ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年11月29日
 BLOOD~真剣士将人 1巻 (ヤングキングコミックス)

 他のマンガの話題から入るのはいささか恐縮なのだが、青木幸子の『王狩』が第一部完となり、存続の不透明な状況にあるのを残念に思う。ところで、もしもこの十数年のあいだに将棋マンガ・ブームというものがあったとしたら、本作、落合裕介の『BLOOD 〜真剣師 将人〜』がその最後尾にあたるのではないか。もちろん、これ以降も将棋マンガは次々と登場するであろうし、なかにはヒット作も生まれるだろう。しかしながら、作劇のパターンとしてはある程度出揃った印象を受ける。奨励会、真剣師、女流、アマチュア、サスペンス、ドキュメンタリー、メロドラマ、家族もの。将棋の指す手を通じ、実際にいくつものアイディアが網羅されてきたわけだけれども、『BLOOD』においては生と死と金をかけた真剣師の姿が描かれている。アンダーグラウンドの世界で、要するにギャンブルに近いタイプの将棋が打たれているのである。いや、ともすればギャンブル・マンガと呼んでしまっても差し支えがないそれ、少なくとも1巻の段階ではそうとしか解釈できないそれが、ここ最近では類例を持たないアプローチであるにもかかわらず、きわめてオールドスクールな仕様に見えてしまうあたりに、ジャンル内のアイディアが一回りしたような実感を得てしまうのだった。大まかな筋書きは、多額の借金を背負わされた青年が、ヤクザに恋人をさらわれ、父親と同じく真剣師としての勝負を強いられる、というもので、明らかに堅気ではない連中と相対し、さまざまな窮地に立たされていく。死線ならではのスリルに段々とはまっていく主人公の、いわば狂気とロマンが作品の濃さを決めている。盤面がどう動いたかという部分にさほど重きは置かれていない。現時点で、真剣師の勝負は、アウトサイダーいかにあるべし、を指し示すためのアレゴリカルな手段にすぎない。世間の認識がそうさせるのか、アイディアの出し方やタッチの暗い明るいがどうであれ、将棋マンガには生き様系に傾くものが多い。後がないという危機感を剥き出し、何かを背負った人間の背負った何かを具体化しやすいスタイルなのかもしれない。そしてそれはおおよその場合、生まれと育ち(遺伝と環境)の問題に還元される。『BLOOD』の主人公である桐生将人もまた、〈“獅子の血”を継ぐ〉という運命によって将棋の駒を握らされている。
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2011年11月21日
 Set the Dial

 ああ、獣の数字は皆に勇気を分けてくれる素敵な掛け声なんだぞ。フラストレイトして死にたくなるぐらいだったら、悪魔のような自分を全力で出してやるべきなのだ。何をしても駄目ってことは、結局、何でもありってことだからね。さあ、こい。きた。米ジョージア州サバンナ出身のトリオ、BLACK TUSKのサード・アルバム『SET THE DIAL』であるが、無論、その、汗はかいてもベソをかきそうにない握り拳のヘヴィ・ロックは相変わらず。いや、もしかすれば2010年の前作『TASTE THE SIN』以上に荒ぶり、押しの強さにフックを噛ませたサウンドは、野性ならではの魅力を満載にしていて、轟々燃える。確かにMASTODONやBARONESS、KYLESAなどに近しいタイプといえるけれども、大作主義やプログレッシヴな展開、サイケデリックのアプローチをほとんどかえりみることのない直情こそが、ずばり、BLACK TUSKの妙だ。ざっくばらんなほどに噴きこぼれるエネルギーが生々しい。冒頭、インストゥルメンタルの「BREWING THE STORM」で、ぶいぶい弾みをつける低音は、不確かで曖昧なものはこれから先全部蹴散らしてやらあ、という狼煙であろう。そして2曲目の「BRING ME DARKNESS」で、一切の躊躇いもなく引き上げられた振り子が、粉砕の軌道を描きはじめる。最高なのはそこで即座に畳み掛けてくる〈six, six, six〉の叫びである。ジャストのタイミングでそれが〈sick〉のワン・フレーズに切り替わる瞬間にほかならない。もうこの時点でカタルシスの9割が達成されているも同然、完璧でタイトな修羅場にせこいスタンスは滅ぼされてしまう。3人のメンバーが少しずつ個性の違ったヴォーカルを入れ替わりながら立ち替わりながら、あるいは同時に聴かせるのが、BLACK TUSKのマナーだが、ドラムのタイミングに合わせ、その本領が発揮された直後、ギターとベースに怒濤のリフ、リフ、リフは刻まれていく。練り上げられたグルーヴがスコアを倍増し、カタルシスはより徹底的なものとなるのだった。必ずしもスピードに溢れたナンバーばかりではなく、テンポのチェンジを加え、ぐっとスローに落ちる楽曲もあるにはあるけれど、こちらの体感速度に鈍りをきたさないのは、血の気たっぷりの演奏がぬかりのないスリルを突きつけてくるためだ。クリアーとは方向が逆なジャック・エンディーノのプロデュースも功を奏し、全体の印象をざらつかせ、語義矛盾するようだが、フレッシュなどとめ色を偲ばせる。汚れなき穢れの濃い清さ。

 『TASTE THE SIN』について→こちら
 『PASSAGE THROUGH PURGATORY』について→こちら

 バンドのMySpace→こちら
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2011年11月19日
 ブルーイッシュ 1 (プリンセスコミックス)

 孤独は決して一人で生きて一人で死ぬためのレッスンなんかじゃない。と信じたい。梅田阿比の新作は、またもや、家族、あるいは、繋がり、の物語を描くかのよう。この1巻が出たばかりの『ブルーイッシュ』で、少年マンガから少女マンガへ活動の場を移した作者だけれど、特殊な条件を背負わされた人間が苦しみ、他の誰かと触れ合い、あまりにもささやかな幸福に許されていく、という本質的なアプローチは何も変わっていない。ともあれナイーヴであることが、ストーリーを苛酷にし、反面、線に淡さをもたらす。その筆跡が、控えめだが、しかし独特な叙情を為しえているのである。

 主人公は、両親を喪い、一軒家でひっそり息を潜めるように暮らす三兄妹で、彼らが能力の不自由なサイキックであることを世間は知らない。果たして自分たちは求められていない人間なのか。〈俺たちにできることといったら・近所の子供を脅かすことくらいだった・むしろこの厄介な能力のせいで・俺たちは学校でもダメダメだった・俺たちはできそこないでポンコツで・まったく進歩がない・この役に立たない能力が・毎日・呪いのように青い影になって俺たちの邪魔をするんだ〉

 それでも誰かのためになりたい。妹、知那の願いが、卑屈な兄たち、亜生と綸の心を動かした日、三人は青い影の外に足を踏み出しはじめる。

 通りすがり、困った目に遭った人々を、亜生、綸、知那が協力し、助けあげるその行為に彼ら自身もまた助けられる。こうしたパターンが各エピソードの骨格になっているのだったが、潜在的にサイキックはネガティヴなもの、当人たちにとっては足かせ、あくまでも負担として認識されている点に注意しておきたい。確かに彼らはその能力なくしては世間と関われないのだけれど、そもそもその能力が彼らと世間を隔てていたのであって、必ずしも欲されていたわけではない。彼らの善意は、無償であるというより、損失の補填に近しいのである。

 彼らの負担はサイキックであることばかりではない。血縁上、実際の兄妹ではない。三人は別々の児童養護施設から引き取られてきた義理の関係でしかなく、無論、亡くなった父母とも真の親子ではない。この意味で、文字どおりの孤児だといえてしまう。本来なら持ちえるものを持っていない。つまりはあらかじめマイナスの重みを抱えさせられているのだ。

 皆と同じになれない。居場所がない。当然、それは罪ではない。望んだのでもない。にもかかわらず、まるで罰みたいに孤独を寄越してくる。辻褄が合わないではないか。これを不幸とし、困難としたとき、その不幸に屈しないこと、困難に負けず、乗り越えることこそが、おそらく、希望の手がかりとなりうる。結局のところ、マイナスは裏返らないかぎりプラスになれないのだし、負担は軽くならない。作中のモノローグ(ナレーション)を主に担当しているのは、次男の綸だが、最初は知那の前向きな提言に批判的だったはずの彼が、次第に感化され、サイキックのポジティヴな使い途を探すうち、不幸や困難の先に希望を信じられるようになっているのは、その言葉の変化に明らかだろう。

 ああ、〈この力を誰がなんのために・俺たちに与えたんだろう・けっして正しくはなく・未熟で・中途半端な・同情と救いの杖〉であるようなサイキックを前に、主人公たちはもがきながら、希望の糸口を見つけ出そうとする。

 では、『ブルーイッシュ』において希望とは何を指すのか。家族、あるいは、繋がり、の別名だと解釈されて構わないと思う。十分な未来も幸福な過去も、まず間違いなく、それらのなかに存在していた。それらに含まれていたことは、いくつかの印象的な場面によって暗に示されている。

 だが、両親の喪失とともにそれらもまた損なわれてしまった。損なわれてしまったという事実から、亜生と綸、知那の三人は物語をはじめなければならなかった。ここに悲哀の色合いが生じている。確かに、必ずや希望はある、の道しるべを徒手空拳で獲得していく主人公たちの絆にも、家族、あるいは、繋がり、のイメージは託されており、そうであるがゆえの感動が、あたたかな気分を膨らませる。一方で、彼らはあまりにも損なわれてしまっている。この動かしがたい前提が、せつない気分を不可避にしているのである。かくして、獲得することと喪失すること、天秤にかけられた双方が皿を上下させる結果的なバランスが、『ブルーイッシュ』の叙情、エモーションの正体だろう。1巻の最後、4話目の幕に置かれた綸のモノローグ(ナレーション)に耳を傾けよう。

 そう、〈人は大事なものを・何度も何度も・追悼し・それでも・進んできた生き物だから・いくら失ったって取り返せばいい・いつまでも何度でも〉というエピソードを締め括るのに相応しいそれからはあたたかさとせつなさがたっぷり伝わってくる。

 さらに付け加えるならば、三人の能力が彼ら自身に何らかの犠牲を強いることはある種象徴的で、とりわけ知那の変身、イコール幻覚だ。亜生のテレパスや綸のサイコキネシスが、その発動に肉体の疲労を付随するものであるのに対し、知那の場合、他人に幻覚を見せるのと引き換えに変身した人物の記憶を一部なくしてしまう。自分がよく知っていたはずの人間を忘れてしまうのは寂しい。これを当たり前のこととするなら、忘れたくない人間の存在は絶対に忘れたくない。と考えるのが普通だろう。

 だが、それでも誰かのためになりたい。知那は願う。願いを叶えるべく、変身を繰り返しては決して少なくない犠牲を払っていく。その姿は『幸福な王子』を思わせる。

・その他梅田阿比に関する文章
 『幻仔譚じゃのめ』7巻について→こちら
 『フルセット!』4巻について→こちら
 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら
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2011年11月15日
 Nippon

 ENDLICHERI☆ENDLICHERI(06年)以降における堂本剛(Tuyoshi Domoto)のキャリアをダイジェストにし、ヨーロッパでリリースされたのが本作『NIPPON』である。ならば、日本のリスナーにはまったく用のない話だろうか。いや、そんなもの熱心なファン向けのコレクターズ・アイテムでしかないじゃんね、と口さががない人は言うかもしれないけれど、違う。むしろ、これまで堂本のソロ・ワークに触れたことのない向きにこそ聴かれるべき作品だとさえ思うのだった。すなわち、ハードなテイストのファンク・ミュージックでいて、オリエンタリズムなニューエイジ・ミュージックであるのと同時に、エレクトロなダンス・ミュージックでもあるという一種異様なスタイルの、その、とくに代表的なところが克明な記録として報告されている。新曲はなし。既発表曲ばかりの内容がアルバムの性格を明らかにしているわけだ。

 新曲はなし。とはいえ、後半に収められたライヴ音源は、日時等の詳細なクレジットをブックレットに見つけられなかったので、おそらく、と留保しておくが、おそらくレアなヴァージョンではあるのだろう。京都の平安神宮で録られた7曲目の「時空(Time and Space)」、8曲目の「Love is the Key」、10曲目の「Help Me Help Me…」では、渋く決まったギターと神秘的なキーボードのコントラスト、そしてジャム・セッションを彷彿とさせるアレンジが、さまざまに名義を変えながら堂本剛の辿ってきた音楽性の本質を、スタジオ音源以上に再現してみせる。インストゥルメンタルの「時空(Time and Space)」はともかく、〈Love is the Key…〉というフレーズが繰り返し歌われているにすぎない「Love is the Key」の、しかし変幻自在なバンドの演奏を伴い、静寂のなかから沸沸と込み上げてくるエモーションの熱っぽさ、この説得力は何なのか。堂本の非凡なヴォーカルは、残酷な世界と相対するためのラヴ・ソングである「Help Me Help Me…」や、「Live in Sendai」と記された9曲目の「ソメイヨシノ(Yoshino Cherry)」へ、パセティックに張り詰めながらも絶望にしぼんでいくことのない空気を吹き込む。とりわけ、キーボードのみをバックに配した後者の、ああ、澄み切った悲しみは生きることの正しさを代弁しうる。奈良は天川神社での公演を聴かせる11曲目の「縁を結いて(Cherish Our Fate with Others)」で、やさしいメロディは、生きることの長さに壊れかけ、絶え絶えとなった希望に降り注ぐ慈愛であるかのよう。ライヴ音源とは信じられぬほどの清廉な響きを通じ、〈溢れ出した涙に沈んだ・街をいま拭わないで・見つめる愛で生きていたい〉という願いが強く、儚さを忘れるままに強く、結ばれる。

 それにしたって、だ。いずれも過去のスタジオ音源をパッケージし直したものなのだろうが、今回のタイトル・トラックにあたる3曲目の「NIPPON」や4曲目の「Blue Berry -nara Fun9 Style-」、5曲目の「Chance Comes Knocking」を縦横無尽にするしなやかなグルーヴときたら。このアーティストが、ジミ・ヘンドリックスやスライ・ストーンを信奉の古典派であったことを改めて教えてくれる一方で、1曲目の「美 我 空(My Beautiful Sky)」と6曲目の「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」のテクノロジーを応用したデザインは、非常に現代的なコンポーザーでもあることを再確認させる。とまれ、いまだに「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」の格好良さはちっとも減らねえな。相変わらず。やばいくらいに痺れるのだった。打ち込みを主体にしたインストゥルメンタルだけれど、堂本剛のキャリアにおいて屈指のナンバーというよりほかない。ビートの高鳴り、ギターは鋭く、幾重にもレイヤー化されたダイナミズムが執拗なまでに反復される。近年の作品にこの手のエキサイトメントを見つけられないのは悔しいが、裏を返すなら「ENDLICHERI☆ENDLICHERI」の1曲でそれは補ってしまえるのである。

 初期の2作、『ROSSO E AZZURRO』(02年)と『[si:] 』(04年)からのセレクトがないのはさもありなん。それらJポップ的なアプローチとは異なったベクトルの楽曲を集成しているのが、つまりは『NIPPON』というアルバムなのであって、ハードなテイストのファンク・ミュージックを、オリエンタリズムなニューエイジ・ミュージックを、エレクトロなダンス・ミュージックを、まさかの同一線上に掴まえたサウンドがこう、余すことなく鳴り渡っている点に最大の魅力のあることは、あらかじめ述べたとおり。

・その他堂本剛に関する文章
 「縁を結いて」について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI LIVE 「CHERI E」』(2010年8月24日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 DVD『薬師寺』について→こちら
 『RAIN』について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら
 『僕の靴音』について→こちら
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2011年11月13日
 K album(初回限定盤)(DVD付)

 DREAMS COME TRUE、武部聡志、松本隆、林田健司、CHOKKAKU、吉田拓郎、筒美京平、船山基紀、岩田雅之、馬飼野康二、吉田健、山下達郎、織田哲郎、YO-KING、秋元康、伊秩弘将、堂島孝平。無論、各個の作詞や作曲、アレンジを豪華にしたからといって必ずしも最高のものが出来上がるというわけではないのだったが、しかしKinKi Kidsの通算12枚目となるフル・アルバム『K album』は、中身の方も十分それに見合っているぞ、と思わせる。確かに良質な楽曲が取り揃えられていることの功績は非常に大きいけれど、自らプロデュースを買って出、ある種のトータリティと見事な完成度を実現しえたKinKi Kidsの批評性とでもすべき辣腕もまた高く支持されるべきであろう。言うまでもなく、堂本剛と堂本光一のヴォーカルは、長いキャリアを経て、さらに頼もしさを増しており、9曲目「もっと もっと」の歌詞がちょうどぴったりなので引用するが〈明るく輝く・光になって・闇のなかでも・ひと際輝く〉

 KinKi Kidsのディスコグラフィに縁故のある人物たちをソング・ライティングに迎えて制作されたのが、今回の『K album』である。新機軸を打ち出すより、マイルドな味わいのなかに足どりのきれいな成熟が刻まれている。そのような意味では、ここ数作の延長線上を決して逸してはいない。いやあるいはだからこそ、クオリティのレベルで追求されている点の多いアルバムだといえる。とにかく、全編を通じ、気を抜けないのとは異なった充実が、揺るぎない貫禄のエンターテイメントが、堂々と果たされているのであった。

 濃さで測られたい内容だが、まずは序盤の「同窓会」「危険な関係」「ラジコン」の3曲が強力だ。松本隆が作詞した「同窓会」は、題名のとおり、同窓会での再会をモチーフにしており、いかにも作曲は林田健司といった感じの跳ねたリズムが、青春の日々と現在の追憶とを軽やかにシャッフルしていく。これを現在32歳になったKinKi Kidsの二人が歌うことは、実年齢の等身大に近しいイメージを彼らなりに演じることでもある。〈あの頃君には嘘ついて・友達でいようと・本音をかくした〉と盛り上がるコーラスでは、そこにあるはずの後悔が瑞々しいきらめきへと変わる。ノスタルジーのせつなさに落っこちていかないときめきがある。吉田拓郎が提供した「危険な関係」は、アップなテンポに施されたムーディなアレンジがそうさせるのか、はたまたストーリー仕立ての歌詞がそうさせるのか。古い歌謡曲を彷彿とさせる。そしてそれが悪くはない。ああ、〈君だって・僕が・淋しい夜に・一緒に・泣いたりは・しないだろう〉〈君だって・僕が・落ち込んだ時に・他の・誰かと・会ってるだろう〉という断念が、愁いを帯びたメロディとなって、心の奥に響き、行き場がない。「ラジコン」に関しては、さすが松本隆と筒美京平のコンビ、の一言に尽きるし、伸びやかなコーラス、光一くんと剛くんのハーモニーが、恋の駆け引きと幸福なワン・シーンを鮮やかに彩った。

 バックのサウンドはゴージャスでありながら、大人び、落ち着いた印象を持ったアルバムだ。そのなかでは、井手コウジの若々しい筆が映える11曲目「2nd Movement」と先行シングルの12曲目「Time」が、デジタルな仕様のダンサブルなトラックを含め、引きではなく、押しの力強さを顕著にしている。しかしそれらが全体のバランスにおいては浮いていない。むしろ『K album』というカラー、統一感をいじることなく、終盤まで飽きることのないヴァラエティを獲得するのに成功しているのであった。おそらく、曲順までを考慮し、すべてのパートに最終的な決定を下したのは、KinKi Kids本人たちであろう。オーダーし、集まったマテリアルをただパッケージにするにとどまらない。最良の結果を追求するその責務をプロデュースというのであれば、指揮をとった二人の誠実さは、ほら、このように、間違いなく、実を結んでいる。すでに述べたとおり、ある種のトータリティと見事な完成度を実現しているのである。

 YO-KINGが提供した9曲目「もっと もっと」にしても、松本隆と織田哲郎による「ヒマラヤ・ブルー」と秋元康と伊秩弘将による「破滅的Passion」のJポップ的なラインの間に挟まれては、いくらかミスマッチな空気をまとってしまったって本来なら仕方のないところだが、そうはなっていない。正直にいって、同じくYO-KINGがソング・ライティングした「Hey! みんな元気かい?」が02年の『F album』に収録された際には、まあタイアップ・ナンバーだったことが関係しているのかもしれないけれど、他の楽曲とトーンの齟齬が見られた。だが、ここではKinKi Kidsサイドのマナーがそれを御し、絶妙なアクセントにまで持っていっている。明るいメッセージを〈もっともっと〉とリフレインするコーラスが、ウェットなタッチの楽曲が並ぶ後半に、完璧なタイミングで滑り込まされているので、アルバムの性格が、表情が、より豊かなものになっているのだ。またKinKi Kidsとは旧知の堂島孝平がアレンジに加わっているのも「もっと もっと」をもっとベストなかたちにするのに必要だったに違いない。

 初回限定盤のラストは、その堂島が手掛けた「きみとぼくのなかで」で締め括られる。これまでにも堂島は、「こたえはきっと心の中に」や「カナシミ ブルー」、「永遠のBLOODS」や、そして堂本剛のソロ・ナンバーであるものの「黒い朝・白い夜」など、KinKi Kidsのディスコグラフィですぐれた楽曲に関わってきたが、「Time」のハードなアプローチのあとに置かれた「きみとぼくのなかで」のやわらかさは、正しくツボを押さえている。楽曲の質感は、痛みを題材にしつつ、かなりライトなのだけれど、それが剛くんと光一くんの歌声を、二人のコンビネーションを、何よりも魅力的にし、未来へとまっすぐ届くだけの希望を映えさせている。過去のタイトルを意識したと思しき歌詞も〈いつだって不確かで・硝子のような世界を・ずっと歩き続けてきた・ふたり〉には相応しく、とてもよく似合う。

・その他Kinki Kidsに関する文章
 『スワンソング』について→こちら 
 『Secret Code』について→こちら
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2011年11月06日
 Sea of Memories

 そもそも90年代に90年代リヴァイヴァルのようなグランジをプレイしていたバンドである。それが90年代リヴァイヴァルの気配漂う今日に当時を思わせるアプローチで復帰したからといって、何ら不思議ではあるまいよ。かつてのビッグ・ネームであるBUSH(ブッシュ)の10年ぶり、通算5作目のフル・アルバムとなる『THE SEA OF MEMORIES(ザ・シー・オブ・メモリーズ)』だが、いやいや、これはもしかすると99年の『THE SCIENCE OF THINGS』や01年の前作『GOLDEN STATE』を上回る。94年のデビュー作『SIXTEEN STONE』や96年のセカンド作『RAZORBLADE SUITCASE』の、つまりは全盛期に匹敵しうる内容なのではないかと思う。オリジナルのメンバーで、初期の要でもあったギターのナイジェル・パルスフォードが今回の再結成に応じなかったのは非常に残念だけれど、明らかに後任のクリス・トレイナーが持ち込んだものは少なくないし、それが90年代ヘヴィ・メタルのシーンで名をなしたボブ・ロックのプロデュースと相まって、抜群の効果をあげている。過去にORANGE 9mmやHELMETなど、ニューヨークのハードコア・アクトと深く関わってきたクリス・トレイナーのギターは、テクニカルな面、叙情的なパートを含め、意外と主張の激しいタイプで、構成自体は極めてシンプルな楽曲に厚みを与え、さらには派手ともとれる局面を、大変ダイナミックな響きをそこへプラスしているのだ。もはやグランジというより、メジャー指向のハード・ロックに近しいバランスとなっているのだったが、この、マナーはどうであれ、後ろめたさのない堂々とした手つきこそがBUSHだろう。ギャヴィン・ロスデイルのソング・ライティングも、BUSHというブランドを意識したためか、クリスとともに活動したINSTITUTEやソロ・キャリアの頃に比べ、 ぐっと照準が定まっている印象であって、ミドル・テンポを主軸にしながら、スケールの大きなサウンドを聴かせている。まあ、作品の出来がいいだけに日本盤ボーナス・トラックの3曲がまったくの蛇足になってしまうのは仕方がない。

 INSTITUTE『DISTORT YOURSELF』について→こちら

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2011年11月05日
 People & Things

 なにせ筋金入りのロマンチストだから若くして愛のために死にたかったのだが、そうはいかないので人生はせつない。だけど、いずれ悲しみが美しく花開いて喜びに見える日だってあるのかもしれない。JACK'S MANNEQUIN(ジャックス・マネキン)の楽曲は自分にとって大変ロマンチックなものだ。ピアノ・ロックとしか言いようのない装飾のシンプルなサウンドがどうしてこうも切々と響くのか。もちろん、やわらかでセンチメンタルなメロディが一切の気取りもなしにまっすぐと編み出されているからにほからない。しかしそれは決して寂しさのみを連れてきはしない。黄昏のなかにぬくもり、励まし、一条のきらめきをもたらす。そして、それこそがこのサード・アルバム『PEOPLE AND THINGS(ピープル・アンド・シングス)』にもしっかりと備わった魅力なのであって、小さな躓きも大きな敗北も人生を完成させるのに必要なテーマでありうる可能性を確かに教えてくれるのだった。

 たとえば『ロッキング・オン』11月号で小池宏和が『PEOPLE AND THINGS』を〈自分自身を救済するためのポップな感性が遠く、広く伝播してしまうというこのメカニズムは実に個性的で面白く、それ故に誰も真似することが出来ない。口当たりが良いだけの計算されたグッド・メロディと、ナチュラルで即座に琴線に触れるグッド・メロディとの違いはなんなのだろう。ポップの魔法を何度でも突きつけられ〉るとレビューしているのは、おそらく的を射ていると思う。すでに述べたとおり、JACK'S MANNEQUINの、つまりはアンドリュー・マクマホンの奏でる楽曲には、ことさら奇をてらったところがない。にもかかわらず、どうしてか耳目を引くのは、やはりポップ・ミュージックならではの魔法がかけられているからだろう。ラヴ・ソングを基礎としたものがほとんどを占めるのに、惚れた腫れたにとどまらない深さ、パーソナルな射程を越えるだけの感動が、ああ胸に届いて褪せない。まざまざと立ち現れてくるのである。

 他方、これまでとの違いを端的に述べるとすれば、バンド編成であるがためのドライヴが増した。跳ねるようなリズムを持ったナンバーがアルバムの中核に来ていて、それは明らかに05年のファースト・アルバム『EVERYTHING IN TRANSIT(エヴリシング・イン・トランジット) 』におけるポップ職人的なソロイズムとは異なっているし、また08年のセカンド・アルバム『THE GLASS PASSENGER(グラス・パッセンジャー)』よりもコンパクトにシェイプアップされている。『THE GLASS PASSENGER』に収められていた「HAMMERS AND STRINGS(A LULLABY)」や「CAVES」などに顕著な、あの長篇指向のドラマが後退したかわり、いかにもライヴ映えしそうなアプローチが前面に出ているのである。もちろん、SOMETHING CORPORATEでも遺憾なく発揮されていた熱量のひときわ高く、メロウなフィーリングをポジティヴなラインに引き戻すことができるほどに確信の定まったヴォーカルは今も変わらない。

 1曲目の「MY RACING THOUGHT」の軽快さ、そして暗みの入った演奏が孤独なシャレードを思わせる2曲目の「RELEASE ME」から、徐々に開放感を押し広げていく3曲目の「TEREVISION」へ。タイトルどおりのリフレインにたっぷりの慕情を託した4曲目の「AMY, I」はハイライトに相応しく、冒頭に『THE GLASS PASSENGER』の名前を登場させる5曲目の「HEY HEY HEY (WE'RE ALL GONNA DIE)」では、誰かにあてたラヴレターのようにツアーの情景が綴られる。「HAMMERS AND STRINGS(A LULLABY)」に近しいロード・ムーヴィーの手法ではあるのだけれど、三人称の比喩ではなくて一人称の憂いがそれとは別種の表情をのぞかせているのだった。7曲目の「AMELIA JEAN」と8曲目の「PLATFORM FIRE 」で極まったセンチメンタルは、9曲目の「RESTLESS DREAM」を経、たおやかにゆるめられるだろう。11曲目の「CASTING LINES」は、これぞアンドリュー・マクマホンなバラードのなかに、たっぷりの報いと許しを、祈りと願いを、躊躇わず溢れさす。寂しさが新しい一歩に裏返る瞬間だ。信じられる。

 『THE GLASS PASSENGER』について→こちら
 『EVERYTHING IN TRANSIT』について→こちら

 アーティストのオフィシャル・サイト→こちら
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2011年11月04日
 天審〜WORLD WAR ANGEL〜(1) (ライバルKC)

 黙示録の世界で人間として生きることの本質が試される、かのような危機感と、我々とは生態も本質も異なる存在が人間には傍迷惑な恋のモーションをかける、かのようなラブコメのミックスは、原作者である外薗昌也の集大成的なアイディアだといえるし、初期の設定に巨人のヴィジュアルを採用しているのはトレンドへの目配せなのかもしれないが、それを作画の久世蘭が若々しいロマンの少年マンガにしている。『天審〜WORLD WAR ANGEL〜』の1巻である。遠藤光流には人には言えない秘密があった。背中に奇妙な物体を生やしているのだ。やがて天使の羽を持つ美少女のエルと彼が遭遇するのは必然であった。そして二人は、分子生物学の天才である敷島と天使教団というカルトの狂った実験に投入されていく。特殊能力に目覚めた主人公に人類の未来が託される一方、彼は病んだヒロインから執拗に追い詰められる。これを大まかな概要だとすれば、非常に現代的な様式をトレースしているわけであって、セカイ系だとかナントカデレやらのコラボレーションでありヴァリエーションであるという見方もできるのだけれど、テーマのレベルで注意しておきたいのは、いかに人類と異者(エイリアン)が出会うか。おそらくは緊急事態下のコミュニケーションを通じてもたらされる混乱を、物語に整形し、具体化したなかにその真価を問うことなのだと思う。外薗の過去作、とくに哲学まじりのパニック系においては、そうした整形こそが最大の課題でもあった。『天審』というタイトルの意味深さは、どうしたって不吉なものを孕んでいる。人間と人間ならざる存在を裁かれる側と裁く側とに隔てていくことを予感させる。暗い野望によって企てられる陰謀や、惨殺を躊躇わないショッキングなシーンの頻出は、まず間違いなくカタストロフィの前触れを果たしているのである。秤にかけられた希望と絶望が、今後の展開を左右する。

・その他外薗昌也に関する文章
 『わたしはあい LOVE & TRUTH』3巻について→こちら
 『エマージング』2巻について→こちら
 『エマージング』1巻について→こちら
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2011年11月03日
 おい、覚えておけよ。ドラマ版『QP(キューピー)』の原作は『QP』じゃねえ。『QP外伝』のワン・エピソード「死神を見た日」だってことを、な。そしてこれ、『QP外伝 ドラマスペシャル』は、そのドラマ版『QP』をトリビュートの名目でコミカライズしたものであって、コンビニ版コミックスのスタイルで発表されているのだったが、以上の経緯はもちろんのこと、原作が高橋ヒロシ、ドラマ原案がやべきょうすけ、ドラマ脚本がNAKA雅MURAKAMI、ドラマ作画が今村KSKというクレジットの入り組み方からして、何かもう非常に厄介なシロモノであろう。しかしまあ、現在のところ第2話まで描かれている内容は、ドラマ版に極めて忠実だといえる。天狼会のトップ、我妻涼に憧れ、ヤクザになった元ボクサーの美咲元が、その儚くも凄惨なサヴァイヴァルから教訓にも似たテーマを得ていくのだ。

 過去にも再三述べてきたとおり、我妻涼という発明は、00年代以降のヤンキー・マンガを左右するほどに大きく、大きかった。たとえば『ギャングキング』のピンコや『サムライソルジャー』の桐生達也などは、ほとんど我妻涼のヴァリエーションにさえ見えてしまうのである。この世界にはアウトローとして生きることを望むよりほかない人間が確かにいる。だがアウトローとして生きることは本当に幸せなのか。こうした問いは、差別や貧困を含め、生まれと育ち(遺伝と環境)の問題がしばしば取り沙汰される現在において、多分にアクチュアルであるのかもしれない。しかしてアウトサイダーの美学を一種の思想へと変換した場所に我妻涼のカリスマは立っており、高橋ヒロシよりも若いマンガ家に描かれたピンコや桐生達也がそれに続く。無論、社会性を高い倫理や豊かな成熟とイコールで考えていったとき、殺伐としたアウトサイダーの思想は否定されなければなるまい。すなわち、ピンコに対するアンチテーゼが『ギャングキング』の主人公であるジミーなのであって、桐生達也に対するアンチテーゼが『サムライソルジャー』の主人公である藤村新太郎なのであった。そして先駆的な『QP』では、キューピーこと石田小鳥がその役目を負っていたわけだ。

 現時点でドラマ版『QP』は、キューピー抜きの『QP』というちょっとアクロバティックな物語を進んでいる。結果、ただのヤクザ劇なんじゃないの、の印象を免れていない。当然、それに忠実なコミカライズも同様だろう。この第2話「カーブミラー」に出てくる美咲元の兄は、ドラマ版『QP』の原作にあたる「死神を見た日」で、所謂世間の幸せを象徴するような存在だったのだけれど、ドラマ版とそのコミカライズ(ええい、ややこしいったらありゃしない)では、再登場の可能性は捨てきれないという保留を付けるものの、元の教育係であるヒコや我妻涼の対照としては、あまりよく機能していない。
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2011年11月02日
 Fault Lines

 ああ、ひりひり横滑りしていく性急さに取り込まれてしまうみたいなのだった。スコットランドはグラスゴー出身の4人組、UNITED FRUITのファースト・アルバム『FAULT LINES』である。大まかにいうなら、とてもオーソドックスにロー・ファイでポスト・グランジなサウンドを披露しているバンドなのだが、しかしそれが、エヴァーグリーンな焦燥と衝動とを再現するのに何より適していることを、いま正に証明している。海外ではSONIC YOUTHやFUGAZI、AT THE DRIVE-INなどを引き合いにされる機会が多いみたいだけれど、個人的にはもっとマイナーでイギリス寄りの、たとえばUNION KIDやYOUR CODE NAME IS:MILO、そしてMCLUSKYを思い出した。いずれも短命に終わったアーティストだ。あるいは初期のIDLEWILDあたりを彷彿とさせるかもしれない。掻き鳴らされたギターのノイズに、そこはかとなくポップなフィーリングを散らし、ヴォーカルはメロディをぶっきらぼうに叫び、パンキッシュという形容を正しくなぞらえる。はっちゃけたエネルギーそのものが、楽曲のなか、重要なパーツの一部となり、ヘヴィ・メタルともハード・ロックとも違うアグレッシヴさ加減、じたばたとした体感の速度を作り出しているところが、最大の魅力だと思う。イディオムとしての新しさは全くないかもしれない。だけれど、ロック・ミュージックでなければならない若々しいテンションが、やりたいことをやりたいようにやっているだけの確かなモチベーションを伝えてくる。トップの「KAMIKAZE」からラストの「WRECKING BALL」まで、わずか9曲しか収められてはいないものの、結果的に一切のぶれはない。どう考えてもこのモードで活動し続けられるのは限られた年数だろう。そこに刹那に近しい輝きが生まれているのであって、藻掻きながらつんのめり、失敗をおそれないステップの潔さに、もちろん、心惹かれる。

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