ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年11月17日
 私を知らないで (集英社文庫)

 白河三兎は確かに村上春樹からの影響を思わせる独白を持ったミステリ作家として登場したが、もしかしたらそのスタイルは伊坂幸太郎や本多孝好以降に青春小説をやろうとするとこうなると判断されるものでもあった。三作目の『私を知らないで』(文庫書き下ろし)はデビュー作だった『プールの底に眠る』のヴァリエーションのようであって、名指す者と名指される者が、時にお互いの喪失を浮き彫りにし、時にお互いの欠落を埋め合う、という関係を、大変意固地で青臭い印象のなかに示していく。

 小学生の頃より数回の転校を繰り返してきた〈僕〉は、クラス内の波風に巻き込まれないための処世術を十三歳にして身に付けていた。経験的に無害で穏当なポジションを獲得することを第一義としていた。しかし今回ばかりはどこかで歯車が狂ってしまった。横浜郊外の中学校に編入して〈無難に初日を乗り切り、その後も自然にクラスに溶け込めた気でいた僕に思わぬ落とし穴が待ち受けてい〉たのだった。〈僕〉のあとに転校してきた高野三四郎という健全なお調子者からの押しつけがましい関与によって、その美しさと薄幸のせいで学校中に疎まれていたキヨコと呼ばれる少女(新藤ひかり)へ否応なく関与せざるをえなくなってしまうのである。

 今日、学校や教室を舞台に青春小説を展開しようとするとき、格好の材料として所謂スクールカーストの状況が用いられ、場合によっては家庭におけるネグレクトであったり、生まれや育ち(遺伝や環境)の問題に注がれる視線が個人とその周辺にどう作用するかがクローズ・アップされがちのだけれど、以上のマナーを『私を知らないで』もやはり汲んでいると言って差し支えがない。事実、家庭に特殊な事情を抱えていることがキヨコを孤立させているのだし、また孤立を怖れさせない性格を彼女に与えており、その秘密に深く踏み込んでいくことで利口に振る舞っていたはずの自分を〈僕〉は見失い、学校での立場を危うくする。

 キヨコは同調圧力の渦中において唯一の例外であるがゆえに〈僕〉や高野に注目されることとなるのだが、他方でそれは〈僕〉や高野が本質的には同調圧力の外側にいられるよそ者でありストレンジャーであることの証明を兼ねている。この三人のささやかな共闘とでもすべき結びつきが、死人が出るほどクリティカルな事件を通じ、各々の内奥に隠された苦悩を告白の形で導き出しているところに、推理小説に似た謎解きの伏線が凝らされており、まさかのクライマックスに至る筋書きを非常に整ったものとしている。

 もちろん、〈僕〉の言葉であれ、高野の言葉であれ、キヨコの言葉であれ、告白それ自体は実にエモーショナルな働きかけを読み手にもたらすだろう。無力な子供たちがこの世界を受け入れようとしては拒絶され、小さな心を散り散りに切り刻まれることにも耐えなければならない。結果〈「私が普通に生きようとしちゃいけなかったのかな? 間違ったことだったのかな?」と別れ際にキヨコは僕を通してこの世界へ問いかけたのだ〉けれど、現実は残酷な返答を突き返してくるのみであった。そうした返答に対する否定をどうしたら手に入れられるか。

 思春期特有のナイーヴなトライ・アンド・エラーを、惨めで憐れで不幸せな敗北の記憶としてではなく、せつない感傷が許されるまで実った未来へと繋げるために『私を知らないで』のアクロバティックな結末は書かれているのだと思う。結末を伏せて言うが、そりゃあ〈僕〉の両親の驚くべき寛容さはさすがにちょっと待って欲しいし、ハッピー・エンドから逆算されたかのような都合の良さにはいくらでも注文を付けられる。が、しかし喪失のダメージはいかに回復されるのか。欠落に絡め取られた者同士が願いを叶えることは可能か。センシティヴな物語によって試みられているのは、おそらくその実現にほかならない。

 作者は『プールの底に眠る』で同調圧力で魂の砕かれた少女を新しい共同体に加えることで救ってみせた。獲得された希望の生み出した歳月が感傷になりうることをかつての少年に語らせた。そこで残った課題を踏まえながら同様の手続きを『私を知らないで』は取っていく。すなわち今回は、現実に逆らえない子供たちの悲哀ではなく、現実を変えられる子供たちの勇気に着眼しているのであって、これがリアリティとは別次元の成功を作品に施しているのである。
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2012年11月11日
 絶品! らーめん娘(3) (ヤンマガKCスペシャル)

 いま現在、最も無意味なマンガを述べよ、ということであれば、間違いなくこれを挙げたい。いや本当に。他と比べてどうとかではなく、もしかしたら世界で唯一このマンガだけが無意味なのではないかとさえ思う。誤解があってはいけないのだが、褒め言葉のつもりはまったくなくて、ひどい、くだらない、と積極的に非難するのもばからしいマンガなのである。友木一良の『絶品!らーめん娘』は。しかし滅茶苦茶を言うようだけれど、ごめん。それでも『絶品!らーめん娘』のことが気になって仕方がないのだ。いつの間にか欠かさずに読んでいるマンガの一つになっているのだから弱る。弱るのだよ。こんなのを楽しみにしていると世間にバレた日にはもう絶対に後ろ指さされちゃうもんな。

 ジャンルとしてはギャグ・マンガである。片田舎で人知れず(!)営業されているラーメン屋を切り盛りする三姉妹とそこを訪れる青年客が繰り広げるシチュエーション・コメディ(の亜流)ともいえる。全編、下ネタに終始しているのだが、ギャグ・マンガだから無意味なのではない。ギャグのほとんどが下ネタだから無意味なのでもない。そのなかに盛り込まれている掛け合いの壮絶な即物性が、実際に一切の含みも持っていないことを指して、無意味なのだと言いたい。

 たとえばこの3巻に入っている「牛乳」というエピソードだ。長女に頼まれたお使いで牛乳を買ってくるのを忘れてしまった三女が、それを挽回すべく次女に自分の胸を揉んでもらいミルクを出そうとし、そこに青年客が下心丸出しで混じってくるというもので、驚いたことに相応の起承転結はあるし、ちゃんとオチも付いているのだけれど、あまりにも直接的なリビドーを前に、はたしてこれがギャグとして成立しているのか。はたまたどこで笑えばいいのか。よくわからないのである。

 あるいは直接的なリビドーの描写に欲情すればいいのか。おそらくはある種のコード(規制)を意識して成年に設定されてはいるが、あきらかに幼女を模して裸エプロンにした三女をはじめ、その手のフックを兼ね揃えた登場人物たちがあたかも痴女のように振る舞っているのは、まあ確かに『絶品!らーめん娘』の売りではあるのだろう。作中では所謂本番行為(セックス)は避けられているものの、ロール・プレイをベースにした性風俗のイメージに近いコミュニケーションが展開される。しかしエロ・マンガはもとより、現代におけるポルノの基準からしても、程度は著しく低い。絵やストーリーは極端なまでに簡素化されていて、これを見ることでスケベな気分になれる層が一体どこにいるのか。やはりよくわからないのである。

 つまりは総じてよくわからないのである。たぶん『絶品!らーめん娘』という題名は今日においてアニメ化されるようなヒット作のいくつかが「××娘」と冠していることのパロディだろう。しかしユーモアやアイロニーの類をどこにも求められないので、そんなことすらどうでもよくなってくる。もちろん、読みながらゲラゲラ笑ったりムラムラ催したりする向きがあっても構わないのだったが、個人的な感想は正直なところそれらと縁遠い。

 結論として『絶品!らーめん娘』のことがよくわからないのは、何もかもが無意味だからなのだと思うよりほかねえんだ。完全に自分の理解を越えているのであって、理解しようとする意欲をも無意味に変えてしまう。だがそれは決して、悪い意味で、ではない。欲情には意味がない。サービス・カットには意味がない。後ろめたさには意味がない。善良な配慮には意味がない。プロパガンダには意味がないし、 ポリティカル・コレクトネスにも意味がない。ありとあらゆるジレンマを徹底的に放棄することで、ただ突き抜けた明るさだけが獲得されていく。その明るさが滑稽であったりイヤらしかったりするのとは別次元の楽しさを確立しているため、ああ、こんなにも目が離せないのかもしれないけれど、ごめん。本当はそれもよくわかっていない。
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2012年11月02日
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 重本ハジメの『鬼さんコチラ』は、『週刊少年チャンピオン』の39号から49号(今週号)まで掲載された。全12話のマンガである。秋田書店の通例からすると、このような短期終了型の作品はコミックス化されない場合が多いのだったが、じゃあ単純に退屈だったのかといえば、そうとも断じきれないところがあったろう。今日の流行りとはやや毛色の異なる画の触感は、もしかしたら古くさく見えるものであったかもしれないし、あるいは以前の『コロコロコミック』や『コミックボンボン』等の幼年誌に載っていたいくつかを思い出させたりもした。けれど、それは必ずしもテクニカルではないということではない。むしろ、作者が自分の指向性をダイレクトに出そうとし、また自分なりに独創性を出そうとした結果が、上述の触感をもたらしているのではないか。

 現代に蘇った百鬼夜行によって、平凡な少年(金木)と少女(桜田)であったはずの二人が、一千年前からの因縁に絡めとられていく。鬼と人の側に分かれ、互いを滅するために対決せざるをえなくなるのだった。ストーリーは少年マンガの伝奇ものに珍しくはないタイプであって、おそらくは先行する藤田和日郎の『うしおととら』との類比を免れないだろう。宿命を象徴する宝刀の無敵っぷりが獣の槍を彷彿とさせ、百鬼夜行の悲愴が白面の者のそれを思わせるのはともかく、ひたむき、純粋な態度を是とすることが、嫉み、憎しむことの集積であるような災厄を見事に打ち砕いてみせるのである。無論、それは模倣というよりは継承と見なせる。一種の伝統を後ろから追うなかに独特の演出を加えようとしているので、作品に悪い印象を持たないのだ。大胆なアクションに期待を持たせられる場面が少なからずあった。

 ただし、物語の長さに還元される問題なのかもしれないが、百鬼夜行を現代に導入したことの意義が、あまりよく生きていない。百鬼夜行の面々を含め、ワキの人物がさほど魅力的でなかったのも悔しい。主人公に、今を生きていると公言させることで、大団円に辿り着くのだけれど、結局のところ、現代で何が起きたか(能動的に運命を変えるべく何を起こしたか)へのフォーカスは甘く、過去の因縁をいかに収拾するかに内容は任されてしまった。
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