ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年10月21日
 マンブリ!(1) (講談社コミックス)

 七三太郎が原作のマンガは、それが主にスポーツを題材としているからか、あるいは月刊ペースのものが多いからなのか、比較的連載の長期化していく傾向があるのだったが、しかし結局のところ、序盤の段階で充分なアピールに成功しているので、後の展開が求められるまでになっているのではないか。まさか大御所だからという理由で連載の長期化が許されているわけではあるまい(まさかね)。いずれにせよ、作品が安定してくるにつれ、カタルシスが弱まるのはフィクションの常で、七三の場合も例外ではなく、やはり序盤の段階に見るべきものが多いように思う。

 天野翔は、中学の三年間、格闘技の全国大会を制してきた。その世界では名の知られた少年だ。しかし同時に、突き詰めれば対戦相手を叩きのめさなければならない格闘技の価値観に疑問を抱いてもいた。きっかけは幼馴染みである桜の父親が経営するゴルフの練習場だった。そこでクラブを握った自分とただ一人で向き合い、フルスウィングすることの新鮮さに魅力を覚えた彼は、次第にゴルフの奥深さを肌で知るようになっていく。以上が『マンブリ!』の1巻のあらすじであって、要するにスポーツを題材にしたジャンルでは定番の一つ、ある種の転向ものだといえる。

 主人公にとっての達成感とは何か。格闘技からゴルフへの転向にあたってキーとなっているのは、この問題にほかならない。この問題を詳しく描くことで、競技の特徴(ゴルフには存在して格闘技には存在しないもの)と主人公のモチベーションや個性が明るみにされる。格闘技とゴルフの差異ばかりではなく、共通点をしっかり押さえているのも、転向を正当化する上でのキーだ。なぜ主人公が優れたゴルフのプレイヤーになりうる可能性を持っているのか。作中では〈格闘技もゴルフも・もちろん野球やサッカーも・根本的に身体の使い方はあまり変わらない〉と解説されている。が、他方で主人公の父親が〈「勝負は常にヤるかヤられるか」それはゴルフも格闘技も同じ〉と繰り返す。格闘家である父親の言葉は、転向が、逃避ではなく、成長と同義であることの示唆となっており、前向きな性格の翔がやがて直面するに違いない苦悩を予感させる。

 今回、七三とパートナーを組んでいるのは向山知成である。若いマンガ家である。随所に現代的なアクセントが加えられているのは、向山の功績だろう。ユーモラスな場面、シリアスな場面に限らず、眼の描き方が実に良い。集中力を説得的に表現することは、競技マンガにおいて、もしかしたらストーリーを語る以上に重要なのだけれど、表情のアップからフルスウィングの動きに持っていくその瞬間、たっぷりのダイナミズムを味わえるのが非常に大きい。

・その他七三太郎に関する文章
 『天のプラタナス』(漫画・川三番地)
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)
2012年10月13日
 MIX 1 (ゲッサン少年サンデーコミックス)

 あだち充は現代の夏目漱石である。これは日本で最も早くコミックスの発行部数が一億冊を突破し、要するに国民的な作家になったことのみをいっているのではない。多少文学ぶって述べるのであれば、(欲望とは他者の欲望を欲望することであるとしたら)他者の欲望を自分が欲望していることに対して自覚的(あるいは懐疑的)な主体を常に描き続けている、という意味において漱石的なのであって、それはもちろん、三角関係や家族の構成、死者の問題として現れているのだし、技術の確かさで軽く読み流すことと深く読み込ませることを両立してしまっている点などは、ある種の手本として評価されるべきものであろう。かつて島本和彦は『タッチ』の上杉達也と浅倉南を指して、まるで婚姻していない夫婦のように描かれているのが今日のラブコメとの最大の違いと分析していたが、そこから彼らが生活しているリズムであったり温もりであったりがよく伝わってくるところなども、実に漱石的だ。

 死者である兄と様々なしがらみを生きなければならない弟の交流を題材にした前作の『QあんどA 』は、ファンタジー以外の何ものでもない展開を示していたけれど、おそらく私小説的な側面をも併せ持つマンガであった。兄、あだち勉が亡くなったことの影響をどうしたって想起させるのである。しかしその、ファンタジーと私小説的な意識の混在は、従来の路線と異なっている以上に、物語の方向性をいくらか不明瞭にしてしまっていたように思う。洒落ていながらオーソドックスなコマ割りによって作り出される呼吸の整ったテンポには、さすが、心地好さを覚えるのであって、そこでの主人公もまた、他者の欲望を自分が欲望していることに対して自覚的(あるいは懐疑的)であったわけだが、結果として、あだち充の本領はこれではないぞ、と改めて実感させられもした。

 さて、あだち充が最も得意とする方法論、シチュエーションを再び(いや、三度四度目かもしれないが)用い、連載をスタートさせたのが、ご存知の通り、この『MIX』という作品である。『タッチ』と同一の背景、明青学園を舞台にしていることで、話題を集めているけれど、血の繋がらない兄弟(妹、家族)が一つ屋根の下に暮らしている設定は、『みゆき』や『虹色とうがらし』『じんべえ』等のモチーフも流れ込んできているのではないか、との期待を煽る。もちろん、野球を手段に甲子園と青春のイメージをぴったり重ね合わせるというのは、『ナイン』や『H2』『クロスゲーム』の例を出すまでもなく、初期の頃より作者が取り組んできた事業であって、これまでのキャリアの集大成を為している、という意味でミックスの題名が付けられていたとしても、まったく不思議ではない。

 1巻の段階では、状況を詳しく準備しているものの、お話自体はさほど進んでいない。だが、こうしたスロー・ステップな導入こそがあだち充なのだという気がする。何よりもまず、作中人物たちの生活が周到に描かれているのであり、そのリズムや温もりが魅力的であればあるほど、この後のストーリーはさらに輝きを増していく。作中人物たちの心情にほとんどモノローグをあてず、しかし各々のパーソナリティを適切に描き分けている点に注意されたいのである。驚くべきことに(!)、お馴染みのサービス・カットが今のところないのは、まあヒロインがまだ中学生であるため、そのパンツや入浴シーンを描くことへの配慮があるのかもしれないが(義理の娘の制服に頬ずりする親父さんの描写はやや変態的だが)、逆にサービス・カットを省いたからといって、作品の色気には何ら支障が出ないことの裏付けにもなっている。

 主人公である立花投馬、立花走一郎(投馬と同じ誕生日の義理の兄弟)、立花音美(走一郎とは血が繋がっているが投馬とは血の繋がっていない妹)のほか、彼らの両親、そして明青学園中等部野球部の面々と、おそらく高校に進学してからが本格的な本筋なのだろうけれど、物語に相応しい役者が揃ってきている感がもうある。なかでも2年生である投馬や走一郎を抑圧する先輩の二階堂はいやな奴だねえ、であろう。無論、『タッチ』の柏葉監督代行や『H2』の広田みたいに最初は悪役でしかなかった人物を最後には屈託を持った名脇役として描ききった作者である。このままでは終わるはずがないところにドラマが生まれていくに違いないのだし、花壇のエピソードは意味深長に二階堂のパーソナリティを暗示させる。このとき、キャプテンである今川とのあいだで交わされる視線は、不意に行間を覗かせるテクニックでもある。やっぱり巧いよな。

 どれだけ『MIX』が『タッチ』の物語と直接関わっている(直接関わっていく)のか定かではないが、両者を結びつけたくなるような仕掛けを部分部分に盛り込んでいるのも、やっぱり巧い。とりわけ、胸に「MEISEI」と入った背番号1のユニフォームが投馬の家で見つかる場面などは、否応なしに上杉達也の存在を思い起こさせるわけだ(案外そういう風にミスリードさせようとしている可能性もある。あだちはその第3話が掲載された『ゲッサン』の巻末コメントで「過度な期待は漫画家の健康を害しますのでご注意ください」と言っている)。もちろん、それは『タッチ』のファンにしてみたら、の話である。が、そうではない向きにとっても何かマクガフィンのように耳目を引くものとして機能しうるのではないか。つまり、たった一つの場面に何重ものフックが凝らされているのだ。

 立花兄弟のバランスを見る上で、ピッチャーとしての才能は投馬の方が上だったため、走一郎がキャッチャーに回ったという前提を看過してはならないだろう。走一郎は投馬に自分の夢を託し、投馬は走一郎に託された夢を自分のものとしている。そう、そこには、あだち充が常に描き続けてきたテーマ、すなわち、他者の欲望を自分が欲望していることに対して自覚的(あるいは懐疑的)な主体の像がすでに浮かび上がっているのである。

その他あだち充に関する文章
 『冒険少年』について→こちら
 『アイドルA』
  2話について→こちら
  1話目については→こちら
 『クロスゲーム』1巻について→こちら
 『あだち充傑作短編集 ショート・プログラム』『あだち充傑作短編集 ショート・プログラム2』新装版について→こちら
 『タッチ』完全版
  7巻から9巻までについて→こちら
  4巻から6巻までについて→こちら
  1巻から3巻までについて→こちら 
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)
2012年10月11日
 Don't Hear It...Fear It

 ドゥームやストーナーといえば、一部ではヴィンテージなサウンドを醸し出すハード・ロックのスタイルと同義になりつつあるのだったが、そのジャンルにあってまずは、うねりにうねり、おお、これがヘヴィなグルーヴの醍醐味ぞ、と唸らされるのが、イギリス出身のトリオ、 ADMIRAL SIR CLOUDESLEY SHOVELLのファースト・フル・アルバム『DON'T HEAR IT... FEAR IT!』である。リー・ドリアン主宰のRISE ABOVEレーベルからのリリースということで、マニアにとっては御墨付きであるのと同然なのだけれど、実際、トレンドとは絶縁状態のポリシーをアンダーグラウンド仕様の妖しいディストーションによって骨太に具体化していく様子は、同じくイギリスのORANGE GOBLINなどに通じるものだ。

 いやはや、まったく。この手のジャンルを語る上ではお馴染みのBLACK SABBATHはもとより、BUDGIEやBLUE CHEER、BLUE OYSTER CULT、SIR LORD BALTIMORE(SIR繋がりだ!)が引き合いに出されるのも納得、の豪快なダイナミズムが ADMIRAL SIR CLOUDESLEY SHOVELLの魅力でもあるだろう。つまり、レトロスペクティヴな指向性が、様々なパターンに細分化される以前の原初的なハード・ロックの、さらには野蛮なイメージを、サウンドにもたらしているのだった。が、エネルギーの量をそのままテンションの質の高さに変えたかのようなエッジの立ち方には、パンクやハードコア、デス・メタルを通過した時代ならではの説得力がしかと備わっているのであって、正直な話、そこら辺のモダンでブルータルなバンドに引けを取らないアグレッシヴな盛り上がりを存分に堪能できるのが、最大の強みだと思う。

 不穏なイントロが怒濤のハード・ロックを呼び込む1曲目の「MARK OF THE BEAST」から、隠しトラックである9曲目の「BEAN STEW」(70年代に活動したオーストラリアのバンド、BUFFALOのカヴァー)を除く8曲目の「KILLER KANE」まで、ひっきりなしにとにかく荒ぶった演奏を聴かせる。「KILLER KANE」と4曲目の「KILLER KANE (REPRISE)」の対比は、あきらかにアナログ・レコードの構成を意識したもので、アティテュードの徹底ぶりをアピールしているのだろう。ぶっきらぼうなヴォーカル。ギターのリフのすばらしい格好よさ。ベースとドラムが絡み、練り上げられるヘヴィなグルーヴもまた、そうしたアティテュードに由来していると見ていい。溢れるガッツを一向に隠さない。アートワークを含め、すべてのデザインが本当にナイスなバンドの登場である。

 バンドのMySpace→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2012)