ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年04月29日
 静かなるドン 107 (マンサンコミックス)

 今や小学館漫画賞ばかりか手塚治虫文化賞の選考委員をつとめるブルボン小林は、『静かなるドン』の最終話が載った『漫画サンデー』2013年1号で作者の新田たつおと記念対談をしていたが、その著書である『マンガホニャララ ロワイヤル』でも『静かなるドン』を取り上げている。ことあるごとに。極めて積極的に。かなり褒めているといってもいい。〈様々に間抜けな脇役たちは主人公にヤクザだけでなくギャグもやめさせないp123〉のであって〈時に無茶な筋、ふざけた脇役など、その騒がしさも手塚イズムの延長にあるんだがp142〉というブルボンの評価は、たぶん、マンガならではの、と形容するのに相応しい表現を『静かなるドン』が、つまりは新田が達成してみせたとの認識を含んでいるのではないか、と思わせる。

 ある作品を見、これぞマンガならではの表現だとするとき、場合によっては、高度であったりテクニカルであったり難解であったり知的であったり実験的であったり前衛的であったりするような部分に焦点を合わせたがるものだけれど、もちろん、『静かなるドン』はそうした種類の作品ではないだろう。いや、実際には十分高度であるし、テクニカルでもある。しかし、決してそうとは感じさせない。この、決してそうとは感じさせないこと、無論、それも技術であって、正にコミックだからこそのすぐれた技巧とその本質を、ブルボンは『静かなるドン』におけるギャグの在り方として掴まえているのではないか。新田の作風を〈手塚イズムの延長にある〉としているのではないか。

 たとえば、この107巻である。和解し、弟分となった白藤龍馬の死を経、さらには最愛の女性である秋野明美を目の前で失ったショックから、ついに近藤静也は禁断の殺戮マシーンと化す。正気をなくし、もはや誰にも止められない。白昼堂々、銀座に攻め入ってきたシチリア・マフィアの大群を次々虐殺していく。一人で、である。今風の喩えでいうならば、自我のリミットを外され、闇に堕ちた人間が、物語と作中世界にとってのカタストロフィを担っていくわけだ。当然、これをどこかで誰かが制御できなければ、バッド・エンドにしかならない。普通、そうした重要度の高い役割はシリアスな筋書きにおいて活躍を果たしてきた者に課せられるべきであろう。『静かなるドン』なら、やはりヒロインである秋野か、鳴戸、龍宝あたりが適任なはずなのだったが、作者はそこで意外な人物を持ってくる。

 先に挙げた対談でブルボンもそのシーンに対して〈まさかの……(筆者註・一応名前は伏せておきます)だった。あれはすごいカタルシスでした〉と述べているけれど、いうなればギャグのオチになっている。ばかりか、シリアスな筋書きとギャグの展開とが不可分でありつつ、見事なレベルで融合しながら、驚きの効果をあげている。そこでは、これがギャグなのかマジなのかを問うような視線が根本的に無効化されてしまう。どちらでもいいし、正しくどちらでもありうる。実にマンガならではのすぐれた技巧がほとんど無条件のうちに達成されているのである。

 前巻(106巻)で訪れた龍馬の最期も見方次第ではギャグだったろう。当人の与り知らぬ攻撃によって爆死していく龍馬の爽やかな笑顔は、間抜け野郎みたいでもある。ストーリー上、ダーク・ヒーローのごとく活躍してきた人物の呆気ないラストは、龍馬はこんな死に様さらさない、と思わず言いたくなるものであった。だが、そうした龍馬の爆死もまたある意味で『静かなるドン』の両義性もしくは多面性をよく象徴している。90年代のある時期からのヤクザ・マンガ、おそらくは暴力団対策法施行以降のヤクザをテーマにしたマンガの多くは、テロリズムや革命の問題を必然として抱え込まなければならなかった。白藤龍馬なる人物は、『静かなるドン』も同様にそのポリティクスから必ずしも自由ではないことを、シリアスなパートにおいて体現していたといえる。

 いや、正直、龍馬のダーク・ヒーローぶりはなかなかに00年代らしくあって、終盤のストーリーが息切れしなかったのは、彼の活躍によるところがでかい。日本を欧米に隷属させまいとする行動原理は名前の由来である坂本龍馬に通じているのだろう。しかし、それはあくまでも要素の一つにとどまる。龍馬のポリティクスは確かに『静かなるドン』をシリアスな目で見ようとするとき、絶対に必要だった。必要ではあったが、そうしたポイントだけでなく、もっと幅広い視野を獲得しながら作品を楽しんで欲しい、という作者の声が、シリアスな筋書きとギャグの展開とが不可分であるような構成からは聞こえてきはしまいか。

 いずれにせよ、次巻(108巻)で、とうとう『静かなるドン』は完結を迎える。ヤクザとサラリーマンの二重生活へ奇妙な運命を負った恋人たちのラヴ・ロマンスが入り込んだ物語は、紛れもなく、終幕に向かっている。ここ数巻、コミックスのオビには「累計4400万部突破」とずっとあり続けるが、最終巻でそれが「累計4500万部突破」となったら美しいかな、とも思う。

 98巻について→こちら
 文庫版1巻、2巻について→こちら
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2013年04月25日
 不良皇帝 1 (ヤングキングコミックス) 不良皇帝 2 (ヤングキングコミックス)

 現在、ヤンキー・マンガのジャンルにおいては、自伝をベースにしたファンタジー(語義矛盾しているが、実際そうとしか形容できない作品群)が一角を占める。大半は芸能人が原作を提供しているのだけれど、この宇梶剛士をモデルにした白鳥貴久の『不良皇帝 BAD BOY EMPEROR』もそのなかに数えられるだろう。2巻の末に収められた宇梶の「あとがき」を読むかぎり、エピソードの骨格は若き日の彼が経験した出来事を元にしていると覚しき反面、設定のレベルでは携帯電話やスマートフォンが存在する今日を舞台としているのである。

 ゼブラという巨大なチームのトップ、立花了が本編の主人公であって、その巨大なチームをめぐる抗争と内紛とが描かれる。正直なところ、この程度の内容であれば、いや、この程度の内容であるからこそ、自伝をベースにしているという保険が必要だったのかもしれないが、目新しさはまったくないし、深く感じ入る点も少ない。過去に散々読み継がれてきた不良少年のフィクションを再生産しているにすぎないものの、しかし、類型的であると同時に古臭い結構が、それに見合うだけの極めて硬派な性分を主人公へ与えていることに、価値を置くことができるにはできる。

 たとえば、品川祐や佐田正樹などのお笑いタレントが原作を提供した作品の主人公は基本的にクズである。果たしてそれが「昔はワルだった」というような自慢に入るのかどうかは知らないけれど、少なくともワルである以前にクズである。これは内容が成立するどこかの段階で、マンガ家の責任なのか原作の責任なのかの判別は難しいながら、倫理や硬派の概念がすっぽり抜け落ちてしまっているためであろう。無論、不良少年が倫理を抱く必要はないのかもしれない。ただし、そこで硬派であることの必要をも希薄にしてしまったなら、一体何が残るのだろうか。文字どおり、クズのみが残るのでは、という疑問が生じる。

 品川や佐田と宇梶では一回りぐらい世代が違う。それは70年代から80年代に青春を過ごした者と80年代から90年代に青春を過ごした者の違いでもある。この間に、おそらく、硬派という概念は変容した。単にそうした影響の差異が主人公のカラーを分けているのだとしても、クズを描いているのかワルを描いているのか。印象は大きく変わってくる。ちなみに1巻の前半部分はかつて『COOL TEAM』として発表されていた作品と同じものである。

 『COOL TEAM』について→こちら
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2013年04月19日
 現在、配信中の「メルマガPLANETS VOL.30」に村上春樹『色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年』のレビューを書きました。詳細は→こちら
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2013年04月16日
 ないしょの話~山本ルンルン作品集~ (フラワーコミックス)

 山本ルンルンの読み切り作品集『ないしょの話』をアタマから読んでいき、一番最後に収められた「空色のリリィ」に目を通しはじめたとき、思わず、ぎょっとする。なぜか。説明するのは容易なようでいて案外難しい。が、まずはこういえる。「空色のリリィ」の登場人物が、一番最初に収められた表題作「ないしょの話」の登場人物と重なっているためである。加えて「空色のリリィ」は時系列的に「ないしょの話」のその後を描いていると大抵は判断されるからなのだけれど、もちろん、これだけのことで、ぎょっとするはずがない。問題は、登場人物が同一(と見なすことが可能)でありながらも世界の在り方それ自体がまったく異なったものへと変貌している点だろう。しかし、単に設定が変更されているというレベルで、ぎょっとするのでもきっとない。

 もし、「ないしょの話」が幼年期をモチーフにそれを寓話化しているのだとすれば、「空色のリリィ」は少女期をモチーフにそれを寓話化しているのだといえる。それがたぶん時系列の違いとして現れている。だが、ここで慎重にならなければならないのは、その寓話化の作用が、世界の在り方それ自体をまったく異なったものへと変貌させていることなのであって、つまりは幼年期に感じられている世界と少女期に感じられている世界とが、地続きでありつつも、実際には切断されている。こうした真理をありありと突きつけてくることに、おそらく、ぎょっとするのである。確かに、「ないしょの話」の登場人物と「空色のリリィ」の登場人物が重なっているのは、固有名を流用したパラレル・ワールドの手法という解釈もできるにはできる。だが、パラレル・ワールドでしかなく、両者に深い関連はないのだと読み手が素直に受け入れられるなら、ぎょっとすることは絶対になかろう。

 ポップもしくはキッチュなファンタジーは、この作者の持ち味だ。そこにゾンビ映画的なリアリズムが、ほとんど無遠慮に入り込んできているのが「空色のリリィ」である。表面上は、ゾンビの出てくる出てこないが、「ないしょの話」のメルヘンと「空色のリリィ」とを隔てている。ゾンビの出てくる設定によって、「ないしょの話」における家族の肖像は消失している。ええ、まさかあの登場人物がこんなことに、と驚きはする。しかし、その程度の驚きに止まるなら、ただ時系列をまたいでいるにすぎない。注意されたいのは、そのまたいだなかに何が描かれているか。何が描かれているせいで、ぎょっとするのか。既に述べた通り、幼年期に感じられていた世界と少女期に感じられる世界とが、地続きでありつつも、実際には切断されているということ。その真理が、寓話化の作用を通じ、ありありと突きつけられてくることに、それは由来している。

 たとえば「ないしょの話」における寓話化の作用は、ヒロインであるケイトの空想、純粋な子供心とでもすべき人間の観念の側からこの世界を変えうるものとして現れている。反面、「空色のリリィ」において寓話化の作用は、ゾンビの野蛮さに変えられてしまったこの世界として現れる。そこではもはやヒロインのケイトは純粋とでもすべき子供心を持ったままでは生きられない。幼年期に感じられたすべてがすでに変貌を遂げた後の世界を彼女は生きるのみであって、その、かつてとはまるで別人のようにしか思われない境遇が、少女期になって感じられている世界を抽出しているのである。ところで、ケイトの幼馴染みであるマックだけが唯一、決して変わらない存在として両方の作品に共通している。より正確を期すなら、変わることを許されていない。

 おそらく、「ないしょの話」でのマックの役割は少女に遅れる少年(少女の進歩に遅れてついていく少年)のイメージだろう。また、ケイトにとってそれは純粋とでもすべき子供心を担保するものであった。こうした役割は「空色のリリィ」でも大きく違わない。

 幼年期に感じられている世界にあっても、少女期に感じられる世界にあっても、マックは同質の役割を引き受け続ける。成長することも退場することも叶わず。象徴的な意味で、正しくゾンビのごとく。「ないしょの話」のケイトは、姉に憧れる。彼女はボーイフレンドの自転車に二人乗りで街へ出かけていく。このとき、幼年期のケイトに対して姉の役割は少女期の可能性を指し示している。「空色のリリィ」のケイトはその姉と同じようにボーイフレンドと一緒に自転車で出かけていくことができる。このとき、彼女こそが少女期の可能性を指し示しているのである。ただし、いずれの場合であれ、マックはケイトから決して変わらない存在として認識され続ける。すなわちマックとは、幼年期に感じられていた世界が少女期に感じられる世界へと変貌してしまったことを顕著に知らしめる。ある種の特異点にほかならない。
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2013年04月15日
 おはようおかえり(5) <完> (モーニング KC)

 永遠に続くものなんて何もないんだ。どんなに素晴らしい愛だっていつかは終わりを迎える。と、このような断言を物語にしていけば、普通は寂しさの非常に張り詰めた内容になるはずだ。しかしなぜだろう。鳥飼茜の『おはようおかえり』には、いやもちろん、寂しさがある。にもかかわらず、寂しさを確かめ、忘れずにいることでしか達せないぬくもりがある。そのぬくもりに泣いてもいいような、笑ってもいいような、新鮮でいて、懐かしい、正直な感動を覚えるのだった。全5巻ぐらいで充実しているマンガを、ということであれば、これを挙げたい。完結編に相応しい第5巻である。

 一保は京都を離れ、東京で恋人の実佑紀と同棲生活をはじめた。一方、長女の奈保子は元姑に願われ、夫抜きでその家に養子入りするのだった。次女の理保子といえば、今までと変わらず勝手気ままに過ごしているようでいながら、奈保子の決断に対し、実際はわだかまりを持ち続けていた。はからずも離ればなれになってしまった堂本家の姉弟だが、日々は止まることなく、そして周囲の人々との触れ合いも自然と変わっていく。

 同時刊行となった『おんなのいえ』の1巻でも、鳥飼は姉妹(と母子)の関係を描いているけれど、家族というのがやはり一つのテーマとしてあるのだと思う。家族は良いものだとか、家族は難しいものだとか、の単純化ではない。人生という大袈裟な枠組みにとってでもいいし、生活というミニマムな営みにおいてでもいい。その、文字通り、骨肉のレベルで他人ならざる存在が、ある場合には助けとなり、ある場合には障害となるとき、そこには一体どのような意義が生じているのであろうか、と。おそらく、誰もが正確に答えを定めることができない(主観を通して一方的にしか答えを定めることができない)疑問に対して、空気や温度と同様に抽象的かもしれないが、しかし心を動かすイメージの形で応答しているのである。

 福住の子供を身籠もった奈保子に関与しようとする理保子が、それを拒否され、耐えきれずに訣別を告げる場面へ目を向けられたい。成り行き〈キョーダイやめたらええのん違う?〉と口に出した奈保子を見る理保子の視線が〈……もうやめてるやんか…… 紙の上でも関係なくなって 重大な選択にも立ち合うことも許されへんようなん そもそも家族なんて呼べへんし〉という決定的な一言を引き出している。表立った感情が示されているわけではないのに、大変印象に残るシーンとなっている。この後、理保子は手伝っていた奈保子の雑貨屋を辞め、しばらく顔を合わせる機会もないのだったが、馴染みの客に理保子のことを尋ねられた奈保子の受け答えは、作品の全体像を考える限り、たぶん、恋人や夫婦の関係は、休むことができないが、辞めることができる反面、親子や姉妹の関係は、辞められないかもしれないが、休むことができる、という要約を含んでいるのではないか。

 有里恵との別れを経、実佑紀と新しい関係を築き上げてきた一保の姿からは、恋愛と自立とをシーソーに乗せた青年のテーマが見て取れるだろう。東京での生活や仕事、意欲的に変化を受け入れようとすればするほど、一保と実佑紀の気持ちはすれ違っていく。当初はかけがえがなかったはずの親密さも段々と薄れていく。進んでしまった時計の針は戻らないという喩えがあるけれど、正しくそのように二人の溝は深まっていく。もし、恋人同士でい続けるという関係が、休むことができないかわり、辞めることのできるものだとすれば、その選択肢がやがて持ち上がってくるのである。それでも失ってはならないものに手を伸ばそうとして、電話越し、実佑紀に呼びかける一保の言葉がどう実を結ぶか。これがラヴ・ストーリー上のクライマックスだといえよう。

 果たしてそれがどう実を結んだかは書かずにおく。いやそれ以前に二人がどうなったのかは具体的に描かれていないというべきか。だが、ちゃんとある。一保が、そして理保子や奈保子が、その先どこへ行き着いたか。それを教える風景が物語のなかに、最後に、ちゃんと、ある。寂しさを確かめ、忘れずにいることでしか達せないぬくもりの宿った場所が間違いなくそこにあることを、次のような声として聞く。〈僕らはひたすらに出会って別れて そのインパクトの前では理由や意味なんか なんの価値もない〉〈近付くことに意味なんてない〉〈離れることに理由もない〉〈ただ その手から離れてしまったものを惜しみ続け〉〈今 手に触れられるものを精一杯愛でて〉〈ここの景色は止まってみえるけど 僕たちは明日には全て形を変えてしまうことを 皆 知っている〉〈せめて いっときでも ここにいてと祈りながら 流れる〉

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他鳥飼茜に関する文章
 「家出娘」について→こちら
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら
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2013年04月14日
 きょうのキラ君(5) (講談社コミックス別冊フレンド)

 彼女は〈キラ君にもらった言葉をくりかえす〉それはつまり〈オレの生きる意味はニノンなんだ〉ということである。前作『近キョリ恋愛』でハイ・テンションなラブコメに作風を振り切ったみきもと凜が『きょうのキラ君』に描いているのは、所謂難病もののヴァリエーションだといえる。意中の人が余命いくばくもない。あらかじめ定められたリミットをダシに切ないラヴ・ストーリーが編まれていくのだった。と、こう説明したら、いかにも辛気くさい内容に思われてしまうかもしれないけれど、ヒロインであるニノ(岡村ニノン)のパーソナリティにちょっとしたエキセントリックさを与え、さらには先生(ニノが飼っているオウム、人の思考や言語を理解する)というコミック・リリーフ兼、これはファンタジーですよ、と示すためのサインを用意することで、全体の色合いを、決して暗くはなく、むしろ明るいものとして輝かせている。

 イケメンさんで人気者、普段はチャラい性格のキラ(吉良ゆいじ)だが、実は学校の誰にも、友人にも言えない秘密があった。それは病気のせいで間もなく死ぬということ。その秘密がまさか、家が隣同士だけれど、キラとは対照的にクラスでは浮いた存在のニノに知られてしまう。自分の悩みを受け入れてくれた彼女にキラが心を開いていくのは当然の成り行きであったろう。周囲から見ればギャップの大きな二人は、しかし次第に気持ちを通わせ合うのだった。以上がこれまでのあらましであって、ついに恋人同士となったニノとキラが、ごく普通のカップルとして、すれ違いや嫉妬を通じ、雨降って地固まるかのような様子を、この5巻は追っている。

 病院でのキラの知り合いである美少女、レイ(矢作零)の登場は、そしてそれがヒロインの恋路に対し、牽制の役割を果たしているというのは、もちろん、難病もの云々は関係なく、こうした少女マンガのセオリーにほかならない。なぜ自分が大切な人間から選ばれたのか。相手にとって本当に自分は相応しいのか。交際の初期段階おいて、非常に普遍的なジレンマを、それまで奥手に過ごしてきたニノはようやく経験することとなる。先に、ごく普通のカップルとして、と述べたのは、そのような意味で、である。結局のところ、ニノがキラを選ばなければならなかったように、キラもまたニノを選ばなければならなかった。このことが、そこであらためて、両者の実感を伴い、確認される。ある場合には、人はそうした出会いを運命と呼ぶ。運命と呼ばれるものの幸福な印象が、少なくとも現時点では、本来湿っぽくなりそうなラヴ・ストーリーの、その色合いを明るく輝かせているのである。

 ニノとキラのラヴ・ストーリーに焦点が絞られているためか、新しく出てきたレイを含めても、登場人物は極めて少ない。裏を返すなら、キー・パーソンしか見当たらないということでもある。友人であるキラに憧れ、ニノにも惹かれながら、屈折した心境から二人に厳しく当たる矢部も、やはりキー・パーソンの一人だろう。基本的には嫌な奴だが、憎めないタイプであるように描かれている。今後、キラの病状が深刻になっていったとき、ケータイ小説の『恋空』になぞらえていうのであれば、たぶん、ヒロに近いポジションを担っていくことになるのではないかと思う。が、とりあえずはニノとキラのあいだに割り込み、三角関係の火種となるような立場にある。

 最初に書いた通り、所謂難病もののヴァリエーションといえる。ささいなワン・シーンやセリフ回しが、しばしば過剰に響く。思わず涙を誘われたりしてしまうのは、やがて喪われてしまう存在が物語の中心に置かれているためである。無論、奇跡的に難病を克服する可能性があるにはあるものの、フィクションの力学上、どうしたって喪われていく対象としてキラは見られてしまうし、その予感は『きょうのキラ君』に付せられたエモーションから絶対に抜き取ることのできない重要なファクターだ。けれど、もう一度繰り返していうのだったが、作品の色合いは決して暗くはない。それは「死」を介在させながら、しかしあくまでも「恋愛」によって結びついた少女と少年の眩しさを、ユーモラスなやりとりを交えつつ、とってもチャーミングに導き出せているがゆえに、であろう。

・その他みきもと凜に関する文章
 『近キョリ恋愛』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
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2013年04月12日
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 石丸なおの『サクラノ嵐』は『週刊少年チャンピオン』2013年12号から19号にかけて掲載された。全8話の作品である。砕けた感じの絵柄や、屈託がない暴力の描写から、当初はスラップスティックでアナーキーな路線をいくのかなと思われたのだったが、最終的にはヤンキー・マンガにおけるシリアスな側面を真面目に踏襲しており、登場人物たちの配置も非常にオーソドックスなものであった。ただし、そこが良かったとは言いにくい。若い世代ならではの勢い、荒削りであるがゆえにジャンルを上書きしうるかのようなそれを匂わせていたはずなのに、ああ、またこの手のお話ね、という既存のパターンに収まってしまっている。

 小学生の頃、その地域で知らぬ者のいなかった問題児、桜野嵐が高校生になって引っ越していった先から帰ってきた。不良少年のチームが様々入り乱れるなか、再び嵐は注目のマトとなる。一方、嵐とは無関係に他のチームを圧倒しつつあったのが御影零率いる「魔獣」である。実は嵐と零は幼馴染みだった。いじめられっ子だった零は嵐の強さに憧れ、独立独歩で現在の地位を築き上げたのだ。しかしその歩みは今も暗闇のなかを彷徨っているかのよう。果たして嵐は零を救えるのか。対決のときがきた。

 嵐と零の関係は、近年のヤンキー・マンガに定型的なパターンのヴァリエーションにすぎない。田中宏の『グレアー』における大友勝将と嵜島昇喜郎しかり、橋ヒロシの『QP』における石田小鳥と我妻涼しかり、山本隆一郎の『GOLD』におけるスバルと御吉十雲しかり。光と影のイメージを託されながら衝突せざるをえない両の極端を象徴しているのである。無論、テーマのレベルで見るなら、それはまだまだいくらでも追求することのできる課題を残しているのであって、アプローチとしては決して意義のないものではない。だから残念なのは、作者がそこで目新しい意識を開拓していない。つまりは『サクラノ嵐』が先行する作品を反復するに止まっているという一点なのである。
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 クローズZERO2鈴蘭×鳳仙 2 (秋田トップコミックスW)

 世間の認識がどうかは知らないけれど、必ずしも橋ヒロシのフォロワーと断じ切れない立場にあって、殺伐系とは異なった路線のヤンキー・マンガを展開し、それがテレビ・ドラマ化されるほどの人気を博している『クローバー』の平川哲弘が、映画『クローズZERO II』のコミカライズを手掛けるというニュースを最初聞いたとき、うーん、となってしまったのは、資質のレベルで合致しない。もしかしたらミスマッチではないか、との予断を持ってしまったためである。が、しかし、結果からすれば杞憂であった。原作の内容に沿いながら、正しく平川哲弘版としか述べようのないアレンジの『クローズZERO II』が『クローズZERO II 鈴蘭×鳳仙』には描かれている。そのことは2巻に入り、より顕著となっていると思う。

 この場合の原作とはもちろん実写である映画のそれを指しているわけだが、設定の上では橋ヒロシの『クローズ』を抜きにして存在しえないもののことでもある。まあ、『機動戦士ガンダム』における宇宙世紀みたいな着想をベースに、『クローズ』というヤンキー・マンガを見ながら、平川が独自の解釈で新規のヴァリエーションを編んでいる程度に考えておけばよい。事実、『クローズZERO II 鈴蘭×鳳仙』の主人公、滝谷源治は、『クローズZERO II』で小栗旬が演じたイメージと微妙に違う。金子ノブアキが演じた鳴海大我についても同様だろう。むしろ、『クローバー』の登場人物に近い。そして、これが橋のオリジナルともその副次創作的な映画とも別種のエッセンスとなり、推進力を作品に与えている。

 メインのストーリーに変更はない。題名にある通り、鈴蘭男子高校と鳳仙学園の因縁と対立を軸足にしているのだけれど、そこで平川は映画のヴァージョンよりもさらに詳しく鳳仙学園の内部にカメラを向けていく。美藤真喜雄のカリスマが一段と強調され、鳴海大我のモチベーションが深く掘り下げられている印象だ。失われてしまった人間とそれを失ってしまった人間のテーマは、オリジナルの『クローズ』においても鳳仙学園と美藤兄弟の姿に託されていた。当然、映画『クローズZERO II』にも反映されているが、平川のヴァージョンは、真喜雄と鳴海、鳴海と美藤竜也、達也と真喜雄のラインをクローズ・アップし、鳳仙学園というまとまりの根っことなるような部分に紙幅を割くことで、失われてしまった人間の大きさ、それに比例する不在の大きさと挫折はいかに乗り越えられるかを具体的に連結させているのである。

 もっとも、カメラが鳳仙の側に行き過ぎ、鈴蘭と滝谷源治の魅力がさほど目立たなくなってしまっているところもある。おそらく、平川自身もそれに気づいており、主人公のサイドへテコを入れるべく用意されたのが、河田二高の久賀陽二だろう。映画に(たぶん)いなかった登場人物である。彼の関与がどのような影響をもたらすのか。現時点では不明だが、方向性を定められずにいた者が周囲の期待を再獲得するにはあらためて自分を立て直さなければならない、という意味で鳴海とパラレルなポジションに置かれた源治のプラスαたりうるのは間違いないし、芹沢多摩雄やリンダマンにはない働きを期待させる。

・その他平川哲弘に関する文章
 『クローバー』
  14巻について→こちら
  8巻について→こちら
  1話目について→こちら
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2013年04月04日
 Abandon All Life

 こうしたジャンルのファンにとって、CONVERGEのカート・バルーが自身のゴッドシティ・スタジオでバックアップ、というのは何かしらのブランドになっているのではないかと思う。が、個人的にはさほど歓心しない。いや、決してカートの才覚を疑っているわけではないし、それが成果として芳しくないのでもない。実際、そのようなクレジットを持った作品はどれも、十分ファンの期待に応える内容に仕上がっているだろう。だから文句ではなく、残念なのは、なのである。まず、いま現在、ゴッドシティ・スタジオが関わった作品が結構な数にのぼること。そして、それらの肌触りとでもいうべきものが、とりわけ2010年以降、同様の指向性をアピールしているように感じられることであって、つまりは各個のオリジナリティ、もしくは希少性が見えにくくなりがちな側面を抱えている点なのだった。無論、こちらの勝手な受け取り方にすぎないのだが、質とは完全に異なったレベルで、驚きや衝撃を覚える機会は減った気がする。単に慣れてしまったといえば、そうだ。また、同様の指向性のなかから銘々のオリジナリティやポテンシャル、ディテールの違いを本来は聴き取らなければならないのかもしれない、として。

 NAILSのセカンド・アルバム『ABANDON ALL LIFE』もエンジニアとミックスのクレジットにカート・バルーとゴッドシティ・スタジオの名がある。2010年にリリースされた前作の『UNSILENT DEATH』と等しく、である。プロデュースはバンド自身とカートが行っている。これが、いやしかし、先述したことといくらか矛盾するけれど、他と同様の指向性をうかがわせながら、そこに止まらず、NAILSならではの個性を如実かつ猛烈に知らしめる作品となっているのだった。

 初期のTERRORでギターを弾いていたトッド・ジョーンズによって結成されたバンドである。痩身ではなく、首回りの太いハードコアがパワフルなサウンドの源泉となっているかのよう。それをスピード・アップさせることでウルトラ・ヴァイオレンスなイメージが高められている一方、スラッジやドゥーム、デス・メタルのニュアンスが入り込んできており、カオティックであったりエクストリームであったりのイメージが一層甚だしくなっている。ザクザク刻まれる高速のリフがNAILSの真骨頂を伝える1曲目の「IN EXDOS」からシームレスで放たれる数々のナンバーに圧倒されたい。矢継ぎ早に叫ぶスタイルのヴォーカルが勢いよくガッツとファイトを前傾させているのもあって、トータルで10曲17分強のアルバムに正しく待ったなしのエネルギーを降臨させている。馬車馬のごときリズム隊にも目を瞠る。〈SO GO TALK YOUR FUCKING SHIT〉の一声がエンディングで見事に決まる9曲目の「CRY WOLF」を経て、ラスト・ナンバーの「SUUM CUIQUE」へ。ついにはノイズとスローなグルーヴに濃密なカタルシスが溢れる。ヘヴィであるがゆえの深さを覗かせる展開に舌を巻くのである。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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