ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2011年04月20日
 熱のこもったセリフ回しでもって作中人物の体温をあらかた説明してしまう手法を、もしも『MIXIM☆11』の弱点だとするのであれば、それは安西信行に固有のものとして見るより、師匠格にあたる藤田和日郎や吉田聡にまで敷衍されるべき問題であろう。しかしながら、すでに藤田や吉田が少年性のロマンティシズムからは降りてしまった(かのように感じられる)現在、その手法を通じ、なおもガッツあふれる展開を繰り広げているところに安西の良さ、ふんばりを認められたいのである。

 そして『MIXIM☆11』がこの12巻で完結した。少年マンガのジャンルにおいては、決して長い作品ではないものの、当初の物語からしたら、だいぶ矛先の違った場所に着地したなあ、という印象を抱くのは、おそらく主要な作中人物の役割が、前から出ている者よりも後から出てきた者のほうが活躍の機会を多く与えられてしまうため、必ずしも一貫していないと受け取れるあたりに由来していたと思う。反面、なんで男の子は女の子を守らなければいけないのか、なんで男の子は一番になることを目指しながら競い合うのか、なんで男の子は幾人もの仲間とつるみたがるのか、こうしたテーマの明確性を欠くことはほとんどなかった。

 終局では、各々方針の異なった男の子の意地と意地とを懸けて、ついに最強のライヴァルであるパンドラと主人公の祭壱松とが決戦を果たす。ここで両者のスタンスはあらかた熱のこもったセリフ回しでもって解説されているといってしまってよい。つまりは〈仲間の為? 息子の為? そんなちっぽけな大義の為に!! 闘う事も死ぬ事もできんわ!!〉と圧倒的な優位を述べるパンドラに対し、壱松が〈ちっぽけ…!? 小せえだとォ――っ!!? その言葉取り消せ!!! パンドラ!!!! 大事な奴の為 戦う事は小さくなんかねえんだ!!! オレ達が証明してやる!!!!〉という反論を試みる、それがバトルの勝敗を分けていくのである。

 いや正直なところ、パンドラの〈「人間は必ず裏切る」と思ってちょうどええ。他者に「期待する」事も「期待される」事も必要無い。これは自分の言動に責任を持つ覚悟や!!!〉こうした主張は、ある意味ひじょうに陳腐なのだが、しかしその暗さには、それが特別際立ったものではないがゆえに、共感しやすく、ひどく頷かされる現実味がある。ときに孤独は強烈な説得力になりえるのだ。けれども、少年性のロマンティシズムは決してそこで折れない。折れてはいけない。むしろ、儚く、空しい(かもしれない)トライに全身全霊を捧げることが必ずや幸福への手がかりをもたらす、と信じられるだけの姿形をしていて欲しい。

 ネガティヴなイメージをポジティヴなイメージが打ち砕く。パンドラとの決戦を経、最後に平和を守るべく宇宙に飛び立った壱松の、その眼差しに託されているのは、すべてが不可能だと断定された状況に置かれようが絶対に希望を諦めない、悲しみに心を奪われないほどの輝き、であろう。どんな呪いも断ち切れる。笑顔が笑顔に笑顔を繋いでいくエンディングは、正しく苦しみを踏み越えた先でしか得られない光景を、日常という安らぎのなかに描き出している。

 個人的には序盤の学園を舞台にしていた頃を高く買っていた作品なので、ファンタジー色の濃く出た後半はややつらいのだったが、それでも決めるべきところをきっちり決め、紆余曲折の果てに確かな足跡を残すことはできていると思う。巻末「THANX!!」の欄には吉田聡と藤田和日郎の名が見られる。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2011)
2011年04月18日
 私たちが星座を盗んだ理由 (講談社ノベルス)

 「いなくなった人間のことは、忘れなきゃいけないのよ」

 北山猛邦の短編集『私たちが星座を盗んだ理由』に収められた「終の童話」において重要な意味をなしていく発言であるが、しかしてそれは他の四篇にもテーマの上で大きな重なりを持っているのではないかと思われる。「いなくなった人間のことは、忘れなきゃいけないのよ」というのはつまり、失われてしまったものはもう戻らない、手に入れられなかったものは手に入れられなかったものとしてしか残らない、そのようなせつなさをいかに引き受けるかを、おそらくは問うている。

 本質的には、どの小説も、去っていくもの、損なわれるもの、やがて消えてなくなってしまうもの、を題材にとっていると見なしてよいだろう。少なくとも、物語のなかでエモーショナルなパートを担っているのは、それを激しく思い知らされるような一撃にほかならない。たとえば「終の童話」は、怪物に襲われ、石になってしまった女性を、それでも想い続ける少年の、長い月日を簡潔にしたファンタジーであって、ついに主人公へ委ねられる判断に「いなくなった人間のことは、忘れなきゃいけないのよ」という言葉の深さを考えさせられ、ひじょうに悩ましく、心を動かされる結末を迎えることとなるのである。

 すべての篇で、ミステリの手法は、謎解きの展開とはべつに、とてもシビアな条件を主人公たちに突きつける、かのような構成を用意する。どんでん返し、といって差し支えのない落差が、ラストの段あるいは最後の一行によって生じているのだけれど、そこで得られる驚きとは、現実の救いがたい側面に酷似している。青春のすれ違いを装った「恋煩い」では、あまりにも直接的で誤解のしようもない絶望が最後に投げ掛けられるのだし、作品の舞台そのものが秘密めいた「妖精の学校」にしても、拾った携帯電話から奇妙なコミュニケーションがはじまる「嘘つき紳士」にしても、主人公のポジションは希望の名から程遠いところに置かれていってしまう。

 表題作にあたる「私たちが星座を盗んだ理由」は、幼い頃の誤りが、大人の視点を持つことで改められ、ある種の免罪が訪れてくる。いっけんすれば、やさしさを胸にともす。しかしながら、時間の過ぎゆくことが後悔を洗い流しうるのと同様、時間の過ぎゆくことはまた新しく取り返しのつかない因果関係をもたらす。この痛み、せつなさ。主人公の目の前に現れる無念は、もちろん、具体的な様態は異なれど、誰の身にも間近なものだといえる。ああ、この世界はやり直しのきかないことばかりで溢れているみたいだ。

 「恋煩い」について→こちら
 「妖精の学校」について→こちら

・その他北山猛邦に関する文章
 『密室から黒猫を取り出す方法』について→こちら
 『踊るジョーカー』について→こちら
 『少年検閲官』について→こちら
 『「ギロチン城」殺人事件』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2011)
2011年04月16日
 爆音伝説カブラギ(2) (少年マガジンコミックス)

 周知のとおり、『月刊ヤングマガジン』4月号で佐木飛朗斗と所十三のコンビによる『疾風伝説 特攻の拓外伝〜Early Day's〜』の連載がスタートしている(現在は二話目まで発表されている)が、天羽時貞を主人公に置いたその作品に対する評価をいまいち決めかねてしまうのは、結局のところ、宮沢賢治的な聖性は戦争を止められるか、というテーマをもしももう一度やろうとしているのだとすれば、はたして時計の針を逆に戻していくことにどれだけの意味があるのか、多少の懐疑を挟み込む余地があるからなのだった。無論、意味はある。そう思えるだけの作品になってくれることを今はただ期待するのみである。

 あるいは佐木が『特攻の拓』以降、不良少年をモチーフに、編み続けながら、問い質してきたテーマは、むしろこの、東直輝と組んでいる『爆音伝説カブラギ』に求めるべきであろうか。『特攻の拓』や山田秋太郎との『爆麗音』、そして東との前々作『外天の夏』のその後の世界を直接に描いたマンガであって、桑原真也と組んだ『R-16』でも見られた群像のイメージ、つまり孤独な魂の繋がりを、主人公にあたる鏑木阿丸と桜庭多美牡の結束に重ね合わせてみせた展開を経、この2巻では、一年生の多美牡に裏切られ、威厳を損なったB・R・T(旧獏羅天)への粛正を、かつて獏羅天を破門された風神、雷神、龍神の三鬼龍が開始する。そうしたなかに、暴力に支配された若者のせつなさを描き出していく。

 言うまでもなく、三鬼龍の登場は『Early Day's』とのリンクを不可避に持っている。ヒロシ、キヨシ、天羽の存在を指していた風神、雷神、龍神の異名は、時代が移って、風間柾喜、雷沼雷蔵、そして春馬の別人に代替わりしている。だが、平和な社会における異端のさらなる異端という点においては、伝統を正しく受け継いでいるのだった。しかしながら注意しておきたいのは、天羽時貞に顕著であったような根無し草の不安は、龍神にではなく、多美牡の精神に強く反映されているということだ。これは作品を下るごとに膨張し続ける佐木飛朗斗の宇宙にあっては、まるでタンポポの胞子のごとく、テーマが拡散、新しい芽を伸ばしていることを証明してはいまいか。

 宮沢賢治的な聖性によって戦争を止めようとしたのが『特攻の拓』であったとするのであれば、普遍性を逆さまにすることで決して辿り着けないはずの平和に辿り着こうとしたのが『外天の夏』だったといえる。両者の試みは、その漠然としたエンディングから判断するかぎりにおいて、成功したとは見なし難い。極論するなら、戦争が止められず、平和に辿り着けなかった世界こそが、すなわち『爆音伝説カブラギ』の舞台にほかならないのである。

 さて、そこで爆音小僧の十六代目である鏑木阿丸に課せられた役割とはいったい何か。正直な話、現在の段階ではまだぜんぜんわからねえよ、なのだったが、しかし以前にも述べたとおり、聖蘭高校のクラスメイトはもとより、多美牡を爆音小僧の特攻隊長に引き込み、次第にシンパサイザーを増やしていく彼の活躍には、『特攻の拓』や『外天の夏』とは異なった光が宿されていることだけは確かだ。それが照らした風景のなかにきっと解答は浮かび上がる。

 いやまあ、それにしても変格不条理ミステリ「ゴスロリ探偵 巻島亜芽沙の事件簿」(巻末のおまけマンガのことね)が、ばかばかしくて、好き。たぶんこれ、東のアイディアなんだろうけど、『外天の夏』の設定をギャグにしてしまうこのセンスが、もうちょい本編で生かされてもいいぐらい。

 1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2011)
 アオハライド 1 (マーガレットコミックス)

 多くの場合、学園ものというのは、いかにしてリ・スタートを切るか、で幕を開ける。失敗のすべてはもう過去の出来事にしなければならない。そこから先にたくさんの真新しいチャレンジが待ち受けている。くじけかけ、乗り越え、ひたすら前を向くこと。失われたはずのものもやがて形を変えながら再び目の前に現れうるかもしれない。このような可能性がその後の物語を引っ張ってくるのである。咲坂伊緒の新作『アオハライド』は、その出発点を見るかぎり、正しく学園ものならではの魅力を放つ。

 中学生の頃、双葉と田中はお互い惹かれ合っていたにもかかわらず、ささいな擦れ違いから、気持ちを断念、離ればなれの状況になってしまう。高校一年の生活が終わる頃、双葉は馬淵という男子生徒に田中の面影を見つける。はたして馬淵の正体は田中その人であった。両親が離婚したため、名字を替えていたのである。馬淵洸との思わぬ再会は、しかし吉岡双葉に〈私が変わったように あの頃の田中くんはもういない あの頃には戻れないんだ〉というせつなさをもたらした。

 主軸は、双葉と洸のラヴ・ロマンスであろう。いくつかの試練を前にあらためて心を通い合わせていく二人のプロセスが作品のダイナモとなっている。しかしてそれは、学園という小さな世界を少女や少年が生き直そうとする姿との重なりを持つのであって、この1巻では、中学一年から高校一年の生活のなか、別れていった人びと、新しく出会った人びととの関係をも大きく孕んでいく。

 ヒロインである双葉は、チャーミングなルックスをしているが、異性を苦手とし、また友人たちの嫉妬や反感を買わないように、わざわざがさつな素振りをしている。無論、それは一般化してしまえば、自分を偽るという行為にほかならない。彼女はクラスメイトで女子生徒からは浮いてしまっている槙田悠里を前に〈周りに どう思われても平気なんて得な性格 私だって本当は こういうの付けたいけど 今の私のキャラじゃないしさ〉と思うのだった。すなわち、ある種の抑圧が自分を不自由にしていることに気づいている。そこに止まるのか、あるいは変わっていこうとするのか。こうした分岐が、洸との再会を経たのち、高校二年への進級には託されているといえよう。

 前作『ストロボ・エッジ』においては、蓮や安堂くんといったハンサムでいてナイスな男子生徒が際立っていた作者である。『アオハライド』でも、馬淵洸の存在感には特筆すべきものがある。いやもう、田中くん(洸のことね)、性格にやや難のありそうなところを含め、ひじょうに見せ場が多い。とくに謙虚というより卑屈な双葉に対して〈あんなので気が済むなんて おまえ 安いな / そんなんだから友達との関係も安いんだ / あんなのただの 友達ごっこじゃん / くだらない〉と言い切るシーンが良い。じつに印象的だし、この関係の形成に向けられたシビアな視線は、彼の置かれた環境からやって来ている。両親の離婚や自分の学校の教師である兄とのコミュニケーションに依拠していることが暗示的に描かれている点は看過できない。

 双葉の、洸への呼び名が、以前の「田中くん」から「洸」に変化する場面、あれは洸との関係を新たにしていくうち、彼女の内面が確かに成長したことを象徴している。だからこそ彼女はそれまでの卑屈さを乗り越えられた。友人たちに自分の正直な気持ちを打ち明けることを厭わず、たとえ嫌われてしまっても、こう思えるようになれる。〈歩み寄って それでも無理だった時の事 あの頃は教えてもらわなかったな―― 教わらなかった事を知っていく 割り切る事も強さなんだって 今 知ったよ / 私はあの頃よりはきっと強い〉

 〈無くしてしまったのなら また 作っていけばいい / 次はもっと注意深く 今日からまた 一から作っていく / 始まる〉このような双葉の決意が、洸の働きかけによってもたらされたものであったとすれば、かつての素直さをなくし、いわくありげな表情を浮かべる洸もまた、おぞらくは双葉の働きかけによってべつの顔つきを得ていくに違いない。かくしてリ・スタートの物語は期待に満ちるスタートを切った。

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『ストロボ・エッジ』
  10巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | マンガ(2011)
2011年04月12日
 Empty Days & Sleepless Nights

 米マサチューセッツ州ボストン出身の5人組、DEFEATERがフル・アルバムとしてはセカンドの『EMPTY DAYS & SLEEPLESS』で相も変わらずタフで勇ましいハードコアを掻き鳴らしている。しかしながら、以前にも増して叙情性が高まり、せつないと感じ入る部分がひじょうに大きくなった。このコントラストがひじょうに憎い。それはまるで、たくさんの悲しみや空しさに押し潰されそうな胸を代弁しているみたいであって、あるいは滅茶苦茶になりながらも決して崩れ落ちてしまわないためのガッツを漲らせている。やっぱりストロング・スタイルのバンドなのにアコースティックのセットでも堂々とプレイできちゃうところが強いんだろうな、と思う。全部で14曲の収録だが、ラストの4曲は完全にアンプラグドの仕様である。しかもそれが実にさまになっている。アメリカン・ルーツ・ミュージックを彷彿とさせるアプローチで、たおやかなメロディがしみじみ、そしてやわらかに響き渡る。演奏のアンサンブルは見事だし、あくまでもウェットなヴォーカルはハードコアのそれであることをすっかり忘れさせる。ここのパートだけでも高く買えるという向きがいてもおかしくはないだろう。だがもちろん、猛り狂うエモーションをぶちまけたヘヴィ・ロックこそがDEFEATERをDEFEATERたらしめている本領であって、いやただ激しいばかりじゃない、人の感情は一枚岩で成り立っていないことを、ごうごうと燃えさかり、ときには黄昏れた表情さえも組み込んだサウンドが、正しく体現しているのだった。ああ、誰の心にも浮き沈みがあるのなら、そのアップとダウンはこうも逞しいグルーヴを練り上げることができる。確かに生きていることの実感となりえる。すべての試練を前に脆くも倒れ込んでしまわないだけの気迫を分け与えてくれる。最高に好きナンバーは3曲目の「WAVES CRASH, CLOUDS ROLL」だ。もっといえば「WAVES CRASH, CLOUDS ROLL」から続く「EMPTY GLASS」への流れが良い。アルペジオの印象的なギターが両者を繋ぐ。カタルシスをともなった叫び。祈るような静寂。拳を握る手に怒り。

 『LOST GROUND』について→こちら
 『TRAVELS』について→こちら

 バンドのMySpace→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2011)
2011年04月07日
 縁を結いて

 その歌声から伝わってくる、やさしさやせつなさ、つよさに撫でられ、呼吸を確かにしていく自分を信じて止まない。込められた意図を過剰に解釈するまでもないだろう。シンプルに受け取りたい。照れたり臆することなく〈きみがいてくれるから / 孤独も愛せてしまうけど / 嘘をはぐれよう… / ぼくらが / 愛のメロディであることを / 偽りない / 愛のメロディであることを / いまにも始めよう…〉そう述べてみせる通常盤3曲目の「赤いSinger」は、とても素敵な、そして魅力的なラヴ・ソングなのだと思う。おだやかにピアノの調べをたゆたわせながら、ストリングスがひとしきりの盛り上がりを奏でたバラードである。ソウルフルなアプローチはそのまま、リズムを主体にした構成を後ろへ下げることで、堂本剛というメロディ・メイカーの資質が、ひさびさ、さんさんと輝いている。アレンジはまったく異なっているけれど、しかし「街」(02年)や「ORIGINAL COLOR」(04年)にも通じる世界観が、いや確かに戻ってきている。〈きみ〉と〈ぼく〉イコール〈ふたり〉である〈ぼくら〉の、身近さゆえに切実なイメージからだんだんとカメラを引いていき、時代と名指される遠景のなかに愛の広がりを描写しようとする。この点にある種のカタルシスがもたらされているのだったが、やはりそれを具体化し、十分な成果をあげている歌声がめざましく、めざましい。バックの演奏はかなり控えめだ。かわりにヴォーカルが、どこまでも伸びやかでいて独特な節回しのエモーショナルに響くヴォーカルが、いくつもの憂いとたっぷりの晴れ間を作り出しているのである。楽器パートが最も扇情性を帯び、その激しさを通じて〈立ちはだかる / それが雨だとしても / 立ち尽くしている / ここじゃ終われないだろう…〉と刻まれるクライマックスにすべては集約される。無論、「赤いSinger」における〈きみ〉とは、オープニングとエンディングに置かれたSEや歌詞の詳細からうかがえるとおり、堂本剛自身の心臓を指しているに違いない以上、他の誰かとの関係をテーマにしているのではないのかもしれない。そうだとしたら〈ひどく息づいた傷みは / 時代のなかでもがくけど / 迷いを解くよ… / ぼくらの / 愛のメロディが好きだよ / きみとぼくの / 愛のメロディが好きだよ / 重ねた鼓動を駆け上がるよ〉このようなコーラスはたいへん孤独で寂しげなものにほかならない。だが、すでにいったように、きらめいたメロディに注ぎ込まれた歌声の著しい印象がそれを、深い悲しみに対立しうるラヴ・ソングへと変えているのであって、ねえ〈赤いSinger / いまを歌おう / 眩しいくらいの / たったいちどの愛を〉というフレーズに、肯定されるべきたくましさを見つけられればよいのである。タイトル・トラックにあたる「縁を結いて」は、剛紫名義(09年)以降のオーガニックなプロダクションを、よりスケールの大きなところにまで持っていっている。「えにをゆいて」なる言葉の連なりが、あるいはそれを発見した喜びが、抽象性の高いシーンを焦らずゆっくり紡ぎ出しているみたいだ。通常盤2曲目のインストゥルメンタル「時空」では、前シングルの『RAIN』に顕著であったバンド編成のファンクではなく、幽玄なシンセサイザーがニューエイジ・ミュージックとの接近を思わせる。

・その他堂本剛に関する文章
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI LIVE 「CHERI E」』(2010年8月24日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 DVD『薬師寺』について→こちら
 『RAIN』について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら
 『僕の靴音』について→こちら
posted by もりた | Comment(3) | TrackBack(0) | 音楽(2011)
2011年04月05日
 swampthing.jpg

 握り拳で、ガッツよこせよ、おらあ、と顔面をヒットされるような轟きがある。ヴァージニア州リッチモンド出身、SWAMP THINGのニューEP『SWAMP THING』には正にそれがある。08年の『THE YOUTH IS SICK』も、09年の『IN SHAME』も、すさまじいテンションに圧倒される激動のハードコアであったが、そのヴァイブレーションは一向に衰えることなく、たったの4曲ではあるものの、彼らが凡百のバンドには止まらないであろうことを知らしめるのに十分なものとなっている。組み合ったとたん、はじかれそうな気合いに、何がなんだかわからないけれども負けた、と思わされる。窮鼠が猫を噛むほどの衝動を重低音化、突き刺さるほどにささくれ、捲し立てるスピードが焦燥を煽るあまり、行方不明になりかねない勢いでクラッシュしまくったサウンドである。小難しく考える仕組みを必要としない。基本の構成はストレートかつシンプルで、ヴァイオレント、ヴァイオレント、とにかくヴァイオレントにあたうかぎりヴァイオレントなイメージを叩きつけてくる。メタリックなギターのリフが鋭くはためけば、ヴォーカルはひたすらアングリーに叫ぶ。それはまるで、この一瞬しかない、という主張を著しくしているみたいであって、どこかで折れねば、の妥協点を探る隙もない。はにかまない。プライドの高さすら感じさせる。結局のところ、胸ぐら掴まれ、勝てる気がしねえ、という気にさせられるのはそこの部分なんだよな。御託よりも態度の問題であろう。おまえらがくだらない誤りを述べるかわりにおれはガッツを信じる。「I NEVER KNEW」にみなぎるパワーが、「OUT OF CHARACTER」からあふれるグルーヴが、「CLOUT」をふくれさせるダイナミズムが、「I KNOW YOU」のまっすぐなカタルシスが、そう言っている。

 バンドのMySpace→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2011)
2011年04月01日
 静かなるドン 98 (マンサンコミックス)

 新田たつおの『静かなるドン』がすばらしいポテンシャルのマンガであることは疑う余地もないのだったが、しかし98巻の現在もなおトップ・クラスのストーリー・テリングを繰り広げていることを世間はあまり語らない。もったいないではないか。いっけんギャグにしか思われないパートがじつは重要な伏線だったという演出は、たとえ後付けであろうが、作中人物に都合が良すぎであろうが、たいへん見事なレベルで成立させられているのであって、今や国民的な作品である『ONE PIECE』にも比肩しうるものだと言いたい。

 昼は下着会社のサラリーマン、夜は暴力団の三代目総長、以上の二極に引き裂かれながらも自己実現を果たそうとする青年の姿を(まあ多少真面目にいえばね)初期からのテーマにしているのは周知のとおりだけれど、中期以降は、ヒロインとの結ばれない恋愛を通じて、ロマンティックな悲劇性を全体化してきた印象が強い。近藤静也に惹かれ、ついにその正体を知ってしまった秋野明美は、しかし立場を越えてまで彼のそばに止まろうとすることが、結果としてお互いを苦しませ、滅ぼすとかえりみ、自分の想いを決して告げたりせず、秘めたまま、近藤を見守っていこうとする。そしてそれは秋野の幸せを願う近藤にしても同じであった。

 近藤と秋野の、許されざる恋愛をベースに、事態を一転、二転、三転させてきたのが、中期以降の『静かなるドン』である。他方で、関西は鬼州組七代目組長、白藤龍馬と近藤のライヴァル関係がいくつものハイライトを作り出していく。無論、近藤が率いる新鮮組と鬼州組の抗争は、初期の頃より熾烈なものだったが、白藤龍馬のカリズマときたら、先代たちを遙かに凌ぎ、いよいよ終止符が近づいたことを予感させるほどに強力なものなのである。実際、近藤と白藤の衝突は日本中に緊張をもたらすばかりか、海外の勢力をも国内に呼び寄せることとなる。さてそして、新鮮組と鬼州組の連合に斥けられたはずのアメリカン・マフィア、アレキサンダーが、チャイニーズ・マフィアやロシア・マフィア、コロンビア・マフィアを従え、再び日本制圧に乗り込んでき、まるで大阪が戦場と化してしまうというのが、ここ数巻の粗筋であって、アレキサンダーの背後には世界皇帝と呼ばれる巨大な存在の控えていることが明かされる。いやもう、とにかく規模のやたらでかい物語になっているのだけれども、近藤と秋野のラヴ・ロマンスを中心に考えるのであれば、作品の本質はほとんどぶれていない。

 この98巻では、大阪で繰り広げられる市街戦をよそに、東京で下着会社プリティの社長となった秋野がデザイナーとしての近藤を花開かせようとする展開がもたらされる。はたして秋野が近藤を高く買うのは私情にすぎないのかどうか。ここでの二人のやりとりは、いくぶんコミカルであるが、大人のせつなさをも漂わせる。それにしても、である。出世した近藤の渡英が、あるいは白藤とアレキサンダーの対決が、新鮮組の傘下にいる生倉の馬鹿馬鹿しい暗躍が、それら点と点とが、まさか一つに結び付くだなんて。〈この時、静也は現地で本物の英国諜報部員と大立ち廻りを演じるとは想像もしていなかった〉どころか、そんなの読み手だってまったく想像しちゃいねえよ。ほんとう驚くべきストーリー・テリングであろう。

 文庫版1巻、2巻について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(2) | マンガ(2011)