ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年05月31日
 黒猫DANCE(1) (講談社コミックス月刊マガジン)

 安田剛士は、同名小説のコミカライズである『一瞬の風になれ』を別にすれば、自転車マンガの『Over Drive』で何らかの病状に苦しむ人間をモチーフとして取り入れ、続くサッカー・マンガの『振り向くな君は』でも同様のモチーフを導入していたのだったが、それらの事例はもしかすると、この作者の深奥には健康を生きられないことを強く生きるというテーマが大きく存在しているのではないか、と思わせる。

 新撰組を題材にした『黒猫DANCE』の主人公は沖田総司であって、その固有名詞からイメージされるのは、やはり健康を生きられないことを強く生きた人物像であろう。

 江戸を離れて日野に暮らす惣次郎少年は知らない。やがて自分が幕末の波乱を血まみれで駆け抜けていくなかで注目されることを今は知らない。傍らで彼を見つめる黒猫によって暗示される〈未来は幾つもの選択で成り立っている・破滅か・覚醒か・そうじ・お前はどの道を選ぶ?〉というヴィジョンは果たして何を意味しているのか。若き日の土方歳三や島崎勝太(近藤勇)との出会いを経、(後の)沖田総司は江戸へと旅立つ。剣の道を極めるべく、決心するのだった。1巻の内容を大まかに説明すると、このようになる。

 通常、沖田総司と聞いて想像される薄命な美少年(青年)の姿はまだここにはない。しかし、冒頭に土方歳三との別れを置いた物語の構成は、どうしたって病床を免れない彼の行く末を、こちらの意識に植え付ける。少年マンガならではのきらきらとした輝きを止めつつ、佐藤秀峰と井上雄彦をミックスしたかのような濃い作風は、死と隣り合わせの壮絶な青春が繰り広げられることを予感させるのであって、当然、そこが魅力の一部を担っているのは明らかだ。

 幸村誠に単行本未収録の「さようならが近いので」という沖田総司の最期を描いた作品があるけれど、モノローグにアナウンスされる〈それは人類史上最後に剣の高みへ辿りつく男の〉〈最初の一降りであった〉の言葉は、『黒猫DANCE』も同様に、ひたすら剣の道を歩むことの純粋性と時代や運命に翻弄されることの悲劇性とが二重写しであるパブリック・イメージのヴァリエーションを織り成していくに違いないと信じさせるのである。

 その上で気になってくるのは、題名にもある「黒猫」の役割だろう。これがとても意味深長なのである。幼い惣次郎は、黒猫をある種の媒介とし、史実に沿うのであれば、新撰組が活躍して以降の歴史を先取り、垣間見る。そうした語り口が、SF的な趣向に基づくものなのか。あるいはこうも考えられはしまいか。これから起こることのすべてが主人公に回想される走馬灯みたいなものであって、死を目前にした沖田自身の依り代こそが黒猫なのだという線もありえるのではないか。

 いずれにせよ、1巻のおしまいで江戸に旅立った惣次郎少年に対して〈やはり今度も選択は変わらぬか〉と述べる黒猫の存在は、ループ構造をベースとした今日におけるフィクションの作法を汲んでいると解釈してもいいし、それが『黒猫DANCE』の、沖田総司のはからずもせつない行く末を象徴している。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)
2012年05月27日
 Pop War

 ポップ・ウォー。近年、ここまでときめかされるタイトルはそうお目にかかれないぞ、というぐらいに決まっている。元THE HELLACOPTERSのニッケ・アンダーソンが率いるIMPERIAL STATE ELECTRIC(インペリアル・ステイト・エレクトリック)のセカンド・アルバムである。バンド名を冠した2010年の前作が極めてソロ・プロジェクト的であったのに対して、今作の『POP WAR』はTHE DATSUNSのベース、ドルフ・ドゥ・バーストなどを正式なメンバーに含む、バンド編成で制作された。それもあってか、楽曲の印象はよりシャープに、タイトかつコンパクトにまとまっている。

 もちろん、THE HELLACOPTERSの後期と同様、疾走感を失わないままに黄昏れたサウンドが何よりの基本線であって、オーセンティックであることを最大のテーマにしたスタイルは、レトロスペクティヴだと言ってしまって構わないだろう。しかしそれがどうしたっていうんだ。THE HELLACOPTERSが08年に出したラスト・アルバムの『HEAD OFF』は、実はマイナーなバンドのカヴァー集であったと(最初は秘密にされていて)後に明かされたが、そこで発露されていたのは、結局のところ、ロックン・ロールにおけるシンプルなビートの、とりわけエヴァーグリーンな魅力をいかに抜き出せるか、という巧みさであり技法であった。IMPERIAL STATE ELECTRICの『POP WAR』もまた、いや日本盤のボーナス・トラックを除く全10曲が自作自演のオリジナル・ナンバーであるものの、おそらくそれと本質は等しい。

 要するに、ロックン・ロールに初期衝動やセンセーショナリズム等のタグを付けるような立場とは異なったところでピュアなロックン・ロールを再現しているわけだ。エヴァーグリーンとは、つまり、そういうことである。

 冒頭を飾る「UH HUH」の実に玄人な味わいであることよ(詠嘆)。2分にも満たないナンバーだが、軽妙なリズムに乗じながら〈ア・ハー〉と繰り返されるフレーズがとにかくキャッチーであって、気がついたら一緒になって口ずさんでいるほど。掴みとしてはこの上ない。ああ、軽い溜め息にも甘い囁きにも似たメロディのせつなさときたら。アルバム全体を通して言えることなのだけれど、北欧(スウェーデン)のバンドだから、という理由で済ませてしまっていいものかどうか、もうよくわからないぐらいの哀愁こそが一つの個性となっているのは、既に述べたとおりTHE HELLACOPTERSの後期とイメージの重なるところ。コーラスに差し掛かって〈IN THE DRIVING RAIN〉と歌われる4曲目の「BACK ON MAIN」ではないが、雨の日にドライヴでアクセルを踏んだ瞬間、ぴったりとはまるサウンド・トラックのようでもある。

 必ずしも線の細いわけではない2本のギターが、しかしデリケートに絡み合う。ベースのラインは、ヘヴィであるというのとは別のレベルで、太いグルーヴをうねらし、メロウなムードのなかにあってもドラムのアタックは強い。ニッケのヴォーカルは以前にも増して渋く、雨の日のドライヴにはまりそうでありながら、その情緒はひどく乾いている。ある種の二律背反を持ったロックン・ロールが見事に成し遂げられているのであって、もしかすれば『POP WAR』というアンビバレントなタイトルはそれを暗示しているのかもしれない。比較的、スローにダウンした5曲目の「WALTZ FOR VINCENT」からこぼれてくる物憂げな旋律にはまったくたまらないものがある。

 日本盤のボーナス・トラックを除けば、トータルにしてわずか30分強の内容だが、アナログ(ヴィニール)のA面とB面を意識した構成がされていることは明らかで、A面にあたるパートは、フックを満載した「UH HUH」ではじまり、今しがた挙げた「WALTZ FOR VINCENT」で締め括られる。こうした並びは非常に鮮やかであるし、大変メリハリが利いているのだけれど、実はB面にあたるパートの方が盛り上がりを重視した仕上がりになっているのではないか、という気がする。6曲目の「SHELTERED IN THE SAND」で弾けたビートは、ラストに置かれた10曲目の「ENOUGH TO BREAK YOU HEART」まで緩むことがない。所謂ガレージ・ロックのノリを期待するなら間違いなくこちら。THE HIVESにも負けないエネルギッシュな8曲目の「MONARCHY MADNESS」にそれは代表されているだろう。

 いずれにせよ『POP WAR』には目新しくはなかったとしても決して古びれないときめきが宿っている。ストリングスを配した「ENOUGH TO BREAK YOU HEART」の終盤に広がるサイケデリックな色彩は、先般デビュー作をリリースしたデンマークのTIM CHRISTENSEN & THE DAMN CRYSTALSにも通じるものだ。出身地や方法論は違えど、72年生まれのニッケ・アンダーソンも74年生まれのティム・クリステンセンも、両者ともエヴァーグリーンであることを目指した同時代の、そしてほぼ同世代のアーティストだと付け加えておきたい。

バンドのオフィシャル・サイト→こちら

・THE HELLACOPTERSに関する文章
 『HEAD OFF』について→こちら
 『AIR RAID SERENADES』について→こちら
 『ROCK & ROLL IS DEAD』について→こちら
 『STRIKES LIKE LIGHTNING』について→こちら 
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2012)
2012年05月20日
 フラワー 1巻 (ヤングキングコミックス)

 いつ頃『ヤングマガジン』から『ヤングキング』へ移籍というルートが確立されたのか詳しくは知らないが、近年の柳内大樹を筆頭に前者でうまく立ち回れなかったマンガ家が後者でブレイクを果たすケースもないわけではないのであって、明石英之もここで伸るか反るかといったところであろう。心優しい殺し屋の仕事ぶりを描いた『フラワー』の1巻である。

 誰もその正体を知らないが、このところ裏の世界でにわかに話題となっているヒットマンがいた。通り名を「フラワー」という。だが実際には噂先行のルーキーであって、一回も暗殺に成功した試しはないのだった。しかし不思議なことに、彼に命を狙われた者、彼の命を狙った者、彼と関わった者たちは皆、フラワーの存在を認め、生き方を変えるほどに強く影響されていく。

 前の二作『きんぼし』と『二瘤駱駝』では、主にスポーツ(格闘)を題材としていた作者である(後者は原作付きであるものの)。それが『フラワー』では、ライトなハードボイルドと見なされるものに挑んでいる。おそらく、新境地といっていいのだけれど、肝要なのは、ライトであることとハードボイルドであることの双方を両手で引き受けられるような、そういうユニークさ、チャーム・ポイントを主人公に与えられている点だと思う。

 おっちょこちょいのルーキーらしさは、不器用な童貞っぽいイメージのなかに生かされている。携帯電話などの現代的なツールを使うにあたって喋らざるをえない場面があるためだろう。正直、まったく無口であってもよかったぐらいだが、極めて寡黙なフラワーはそのかわり、目鼻口のコミカルな動きで感情を表しており、これが作品自体の小気味よいテンポに繋がっているわけだ。ギャグとして見られる軽さ、明るさがある。

 また、ハードボイルドに似たタッチも同様にフラワーが時折覗かせるシリアスな顔つきによって担われている。絶体絶命の窮地を前に、いや確かにおどおどしたりする場面もあるにはあるのだけれど、スタンスそのものは日常と変わらず、ぶれてはいないのだし、こいつ案外何かを隠し持ってるぞ、という予断を感じさせるだけの鋭さ、厳しさをしばしば見せる。事実、彼の壮絶な過去をストーリーは徐々に明かしているであろう。

 なぜ、主人公は「フラワー」と呼ばれるのか。なぜ、彼は殺し屋になったのか。これが本作の核心であって、伏線めいたいくつかの箇所と「アガペー(見返りのない愛)の花」なる存在とが曰くありげに絡み合っていく。

・その他明石英之に関する文章
 『きんぼし』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)
2012年05月19日
 ライアー 〜嘘の箱庭〜 (りぼんマスコットコミックス)

 西尾維新がいしかわえみの『絶叫学級』をフェイヴァリットに挙げていたのは記憶に新しいけれど、いしかわえみの『ライアー 〜嘘の箱庭〜』には(部分的にだが)西尾維新の作品を彷彿とさせる哀切があるように思う。

 恋人であった神木が突然の失踪を遂げてから一年が経つ。今でも彼を思うと胸が痛む沙良だったが、親友のあすみや級長の拓也に励まされながら、無事に進級を果たした頃、彼女が通う中学校に神木とそっくりな教師が赴任してきたことで、ああ、誰にも知られてはいけない真実の扉が開く。クラスメイトの携帯電話に一斉送信されてきた「このクラスには嘘をついている人間がいる」というメールは一体何を意味しているのか。日常に隠されていた幼く、幼いがゆえに残酷なまでの愛憎が次第に暴かれていく。

 半径の狭い世界に潜んだ憂鬱=閉塞感をホラー・マンガという喩えのなかに描き出してみせたのが『絶叫学級』だとしたら、同じ題材をより直接的に表しているのが「ライアー 〜嘘の箱庭〜」だといえる。そしてそのことが、秘密を握っているのは誰だ、的なサスペンスをストーリーにもたらしているのである。

 謎解き、ミステリのような整合性を求めるタイプのマンガではないだろう。むしろ、隠蔽され続けてきた一点の明るみになることで、それまでの善良な振る舞いが実は悪意の裏返しであったとばれてしまう。サスペンスはこの倒錯を用意するためのものでしかなく、バランスを欠いた平穏があっけなく壊れる。その容易さの非常に無慈悲であることに登場人物たちは翻弄されるのだし、作品のテーマは集約される。秘密を握っていたのが××だったとは、的な逆転は、しかし意外性や驚きより、なぜ幸せを小さく願っただけのことが悲劇を呼び寄せてしまうのかという、せつない溜め息を生じさせているのであって、桜の美しさに差す光の眩しいラスト・カットを決して明るいものとしていないところに最大のエモーションがある。

 間違いは間違いを通じてのみ正される。この認識が道徳や倫理の枠を外れているのは疑うまでもない。そのような意味において「ライアー 〜嘘の箱庭〜」の結末は禁忌にほかならない。だが、もしも道徳や倫理を守るのに嘘が必要とされるのであれば、禁忌こそが「本当」に等しいのではないか。

 やはり学園を舞台にした西尾維新の『君と僕の壊れた世界』では、あらかじめ嘘と見抜かれている限りその嘘は真実と同型だと判断されるような物語が展開されていた。一方、いしかわが「ライアー 〜嘘の箱庭〜」に展開しているのは、一つの嘘が他の嘘を覆い尽くすことで真実に近いポジションを占めていく様子である。そしてそれは結果的に「永遠」と名付けられ、不可侵なほどにピュアラブルなロマンスへと格上げされる。「このクラスには嘘をついている人間がいる」というメールが告発であるとき、では告発をしているのは誰か。そして告発をされているのは、つまり〈本当に嘘をついていたのは――…〉誰か。このことに留意しておかなければならない。

 私にとって貴方との関係が絶対であるなら他との関係は偽りにすぎない。作中でとある人物が目論んだのは、結局のところ、これを是とするための方式であって、それはすでに述べたとおり、自分のもの以外の嘘を徹底的に統べることで果たされているのだ。決してハッピー・エンドではないなのに、きらきらときらめくラスト・カットを哀切と呼ばずに何と呼ぼう。

 コミックスには表題作のほかに「コドモノ森」という読み切りが収められており、そちらもサスペンスの趣向を持っているけれど、題材とされているのは家族間の愛憎である。「ライアー 〜嘘の箱庭〜」に比べると、やや甘い仕上がりだが、とある親子が辿り着いた幸福に大変微笑まされる。ショート・エピソードの番外編を含め、とてもいい作品だ。

・その他いしかわえみに関する文章
 『絶叫学級』について
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)
2012年05月16日
 本日、20時からのニコニコ生放送「ニコ生PLANETSスペシャル「『文化時評アーカイブス』、その後」マンガから映画まで、2012年春期話題作完全批評」に女性向けマンガと男性向けマンガの二部門で出演いたします。詳しい内容等は→こちら でご確認ください。
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | その他。
2012年05月04日
 おはようおかえり(3) (モーニング KC)

 鳥飼茜には「家出娘」という寂しくてやさしい読み切りがあって、内容はともかく、その題名はくるりの楽曲から取られているのだったが、この作者にとって初の長い連載作品となる『おはようおかえり』が、くるりの楽曲のいくつかを思わせるような柔らかいせつなさを持っているのは、なにも京都を舞台にしているから(だけ)なのではないだろう。短編みたいな小さい情景の繰り返しを日常と呼ぶとき、ささやかな喜びも悲しみも鮮やかな感動となってくる。

 基本的には、青年期の揺らぎを題材にしたマンガで、ミニマリズムに近い。つまりは、スキャンダラスな事件を大げさに扱うのではなく、ライト・ポップでありながら適度にデリケートなコミュニケーションを主要としたアプローチが取られているのだけれど、本筋にそくしていえば、主人公の堂本一保と二人の姉、奈保子と理保子とが、それぞれの愛しい人たちから離れていく、どうしても離れていかざるをえなかった様子を、この3巻は描いている。誰かと別れることの、あまりにもありふれているからこその普遍性が確かに掴まえられているのだった。

 とりわけ、一保と有里恵の儚いワン・シーンを切り出した第15話には、本来は短編作家的である鳥飼の長所が、とてもよく出ていて、ああ、桜の季節はなぜ郷愁を誘うのか。叶わなかった願いにどれほど胸を痛めようと時間はめぐり巡ってしまう。もはや取り戻せはしないものをいくら悔やもうが全ては足早に過ぎ去る。たとえ忘れることができたとしても決して無くしたわけじゃない。だってそうだろう。まだ思い出せるのだ。いつだって春の風は新しい匂いを連れてくる。しかしそれはかつての懐かしい匂いでもある。桜の季節は何度も繰り返される。そしてこれからも繰り返されていくと知っている。こうした既視感のあいだで暮れなずむ永遠と一瞬とが、一保によって見られる情景として、眩しく現れているのである。

 一保によって見られる情景は正しく夢である。同時にそれは抽象度の高いリアリティでもある。そこには彼と彼女のこれまでと別の女性とのこれからが暗示されている。桜の季節のイメージが、決定的な何かがすでに定められてしまった過去と決定的な何かが曖昧にぼかされたままの未来とを美しく飲み込んでいく。コマが大きくなるにつれて、言葉から表情へ、仕草の一つ一つへ、出しゃばりすぎず、でもはっきりと浮かび上がってくるエモーションが、実に見事だ。この作者ならではの、読み切りの一編としても通用する寂しさとやさしさを備えている。

 もちろん、先行するエピソードを読み手は踏まえているので、現実に引き戻される(右のコマから左のコマに視線を移す)一保の戸惑いに、異論の余地がない。たとえば2巻に収められた第9話で、一保のモノローグが〈何かを失っても・新しい場所には新しい発見があるやろう・今までに負けないぐらいの・まだ俺が知らんだけで〉と言っている箇所を振り返られたい。そこでの一保の視線(あるいは顔面)は右のコマを向いている。対して第15話の〈友達でもなんでもええからさ・僕の前からもう誰も消えなければいいのに〉というモノローグを彼が述べるとき、その視線(あるいは顔面)は左のコマを向いている。両者の違いを看過してはならない。それはおそらく、一保の意識(無意識)にとって、有里恵が意味しているものと実佑紀が意味しているものの違いなのである。

 青年期の揺らぎを題材とした『おはようおかえり』において、大切だと信じていたはずのことがはからずも自分の足場を揺るがせるその不安は、非常にあっけなく、訪れる。ある場合にそれはロマンスの終わりや始まりとして存在しているのだけれど、ある場合には他には乗り換えられない家族の関係として存在している。奈保子と理保子、一保の姉弟が付かず離れずにいるのは、家族の基準がどこにあるのかを象徴しているのだし、一保の上司である福住が病床の父親とのあいだに微妙な葛藤を抱えているのも、やはりそうだ。

 条件は異なれど、きっと誰の人生にも難しいときがある。この3巻にはとくにそれが顕著であると思う。だが、むやみに黄昏れているのではない。くるりの楽曲になぞらえていうなら、「JUBLEE」のあの柔らかいせつなさ。〈祝祭・歓びとは・誰かが去るかなしみを・胸に抱きながらあふれた・一粒の雫なんだろう〉と歌われるようなきらめきが、嘆息の先に広がっている。

 1巻について→こちら

・その他鳥飼茜に関する文章
 「家出娘」について→こちら
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2012)