ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年08月03日
 クエーサーと13番目の柱

 ニコニコ動画を閲覧していると、偶に「謎の感動」なるタグに出会うときがある。発祥は知らないのだけれど、冷静に判断したらしょっぱいアトラクションでしかないのに妙にカタルシスさせられてしまう、そのような投稿に付けられているのが相応しい。そして、たぶん、阿部和重の小説『クエーサーと13番目の柱』にも実は「謎の感動」のタグがぴったり似合うのではないか、という気がしている。いや、これ、よく考えれば、全然いい話じゃねえんだよ。にもかかわらず、不思議と光って見えるものがあるのだ。

 非常に簡単に要約するとしたら、『クエーサーと13番目の柱』とは、その筋のプロフェッショナルとして新進のアイドルをストーキングするグループに起こった破滅と奇跡だといえる。現実には、犯罪者集団の類がどう破滅しようがどんな奇跡を起こそうが知ったことではないのであって、心のなかで軽蔑してやればいいのだが、しかし既に述べた通り、それがフィクションの力学を通じ、どうしてか「謎の感動」を寄越したりもするのだから弱るのである。では、その「謎の感動」の正体とは何か。

 佐々木敦は『群像』8月号に掲載の評論「DEYDREAM BELIEVER」で、〈自分自身でさえ本当に信じているわけではないのかもしれない何ごとかを、とりあえず、敢て、だがあくまでも真剣に、信じたことにしてみる、ということ、そのような振る舞いが必然的に、不可避的に招き寄せることになる悲劇と喜劇、そしてそこに舞い降りる紛れもない奇跡こそ〉が『クエーサーと13番目の柱』のテーマであるとし、〈より強く信じてみせた者が、誰よりもそうすることに決めた者だけが、最終的な勝利と成功を得ることになるのだ。そこでは信じられているものの信憑性は、もはやまったく問題ではない。むしろマトモに考えたら、決して信じることなど出来ないようなことこそが、思考の現実化を齎すのである〉と述べ、そういうある種ロマンティックな態度を、たとえそれを陳腐だと自覚してもなお果敢に引き受けて、徹底的に追求している点が、おそらく阿部和重の真価なのだと判断している(ように読める)。また、これはもしかすると『クエーサーと13番目の柱』が宿す「謎の感動」の正体の一端に触れてもいる。

 だが、個人的には「謎の感動」は「謎の感動」のままにしておきたい。もうそんなものの正体はどうでもいいのだ。たとえば、インターネットなどを中心に、どうやら陰謀論が歓迎されているみたいだぞ、と思うことが最近多い。こうした時代にあって、阿部和重の現実と妄想とが緻密に噛み合った作風は、かつては高度なアイロニーであったのかもしれないけれど、もはや圧倒的なリアリズムとして受け取れるものなのである。作中、スマートフォンや匿名の電子掲示板を介してスリリングに展開される追跡劇は、何らかの比喩というより、今日的な社会の直接的な描写だろう。無論、情報戦を制することの優位や暴力に緊張の糸を張り巡らせ、スパイ映画さながらのサスペンスに仕立てた序盤は強いフックたりえているし、欠落と獲得を経、無数に存在する可能性のなかから唯一の必然がいかに選び取られるかを戯画化したクライマックスには大変鮮やかなものがある。しかしそのすべては、あくまでも結果としていえば、「謎の感動」というリアリティ(共感)を呼び起こすためのプロセスにほかならない。

 そこに深い意図があろうとなかろうと、レディオヘッドの「エアバッグ」を用意したラスト・シーンは単純に出来すぎである。防ぐことのできなかったアクシデントは、あらかじめ防げないことを決定されているアクシデントでもある。この限りにおいて、とある人物の行動履歴は予測を後追い、経過を埋めているにすぎない。そしてそれは本質的には(残念なことに)奇跡ですらない。だが、その動かしがたい事実に窮すれば窮するほど、かえって見えてくるものもあるのではないか。少なくとも『クエーサーと13番目の柱』には「謎の感動」のタグを付けるのに十分なだけの内容が公開されている。

・その他阿部和重に関する文章
 『くるみ割り人形』について→こちら
 『ミステリアスセッティング』について→こちら
 『課長 島雅彦』について→こちら

 『シネマの記憶喪失』について→こちら
 『阿部和重対談集』について→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2012)