ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2012年02月17日
 Hyperventilation

 NAZCA LINESはシアトル出身の4人組である。彼らが昨年(2011年)リリースしたセカンド・アルバム『HYPERVENTILATION』では、同郷のよしみか、かつてTHE BLOOD BROTHERSのメンバーであったコーディ・ヴォトラト(元JAGUAR LOVE、現HYRO DA HERO)が、ゲストでギターを弾いていたり、アートワークを手掛けていたりするが、なるほど確かにそのサウンドはポスト・ハードコアの文脈に置かれてしかるべきものなのだろうし、海外のメディアではFUGAZIやDRIVE LIKE JEHU、AT THE DRIVE-INなどが引き合いに出されるのもわからないではないのだけれど、いや、もちろんそうしたバンドらに通ずる忙しなさ、変則的な展開を随所に盛り込んでいながら、もっとぐっとストレートにロックン・ロールの迫力を前に出しているぞ、と思わせる。強いて述べるなら、DRIVE LIKE JEHUよりは後継のHOT SNAKESの方に近いスタイルと言えるかもしれない。いずれにせよ、この時代ならではの衝動性をきちんと持っている一方で、そのアプローチの堂々とした佇まいからはオーセンティックと解釈してよいような魅力が溢れており、両者のバランスが音の太さにもなっているのだった。そしてそこが、かっこいいじゃん、なのである。

 1曲目を飾る「THIS LITTLE ISLAND」からNAZCA LINES節とでも評したい猛タックルが聴かれる。08年のファースト・アルバム『CREMATION / CRUISES』で縦横無尽だったハイなエネルギーを激しいリズム・チェンジに変換するかのような、つまりはポスト・ハードコアゆずりのセンスは顕在だ。それがリフのパターンがはっきりとしたギターとベースによって骨太な印象を与えられ、エキセントリックさばかりではなく、ハードにドライヴする感覚を一緒に掴んでいるあたりも同様である。バンド名になぞらえるなら、ナスカの地上絵の、その不可思議なデザインと大陸的なスケールとがコンパクトでインパクトの強いサウンドに凝縮されているみたい。短いメロディを吐き出し、フレーズを重ねる毎に熱を帯びていくヴォーカルが、拳を突き上げるのにもシンガロングするのにも相応しいフックをさらに備えさせているのだから、当然のこと、うずうずしてくらあ。このフィジカリティこそがNAZCA LINESの醍醐味だろう。ダウナーを装った2曲目の「BONES AND BOXES」からアッパーに振り切れる3曲目の「THIS CRIPPLED DEVIL」そして以降のナンバーに明らかな通り、パンキッシュな切り口が基本型だが、決して一本調子にはなっていない。

 アルバムで唯一の長尺を持った7分に及ぶ9曲目の「FOUR FOXES」は、NAZCA LINES流のブルーズか。現代におけるアメリカン・オルタナティヴの詩人がフォークで描くのにも似た光景が、しかしパワフルな筆遣いは決して失われずに広がる。終盤に差し掛かり、2本のギターが交互に軋む。ノイズをあげる。ああ、どこか荒涼としているのになぜこうも引きつけられるのだ、と思う。やはりシアトルの繋がりだろう。元MINUS THE BEARのメンバーであり、初期のMASTODONやISISを手掛けたことで知られるマット・ベイルズがプロデュースを担当しているけれど、ざらついていながらデリケートな音作りに、おそらく彼の功績は大きい。ラスト・ナンバーにあたる10曲目の「NEW VOLUME」で、「FOUR FOXES」のセンチメンタルはさらに突き詰められる。延々と繰り返されるダイナミクスのなかで発せられた〈“Revolution !”from the otheside〉という叫びは狂騒と哀愁の平行線を(本来ならありえないことなのに)不思議と交わらせている。

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2012年02月14日
 どのように挫折を描くか。あるいはどのように挫折からの回復を描くか。それはおそらく00年代後半のヤンキー・マンガに顕著な問題だったのではないか。こう考えられるとき、柳内大樹の『ギャングキング』におけるジミーのあの、当初のスケールを失念したかのようなしょぼくれ具合にも説明がつくのである。無論、その問題は、たとえば高橋ヒロシの『QP』や田中宏の『莫逆家族』で社会人を対象としていたものが、山本隆一郎の『ゴールド』を経、再び学園を舞台とする不良少年の物語へと移し換えられた結果なのであって、以上をジャンル的な変遷としてとらえることができるだろう。

 さしあたり、奥嶋ひろまさの『ランチキ』などもその延長線上に位置させることが可能だと思う。挫折。挫折。挫折。ここ数巻に渡り、いやもしかすれば序盤の段階より主人公である鹿野乱吉を見舞ってきたのは、当人の自信をことごとく挫くほどの躓きであった。周囲から期待されないことに反発するも、自分自身の期待を自分自身で裏切ってしまうという躓きである。相応に悩み、苦しみ、ようやく提出したはずの解答が間違っているとされるのはキツい。こうしたキツさを、結果的にだが、乱吉は引き受けざるをえないのであって、それが物語の中心的な活躍を実現するのとは別の役割を彼に与えている。主人公であるにもかかわらず、だ。

 この手のジャンルでは、イケイケ型の主人公が無茶無謀をしたり、成り上がり、作品の世界=学園や地域のなかで一目置かれていくのが常道だけれど、『ランチキ』の場合、いくらかそこをずれてしまっているところがあって、確かに個々の展開と描写には、こちらの鼻息をふんふん荒くさせるものがあるのだったが、ストーリーのレベルでは、高まったテンションが、ぐっとガッツ・ポーズを取らせる段階にまで跳ねていかない。最高潮に達しそうだぞ、という手前で乱吉が躓くためである。

 反面、無二の親友であるキム(金田鉄雄)が、ケンカの強さと人柄を買われ、校内での地位を固めていくのが、乱吉の立場からすると、せつない。物語の当初はてっきり、歴代のヤンキー・マンガにおける名コンビみたいに、乱吉とキムがナイスなコンビネーションで八面六臂の、それこそ物語の中心的な活躍な果たすものだと予想されたのだが、案外そうはなっていないのである。むしろ、パートナーであったはずのキムとの差が大きく開いていくにつれて、おまえなんでそのポジションにいるの、的に主人公としての乱吉の立場は危うくなってしまう。がゆえに、彼の存在はフラストレーションから自由になれないのだし、作品を前にしてある種のカタルシス作用が弱いと感じられるのも同じ理由によっている。

 しかしながらその、フラストレーション=ハッスルのむなしさこそが、現時点で『ランチキ』の、最大のアドヴァンテージたりえているのもまた事実だ。どれだけ手を伸ばそうが何者にもなれない。いまだ何者にもなれずにいる。それを強く思い知らされる。このような挫折は、何も不良少年に特有のものではないだろう。思春期ならではの光景を、根拠のない全能感ではなく、ア・プリオリな不全性を通じ、切り出すことで、挫折という普遍的な問題の、とくに皮肉めいた仕打ちが、エンターテイメント上の「喩え」として、よく生かされている。

 ラストのカットで乱吉の見せる表情が痛切な、あまりにも痛切な8巻である。キムと距離を置き、同級生たちのあいだで孤立してしまった乱吉は、狂犬のごとくおそれられる2年の手呂と関わりを持つこととなる。降威高校のトップである3年の椿屋は、乱吉と手呂が手を組み、次々と他校にケンカを売るのを静観するのだったが、キムを盛り立てていこうとする五島たち1年の乱吉に対する風当たりは強くなるばかり。緊張が高まるなか、椿屋は最後のタイマンの相手にとある人物を指名する。それはつまり、椿屋が去った後の降威高校を取り仕切るということでもある。

 果たして指名されたのは誰か。こじれてしまった関係を乗り越え、キムと乱吉が再びコンビを組むことはあるのか。主人公の挫折に強調線を引き続ける物語に更なる風雲急が告げられた。

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2012年02月09日
 疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day’s〜(2) (ヤンマガKCスペシャル)

 ああ、〈“死の商人”‥‥ それが“天羽一族の事業”さ‥‥ “父さん(ダッド)”はそれを憎んで合衆国(ステイツ)へ渡った‥‥ そして あの日死んだ‥‥ “母さん(マアム)”と一緒に‥‥ オレが望んだとでも? “悪魔”に赦しを請えよ? ラファエル‥‥〉と。これである。このダイアローグでありながらモノローグにも思われるポエジーこそが『疾風伝説 特攻の拓』の、あるいは佐木飛朗斗の真骨頂であろう。

 果たして現代に『特攻の拓』の前日譚=『外伝 〜Early Day's〜』が発表されることはどれぐらいの意義を持っているのか。2巻に入ってもなお議論の余地は残る。個人的には佐木が東直輝と組んだ性格上は続編にあたる『外天の夏』や『爆音伝説 カブラギ』のほうにアクチュアリティを見たいのだったが、しかし物語を解くというより詩歌を詠ずるような気持ちで作品に接するのであれば、コミックスのオビに記された「音速の累計70万部突破!!」という売り上げもわからないではない。かつてと同等の心象が、ある種のポエジーを通じて、いや確かに伝わってくる。それだけは絶対に損なわれてはいないと実感されるのである。

 いくつもの事件をパラレルに展開するのが、『外伝 〜Early Day's〜』に限らず、佐木が原作の特徴であるけれど、本来なら同じ時間帯を共有しているはずのそれらが、全体の整合性をほとんど無視し、各々のドラマを肥大させていった結果、一日がちっとも終わらないのに、まるで数日が過ぎ去ったかのような錯覚を引き起こしてしまう。無論、これを指して、タイム・テーブルの調整が狂っていると揶揄することはできる。だが、本当にそうなのだろうか。おそらくはその、歪んだ時空の在り方によってでしか、佐木の思想=宇宙は証明されえないと考えるべきなのではないか。以上のことが是であるとき、浮かび上がるのは、もはや物語の問題ではなく、詩歌の問題にほかならない。ええっ、さすがにそれは過言でしょう、と眉をひそめてもよいよ。

 ただし、物語の問題であれ、詩歌の問題であれ、本質のレベルでは、争いのない世界なんてないというテーマと純粋な祈りは必ずや争いを止められるというテーマとが常にせめぎ合っている点を忘れてはいけない。

 そう、一例を挙げるなら、本作における主人公の天羽“セロニアス”時貞が恋人である芹沢優理との会話のなかで漏らしたとある楽曲への感想は、間違いなく、詩歌としての儚さ=ポエジーを宿しているし、佐木の編み出す物語が潜在的に抱えた矛盾を覗かせる。つまりは〈“新世界より”‥‥ ドヴォルザークの“祈り”だよ‥‥ この“楽曲”は“宇宙”を祈ってるんだ‥ きっと‥‥ ウジェーヌ・イザイのようには‥‥ “呪”わない‥‥〉という憧憬が、あるいは黄昏が述べられる一方で、屈指のギタリストでもある天羽ですらそれを弾きこなすことは〈“無理”‥ だよ “優理”‥‥ コイツはどーにもならないのさ? “不可能”だよ 今のオレの“力”では‥‥〉という諦念が、あるいは留保が告げられているのだ。

 潜在的に抱えた矛盾そのものを真理として走らせるあまり、無尽蔵に膨張し続け、混乱を手招き、あやうく破綻しかねないのが、佐木の宇宙であり、魅力である。これを巧みに制御し、物語ならではの強度を機能させているところに、所十三の重みを見られたい。原作がどのような形式で手渡されるのかは不明だが、『特攻の拓』以降、他のマンガ家たちが佐木飛朗斗と組んで描いてきた作品、とりわけ不良少年の物語には、あきらかに所のイディオムを踏まえているものが少なくない。

 また『週刊文春』2011年10月27日号の「マンガホニャララ」で『特攻の拓』の復刊を取り上げたブルボン小林は「拓も不良たちも頑丈だ。頑丈さは(この作品に限らず)漫画表現の、根源的な快楽に拘わっている。(略)派手に殴られて血をみせることと、うやむやに(速攻で)回復することの両方が、漫画だけのリアリティだし、本作はその特性に満ちている。世界の新陳代謝が良いと感じられるのだ」と書いているけれど、その健全さはもちろん、所十三の技法に負われている。

 しかしながら、とりわけ頑丈な身体をもってしても半村誠と天羽時貞の死は決して避けられない。悲劇的な運命を辿るのは周知のとおり。本編のファンからすれば、この2巻で、後に親交を結ぶこととなる緋咲薫と天羽が、殺伐とした表情で初顔合わせしているのを感慨深く思われるだろう。天羽の赤い瞳は、他人に対して、敵意だけを剥き出しにしている。病んだ魂が救われることをまだ信じられてはいない。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』(漫画・東直輝)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』1巻(漫画・東直輝)について→こちら
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他所十三に関する文章
 『AL』4巻について→こちら
 『D-ZOIC』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら 
 『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2012年02月06日
 解剖医ハンター 3(リュウコミックス)

 我々は皆等しく平凡な人間である。しかるに誰もが必ずや何者かになれる。とすれば、成長とはそれを証明しうる一つの手立てになろう。吉川良太郎(原作)と黒釜ナオ(作画)のタッグによる『解剖医ハンター』の最終巻(3巻)だが、エンディングにおける清々しい感動は、もしかしたらその証明の正しく果たされているところからやってきているのではないかと思う。

 とりわけ、主人公であるジョン・ハンターのワキで頼りなさそうにうろうろしていたあのエドワード・ジェンナーの、おお、おまえ、すっかり顔つきが変わったな、と驚かされるような精悍さには大変見習いたくなるものがあるのだった。

 18世紀のロンドンで若き日のハンターはなぜ医学を志したのか。彼の場合とは異なる足どりながら、しかし着実にジェンナーはハンターの弟子に相応しいだけの素養を身につけていく。そして聖ジョージ病院をめぐるおぞましい事件にハンターが巻き込まれる一方、ジェンナーは自らの使命を天然痘の危険な実験に求めることとなる。というのが、文字どおりのクライマックスであって、両者の、パラレルに描かれていたはずの孤独と苦悩が重なり合い、重なり合うことで継承のテーマを浮かび上がらせる構成は、間違いなく、ジェンナーの成長を前提にしている。

 時代はもちろん、題材や舞台の違いがあるとはいえ、医師であるジェンナーの成長は、もしかすれば『医龍』(乃木坂太郎)の伊集院を彷彿とさせるかもしれない。おそらく、一個の青年の成長が、彼に限られた現象ではなく、職種の理念にまで押し広げられるような物語を通じ、誰もが必ずや何者かになれる、の可能性を導き出している点において、それらは共通しているのである。

 いずれにせよ、『解剖医ハンター』というマンガは、ジョン・ハンターの伝記的なロマンであると同時にエドワード・ジェンナーにまつわる成長のロマンでもあった。〈答えのない問いだ・おれの答えは「問い続けること」だ・真実を・だがあいつの――エドワードの答えをおれは知らない〉とハンターは言う。やがてジェンナーは自分なりの「答え」をハンターに告げるだろう。その曇りのなさに、男子三日会わざれば刮目して見よ、なる言葉を想起する。

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