ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年06月10日
 ランチキ 9 (少年チャンピオン・コミックス)

 奥嶋ひろまさは苛烈な青春の光と影を不良少年たちの姿に見出そうとしている。卒業していく椿屋からのタイマン指名問題を経、遂に直接対決を果たしたランチキ(鹿野乱吉)とキム(金田鉄雄)は、かつての関係を回復することがないまま、二年へ進級する。キムをトップに抱く仲間とも距離を置くランチキであったが、周囲と馴れ合わない環境が彼を強くするのか。単身、他校とのケンカを繰り返し、降威高校のなかで一目置かれる存在にまでなった。椿屋の弟である新入生らを一派に加えたランチキ。五島などとともに磐石を築くキム。別々の道を進んでいた二人は、しかし同じく播州司馬工業高校という脅威を相手にせねばならなかった。以上が『ランチキ』9巻のあらすじである。

 ヤンキー・マンガとは、学園ものをベースにしたある種の様式美であろう。限られた学校生活をコンセプトとしたストーリーはおおよそ類型化している。この9巻では、降威高校の卒業後の進路がわずかにアナウンスされているけれど、それがプロ・ボクサーであったりヤクザであったりバンド・マンであったりするところを含め、やはり様式美というよりほかない。だが、時代をくだりながら紡ぎ直されていくその物語において、新しい共感や孤独が必然として不可欠に発生しうる点こそが最も見られたいものだと思う。他の作品を引き合いに出すなら、たとえば市川マサの『A-BOUT!』がギャグ(ネタ)のレベルで解釈される通俗性とシリアス(ベタ)のレベルで解釈される通俗性の掛け合わせをナチュラルに展開することでインターネット時代ならではのアイロニックな共感を獲得しているように、だ。

 奥嶋が『ランチキ』で掴んでいる(あるいは掴みかけている)アクチュアリティは、おそらく、主人公の一人である鹿野乱吉の、自分は他の何者にもなれない、他の誰とも何かを分かち合えない、にもかかわらず自分だけでは自分の身を確認できないし、自分を決して満足させられない、そうした屈折を引き受けることでしか自分を証明できないのだとしたら持つべき居場所はどこにもないのではないか、という認識とイコールな孤独に由来している。そしてそれは、たぶん作者が90年代のロック・ミュージックの影響下にあることと無縁ではないのだったが、今日のサブ・カルチャーやフィクションが内面を問題視したとき、自然と携帯してしまう苦悩と重なる。当然、その苦悩ですら様式美だとされる可能性もあるにはある。だからむしろ、様式美を徹底することではからずも定型の綻びからこぼれ落ちる微妙なニュアンスをも総合してしまう、かのような筆致が「ふるさ」のなかに「いま」を覗かせている。ここに『ランチキ』の価値はある。

 ランチキもそうだし、彼の先輩格である手呂にしても、本来は内面のぶっ壊れた人間で(あると周囲に忌まれる)しかない。彼らの暗いロジックを肯定することは、手呂の名前に暗示されている通り、テロリズムを許すことになりかねない。作者は彼らを好意に描きつつもこの一線を厳しく律しているように思う。結果、彼らはどれだけの勝利を得ようとまるで敗北者の影を逃れられない。手負いの椿屋を襲撃し、リベンジを達成したはずの手呂の、ああ、あたかも手元には虚無だけが残されたと言いたげな表情は印象的だ。その姿には、学校を中心とした半径の狭い世界から感情を応酬するのに相応しい唯一の対象、この場合は椿屋が遠のいてしまったせいで、自分だけでは自分の身を確認できず、自分を満足させられないというジレンマが投影されている。喪失感の持続が束の間の達成感を上回っているのである。置いていかれること、取り残されることの寂しさはあくまでも結果として訪れるのであって、すべての結果は過去に立ち戻れないことを含意する。

 もちろん、手呂と椿屋の関係(椿屋に対する手呂の片想い)はランチキとキムの関係(ランチキとキムの両想い)の補助項だろう。キムに破れ、大勢と仲違いし、居場所をなくしてしまったランチキがそれでも学校に止まるのはなぜか。五島たちに詰め寄られたランチキは次のように告げる。〈悪いけど俺が降威高生でおる理由はただ一つ――キムを倒すって事だけや・俺達の繋がりが清い感情だろうが汚れた感情だろうが関係ない・繋がってるって事に意味があるんや……キムもそれを分かってるはずや〉と言う。キムも自分も昔の立場には立ち戻れない。だが、これを断絶としないための方法を。青春の光と影が交わり合うかもしれない場所を。実直に。『ランチキ』は探し当てようとしている。

 8巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
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2012年06月02日
 キリンThe Happy Ridder Speedway 3 (ヤングキングコミックス)

 東本昌平の『キリン』自体は大変息の長いマンガであるが、所謂巨編のように大きなストーリーが持続的に展開されているのではないし、かといって一話完結に近い小さなエピソードの集成でもない。登場人物や時系列、各種の設定が一定ではない点を含め、ちょっと説明がしづらい。複雑な構成を擁しているのだけれど、基本としてはいくつかに分かれたシリーズの総称を指して『キリン』になるのだと思う。この『キリン The Happy Ridder Speedway』は、必ずしも無印の『キリン』とリンクする内容ではないとはいえ、今までの経緯からすると単純に『キリン』の新シリーズにあたるのが「The Happy Ridder Speedway」ですよ、ぐらいの解釈で差し支えないだろう。それの3巻である。

 おそらく『キリン』というのは、一般的にバイクを主題とした走り屋のロマンと認知されているに違いない。だが、それは初期のシリーズである「POINT OF NO RETURN!」や「The Horizontal Grays」によって確立されたパブリック・イメージにすぎず、以降のシリーズではもっと意欲的に幅の広い枠組みが採用されているのであって、たとえば前シリーズの「WONDER NET WANDER」などはある種のホーム・ドラマですらあった。正直、古くからのファンにすれば、「WONDER NET WANDER」に関して、こんなの『キリン』じゃない、という声が出てきてもおかしくはないかもしれなかった。それほどシリーズ毎の方向性は異なっている。

 そして「The Happy Ridder Speedway」だが、これなんかは『キリン』というよりむしろ同作者の『CB感。REBORN』にニアなものを思わせる。つまり、SFめいた背景にサスペンスを盛り込んだ物語が繰り広げられているのである。東辺町、さびれ、妙なルールに支配された一角に迷い込んだ青年は、自分の名前と記憶とバイクを奪われてしまう。ネギと呼ばれ、夜のクラブで働くことになった彼は、しかし理不尽な住人たちの暴力を尻目に、全てを取り戻すための機会をうかがっていたのだった。誰も許しなくては町を出らない。警察官とギャングが牽制し合い、曰くありげなレースに皆の目が注がれていく。果たして町長をはじめとする権力者は何を秘匿しているのか。

 序盤、日本の田舎町を舞台に『ツイン・ピークス』みたいなアメリカン・ゴシックをやっていくのかと想像していたら、3巻の段階ではだいぶ様子が変わってきている。差し向かいのアクションがばきばき繰り広げられているものの、本質はやはり、ストレンジャーもしくはアウトサイダーが自由の概念を再定義していくあたりにあるのだろう。という意味では、「POINT OF NO RETURN!」の頃とテーマを違えてはいない。

・その他東本昌平に関する文章
 『ハルマン』Vol.1について→こちら
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