ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年03月29日
 別冊サイゾー×PLANETS(プラネッツ) 文化時評アーカイブス2011-2012 (月刊サイゾー5月号増刊) [雑誌]

 現在発売中の『別冊サイゾー×PLANETS 文化時評アーカイブス 2011-2012』にマンガと小説の座談会、それから再掲されているクロス・レビューに参加しております。自分が関わっているページ以外にも、サブ・カルチャーについて、様々なジャンルをまたぎ、なかなか読みでのある内容ではないかと思いますので、どぞどぞよろしくお願いします。
posted by もりた | その他。
2012年03月27日
 俺物語!! 1 (マーガレットコミックス)

 絵には以前ほどの魅力がなくなってしまい、死んでいるかのように瞳孔が開いた目ばかりを描き続ける河原和音だが、マンガの原作者としては山川あいじと組んで『友だちの話』という紛れもない傑作を世に送り出したのは記憶に新しい。その河原が、今度はアルコをパートナーに選び、颯爽としたスタートを切ってみせたのが、この『俺物語!!』の1巻である。

 剛田猛男。名前からイメージされる人物像を実に裏切らぬ野郎であった。一般的にはハンサムじゃない。柔道着を担ぐ姿は時代がかっているし、体つきは巨大な熊を思わせる。腕っぷしには自信があるものの、猪突猛進型の性格は決してデリケートとはいえない。もちろん、女性に好かれるタイプではないだろう。ヒップな青春とは明らかに無縁そうな主人公なのだ。

 対して、猛男の幼馴染み、三歳のときから高校にあがった現在まで十年以上の付き合いをしている砂川は、100パーセントのイケメンさんである。昔から女の子に人気がある。もてなかったことがない。猛男が好きになった女の子はみんな砂川のことを好きだと言うのであった。しかしまあ、外野の人間にしてみたら、どうしてそんなにもアンバランスな彼らが一緒にいるのか。不思議だ。いや、当の猛男にしたって〈こんなオレ達がなぜ友達なのか・けっこう謎だ〉と疑問に感じているではないか。

 第一の印象を述べるなら、『俺物語!!』は、自分とは不釣り合いな少女である大和に恋をした猛男の、明後日の方向へと突っ走っていくガッツが題材のラブコメだというふうに見られる。猛男、猛男よお、その恋がうまくいくといいな、お前のよさがわかってもらえるといいなあ、猛男よお。ほとんどギャグでしかない彼の言動にニヤニヤしながら、あたたかい声援を送りたくなるのである。

 第二の印象を述べるとすれば、上記の通り、アンバランスな猛男と砂川の(当然、良い意味での)腐れ縁をベースにした、つまり友情のかけがえのなさに重きを置き、でもそれがあまりにもストレートだと照れるから、コミックならではのレトリックを豊富に交えることで、白けず、心をぽっとさせてくれる体温を再現したバディものに見える。クールな砂川の隠された内面には暗示的に猛男への理解が含まれている。関係の深度に、あ、いいな、と羨ましくなるものがある。

 だが、第一の印象と第二の印象は決して離れているわけではない。猛男に注ぐ大和の(あるいは大和に注がれた猛男の)視線においては前者が、猛男に注ぐ砂川の(あるいは砂川に注がれた猛男の)視線においては後者が、とりわけクリアになっているに過ぎないのであって、要は、猛男というアピールが周囲の人間にどう関与するか。これを最大のテーマとして見て取れるところに、『俺物語!!』なる題名の本質が現れている。

 確かに猛男の振る舞いは、独善すれすれ、である。その「独善」であることが「俺」という押しの強い主語を作り出してはいるだろう。しかし「すれすれ」であることのなかから浮かび上がってくる悲喜こもごも、利己や保身ではなく、周囲の人間を認め、周囲の人間から認められるだけの余地が「物語」をエモーショナルに織り成しているのだ。

 一個の人格または個性を平面として見ない。多面体に近い見え方をさせる。ラブコメとバディもののミックスは、表層こそ違えど、実は先の『友だちの話』と同様のアプローチを果たしていく。そしてそれは、誰かが君のことをちゃんとわかってくれているというやさしさを内奥に忍ばせているので、紙幅を埋める高いテンションに息つく間もないはずなのに、不思議と人心地つけるのである。

 ここ数作ではギャグにシフトした作風と雑なタッチとの区別がなくなってしまっていたアルコも、原作者を得、新たに緊張を取り戻したからか、他の作家の持ち味を参考にしながら(ヒロインである大和の恥ずかしげな表情にそれはよく出ていると思う)、効果的にコマを割り、弾むようなテンポを成立することができている。剛田猛男というオールドスクールな人物像は、まず間違いなく『ヤスコとケンジ』でヤンキイッシュなドタバタ劇を描いたアルコでなければ生きなかっただろう。

 どのような形で河原が原作(ネーム)を提供しているのかは『友だちの話』の巻末に載っている。今回も同じパターンで作業が行われているかどうかは不明だけれど、アルコならではの茶目っ気が、たとえば河原の『青空エール』には決定的に欠けているそれが、『俺物語!!』の魅力に貢献しているのは明らかなのだ。

・その他河原和音に関する文章
 『青空エール』2巻について→こちら
 『高校デビュー』
  9巻について→こちら  
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら

・その他アルコに関する文章
 『終電車』について→こちら
 『超立!! 桃の木高校』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
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2012年03月19日
 Shadow Gallery

 PRIMITIVE WEAPONSとは正しく名が体を表しているかのようなバンド・ネームだと思う。そう、米ニューヨーク州ブルックリン出身の5人組が、そのファースト・アルバムにあたる『THE SHADOW GALLERY』で披露しているのは、根源的な衝動を濃いままに漏らさず、周囲を見境なく吹き飛ばしうるインパクトへ転化、殺伐さの実に屹立したサウンドなのであった。

 まるでブラック・メタルのニヒルな残酷性がカオティックなハードコアの瞬発力が洗練されたスタイルに流れ込んだアプローチは、なるほど、海外での評価において、惜しまれつつ解散したカナダのCURSEDが引き合いに出されるのも、わかるわかる、というものであろう。一方で、ダイナミクスのくっきりと出た楽曲の構成や、ある種の整合性をきっちりと高めていくタイトな演奏と、ポップもパンクも飲み下しながらアジテーションするヴォーカルが、骨格はシンプルなのにプロテストの迫力を二倍、いや三倍増し以上にしている点は、かつてケイシー・ケイオスが率いたAMENであったり、意外にもMARILYN MANSONなどを思わせたりもする。

 いずれにせよ、アングリー・ミュージックの醍醐味を満載にした作品なのは間違いないのであって、ブラッケンド・ハードコアを標榜するEVERYTHING WENT BLACKと同じPROSTHETIC RECORDSからのリリースだが、こうした若手たちの登場によって、ああ、まだまだアンダーグラウンドのシーンにはナイスなバンドがたくさんいるんだぞ、という発見が尽きないことは素直に嬉しい。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2012年03月18日
 Cycles of Light

 どんなジャンルにおいても、アンダーグラウンドのシーンにはまだまだナイスなアーティストがいるもんだな、という発見が尽きないことは嬉しい。反面、手探りでいろいろ聴き漁っていると、なんだか皆同じに思えてきてしまうこともしばしば。個性を問題にするのであれば、いや確かに好きは好きなのだけれど、必ずしもはっとさせられるような出会いばかりが転がっているわけじゃないんだ。

 米ミズーリ州セントルイス出身の5人組、EVERYTHING WENT BLACKの、おそらくはファースト・アルバムである『CYCLES OF LIGHT』はどうか。まず間違いなく断言できるのは、これが実にナイスな作品だということであろう。

 アルバムは、不穏なインストゥルメンタルの「XI」で幕を開ける。葬送の暗さを彷彿とさせるスローなギターのフレーズにサンプリングの音声らしきSEが入ってくるイントロダクションだ。その、どっぷりと沈んだ空気と速度を保ったまま、重々しいグルーヴを練り上げる2曲目の「GODS OF ATLANTIS」が中盤に差し掛かったとき、すべてを振り切るほどにストロングで激しく、スピードの一気に高まったハードコアのモードへ、ギアはチェンジ、しかしそれが極端化された転調ではなく、とてもリニアなアップ・リフティングとなっているところに、このバンドのセンスが息づいている。

 CONVERGEやTRAP THEMと同じステージを踏み、DEAF HEAVENともライヴをしたことがあるらしいEVERYTHING WENT BLACKである。自らをブラッケンド・ハードコアとカテゴライズするそのスタイルは、確かに上述のアーティストらに一脈通じるものであって、ピッチの荒々しい展開にスラッジやドゥームのマナーさえ混じり合う。

 代表的なナンバーを挙げるとしたら、5曲目の「PARADES」だ。リズムはシャープに切り込み、ソリッドなギターのリフに爆発的なテンションを絡ませながら、ヴォーカルの叫び声は迫力を増していく。次第にテンポがダウンすると楽曲の構成は反復に反復を繰り返す。甘美なストリングスの鳴り響くエンディングがまた深く印象に残る。

 8曲目の「KINGDOMS」からラストの「BAPTISTS」に雪崩れ込むそのスリルの先、目の前に現れた光景の色は、もちろん、黒、だった。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2012年03月15日
 月と太陽のピース(1) (講談社コミックス別冊フレンド)

 前作『白のエデン』と前々作『彼はトモダチ』でドロドロとしたテイストのメロドラマを描いてきた吉岡李々子の新作『月と太陽のピース』は、この1巻を読む限り、現代的で爽やかな、と言ってもいいような青春像が繰り広げられている。要するに(とりあえずはまだ)悲劇的な展開が見当たらないのだったが、それというのはおそらくヒロインの快活で明るい性格によるところが大きいと思う。

 悲劇的な展開は見当たらないと述べたけれど、実際のストーリーは彼女と恋人との別れの予感を出だしにしているのだった。が、しかしそこから暗い心情のアピールへ作品は流れていかない。散々な目に落ち込むヒロインの姿を描写の中心に置いてはいない。確かに彼女はせつない表情を浮かべざるをえない状況を前にしているものの、いや、それ以上の笑顔が『月と太陽のピース』というマンガにアップ・テンポなムードをもたらしているのである。

 誕生日であった。世間がクリスマスに浮かれるなか、主人公である槻ノ木沢実々のもとには一番大切な人からの連絡だけがこない。結局、アルバイトをし、その足でクラスメイトのパーティに顔を出すのを良しとしたい。災難なのは、途中の電車で痴漢に遭ったことだろう。自分と同世代の男子をとっつかまえた彼女だが、それは誤解だと、しまいにはその男子の友人も一緒になってシラを切られてしまう。そして16歳になった。次の年の春である。2年に進級し、新しいクラスに移った実々は、まさかクリスマスに出会った斎藤壱紀と斎藤誉の二人に再び対面する。

 こうして、彼女と彼らのあいだで高校生活をベースにした三角関係が繰り広げられていくわけだ。と、予想できる範囲で『月と太陽のピース』のアウトラインは述べられる。もちろん、W斎藤は、校内でも知られたイケメンさんであり、対照的な性格をしているという設定を含めて、ある種のセオリーがしっかり押さえられているのは手堅いし、またネガティヴなパートを極力省いた結果、内面のハンサムな人物が多数を占めるのは今日のトレンドを踏まえているといえる。

 ただし、それらはあくまでもフックをどう作るかというレベルの話であって、壊れそうな線の絵柄と同質のデリカシーが作中人物のコミュニケーションを成立させている点に、こちらの心は動かされる。そしてその、デリケートなコミュニケーションは必ずしも作中人物たちをストレートに結びつけはしない。このような屈託に作者の本質がとてもよく出ているのだった。

 自分へ向けられたやさしさに対して素直になるべきなのになれない。それは誰しもが少なからず経験したことのある局面に相違ない。先にいった通り、ヒロインの実々は快活で明るい性格だが、壱紀と誉のささやかな気遣いに触れ、嬉しく思いながらも、感謝の言葉をなかなか表すことができない。一方でそれはタイミングの問題である。たとえば彼女が感謝を伝えようとしたとき(p119)タイミングに邪魔をされる。しかし他方でそれはシチュエーションの問題である。たとえば彼女が伝えようとした感謝は(p156)シチュエーションによって裏返しにされてしまう。

 序盤に(p41)実々が素直に感謝の言葉を表しているシーンがある。以上の二箇所とそれを比べられたい。そこからは彼女の、わずかだとしても、明らかに意識の変化が見て取れるだろう。そういう、少しずつ他人との距離を狭めていくことが、どうしてか気持ちに窪みを与える。窪みに躓かされる。躓くことの歯痒さが、『月と太陽のピース』にピュアラブルでいてエモーショナルなきらめきを落としている。

・その他吉岡李々子に関する文章
 『白のエデン』
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
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2012年03月13日
 文学界 2012年 04月号 [雑誌]

 『文學界』4月号掲載。自称・小説ファンの御多分に漏れず、石原慎太郎の良い読者ではないのたが、この『世の中おかしいよ』に関しては、途中まで、いやいやこれ案外おもしろいじゃないの、と思いながら読んだのだった。池袋署で警部補を務める男が自分の経験談を(おそらくは読み手に対して)報告するというスタイルの作品であって、その主観の実に一面的であることがニヤニヤとした笑いを誘う。

 とりわけ序盤の、警察官である自分が他人にどう見られているかの認識から彼の先輩と警視総監を名乗る男とのやりとりにかけては、妙にかしこまったり砕けたりするアクセントの語り口を含め、ある種のギャグがスタンダードであればあるほど軽快に弾むのと似た効果を持っているように思う。まあ全体の印象として主人公が対面する人々の人格あるいは人権を軽んじている部分があるため、作者のプロフィールと合わせて、そこを疵とするのは容易い。

 だがむしろ、ともすればアイロニーであると解釈できた主観の在り方が、中盤以降に、意外とマジだったと思われてしまうところで、小説そのもののテンポも調子を悪くしていってしまう。それが一番もったいない。とくに〈人間相手の仕事ならともかく人間以外の捜査や逮捕となるとこれはいっそう大変なんです〉というラスト間近で、主人公は感想文にぶら下がっているだけの役割になってしまう。要するに、ギャグとして見たときにそれが最後の段でオチていないので肩透かしを喰らう。
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 Story Power (ストーリーパワー) 2012 2012年 04月号 [雑誌]

 『「新潮」4月号別冊 Story Power 2012』掲載。その『Story Power 2012』の表紙には「元気の出るお話、売ります」とあるが、しかしこの佐藤友哉の『ベッドサイド・マーダーケース』を読んだからといってたちまち「元気」が出るかどうか。いくらか疑問が残るのは、一般的に「ポジティヴ」だというふうに判断されるのとは反対の力学によって小説が編まれているためであり、まあ決して「ハッピー」な物語じゃねえんだとは思うのだけれど、たとえば判断停止と同様の空元気を他人に強いることが一種の暴力でありうるとすれば、それを向こうに回すのに十分な抗弁となっている。この意味で、いや確かに「元気」が出てくる面を持ってはいるのだった。

 薄暗い寝室で主人公の〈僕〉が目を覚ますとベッドの隣で妻が死んでいる。包丁で首を刺され、枕を血で濡らし、死んでいる。玄関のドアには鍵がかかっている。一体誰が妻を殺したのか。たぶん世間は自分を犯人として見るだろう。状況を理解し難い〈僕〉は、ポストに一枚のメモ用紙を見つけるが、途方に暮れ、それをポケットにつっこんだまま、マンションの外へ逃げ出すのだった。そして一人の男と出会う。六条と名乗るその男は自分も同じ目に遭ったと言う。さらに驚くべきことに、似たような殺人事件は過去三十年の間に四十件以上も起こっていて、犯人はまだ捕まっていない。

 以上が発端で、〈僕〉は六条とともに自分の妻を殺した真犯人を独力で探し出すことになるというのが、『ベッドサイド・マーダーケース』のあらましなのだが、なるたけネタを割らずにいうと、ミステリともとれるスタイルの小説は、終盤に差し掛かり、奇妙な変形を遂げていく。日用品から具体的な名称が斥けられているのは、そのヒントであろう。自然災害と放射性物質の恐怖が、忘却という名のもと、隠蔽された世界像が浮かび上がってくるのである。

 佐藤は『群像』4月号掲載の「命短し恋せよ原発」で、太宰治の『十二月八日』を取り上げながら、そこで十二月八日を〈ジョン・レノンの命日でもあり〉〈高速増殖原型炉もんじゅが事故を起こした日でもある〉とし〈日本が宣戦布告した日〉でもあるとしながら、同時にそれが〈浦賀和宏さんの誕生日でもあ〉ることをわざわざ触れているが、『ベッドサイド・マーダーケース』は、良い意味で浦賀和宏ライクな荒唐無稽さ、残酷さ、身も蓋もなさ、つまりは佐藤友哉という作家の、根の部分をよく覗かせていると思う。

 また「命短し恋せよ原発」に書かれた問題意識を明らかに共有しているのが、『ベッドサイド・マーダーケース』(と『新潮』2月号に掲載された『今まで通り』)だといえるのであって、『ベッドサイド・マーダーケース』における感情の矛先を失った結末を考える際、次のような一節は大いに参照されるべき言いを含んでいる。2011年3月11日の大地震とそれにともなう原発事故を経た結果、〈やれやれ、観測者であったはずの僕たちが「シュレディンガーの猫」になってどうする〉〈もちろん、「シュレディンガーの猫」になったのは僕たちだけではない〉〈この国に住むすべての人間がそうだ〉〈たとえば、ついさっき生まれたばかりの赤ちゃんさえも〉

 そう、『ベッドサイド・マーダーケース』で、とある人物に真相を告げられた〈僕〉の反応と行動は、正しく「シュレディンガーの猫」が生きているかもしれない(もしもそれを希望と呼ぶのであれば)希望と死んでいるかもしれない(もしもそれを絶望と呼べるのであれば)絶望とを想起させる。

・その他佐藤友哉に関する文章
 『今まで通り』について→こちら
 『333のテッペン』について→こちら
 『世界の終わりの終わり』について→こちら
 『1000の小説とバックベアード』について→こちら
 『子供たち怒る怒る怒る』について→こちら
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2012年03月03日
 SOUL 覇 第2章 1 (ビッグ コミックス)

 タイトルは「LORD」から「SOUL」へ。そして「超三国志」から「真三国志」の冠へ。しかし「真」を謳いながら明らかな偽史を描くこと。この野蛮ともいえる手つきが、本作を一種異様なエンターテイメントに仕立てているわけだ。22巻の内容まで進んだ『覇 -LORD』をリニューアルし、改めて続編的なフェーズを展開していこうとするのが、『SOUL 覇 第2章』の1巻である。

 いや、実際に作中の時間もいくらかジャンプしており、『覇 -LORD-』で目覚ましい活躍を見せていた英雄たちが、序盤の段階より、実にあっけなく、薄情なほど、物語を次々とリタイアしていく。また、子供であったはずの関平や諸葛亮が、いつの間にやら大きく成長していて、青年期ならではの勇ましさを持ち、本筋に絡んでくるのだった。が、最も驚くべきは、劉備(燎宇)の豹変である。ともすればタガを外した劉備の言動に関羽と張飛は愛想を尽かし、ついには離反してしまうのだ。思わず、自分が知っている「三国志」と違う、と言いたい。

 おそらく、武論尊にとって「三国志(演義)」は喩え=入れ物でしかないのだろう。バイク代わりか、荒馬にまたがった無法者たちが暴れ回る様子は、さながら平松伸二と組んだ『ドーベルマン刑事』や原哲夫と組んだ『北斗の拳』みたいだし、中国大陸を舞台にしているにもかかわらず、日本人のアイデンティティを執拗に問い質すかのようなテーマの出し方は、史村翔名義で池上遼一と組んできた『サンクチュアリ』や『オデッセイ』に通じている。多国籍を装ったヴァイオレンスは、さしずめ『strain』や『HEAT -灼熱-』のヴァリエーションと解釈可能したところで差し支えがない。

 正直に述べてしまえば、倭人に設定されている劉備が、中国大陸で万世一系を説き、卑弥呼を主権として招き入れようとしているのは、アジアの歴史を考えたとき、ややイデオロギッシュな印象をもたらしかねない。そのような危うさがあるにあるのだけれど、根無し草的な人々がどうやって己のルーツを定めていくかという、つまりは武論尊のキャリアに顕著なハードボイルド・タイプのロマンこそが、『SOUL 覇 第2章』の本質であって、それが劉備はもちろん、曹操や孫一族など、「三国志」の英雄たちに託されているのである。

 万世一系を説く劉備、絶対的な皇帝になろうとする曹操、首都の消失を企てる諸葛亮、十字架の教えを胸に抱いた周瑜、彼らの思惑は、確かに国家論の対立として現れてはいるものの、己と大衆が信を置くべきルーツの開拓を基礎にしているという点で、意外にも共通する。

 『覇 -LORD-』
  19巻について→こちら
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・その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
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