ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年09月09日
 疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day’s〜(1) (ヤングマガジンコミックス)

 佐木飛朗斗という作家性に対して好意的な読み手のつもりだが、この現代に『特攻の拓』の前日譚が描かれることにはどんな意味があるのか。所十三と再びタッグを組み、あの天羽セロニアス時貞を主人公に据えて、浅川拓が登場してくる一年前を舞台に展開されるのが『疾風伝説 特攻の拓 外伝 〜Early Day's〜』である。

 たとえば『外天の夏』(漫画・東直輝)や『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)の壮絶な破綻(いやいや、まあね)によって浮き彫りになったのは、不良少年と横浜の抗争劇を題材にした佐木の諸作品をサーガとするのであれば、全ての発端であり、オリジナルにあたる『疾風伝説 特攻の拓』で、とりわけ天羽時貞の生と死を通じ、提示されたテーマの困難さであった。

 しかしてそのテーマを簡単に述べるなら、宮沢賢治的な善性は戦争を止められるか、になるだろう。『特攻の拓』本編のラスト、例のきわめて抽象化された結末は、そうしたテーマの実現が、幻想のように儚いものであることを明らかにしている。

 もちろん、宮沢賢治的な善性は戦争を止められる、という断言こそ、佐木の織り成した宇宙が混乱の果てに導き出したい結論に他ならない。そしてそれは、正しく困難であるがゆえに、テーマとして踏まえるのに相応しい重量を持ちえるのだし、『外天の夏』や『爆麗音』あるいは『R-16』(漫画・桑原真也)の物語に、ある種の敗北を刻み込んでしまったのだった。

 だが、佐木の手によるサーガにおいて、上記のテーマを叶えられた人物が全くいないわけではない。ここで思い出されるべきは、つまり、『特攻の拓』本編の「増天寺」でのライヴである。天羽時貞のギターは、宮沢賢治的な善性と音楽とを強く結びつけ、敵味方の境を越えながら、確かにコスモスに値する瞬間を、俗情の場に、祝祭の中に、歓喜と共に誕生させていた。

 ああ、『春と修羅』よ。青い森の挽歌よ。外伝『〜Early Day's〜』で引用される宮沢の詩は、在りし日に天羽が抱えていた苦悩をあたかも代弁していくようだ。〈みんなむかしからのきやうだいなのだから / けっしてひとりをいのってはいけない〉

 天羽時貞は、『特攻の拓』本編で、同じ獏羅天のヒロシとキヨシや心を通わせた拓のことをブロウ(兄弟)と呼んだ。外伝『〜Early Day's〜』では、幼年期の友人ラファエルが、かつてNYのイーストハーレムで起こった暴動を指し、〈オレ達が“兄弟達(ブロウ)”と呼んでた隣人が よってたかってオレ達から“愛する者”を奪ったってワケさ‥‥〉と言っている。暴動のせいで、ラファエルは母親を失い、天羽は父親(トキオミ)と母親(ステファニ)を亡くした。死の商人である祖父(時継)に引き取られ、天羽が日本に渡ってきたのは、周知の通りであるが、暴力を糧とする血筋であるにもかかわらず、暴力によってルーツを奪われてしまったことが、彼の内面を複雑に歪ませているのと同時に、おそらくはポエティックな純粋に洗われたいと願わせているのである。

 日本で天羽に再会したラファエルの妹ゾーイは、損なわれてしまった過去を〈‥‥祈っても無理‥‥“壊れた砂時計”は逆様(アップサイドダウン)には出来ないわ‥‥ もう‥‥“刻”は戻せないのよ‥‥ セロニアス〉と振り返る。ここには暴力を反転させることで平和を得ようとした『外天の夏』のさらなる逆説がうかがえるだろう。

 外伝『〜Early Day's〜』は、『特攻の拓』本編よりも時代を遡り、そのヴァリエーションである『外天の夏』の遙か昔を舞台にしている。けれども、試みのレベルでは、『外天の夏』や、音楽をモチーフにした『爆麗音』のもう一歩先を見据えているのだと思う。とするのであれば、それがこの現代に描かれることの意味となってくるのではないか。もしかしたら。

 ところでこの1巻には、『特攻の拓』本編において既に死者であった半村誠が天羽に関わる重要な一人としてキャスティングされている。『特攻の拓』本編で示唆されている通り、ある意味、浅川拓の分身(ダブル)ともいえる存在だ。誠が自分の後ろに天羽を乗せてバイクを走らせるシーンは、必然、のちに二人とも命を落とすことを考えさせるのだから、非常に印象的な輝きを持つ。

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』(漫画・東直輝)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』1巻(漫画・東直輝)について→こちら
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら

・その他所十三に関する文章
 『AL』4巻について→こちら
 『D-ZOIC』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら 
 『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2011年09月07日
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 荒木光の『ヤンキー塾へ行く』は『ヤングマガジン』の38号から40号の三週に渡り、「YM次世代登竜門 “若BUTA”シリーズ」の第7弾として掲載された。要するに、新人マンガ家の試金石であるような作品である。過去にスピリッツ賞で入選を果たし、第61回ちばてつや賞で佳作に選ばれ、今までも『ヤングマガジン』に何度か読み切りを発表している作者だが、ここではやや長めのストーリー(連載形式の短編)に挑戦することとなった。内容はといえば、ほぼ『ヤンキー塾へ行く』という題名にあるとおりだといえるだろう。

 主人公の碇石は、ケンカで鳴らす中学3年生である。根っからヤンキーの宇都宮、そしてオタクふうな高見沢とつるみ、他の学校にもその名を響かせている。それが9月のあるとき、宮本奈津子という好みのタイプと出会い、高校受験に向けて、進学塾に通いはじめるのだった。

 はたして碇石の恋愛と進路はうまくいくのだろうか。と、普通なら進んで行ってもいいプロットだけれども、物語は逆の方向に進む。少年院に入っていたはずの後輩、乱太郎が帰ってきたことから、宇都宮と高見沢に火の粉が降りかかり、それに対してどうリアクションをとるべきか。更正することの成果ではなく、不良少年の友情とプライドに碇石の心は動かされていくのだ。まあ、ヤンキーって根は正直だし欺瞞が大嫌いだよね、的な言説のヴァリエーションだと受け取られてしまいかねないあたりは弱く、世間に規定されたレールを逸れることこそが若さであり、反抗だと言わんばかりの結末は、いささか古くさく見えもする。

 第一話、突然勉強に励みだした碇石のことを高見沢が〈え!? 碇石 桜並高校受けんの!? ムリに決まってんじゃん あそこ偏差値70だろ!? 俺ら 益中生の進路は益垣高校か ちりめん工場って決まってんだから!!〉と言っているが、正直なところ、そちらに流れてしまう方が、彼らの将来にとっては規定の路線であって、安易なのではないか。こうした問いに答えられるだけの結末が用意されていないため、ヤンキーに好意的なステレオタイプにとどまってしまっているのだ。

 もちろん、作者が不良少年に託しているのは青春のイメージなのかもしれない。たとえ俗悪であろうとも、後先を省みないことでしか得られない輝きなのかもしれない。が、あえて、なのだろう。主人公の内面を外から、つまりは他の登場人物から、あるいは読者から覗けないものにしたせいで、傍迷惑な小僧たちが好き勝手にやってらあ、以上の印象をもたらさないのが、悔しい。

 しかしながら第三話、狂犬のようなモードを碇石が取り戻すクライマックスに入って、それまでのフラストレーションが思い切りのよいカタルシスに転換する。その様式美にも似た構成には、ヤンキーを題材としたがゆえの魅力が溢れる。乱太郎のおっかなさがラストで弱まるのは、いくらかもったいない気がするものの、変節を良しとしなかった碇石との対照を、良くも悪くも、浮き彫りにしているのだと思う。
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