ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年05月30日
 放課後関ヶ原 1 (プリンセスコミックスデラックス)

 うんうん、やっぱりこれ、好きである。歴史の知識をホモ・ソーシャルな関係やユーモラスなプロットに置き換えることでギャグ化する、という手法は、ある意味で現代的だといえるが、阿部川キネコの『放課後関ヶ原』の1巻は、とかく悪のりの部分にかかるドライヴを、これでもか、というほどに徹底しながら、半笑いの白けムードを払拭してみせるのだった。もしかしたらテレビ番組の『戦国鍋TV』にニアなアプローチだと思うし、そこがまた好きである。

 ごく普通の高校生であるにもかかわらず、なぜか〈前世が武将だった者たちが共に学び戦う戦場(スクール)である〉戦立関ヶ原学園に転校してきた小松右京は、有名武将の生まれ変わりと次々に遭遇するのだったが、しかしそれは同時に一癖も二癖もある彼らの言動に振り回されることでもあった。だいたい、学園内のルールにしても滅茶苦茶なものばっかりじゃねえか。かくして主人公に降りかかる災難が、バトルからロマンスまで、各種のマンガ表現をパロディとするなかに描かれていくのだ。

 何より、掲載誌である『月刊プリンセス』の愛読者を「プリジェンヌ」と呼び、作外(メタ・レベル)への目配せをふんだんに盛り込むことで、えげつなさのリミットをオフにしているのが、最大の成果だろう。それによって暴走と喩えられるような幅の広いボケが繰り広げられる。まさかタイトルの元ネタはかつて『月刊プリンセス』に発表されていた水城せとなの『放課後保健室』なのかもしれないし。

 前世が不明なため流浪人扱いされる=大勢の武将に興味を抱かれてスカウトされる右京の境遇は自分探しのパロディになっているのだけれども、それを含め、なぜこんな設定になっているのかが、学園もののフォーマットと不自然なく結び付いている点は、強い。いやむしろ、前世を素質とする生徒の収容は、学園ものにおいて、一つの伝統ですらあるのだったが、そこからイレギュラーな展開に持っていく鉄腕ぶり、惚れ惚れとしてしまうはっちゃけぶりが、たいへん痛快なんだよね、なんだった。
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2011年05月28日
 報道ギャングABSURD! 1 (プレイコミック シリーズ)

 狂気とハードボイルドは、米原秀幸というマンガ家にとって、初期の頃より得意としていたパフォーマンスだろう。『箕輪道伝説』において、学園もの、不良マンガのフォーマットに落とし込まれたそれは、続く『ウダウダやってるヒマはねェ!』で、病んだ魂を抱えながらもパワフルに生きようとする少年たちの群像へと移し換えられた。15年後、あの少年たちはどうしているのだろうか。といえば、ここにいた。『ウダウダやってるヒマはねェ!』でワキを飾った人物が、ジャーナリズムを武器に、この社会の暗部を切り出していく姿を描いているのが、『報道ギャングABSURD(アブサード)!』の1巻である。

 Jソンこと松郷勇は働き盛り、妻子を得、幸せな生活を送っていたはずだったが、実際には会社をリストラされたことを家族に言えず、しがなく公園で時間を潰す毎日を送っていた。しかしまさか、高校時代の後輩である蘭岳四郎に再会したせいで、予期せぬ事態に巻き込まれてしまう。アンダーグラウンドのジャーナリストであり、業界ではABSURD(滅茶苦茶野郎)と呼ばれる四郎から、元々はヴィデオ・カメラの営業をしていた実績を買われたJソンは、無理やり彼の仕事を手伝わされながら、次々とアンタッチャブルな領域に足を踏み入れるのだった。

 掲載が青年誌にあたる『プレイコミック』ということもあって、中年男性の再生を基本的なプロットに置いていると見ていいのだけれど、一方でやはり、どれだけの年齢を重ねたところで決して去勢されないアウトローの大胆な行動に、作者のイメージはよく出ていると思う。前者はJソンのパーソナリティに、後者は四郎のパーソナリティに、分担されており、ある種の対照が、二人の人間性に厚みを出すものとなっている。無論、バディものとしてのドラマもそこに生まれているわけだ。

 ところで米原は、この『報道ギャングABSURD!』と同時に『ヤングチャンピオン』で『Vision NOA』という作品を発表している。そちらではなんと『ウダウダやってるヒマはねェ!』の主人公であった島田亜輝の息子であるらしい島田乃亜をメインに据えた展開が進んでいて、赤城直巳や鬼場洋平などの懐かしい面々が登場しているのだったが、どちらも凶悪犯罪に関わることを不可避なテーマに置いている以上、いずれ物語がクロスオーヴァーもしくはニアミスする可能性を孕む。いやまあ、そうなったらそうなったで楽しみなのは、必ずしも同窓会的な意味合いのみではない(不良マンガの文脈においては重要なイベントだが、しかし)。おそらくは、さまざまな狂気がハードボイルドの世界で一点に重なり合う。その瞬間を目の当たりにするだろうと予感させるからなのである。

・その他米原秀幸に関する文章
 『風が如く』8巻について→こちら
 『南風!BunBun』1話について→こちら
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2011年05月24日
 ギャングキング 21巻 (ヤングキングコミックス)

 やはり柳内大樹の本領は、ポジティヴ馬鹿を魅力的に描くこと、にあると思う。『ギャングキング』の21巻である。いささかテーマ主義的であった「ワークマンズ編」やジミーとピンコによる二度目の対戦を経、作品は再び学園レベルのロマン(国盗り合戦、軍記もの)に回帰する。しかし物語はいったん主人公であるジミーと薔薇学を離れていき、舞台をサワ校(小金沢高校)に移す。そこで登場し、活躍するのが、バンコと旧知のハマーであって、奴のすばらしきポジティヴ馬鹿シンキングっぷりに作者の持ち味がよく出ているのだった。

 たとえば、ハマーの屈託のなさを前にバンコはこう思う。〈……… そうだ……… 忘れてたぜ…… 俺の中で…… 昔から……… 今まで出会った……… 誰よりもデケエと思った人間…… マッスルくんと……… 竜針さん………(引用者注・ジミーのカットが入る)……………… そして…… 誰よりも当たり前に生きている……… おまえだったな… ハマー……〉と、つまりは『ギャングキング』の良心とでもいうべき人物たちに匹敵するだけのカリスマが彼に備わっていることを暗示しているのだったが、いや実際にハマーの決してふてくさらない態度は、ここ最近続いていたダウナーな展開を払拭している。

 そしてもしかすればそれは、ジミーの存在感からじょじょに失われつつあったものでもある。またおそらく、ジミーと距離を置こうとしているバンコが再会したハマーに見出したのも、それであろう。

 テーマ主義的なアプローチにおいて柳内がキーとしていたのは、過去にもさんざん述べてきたとおり、想像力、の問題である。この世界が不可避に暴力を孕んでいるとするとしたら、想像力を張り巡らすことでしか人は悲劇と渡り合えないのではないか。想像力を手放さないことはア・プリオリな不幸を生き抜いていくことでもある。このような解釈が可能である認識はまず、ギャングの王を目指すピンコの言動に顕著であったといえる。とくに20巻でピンコがジミーに述べている主張は総合的だ。

 いわく〈どいつもこいつも………… 『現実的に守りきれない』という理屈だけだっ… イメージ(想像)がたりないんだ……! おまえは…… 人間の持つ… 本当の“狂気”を知ってるか……? 俺は知ってる……… つもりだ……! ………アウシュビッツがいい例だ… ボタン一つで何十人も殺せるガス室… 鼻歌まじりで子供を殺す奴… 死んだ者の金歯を抜いて金に換える奴…… まるで羽毛布団のように死んだ者の髪の毛を集めて作られた布団… 銃を向けられ『助けてくれ 撃たないでくれ』と懇願する者の目を見て笑いながら殺せる奴…… そんなの信じられるか……? けどそれは… ついこの間までパン屋だったオヤジや教師や学生だった奴等が…… 戦争勃発とヒトラーというカリスマの出現により実際に行われていたことだ…… そんな普通の人間だった奴等が…… なぜそんな残酷なことができるように変わっちまったかわかるか……? それは人間がイメージを遮断できる生き物だからだ… 自分の精神を守るためのイメージの遮断…… その“イメージ(想像)の遮断”こそが…… すべての自分自身の『不幸』に繋がってるとも知らずに……〉

 イメージを遮断してはいけない。想像力を捨ててはいけない。はたして自分たちが暴力団と同等の扱いを受けることも厭わぬピンコとチーム「ジャスティス」の脅威が正当化されるかどうかの判断はつきかねるが、その倫理に全くの説得力がないわけではなかった。一方で注意しておきたいのは、ピンコに代表されている想像力はあくまでも、暗いもの、としてあらわれていることにほかならない。先の場面で、ジミーに〈…… そこまでわかってて……… なんでおまえは不幸なんだ………?〉と問われたピンコが〈……… じゃあ俺は… イメージするのがあまりうまくないのかもな…〉と答えているのを看過してはならない。

 もしも想像力に、暗いもの、と、明るいもの、があるとすれば、『ギャングキング』のなかで、前者はピンコに象徴されている。では、後者に見られるべきは誰か、といったところで、もちろん本来なら主人公のジミーが引き受けてもよさそうな役割を代替することになったのが、たぶんハマーというカリスマである。

 『ギャングキング オフィシャルキャラクターブック UNDERCOVER』に収められた田中聖との対談で、田中が好きな言葉に〈やっぱり「イメージしろよ」かな〉と挙げているのを受け、柳内はハマーについて以下のような発言をしている。〈ああ…。「イメージはリアルを超える」って最近はホントそう思ってる。ハマーってキャラクターは、ヒドイ目に遭ってるからすごいんじゃなくて、イメージする力が強いんだよね。俺の周りにもいるんだけど、ヒドイ目に遭ってもないのに、人の辛いことが誰よりも理解できる人や、優しい人を見ると、「イメージにはかなわねえな」って思う〉

 そこにはピンコとハマーの差異がはっきり浮かび上がっているように思う。要は、〈ヒドイ目に遭ってるからすごい〉イメージを持てているのがピンコだとしたら、〈ヒドイ目に遭ってもないのに〉イメージを強く保てているのがハマーなのであって、暗い想像力と明るい想像力の違いも、その一点で区別されている。かつて恋人が強姦(レイプ)されそうになったせいで社会への懐疑を抱いたピンコと、見ず知らずの女性が強姦(レイプ)されそうになっているのを助けたことから夢を追われたハマーの存在は、ある種の対照になっているのだろう。

 当然、おいおい、じゃあジミーの役割は何なんだよ、という話ではあるけれど、以前の段階を、想像力を持たない者と想像力を持つ者のあいだを行き来する存在だったとするのであれば、現時点では、暗い想像力と明るい想像力を行き来する存在になっている、と仮定することがさしあたりはできるし、最近のジミーときたらどうも中途半端だよね、と思われてしまうのも結局はそのためであった。

 20巻について→こちら
 19巻について→こちら
 18巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一) 
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『新説!さかもっちゃん』1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
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2011年05月21日
 WHITE(初回限定盤)(DVD付) WHITE(通常盤/初回プレス仕様) WHITE

 我々は一人でいるかぎりは孤独だが一緒にいられるなら孤独ではない。単純な真理は、それが単純であればあるほど、心を励ますことができるし、ときに傷つけたりもする。なぜならば、手を取り合える距離や関係を常に持てるわけではないからだ。しかし君を信じられること、そして君が信じてくれることからは、たとえ共にいられなくとも不安に負けないだけの強さが分けられてくる。こう、KAT-TUNの通算15枚目となるシングル『WHITE』の通常盤(初回プレス)の3曲目に収められた「勇気の花」は教えているかのようだった。

 好きな楽曲であるし、実際に今回のなかでもとくにすぐれたナンバーであろう。まず何よりそこに託されたメッセージが、KAT-TUNというグループの現在を通し、かけがえのないイメージを得ているところに大きな魅力を感じられるのだけれども、もちろんのことそれは、歌詞やメロディにあてられている詩情を、メンバー5人のヴォーカルが、余さずにすくい上げているためであって、エモーショナルと言い換えてもいいデリケートな揺らぎが、せつなさを決して暗いものとはしていない点に自然と胸を打たれる。

 あくまでも直感で述べさせてもらうと、「勇気の花」には『喜びの歌』(07年)にカップリングされていた「Your side」を彷彿させる部分があると思う。無論、当時の状況を考えるに当初は5人編成で想定されていた可能性のある「Your side」と現実的に5人編成で制作された「勇気の花」とのあいだに何かしらの近づきが立ち現れていることは、ある種の必然だといえるかもしれない。スローなバラードとは異なったリズムとテンポに三日月や雨音が抱くのにも似たせつなさが刻まれているのだったが、そのとき、「勇気の花」においては、イントロに端を発して鳴り響くピアノのループが、静かな、しかし確かな孤独をバック・グラウンドに用意していくのである。

 ああ、だからこそ、田中くんによって〈もし君が笑うことを忘れたなら・そばに行って隣・ピエロのふりではしゃぐ〉と、おそらくは彼のペルソナにかけてつくられたフレーズが歌われる出だしには、もうそれだけで痛みに喩えられる印象が備わっているのではなかったか。だがすでに述べたとおり、「勇気の花」はやがて、せつなさが悲しみに止まらない場所へと物語を運ぶ。

 コーラス以外のパートは、田中くんからはじまって、上田くん、亀梨くん、中丸くん、田口くん、の5人にけっこうはっきり割り振られている。5人が入れ替わりながら、勘所を押さえていく。ここで重要なのは、それまで各人が一人で負っていたいくつもの願い、祈りが、コーラスに至って重なり、ユニゾンを為していく楽曲の構成であって、あの特徴的なピアノのループが消えると同時に〈聞こえるかい?〉という問いかけ、そして〈WE WILL MAKE YOU SMILE 笑って・少しずつ優しさ集めたら・ほら、勇気の花が咲く・そう、君のため・そう、遠くまで・届くように・笑顔(はな)を咲かそう〉という励まし、支えをもたらしてくることだ。

 正直な話、現在の、つまりは5人編成のKAT-TUNのヴォーカルは、上手い下手とは完全にべつのレベルで、線が細い。それが全員の声質に起因する問題である以上は免れようがないのだったが、むしろその線の細さが「勇気の花」では、インパクトの弱さを覚えさせるものではなく、一人であることの寂しさをよく浮かび上がらせる役割を果たしているので、ついにユニゾンの厚みを得た瞬間、正しく一度目のコーラスの直前に亀梨くんが懸命なファルセットで〈独りじゃないよ・仲間がいるよ・立ち上がれ今・振り向かずに〉と表明しているのを受けるのに相応しいハーモニーが生まれる。

 はたして「勇気の花」はラヴ・ソングであろうか。いや、おそらくはラヴ・ソングでもあるだろう。一方で「WE」の主語で括られる詩情には、たとえば「Your side」における「君と俺」に限定された物語とはまた違う親しさ、慈しみ、せつなさの肯定形がシェアされていると確かに実感される。そう、〈そう、君のため・そう、遠くまで・届くように・笑顔(はな)を咲かそう〉すべての伴奏が鳴り止み、透明でいて誠実な響きとして残される決心は、他人に譲るのみでは済まされない。間違いなく、我々一人一人のものである。

 個人的には、リード・トラックにあたる「WHITE」よりも全部の仕様の2曲目に入っている「PERFECT」の方に好意を抱いた。どちらも現代的なジャニーズ・ポップスのアップデートなヴァージョンだといえるけれども、「WHITE」では、パワフルなドラムと(事前の情報ではヌーノ・ベッテンコートが担当していると聞いていた)ハード・ロック調のギターが、本来ならKAT-TUNの持ち味にベストでマッチするはずのそれらが、楽曲のアレンジに対してはマッチしていないせいか、いささか大げさ、そぐわっていないと思われてしまう。比べるに「PERFECT」の勢いづいたBPMが、春の色に合わせたかのような爽やかすら追い抜いていくそのはじけっぷりには、KAT-TUNのキャリアの連続性が紛れもなく汲まれている。

 もっとも、通常盤の3曲目に置かれた「SILENCE」の、ゴージャスなヘヴィ・メタルこそが、おそらくは従来のカラーに一番近しい。だいたい、今どきだよ。〈GOIN' DANGEROUS GOIN' DANGEROUS〉と繰り返してさまになるグループがKAT-TUNの他にどれだけいるっていうんだ。もしかすれば「Going!」よりもゴーインしてらあ、であろう。

・その他KAT-TUNに関する文章
 「CHANGE UR WORLD」について→こちら
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2011年05月18日
 メルカトルかく語りき (講談社ノベルス)

 さすがはメルカトル鮎であって、常人には及びもつかないことを易々とやってのけるわけだ。あるいはこう言い換えてもいい。さすがは麻耶雄嵩、それをやったらお終いだよ以上のことを平然とやりおおせてしまうのだった。感動も感嘆もいっさいない世界がいかにひどいものであるかを覗き見せられることにもう、にやにや、とするよりほかない。『メルカトルかく語りき』は、名探偵ならぬ銘探偵のメルカトル鮎と推理小説家の美袋三条がコンビを組み、数々のミステリに挑んでいくシリーズの、最新の事件簿にあたる。無論、それは次のようにも言い換えられるだろう。『メルカトルかく語りき』は、美袋という常人がメルカトルという奇人に振り回されながら散々な目に遭わさてしまう、その記録の最新ヴァージョンである。この短編集において、おそらくは唯一、『メルカトルかく語りき』なる題名だけが出鱈目ではない。つまり、聞き手であるところの美袋に対して語り手であるところのメルカトルの圧倒的な優位が、次々と明るみに出される。そして、美袋とメルカトルの対照は、正しく読み手と作者の関係に置き換えられる。実際、多くのパートで語り手の役割をつとめているのは美袋なのだったが、それはあくまでも主観を負わされているにすぎず、眼前の物語に対して圧倒的に不利な立場にしか回れない、という意味で、美袋と読み手は、等しく、無力さを舐めるばかり。収められている五篇のうち、「死人を起こす」と「九州旅行」、「収束」の三つは初出の段階で目を通していたのだけれど、あらためて読み返してみても、生真面目にトリックを見破ろうとすれば結末を恨みたくなるような仕掛けを徹底している。しかしまあ、そこが痛快でもあり、最大の魅力でもあるのだから、なんて迷惑な話なんだか。こう思わされるなかでも、とくに好きなのは「収束」である。少しほど『夏と冬の奏鳴曲』を彷彿とさせるシチュエーションを用意しながら、すべてがせこく小さな動機に陥っていき、合理的に不条理を迎える物語は、完全にネジの一つや二つ、外れている。もしかしたら最初からネジなんて締められていないのかもしれない。いや、それならまだまし。じつは穴なんかどこにもないのに無理やりネジを締めなければならない、と作者の自信たっぷりな調子に乗せられてしまっているだけなのかもしれない。いっけん青春小説をイメージさせる苦さの「死人を起こす」にしたって、メルカトルが登場したとたん、ぶち壊しになる。当然、「答えのない絵本」や「密室荘」に関しても一筋縄ではいかない。ともすればネタを割ってしまうことになるのだが、犯人探しは絶対によしておけよ、あらかじめ忠告したくなる裏切りのみが、満載してある。

・その他麻耶雄嵩に関する文章
 『神様ゲーム』について→こちら
 『蛍』について→こちら
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2011年05月14日
 trip (講談社コミックスフレンド B)

 それ以外の余剰を省き、あくまでも一対一の関係を切り取ってみせること。この『trip(トリップ)』には桜井まちこの魅力的な部分がよく出ているとは思う。しごく簡単に述べてしまうなら、内面の壊れた青年に声をかけられた女子高生が困難な恋愛に傷つく、というだけの展開が繰り広げられているにすぎないし、当然そこに目覚ましいほどの物語や事件を見つけるのは難しいのだったが、しかし作中人物たちのちょっとした表情であったり仕草であったり、本質的には何の解決も得ていないはずの、ラストの、そのカットから、鮮やかな印象が染み出しているところに作者の本領が発揮されているのは間違いない。確かに〈好きな人を想って想われる 至極プレーンな恋愛を夢見ていた〉つもりが、たった一つの出会いを経、〈会えなくなるくらいなら 想うだけでいい〉このような結論に行き着くまでの心の移動は、たわいないのかもしれないけれど、それを繊細な手つきで描いているなかに深い余韻が残されているのである。そして、雪、だ。「冬の塵」や『17[じゅうなな]』の読み手にしたら、静かに雪の降り積もっていく光景には、黒と白のしんしんとした色合いにすべてが消え入っていくようなイメージには、たいへん忘れがたいものがあるのであって、『trip』の結末においても、夜の闇が、まばゆい朝が、同様のすぐれた叙情を浮かび上がらせている。寂しく鳴り続ける携帯電話を置き去りにし、槇と慎太がどうなってしまったのかは知らない。二人に必ずしも幸福が訪れたとは考えられない。だが、目の前に存在する相手を他の誰よりも真に望んでいると信じられるとき、気持ちはこう動く。そのせつなさ、十分に一般化できるそのせつなさは、クリアな輝きとなってあらわれていた。

・その他桜井まちこに関する文章
 『17[じゅうなな]』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『minima!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
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2011年05月10日
 乱飛乱外(9) (シリウスコミックス)

 さすがにもういい年齢であるから、所謂ハーレム型のフィクションに胸をときめかせたりすることもないのだったが、この田中ほさなの『乱飛乱外』に関しては、素直に、すごく好きだ、と言えるのはつまり、ストーリーやテーマが、男の子の魅力とは何か、という問いをぐるりとめぐるなかに、エモーショナルでいて確かな手応えを残せているからなのだと思う。

 そしてそのことが、フォーマットの必要上、次々に新しい女性の人物を出さなければならないため、回り道をふんだんに用意せざるをえないにもかかわらず、作品の核を行方不明にはしていない。方向性を見失わないまま、ファン・サービスを注ぎ続けていたのも立派であるし、実際、最終9巻のエンディングには、たいへん充実した印象が備わっているじゃんね、であろう。

 長い旅の結末は、主人公である雷蔵と強敵である星眼がメイン・ヒロインにあたるかがりの争奪戦を繰り広げることによって迎えられていく。雷蔵と星眼の対照を通じ、男の子の魅力とは何か、が極めて明瞭に提出されているのである。そのとき重要なのは、各人における国盗り合戦、軍記ものレベルの野望が、各人における身の丈に合った正義の、あくまでも下位に回されていることだ。すなわち、意中であるような女性の歓心をどうすれば得られるか、に物語のプライオリティが置かれている。

 当然それは、男の子の魅力とは何か、の問いに言い換えられるのだけれど、ふつう、星眼みたいなライヴァルが主人公の前に立ちはだかり、バトルでしか勝敗を分けられぬ局面に入っていけば、巨大な使命が浮上し、何よりも優先されそうな展開になりがちだが、そうなってはいないところに注意しておきたい。

 男の子の魅力とは何か、という解答が必ずしも大義を果たすことで達成されるものではなくなっているのである。勝者と敗者の違いもそこで分けられていく。当初のインパクトからしたら、ここにきて星眼が弱体化したと受け取れるふしもあるにはあるが、ストーリーやテーマを考慮するのであれば、獲得し続ける者である雷蔵と喪失し続ける者である星眼の差が如実になった結果、そのように見えると解釈すべきだろう。

 恒久平和という巨大な使命のために多くの犠牲を惜しまない星眼は、やはり喪失し続ける者でしかないのだ。星眼が、かがりに執着するのは、ある意味でその空漠を脱するのに必要とされた目的だからなのであって、クライマックスに至り、雷蔵との入れ替わりが試みられるのは、喪失し続ける者が獲得し続ける者への反転を叶えるのに適した手段であるからにほかならない。

 ではしかし、雷蔵のいったいどこが獲得し続ける者としての資格に合致しているのか。もちろんそれは、男の子の魅力とは何か、と問うてみせることと同義であって、おそらくは誠実さにすべてが由来していることは、星眼に向けられるかがりの懐疑あるいは雷蔵に向けられるかがりの信頼に述べられている。すなわち彼女にとっての「との」は〈いつでも女子に誠実で――そのために身体を張って〉いたのであり〈こんな不実な方ではなかった!!!〉のだった。

 誠実さとは、一対一の関係を、見ると見られるの立場に区分したさい、前者が後者に与える評価だといえる。だが同時に、後者から前者への働きかけでもある。かがりの特殊能力である「神体合」は正しくその具体的な実用例になっていよう。誠実さが破られ、自他のフェアネスが歪められてしまったとき、「神体合」は「邪体合」に裏返り、術者に破滅をもたらすのである。

 そしてそれを救うことができるのもまた誠実さであった。どうしてかがりは、「神体合」の念者として、星眼ではなく、雷蔵を選んだのか。これはそのまま、男の子の魅力とは何か、を代弁するような展開を運んでくることになる。すでにいったとおり、誠実さをその解答に当てはめられるわけだが、一方で雷蔵の誠実さはどこからやって来ているのか。成りゆき、かがりと対峙しなければならなくなってしまう彼のせつなさに『乱飛乱外』の梗概が印される。

 いわく〈なんで失くすまで気が付かなかった? 初めて会った時から オレに向けてくれたあのまっすぐなまなざしこそが―― 里で誰からも相手にされてなかったこのオレに― 人を好きになる心を 人と関わる勇気を 与えてくれたんじゃなかったのか 見られることで 強くなってたのは オレの方だったのに――〉

 結局のところ、誠実さは個人が自動的に生成しうるものではない。互いに関与し合う個人と個人のあいだで手渡し、強要するのではなく、共有されるような心象なのだと思う。たとえハーレム型のフィクションだったとしてもそれが普遍的なものであることを期待する以上は変わらないであって欲しい。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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2011年05月08日
 やまちち(1) (AKITA COMICS DELUXE)

 とにかく二話目が最高だし、おそらくは傑作だろう。しかし誤解を与えてはいけないのだったが、それはあくまでも二話目(第2話「水に流して」)に関してのみ言っているのであって、他のエピソードについては、まあね、程度の感想しか持たない。では、二話目と二話目以外のエピソードでは一体何が異なっているのか。これを述べることはそのまま吉沢緑時『やまちち』1巻の読みどころに触れることになると思われる。

 基本、このギャグ・マンガのギャグは、ディスコミュニケーションを患った人間の一方的な発信がはからずもコミュニケーションに届いてしまう、という意図せざる状況の可笑しさによっている。つまり、それが最もよく出ているのが二話目なのである。

 ヒロインのどかは、母親の事業が安定するまで長野に住んでいる祖母のもとに預けられることになった。小学生の身にしてみれば、それはたいへん寂しいことだ。また、都会にいた頃から内気な性格のために友達がいなかった彼女が新しい環境に不安を覚えるのも仕方がない。そこにつけ込んでくるのが妖怪のやまちちである。マイナーな妖怪であるやまちちは、インターネットで自分の検索数=知名度を上げるべく、のどかを利用することを企むのだった。

 のどかだけがやまちちの姿を見られる。したがって、やまちちだけがのどかに積極的なコミットメントを見せる。この関係性が『やまちち』の本質とコンセプトを支えているといえる。のどかとやまちちの繋がりは、社会からつまはじきにされている存在同士であるという点に由来しているのであり、両者と共同体との対照がある種のギャップを浮かび上がらせながら、そのギャップをのどかとやまちちのコンビネーションがエスカレートさせていくなかにギャグの色合いが強まっているのだ。

 換言するなら、のどかとやまちちのコンビネーションは異化効果に近しい役割を持っているのである。そして、両者の立ち位置をプレゼンテーションするにとどまらないそのコンビネーションに『やまちち』ならではの魅力が求められるだろう。

 二話目がとくにすぐれているのは、上記してきた条件を十分に満たしているためにほかならないのだけれど、いやまあ、いじけたまどかの機嫌をいやいや取ろうとするやまちちのしようもなさが、とにかく素晴らしいではないか。無論、学校裏サイトを覗いてしまったばっかりに痛手を受けてしまったまどかの暗い過去を前提にしているからこそ、やまちちのしようもなさは極めて明るいものとして生きてくるのだし、やまちちの下品でどうしようもないネタのいっそ清々しく感じられることが、所謂トラウマを題材にしたエンターテイメントよりも一段上のレベルに作品を引き上げているのは間違いない。

 すなわち、その相互作用を高く買える、と言いたい。しかるに二話目以外のエピソードでは、それが弱い。作者の過去作『ざんねんなこ、のんちゃん』と同様、自意識が壊れた人間と周囲のリアクションをデフォルメしているにすぎない。二話目の可笑しさのみがそこから先へ少し進んでいった場所にある。
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2011年05月06日
 Chariot: Long Live

 いや、すげかったね。ときにハイ・エネジーなパッションは胸をすかっとさせてくれるのだったが、そんな気分に久々なれたのはつまり、昨日(5月5日)に渋谷CYCLONEでジョージア州アトランタ出身のラウド・ロック・バンド、THE CHARIOTのライヴを観たからなのだけれど、いや、これがすごかったぜ、という話である。

 豪速球のサウンドが、アルバムのヴァージョンよりもさらに激しく、アグレッシヴにプレイされるのは当然のこと、その荒々しさを体感のレベルに直接押し上げ、一層引き立てながら、軒並みならぬインパクトをもたらしていったのは、メンバー5人の、とにかく全員が全員、自分自身の自己アピールを前面に繰り広げているかのようなアジテーションでありパフォーマンスであろう。

 ステージ狭しどころか、ギターやベースが入れ替わりでステージを飛び出し、観客のすぐそばで楽器をぶんぶん振り回すその見境のなさ、フォーマットの枠という枠を取っ払っていく我が儘なダイナミズムからもう目が離せない。薄汚いファッション、フロントマンが小太りなのも含め、動きが止まった瞬間のルックスは決して映えていない。しかし楽曲がけたたましく演奏されるなか、あたり構わずはじけまくる姿には、こいつら只者じゃねえな、と唸らされるほどのポテンシャルが、まず間違いなく、宿されていた。

 眼前の光景に吹っ飛ばされる。シャープでいてパワフルなドラム、びりびり響くギターのリフ、フィードバックのノイズに耳を奪われてしまう。そして、必死の叫びでもって畳み掛けてくるヴォーカルが、重低音のグルーヴと競り合い、いっけん野放図にも思われる構成を何ともストイックな印象へと裏返してみせるのだった。

 全てのネジが超フル回転の状態で怒濤のごとくライヴは進むのだけれど、衝動、と簡単には言われない。またありきたりに、混沌、とは形容できない魅力が、THE CHARIOTの背骨にはあると思う。

 ラストのナンバーで大盛り上がりからエンディングに向かう最中のあの熱狂ときたら。実に百戦錬磨で千載一遇なものだった。ベースは勢い会場の出口にまで行きかけるし、片方のギターは暴れまくり、スピーカーの上によじ登る。まだドラムが激しいアタックを叩き出しているにもかかわらず、ヴォーカルはハイ・ハットやらをステージのワキに片付けていく始末である。はちゃめちゃだ。

 予測不能にも程度がある。だがもちろん、そこが素晴らしかったんじゃねえか、と述べるよりほかない。常軌を逸しかねないアクションの一つ一つがアーティストの個性に連結され、ウルトラ級の度合いに達していったときの興奮は正しく期待以上のものであって、いや、すげかったね。まさかポジティヴですらある気分がとどめを刺す。

 『LONG LIVE』について→こちら

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2011年05月05日
 おはようおかえり(1) (モーニングKC)

 少女マンガの出身ではあるものの、鳥飼茜の作風にはどこか、山崎紗也夏や安野モヨコに通じるところがあるのだから、活動の場をヤング誌に移そうが大きな違和感はないのであって、その、デリケートでありつつタフな内面同士をいかにコミュニケイトさせるか、に足場を置いたアプローチは『おはようおかえり』の1巻でも十分に冴えている。

 現代の京都を舞台にした作品である。二十五歳の青年、堂本一保と彼の二人の姉、三十一歳の奈保子と二十八歳の理保子を中心に、面倒くさい手続きを踏みながら、しかし軽やかな足取りで進むのも忘れず、コミカルに体温のよく出た人間模様が織り成されていく。家族、会社、恋人、という半径の狭い世界を切り出し、そこにある実感を読みでに変換しているのだった。

 無論、地に足を着けようとする暮らしにおいて食事のシーンは何よりも重要だし、社会へ出たところに生活のにおいを溢れさせているが、やはり、この作者の良さ、このマンガの良さは、主体と主体とが、それらが別個の主体であるかぎり、こうも簡単にすれ違ってしまう、その決してはかばかしくは事が運ばない様子に顕著であろうと思う。

 たとえば一保と恋人である女子大生の有里恵の、わだかまり、心の距離の、ありふれているがゆえに説得力の高い描写を見られたい。ほんの少し前までどんな不安もワキに除けられたはずの関係が、ちょっとした衝突でこんがらがり、いつの間にやら当ての外れた場所にと流されていってしまう。北山というアグレッシヴな青年の横槍と一保の受け身な態度とを比べ、いわゆる肉食系男子と草食系男子の対照に構図を落とし込むことも可能だけれど、どうあっても他人の気持ちだけは自分勝手に動かせない、こうした躓きにこそ一般化して頷けるだけの価値が備わっているのである。

 おはよう、と言い、おかえり、と言う。おかえり、と言い、いただきます、と言える。それはとてもささやかだが、幸福な信頼だろう。ちっぽけでありながら、日常の確かさを正しく伝える触れ合いだろう。機微のなかにその豊かさがたっぷり詰められている。

・その他鳥飼茜に関する文章
 「家出娘」について→こちら
 『わかってないのはわたしだけ』について→こちら
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