど、ストーリーが進むにつれ、他校との抗争や一年生たちによるトーナメント、匿名集団の襲撃など、明らかな重複が目立つようになってきていた。『シュガーレス』が『A-BOUT!』を真似たと言いたいのでは決してない。それはあくまでも掲載誌が出、こちらが目を通すタイミング程度の問題にすぎないし、結局のところ、先に挙げた展開の諸々は、ヤンキー・マンガにおける様式美であり、形式美のヴァリエーションとして十分了解されうる例だろう。したがって、何が悩ましかったのかといえば、ある種の様式美を散々繰り返すしかないヤンキー・マンガのジャンルとその限界について、2010年代の今、あたかもシンクロニシティを起こしているかのような二つの作品を前にしながら、しばしば考えさせられてしまったことにほかならない。まあ、どうでもいいじゃん、ではあるのだけれど、生真面目な性格なんでね。ついつい、ふと、気になってしまう。

 さてしかし、『シュガーレス』はこの18巻で完結を迎えた。先般、同じく18巻を出したばかりの『A-BOUT!』の方はまだ連載が続いているが、奇しくもといおうか、両作品とも主人公が一年生でいられる最後のクライマックスを高校の屋上でのタイマンに設定していたところまでついにダブっていたな。もちろん、『シュガーレス』の場合、そのアイディアは物語がはじまった段階ですでに決定されていたものであろう。そもそも、九島高校の屋上にそびえ立つ風車、そこに自分の名前を書いた旗をかかげることこそが主人公である椎葉岳の目標であったのだ。それはつまり、頂点に君臨するカリスマ、三年生のシャケを倒すことと同義でもあった。そして、極めて単純化するなら、主人公が物語を立ち上げ、目的を果たさんとするあいだに組み込まれたいくつもの展開が、要するにヤンキー・マンガの様式美をなぞらえることとなっていたのである。

 正直にいって、スタート時の『シュガーレス』に対して期待していたのはヤンキー・マンガ以外のイディオムであった。リアリズムを度外視したシャケのたたずまいや、主人公を驀進させる破天荒なパワーやエネルギーにヤンキー・マンガ以前の番長もの、あるいは広義のレベルで「少年マンガならでは」と判断されるようなスペクタクルが垣間見られたのである。だが、前述した通り、総体的な印象としてはヤンキー・マンガらしさが勝っちゃったかと思う。いや、そんなことはなかったぜ、大体主人公とすべきは椎葉岳のみではなく、椎葉岳を含めた一年生四人組じゃねえの、もしくは椎葉と丸母タイジのコンビを主人公と見なさなくてはならない。そう意見する向きもあるだろう。しかし、丸母の不幸なプロフィール、あれは正しくヤンキー・マンガのリアリズムによっていたのであって、たとえ(建前上は)そうしたリアリズムを否定するために必要とされたエピソードであった(事実、椎葉岳の立場はそれを否定している)としても、このハイ・テンションな作品にどれだけ貢献していたかは疑わしい。最終巻の表紙はシャケである。椎葉岳でも他の誰でもなく、シャケこと荒巻至であることはいささか象徴的なのではないか。もしももう一人主人公の候補を挙げるとするならば、やはりシャケだという気がするためだ。『別冊少年チャンピオン』に彼を主人公とした番外編も描かれたが、そのカリスマは明らかにヤンキー・マンガに縛られない自由さからやってきている。この意味で、あくまでもヤンキー・マンガのカテゴリー下に収まる登場人物たちが最後まで誰も彼に敵わないというのは非常に当然の結果ではあった。

 1巻について→こちら
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2013年06月06日
 僕だけがいない街 -2 (カドカワコミックス・エース)

 インターネット上でも次第に注目を集めつつあるようだし、「このマンガを読め!」で知られる『フリースタイル』誌の22号における個人レビューの欄で大根仁がこれを取り上げていたり、タイミング次第では年間の話題作ランキングで上位に顔を出してくるのではないかと予想される三部けいの『僕だけがいない街』だが、いや実際、すべてのコマに(と言ってしまっていいほど)張り巡らされた緊張の糸に絡め取られながら、ああ、まったくもう目が離せない。

 所謂ループもののSFであり、ミステリであって、サスペンスである。万能ではないけれど、時間の「再上映(リバイバル)」に立ち会えるという特殊な能力を持った青年が、文字通り自分の運命を一変させるような事件に巻き込まれ、関わっていくうち、未解決のまま忘れられた過去の因縁に立ち向かわざるをえなくなるのだ。もちろん、こうした筋書きそれ自体はいくらかの類型を帯びてはいるだろう。では、そこで謎解きゲームとしての強度もしくは精度、巧妙さが『僕だけがいない街』に圧巻のスリルをもたらしているのか。確かにそれはある。が、しかし、それを踏まえた上で自分みたいなどこからどこまでが伏線なのかを深く考慮しないタイプの読み手からしたら、大きく二つのポイントに作品の魅力は左右されていると述べたい。

 一つはやはり、主人公の認識、意識のありよう。マンガ家としてデビューしてはいるものの、28歳になった今もアルバイトを続けている藤沼悟は、俯瞰(諦観)した態度でしか他人と接せられない。編集者にも、仕事仲間にも、唯一の家族である母親に対しても。その姿には、成熟とは何かを問うことすら無効化された現代的な共感とイメージとが大変よく出ている。俯瞰(諦観)のメタ・レベルで物事を判断することは、果たして自分に言い訳を許すことにもなりうる。主人公に課せられた意識のありよう、プライドが具体化させているのは、ある種のエクスキューズであって、無論、そこには少なからぬ羞恥の裏返しが秘められているとしよう。このとき、時間を巻き戻せるという現象は、つまり、場面毎の判断を繰り返し試されるものである以上、必ずしも主人公にとって都合がいいわけではない。あらためて彼に自分の認識が決して万能ではないことを思い知らせる機会であり、条件となっていく。

 ごく当たり前の日常が、わずかずつ不穏な気配を孕みはじめる前巻(1巻)において、おそらくは重要な伏線だろう過去回想や、ショッキングな展開を通じ、最も強調的にプレゼンテーションされていたのは、主人公と母親の関係だ。一親等に向けられた主人公の視線は、ほかの誰に対するものとも違う。誰よりもウザいと見なすそれが甘えであろうとなかろうと、必然として彼の感情を明瞭とするのに至っている。換言するなら、徹底して俯瞰(諦観)が装われるなかにあって、母親との関係だけが例外的なバランスを持っているのである。受け取り方によっては、おいおい、案外マザコンなんじゃねえか、の印象を持つかもしれないが、さしあたりこの母親との関係が、青年のポジションからすれば、あくまでも稀少なケースである点に留意しなければならないと思う。結局のところ、それが稀少なケースであるぐらい、本当に昔から他人とのディスコミュニケーションを主人公は生きてきたのか。

 あらゆる結果にしかるべき原因があるとしたら。作中世界の現在である2006年から18年前、1988年に主人公がまだ小学生だった頃の「再上映(リバイバル)」が幕開け、いよいよリプレイものの本領をうかがわせる2巻では、そのしかるべき原因の追及に多くの紙幅が割かれていくこととなるのだったが、いや、これはでも、全然一筋縄ではいかなさそうだぞ、と謎めく物語にさらなる拍車がかかっているのは、やはり、そのヒキの強さゆえだろう。確かにサスペンスであることとヒキの強さは不可分であるには違いない。だが、連載ベースでもそうだし、コミックスで見てもそう、コマの単位で、ページの単位で、はっとさせられるような瞬間が次々織り成されては、それが新しい布石であるかもしれない可能性を招き入れる。手練れ。『僕だけがいない街』の魅力を為しているもう一つのポイントとは、要するにそのヒキの強さだといえる。1巻のお終いにはたっぷりのカタルシスがあったが、2巻のラストも実に見事である。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2013)