ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年09月27日
 ゲバルト 1―青色テロル×青春グラフィティ!! (ヤングキングコミックス)

 この世界には不良にならざるをえない人間というのがいる。それが決して逃れられない運命のようなものであったとしたら、実は不幸な話なのではないか。一方で、本来不良とは無縁であるのに不良に憧れる人間というのがいる。後者が不良になろうとするとき、しばしば自己実現や自己改革の物語を生きていると見なされるのであって、いや、確かにその筋書きには相応のカタルシスがあるよね、普遍性があるにはある、とは思う。これを端的に再現しているのが、つまりは不良デビュー型のヤンキー・マンガであろう。そして、最初の1巻を読む限りでは、コウノコウジの『ゲバルト』もまた同様のヴァリエーションだといえる。

 少年は不良の道に進むことを決心する。〈高2の夏、僕は不良になることに決めた〉のだった。玄葉瑠偉人は、何の取り柄もない自分のプライドを保つために工業科のヤンキーたちを心のなかで見下し、それでもクラスの上位グループからは浮きたくないので声優アイドルのファンであることを隠しながら、平凡な高校生活を送っていた。しかしある日、他校の不良に絡まれ、散々な目に遭っているところを、普通科で唯一のヤンキーである庵野倶理生に助けられたのを機に、彼が属している暴力的なテリトリーに進んで足を踏み入れていく。というのが、おおよその展開である。が、作品の方向性はほとんど、いちばんはじめのエピソードで出ているように思われる。はからずもオタク趣味がばれてしまい、グループから浮いた瑠偉人が、教室内である種のテロ行為を働く場面だ。

 そこには二つのトリガーがある。一つは、暴力によって飼い慣らされた本性を覚醒させるものであって、もう一つは、自分が価値を置く他人の目を通じて自分を再確認させるものである。この二つのトリガーは、自己実現や自己改革の物語を生きる式のカタルシスを正しく誘発しているのだし、トリガーが引かれ、突然驚くべき行動に及んだはずの瑠偉人の視線がどこか冷めているのは、強圧的な不安の外側にこそ、スペクタクルと呼ぶのに相応しい光景が開けていることを暗示しているためであろう。ただし、そのカタルシスを持続させられるだけのストーリーと充分なスペクタクルはまだ描かれていないという感じがする。

 主人公である玄葉瑠偉人(げんばるいと)の名前は、もちろん、『ゲバルト』というタイトルにかけているに違いない。しかし不思議なことに、作中には「ゲバルト5」なるチームまで出てきてしまう。この重複が、意図的なものか。あるいは行き当たりばったりのケアレス・ミスか。判断はつかない。普通、そのような重複は避けたい(避けて欲しい)ものである。けれど、ゲバルトの一語が作者に対して過剰なインスピレーションを与えていることは明らかだ。ゲバルトとは、字義通り、暴力であって、闘争であって、当然、内ゲバの「ゲバ」でもある。やがて、瑠偉人や倶理生が介入することとなる工業科内部の対立抗争は、実際に内ゲバ以外の何ものでもない。

 大抵、内ゲバというのは、せこくてしょっぱい、と相場が決まっているわけだが、はたして。多少好意的に受け取るなら、そのスケールの小ささは青春のイメージを重ね合わせるのにちょうど適しているのかもしれないし、コウノが本当に描きたいのは自己実現や自己改革のカタルシスではなく、もっと暗いものなのかもしれない。アクション・シーンの派手さに比べ、登場人物たちの表情がぱあっと輝いていないのが、現時点ではひどく印象的なのである。

・その他コウノコウジに関する文章
 『肉の唄』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
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2012年09月23日
 One Wing

 ぬおお、これぞエクスペリメントでエモーショナルなハードコア、であろう。ベテラン勢ではVISION OF DISORDERの再結成作やCONVERGEの新譜であったり、そして若手ではCODE ORANGE KIDSのファースト・アルバムが。と、下半期には注目すべきタイトルが目白押しであるハードコアのジャンルだが、しかしそのなかにあってまさか、ジョージア州アトランタ出身の5人組、THE CHARIOTがここまでインパクトのすばらしいアルバムを出してくるとは思わなかった。いや、確かに過去の作品やライヴ・パフォーマンスなどで尋常ではないポテンシャルを発揮してきたバンドではある。けれど、そうした実績を認めてもなお、くそ、こいつらを見くびっていたぞ、と怯まされるだけの独創性とサプライズがTHE CHARIOTの通算5作目となるフル・アルバム『ONE WING』には詰まっているのだった。

 聴く者をねじ伏せるようなパッションはそのまま、さらに楽曲のヴァリエーションを拡張し、自由奔放なスタイルで様々なイディオムを行き来しながらも、決して中心の軸を損なっていないサウンドは、ああ、正しく目の眩むスリルと一緒くたになっている。どんなフラストレーションも即座にぶっ壊される。刺激的な瞬間の介在することをカタルシスと呼んでいいのであれば、実にそれが盛り沢山なのである。

 1曲目の「FORGET」こそ、息つく間もない激しい演奏で即座に畳み込んでくる、というカオティックなハードコアのマナーを繰り広げてはいるが、ヴォーカルが繰り返し叫ぶに叫び、叫び続けるワン・フレーズにはキャッチーとも取れるヒキの強さが備わっているのであって、ギターのリフは切っ先の鋭さを応用することで、きっちり決まった構成のなかに自由度の高いうねりを導き出していく。圧倒される。魅力だ。それはドゥームとジャンクの要素を含んだ2曲目の「NOT」においても同様に、ダイナミックな展開をよりダイナミックなものとしているのだし、只ならぬ緊張感を持続的に生み出している。

 かくして3曲目の「YOUR」で、はっ、とさせられる。ゲストに迎えられた女性のヴォーカルが、薄く響くオルガンの音色に美しいコーラスを重ねるナンバーである。本来であれば、ハードコアのアルバムには似つかわしくないと判断されても仕方がないタイプの楽曲が、どうしてか。単なるブレイク(箸休め)でもブリッジ(繋ぎ)でもなく、もちろん奇をてらった変化球のアイディアでもなくて、これもまたバンドの指向性をダイレクトに反映した結果にほかならないことが、『ONE WING』のトータリティを考えたとき、明らかとなる。いずれにせよ「YOUR」の、甘やかでありつつ、だが芯の固いアジテーションを含むメッセージは、THE CHARIOTの本領を外れるものではないだろう。つまりは以下の通り。〈Oh Busy, Busy Bees, Walking Too And Fro, What If We Close Eyes?What If We Don't Wake Up?〉

 先の「YOUR」を経、アルバムは以前のキャリアを極端にオーヴァーしたヴァリエーションを孕みはじめる。おそらくは、ここがキモである。4曲目の「FIRST」を聴かれよ。カオティックなハードコアが、中盤、唐突に西部劇風のロックン・ロールへと変調するナンバーで、思わず、おい、一体何事だ、と尋ねたくなるアプローチを取っているが、しかしそれが、どろどろのグルーヴにノイズを満たした5曲目の「LOVE」と違和感なく接続される。そして続く6曲目の「SPEAK」では、ヴォーカルが従来のスクリームをキープする一方で、葬送を彷彿とさせる鍵盤の調べが不穏に乱れていったりする。こういう部分部分の異様さが、個々のレヴェルで際立っているばかりではなく、楽曲の単位でもアルバムの単位でも、ちょうど画竜点睛の役割を為しているところに、結局は諸手を挙げさせられてしまうのだ。

 ファストなチューンにインダストリアルのテイストを噛ませた7曲目の「IN」は最高に燃える。スローにずしりと重たいリズムを引きずった8曲目の「TOUNGS」は終盤のヤマにあたるだろう。牧歌的なSEをラジオ音源みたいに盛り込んだ9曲目の「AND」は前作に収録されていた「CALVIN MAKENZIE」のニュー・ヴァージョンなのかもしれない。チャールズ・チャップリンの映画『独裁者』からのスピーチを引用し、ついには轟音が雪崩を起こす10曲目の「CHEAK」はラストの印象に相応しい。CDケースの裏側にクレジットされているのだけれど、各曲のタイトルを一つに繋げると「FORGET NOT YOUR FIRST LOVE. SPEAK IN TONGUES AND CHEEK.」という文章になる。言葉の意味はよくわからないが、なんらかのコンセプトを持っていてもおかしくはない妖しさが『ONE WING』にはある。これぞエクスペリメントでエモーショナルなハードコア、である。THE CHARIOTの真髄がたっぷりと詰まった。

 『LONG LIVE』について→こちら
 
 ライヴ(2011年5月5日)について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2012年09月09日
 ARISA(11) (講談社コミックスなかよし) ARISA(12) <完> (講談社コミックスなかよし)

 もしも絶望から回復するためだけにこの世界を憎まなければならなかったとしたら、それはもちろん、不幸なことなんだぞ、と思う。11巻と12巻が同時刊行となった安藤なつみの『ARISA』であるが、そしてこの物語は完結した。当初は、学校あるいは教室という閉じたサーキットの頽廃的な象徴=王様タイムへ、本来は外部の人間であるヒロインのつばさが侵入、参加し、ネガティヴなロジックとは別個の可能性を切り開いていくサヴァイヴァルに作品の主題が垣間見られていたのだった。が、しかし全編のクライマックスにおいて、その閉じたサーキットは社会や家庭の問題に接続されていき、ついにはとある人物のこの世界に対する報復こそが、すべての発端にならないことが明かされる。

 結局のところ、2-Bのクラスを影で操作していた「王様」であるその人物にとって、学校や教室の問題は、目的ではなく、手段にすぎなかった。ここでいう目的とは、自分が拠るべき居場所と解釈して差し支えない。しかしてその人物の企みは、他の生徒たちが学校あるいは教室に居場所を確保するという目的のため、優越感や同調圧力のゲームに与することを手段にしていたのと、完全に異なった性質を持っている。すなわち、生徒たちの目的が「王様」に手段として利用される、このことが物語内における両者の力関係を決定していたのであって、そもそも「王様」は2-Bの生徒たちと同じルールに属していない。このような意味で、主人公のつばさと正しく陰と陽の綱引きをするのに相応しい立場にあったわけだ。けれど、「王様」の正体が暴かれ、次第にその企みが(作中の人物にも作外の読み手にも)はっきりとしてくるにつれて、作品の構造も大きく違ってきている点に注意されたい。すでに述べたとおり、閉じたサーキットの枠外で物語が展開されることとなっているのである。

 結果的にそれは、学校ないし教室の比喩でしか描けないテーマを、“社会や家庭に原因があった”式のステレオタイプにすり替えてしまっているのではないか、という疑念をもたらす一方、経緯はどうであれ、少年や少女の孤独と救いこそが作者の最も描きたかったものなのではないか、と思わせる。確かに『ARISA』のとくにエモーショナルな部分は、居場所をなくした少年や少女の、心の声とでもすべき悲痛な訴えに由来していただろう。そのような意味において、「王様」もまた他の生徒たちと近似の孤独を抱えていたのであった。

 誰とも何も分かち合えない。共有できない。事実としてそう断言されることは、当然、孤独を身に染みさせる。誰からも必要とされない。必要としている相手に関与できない。振り返ってみるなら、「王様」からの指示を受け、つばさを陥れようとした人物たちは皆、孤独や絶望を憎しみに上書きすることである種の特権を得ていたのではなかったか。このように考えられるとき、それらの人物たちが「王様」のどのパートを代理するべく選ばれたのかが判りはじめる。望みを述べよ。それは復讐である。この世界に対する報復を我に許し給え。無論、つばさはこれに反論する者であって、彼女の活躍がその実証を果たしてきたのだが、しかし終盤に至り、物語の構造に違いが出てくると、つばさの負っていた役割はきわめて小さなものとなってしまう。彼女では「王様」の暴走は食い止められない。

 では、最後の段に入って、ほとんど狂言回しの立場にまで追いやられてしまうつばさにかわり、「王様」の暴走を食い止めるのは一体誰か。端的にいって、それは作品の題名に示されている人物以外の誰でもないだろう。ありさの不在をめぐっていたはずの物語は、ありさの覚醒を経、ありさの願いによって最悪のシナリオを免れるのである。繰り返しになるけれど、つばさは絶望の否定形であるがゆえに「王様」と対立しえたのであった。しかしそれはアンチテーゼであるかぎり、「王様」からの反論をさらに引き出す以上の働きを持たない。だが、ありさのアプローチは、双子であるつばさとは別の角度から希望を添えるものであって、たぶん、次のような問いへの解答を内包する。この世界を憎まなければならなかった人物がいたとして、もしもそれを救おうとするなら、単に批判を突きつけるのみでは叶わないのではないか。

 つばさとありさのどちらが正しいというのではないし、(ティーンエイジャーであることも含め)いかなる事情があるにせよ「王様」は充分に裁かれるべきであろう。現実的な判断において、いくつかの留保を残しながら物語は幕を下ろすが、それでもすべてが収まるべきところに収まったと感じられるのは、絶望が絶望のまま、孤独が孤独のまま、憎しみが憎しみのままで終わることの不幸を決して勝利とはしなかったためだと思う。

 10巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2012年09月01日
 SOUL 覇 第2章 2 (ビッグ コミックス)

 赤壁の戦い、である。ここ最近、小説でいうと酒見賢一の『泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部』を読み、マンガでいうと青木朋の『三国志ジョーカー』の4巻を読んで、揃いも揃って赤壁の戦いであるな、と思ったのだが、マンガでもう一つ、武論尊(原作)と池上遼一(漫画)による『SOUL 覇 第2章』もまた、この2巻で、赤壁の戦いを繰り広げているのだった。思わず、「三国志」(三国志演義)を題材にしたフィクションの世界では赤壁の戦いがブームなのか、と言いたい。が、それはともかく、いずれの作品も、アプローチは完全に異なっていながら、かなりの無茶をやっていて、そこが愉快ではあるのだけれど、『SOUL』の場合はもはや、これ、『三国志』じゃねえ、というところにまでいきかけているのだよ。

 いや、確かに前身の『覇 -LORD-』の段階で、これ、『三国志』じゃねえ、いつも通りの武論尊と池上遼一だ、と言わざるをえなかったのだが、しかし『SOUL』になり、それはより一層濃くなっているのだ。大体、『SOUL』における赤壁の戦いとは、自分が倭人であることをバラした劉備(a.k.a.燎宇)が、曹操や周喩はもとより、諸葛亮ばかりか、関羽や張飛をも敵に回して、大規模な水上戦と陸上戦を繰り広げる、というものなのである。諸葛亮は、下克上よろしく劉備に宣戦布告をかまし、敗走した曹操を助けた関羽と張飛が、そのまま曹操軍に加わってしまいそうな勢いなのである。天下三分の計どころではない。野望をギラギラさせた連中が血気盛んに入り乱れ、所属関係なしに命(タマ)の奪い合いを果たしていくのである。卑弥呼の軍を招き寄せた劉備が大陸に対して全面戦争を仕掛けているのは、イデオロギー的に日本の中国侵略の比喩として解釈される余地を持っているけれど、やはり、アウトロー風情が犬死にをおそれず、己の正義を生き様によって語ろうとしているところに、このコンビならではの醍醐味が存分にある。実際、こんなにも知性より欲望を丸出しにした諸葛亮はほかになかなかいない。

 しかしまあ、劉備が常元を傘下に置くような展開を一体誰が望んでいるのか、という気がしないでもない一方で、主人公が周囲の期待に反して下衆な人物と手を組むのは、そういや、このコンビにお馴染みのパターンであったな、と思うし、若輩の人物が目上の人物に予想外の説教をされて衝撃を受けるシーンなども、「三国志」とは関係なく、ある種の様式美だろう。

 1巻について→こちら

 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
  17巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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