ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年04月29日
 蒼太の包丁(33) (マンサンコミックス)

 最近、情報誌や書店などでグルメ・マンガが特集されているのをよく見かけるが、この作品が取り上げられているというのはほとんどないような気がする。それはたぶん、『蒼太の包丁』が、テレビのヴァラエティやワイドショー的なコンセプトではなく、テレビのドラマに近いタイプの成り立ちをしているためだろう。換言すれば、ワン・カットやワン・ショットの強度ではなしに、時間の軸をベースとしたストーリーに重きが置かれているのであって、料理自体の描写や紹介がどうというより、そのストーリーに乗れるかどうかで判断されるきらいがあるからなのだと思う。まあ人情とロマンをミックスした話の筋は、いくらかオールドスクールであるし、要するにヒップじゃないんだ。けれども、地味ながら徐々に積み上げられていく物語の確かさこそが、やはり『蒼太の包丁』の魅力にほかならないわけである。

 長期連載作品において、物語=時間の経過をどうアピールするか。一つには、主人公の立場や環境に変化を加えることが挙げられる。そしてもう一つには、過去の登場人物をカムバックさせ、それとの対比によって、先の変化を如実にするなどが挙げられるだろう。これらの手法の駆使が、ここ数巻『蒼太の包丁』を支えてきたのだが、無論、この33巻も同様である。中学生になって再登場した時藤啓一と黒坂千鶴の成長を描くなかに作品の足跡が現れているのであって、また過去のエピソードから引っ張ってこられた意外な人物と花ノ井清一の交際が、主人公の北丘蒼太に、人の上に立ち、店を切り盛りしていくことの難しさをあらためて教える機会になっている。それにしても本作の誠実さは、絶え間ない努力を力強く肯定する一方で、それが無条件の正解とはならないことをシビアに突きつけてくる点だと思う。おそらく、正解のない世界だからといって努力を容易く手放すことも非常に愚かしいという態度がそこでは貫かれている。

 30巻について→こちら
 25巻について→こちら
 24巻について→こちら
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2012年04月28日
 純情ドロップ (マーガレットコミックス)

 内面と外見のイメージが一致しないこと。通常、それはギャップと呼ばれる。そうしたギャップからはじまるラブコメを中原アヤは『純情ドロップ』に描いている。クラスメイトの青山にふられたばかりのヒロイン、桃田は、弟の真希が通う保育園で、学校中にその形相をおそれられている、やはりクラスメイトの赤居とばったり鉢合わせてしまう。赤居もまた姪のココナを迎えに来ていたのだった。真希とココナが仲良しであったため、はからずも公園で一時を過ごす羽目になった両者だが、しかしぎこちない会話のなか、桃田は赤居が周囲に見られているような不良少年ではなく、実は思い遣りに溢れた人間であることを知っていく。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。そこからはじまるラブコメというのは、別段目新しい発想ではないだろう。ロマンスを題材にしたフィクションにおいては、オーソドックスなものですらある。いや、現実の恋にしてもそうか。あの人の意外な一面を見てしまった、であったり、みんなが知らないあの人を理解しているのは私だけ、であったり。ギャップの介在は、なんらかの関係が生じるきっかけになりうるし、なんらかの関係を特別なレベルに底上げする燃料となりうる。ああ、まったくよくあることではないか。ある種のラブコメはこれの戯画化にほかならないので、ちょっとした出来事の大げさな語り口にはらはらときめかされるのである。『ラブ★コン』のヒット以降、あるいは『ラブ★コン』自体が『HANADA』のヴァリエーションであったとしたらそれ以前より、コンセプト先行型のスタイルに従事するなか、しばしば空回りを見せてきた中原だけれど、『純情ドロップ』では、これまでに比べ、いくぶんストレートに少女マンガの文脈に忠実なロマンスをやっている印象が強い。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。どうして桃田は赤居を気にかけるようになっていったのか。無論、それは赤居の心優しい部分に触れたためだ。が、もう一つ別の解釈も許される。なぜ最初は青山に惹かれていたのか。桃田によって述べられる理由は、もしかしたら彼女が、ギャップに弱いタイプであることを暗に示してはいまいか。ここで注意されたいのは、桃田の性格が明け透けだという点だろう(コミックスのカヴァーに付せられた紹介では「天然」となっているけど、それが「天然ボケ」に由来する言葉であれば、桃田は必ずしも「ボケ」ているわけではない)。その真っ正直な性格が、彼女に、みんなが見ているのとは違う赤居(や青山)の姿を見させているのだし、やがて赤居(や青山)の言動に影響を与えるファクターとなっているのである。

 内面と外見のイメージが一致しないこと。『純情ドロップ』は、プロローグを含めた全5話で構成された作品である。そしてそのストーリーは基本的に桃田の主観=モノローグで進んでいくのだったが、第3話のみ、赤居の主観=モノローグに内容がスイッチしているのは、正しくそれが起承転結の「転」にあたる箇所だからなのだと思う。そこでは外見を通じ、ギャップを見られていたはずの赤居の内面が、赤裸々に語られている。あるいは内面を通じ、外見がどうとかいうギャップは、自覚的に埋められていく。それがエンディングである最終話の、小さくて大きな感動へと繋がるのだ。当然、あの例の関西弁を込みのコミカルな調子で描かれているところに、この作者ならではの個性がよく出ており、従来のファンを決して裏切らない。しかし同時に、コンセプト先行型のスタイルをいくらか逸れながら、少女マンガの文脈に忠実なロマンスを繰り広げているところに、はらはらときめかされる。

・その他中原アヤに関する文章
 『ベリーダイナマイト』3巻について→こちら
 『ナナコロビン』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ときめき学園・王子組』について→こちら
 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
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2012年04月27日
 皇子かプリンス 2 (マーガレットコミックス)

 前作の『悪魔とラブソング』ではアメリカ兵によるレイプ問題を。そしてこの『皇子かプリンス』では皇室の恋愛を、ある種のモチーフとして導入している桃森ミヨシだが、なにも社会派のマンガ家というわけでもないだろう。そうした(本来ならばデリケートな)題材に触れる際の大雑把な手つきからはむしろ、ゴシップ的な好奇心を大声で話せる無神経さ、それをイノセンスと取り違えている感さえ見受けられるのである。実際には下品な登場人物しか描けない、にもかかわらず読み手にピュアラブルだと錯覚させてしまう危うさは『ハツカレ』の頃より一切変わっていない。しかしその危うさを差し引いてもなお魅力的なポイントの本作にあることが、少なくとも2巻の時点では感じられる。

 端的にいって、それは三角関係である。『ハツカレ』においても『悪魔とラブソング』においても、男女の三角関係は、ドラマを盛り上げるための予感として用いられながら、しかし具体的には扱われなてこなかった。踏み込みが浅かったともいえる。半径の狭い世界を舞台にし、物語を回しているのに、その中心からは目をそらしているようなところがあった。アイディアに淫しているだけではないかと思わせるものがあったのだ。結果、登場人物たちの交わり、心の働きが、ひどく単純になってしまっていた。もちろん、そうした底の浅さを純情と結びつけて解釈されたいのが作者の目論みではあったのだろうし、一部では確かに成功していたので相応のヒットを得られたに違いない。だがそれは必ずしも、繊細なコミュニケーションを取り上げられないという作者の不得意を覆してはいない。

 ヒロインと双子の皇子の出会いを本筋に置いている『皇子かプリンス』では、必然、どう三角関係を扱うかが重要視されてくる。このことはある意味で選択を迫っている題名にも明らかだと思う。身分とタイプの異なった二人の男子に優柔不断な少女が挟まれる。こうした構図は、少女マンガにベーシックなものだと言っていい。現段階では、それが顕著になっており、作中人物たちの思惑が不本意にすれ違っていく、あるいは不本意に重なりあっていくその摩擦に、繊細なコミュニケーションの光と影とがはっきり現れているのだった。ただ、やはり気になってしまうのは、これが(だいぶファンタジー化されてはいるのだけれど)皇室をモデルにしている点であって(今までの作品と同じく)思慮の欠如したヒロインをまるでイノセンスだと演出している点である。それらは設定や局面の難しさを妙な善人論ではぐらかすという作者の悪癖を懸念させる材料となっている。
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2012年04月21日
 これを読むほとんどの人にはまったく興味のない話題かと思われるが、筆者の近況から入ると、失恋のショックを立ち直れずに死ぬことばかりを考えていたのだったけれど、もちろん、それが正常な思考のはずはねえんだ。しかし、暗い感情は希望を萌えさせるのに必要な素材をいとも容易く隠してしまうのであって、どんな願いも色褪せるかのよう。むなしさに肩をすぼめる。でもやはりそのままでいいわけがないのだ。うなだれていたって何もえらくない。まずはもう一度背筋を伸ばせよ。そのために心を動かされたい。心を動かされるほどの光景を観たい。得たい。目の当たりにしたい。あるいは見たのでこれを書いているのである。

 昨日(4月20日)は東京ドームに「KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN」を観に行ってきたのだった。デビューして6周年を過ぎ、結成して11周年を迎えたグループの約2年ぶりのステージである。そのキャリアを振り返るとき、とくにここ数年は、まるで引き算のような道のりを結果的に強いられてきたKAT-TUNだけれど、たとえば昨年に予定されていた大規模なコンサートがキャンセルになったことなども一例に挙げられる。また今回のショーには、これまでサポートをつとめていたKis-My-Ft2やFiVeが帯同していないのもある種の変化として挙げられるだろう。当人たちの思惑はどうであれ、かつてはそこにあったものがもうない。ファンの立場からすると寂しさがないわけではない。しかし、「RUN FOR YOU」の歌詞になぞらえるならば、〈頑くななPRIDE・張り切れそうなVOICE・れんぞくしたTENSIONに・心痛めないで・日の昇らない朝はない・夢見ること止めない・本当のCHALLENGEが今・この場所で・ここで始まる〉という確信に〈言葉も無くただ・走り抜ければ・いつか辿り着けるだろう〉そう満を持しただけの情熱を注ぎ込んだパフォーマンスは、いや間違いなく、彼らの姿を眩しくしていたし、その眩しさのなかに〈大事な夢・生まれたら・叶う君の道・闇を照らして・少し前を走るから〉と励まされるやさしさを知った気がした。

 先頃リリースされたKAT-TUNのニュー・アルバム『CHAIN』は、シングルのタイトルを5曲含み、『NO MORE PAIN』の路線をもう一段階進めた佳作であった。が、どのナンバーも背後に(程度の差こそあれ、メロディと歌詞のレベルに)せつないストーリーを潜ませており、それが以前みたいなデンジャラスかつワイルドでゴージャスなタッチには振り切れないマイルドさをもたらしていた。おそらく『CHAIN』とは「繋がり」や「絆」の象徴だろう。「繋がり」や「絆」というのは必ずしも自明なものではない。別れずにいることや離れずにいることの尊さは、別れてしまうことや離れてしまうことの悲しみ、それとの対照において、輝きを増す。この手法のコンセプト化が、収録された楽曲の背後にせつないストーリーを潜ませ、総体的に『CHAIN』をカドのとれた仕上がりにしていたのではなかったか。

 その実践版ともいえる今回のショーは「BIRTH」で幕を開けた。KAT-TUNにはお馴染みのバンド・サウンドながら、従来の得手であるミクスチャーのアプローチもヘヴィ・メタリックなプロポーションも逸したナンバーだ。実際、スタジオのヴァージョンにはジャズやフュージョン系のミュージシャンが起用されている。正直にいって、テレビ・ドラマのタイアップという知名度を別にすれば、オープニングに相応しい派手な楽曲はほかにあったと思う。だが、「光」と「影」であったり「朝」と「闇」であったりの対照を用いることで「繋がり」や「絆」のイメージを浮き彫りにしていく「BIRTH」の躍動には、「KAT-TUN LIVE TOUR 2012 CHAIN」と題されたコンサートのテーマをより明確にする役割が課せられていたに違いない。

 過去、KAT-TUNのコンサートには信じられない驚きに目玉を丸くさせられることが多々あった。この日の内容に関していえば、その点はいくらか希薄になった。無論、おお、と声を出してしまう仕掛けはいくつかあったものの、グループがもっとずっと剥き身の部分で自分たちのカラーをはっきりさせようとしている印象が強かった。凄まじい一回性のアトラクションで観客を圧倒するのではなく、そこに立ち会えたことが素直に嬉しいと信じさせるような楽しさ、ピースフルな温度を軸に全体のショーが組み立てられていたのである。序盤、「Keep the faith」で田口くんが出だしを間違えてしまったが、そうしたミステイクを笑顔で許せる色合いが今回のショーにはあった。かつての若々しいむらっ気とは微妙に違う。リラックスしたムードがそのままコンサートの盛り上がりと同期する。効果的な関係が終始キープされていた。ただし、あの予測不能なテンションが懐かしくなかったと言ったら嘘になる。要は、前に進もうじゃないか、ということだ。「CHANGE UR WORLD」の歌詞になぞらえると〈COME WITH ME・この未来を・変えてみようか・今・手を・空へ・瞬間を生きてゆく・瞳を・逸らさぬように〉そのための一歩はすでに踏み出されている。

 しばしば、抑圧と洗練は同義になりうる。現在のKAT-TUNには正しくそれを過渡期として挑んでいるところがある。やんちゃな少年とは異なった顔つきの表情を『CHAIN』は覗かせていた。この日の前半に披露された「WHITE」や「LOCK ON」「儚い指先」は、それぞれタイプの違う曲調だが、しかし意外と過去のどのナンバーとも似ていない。デジタルなビートを強調しつつ、ギターのリフがロックもしている「LOCK ON」は、さすがアルバムの1曲目に置かれていただけあって、ミドル・テンポであるにもかかわらず、激しさをダイレクトにしている。ライヴのヴァージョンだとそのグルーヴがなお映える。「RUN FOR YOU」のシングルに入っていた「COSMIC CHILD」も同様である。「Keep the faith」や「ONE DROP」のバンド・サウンドに相変わらず興奮させられる一方、それらハイブリッドなダンス・チューンに身も心も躍らされる。前半のヤマだ。それから〈二度と逢えない・抱きしめて歩こう・雨の日には・君の傘になろう〉というコーラスに挿入される〈YOU! YOU! YOU!〉のリフレインがチャーミングな「ONE DAY」もよかった。

 MCのコーナーはずいぶん長かったが、ファン・サービスと止まらないギャグの応酬にグループの状態が非常に健康であることを実感する。演出に様々な趣向の凝らされた各人のソロ・ナンバーも大変楽しかったのである。『CHAIN』のなかでも「SOLDIER」「あの日のように」「歩道橋」のメロウなナンバーが立て続けに歌われたあたりは、ああ、なんてドラマチックだし、ロマンチックなんだろう。メンバー5人のヴォーカルが、線の細さをむしろ生かし、感情表現を豊かにしていることがわかる。「SOLDIER」も「あの日のように」も「歩道橋」も、題材とシチュエーションは異なっていれど「繋がり」や「絆」を前面にした楽曲になっており、ある意味コンサートのテーマが最も如実になったのはこのときではなかったか。ユニゾンであることの美しさに、「歩道橋」の歌詞を借りるなら〈嬉しかったり・切なかったり・悔しかったり・思い描いた未来・この街の景色のように・また変わっていくけど・それでいい〉それでも決して消えない気持ちがあるのだと思わされる。

 先の「COSMIC CHILD」もそうだけれど、セットリストにはシングルにカップリングされていた楽曲がわりとふんだんであった。一年越しで春の季節にマッチした「PERFECT」が爽やかに響いたり、ファンとの掛け合いとメンバー紹介を兼ねた「NEVER × OVER 〜「-」IS YOUR PART〜」がようやくその本懐を遂げたり。KAT-TUN流のヘヴィ・ロックをカムバックさせたかのような「GIVE ME, GIVE ME, GIVE ME」がラウドにうねるのだったが、やはり「勇気の花」だよ。

 ああ、激情の「LIPS」「喜びの歌」そしてグループとファンにとってのアンセムともいえる「Peaceful days」が、これ以上ないくらいの熱狂を作り上げる。ここだ。ここがクライマックスだぞ。会場中の誰もがちゃんと理解しているのだ。何度経験しようがKAT-TUNのコンサートにおいては絶対に欠かすことのできないあのフルスロットルである。もしかすると「Peaceful days」によって漲らされるエネルギーとは、やがてそれが失われてしまうかもしれない可能性の裏返しなのであって、だからこそ〈せめて永遠ではない時を一瞬でもムダにはしないと・ココデ約束しよう〉と誓えるのではないか。しかし、いまだに手放されてはいないし、色褪せてもいない。新しい希望を萌えさせる。眩しい光景が繰り返される。一度目のアンコールに登場した「REAL FACE」や二度目のアンコールで登場した「ハルカナ約束」も同様に、今後KAT-TUNがどこへ向かておうとその原点に変わりはないことを。どれだけの現在が過去になり遠ざかっても果たすべき約束のもとへ戻ってこられることを教えてくれる。

 そして、本編のラストを飾る「勇気の花」はとても感動的だった。パセティックな調べのバラードが、不思議と心を寂しくはさせない。「WE」を主語とした楽曲に「繋がり」や「絆」の理念が集約されているためだ。「WE」を主語として投げ掛けられるフレーズにぬくもりが備わっているからなのだ。〈どこまでも・どこまでも〉と伸びていこうとする上田くんのファルセットが実に素晴らしい。メンバー5人が声を重ねた〈聞こえるかい?WE WILL MAKE YOU SMILE・笑って・少しずつ優しさ集めたら・ほら、勇気の花が咲く・そう、君のため・そう、遠くまで・届くように・笑顔(はな)を咲かそう〉というメッセージに姿を現している「君」とは、つまり「勇気の花」を耳にした我々みんな=「WE」にほかならないのであって、誰もが誰かに届けられるやさしさを持っている、誰もが誰かから届けられるやさしさを待っていることを含意している。ステージを去っていく際のスピーチはたぶんそれの言明であったと思う。

 この日の公演に「ULTIMATE WHEELS」がなかったのは残念だし、なんであれをやらないんだ、と言い出したらキリがないのだけれど、KAT-TUNが『CHAIN』と名付けたアルバムの本質は、今回のショーを通じて、より鮮やかになっていた。

・その他KAT-TUNに関する文章
 「WHITE」について→こちら
 「CHANGE UR WORLD」について→こちら
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2012年04月17日
 ARISA(10) (講談社コミックスなかよし)

 本人の与り知らぬ運命を限定条件下のゲーム=サヴァイヴァルに喩えるかのようなフィクションのブームも一段落しつつあるか。ここ数年で人気作が次々と完結を迎えている。安藤なつみの『ARISA』もいよいよ佳境に入った。2-Bのクラスを影で支配する「王様」の正体がついに明かされ、幾多の不幸を生んだ「王様ゲーム」の起源がこの10巻でとうとう語られることになったのだった。

 まあ10巻から読みはじめる向きはないと見越しているのだろう。コミックスのカヴァー(裏表紙)に記載された紹介文がネタを割りすぎているような気もするので、そこまでナーヴァースになる必要はないのかもしれないけれど、一応はミステリ的なパートを持ったマンガであるため、なるたけストーリーの核心には触れないようにしながら話を進めたい。

 この手のジャンルにおいて、最も善良そうな(あるいは最も無害に思われる)人物が実は黒幕だった、という展開は一種の鉄則だと考えてよい。それがパターンである以上は「王様」の正体にさほどの驚きはないのだが、しかし『ARISA』の場合、「王様」が自ら露わにしていく悪意とヒロインであるつばさに託された理念との対照にサスペンスの特徴がよく出ているのであって、両者のお互いを否定せずにはおれない関係が何より直接になったことは、なかなかにスリリングだ。

 10巻で着目しておきたいのは、「王様」の正体に翻弄され、一旦敗北したかのようなつばさが、とある人物に対する別のとある人物の態度を目の当たりにし、再び妹のありさと向き合っていこうとする、その身振りである。「王様」のいかなる計略がつばさの心を折りかけたか。そしてそれがつばさのどういう言葉と表情によって示されているのかを見られたい。

 つばさは「王様」にこう言われただろう。〈でも キミだってそうとうこわい人だよ(略)人のものをうばう 最低な人間だよね〉と。この指摘は必ずしもブラフではない。実際につばさの後ろめたさを暴いているからこそ、彼女に〈なにがドキドキするだよ バカじゃねーの〉〈あたしが悪いんだ ありさを助けることだけ思ってなきゃいけなかったのに〉と後悔させるほどの効果を上げているのである。

 振り返るのであれば、『ARISA』とは、利己的な子供たちのゲーム=サヴァイヴァルに途中参加した主人公が、限定条件下でそのルールを正面から否定するという物語であった。ヤンキイッシュな少女として設定されたヒロインのつばさは、つまり利己的な世界のなかでどれだけ利他的な態度を貫き通せるかを測りうるリトマス試験紙にほかならなかったのである。しかし、先の「王様」にもたらされたつばさの挫折は、彼女もまた利己的な子供にすぎなかったことの告白を伴っている。

 同時に、本作の極めてエモーショナルなポイント(そしてそれが『なかよし』という掲載誌本来の若い読み手に誠実だと思われる理由)は、反省が失敗を乗り越えさせることもあるのだというポジティヴな解釈を決して手放してはいないところなのだった。ここで、かつて散々苦しめられた玖堂の意外な素顔が、結果的につばさの窮地を救っている。その点を看過してはならないだろう。

 玖堂もつばさと同様にゲーム=サヴァイヴァルに途中参加してきた者である。では、なぜ外部の人間であるはずの彼がゲーム=サヴァイヴァルのプレイヤーにならなければならなかったのか。動機は一体何なのか。それもこの10巻の大きなハイライトとなっている。とある人物への献身ゆえに玖堂は進んで自分を犠牲にしていったのだ。

 つばさと玖堂は、手段や目的は異なれど、いや、もしかしたら目的の本質は異なっていないかもしれないのかもしれないけれど、利己的であることに反対の立場に立っているという部分で実は一致している。あれだけ憎らしかった玖堂が、その動機を知った途端、とてもせつない存在に変わってしまうのは、他の誰かとの繋がりが孤独を忘れさせるのに十分な希望になることを証明しているからである。

 ああ、玖堂、玖堂よお。〈ボクの生きる支えだ… 裏切られたってうらんだりするわけない〉と言い、〈こんな ボクに「いてくれてありがとう」っていってくれたんだ ボクに 一番ほしかった言葉をくれた… そのとき決めたんだ この命をこの娘(こ)のために使おうって この娘(こ)を守るためなら 悪魔にもなるんだって――…〉と言う彼の願いは確かに暗いものではあるものの、疑いなきひたむきさにはどうしたって胸を打たれてしまう。

 描写の上でというより、読み手の感想のレベルでは、玖堂のひたむきさを代わりに引き受けることでつばさは当初のモチベーションを回復しているように思われる。あるいはそうしたプロセスを経て、つばさは利他的であろうとする態度を取り戻し、再び妹のありさをめぐる闘争に身を乗り出すことができているように思われるのである。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2012年04月12日
 LOMA PRIETA.jpg

 ほら、こんなにもフラストレイトしているんだぞ。憤り、行き場のない感情も純化を重ねたら最高のカタルシスになる。このような方法論がある種のラウド・ミュージックをとても魅力的にバーストさせてきたのだったが、ああ、激しきLOMA PRIETA(ロマ・プリエータ)よ。米カリフォルニア州サンフランシスコ出身の4人組が、そのニュー・アルバム『I.V.』で炸裂させているのは、鋭さを通じ、洗練されたフラストレーションにほかならないのであって、それが閉塞の向こうへとダイナミックに突き抜けていく。

 おそらくは現在「激情」と目されるハードコアのジャンルに属するバンドだろう。「わーぎゃー」叫んでうるさいヴォーカルは、なぜだろう、そこはかとなく悲哀を漂わせ、目まぐるしい展開と轟音の向こうからメロ・ドラマティックな旋律が届く。アメリカは西海岸の先達、たとえばFUNERAL DINERやYAPHET KOTTOを彷彿とさせるところがある。あるいは今作のレーベルにあたるDEATHWISHのページで、PG. 99やLA QUIETEなどが引き合いに出されているように、つまりはその路線である。

 かつてはエクストリームであったはずのアプローチも、90年代、00年代、と時代を下るうちにある意味でベーシックなスタイルとなった。今日においてLOMA PRIETAのサウンドもまた、こんなの今まで聴いたことがない、とは決して言われないものだろう。しかし重要視したいのが、にもかかわらずLOMA PRIETAのサウンドは大変刺激的に感じられるんだぞ、という一点なのだ。おそらくは、指向性によって選び取られたスタイルのさらにベーシックなポイントを、きっちり押さえ、磨き上げることでインパクトよりはフックと呼ぶのに相応しい部分の強度が一段階アップさせられているためだと思う。

 方法論の遵守は、しばしば美学と同義に見なされる。一方で、同じジャンルにあるかぎりは他との区別を曖昧にしうる。個性の横並びを生じさせる場合がある。この陥穽をLOMA PRIETAが免れていることは『I.V.』の内容に明らか。フックの確かさがそれをもたらしていることは十分な手応えのなかに現れている。とくに象徴的なのは、アルバムの冒頭を飾る「FLY BY NIGHT」だ。

 何の前触れもなく、しゃがれるほどに声を張ったヴォーカルのスクリームが楽曲を立ち上げる。その瞬間、ギターとベースとドラムの強烈なアンサンブルがいきなりのクライマックスを作り出す。怒濤と喩えられるべき幕開けである。しかし高速のトレモロがヴァリエーションを編みながら繰り返されるとき、不思議とパセティックな印象を持たされるだろう。無論、これを、このエモーションをテンプレートだと見なすの容易いし、実際にそうなのかもしれない。だが、手応えを深く残していくのはむしろそこから先の展開に至ってなのだ。

 怒濤と喩えられるべき幕開けの「FLY BY NIGHT」は、中盤に入ると変調し、さっきまでとは異なった表情を覗かせる。物憂げな旋律に合わせてテンポを落とした楽曲が次第に帯びていくのは、一般的にポップと解釈してもいいようなフィーリングだった。必ずしも陽気ではないのだけれど、きらきらきらめいたときめきを抱かせるのに似た光が差す。この点に関してだけは、もしかすると日本のenvyが2010年の『RECITATION』で獲得したニュアンスに近いか。激しさを一杯に溢れさせなければ剥き身にならなかった輝きがとても眩しい。

 海外ではアナログ・レコードとデジタル・ダウンロードのみでのリリースとなった『I.V.』だが、日本盤はCD化されている。歌詞や対訳に目を通すと「FLY BY NIGHT」における変調の意図しているところがよりよくわかるような気がする。貴方と理解を分かち合えないことの悔しさはネガティヴなものになりうるとしても、貴方と理解を分かち合えないことのせつなさはネガティヴなものになりえないことがある。前者と後者の組み替えが、アグレッシヴなパッションにメランコリックなカーヴをもたらし、その美しい曲線に躍動とイコールのフックが示されているのである。

 すでに述べた通り、フックの強度はアルバム全体のキーでもあるだろう。フラストレーションが満載のサウンドにカタルシスさせられるのはもちろんのこと、それを研ぎ澄ませていく手法のデリカシーにきらきらきらめいたときめきを覚えるわけだ。4曲目の「TRILOGY 4 "MOMENTARY"」から続くトリロジー、なかでも6曲目の「TRILOGY 6 "FORGETTING"」は、LOMA PRIETAが持ちえるポテンシャルをあらためて教えてくれる。

 乱打されるドラムの疾走感が荒々しく、やがてドゥームやスラッジの要素を引用したかのようなパートが顔を出すナンバーは、近年のCONVERGEにも通じる。「カオティック」と目されるだろうハードコアのマナーに則ってはいるのだったが、2008年のアルバム『LAST CITY』に収められた「1」「2」「3」のトリロジーと今回の「4」「5」「6」のトリロジーとを比べてみれば、いかなる洗練をバンドが経てきたか、そしてそれがサウンドを一層ダイナミックにしていることは如実であって、「TRILOGY 6 "FORGETTING"」を最大の成果に挙げたい。

 たぶん、どの楽曲もコミュニケーションの断絶をテーマにしている。薄くであれ。濃くであれ。その憤りは、悔しくて悔しくて堪らない、せつなくてせつなくてやりきれない、の両義を有している。だが、いずれにせよ、行き場をなくしてしまった感情はフラストレイトするよりほかないのである。フラストレーションに首を絞められ、徐々に殺される。そんなのは生き方としても死に方としてもひどく惨めだ。いやだ。勘弁願いたい。だからこそカタルシスを。報われなかった全てに釘を刺されたままでは終わるまい。上等のカタルシスが、LOMA PRIETAの『I.V.』から響いてくる。

 バンドのMySpace→こちら
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