ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年05月31日
 ザ・ラスト・スパイアー

 ブリティッシュ・ドゥームの巨匠、CATHEDRALのラスト・アルバム『THE LAST SPIRE』がとうとうリリースされてしまった。とはいえ、リリースされてしばらく経つわけだが、繰り返し聴きながら、これは本当に最後の傑作であるな、と思うし、正しく有終の美を飾るのに相応しい。つくづく思わされる。アヴァンギャルドな路線を模索することで異形の様式へと辿り着いた初期の三作『FOREST OF EQUILIBRIUM』(91年)『THE ETHEREAL MIRROR』(93年)『THE CARNIVAL BIZARRE』(95年)と、ヘヴィでスローなハードコアを再発見したかのような6作目の『ENDTYME』(01年)に個人的な愛着はあるのだけれど、『THE LAST SPIRE』はそれらに並ぶかもしれん。リー・ドリアンとギャリー・ジェニングスの持ちうる才知が、非常に「濃く」そして「豊かな」音楽性を唯一無二のイメージのなかに出現させているのである。

 当時は途轍もなく「遅い」「重い」と驚かされた『FOREST OF EQUILIBRIUM』を現在の感覚で判断しようとすると確かに不吉な「暗さ」はあるものの、ギターのリフは結構「鋭い」し、場合によっては「速い」と感じられる。要は、その総合的なスタイルこそが新しい発明であったがゆえに、様々なラウド・ロックの可能性が開拓された分野において90年代初頭を代表するマスターピースの一つになりえたのである。続く『THE ETHEREAL MIRROR』は、そこへキャッチーとも取れる要素を大胆に盛り込み、『THE CARNIVAL BIZARRE』では、フックをより強烈とすることでメジャーなレベルでのハード・ロックを成立させるに至った。その後の試行錯誤は、オールド・スクールなフォーク・ロックやプログレッシヴ・ロックに対する憧憬を、おそらくは成熟と同義であるようなバランスとして解釈できるものにしていき、2枚組の前作『THE GUESSING GAME』(2010年)で、多種多様でありつつも極めてマニアックな世界に到達するのだったが、こうしたキャリアを統括した上でなお、過去の焼き直しに終わらないヴァージョンのCATHEDRALが『THE LAST SPIRE』にはたっぷり詰まっている。

 ギャリー・ジェニングスのギターが良い。ここ最近で一番良いのではないか。もちろんのこと、リー・ドリアンのヴォーカルは相変わらず個性的であるし、リズム隊の活躍も目覚ましいのだけれど、構築的であると同時に滑らかでインパクトの著しいリフが次々放たれては、このバンドならではのドゥーム・メタルを明瞭に織りなしていく。重低音のフレーズが禍々しさを倍加させる一方、物悲しげなアコースティックの調べが、決して単色に染め上げたのではない、意外にもカラフルであろう、いくつものパートに分かれた楽曲をさらなるアクセントを入れ、その印象を何よりマジカルにしているであろう、の役割を果たすのだ。イントロダクションである「ENTRANCE TO HELL」を受け、どろどろのグルーヴをソリッドに響かせる(これが語義矛盾ではない)2曲目の「PALLBEARER」がブリリアントである。11分にも及ぶ大作のなかからCATHEDRALをCATHEDRALたらしめてきた多くの魅力が溢れ出てくる。スロー・テンポ、ミドル・テンポ、アップ・テンポを含めた一つのナンバーがある種の総集編であり、ダイジェスト版のようでもある。

 ざらついた触感のハードコアを想起していると神秘的なメロトロンの旋律が飛び出してくるので、ぎょっとするという3曲目の「CATHEDRAL OF THE DAMNED」や、初期の勘を取り戻したのか、リズムがずっしり沈んだまま展開するという4曲目の「TOWER OF SILENCE」以降も、ギャリー・ジェニングスのギターは兎角冴え渡っている。ああ、そして、リー・ドリアンのヴォーカルはそのくっきりとした輪郭に本来備わるべき魂を注ぎ込むカリスマの息吹だろう。ともすれば、ヘタウマの一言に回収されてしまうタイプのシンガーだけれど、所謂エモーショナルとは別次元の説得力を持った歌声は長き物語の結末まで呪術めいた妖しさを損なうことはなかった。
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2013年05月25日
 メットくんはイケメンです。 (フラワーコミックス)

 あれ、ヒナチなお、って、あのヒナチなお、なのだろうか。以前とはレーベルが異なっているし、新人らしいことを強調したプロフィールや作者のコメントからは一概に判断しきれないのだったが、もしもそうだとすればこの『メットくんはイケメンです。』では結構作風を変えている。実際、まったくの別人だったら申し訳ないのだけれど(さすがにこのペンネームでそれはないと思うものの)今時のライト・ポップなタッチに寄せてきている印象だ。総体的に屈託がなく、良くも悪くも、口当たりの軽いラブ・ロマンスをやっている。

 純朴型のヒロインとナイーヴ型のイケメンさんによるボーイ・ミーツ・ガールが、要するに表題作である。ハプニングから一つ屋根の下で暮らすこととなった二人の心の距離、関係の変化が作品の主題であろう。そして、そのプロセスは非常にシンプルに絞り上げられており、さほど入り組んだ要素を持っていない。これが「悪くも」でいえば、そこまで単純化してしまったなら、登場人物の内面も行動も薄っぺらいだけに見られかねない。このような危うさを自然と含んでしまう。反面「良くも」でいえば、しがらみを深く追求しないスタンスが、肩の力の抜けた心地好さのなかに兎角キュートであることを重視したイメージを描き出しているわけだ。題名にある「メットくん」はなぜ、そのヘルメットのように揃えて伸ばした前髪で自分が「イケメン」である事実を隠すのか。サスペンスやミステリ、驚くべき感動があるのでもない。また、どうしてヒロインは「メットくん」に惹かれ、接近しようとするのか。物語の推進力についても同様である。つまり『メットくんはイケメンです。』という断言がどこからやってきているのか。その根拠を説得させるようなマンガであるというよりは、そうした断言によってもたらされたドタバタ劇をニヤニヤしつつ眺めていればいいようなマンガだと思う。

 表題作と表題作の番外編のほか、「こっち向いてよダーリン」「アタシが好きなのは…」という二つの読み切りが入っており、どちらも片想いと勘違いが両想いに通じていくような風景を展開していて、切なさや苦しさをいくらか汲み上げてはいるが、総体的にはやはり口当たりの軽いラヴ・ロマンスに止まっている。良くも悪くも。

・その他ヒナチなおに関する文章
 『オレたちに愛はない』について→こちら
 『机上のrubber』について→こちら
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2013年05月18日
 虹の娘 (Feelコミックス)

 わはは、おもしれえなあ、この人たち、というのが、とにかくの感想であって、本当にこの人たち、おかしいねえ。いがわうみこの『虹の娘』には、今まで発表されてきた読み切りのすべてが入っているらしいのだけれど、そのほとんどが実にユーモラスな輝きを持っている。大半の作品が、現代における日常のコミュニケーションを題材としたリアリズムによっているのだが、それがこの手のヤング向け女性マンガに顕著なセンシティヴィティを仄かに匂わせながらも、反面、シリアスに徹するというよりはギャグに転がりそうなラインを堂々と割っていくところに一番の魅力があるのだった。登場人物たちは皆、常識に照らし合わせたとき、どこか変わっている。頭のネジが一本ほど緩んでいるか外れているのでは、と思わされる。とはいえ、ことさらエキセントリックなのではない。エキセントリックな人間がとりたててエキセントリックに表現されているのではない。確かに登場人物たちは一様に馬鹿である。しかし、どうして馬鹿に見えるのか。それはおそらく、彼ら彼女らが「あるある」「ねーよ」のような既視感の備わった(読み手にとって)非常に身近な存在として現れているからにほかならない。つまり、非常に身近な存在の非常に身近なドラマであることを根本にして、最初に述べたとおり、おかしいよな、この人たち、という感想が生じているわけだ。

 コミックスのオビに、いくえみ綾が推薦を寄せている。イチ押し作品は「愛され洋輔」だそうだ。「愛され洋輔」いいよね。主人公である洋輔のワガママさ加減、大変自己中心であるような面倒くささは『虹の娘』のなかでも特筆すべきものであるし、実際、そこには作者の登場人物に対する距離や態度が凝縮されている。ここでいう登場人物に対する距離や態度とは、果たして作者は主人公にどれだけ優しいのか、はたまたどれだけ意地悪なのかを不意に考えさせられる手つきのことだと思われたい。洋輔の傍迷惑な性格は、もちろんデフォルメされ、カリカチュアされてはいるが、誰しも経験上、こんな奴いねえよ、とは判じきれないものであろう。程度の差こそあれ、これと似たタイプの人間はいるのであって、SNSなどを通じた周囲の反応(適当なあしらい)は今日的なシンパシーをよく示していると思う。いずれにせよ、極めて残念な若者であるはずの主人公が極めて残念に描かれているにもかかわらず、その残念でしかないありさまが、彼を取り巻く人々、とりわけ二人の女友達の、洋輔を蔑ろにするのではなく、同情するのでもない立場を通じ、あくまでも主人公は自然体であるがゆえに無反省とイコールであり続けるという帰結をもたらしているので、要するに悪意があるわけじゃないんだ。そう了解されるようなユーモラスでいて微笑ましい光景を成り立たせているのが、すなわち登場人物に対する作者の距離や態度なのである。

 他方で「阿部くんと吽野さん」や「アヒルにホッチキス」は少女マンガに類型的なパターンのヴァリエーションであるような作品といえる。それはつまり、ある種の三角関係をモチーフにしているためなのだが、実際の印象は少し異なる。少しばかりズレている。そうしたズレが何に起因するのか。単純化すれば、三人の主な登場人物が相互に関与しない状況を前提にしているからなのだけれど、「アヒルにホッチキス」においてコマを仕切り、構図をこうと決めているカメラもしくは視線の向きに注意されたい。一見すると、カメラの向きはヒロインである鰤谷の視線や内面と合致しているふしがある。他人に可愛いいと認められたい彼女の自己評価そのもの、として汲み取ることができる。ただし、鰤谷と友人である「郷田ちゃん」を同時に収めている視線は必ずしも鰤谷(だけ)のものではないだろう。もちろん、そこでカメラは「りゅーぞーくん」の立場にスイッチしているのだという解釈は可能だ。あるいは全体のなかで鰤谷と「りゅーぞーくん」の視線が入り混じっていると判断される。その上でもう一つ別の推測も許されるのではないか。カメラは常に客観のレベルで機能していて、場面場面のピントの絞り方により、登場人物たちのミニマムな変化をクリアにしていく。ラストのモノローグを唯一除き、カメラは客観のレベルを動かない。この、あくまでも客観を維持していることが、この人たち、おもしろいねえ、おかしいなあ、という感想に繋がるのだと思う。

 映画『天空の城ラピュタ』を引用した「くらん くらんく くらんくらん」では、そうした作者の登場人物に対する距離や態度が「吉川さん」という女性の語りに委託され、より明らかとなっているのであって、表題作の「虹の娘」や最もファンタジー色の強い「アマネの日記」など、家族の肖像を描いた他の作品についても、そのユーモラスでいて微笑ましい光景を豊かにしているものが何か。同様のことがいえる。
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2013年05月11日
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 吉沢潤一の『★無目的無償★』は『週刊少年チャンピオン』23号に掲載された。この間まで『ヤングマガジン』に『デザート』を発表していた作者のこれが少年誌初登場となるわけだが、いくらでも本格的に展開させられそうなストーリーやテーマをことごとく脱臼させるかのような基本の路線に変更はない。むしろ初期の読み切りを思わせる。極めてスラップスティックなコメディだといえる。こうしたマンガはまあ、話の筋を書き起こしても仕方がないところに最大の魅力があるのだけれど、偶々ファミリー・レストランで居合わせた二人の不良少年がお互い、因縁をつけはじめ、先輩を呼び出した結果、フル・マラソン型の逃亡劇にまでエスカレートしていく。珍事を描いている。命からがらの二人を助けた通りがかりのトラックがなぜか宙へと飛翔するラストのカットに「飛べ!ギャラクシーの彼方へ!!」というアオリが付けられているが、これをどう解釈すればよいのか。おそらく意味はない。あるいはハチャメチャな暴走を徹底的に無意味化させながら、内包されているエネルギーそのものを抽出していると見るべきか。案外、浜岡賢次や漫☆画太郎のアプローチに近いのかもしれない。この意味では少年誌的である。ただし、浜岡や漫☆画太郎であったら、コマ運びの洗練や手法の実験性をより高めることで、あくまでもギャグですよ、というサインを明確にさせたであろう。

・その他吉沢潤一に関する文章
 『デザート』2巻について→こちら
 『足利アナーキー』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら
  番外編「乙女シンク」→こちら
 「ボーイミーツガール」について→こちら
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2013年05月03日
 黒子のバスケ 22 (ジャンプコミックス)

 黄瀬、かっこいいよ、黄瀬、であろう。藤巻忠俊の『黒子のバスケ』は当初、『週刊少年ジャンプ』らしからぬ影の薄い主人公がウリの一つであったと記憶している。が、連載が長期化するにつれ、さらにいうなら「キセキの世代」の具体的な活躍によって、案外車田正美あたりが確立したファイヴマンセルの伝統を受け継いでいるのではないかと思うようになってきた。この意味において、主人公よりも他の登場人物が目立っているというのは当然のことであるし、謎ロジックの必殺技がばんばん飛び出すようになったのも同様に派手でいて楽しい。とりわけウィンター・カップ編に入ってからの「キセキの世代」VS「キセキの世代」という展開は、『リングにかけろ』のあの「黄金の日本Jr.」とライヴァル・チームの死闘や「黄金の日本Jr.」の同胞対決さえも彷彿とさせるのであって、おお、実に『週刊少年ジャンプ』しているではないか。

 前巻(21巻)に引き続き、主人公の黒子テツヤ擁する誠凛高校と黄瀬涼太がいる海常高校との準決勝を描いているのがこの22巻なのだけれど、やはり、なんといっても「キセキの世代」と呼ばれるサイキッカーたちの超人オリンピックぶりに大変燃えるものがあるのである。他の選手のプレイを一目見ただけで自分のスキルとしてしまう黄瀬の「完全無欠の模倣(パーフェクトコピー)」は、いやもう完璧に反則の域だよ。しかし、読み手の側は「キセキの世代」を追放された灰崎との雌雄を経たことで「完全無欠の模倣」が獲得された成り行きを知っているので、必ずしもそれをズルとは感じない。むしろ、最初は軽いタイプに設定されていたはずの黄瀬のプロフィールが案外熱血漢だったと更新されたため、逆境に追い込まれるたび「完全無欠の模倣」を発動させ、ぎりぎりピンチをしのぐ彼の姿に大きなカタルシスすら覚えるのだった。ああ、黄瀬、かっこいいよ、黄瀬、であろう。

 こうなってくると、やばいのは主人公のチームだ。どこでどうやって勝ち目を取り戻すのか。ただし、作品の結構からすると黒子の誠凛高校が勝利するのだろうと大体の予測はつく。そこで作者はいくつものハッタリを駆使し、とにかく試合を盛り上げようとしているかのように思われる。こうして浮上してくるのは、黒子の必殺技「幻影(ファントム)のシュート」破れたり、な展開であって、それを穴埋めしながら活路を作り出していく火神大我の底知れぬポテンシャルだろう。無論、黄瀬や黒子を一時交代させることでワキの登場人物たちにカメラを回したり、会場の雰囲気を攪乱に使うことでどちらのチームが本当は劣勢なのかを冷静に判断させなくするなど、様々な工夫も十分効果をあげている。でもまあ、土壇場で「完全無欠の模倣」を通じて種々の必殺技をばんばん繰り出す黄瀬の大盤振る舞いが最高に燃えるよな。

 ことさら強調するまでもなく、試合の方向性を定めているのは根性や執念の精神論だといえる。現代のスポーツ・マンガのおおよそはもっと高度でロジカルなものになっているのだが、『黒子のバスケ』においては、とくにここ最近の内容は『週刊少年ジャンプ』の少年マンガならではのイズムがきわめて濃厚だ。黄瀬というある種の天才からも根性や執念が引き出され、またその天才を前にすることで、相対的にだが、黒子と火神に努力や学習型の古臭いファイトが備わっていることを判りやすくしている。

 ところで、コミックスのカヴァーにある作者コメントで藤巻は「100%集中していないと(我に返ったら)描けないもの」として「必殺技名」「おっぱい」「ポエミィなセリフ」を挙げている。実際、「おっぱい」がどれぐらい作中に描かれているかは不明だけれど、そうか。「必殺技名」や「ポエミィなセリフ」に関しては、気恥ずかしさを覚えながらそれを採用しているわけだ。裏を返すなら、たとえ気恥ずかしくとも『黒子のバスケ』にとって「必殺技名」や「ポエミィなセリフ」が必要不可欠であると自ら明かしているのである。車田正美だったら絶対にそれを気恥ずかしいといわないに違いないが、たぶんそのへんが作者の妥協であると同時に現代的なスタンスなのだろうと思う。
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2013年05月02日
 味いちもんめ 独立編 10 (ビッグ コミックス)

 途中、原作者の逝去もあり、リニューアルを経なければならなかったが、主人公である伊橋悟のビルドゥングス・ロマンとしては、彼が(雇われではあるものの)自分の店を持ったことで一段落した感がある。その伊橋が大将となってからの活躍を描いた『味いちもんめ〜独立編〜』には、『新・味いちもんめ』ではほとんど顔を出さなかった旧『味いちもんめ』のレギュラー陣が次々再登場し、物語の集大成的な側面を強く感じさせてもいた。現在、『スペリオール』での連載は新シリーズに入っていて、ゲストの依頼をホストが解決していく式の小さなエピソードをどれだけ量産できるかという、つまりは料理マンガの様式美を徹底するかわり、旅行記のスタイルを取り入れ、新機軸を打ち出そうとしているけれど、正直なところ、長編としての役割はもはや終わりつつあるな、あるいは既に終わっているのだったか、と思わせる。

 さて、その『味いちもんめ〜独立編〜』の完結編となるのがこの10巻である。兄貴分である坂巻が伊橋の「楽庵」を訪れたり、弟分である渡辺が結婚をしたり、長編に相応しい作中の時間と変化とが懐かしい面々の姿に投影されている一方、新シリーズへのブリッジとなるような展開が用意されるのだったが、いやまあ、『味いちもんめ』における最大の難点とは、要するに主人公をいつまでも若者のイメージに止めておきたいというシナリオ上のバイアスによっているのではないか。

 端的に伊橋のキャリアは無限に続いていく以外にない修行と同義だろう。無論、これを料理人の本質だと解釈することもできるし、人生の喩えであると解釈することもできなくはない。だが、そのなかで彼が獲得したものだけが具体的には現れない。たとえば、地位や名誉、金銭や年齢、恋人や家族、そういった恩恵を想起させないファンタジーとして(初期は違ったかもしれないが)現在の伊橋は存在している。強いていえば、人脈こそが恩恵になっているものの、その人脈が繰り返し伊橋に修行を要請しているのである。自分の店を持つというのは、非常に判りやすい恩恵であった。しかし、周囲の人物たちは、今のままじゃだめだ、修行に出よ、修行に出よ、とりあえず店を離れて修行せよ、と言うのだった。本来、伊橋は中年の域に達している。中年になってもなお、お前には修行しかないのだと規定されるのはかなりきつい。本作のシナリオはそうしたきつさを棚上げにすることで成り立っているのであって、そのために伊橋は未来多き若者のイメージを永遠に負わされる。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『新・味いちもんめ』
  21巻について→こちら
  20巻について→こちら
  19巻について→こちら
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2013年05月01日
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 衝動と洗練が対立も矛盾もせずに同居している。大雑把にニューヨーク・ハードコアといっても、そのイメージは人それぞれであろう。方法論やスタイルとしてはクロスオーヴァーであったりビート・ダウンであったりストレート・エッジであったりユースクルーであったり等々、いくらでも専門的に細かく語れるだろうが、結局のところ、等身大の姿から自然と溢れ出るような熱量をさらにどうビルドアップさせるか。これを皮膚感覚のレベルでびりびり味わわせてくれるものを自分は好むのだなあ、と思う。思ったのは、ブルックリン出身の5人組、GO DEEPのEP『COUNSELING』を聴いたからであって、つまりはなんともびりびりくるのである。

 ニューヨークのバンドだからニューヨーク・ハードコアなのではない。いやもちろん、それは大前提なのだけれど、そうである以上にかつてニューヨーク・ハードコアを代表していたアーティストが持っていたのに近しい核の部分をGO DEEPのサウンドには求められる。たとえばGORILLA BISCUITSを引き合いに出している海外のブログをいくつか見かけたが、なるほど。メタリックなグルーヴとパンキッシュなスピードを両立しながら、ヴォーカルのシャウトが強力なアジテーションとなっている点などが確かに相通ずる。と同時に、GORILLA BISCUITSばかりではなくて、QUICKSANDをも引き合いに出せそうなエモーショナルのアピールに今日性をうかがわせたりもする。プレ・エモ・ロック的であることによって、カオティック・ハードコアともアメリカン・スクリーモとも異なったポジションを獲得しているのである。少なくとも『COUNSELING』のなかで衝動と洗練はそのように仲違いせず、現れている。

 EPということで、全7曲のヴォリュームはイントロダクション程度にとどまる。だが、キックオフに十分な内容を示しえている。まず第一、フックが強い。ヘヴィなギターのフレーズが一気に加速する1曲目の「LATE NOTICE」から、勢い身を乗り出したくなるようなナンバーが満載である。なかなかにセンスの良いヴィデオ・クリップが作られた2曲目の「GLOSSECTOMY」と5曲目の「ELDERS」は、全体のかっ飛び具合において、むしろ異色だろう。スロットルをぎりぎり絞ることで逆説的にきつく研ぎ澄まされたテンションを覚醒させている。そのダイナミズムは一時期のSNAPCASEを彷彿とさせる。そこからはポスト・ニュースクールのハードコアでもありうるヴィジョンと可能性が垣間見られる。

 バンドのBandcamp→こちら
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