ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2013年01月30日
 ばぶれもん 1 (ジェッツコミックス)

 さあ、無礼講をはじめよう。奥嶋ひろまさ、同時リリースとなった『アキラNo.2』の1巻と『ばぶれもん』の1巻は、どちらもギャグの方向にフルスウィングした内容となっていて、思い切ったな、と感じさせるのだったが、とりわけ後者である。なぜかここ最近、たとえば柳内大樹は『新説!さかもっちゃん』で、加瀬あつしなら『ばくだん!〜幕末男子〜』で、といった具合にヤンキー・マンガ家ゴーズ・トゥ幕末的な作品を見かける機会が少なくはなかったのだけれど、奥嶋の『ばぶれもん』もそこに加えられるだろう。副題には「最強ヤンキー幕末画録」とあるとおり、近代化を目前にした景色のなかでヤンキイッシュなボーイズ・ライフが描かれている。

 今どき喧嘩上等で最強を目指す千葉竜平には居場所がなかった。23区の不良少年を片っ端から倒しても、ただ白けた目で見られるだけであった。十代が短く、限られたものであるなら、せめて熱く生きたかったのである。タイマンを挑んだ相手にさえ〈生まれてくる時代間違ったんじゃねぇか?〉と言われる。だが〈何の志もなく ぐずぐず日を送るは実に大馬鹿者なり〉という父親譲りのポリシーをねじ曲げるつもりはなかった。それがいよいよ東京制覇を果たそうとしたとき、恨みを晴らそうとする連中に取り囲まれ、リンチされた挙げ句、頭部に鉄パイプを受けて意識をなくしてしまうのだった。さすがに死んだ、と思った。〈志半ばで俺は死んだのか?〉と思った。しかしどうしてか。左肩に入れた家紋のタトゥーと何か因縁があるのか。時代を越えた文久元年(1861年)の土佐で目を覚ますこととなる。

 要するに、現代のヤンキーが幕末にタイムスリップし、当時の歴史的な状況に介入していくというのが主な筋書きであって、まだ龍馬が世に出ていない坂本家に匿われたことから尊皇攘夷の激動に関与せざるをえなくなるのだ。が、最初に言ったように、作中のテンションはギャグの方向に振り切れていて、シリアスなパートはかなり控えられている。土佐藩における身分制度の厳しさは、普通、坂本龍馬の青春に光を当てたフィクションでは暗いイベントとして扱われがちなのだけれど、『ばぶれもん』の場合、下士と行動をともにするヤンキーの主人公が公衆の面前で上士にタイマンをふっかけちゃうもんね。ある種の無礼講をカタルシスにしているのである。これは考証がどうというより、ギャグあるいはパロディのマナーを強めに採用しているためだろう。主人公のセリフには幕末を舞台にしたタイムスリップもののヒット作『JIN -仁-』に関する言及がうかがえるし、つのだじろうや楳図かずおの絵柄を模したカットを積極的に取り入れているのは、読み手がどこまで許せるかを試しているサインなのだと思う。

 いずれにせよ、やりたい放題なところがある。無論、幕末の運動が本格化するにつれ、ギャグでは乗り切れない部分が出てくるのかもしれない。必然としてシリアスなパートが増えてくるのかもしれない。現在は後の展開にショックを作るための準備段階にすぎないのかもしれない。だってどれだけコミカルに描かれようと武市半平太はやっぱり悲しいでしょう。かの『おーい!竜馬』でさえ、初期はのんびりしてたもんな、であろう。だが、前近代のルールを直接ぶち壊しかねない主人公の無茶苦茶ぶり、ギャグでしかありえない行き過ぎこそが『ばぶれもん』の大きな魅力となっているのである。

 第一、未来からやってきたことをまったく隠していないのが無茶苦茶である。そして、主人公が未来からやってきたと吹聴するのを他の登場人物たちがあまりにも素直に受け入れていることに対し、ツッコんではいけない。それは野暮ってもんだろう、と退かせる強引さがあるのだったが、実際に幕末の有名人を坂本龍馬しか知らないヤンキーがそこでできることといったら、i Podを使って龍馬の甥である高松太郎にザ・ブルーハーツなどのロック・ミュージックを聴かせたり、土佐勤王党の志士に『ドラゴンボール』のストーリーを広めたり、サッカーを教えたり。タイム・パラドックスお構いなしにしても、極めてしょぼい。しかしそれは今日性の反映であり、その現代をなぞらえた主体の持ち方と封建社会にまで遡った主体の持ち方との対照において、もしくは両者のあいだに共通項を探り当てることで、ギャップのギャグが表されている。と同時に、男子たる者かくあるべし、な生き様系のエモーションがもたらされているのだ。

 それにしてもまた坂本龍馬だ。柳内大樹の『新説!さかもっちゃん』や加瀬あつしの『ばくだん!〜幕末男子〜』の例があるように、ヤンキー・マンガ家ゴーズ・トゥ幕末的な作品とアプローチは決して珍しくはないのだけれど、必ずや坂本龍馬はアウトサイダーという意味で不良少年のアティテュードと一致し、さらにはスケールのでかいカリスマとして現れてしまう。ヤンキーと坂本龍馬がどうして通じ合うのか。ちゃんとした考察が待たれるが、これはおそらく司馬遼太郎の『竜馬がゆく』によって一般化されたイメージ、そしてそれは消費社会に並行して学歴や出世の問題がトピックとなりつつあった1960年代(昭和三十年代)後半に発表されたことの影響を遠回しに受けている(石川忠司の『新・龍馬論』や浅羽通明の『昭和三十年代主義』、斎藤環の『世界が土曜の夜の夢なら』等を参照することが可能だろう)。

 さておき『ばぶれもん』では、1巻の最後になって、ついに坂本龍馬が出てくる。やはり、というか。フェンダーのストラト・キャスター型に改造された三味線(かな、弦が六本あるものの)を肩にかけたその姿はどこからどう見てもアウトサイダーの、カリスマの風貌であった。

・その他奥嶋ひろまさに関する文章
 『ランチキ』
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2013年01月28日
 pupa(3) (アース・スターコミックス)

 兄妹間のアブノーマルでグロテスクなダーク・ファンタジーだと思っていたマンガが、その本質には父と母の、そしてその内奥には雄と雌の、つまり、人間観のレベルでは普遍的な、さらに生態系のレベルにおいては真理的なテーマを潜めていたことが明かされる。 茂木清香の『pupa』3巻である。が、それにしてもクソ野郎のろくでなしである四郎(主人公の父親)がまさかこんなにも家族想いの行動を見せるなんて。いや、クソ野郎のろくでなしであることには変わりはないのだけれど、あまりの活躍にちょっと頼もしく感じてしまったわ。

 かくして、伊万里医神会に介入した四郎の発言は、主人公である長谷川現(うつつ)と妹の夢を苦しめるpupaとは一体何なのか。どうして夢は化け物のような姿になってしまったのか。意外な真相を我々読み手に教えることとなるのだった。はたまた、その真相が意外なのは、結局のところ、こうと信じられていた因果関係が実際には逆さまだったと暴露されているためであろう。夢は不幸な事件を通じて異形と化したのではなく、そもそものはじめから、その存在が誕生した時点ですでに人間とは別の生物だったのだ。夢の正体に気づきながら、誰にも相談できず、狂気に逃げ込まなければならなかった幸子(主人公の母親)の心境は、それが現の持っている記憶とまったく正反対の意図を含んでいたというのは、かなりおっかない。ホラーである。共同体の単位において、異常なのは父親や母親の方ではなく、現や夢の方だったことがばらされてしまうのだ。

 しかし、何が異常で何が正常か。作中では擬態と解説されている夢と現の運命は、他種の巣で孵化するカッコウの挿話を彷彿とさせる。我々の観念では異常に見えるかもしれないものが、自然の摂理を前にしたら異常でも正常でもない。ただ単に一貫した営みがあるにすぎない。だが、度を越した人間のエゴイズムがその野生らしい営みを壊し、暴力的にねじ曲げた結果として、あたかも不幸であるような物語を兄妹は背負わされてしまったのである。夢と同じくpupaであり、現に協力を申し出たユウの孤独もそれと並行している。この世界に唯一の寄る辺を、外からやってきた理不尽によって奪われてしまったユウの孤独は、『pupa』という作品が侵略と共同体の幸福とを裏表にしていることの暗示なのではないか。ここでいう侵略とは決してスケールの大きなものではない。あるいは侵害と言い換えた方がニュアンス的に正しいかもしれない。

 なぜ現と夢の平穏は破られたのか。いや、それ以前になぜ長谷川の一家は離散してしまったのか。さらに遡るなら、なぜpupaに異変が起こらねばならなかったのか。これらの出来事はすべて、何者かが何者かの生活を侵害したことに端を発しているのであって、文字通りの一連なりになっている。ともすれば元凶は、かつて伊万里医神会の中枢であった研究者のマリア(伊万里愛)だろう。彼女の態度こそが正しく度を越した人間のエゴイズムを体現しており、常軌を逸してしまった現と夢の立場は図らずもその悲劇に試されるものとなっているのである。現と夢のあいだに横たわる感情が、兄妹であることに由来しているのかどうかはともかく、それが侵略のもたらした苦難に対する一つの答えを為しているのは間違いない。

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2013年01月25日
 爆音伝説カブラギ(6) (講談社コミックス)

 戦争は止められるか。このような問いを、佐木飛朗斗が原作のヤンキー・マンガは喩えとして強く抱いているのだったが、ああ、しかしついに戦争がはじまってしまう。『爆音伝説カブラギ』の6巻では、誰かを殺された憎しみが誰かを死なせた悲しみを上回るとき、戦争は不可避になるという状況が描かれていく。

 鏑木阿丸を中心に一枚岩となった十六代目・爆音小僧が集会へ繰り出そうとする夜、免れえぬ怨念を理由に二つの巨大な勢力、朧童幽霊(ロードスペクター)と魍魎とが直接の対決を目の前にしていた。朧童幽霊の天目尊は、兄である七代目総長の駆を魍魎の十九代目統領の九曜幸叢によって殺されたと信じ、全存在を懸けてまでその仇を取らなければならなかった。また魍魎が以前にも増して結束を固くしたのは、九曜の妹である礼奈が朧童幽霊に殺されたと信じられていたためであった。礼奈と駆が実は好き合っていたと知る九曜の恋人、瑠美子は秘められた真相を阿丸に告げるが、しかし因縁はあまりにも込み入りすぎていた。すべてが一触即発のまま、爆音小僧が、朧童幽霊が、魍魎が、国道に爆音を響かせる。〈あ――? 相手ェ 何人何台カンケー無ェゾ? “対人(タイマン)”だろーが“戦争”だろーが“上等”だぜ〉

 平行軸というか水平軸というか、横線上の対立に紙幅を割き、膨らみ上がった相関図を一個の世界あるいは宇宙として機能させる。この極端性が佐木の作品の大きな特徴を担っているのだけれど、そこではしばしば時間の存在が失われる。本来は24時間と定まっているはずの一日に、決して収まりきらないであろういくつもの事件が描かれるのである。結果的にそれは、戦争がなかなかはじまらない前夜に登場人物を延々と引き止めるかのような措置になっていると見ることもできたと思う。だが、『爆音伝説カブラギ』において不良少年たちは意外なほど速やかに全面的な衝突を迎える。

 過去の回想は筋書きを明瞭にしている点も含め、時間の垂直軸が物語の動力とほとんど一致しているためである。もちろん、この勢いで爆音小僧VS朧童幽霊VS魍魎の三つ巴に決着がつくわけではないのだろうし、ここからさらに二転三転する展開が待っているに違いない。しかし時間の垂直軸によって、ネガティヴなモチベーションに煽られながら戦争がはじまるべくしてはじまる、その局面が顕著に示されることとなっている。

 戦争は止められるか。このような問いは、まだはじまっていない戦争に対して投じることが可能であるし、すでにはじまってしまった戦争に対して投じることも可能である。いずれにせよ、戦争が不可避となるような状況のなかで発せられるものであろう。

 以前にも述べたのだけれど、佐木の作品によくいるタイプの消極的な主人公と阿丸は違っている。むしろイケイケの鉄腕ぶりに主人公としての真価が現れている気さえする。たとえば『疾風伝説 特攻の拓』の浅川拓や、この『爆音伝説カブラギ』と同じく東直輝とコンビを組んだ『外天の夏』の天外夏が、穏健派に近かったのとは性格が異なっているのである。では、鏑木阿丸に託された役割とは何か。そうであってもやはりどこかで戦争を止めることであって欲しいと思う。


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 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
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  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』(漫画・所十三)
  1巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
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2013年01月23日
 ロマンチカ クロック 1 (りぼんマスコットコミックス)

 槙ようこのキャリアを通してみると(妹である持田あきが原作であってさえ)大きく二つの理想がイメージされていて、つまりはそれが作品の主だった柱を作り出しているように思われる。理想の一つは、学校は楽しい場所であるべきだということであろう。もう一つは、家族はかけがえのないものであるべきだということである。もちろん『りぼん』のイズムを反映した結果にすぎないのかもしれないが、実際に槙のマンガにとってチャーミングなメリットとなっている点に変わりはないのだし、そうしたメリットは当然この『ロマンチカ クロック』の1巻にもよく出ている。

 ヒロインは明るく活発な14歳の少女、杏香音だ。彼女には双子の兄、蒼がいる。しかし蒼は杏香音と正反対の性格で、口数も少ないし、引きこもりと見なされている。それがとあるきっかけで学校へ顔を出すようになり、明晰な頭脳と持ち前の容姿を高く買われ、生徒たちの人気を集めはじめると、目立ちたがり屋の杏香音は気に食わない。そもそも仲睦まじい兄妹ではなかったけれど、以前にも増して蒼に敵対心を抱くのだった。とはいえ、二人のあいだには、当人たちですら気づいていない確かな信頼があるようでいて、周囲の人間を巻き込みながら次第に歩幅を合わせていく。というのが、おおよその筋である。

 賑やかな学園生活を経ながら兄妹の繋がりが強まる。こうしたストーリーに、作者の、らしさ、は現れている。兄妹を中心とした友人関係や、二人を見守る家族の視線が、作品の温度を大変微笑ましく表しており、またこれによって、ラヴ・ロマンスの部分がいくらか退いて感じられるのも、作者の、らしさ、である。もちろん、ラヴ・ロマンスにあたるパートはしっかりとある。学園生活に恋愛は付き物なのである。しかしそれは(少なくとも今のところ)メインのプロットではないだろう。やはり杏香音と蒼、この兄妹の、心の距離が『ロマンチカ クロック』のテンションを上げ下げしているのだ。

 学校は楽しい場所であるべきだということも、家族はかけがえのないものであるべきだということも、現実的には絶対ではないので理想としてありうる。『ロマンチカ クロック』は、子供の目の高さで、あるいはそれが大人びていく過程のなかに、エモーションを描いている。場合によってはその幼さが、近親相姦を想像させる下世話なフックを(潜在的には存在するとしても)斥けているのだけれど、何より状況はいくらでも変えられることの可能性を素直に代弁している点が大きい。絵柄に多少の変化を加えてきているが、中身の方では従来通りの槙ようこが貫かれている。

・その他槙ようこに関する文章
 『勝利の悪魔』3巻について→こちら
 『山本善次朗と申します』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『14R』について→こちら
 『たらんたランタ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『STAR BLACKS』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『愛してるぜベイベ★★』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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2013年01月18日
 海の見える街

 畑野智美、またもや地方都市の憂鬱を掴まえる、といったところか。第23回小説すばる新人賞となったデビュー作の『国道沿いのファミレス』や続く『夏のバスプール』で郊外に特徴的なワンポイントを「○○の××」と題名に置いてきた作者である。三作目となるこの『海の見える街』では、同じく題名にそうしたパターンを踏襲しつつもいくらかイメージの広がりを与えており、実際、内容の方もこれまでのような主人公を一人の男性に固定したものではなく、四人の男女が入れ替わりながら主人公をつとめていくという連作のスタイルをとっているのだけれど、基本的にはやはり、地方都市における閉じた生活圏に安住を求めるしかない現代的な若者の実相を題材にしている。

 先にいったとおり、主人公は四人の若者である。皆、海を間近にした市立の図書館で働いている。所謂草食系に分類されるような何事も穏当に済ましてしまいたいタイプの本田や、オタク的な気質と垢抜けないため女性としてもてはやされない日野、クールで周囲からの信頼も厚いが実は女子中学生にしか興味を示せない松田と、そして自分が若い女性であることの優位を包み隠さず我が儘に振る舞う鈴木(春香)が、それぞれの視点で、それぞれの時系列で、単なる同僚を越えたライン上にお互いの存在を認めていくことの結果が『海の見える街』の全景を作り出していて、無論、そこには友情や恋愛に発展しうる関係が含まれる。なかには三十代の人物もいるにはいるが、しかしあくまでも若者のヴァリエーションとして語り手を任せられている点が肝要だろう。

 松田に関しては少しばかり条件が異なっているものの、各人の生活において小動物との接触が欠かせぬ場面となっている。このことは銘々のエピソードに付けられた題名に象徴されているのだけれど、それについてはさほど気に留めなくてよいかと思う。確かに、小動物の介入は作中人物の心を開かせるキーになっていると同時にミニマムな物語を動かすためのキーとなっているのだったが、結局のところ、今日に典型的な習慣が切り取られている程度のことなのである。むしろ、その典型的な習慣を各人が共有し、なおかつその典型的な習慣を通じて映し出された(これも典型的な)寂しさが、ストーリーの都合上、どのような帰結をもたらすのかに注意を払われたい。果たして、一見すれば口当たりのよい結末は本当にハッピー・エンドなのか。

 北上次郎と大森望が『SIGHT』54号の「ブック・オブ・ザ・イヤー2012」エンターテイメント編の対談で『海の見える街』の結末を次のように評している。〈大森「(略)4章、どれも面白いんですけど、唯一の疑問はラストですね」北上「ああ、ああ。これ、この人の癖なんだよ、きっと。1作目の『国道沿いのファミレス』もそうじゃなかった?」大森「テレビドラマ的にね、めでたく収まってしまう。それならそれで全員うまく収めてほしかった」〉と。ここである。おそらくは「テレビドラマ的にね、めでたく収まって」いるところが、一見すれば口当たりのよい結末の、その印象に繋がっているのだが、深読みすればするほど、それは本当にハッピー・エンドなのか、という疑問を残すのだし、むしろリアリズムに由来する袋小路の決まりを覚えてしまう。

 一年間のおおよそを四人のエピソードに区切った物語の最後に訪れるのは、要するにロマンスという名の祝福にほかならない。身も蓋もない言い方をすると、単に一組の男女がくっついたにすぎないのだ。そして、それは地方都市の内部にとどまるしかない若者の、あるいは地方都市の内部を脱してもなお別の地方都市の内部に辿り着くしかない若者の選択であり、帰結として提示されている。もちろん、その帰結が妥協や挫折を意図した後ろ暗いものであったなら、小説の締め括りはここまでキラキラしたものとはならなかっただろう。『海の見える街』のロマンスは、間違いなく、狭い世界で自分が抱えた問題をいかに解決するかへの糸口となっているのであって、それがうまくいったことの例として最後にカップルが成立させられているのである。

 当然のことながら、うまくいかなかったことの例も存在する。四人の主人公を並べてみたとき、松田のとった選択は極めて異色だといえる。ナボコフの『ロリータ』をなるたけ正確に引用しながら日常の外側へあっさり飛び出してしまうのである。しかし彼は必ずしも悪人や犯罪者としては扱われていないし、四人のなかではむしろ真善美に最も近い立場でさえある。また、もしもその一編のみを取り出したなら、危ういがゆえに美しいロマンスを達成すらしているのではないか。だが、作品の全体像においては、平凡なロマンスの獲得の方にこそ幸福があるのだと強調する役割を果たしていく。つまりは地方都市の内部で普通に生きられることの価値を対照的に高めているのだ。

 誤解があってはならないのだけれど、そのようにして設けられた結末に不満があるのではない。そうではなくて、最初に述べたとおり、前作や前々作と同じく、地方都市における閉じた生活圏に安住を求めるしかない現代的な若者の実相をよく感じられるところに、この作者の何よりの特徴が出ているのである。『国道沿いのファミレス』も『夏のバスプール』も、ロマンスという名の祝福によって、筋書きはともかく、結末の印象が爽やかに変えられていた。反面、物語のその後を考えさせもした。大きな決心をした主人公たちはこのままずっとそこで充足した暮らしを送れるのだろうか。初々しいボーイ・ミーツ・ガールであった『夏のバスプール』は別としても、青年期の選択を描いた『国道沿いのファミレス』や『海の見える街』の場合、その問題は意外と根深いものだと思う。

 どれだけ平凡であろうとロマンスの獲得がハッピー・エンドの肩代わりをしている。これを批判するのは容易い。だが、それを否定してしまえば、現実の社会にあってもほとんどの幸福にケチがついてしまう。ある意味、『海の見える街』における松田の選択はネガティヴな語り口で拾われがちな郊外のイメージを踏襲しているといえる。しかし、それはもはや何十年も繰り返されてきた議論のステレオタイプを引きずっているにすぎない。これをいかに上書きするか。むしろ、残された三人の側のロマンスにその可能性は暗示されているのではないか。なぜなら、海が見えるか見えないかぐらいの違いしかよそとはないにしても、好きな人がそこにいるかいないか程度の違いでしかないとしても、この郊外を、この地方都市を肯定的に生きていく。こうした判断だけは誤魔化されずに備わっているのである。
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2013年01月15日
 銀のスプーン(6) (KCデラックス)

 ああ、どうか。この〈……ぼくがしあわせであるように …その人たちもしあわせでありますように この同じ空の下で …どうかしあわせでありますように〉と祈れる心優しい青年の前途が明るいものでありますように。願い。

 ほぼ同じ題名である荒川弘の『銀の匙』がほぼ同じ時期に存在しているのがどういう偶然かはさておき、小沢真理の『銀のスプーン』は、日々生きるていることの賛歌をささやかに歌うかのような作品であって、登場人物たちが自然と併せ持ったせつなさや、あたたかさ、厳しさに、ついつい胸を打たれる。

 料理のレシピや食卓にまつわるエピソードを作中に盛り込んだ内容は(ヤングな女性層に向けてカスタマイズされた)グルメ・マンガのカジュアルなヴァージョンとして区分することが可能だろうし、何よりもコンセプトありきでスタートした部分もあったのではないか。しかしそれを踏まえてもなお、主人公である律とその家族をめぐり幸せと不幸せのシーソーがいくつもいくつも繰り返されていく。筋立てにぐっとくるのである。

 確かに、女手一つで三人の子供を育ててきた早川家の母親が病気によって失われるかもしれない。という出だしからシリアスなパートのふんだんなマンガではあった。が、律と同級生である夕子の初々しいロマンスや、だめな大学生男子の典型みたいなサイキックスのコメディ・リリーフぶりなどがそうであるとおり、体温が冷えるほどヘヴィなムードを全面的にしているわけではなく、むしろにやにやしたり、ほっと胸を撫でおろせる一場面一場面のなかに「生活」と呼ぶに相応しい風景が眩しくひらけていた。

 それがここにきて、あまりにもやるせない展開を迎える。ルカという少年の無垢で真っ直ぐな眼差しは、そのあどけなさが似つかわしくない現実を律に教えるだろう。自分が養子であることを知り、悩んでいた律は、ようやく実の両親を訪ねていこうと思う。結果的にもたらされたのは、母親にネグレクトされている弟、ルカとの出会いであった。

 冒頭に引いた律の〈……ぼくがしあわせであるように …その人たちもしあわせでありますように この同じ空の下で …どうかしあわせでありますように〉という祈りは、結局のところ、聞き届けられなかった。代わりにひどく寂しい姿をしてその回答は彼の目の前に現れたのである。

 養子でありながら家族に充分愛されてきた律が、今の「生活」を幸せだと感じられれば感じられるだけ、ルカの不幸せは大変理不尽に思われてしまう。ルカに対して何かできることはないかと考えてしまう。誰だって他の誰かに差し伸べられるやわらかい手を持っている。周囲との関わりにおいて、それは間違いなく真(true)であったのだ。こうしたテーゼに含まれるやさしさこそが『銀のスプーン』の筋立てを魅力にしてきたものにほかならない。

 律ばかりではない。今巻(6巻)には、早川家の次男である調をメインに、彼の後悔を淡く描いた回が入っている。バスケット部の後輩が不良の仲間になるのを引き止められなかった調は、ガラの悪い連中を前に尻込みしてしまった自分の臆病さを強く噛みしめるのだった。無念である。無力である。けれど、他の誰かに差し伸べられるやわらかい手を持ち合わせていなかったならば、そもそもその後悔は生じていない。

 調の抱えていた問題と律の抱える問題にストーリー上の繋がりはないが、他の誰かに自分は一体何ができるのか、というアプローチのレベルで一致している。題名である『銀のスプーン』が指しているのは、おそらく、分け与えられる気持ちのことだろう。律とルカがはじめて顔を合わせるシーンでそれは実に印象的(あるいは象徴的)な役割を果たしていく。
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2013年01月11日
 新ドーベルマン刑事 1 (ニチブンコミックス)

 実に「いいんだよ、細けぇ事は!!」てなノリで『ブラックエンジェルズ』の松田鏡二を現代に蘇生させた平松伸二が、遂にあの『ドーベルマン刑事』の加納錠治をも墓場から引っ張り出した。熱心なファンからすれば、ああ、禁断の扉を開いてしまったな、といった感を持たざるをえない『新ドーベルマン刑事』の1巻である。ともあれ、オリジナルの『ドーベルマン刑事』は、大きく二つのシーズンに分けられたと思う。元自衛隊である武論尊の思想(イデオロギー)が強く出ていた初期と、ラブコメ・ブーム(当時)の影響から平松がお茶目なタッチを手に入れた後期とに、だ。個人的に、加納の本質はやはり前者にあって、連載を経るにつれ、その点は薄まっていったと考えるのだけれど、ではこの『新ドーベルマン刑事』の加納は果たしてどうだろう。『新ドーベルマン刑事』において、武論尊は「原作」ではなく「原案」としてクレジットされており、おそらく作品には一切関与していないと判断される。つまり、平松が単独で再現した加納錠治にほかならない。武論尊の思想(イデオロギー)を濃く引き継いでいないことは、もしかすると加納を記憶喪失にさせたまま現場に復帰させるというストーリーからも読み取れるのではないか。全身に銃弾を浴び、死んだはずの加納が、なぜか以前と変わらぬ姿で、かつての上司、西谷警視の前に現れる。オカルト的な展開は正しく平松が得意とするものである。とはいえ、その表情には旧『ドーベルマン刑事』の後期にあった和やかさはまったく存在しない。換言するなら、初登場した頃の加納錠治でもないし、ワキの女性たちとコミュニケーションがとれるほどには、まあ、日和ったよね、な加納錠治でもない。第三の加納錠治が『新ドーベルマン刑事』では描かれていることになる。問題は、その、第三の、とでもすべき加納がいかに魅力的な野郎なのか、に尽きると思う。が、正直、現時点ではどうだとは見なしきれないので弱る。たぶん作者は「古い」と「新しい」に分かれる価値観の対立のなか、もしも正義というものがあり、それが不滅であるとしたなら、そうした正義の普遍性をあらためて問い直すために、過去の遺物として葬り去られたカリスマを今日にカムバックさせている。無論、たとえ加納の主張する正義が無茶苦茶であったとしても、あるいはそれが誰も幸福にはしない正義であったとしても、加納以上に支離滅裂な論理をかざした犯罪者が容赦なく倒されるところに、読み手はカタルシスさせられるわけだ。が、まだそこまで『新ドーベルマン刑事』における加納のイズムは、どんなに凶悪な人間に対しても一定の理解を示そうとするような社会の通念や混迷を圧倒していない。懐古派ぶるつもりはなく、こうした時代だからこそむしろ、自衛隊は国民の防弾チョッキであるべきだとし、発動を許さず、いち刑事としてテロリストやクーデターと渡り合おうとしたあの『ドーベルマン刑事』を直接復活させてくれた方がよっぽどラディカルだし、熱く燃えられたかもしれない。それにしても、ラリったジャンキーが一般人を殺しまくる光景は、『ドーベルマン刑事』がどうというより、もはや平松伸二のマンガ全般に顕著な様式美であるな。
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