ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年08月30日
 青春ロケーション 1 (マーガレットコミックス)

 田島みみは人気マンガ家だ(と思う)が、その訴求力は幅広い層に向けてというより、たぶんティーンエイジャーの女の子に対して限定的なものであったといえる。このため、年長の女性や少女マンガに詳しいとされる男性の読み手から言及される機会をほとんど持たなかったのではないか。もちろん、それをスタイルとして完成していると解釈することは可能であったろうし、実際にそれが功を奏してパターン化された展開のなかにも強いフックが生じていたように感じられたのだ。しかしここにきて、おお、ずいぶんと大胆に新味を盛り込んできたぞ、と驚かされるのが、この『青春ロケーション』の1巻であって、つまりは今まで田島の作品に興味がなかった向きにこそ、是非とも読まれたい内容になっている。

 ともあれ、引きこもり気味のオタク少年という過去の作品には決してありえなかったタイプをストーリーの真ん中に加えてきた点は絶対に見逃せない。もしかすれば、ギャルゲーの愛好家で他人を見下しがちなシャイ・ボーイを登場させるのは、現代のサブ・カルチャーと流行を踏まえるなら、あざとい、とも判断される戦略だろう。だが、重要視すべきなのは、それによって田島の本来の作風に自然な化学変化が起きており、かつて以上に魅力的な話運びが成立していることなのだ。

 かつての『学校のおじかん』も『君じゃなきゃダメなんだ』も、採用されているシチュエーションは異なれど、根本は三角関係をベースにしたラヴ・ロマンスである、という部分で一致していた。そして、おそらく『青春ロケーション』もまた(序盤の現時点でうかがえるかぎり)三角関係をベースにしたラヴ・ロマンスを踏襲している。要するに、以前のキャリアと基本線を違えているわけではないのだ。むしろ、ヒロインの小夏モアの、とても頭の悪そうな言動と外見や性格の可愛らしさが紙一重の造形であったり、彼女の幼馴染みである如月雅の、王子様然としたルックスやしばしば意地悪な素振りを含むスマートな対応は、過去の二作に通じるものだといえる。ここにもう一人の関与を加えることで、当然、三角関係のモデルが出来上がるのだけれど、そのもう一人が先ほど挙げた引きこもり気味のオタク少年、山田蛍であることが、正しくターニング・ポイントたりえているのだと思われる。

 高校に入学してしばらく、家が一番近いという理由で担任の教師からプリントを預かったモアは、雅をともない、山田の家を訪れるのだったが、不登校の山田は、たとえそれが親切心からくるものであったとしても、二人の干渉を快くは受け取らない。そう、彼にとっては、ギャルゲーのヒロインだけが愛すべき存在なのだし、自分の部屋だけが安全で楽しい場所にほかならないのだった。あまりにも卑屈な態度で接してくる山田に困惑しながら応対するモアと雅である。しかしどうしてか。売り言葉に買い言葉を重ねるうち、まるで発憤したかのように。モアと雅を見返してやろうと言わんばかりに。あくる日、山田がその姿を教室に現した。以上が発端であって、本来は相まみえないであろう彼らのコミュニケーションを動力にストーリーは進んでいく。

 モアと雅からすれば、山田はある種の異物なのかもしれない。いや、既に述べた通り、田島のキャリアにおいても、山田みたいなタイプはある種の異物だといえよう。山田に対しての認識をあらためることが、モアと雅の間柄をも変化させている。と同時に、山田をどう扱うかの基準が、田島みみらしい作品の構造そのものに変化をもたらしているのである。

 オタク少年の、ステレオタイプなイメージの、とりわけそのデリカシーを作者なりに学習し、描いているのだろう。山田のコンプレックスは、肥大した自意識に由来している。ただし、単に肥大した自意識に性格や言動が左右されているのみなら、『学校のおじかん』や『君じゃなきゃダメなんだ』の王子様然とした男の子たちと、さして造形が異なっているわけではない。ここで注意したいのは、それがヒロインであるモアの積極性をクローズ・アップするための、特殊な倍率を有したレンズの役割を果たしていることなのだ。

 これまで田島のヒロインは、どちらかというと消極的であるがゆえに周囲の人物から強引にアプローチされる立場に置かれてきたのであって、結果としてどこが魅力であったのか不明の場合が多かった。『青春ロケーション』のモアも、繰り返しになるけれど、とても頭の悪そうな言動と外見や性格の可愛らしさが紙一重の造形で、過去の二作におけるヒロインと大差がない。このとき、雅のアプローチも同様に過去作の引用に止まる。しかしながら、上記したように、山田というレンズを得たことで(モアが別の価値体系を生きる山田に対しての関心を隠さないことで)その積極性がクローズ・アップされると、魅力の所在が今までになくクリアーとなっているのだし、この影響はあきらかに幅広い層にアピールするほど魅力的な話運びを成立させるところへまで及ぶ。

・その他田島みみに関する文章
 『君じゃなきゃダメなんだ』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『学校のおじかん』
  17巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
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2012年08月23日
 凍牌~人柱篇~ 3―麻雀死闘黙死譚 (ヤングチャンピオンコミックス)

 まったくどうかしてるよな。一つ、ストーリーの先が見えないことをすぐれたフィクションの特徴として挙げられるなら、間違いなく志名坂高次の『凍牌(とうはい)』全12巻はその条件を満たしていたといえよう。そしてもちろん、同じことはタイトルに一部変更を加えた「人柱編」にもいえるのであって、主人公が文字通りの絶体絶命に陥った前2巻も予想外であったが、ほとんど誰も幸福を手に入れられないままに勝負が決着したこの3巻もすさまじい。

 主人公が死ぬ。退場する。主人公を置き去りにして事態が進む。そのような筋書きのフィクションですら珍しくない昨今だけれど、さすがに無敵と思われていた氷のKが対局の途中で首吊りさせられ、あっさり舞台を降りてしまったのにはびびった。確かにまあ、無印の『凍牌』においても、足の指を切断したり、腹から内蔵をこぼしたり、おいおいそりゃあえぐすぎるぜ、の窮地を(どんなに辛うじてであろうとも)澄まし顔で脱してきたのが氷のKの氷のKたるゆえんなのだが、唯一ピンチを巻き返せる可能性を持っていたはずの本人が意識不明になってしまうのだから、やばいに決まっている。これ、どうにもなんねえだろう、完全に詰んでるじゃん。掻き立てられた不安にはらはらさせられる一方で、しかしKのことなので必ずや裏がある。思い切り作者の手の平の上で踊らされ、異様にわくわくしまうのだった。予想外とは、つまり、そういうことだ。

 そして3巻である。先述の難関を(誰が)いかに突破するかは、俄然注目せざるをえないところであって、まさかまさか、という展開の続くことに大変驚かされるし、さらにはその、まさかまさか、のラッシュによって辿り着かれた真相の意外性にはぎょっとさせられるばかりか、実はそれが次の展開への布石にすぎず、結局は一度ハマったドツボから抜け出せていないことが明かされる段に至っては、物語の向こうに広がった暗がりの深さをあらためて知り、震える。『凍牌』にとって麻雀とはサヴァイヴァルそのものだが、束の間の小休止ともとれる場面で、とある人物が口にした「人柱編」の真の意味はおそろしい。非常にぞっとしないのであった。これまで膨大な死者の上をまたいできたかのようなKの軌跡でさえ、所詮、富や権力の下部でしかないことが宣言されてしまうのである。そこでは人の命は呆気ないほどに軽い。

 命が呆気ないほどに軽い。これは『凍牌』を貫く一本の指標でもある。誰もがいとも容易く死ぬ。簡単に死ぬ。惜しまれることなく死ぬ。残酷な指標はギャンブルを題材とした作品のなかに強烈なスリルとサスペンスを生じさせる動因になっているが、そればかりでなく、建て前の倫理では対処しきれない現実の、あまりにも荒廃し、惨めな救いがたさを投影してもいる。しかしだからといって悲嘆していてはいけない。絶望だけがキャンセル不可のゲームに、たとえ強制的であろうと、躊躇わずに参加し続ける主人公たちのヴァイタリティとストイシズムは、悲嘆が悲嘆であるかぎりは決してマイナス以上の価値を生み出さないことをアピールしているのである。

 ああ、Kと両親のディスコミュニケーションをも斥けられた関係の殺伐さを再確認されたい。父母に愛されたとか愛されなかったとかいう苦悩もまったく役に立たない。どのような憐憫も〈考えてもみろ… Kさんは 親に殺されるかもしれない恐怖の中で暮らしてきたんだぞ ずっと… ずっとガマンして生きてきたんだ〉このような善良な怒りも、Kを生かすための希望にはならないのであって、いやむしろK自身がそのような建て前の倫理とは訣別しているがゆえに、他の何者にも足を引っ張られず、ライヴァルたちを上回り、いくつものデッドラインを踏み越えられてきたのではなかったか。誰の命も呆気ないほどに軽い。これは必然、何者も特別ではないことを含意する。性別も年齢も国籍も立場も関係なしに誰もが次々と地獄に落とされる。それなのにどうして自分だけが特別だと述べられようか。

 根拠のない独我論やメロドラマの発想をKは一切信じない。ただ地獄の最中を生き残るために手を尽くし、勝利することが、結果的に彼の存在の正当性になりえているのである。ときにKの態度は極めて非人間的に受け取れる。だがその活躍を見るたび、どうしてか元気が出てくるのは、おそらくはKが他人に対してと同様、自分に対しても甘えを許していないからなのだと思う。

・その他
 『牌王伝説 ライオン』1巻について→こちら
 『凍牌』10巻について→こちら
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2012年08月18日
 三国志ジョーカー 4 (ボニータコミックス)

 周喩きたああああ、であろう。これで、魏、呉、蜀に役者が揃い、いよいよ赤壁の戦いに向かって大局は動いていき、多くのサンゴクシシャン(小説家酒見賢一による造語で「三国志」ファンの意)にとって最高の見せ場を迎えるはずなのだが、いやしかしまあ、青木朋の『三国志ジョーカー』の本筋といおうか醍醐味といおうか、「三国志」(三国志演義)をベースにしたこの奇想天外なマンガの真骨頂は、軍記もの本来のフォーマットに特徴的なスペクタクルを思い切り外れたところに存在してるのは明らかで、ある種の場外戦がどこへどう進んでいくのか。よもや「三国志」とは思われない展開の方が大変気にかかるのである。

 だいたい『三国志ジョーカー』とは一体何なのか。4巻に入り、これまで謎めかされていた部分がだいぶ詳細になってきたわけだけれど、あらためて概要を述べようとすると以下の通りになってしまう。諸葛亮に誘拐された過去を持つ司馬懿。以降も執拗に司馬懿を執拗に付け狙う諸葛亮。スーツを着込んでタバコをふかし、数々の小道具とアイディアを弄しながら、諸葛亮の仕掛けてくるトラップをかわしてみせる司馬懿と、修道服を身にまとい、その時代にはありえないテクノロジーで司馬懿を監視、次々と怪事件を引き起こしていく諸葛亮。二人の対決は、さながら探偵と悪党のそれを思わせる(掲載誌は『月刊ミステリーボニータ』だしね)。しかしどうして諸葛亮は司馬懿に拘り続けるのか。タイムパトロールを名乗る少女の登場をきっかけに、未来からやってきたとおぼしき諸葛亮の正体が遂に暴かれるのだった。が、総じて、あの血湧き肉躍る男のロマンはどこー、といった感じなのだ。実際、劉備や曹操の大義や野望は物語上さほど重要ではないし、司馬懿や諸葛亮の知略はほとんど個人的な目的のためにあてられている。

 ところで酒見賢一は『泣き虫弱虫諸葛孔明 第参部』で〈孔明とはドラマツルギーをぶち壊す男なのであり、『三国志』の歴史と物語を歪める放射能をまき散らすジョーカー、トリックスターなのである〉と書いているが、『三国志ジョーカー』の諸葛亮もまた、文字通りのジョーカー、トリックスターであることが如実にうかがえる。結局のところ、司馬懿を巻き込み、いかにも「三国志」的なパブリック・イメージを覆しているのは、諸葛亮にほかならないのだ。では、はたして諸葛亮の目論みとは何か。これはおそらく、『三国志ジョーカー』とは一体何なのか、という本質に符合してくる問いでもあるだろう。

 軍記ものの時代にタイムスリップしてきた人物が、積極的にであれ消極的にであれ、歴史上のイベントに介入してしまう。このタイプのフィクションは決して物珍しくない。『三国志ジョーカー』もそのヴァリエーションだといえばいえるのだけれど、他と様子が異なっているのは、彼の(この場合は諸葛亮の)モチベーションが舞台背景とは完全に乖離していることだと思う。主人公である司馬懿をなぜ付け狙うのか。序盤の段階では、もしかしたら諸葛亮の企みには巨大なサスペンスが隠されているのではないか、と勘繰らせるところがあった。しかしそんなことはなかったぜ。こうはっきりするのが4巻のクライマックスであろう。そしてそれは、以前より司馬懿と諸葛亮の関係に匂わされていたボーイズラブちっくなニュアンスをさらに強めるものとなっている。実は冒頭の、周喩きたああああ、の叫びは彼らの三角関係を期待したい心の声である(冗談半分本気半分だよ)。
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2012年08月17日
 L DK(10) (講談社コミックス別冊フレンド)

 渡辺あゆの『L・DK』も10巻である。まさかここまで続くとは思わなかった。いや、思っていなかったのは、結局のところ、見知らぬ男女の同居ものというワン・アイディアにそれ以上の広がりは生まれないだろうな、と踏んでいたからなのだが、しかし実際にはワン・アイディアでは終わらず、男性側の過去を知る人物の横槍であったり、優しい噛ませ犬の登場と三角関係への発展や、女性側の父親による条件の提示など、少女マンガのラブコメに特有な(アリガチな)パターンを次々に投入して、弾みをつけていったことの成果が、つまりはこうした連載の長期化なのであって、その勢いは今もなお継続している。要するに、だれていない。

 とりわけ10巻においては、主人公である葵と柊聖を取り巻く環境が、高校三年への進級によって大きく様変わりしている点に工夫が見られる。ここで行われているのは、ほとんどリセットと呼ぶのに近いシチュエーションのチェンジであって、同時に登場人物を複数増加させることに成功しているのである。葵は、萌という序盤から出てきている友人と一旦離され、いくらかボーイッシュなタイプである波留という友人と色気があり派手目なタイプのかえでという友人を作る。新しいクラスで新しい友人たちとの、しかもそれがヒロインを含めてタイプの違った三人組となるような関係は、この種のジャンルにお馴染みのものだとしてしまって差し支えがない。過去には萌とのあいだで、一対一の、友情の緊張状態を体験させられた葵だが、今回は三人組のなかの一人として、やはり少女マンガのラブコメに特有な(アリガチな)パターンを演じさせられているのである。もちろん、柊聖と同じクラスになったことで、以前とは異なったコミュニケーションが必要とされ、それが二人の間柄にとってカンフル剤のように機能しているのも看過してはなるまい。

 当初、ワン・アイディアを軸としていた『L・DK』は、たとえ類型的であろうともカンフル剤になりそうなパターンを次々と引っ張ってくることで、ストーリーが膠着してしまうのを免れてきた。だが、一時しのぎの建て増し住宅みたいに不格好になるのみであったなら、もっと早く作品は飽きられてしまっただろう。結果としてそうなっていないのは、最も重要な箇所、土台となる部分を決して壊したり、ずらしたりはしていないためだ。換言すると、葵と柊聖のロマンスは他の人間に秘密でなければならない、このしごく単純なアトラクションをいかに埋もれさせず、キープさせるか。本題は常にはっきりとしている。勢いがだれないことの理由はとても明快なのである。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
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2012年08月16日
  満天の星と青い空

 もちろん西森博之は(比類なきといってもいいぐらい)すぐれたマンガ家だが、しかし小説家としてはどうか。作者にとっては初の小説となるこの『満天の星と青い空』を、作家論的に考えるのではなく、あくまでも作品論的に読むのであれば、いくらか残念な気持ちにならざるをえない、というのが正直な感想だろう。理由は非常に単純で、「描写」が「説明」にしかなっていない、または「説明」が「描写」にはなっていないからであって、後に図像を加えられ、マンガ化されるため、用意された原作ならこれで充分なのかもしれないけれど、そうではなく、書かれたものが素のままで百であると手渡されたとき、やはりどうも物足りなさを覚えるのだった。

 文明の崩壊しかけた世界で、高校生の一群と、彼らを付け狙う若者たちが、殺し合いと違わぬ状況へと追い込まれていく、という内容は、一部のライトノベルに近いところがあるし、現代的なジュヴナイルと評するのに相応しいものだと思う。そこでは、サヴァイヴァルの死線を比喩とし、ティーンエイジャーの葛藤にリアリティが担保され、残酷な問題提起とそれを越えようとする理想像とが熾烈に入れ替わりながら、安易なハッピー・エンドに回収しきれない帰結を導いているのだが、作中人物たちの言動が「説明」の具体性によって拘束されている=こいつはこういう人間だからこの場面ではこういう風に決断するとあらかた「説明」してしまうので、ショッキングな展開にも戸惑いは少ない。筋書きには魅力があるのに下手な役者ばかりが揃った舞台劇のような印象を残すのである。

 弱者と強者はどこで分け隔てられるのか。SF的な事件を経、設定された受難を通じ、繰り広げられる『満天の星と青い空』の物語において、テーマを一つに絞るのであれば、おそらく、それになる。弱者と弱者の比較が強者を作り出す(弱い者がさらに弱い者を殴る)。こうしたシステムの閉塞を、終末の風景に放り込まれた高校生たちは、否応なく体験していく。そのことが、殺伐としたイメージを全編に付与させているのだが、他方で彼らを励まし続ける二つの存在に着目したい。主人公格の中澤真吾とヒロインにあたる水上鈴音である。タイプのまったく異なった両者が他の作中人物たちよりも特別目立っているのは、弱者と弱者の比較が強者を作り出す、というロジックを同じく逸脱しているからにほかならない。そうしたルールやゲームをはっきり無効としてしまう真吾と鈴音こそが、文明の崩壊しかけた世界で秩序を再チューニングしうる。前述したシステムの上位に存在する、という意味で強者の役割を果たしているのだ。

 ただし、真吾も鈴音もある種の超人であって、およそ凡人には及びもつかない領域に達していることが「説明」されている。確かに『満天の星と青い空』は、アパシーを生きる真吾が、対極である鈴音との出会い(ボーイ・ミーツ・ガール)を介して、感情を回復しつつ、超人を降りていく過程でもあるだろう。だが、それを中心の点とするには、あまりにも場面の転換が激しすぎる。「描写」というより「説明」をベースとしているがゆえに可能な(速やかな)視線のスイッチが、真吾の活躍を正しくコミック的な超人のそれに止めているのである。真吾や鈴音とチームを組むことになる横川晃一は『ドンキホーテ』におけるサンチョ・パンサのような奴で、いっそのこと、こいつに語り手を任せてしまうという方法もあったのではないかと思う。

 ヤンキー・マンガ出身の小説家としては、木内一裕(きうちかずひろ)が徐々に成功を収めつつあるが、木内がハードボイルドを参考にし、文体を固めたのとは違い、西森の『満天の星と青い空』には何を手本としているのか判然としないところがある。無論、そこに独自性を見出すことはできなくないものの、ねえ、やっぱりこれはマンガで読みたいよ、という願望の方が大きく出る。
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2012年08月03日
 クエーサーと13番目の柱

 ニコニコ動画を閲覧していると、偶に「謎の感動」なるタグに出会うときがある。発祥は知らないのだけれど、冷静に判断したらしょっぱいアトラクションでしかないのに妙にカタルシスさせられてしまう、そのような投稿に付けられているのが相応しい。そして、たぶん、阿部和重の小説『クエーサーと13番目の柱』にも実は「謎の感動」のタグがぴったり似合うのではないか、という気がしている。いや、これ、よく考えれば、全然いい話じゃねえんだよ。にもかかわらず、不思議と光って見えるものがあるのだ。

 非常に簡単に要約するとしたら、『クエーサーと13番目の柱』とは、その筋のプロフェッショナルとして新進のアイドルをストーキングするグループに起こった破滅と奇跡だといえる。現実には、犯罪者集団の類がどう破滅しようがどんな奇跡を起こそうが知ったことではないのであって、心のなかで軽蔑してやればいいのだが、しかし既に述べた通り、それがフィクションの力学を通じ、どうしてか「謎の感動」を寄越したりもするのだから弱るのである。では、その「謎の感動」の正体とは何か。

 佐々木敦は『群像』8月号に掲載の評論「DEYDREAM BELIEVER」で、〈自分自身でさえ本当に信じているわけではないのかもしれない何ごとかを、とりあえず、敢て、だがあくまでも真剣に、信じたことにしてみる、ということ、そのような振る舞いが必然的に、不可避的に招き寄せることになる悲劇と喜劇、そしてそこに舞い降りる紛れもない奇跡こそ〉が『クエーサーと13番目の柱』のテーマであるとし、〈より強く信じてみせた者が、誰よりもそうすることに決めた者だけが、最終的な勝利と成功を得ることになるのだ。そこでは信じられているものの信憑性は、もはやまったく問題ではない。むしろマトモに考えたら、決して信じることなど出来ないようなことこそが、思考の現実化を齎すのである〉と述べ、そういうある種ロマンティックな態度を、たとえそれを陳腐だと自覚してもなお果敢に引き受けて、徹底的に追求している点が、おそらく阿部和重の真価なのだと判断している(ように読める)。また、これはもしかすると『クエーサーと13番目の柱』が宿す「謎の感動」の正体の一端に触れてもいる。

 だが、個人的には「謎の感動」は「謎の感動」のままにしておきたい。もうそんなものの正体はどうでもいいのだ。たとえば、インターネットなどを中心に、どうやら陰謀論が歓迎されているみたいだぞ、と思うことが最近多い。こうした時代にあって、阿部和重の現実と妄想とが緻密に噛み合った作風は、かつては高度なアイロニーであったのかもしれないけれど、もはや圧倒的なリアリズムとして受け取れるものなのである。作中、スマートフォンや匿名の電子掲示板を介してスリリングに展開される追跡劇は、何らかの比喩というより、今日的な社会の直接的な描写だろう。無論、情報戦を制することの優位や暴力に緊張の糸を張り巡らせ、スパイ映画さながらのサスペンスに仕立てた序盤は強いフックたりえているし、欠落と獲得を経、無数に存在する可能性のなかから唯一の必然がいかに選び取られるかを戯画化したクライマックスには大変鮮やかなものがある。しかしそのすべては、あくまでも結果としていえば、「謎の感動」というリアリティ(共感)を呼び起こすためのプロセスにほかならない。

 そこに深い意図があろうとなかろうと、レディオヘッドの「エアバッグ」を用意したラスト・シーンは単純に出来すぎである。防ぐことのできなかったアクシデントは、あらかじめ防げないことを決定されているアクシデントでもある。この限りにおいて、とある人物の行動履歴は予測を後追い、経過を埋めているにすぎない。そしてそれは本質的には(残念なことに)奇跡ですらない。だが、その動かしがたい事実に窮すれば窮するほど、かえって見えてくるものもあるのではないか。少なくとも『クエーサーと13番目の柱』には「謎の感動」のタグを付けるのに十分なだけの内容が公開されている。

・その他阿部和重に関する文章
 『くるみ割り人形』について→こちら
 『ミステリアスセッティング』について→こちら
 『課長 島雅彦』について→こちら

 『シネマの記憶喪失』について→こちら
 『阿部和重対談集』について→こちら
 『青山真治と阿部和重と中原昌也のシネコン!』について→こちら
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