ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年12月30日
 prelude2011.jpg

 現在出ている『CYZO×PLANETS SPECIAL PRELUDE 2011』にマンガと小説のレビューや座談会で参加しております。詳しくは→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | その他。
2010年12月29日
 おバカちゃん、恋語りき 7 (マーガレットコミックス)

 よくいわれるとおり、恋をすると人はバカになるのだったが、ではバカが恋をするとどうなっちゃうのか。自分(バカ)の経験にしたがっていえば、そりゃあまあ当然、人並みに悩むのである。恋の魔法は誰にだって平等に降り注ぎ、良いことも悪いことも、たとえそれらがいかにちっぽけなことであったとしても、拡大に解釈されて、嬉しさは手に余るぐらい大きくなるばかりか、嬉しければ嬉しかったぶんの不安を胸に募らせるし、おかげで頭が痛くなったりもするのだから、ひじょうに弱るよ。挙動不審に見えたって仕方がないね、なのだった。佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』が、まったくコメディのテンションをキープしながら、しばしばエモーショナルなのは、つまり作品の本質が以上のような点にあるためなのだと思う。

 この7巻で完結したマンガだけれども、いやなかなかの作品だったと思う。少なくとも最初から最後まで、ぐっと強いフックを手放さず、息つく暇もないほどのラヴ・ストーリーを繰り広げてくれたのだった。とにかく物語の最中、ずっと突っ走っていたヒロインが、やはり走り抜けていくかのようなラスト・シーンと被さったモノローグに、テーマのほとんどは集約されている。すなわち〈恋ってなんだろう 別に恋愛でおなかいっぱいになるわけでもないし(略)恋愛でけがが治るわけでも 植物が育つわけでもないし なのにいつも世界のどこかでうまれている〉のであって〈ドキドキしたり 臆病になったり 憧れたり 悲しくなったり 結局なんなわけ? 恋愛って さっぱりわかんないよ わかんない ただ〉そう、ただ〈すき〉でよい。〈わからなくていいんだよ うまくいえなくてもいい 大丈夫 恋を語ろう〉というわけだ。

 しかして、その〈恋を語ろう〉とする語り口の、たいへん特徴的なスタイルが最大の魅力であったことは疑う余地がない。少女マンガばかりではなく、少年マンガをも含めたクリシェを、意図的に、かつふんだんに盛り込みながら、それが批評性に見えてしまう地平とは完全にかけ離れたところで、IQが低そうにとられても構わない、決してキュートなスタンスだけは崩すまいとでも言わんばかりに貫かれてきた態度は、確かにギャグとしての機能を多分に負ってはいたのだが、同時にギャグである以上の潔癖さをも、惜しまず、隠さず、ストレートなぐらいに表明化していたのであった。豊富で過剰なクリシェは、気持ちの強さを正しく象徴するための手段にほかならない。さすがにありえないでしょう、という展開ですら、でもこのマンガならおかしくないよね、のレベルにまで持って行き、誰かを想う気持ちが不可能を可能にしてしまう、このような思いなしを不自然なものでもなくし、バカバカしさに白けることがバカバカしいや、ある種のロマンティシズムを成功させているのである。

 ヒロインである園田音色の、頭の悪さ、ポジティヴな性格とイノセントな揺らぎはワン・セットであって、彼女をめぐる栄山トキオと相澤深の三角関係をベースに『おバカちゃん、恋語りき』は描かれていた。三人の個性を、なるたけ平等に、並行に動かしていくという手法も、小気味よいテンポをキープするのに適していた。クライマックスの決断がさわやかになっているのもそのおかげだ。虹花、ケンイチ、十吾、影虎などなど、これまでに出てきたワキの人物たちにしたって、十分活躍の場が与えられており、もったいない使われ方をしていない。サブローさんは影が薄いままだったが、まあ、らしい、といえば、らしい。基本的にはでたらめな内容ではあるものの、そのでたらめさのなかのすべてにおいては、きっちり筋を通している。ほんとう、チャーミングな佳作であった。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
2010年12月26日
 ストロボ・エッジ 10 (マーガレットコミックス)

 咲坂伊緒が『ストロボ・エッジ』で残した最大の功績は、やはり、安堂拓海という発明であろう。いやもちろん、限りなくピュアラブルなラヴ・ストーリーこそが絶対の柱であって、『ストロボ・エッジ』を語る上での大前提にほかならないのだが、個人的には中盤以降、安堂くんの一挙手一投足から目が離せず、心が奪われっぱなしであった。パブリック・イメージにおいてはクールなイケメンさん、自分がもてていることにまったくの疑いがない、このような噛ませ犬の登場は、少女マンガのジャンルにとっていかにもスタンダードなものだ。ある意味、ステレオタイプな任務を物語に要請されているのだけれども、それが安堂くんの場合、噛ませ犬であることの悩ましさが作中人物の誰よりも表情を豊かにし、しかしそのことすらもひた隠そうとするほどにナイーヴな秘密主義を通じて、おいおい、こんなにも可愛らしい男の子がいるのかよ、という新鮮な驚きがもたらされていたのである。実際、主役の二人、仁菜子と蓮の関係にしても、安堂くんの魅力を彼女たちだけがよく知っている、こうした事実に邪魔され、結果的に後押しされていた点は看過されてならない。つまりは、贔屓目でも何でもなく、安堂くんこそが中盤以降の展開を大きく担っていたのではなかったか。ここまでの文章において、彼にのみ「くん」付けしているのは、その重要性に惜しみない敬意を払ってのことだと思われたい。だが、いくら安堂くんを高く評価してみたところで、自分がもしも仁菜子だったら蓮を選ぶしかないだろう、の説得力を備えていることが、『ストロボ・エッジ』の見事さだといえる。自分がもしも仁菜子ではなく、別の女の子であったならば、それこそ中学生時代から繋がりのある真央がそうしたように、蓮を諦めて、安堂くんを選ぶよ。しかるに仁菜子が、この、限りなくピュアラブルなラヴ・ストーリーのヒロインであるためには、蓮じゃないと駄目だった、蓮以外では駄目だったのだ。あるいはそれは連にしても同様であって、もともとは麻由香という恋人がいたにもかかわらず、仁菜子に惹かれはじめ、仁菜子じゃなくてはいけなくなってしまう。決して麻由香に対し一途じゃなかったわけではない。不純な動機からではない。目いっぱいの誠実さが、蓮と麻由香を別れさせ、そして仁菜子と安堂くんを結びつけさせなかったのだとしたら、同じく目いっぱいの誠実さで、仁菜子と蓮は互いの感情を確かめ合い、シャイであることの壁を越えていった。その誠実さを引き出したのは、疑うべくもなく、恋の魔法というもので、この恋の魔法が孕む清潔な可能性を『ストロボ・エッジ』は全10巻の長さ(およそ3年の月日)をかけ、散漫にへたれることもなしに、真っ直ぐ真っ直ぐ描いてきた。途中参加気味の安堂くんではあるが、そこから最後までよくがんばって物語をリードしてくれた。友情や愛情の厚さに、はにかんだ君のキュートさを忘れない。おそらくは君のおかげなのだ。限りなくピュアラブルなラヴ・ストーリーの、ハッピー・エンドに文句はつけられまい。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他咲坂伊緒に関する文章
 『マスカラ ブルース』について→こちら
 『BLUE』について→こちら
 『GATE OF PLANET』について→こちら
2010年12月23日
 ラキア(5) <完> (モーニングKC)

 矢島正雄(原作)とBoichi(ボウイチ、漫画)という組み合わせは、事前にたいへん期待させられるものがあったのだが(だって『リュウ』と『HOTEL』のタッグによるSFだぜ)、正直にいっていまいちな成果に終わってしまったのが、この5巻で完結した『ラキア』である。いやもっと関係性を描くのに長けたマンガ家が起用されていたならスリリングで悩ましいドラマも生じたろう、あるいは原作を無視するほどにアグレッシヴな展開のみを繰り広げてくれたなら超ど級のバトル・アクションになったであろう。しかしながら、そのどちらにも行かず(行けず)、中途半端な作品にとどまった印象だ。時間をも越え、全世界規模で提示された超常現象は、結局のところ美少女ルナと高校生イサのラヴ・ストーリーに回収されていくのだけれども、個人的には二人の親友でありながら復讐のキリング・マシーンと化した俊也の活躍が最高潮に燃えた。つまりは彼が退場してからはかなりテンションが落ちたのだった。Boichiの、相変わらずまったくおもしろくないギャグはともかく、背景に凝ったタッチが暴力と破壊のイメージを大きく膨らませる一方、物語の駆動軸であるルナ、イサ、俊也の葛藤に、それこそ神話に匹敵するだけの説得力が与えられなかったのは残念としか言いようがない。都留泰作の『ナチュン』と同様、ヴァチカンの矮小化を実行することで人類の破滅をアピールする手法がとられているが、そこまでの大胆さに挑んでいるにもかかわらず、永井豪の『デビルマン』や大友克洋の『AKIRA』クラスの黙示録を達成させるのはかくも難しい。

・その他Boichiに関する文章
 『Boichi作品集 HOTEL』について→こちら

・その他矢島正雄に関する文章
 『メメント・モリ――生と死の交差点に愛があった』(漫画・はやせ淳)について→こちら
 『PS羅生門』(漫画・中山昌亮)9巻について→こちら
2010年12月21日
 サイゾー 2011年 01月号 [雑誌]

 『サイゾー』2011年1月号、「カルチャー時評・年末総括座談会」に宇野常寛さん、松谷創一郎さん、石岡良治さんとともに出席しています。マンガと小説の話をちょこっとしました。また例月どおり、同じ欄のクロス・レビューにも参加しております。
posted by もりた | その他。
 L DK(5) (講談社コミックスフレンド B)

 人気が出、連載が長引けば、噛ませ犬的な恋敵が投入されるのは、まあ、こうしたラヴ・ストーリーのパターンにすぎないのだけれど、それでも今後の展開が気になって仕方がなくなってしまうので、弱るよ。少女マンガのワナに違いねえや、だろう。サドっ気抜群のイケメンさんと同居生活を送るうち、最初は好かなかった彼に惹かれはじめ、次第に気持ちを隠せなくなるヒロインというのも、類型的なパターンでしかないし、この狭い人間関係にどうドラマを起こすか、凝らされてきたアイディアも、やはり類型を逸していないのだったが、それに文句をつけるのは野暮、と感じさせてくれるだけの魅力が渡辺あゆの『L・DK』にはある。そして5巻では、すでに述べたとおりの局面、主人公の西森葵をめぐって久我山柊聖と対立するライヴァルが登場する。同じ高校の先輩、三条亘がアパートの隣の部屋に引っ越してき、葵と柊聖が一緒に暮らしていることを知っていながら、果敢にアプローチしてくるのだ。亘が決して嫌味な人物ではない、むしろナイスな若者である点は、物語のなかの機能として大きい。彼の干渉によって、葵と柊聖各々の恋愛観が試される、という構図が生まれている。もちろん、以前のエピソードでも柊聖の後輩や柊聖の兄が同様の役割を果たそうとはしていた。しかし亘の場合は、まったくの第三者であるがため、それらとは別種のスリルを駆け引き上に顕在させている。なおかつ注意されたいのは、さしあたり現時点ではの話に留めるが、亘のアタックにもかかわらず、心理や表情の描写において、葵の動揺が目移りからやって来ているのではない、というイメージを強めていることである。彼女の困り顔は、あくまでも柊聖の反応を原因にしており、一途さをピュアだとすれば、不純には見られないような工夫がなされている。迂闊な性格はそもそも褒められたりしないものの、印象を悪くしていない。また亘がいくらがんばってみせても噛ませ犬に思われてしまうのもそのせいだろう。読み手としては、おまえがナイスな奴なのはちゃんとわかってるぜ、と言葉をかけるよりほかない。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
2010年12月18日
 居候お断り。(2) (講談社コミックスフレンド B)

 安理由香のマンガ『居候お断り。』の明るさは、ラヴ・コメディとホーム・コメディの混在をバランス良く成立させているところからやって来ているのだと思う。物語のなかに暗いトピックがまったくないわけではないのだったが、体温の通ったコメディに収束していく作中人物たちの関係性によって、それは乗り越えられている。乗り越えられていることが、作品に明るさをもたらしているのである。もちろん、気が強いがんばり屋のヒロインとナイーヴで頼りない青年の、純粋にも見えるコミュニケーションは定型的であるし、ストーリー自体もある種お決まりのコースを進んでいるにすぎない。しかし、センセーショナルな話題でヒキを作るのではなく、微笑ましく和やかなオチを設けることに心が遣われているので、各話に柔軟な手触りが生まれている。この点が最大のチャーム・ポイントにあたるだろう。そしてそのような性格は、2巻のなかでは、貧乏な町香が薄着しか持っていない椎名のためにフリーマーケットで冬服を手に探してくるエピソードに、よく出ている。これといった事件が起きているのではないのだけれども、ちゃんとドラマが存在している。作中人物たちの人柄や、やりとりを通じ、ドラマが、エモーションが、滑らかに形を得ているのだ。家族を捨てた父親が、町香の前に姿を現すエピソードも、現実の切なさを前にしながら、結末はひじょうにやさしい。町香や彼女の家族、椎名の体温が直に伝わってくる、そういうやさしさだと思う。

 1巻について→こちら
2010年12月15日
 BALANCE 2巻―BLOODY PARTY (ヤングキングコミックス)

 作者のSP☆なかてまが巻末に〈今回残念ながら志半ばでこの物語の終焉を向かえなくてはならなくなりました まだまだ描きたい事あったんですけど……スンマセン〉というコメントを寄せているが、確かにとっちらかったままの内容に最後まで収集がつけられなかった印象のマンガである。しかしストーリー自体は意外なほど一本道であって、逆にいえば、それを走らせるのにこんだけの長さが必要だったのだろうかと思ってしまう。結局のところ『バランス』の2巻は、悪党にさらわれた友人を主人公が助けに行く、こうしたプロットの引き延ばされたその分を作品のヴォリュームにあてているにすぎない。紙幅を埋めているのは、展開の濃さ、ではなくて、ポエムの饒舌さ、であろう。スタイリッシュなアクションを派手に決めている場面で、作品のリズムはぐっと良くなるのだったが、ケンカの最中にしては甚だしすぎる登場人物たちのお喋りが、折角のリズムを崩していく。ほとんどこれの繰り返しになっている。もちろんそうした手法自体が、暴力がエスカレートすることの食い止め、暴力以外にも不良少年の生きられる道はある、という物語のテーマを再現するには相応しかったとの見方もでなくはないのだけれど、残念ながら、単調さを斥けるような説得力を生んではいない。あるいは主人公であるバネとキャンのパートナー・シップに、おそらくは本質的なメッセージが託されているのだが、クライマックスにかけ、他のネガティヴな要素(トラウマやら心の闇やら)を前面に出してきたところ、いかにもヤンキー・マンガなポエムもしくは説教のトーンが強まってしまい、全体の焦点がぼやけてしまった。特別収録されている二篇の読み切りには、そういう欠点は見当たらないので、そもそもが長篇向けのアイディアではなかったのかもしれない。

 1巻について→こちら
2010年12月14日
 kippo2.jpg

 およそ2年である。第1話が発表されてからすでにそれだけの時間が経ってしまったわけだけれども、田中宏の『KIPPO』の第2話がようやく『ヤングキング』2011年1号に掲載された。長かったというよりほかない。しかしてその間にもう一つ、同作者の他の作品を通じ、重要な設定が事実化されたことを記しておかなければなるまい。以前にも述べたとおり『KIPPO』は、『BADBOYS』『グレアー』『女神の鬼』といったマンガとともに巨大なサーガの一部を為している。ここで参照されたいのは、『ヤングマガジン』2010年47号に掲載された『女神の鬼』の第158話であろう。それは1983年の12月を描いたエピソードなのだが、まさかシリーズを異にすると思われていた『莫逆家族』と『女神の鬼』が地続きであったことを明かしているのだ。つまり、実際のリリースとは別に、作中の時系列で並び替えるとすれば、『女神の鬼』『BADBOYS』『グレアー』『莫逆家族』『KIPPO』の順になる。もちろん、このことによって各々の作品に対する感想が大きく違ってきたりはしないものの、そのサーガが正しく80年代から00年代を包括するほどに巨大であり、さらには現在も膨らみ続けることで、どのような時代にも不良にならざるをえない少年たちが存在し、社会には受け入れられず、悲劇にしか辿り着けない運命を孤独と呼ぶとき、彼らの魂は何によって救われるのかを、田中宏という作家は一貫して追求していることが紛れもなくなっていくのだった。

 〈じゃあ…おまえにはどーしよーもない借金に 親友が苦しんどったら?〉

 こうしたモノローグに暗示的なストーリーを、不良にならざるえなかった少年たちを題材にしながら『KIPPO』の第2話は描いている。『BADBOYS』の主人公、桐木司の息子、桐木久司と出会い、『グレアー』の英雄たちが結集するファミリーに加わったはいいが、心を入れ替えようとした矢先、それまでの非道が祟ってイチロー(澤一郎)は、先輩格のチンピラ、加治屋から300万円もの大金を要求されることになってしまう。あてもなく困り果てたイチローは久司に相談を持ちかけてみたものの、ファミリーには絶対に金の貸し借りはしないというルールがあった。さあこの窮地をいかにして回避するか。以上が第2話の内容であって、ひとまずファンとしては、嵜島昇喜郎や長谷川壮吉など『グレアー』の面々や、佐藤タツヒロ(ヒロの息子)や段野秀樹(段野秀典の息子)など『BADBOYS』世代のジュニアたちが、次々登場してくるのが楽しい。当然、それは二世ものならではの常套手段にほかならない。しかしながら、血の繋がりが幸福にも不幸にもなりえる可能性を常に提示してきた田中宏のキャリアを踏まえるとすれば、二世たちのなかへ過去作にプロフィールを負わないイチローを投じることで、本来ファミリーとはいっさい関わりのない人間がそこに迎え入れられるというシチュエーションを、あらためて用意したと考えるべきだろう。事実、生まれや育ちの不幸から逃れようとするイチローと生まれや育ちの幸福に守られた久司の二人をある種の対照として見ることができるし、そうした対照は『BADBOYS』や『グレアー』、『莫逆家族』のみならず『女神の鬼』においても存在していたものだ。

 無論、ファミリーの概念にしても同様だといえよう。はたして自分に居場所はあるか。自分で望んだ場所にどうしたらとどまれるか。つまりは自分が生きられる共同体の可能性をいかに認識するか。このような問題もまた、諸作を通じ、深められ、さまざまなドラマと結びつけられてきたものであった。そしてあらかじめ引いておいたモノローグに戻る。

 〈じゃあ…おまえにはどーしよーもない借金に 親友が苦しんどったら?〉

 これはひじょうにたいへんとてもシンプルな困難の提起である。だが、シンプルであるだけに絶対に間違えられない信念を望んでいる。根底には、あるいは第3話以降の展開には、おそらく作者がファミリーという概念に託そうとする思想が横たわる。

 1話目について→こちら

・その他田中宏に関する文章
 『女神の鬼』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻と2巻について→こちら
2010年12月11日
 このマンガがすごい! 2011

 『このマンガがすごい!2011』の「オンナ編」に投票しました。この手のムックの結果にけっこう批判的なことも言っているのに。男ですが少女マンガを選んでいます。
posted by もりた | その他。
 digup.jpg

 ガッツに溢れたロックン・ロールが好きである。意気地なしの自分に喝を入れられたような気になるからなのだったが、それはいつだって、めそめそ悩んでろよ、くそ野郎、いじけたいだけの奴なんて知ったこっちゃないし、憂鬱なんて何の役にも立たねえんだ、という強烈な一打をパワフルなサウンドに乗せて寄越す。結局のところ、フィンランド出身の3ピース・バンド、SWEATMASTERに求めたくなるのもそこなんだよな、と思う。この『DIG UP THE KNIFE』は、通算4作目となる彼らのフル・アルバムで、もちろんのこと本質は以前と同じく、ソウルフルなガレージ・ロックを大音量で響かせる。ベースの太いラインがぶいぶいうなり、ドラムのリズムは非常にタイトで、キャッチーなフレーズに強弱を託していくギター、そしてこの、コブシがききまくっているというほどにパワフルなヴォーカルこそがSWEATMASTERであろう。力尽く、持って行かれるものがある。ただし、07年の前作『ANIMAL』に比べ、スロー・テンポやミドル・テンポのアプローチが印象的になってきたようにも感じられる。いや、楽曲のスピード自体はことさらダウンしていないのだけれど、エモイッシュな展開やドラマティックなパートが以前にも増して強調的になっているためだ。衝動性のレスポンスよりも肝の据わったグルーヴが色濃くなっているのだったが、この手のアーティストにおいては、キャリアを積むにつれ、カントリーやブルーズへの接近を果たしながら本格派の黄昏を歩み、哀愁を帯びていく傾向が強いなか、それとは別種の成熟を試みているのが頼もしい。ハイライトに挙げたいのは、やはり、5曲目の「TURNOVER」である。過去のタイプでいえば「I AM A DEMON AND I LOVE ROCK 'N' ROLL」の流れを汲むような、これぞ正しくSWEATMASTERならではのアンセムであって、生き生きとしたスウィングの魅力、痛快なハンド・クラップに胸はずむ。くじけてしまうことも、情けなく小さくまとまることも、くだを巻くしか脳がないことも、まったください。ガッツに溢れたロックン・ロールをもう一回あるいは何度も何度も好きにさせる。

 『ANIMAL』について→こちら
 『TOM TOM BULLET』について→こちら 

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(1) | 音楽(2010年)
2010年12月08日
 サムライ・ラガッツィ 戦国少年西方見聞録(1) (ライバルコミックス)

 藤田和日郎的なイズムを正しく受け継いでいて、現在の藤田和日郎よりも正しく少年マンガ的なロマンを描き出せているのが金田達也なのだったが、それに対して世間の注目を十分に得られていないと感じられてしまうのは、やはり、作品が持っているテーマの強度や展開のわかりやすさのわりに、今どきの流行色が薄く、派手目なトピックに乏しいからであろう。しかしまあ、そこが良いところでもあるんだった。そのような、らしさ、は『サムライ・ラガッツィ 戦国少年西方見聞録』の1巻にも当然あらわれている。〈天正十年 戦乱の時代 はるか海の外では 大航海の時代であった!〉そして織田信長が本能寺で滅したその年、九州の小国、播磨家の領主、十五歳の播磨晴信は、あまりの不甲斐なさから周囲にうつけと呼ばれていた。しかしながら探求心にかけては人一倍だった。誰にも理解されない夢があった。それはこの世のすべてを記述した万國大百科を完成させたい。はたして隣国の要請は彼にしたら幸運ですらあったろう。長く危険な船旅をもおそれず、羅馬(ろおま)への使節団に自ら志願するのだ。これをストーリーの縦線とすれば、横線にあたるのが伊賀最強の忍びである桃十郎と晴信の関係性だといえよう。そもそも桃十郎は晴信の命を狙う暗殺者だったのだが、晴信の底知れぬ情熱に説得され、行動をともにすることになるのである。桃十郎は陰の濃いイメージで描かれている。これは彼がすでに夢に破れた者だからなのだけれど、一方で晴信は、どれだけ惨めな境遇にあっても、明るい。常に夢を追い続ける者だからだ。両者の対照が、あるいは晴信と桃十郎のあいだに起こっていく影響と変化が、人は人との出会いを通じながらいくらでも成長できる、こういうまっすぐなメッセージを前面的にしている。作中の、どの場面のセリフが、もちろん行動も、いちいち熱いよ。〈幻で消える夢なんて絶対にない!〉という断言にまったく見合うだけの内容だと思う。

・その他金田達也に関する文章
 『キミタカの当破!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『あやかし堂のホウライ』(藤田和日郎・原案)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年12月05日
 スッパニタータ

 まさかツギノツギオの『スッパニタータ』が単行本化される日が来ようとは。こうしてページをめくりながらも信じられない気持ちでいっぱいである。以前『サルハンター』が単行本になったときも同様に思ったのだったが、そこにはたとえば、所謂B級映画の傑作が地上波のテレビで放映されるのと似た感動がある。

 ツギノツギオ(次野ツギオ、ツギ野ツギ雄)は永遠の新人作家である。もちろんそれは決して恵まれてはいない知名度や活動歴のみを指していっているのではない。いや、確かにそれもあるにはある。しかし、普通のマンガ家であればデビューしたのちしばらくしたら霧散してしまうであろう初期衝動みたいなものが、耐えず作品の細部にまで溢れかえっている点を見、何よりも高く買いたいのだ。少なくともこの『聖煩悩中学生 スッパニタータ』が『ビッグコミックスピリッツ』の増刊号(『新増』を経て『漫戦スピリッツ』)で連載されていた当時(01年〜03年)、ツギノのキャリアは新人の域を出かかっていたにもかかわらず、まるでどんなリスクもおそれていないかのような意欲を内容のアグレッシヴさ加減からは感じさせている。要するに、去勢されてはいない。

 これ以上の断片的な情報は巻末に付せられた大西祥平の解説に詳しいし、わざわざ引用したりはしないけれども、とにかくまあひじょうにクセの強い作品であって好き嫌いは別にしても、その規格外のテンションは一読に値すると思う。

 母親の形見である宝塚漫虫の『シャカ』(いうまでもなく手塚治虫の『ブッダ』のもじり)に影響され、不登校と肥満を克服した少年、孵我児(ふがじ)は、中学校の屋上でクラスメイトの田中音子と出会い、彼女のエロティックさにはじめての射精を経験する。だが世間にすれていない孵我児のイメージのなかで、解き放たれた精子はあたかも得体の知れない悪魔(マーラ)のごとくであった。はたしてブッダのような大人物を目指す彼は、自らの煩悩を振り払い、さらには悪魔を次々に生み出すマスターベーションをも断ち切ることができるのだろうか。音子の誘惑に心乱され、アルバイトでデリヘルをしている女教師の罠にはまり、ついには退学処分となってしまった孵我児は、母親の思い出に誘われ、高尾山へ発つ。しかしながらそこにも新たな苦行が待ち受けていたのであった。

 基本的にはスラップスティックなコメディといってよい。オーヴァーなリアクションにニヤけてもよいし、あまりの馬鹿馬鹿しさに白けてもよい。反面、多少まじめぶって述べるのであれば、主人公のネーミングや各エピソードのタイトル(「カムクリーン」や「SMASH YOUR FACE」等)あるいは作中人物が某レコード・レーベルのTシャツを着ていることからもあきらかなとおり、作者はハードコア・パンクにおけるストイシズムと『ブッダ』の思想とを、孵我児の災難や成長を通じ、融合させようとしている。どうしてこんなにも滅茶苦茶なストーリーなのに、ラストのカットは神聖にもさわやかにも思われるのか。それまでのすべてが真の愛を見つけられることによって超越されているからだというよりほかない。ツギノツギオならではの超展開(リズムとグルーヴ)がこの達成を可能にした。

 『ラブアタック』について→こちら
2010年12月04日
 ギャングキング 20巻 (ヤングキングコミックス)

 作者の柳内大樹が主人公であるジミーに委託しているテーマとは、おそらく、強いはずの人間でも悩むことがあると同時に悩むことでしか人間は強くなれない点なのであって、そこでいわれている強さをどう扱うかの問題は、たぶん、最大のライヴァルにあたるピンコの「力の模索」に集約されているのだと思う。『ギャングキング』の20巻である。何よりも気になるのはやはり、ジミーとピンコの直接対決にいかなる結着がつけられるか、であろう。それはつまり、同じテーマを背負いながら別々のベクトルを生きる二者がお互いにお互いを参照することで、作中の言葉を借りるのであれば「答え合わせ」を果たしているからなのだったが、結局のところ具体的なコンセンサスは得られず、あくまでも平行線の存在であることだけが確認されるにとどまる。さしあたり、雌雄を決しないことによって物語は延長化された、と考えて良いのかもしれないけれども、異なった観点から見るとしたら、ジミーとピンコの関係が、『ギャングキング』においては常に、止揚(アウフヘーベン)の機能を持っていることを強く印象づける展開となっているのだった。事実、ピンコとのバトルを経て、ジミーの認識が次の段階に入ったことは、後のエピソード、たとえばマッスルとの再会やベロの姉とデートしているくだりにあきらかだろう。もちろん、それ以前の成長期としてワークマンズ編があるにはあったわけだが、あそこでの借用に近しい井上雄彦『リアル』ふうの描写から作風が完全に脱却していることにこそ、最も注意されたい。要するに、作者自身もまた、ジミーとピンコの止揚を通じ、創作上に新しい手応えを掴んでいるのである。ただし、『ギャングキング』の題名に現時点で相応しいのはやはり、ジミーではなく、ピンコのほうだといえる。過去にも指摘したとおり、ピンコの思想とチーム・ジャスティスの営みは、高橋ヒロシ『QP』(99年〜02年)の我妻涼や山本隆一郎『GOLD』(01年〜06年)の御吉十雲のそれに通じるものだ。裏社会を生きることでしか運命や世界は変えられない。こうした天啓は、いかに肯定されようとも暗さを免れない。00年代以降のヤンキー・マンガが抱える宿痾でもある。しかして柳内は、我妻涼とも御吉十雲とも違う答えをピンコに与えられるのか。ジミーを軸とする本筋のほかに、そのことが気になって仕方がない。

 19巻について→こちら
 18巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』(原作・俵家宗弖一) 
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『新説!さかもっちゃん』1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年12月02日
 シマウマ 1巻 (ヤングキングコミックス)

 小幡文生、あれだけ非道であった『ステゴロ』(原作・俵家宗弖一)よりもさらに残忍な世界に潜るかよ。『シマウマ』の1巻であるが、いや実際、派手に血なまぐさい。結婚相談所をカモにした美人局で荒稼ぎしていたタツオの携帯電話に一通のメールが届いた。そこに添付されていたのは、つるんで悪さしていた仲間をいたぶりながら笑みを浮かべる不気味な男のムーヴィーであった。そしてタツオは思い知らされることとなる。〈この世の中には奴隷や家畜… それ以下の世界があるコトを…〉だ。はたして恋人である彩とともに不気味な男に拉致されたタツオは、どこまでも底の抜けた暴力に支配された現実の一部を否応なく覗き見させられる。題名にあるシマウマとは、やがてアカという名によって身元の割れる不気味な男でさえおそれる人物を指し、現段階ではその登場を予告するに止まるのだけれども、作品自体の価値観を左右しかねない存在であることだけは、あからさまに示されている。それはつまり〈この世の中のほとんどが奴隷か家畜なんだよ〉という認識の暗さを人は生きられるか、生きられたとしてもそこに求めるべきものがあるのかどうか、だろう。少なくとも主人公であるタツオの、ぎらぎらとした目つきは、希望や幸福をあらかじめ信じていないところからやってきているのだし、九死に一生を得ながら生き長らえるほどのしぶとさもまた同様の点に由来しているのだったが、しかし、より深い闇へ落ちていくことでそのような思いなしですらも突き崩されるかもしれない可能性が、今後の展開を左右しているのは間違いない。ヴァイオレントな内容からして、過激な描写の多い作品ではある。だが『シマウマ』における過激さとは、現時点でいうのであれば、リンチの行為とほぼ等号で結べる。要するに、立場の弱い者が立場の強い者に蹂躙される、の論理である。おそらくすべての作中人物が、こうした論理に従っているのであって、それに対するアンチテーゼがないがために、残忍でいて血なまぐさい印象が生まれているのだ。

 『SHIBUYA大戦争』(キャラクターデザイン・柳内大樹 原作・俵家宗弖一)1巻について→こちら
 『ステゴロ』(原作・俵家宗弖一)1巻について→こちら