ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年12月23日
 爆音列島(18) <完> (アフタヌーンKC)

 既に再三再四述べてきたことだが、所謂ヤンキー・マンガのジャンルは現実的な成熟の苦悩をテーマにした脱モラトリアムの指向によって00年代を延命した。しかし近年ではモラトリアムという名のファンタジーを徹底する動きが主流になりつつあるようである。これは、たとえば講談社なら『A-BOUT!』を。秋田書店なら『シュガーレス』を。少年画報社なら『疾風・虹丸組』を。00年代の終盤から2010年代の初頭にかけて連載のはじまったヒット作として考えてもらうなら、納得のいくところだと思う。他方、ヤンキー出身の人物が原作を手掛ける『ドロップOG』や『デメキン』『OUT』等が、自伝的な内容でありながらも、実際にはありえない、というぐらいの過剰なフィクション化を通じ、反省のないエンターテイメントとして成立している点も看過できまい。こうした流れは、もしかすると男性向けの他ジャンルで、日常の気分を題材にしたドラマ性の低い作品が支持されている状況の合わせ鏡となっているのかもしれない。が、ここ数年である種の移行を経たことだけは間違いがなさそうだ。

 00年代を包括するようにおよそ十年続いた橋ツトムの『爆音列島』が、この18巻で完結した。80年代(昭和)の現実を背景にした自伝的な要素の強いマンガである。暴走族とヤンキー、単車ものとケンカものの区別を厳密にしないで話を進めていくのは申し訳ないが、少なくとも限りのある青春を生きる不良少年の姿をなるたけリアリズムに近づけながら追いかけた作品だったと思う。しかし正直なところ、『地雷震』の作者がこれを描いたという前提がなければ、いくらかアピールに乏しかったのも確か。ノスタルジックなディテールやドキュメンタリーであろうとする構成は、同系統のなかでもアッパーなパートを少なめにしていただろう。もちろん、橋ならではの迫力に溢れたカットや、ひりひり緊張に飲まれていく心理描写こそ、何よりの醍醐味であって、若さと虚しさの狭間をぬって刹那を輝かせようとすることの価値や本質を、ああ、という溜め息の勢いを借りて深く印象づける。誰もが勝者を愛するけれど、誰もが勝者になれるわけではない。結局は存在していることの証明を自作して自演しなければならない。その、どうしようもない切実さを等身大のサイズで切り取ろうとする手つきに大きな特徴があったのだった。

 クライマックスにおいて、暴走族を引退する間際の主人公、タカシが後輩たちを見、こう言う。〈オレはあいつら位の時 これが永遠に続くと思ってた 族は仕事になるって信じてたからな〉と。同輩の綾瀬が〈アホか お前 そんなバカな事あるわけねーじゃんか〉と述べるとおり、当然それはあぶくのごとき夢でしかない。そう、〈そうだよな 族が仕事になったら 面白すぎるもんな〉

 橋が「あとがき」で触れているように、上記したタカシの言葉は、物語のはじまり(1巻)を意図している。そして、それが叶わなかった場所で色合いを変えながら反復されているのである。他の作品を参照するのであれば、それはまた『サムライソルジャー』の桐生達也の野望を想起させる。永遠に終わらない王国を作り上げ、そこに留まり続けようとすることには、不良少年の、逃れがたき運命を逃れようとする意識が照射されているのかもしれない。『爆音列島』のタカシにとって、「ZEROS」という暴走族こそが、同化するに相応しい無限の王国であるはずだった(『サムライソルジャー』の桐生にとっては、それが「ZERO」という名のチームであるのは偶然だろうが、奇妙な符号だと思う)。けれど、時間には限りがある。必ずや終わりはくる。そうして訪れる青春のラストを巨大な自然との対比のなかに映し出した総括のエピソードは、事件らしい事件は一切起きないというのに、もしかしたらこれまでのどんな場面よりもエモーショナルだ。モラトリアムの完結が、険しい目つきと穏やかな目つきを入れ替えていくタカシの表情を経、堂々と表されているからだろう。黄昏や断念を、喪失の果てではなく、獲得された一歩として、鮮やかに響かせているためであろう。そして、それは80年代に限らず、また不良少年のみならず、過去に別れを告げ、新しく勇敢な世界へ足を踏み出そうとする者にもたらされるに違いない。美しい余韻なのである。
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2012年12月21日
 ばくだん!~幕末男子~(6)<完> (講談社コミックス)

 フィクションの世界には、坂本龍馬を悪党のように扱ってはいけない、というルールでもあるのか。大抵の場合、坂本龍馬はヒーローとして描かれ、生き、死ぬ。こうしたパブリック・イメージを越えることはほとんどない。もちろん、それこそが多くのファンに望まれているものなのだろうし、それに見合うだけのカリスマが実際的にあったのかもしれない。が、偶にでいい。偶にでいいので、もっと違った龍馬が見てみたい。様式美から外れた自由な龍馬が見てみたい。すげえ悪党のような坂本龍馬が見てみたい、のである。

 そこで、もしかすると悪党・坂本龍馬が描かれるのか、と期待させられたのが、加瀬あつしの『ばくだん!〜幕末男子〜』である。序盤、岡田以蔵を凶行に走らせ、その後、正体は不明なまま不穏な動向をうかがわせていたあたりで、おお、こいつが坂本龍馬であったなら間違いなく悪党だぞ。わくわく予感させられたのだった。さすが加瀬あつし、ステレオタイプな発想にはとどまらねえな、と。しかし結論からいえば、主人公である安達マコトとの直接対決が展開されるこの最終巻(第6巻)で、確かに悪党のような坂本龍馬ではあったけれど、その正体が坂本龍馬のフェイクであったことも明かされてしまう。ばかりか、連載終了後に発表された番外編(エピローグにあたる)で、オリジナルの坂本龍馬はやはりヒーローとして扱われているのを少々残念に思う。いや、個人的に坂本龍馬を嫌っていて、だから悪党にして欲しい、というわけではなく、パブリック・イメージに忠実な坂本龍馬の活躍を見るたび、どうもフィクションの限界を考えさせられるのだ。いずれにせよ、体中にタトゥーを入れ、サブ・マシンガンをぶっ放す坂本龍馬の像は新鮮だし、痛快だったが、フィクションの限界ににじり寄っていくなかで今一つ中途半端に終わってしまったところが『ばくだん!』にはあったのだと言いたい。

 加瀬は1巻の巻末でインタビューに答え、幕末版『カメレオン』として『ばくだん!』は構想されていると述べていたけれど、第二次世界大戦中の軍人をモチーフに持ってきていた『ゼロセン』の後、やんちゃな日本人男子をテーマに戯画化を果たしていく上でさらにルーツを辿る、つまりは幕末(近代)にまで遡るのはある種の必然だったのだろう。『ゼロセン』では、コールド・スリープという擬似的なタイム・スリップを使い、過去の人物を現代へと召喚したのに対して、『ばくだん!』では、直接的にタイム・スリップのアイディアを採用し、現代の人物を過去に飛ばしている。そうすることで、かつての日本人男子にはあって現在の日本人男子にはないもの、あるいはその逆において存在するものを、シリアスとユーモラスの双方から加えられる力を通じて、フィクションの域に浮上させようとしたのではないか。

 日本国初代大統領を目指す安達少年の挑戦は本来、今なお大勢にヒーローとして望まれ続ける坂本龍馬を越えたその先を切り開かなければならなかった。それにしても「ばくだん」というのはマンガ史において不吉な題名である。たとえば、本宮ひろ志に『ばくだん』という作品がある。宮下あきらに『BAKUDAN』という作品がある。かわぐちかいじにも『バクダン』という作品がある。他にだってまだあるかもしれないが、決してヒットはしていないだろう。要するに、どれも長くは描かれなかった。名は態を表すのか。加瀬あつしの『ばくだん!〜幕末男子〜』もその系譜に連なった。

 『ゼロセン』1巻について→こちら
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2012年12月17日
 月と太陽のピース(3)<完> (講談社コミックス別冊フレンド)

 今までの作品に比べると(あくまでも比べると、ね)案外ライトな内容を持ち合わせ、いくらか新境地をうかがわせていた『月と太陽のピース』だけれど、この最終巻(3巻)に入って、やはり吉岡李々子らしいスタイルに帰着した。スモール・サークルをベースにした青春劇が爽やかに繰り広げられていくかと思いきや、不幸を背負った人間が恋愛に救われるというメロドラマの様式へ転換するのである。

 親友であるコマキのため、同じ地学部のホマレと付き合う「ふり」をすることになったミミだが、しかしその気持ちはホマレの従兄弟であるイノリに対してなおも揺れ続けるのだった。と、いやはや、そこでわりとあっさりコマキが本筋から外れしまい、ミミとホマレとイノリの三角関係が前面に出ることで、物語はメロドラマの様式に定まっていくのだけれど、注意されたいのは、ミミとイノリのラインを強化するにあたり、この手のラヴ・ロマンスによくある手順が2パターンもとられている点だろう。

 一つには、迷子になっていた幼児を恋人ではない男女が共同して保護するというものであり、もう一つは、不慮のアクシデントが恋人ではない男女を旅先に一泊させるというものであって、大抵の場合、前者は擬似的にカップルもしくは夫婦のイメージを導き出すわけだけれど、『月と太陽のピース』では、それがイノリの意外な表情をミミに覗かせる成果をあげている。他方、実は『月と太陽のピース』において、前者と後者はワンセットになっている。前者を経ることで、後者のなかにイノリの家族に関する重大な告白が「流れ」として生まれているのだ。

 後者のパターンは、それこそ夏目漱石の『行人』にさえ見られる男女の正念場にほかならない。差し向かいにならざるをえない状況に閉じ込められた一対の関係が変則的に実存の比喩となりうるとき、同様のシチュエーションによって『月と太陽のピース』のイノリがミミに自分の秘密を明かすこととなるのは必然だという気がしてくる。そして、結局のところストーリーは、互いに遠慮しながらもミミに強い好意を抱くホマレとイノリのどちらが選ばれるのかをクライマックスとし、三角関係に決着をつけようとする。

 前作『白のエデン』で、それ以前の『彼はトモダチ』における主要人物を登場させていた吉岡だが、今回もとある場面で『彼はトモダチ』の主要人物をゲストに採用している。それは作者の愛着であるのかもしれないし、ファンへのサービスであるのかもしれない。しかし、彼らが初出時よりも大人として成長していることを踏まえ、別の解釈も充分に許されると思うので、私見を述べたい。

 彼らはつまり、かつては悩み多き未成年であった。未成年であるがゆえの試練をメロドラマとして引き受けなければならなかった。だが、その後、確かに幸福を得られた。幸福を得られたことと大人になれたことの実感が正しく結び付いているので、おそらく次のように若い世代へと教えられる。それだけの資格と役割を負っている。〈あのね どんな子供でも意味があって生まれてくるんだよ それがわかってれば みんな幸せになれるんだ キミだってそうだ 生まれてきた意味がちゃんとある〉

 無論、作品をどうにか畳まなければならない都合もあったのだろう。物語の進行からすると、上記の場面はいささか唐突ではある。けれど、後半のメロドラマ化が何に由来しているのか。生きる意味を教えてくれる者とそれを教えられる者というテーマの顕在に拠っているのは疑うまでもない。その上で祝福を描くこと。これについて決して漏らせない手続きになっているのだし、エンディングに用意された感動はまず間違いなくそれと呼応している。

 1巻について→こちら

・その他吉岡李々子に関する文章
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『99%カカオ』について→こちら
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2012年12月07日
 KIPPO 1 (ヤングキングコミックス)

 田中宏が2008年より『女神の鬼』と並行しながら『ヤングキング』で不定期に発表してきた『KIPPO』の1巻が遂に出た。たとえば『女神の鬼』が『BAD BOYS』や『グレアー』の前日譚(プリクエル)的な続編であるとしたら、『KIPPO』の場合は正しく『BAD BOYS』や『グレアー』の後日譚(シークエル)的な続編にあたるといえよう。さらに「ファミリー」という概念の頻出とクローズ・アップは『莫逆家族』のテーマを引き継いでいるふしもあって、すなわちストーリーのおおよそは、作者のマンガからしばしば感じ取られるシリアスな認識、あるいは以下のような問いかけへと集約されていく。そう、どれだけ時代や場所が異なろうと、この世界にはどうしようもなく不良少年にならざるをえなかった人間というのがいる。漏れなく存在する。もしもそれが不幸であるとすれば、彼らは一体何によって救われなければいけないのか。

 サーガの出発点といえる『BAD BOYS』の主人公だった桐木司の息子、桐木久司を語り手とし、彼と同世代の不良少年たちが抱える孤独や苦悩はどこからやってきているのか、それを描こうとしているのが『KIPPO』である。黒ヶ丘の街で〈とんでもなくヤバイ人〉としておそれられる不良少年、澤一郎はとある依頼を久司に持ちかける。果たしてそれがきっかけとなり、一郎は久司の父親である司や『グレアー』の主人公であった大友勝将らの仲間が集まった「ファミリー」の結束を知るのだった。これが最初のエピソードから見られる『KIPPO』の概要であって、自分のよく知る大人とは違った大人たちの連帯に居場所を持たない不良少年が感化されていく、そして自分と同世代である不良少年たちとの共闘を経ることで居場所を持たなかった人間が成長していく、そのようなところに眼目の置かれたマンガだと思う。

 2000年代(もしくは2010年代)の広島を舞台に不良少年たちの熾烈な抗争劇を描くという選択肢も、おそらく作者にはあったろう。それを読み手が期待することも出来たであろう。だが、久司を様々な事件に首を突っ込んでは解決していくタイプの積極的な主人公ではなく、一郎をはじめとする各登場人物のエモーションを相対化すると同時に客観視させるのに適した距離に語り手として配置している点などから(現時点では)『グレアー』の次の世代の抗争劇を安易に引き起こすまいとしているのが窺える。もちろん、〈その昔 ヤクザ映画で怖いイメージが定着し 昭和から平成に変わった頃にも暴走族事件が多発… しかしそんな広島も現在はスッカリ生まれ変わ〉ったという時代と背景が、大規模な暴力を遠のけてはいるのだろうけれど、しかし実際に行くあてを無くした欲望の比喩として血みどろの抗争劇が繰り広げられていない。それが不良少年たちの孤独や苦悩を一層印象深いものとしているのである。

 現役のワルガキである不良少年たちが、かつてワルガキであった大人たちと交わり、信頼とある種の教訓を学んでいく姿は、いったんはアウトサイドに追いやられた人間でも再び社会との関係を取り結べる可能性をそのまま物語っている。一郎もそうだし、彼らを抑圧するヤクザの加治屋(『グレアー』で勝将と戯れていたあのイガグリ頭の子供である)もまた、母親から見捨てられたという記憶によって、この世界に希望を求められなくなってしまった。換言するなら、原体験のレベルで社会との関係が壊れており、誰にも必要とされない自分を徒手空拳で生かそうとした末、不良少年になるよりほかなかったのだ。果たして不良少年にならざるをえなかった人間に内面はあるか。あるとすれば、それは強力なオブセッションでひどく歪んでいるのではないか。このようなイメージが一郎や加治屋の屈託には色濃く投影されている。

 歪んだ内面をアイデンティティとし続けることはやはり不幸だろう。いや、でもその孤独や苦悩を救うことは出来るはずなのだ。こうした仮説を『BAD BOYS』や『グレアー』において同様の不幸を踏み越えてきた大人たちは一郎や加治屋に教えようとしている。それがつまりは「ファミリー」という居場所なのである。もちろん、「ファミリー」とは語義の上で、コミュニティ(共同体)の問題に還元される概念となっている。しかし私見を述べるなら、それはむしろ後発の柳内大樹がヤンキー・マンガ等の諸作で「想像力」として主張しているのとリンクしうるものだと思う。たとえば、他の誰かへの働きかけは、ポジティヴであろうとネガティヴであろうと、必ずやなんらかの反応と影響をもたらす。このことに対して誰もが自覚的に振る舞わなければならないのであって、その責務が果たされなかったとき、少なくとも物語のなかでは不幸が描かれる。

 また、「ファミリー」を前にした一郎や加治屋の視線は、それが単なる理想論にすぎないのではないか、所詮は当事者に都合のいい綺麗事でしかないし、現実的には意味をなさないのではないか、という懐疑を挟んでいると考えられる。だからこそ彼らは、時折、大人たちの言動に反発を示さなければならないのだ。当然、そうした態度も彼らへ向けられた働きかけに対する反応と影響の現れにほかならない。題名になっている『KIPPO』が何に由来するのか。作中で〈キッポ 広島弁で あとに残る小さなキズのコト……〉と明かされている。不良少年に限らず、無傷で生きられる人間はいない。だとすれば、その痕跡は今までに積み重ねてきた歳月の自然な結晶化であろう。あまたの経験として数えられるものである。そして経験は、過去の自分と現在の自分のあいだに明確な差異を残さずにいられない。言うまでもなく、孤独や苦悩も、孤独や苦悩に縛られない自由も、呪いも祝福も、すべてそこに含まれていくのだ。と、登場人物たちの泣き笑う表情は訴えている。

 2話目について→こちら
 1話目について→こちら

・その他田中宏に関する文章
 『女神の鬼』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻と2巻について→こちら
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