ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年07月17日
 Oceania

 結論から述べると、今回も90年代のあのSMASHING PUMPKINS(スマッシング・パンプキンズ)のカムバックはありえなかった。オリジナル・メンバー云々のことではない。サウンドの印象が、である。デビュー作の『GISH』(91年)や『SIAMESE DREAM』(93年)はもちろん、かなりの大作であった『MELLON COLLIE AND THE INFINITE SADNESS(メロンコリーそして終りのない悲しみ)』(95年)とも違うし、路線変更を果たした『ADORE』(98年)とも違う。しいて言えば、『MACHINA / THE MACHINES OF GOD』(00年)の延長にあるのだろうが、それだったらZWANの『MARY STAR OF THE SEA』(03年)の方が近い。つまり、再結成第一弾の『ZEITGEIST』(07年)と同じく、単なるリヴァイヴァルとはなっていないのだ。当然、それが良いか悪いかはまた別の話として。

 中心人物であるビリー・コーガン以外にオリジナル・メンバーがいないのはともかく、たっぷりディストーションのかかったギターやセンチメンタルでいてロマンティックなメロディに「らしさ」を求めることは可能だし、ジミー・チェンバレンの後任をつとめるマイク・バーンのドラムはいくらか行儀の良さを感じさせるものの充分にパワフルだ。ラウドに響き渡り、重量のあるグルーヴを溢れさす1曲目、「QUASAR」の出だしに、お、と思わされる。確かにSMASHING PUMPKINSだ、と納得されるものがある。だが、しばらくすると、やはりあのSMASHING PUMPKINSとは違うんだよな、という気がしてくるのである。なぜか。かつてのスマパンにあって現在のスマパンにないものがはっきりとしているからであって、端的に言ってそれは、振り絞るような必死さで叫ばれたヴォーカルだろう。

 リリカルな旋律がノスタルジーを美しくも高めていく一方、不機嫌な佇まいのヘヴィ・メタルが辺り構わずに炸裂しまくる。両の魅力をまたぎながら、共感に相応しいフレーズと強く結び付いているのは豊かなポップさである。世評の上でスマパンをスマパンたらしめるこの方程式を最も成功させたのが『SIAMESE DREAM』と『MELLON COLLIE AND THE INFINITE SADNESS』だったのだと思う。しかしそこで同時に聴かれ、グランジやインダストリアルの時代においてカート・コバーンであったりトレント・レズナーであったりに匹敵しうるカリスマを際立たせていたのは、ビリー・コーガンの、特に振り絞るような必死さで叫ばれたヴォーカルではなかった。たとえネガティヴなラインであろうと、ぎりぎりの焦燥を動力に大声のなかへ解放されたそれこそが、ひたすらエモーショナルなのではなかったか。既に述べた通り、今回の『OSEANIA(オセアニア〜海洋の彼方)』にも「ない」のはそれなのだ。

 誤解があっては困るのだけれど、若さや青さ、初期の衝動とおそらくは密なのだろうそれの「ない」ことを必ずしも否定的に見たいのではない。たとえば「QUASAR」の曲中にもあるように、ビリー・コーガンがリリックにしばしば用いる〈God〉というワードを一つ取ってみても、その使用に変化を来しており、前後のフレーズ、ひいてはメロディの立ち方自体が以前とは違っているのであって、こうした印象の、過去と一線を画していることが『OSEANIA』の全域にまで及んでいるのだ。ビリー・コーガンのヴォーカルのスタイルは、極めてポジティヴであろうとしたZWANの時点である種の転向を果たしていたわけだが、ほとんど意気込みだけでSMASHING PUMPKINSという様式美のアグレッシヴなサイドを成立させていた『ZEITGEIST』とは異なり、『OSEANIA』には無理やりハッスルして空回ったところがない。

 換言するのであれば、若さや青さ、初期の衝動とは別のレベルにフックの位置を定め、それを決して掴みあぐねてはいないことが、確かな手応えをもたらしているのである。激しい感情のリリースを止めたヴォーカルは、だが一切のテーマをなくしたのではない。センチメンタルでいてロマンティックなメロディとともに、なめらかな曲線でスケールの広い風景を描き出す。平行して、たっぷりディストーションのかかったギターは、場合によってはプログレッシヴと言おうか、あるいはサイケデリックと言おうか、初期の『GISH』やBサイドのコレクションであった『PISCES ISCARIOT』(94年)を彷彿とさせるようなフィーリングを取り戻し、他に替え難いプレゼンスを雄弁なまでに奏でる。もはや先駆性で評価されるサウンドではないものの、この自由奔放とは似て非なるエネルギーの意図的な満載は、ああ、正にSMASHING PUMPKINSだ。

 ドラマティックなパートを盛り上げるにあたって、幽玄なキーボードがふんだんに取り入れているのも『OSEANIA』の特徴に挙げられるだろう。凝らされた音色が、黄昏の風景を鮮やかに彩っていく。先の「QUASAR」や2曲目の「PANOPTICON」を例に、ダイナミックな展開の佳曲が揃い、すぐれたギター・プレイヤーとしてのビリー・コーガンを再発見できるようなアルバムである。反面、せつなくも穏やかな表情のナンバーには、スマパンの現在が、たぶんそれは洗練とイコールで受け取られるべきなのだろう旋律が、非常によく出ていると思う。5曲目の「MY LOVE IS WINTER」に耳を傾けよ。6曲目の「ONE DIAMOND, ONE HEART」に耳を傾けよ。13曲目の「WILDFLOWER」に耳を傾けよ。「愛」という「呪い」という、「永遠」という「刹那」という、なんともSMASHING PUMPKINSに象徴的なテーマが、深い闇の底から見上げられる光の、とてもやさしくて儚いイメージをともないながら奏でられているよう。

 とりわけ、ラスト・トラックでもある「WILDFLOWER」だ。最初はその、ヴォーカルとキーボードを基調としたあまりの素朴さに意外性すら覚えたのだったが、中盤で差し込まれるギターのアクセントが胸に迫り、フェードアウトのエンディングに幸福な物語の結末を考えさせられる。〈Wasted along the way, Wasted along the way, Im wasted along the way to reach you〉もしかしたら誰かが長い道のりの疲弊の先で待っていてくれるのかもしれない。以上のリフレインは、そのような奇跡を意識させる。

 『ZEITGEIST』について→こちら

・その他ビリー・コーガンに関する文章
  来日公演(05年8月4日)について→こちら
  シングル『WALKING SHADE Limited Edition DVD』について→こちら
  アルバム『THE FUTURE EMBRACE』について→こちら
  詩集『blinking with fists』について→こちら
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2012年07月07日
 湾岸ミッドナイト C1ランナー(11) (ヤンマガKCスペシャル)

 確かこの11巻に収められているエピソードだったか。『ヤングマガジン』に掲載されたとき、とある作中人物の〈実は才能って最初からはっきりあるモノじゃなく / 何かのキッカケで目覚めるのよ / そのキッカケでいちばんが実は模倣なのよ〉〈実はミスチルにもマザーはいるはず / でもわからない / 完全に一人歩きしてるから / つまりそれが才能よ〉なる発言に対し、さりげなく岩見吉朗がTwitterで苦言を呈していた()けれど、それはマンガ原作者の久部緑郎というより、やはり元『ロッキング・オン』の岩見吉朗のものであるように思われたのだった。が、ともあれ、楠みちはるの『湾岸ミッドナイト C1ランナー』は、たぶん世間的にはそう認知されているに違いないものの、必ずしも走り屋のロマンを追っているのではない。

 もちろん、公道でのレーシングを抜きにしては語れないマンガだろう。しかし、本編である『湾岸ミッドナイト』の終盤で、意外とそうした面は後景化していき、自動車産業と密な日本の戦後史(精神史)を作者なりに編み直そうとする部分が大きくなっていたのであって、リニューアルされた「C1ランナー」では、もしフリーターの若者が各種のプロフェッショナルにマネジメントを学んだら(プロのライターになれるか)、とでもすべきストーリーとともに、WEB時代において老舗の自動車雑誌を存続させようとする人々の愛着と奮闘が描かれていた。そこで各種のプロフェッショナルたちが、自動車産業、出版産業、サービス産業と、立場や言葉を変えながら持論として述べているのは、要するに日本の現代史(精神史)にほかならない。先に引用した模倣と才能(ミスチルとオリジナリティ)の発言も、おそらくはそれを象徴するものとなっている。

 主人公の一人であるノブが編集部のアルバイトと多くの出会いを経験することで成長していくさま。『湾岸ミッドナイト』の終盤に登場した荻島信二が優等生であることのジレンマを通じながら自動車評論家としてのポジションを確立していくさま。これらの二点が「C1ランナー」の本筋を動力させているキーだと言える。だが、ここで注目したいのは9巻から物語に加わってきた有栖ガレージのオーナー、有栖高彦の存在である。タカと呼ばれるその中年男性はある種のカリスマであって、ノブや荻島に新たなインスピレーションを与える役割を持たされているのだけれど、それは同時に『シャコタン☆ブギ』や初期の『湾岸ミッドナイト』のサブ・テーマでもあった不良少年がモラトリアムの外でいかに社会と関わっていくか、そして『TOKYOブローカー』や後期の『湾岸ミッドナイト』に組み込まれていたどのような理念によってダンディズムは支えられるのか、等々の、すなわち楠のエッセンスを極めて具体的に凝縮しているのだ。

 実際、作者自身もタカという作中人物を得た(導入した)ことで以降の方向性を掴んだのだろう。『湾岸ミッドナイト』のスタイルがそもそもそうであったように、当初はゲストでしかなかったはずの彼にカメラのズームを合わせていくのだし、出番を経る毎にその容貌が若返ってグッド・ルッキンになっていく。つまり、肩入れの度合いがあからさまになっていくわけだ。タカの半生、それはちょうどオールドスクールなフィクションにおける不良少年の躓きと立身出世を思わせる。バイクの事故で友人を亡くし、挫折を経、自分で自分を救うべく、新天地へ渡ったのち、成功を収める。こうした変遷が、しかし現在進行形のメロドラマではなく、何世代も下の若者に向けた伝承であったり教訓であったり、おっさんのセンチメンタルをぎりぎり免れるか免れないかのラインで、この国の現代史(精神史)とのミックスになっているところに「C1ランナー」の魅力はある。

 10巻のラストで自動車評論家の荒井がノブの進退をめぐって〈…これは前にタカにも言ったんですが / 生きるってコトは「人に借りをつくってる」わけですよね / いいコトも悪いコトも借りをつくっている / いいコトはもらっといて悪いコトは知らない / そーゆうわけにはいかないんですよ〉と言っているこれが、タカの、死んだ友人のオルタナティヴとしての半生、つまり〈「忘れる」もしくは「認める」 / キツいことを振り切るには結局この二つしかないな…と〉〈あの時の負い目はすべて仕事に変えて認めてきた / そして仕事に変えた以上それはもう負い目じゃないと割り切ったわけ〉だという挿話と絡まり、先に引用した模倣と才能の議論にまで影響を及ぼしているのは、正に作品の醍醐味だと言える。

 1巻について→こちら
 『湾岸MIDNIGHT』40巻について→こちら
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2012年07月04日
 pupa(2) (アース・スターコミックス)

 掲載誌の『アース☆スター』はマイナーではあるものの、きっかけ次第ではブレイクもありうるのではないか。反面、マニアックな評価にとどまるのが相応しい気もしてしまう。採用されているのは意外とキャッチーな要素ばかりなのだったが、それらの組み合わせが一般受けしそうなラインをどうしてか少し逸れているのである。これまでの2巻を読む限り。茂木清香の『pupa(ピューパ)』というマンガは。そしてそこがいい。

 父親の暴力が原因で、母親からも見捨てられ、それでも健気に生きようとしている兄妹がいた。兄の現(うつつ)は妹の夢を守るためだったら、どれだけ自分が傷ついても構わなかった。仲睦まじい二人の様子はクラスメイトたちが羨むほどであった。決して幸福とは言えないけれど、平穏な日常がずっと続くと信じていた。信じていたのに、そうはいかない。そうはいかなかったことの悲劇性が、荒唐無稽でいてグロテスクなファンタジーのなかに切ない物語を編み出しているのだ。

 ある日のこと、いつも通りの帰路は、しかし兄妹の運命を大きく違えてしまう。突然の岐路でもあった。公園で現を待っているわずかな間、謎めいた赤い蝶を目撃した夢はそれがもたらす不幸をまだ知らない。彼女の異変を直視し、現は驚愕するだろう。まさかあの禍々しい怪物が、人であろうと何であろうと殺して喰らい尽くすあの怪物が、最愛の妹の変わり果てた姿だなんて。pupaと呼ばれる未知のウイルスが原因であることをマリアと名乗る研究者に聞かされた現は、抗ウイルス薬を投与した自分の身を夢に捧げようと決心するのだった。

 極論すれば、近親相姦のモチーフとカニバリズムのイメージとを折り重ねることで作品の骨格が作られており、さらにはドメスティック・ヴァイオレンス(DV)や組織化されたイデオロギーの介入を通じ、半径が狭い世界と巨大な陰謀論の対比という現代的な設定の肉づけが為されているのだと思う。

 カニバリズムもそうだし、人体の破壊など、直接的に残酷な描写の多い内容である。ただし、デフォルメが利いた作風のためか、そのこと自体にとりたててショッキングな効果があるのではない。実際、これぐらいなら、マンガはもちろん、アニメやライトノベルを含め、今日のフィクションにおける(ある程度の規制はかかるかもしれないが)マナーの内に入るだろう。むしろ、それが場合によってはあっけらかんとし、あまりにも屈託がないせいで、ことのほか際どいものとなりえている点に異質さを見られたい。

 登場人物のファッションや作中に江戸川乱歩の引用を確認できるように、ゴシックであったり所謂アングラであったりの趣味が作者にあるのかもしれないけれど、個人的には、もしかすると90年代の華倫変やサガノヘルマーあたりをよりオタクナイズドしていったらこうなるのでは、という印象を持った。絵柄はかなりキュートだが、近いラインの作品がありそうでなかなかなさそうなところに独特と形容してもいい魅力を備えさせているのである。兄妹の父親もあまりにも外道で実にえぐい。

 無論、そうした切り口(語り口)と相まって、テーマのレベルに切ないエモーションが寄り添えている。このことが『pupa』の本領に他ならない。

 2巻にひときわ眩しいシーンがある。主人公の一人がそれを幻だと自覚しながら、その幻のなかのささやかな幸福こそが真実であって欲しい、幻であるなら消えないままでいて欲しいと願うシーンである。現と夢、主人公たちに付けられた名前は、明らかに「現実」と「夢想」のコントラストを象徴している。普通、「現実」と「夢想」は相反していると考えられる。「眠り」と「目覚め」がそうであるのと同様に。だが「現実」であれ「夢想」であれ、いずれであろうとそれが幸福を意味し、必ずや失われていくものであるとき、失われていくことの儚さに胸は締めつけられる。

 ああ、〈今までずっと現実世界が夢ならばいいと思ってきた 忘れてしまいたい事が多すぎるから… だけど… こんな気持ちははじめてだ… この夢が永遠に続きますように〉

 しかし、この願いは叶わない。叶わないという暗示を含んでいるがゆえに眩しさと儚さとを同期させるに至っているのであって、以上のような認識はおそらく『pupa』において着眼すべきテーマとも深く関わっている。では、そのテーマとは何か。グロテスクでいて切ない物語を通じ、こちらへと届いてくるテーマとは何か。仮に述べるとするなら、それたぶんこういうことである。すなわち、理性が本能や衝動に負けるとしても感情によって人は救えるか。

 近親相姦のモチーフであったり、所謂「妹萌え」の文化的なフックが作品の魅力の一端を担っているのは疑うまでもない。ミスマッチとも取れる残酷な描写の数々がそこに差し込んでいるのは、理性を容易く無化しうる本能や衝動、欲望の類だろう。

 さしあたり行為をワキに除け、因果のレベルで考えるとき、人を食らう怪物へと変身した夢に罪はない。もちろん、だからといって彼女の行為は許されるものではない。醜さは罰を連想させる。ある種の喩えである。そうした楔とともに打ち込まれた絶望を、自らを生き餌として捧げることで現は共有するのだったが、当然それは根本的な解決とはなっていない。所詮、同じ地獄に落ちていくのを選んでいるにすぎない。では、二人の運命に救いはまったくないのか。こうした疑問形に対してのわずかな抵抗。もしも現の懸命さに体現されているものがあるとすれば、きっとそれになる。

 奪われた夢の未来を穴埋めしようとする現の態度は単なる徒労なのかもしれない。にもかかわらず、彼の前に他の進路は存在しない。これもまた絶望と判断するのに充分な条件なのだけれど、本当に大切なものは決して投げ出さないという決心だけは叶えられているのだ。消極的にではなく、積極的に。地獄の、暗闇の底で、足掻くことでしか灯せない光を探している。
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