ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年11月30日
 隣の彼方 (マーガレットコミックス)

 残念ながらレビューし損ねてしまったが、河原和音(原作)と山川あいじ(漫画)の『友だちの話』は、今年も終わりが近くなって発表された佳作であった。そこでは、少女マンガのジャンルが、恋愛を描くばかりではなく、友情を描くのにもひじょうに秀でていることが、羨ましくなるぐらいのプロポーションで実践されていたように思う。さて、さすがそれには及ばないかもしれないけれど、香魚子の『隣の彼方』もまた、友情ベースの少女マンガをたいへん魅力的に実践した読み切り作品集である。もちろん、作中人物が恋愛をしないわけではないものの、所謂ラヴ・ストーリーとはだいぶ案配が違っている。そのことは特に「ひみつみっつ」という篇に顕著であろう。女子高生三人組の、仲良さげな表向きのコミュニケーションとは裏腹に強いられる思惑や抑圧が、並行的に描かれていく。どのようなグループに属していようとも、寂しさは生まれる。それが他愛もないほどに身近な物語のなか、〈本当の友達が欲しい 大切な人を失いたくない 誰かに自分を受け入れて欲しい〉という願いに集約され、ささやかなハッピー・エンドをもたらしているところに最大の成果がある。表題作の「隣の彼方」は、幼馴染みの、しかし中学から高校へ進学するうち疎遠になってしまった男女の、あまりにも不器用な関わりを描いている。いくつかのしがらみやわだかまりのせいで、過去には戻れないが先にも進めない。二人の姿は思春期と呼ぶのが相応しい。「Keep a diary」は、親友を公言して憚らない女子高生たちの関係を、サスペンス・タッチの転調を用いながら描いた。物語の起伏に力みがあり、先述した二篇に比べると、いささか見劣りするけれども、誰にも受け入れてもらえないことの寂しさを確かに感じられる内容となっている。単行本の冒頭、オール・カラーで収録された「ノストラダムスと榊くん」は、他からすれば異色の作品だといえる。が、同時に出色の出来だといえる。もちろん、それはオール・カラーだからなのではない。預言者である少年の孤独が、そのごくありふれた少女の目にはどう映ったか。現代的なメルヘンを切なくも鮮やかにやさしく描いているのだった。

 『さよなら私たち』について→こちら
 爆麗音-バクレオン- 7 (ヤングジャンプコミックス)

 はたして佐木飛朗斗(原作)と山田秋太郎(漫画)の『パッサカリア[Op.7]』とは一体何だったのか。このような問いに対する解答になることを、同コンビの『爆麗音』には期待していたのだ。が、結局のところそれは、『爆麗音』とは何だったのか、という新しい問いを残す。言い換えるなら、決して完結しない無限の問いこそが佐木の作りし宇宙の本質であることをまたもや証明することとなったのである。しかしながら、最終章にあたるこの7巻で、物語は一応のレベルで納得のいく着地を得ている。数奇な巡り合わせを経、ロック・バンド「爆麗音(バクレオン)」に結びつけられた四人の若者が、伝説の魔曲「ミカゾノピアノソナタ“零”OP.7」を初演する機会に恵まれ、どのような不幸も変えられる可能性を世界中に知らしめるのだ。主人公である音無歩夢が、さまざまな出会いを通じながら、自らの運命を受け入れ、今まさにすべての境界を越えて行かんとする姿は、正に佐木がこれまで織り成し続けてきたテーマの変奏であろう。〈稀に音楽は炸裂して 音符と音符の狭間に在る知覚し得ない旋律を… 刹那的に… 有機的に… 圧倒的な質量を… 空間に漲らせる…!!〉のであって、そして〈決して目に見えない… 愛や風の様に… “それ”は何処にでも存在して… 何処にも存在しない… その力を贈られた者だけが… 楽譜から解き放つ… 唯一無二の力!! 音楽の奇蹟!!〉を、そのあまりにも抽象的なポエジーを、山田秋太郎は能うかぎりの誠実さをもって再現しようとしている。そこで山田がぶつかっているのは、音楽マンガというジャンルそれ自体の困難にほかならなず、必ずしも成功しているとは言い難いもあるにはある。したがって『爆麗音』以上にすぐれた描写を為している作品はいくつも挙げられるに違いないのだけれども、演奏のダイナミズムに関しては、すばらしく惹きつけられるものがあったように思う。一方でやはり残念なのは、『パッサカリア[Op.7]』のみではなく、東直輝を作画を迎えた『外天の夏』からも持ち越されてきたモチーフ(真逆の世界!)が、曖昧さを斥けるほどの確信にまでは辿り着けなかった。発想と混乱の眩暈にしか至れなかった点だ。かくして佐木の作りし宇宙は今なお完成を見ることもなしに膨張をし続けている。

 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら  
 1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆音伝説カブラギ』(漫画・東直輝)1巻について→こちら
 『妖変ニーベルングの指環』(漫画・東直輝)1巻について→こちら
 『外天の夏』(漫画・東直輝)
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
2010年11月29日
 村上春樹 全小説ガイドブック (洋泉社MOOK)

 現在出ている『村上春樹 全小説ガイドブック(洋泉社MOOK)』に『蛍・納屋を焼く・その他の短編』『パン屋再襲撃』『東京奇譚集』の解説を書きました。
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 コイバナ!恋せよ花火 10 (マーガレットコミックス)

 まあ人気連載の常とはいえ、前作『パフェちっく!』がせめて半分ぐらいの長さで終わっていてくれたら、と今でも思わないのでもないのだったが、この『コイバナ! 恋せよ花火』に関しては、この10巻できっちり蛇足のないところで閉まり、しかも十分に満足のいく結果を残してみせたのだから、ななじ眺というマンガ家をなめてはいけない。いや、たいへんおもしろかった。男性を受けつけないヒロインと高飛車なイケメンさんの関係をベースにしたラヴ・ストーリーを、ぶれなく最後まで進められたのがよかったし、たとえば二股のあいだで触れる乙女心などではなく、一途な想いはさまざまな障害を越えうるかもしれない、という可能性を作品全体のテーマに置いていたのは、ピュアな印象をこよなく高めていたように思う。また、そのような主題に着目すれば、ワキの人物たち、サイドのエピソードが豊富でありながらもたんなる迂回路に止まっていない。クライマックスに向かい、各人がそれぞれ抱えている問題に自分なりの解答を出していく。そこからは物語を決着することでしか果たせない作者の責任あるいは覚悟とでもすべきものが見えてくる。良作であった。

 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他ななじ眺に関する文章
 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
2010年11月28日
 CHANGE UR WORLD(初回限定盤1)(DVD付) CHANGE UR WORLD(初回限定盤2) CHANGE UR WORLD

 ああ、やはりKAT-TUNを補えるのはKAT-TUNだけなのであって、何人たりとも彼らの替わりにはなれやしねえんだ。性急でいてパワフルなビートがそうさせるのか、あるいはヘヴィ・メタリックなアプローチがこのグループに最も似つかわしいからか、通算13枚目となるシングル「CHANGE UR WORLD」は、前シングル「Going!」に漂っていた躊躇いを見事に吹っ切っている。正しく会心の一撃であろう。

 今を生きろ、と言うのは容易い。だが、今を生きる、これを繰り返し続けるのはとても難しい。しかし、結局のところ孤独な自分の運命は自分にしか変えられないのだし、それは常に、今をいかに生きられるか、にかかっている。激しいハード・ロックを盾に〈テキトーな嘘でバックれて / ありえねーウソ並べたって / 世界 / 変えられやしない…〉ので〈ギリギリでいつも生きていたいから〉と歌い、デビューしたKAT-TUNが、そこからさらにアップデートされたマシンで高速域を駆け抜けるかのように〈U CAN CHANGE UR WORLD 煌めきを / もう逃さないよ / COME WITH ME この世界を / 変えてみようか / 今 / 手を / 空へ / 足跡は刻まれる / 全ては / この手の中〉と今もなお歌い続けるさまには、決して目減りしないエネルギーが宿されていると思う。

 とにかく強烈なのはバックのトラックである。だいたいこの、スピード・メタルを参照しているんだかハードコア・テクノを参照しているんだかよくわからないまま、ただただアッパーに刻まれていくリズムは一体何なのだ。ヘッド・バンギング調のギターやトランシーなシンセサイザーの響きと相まって、必ずしも趣味が良いとは言い難い。にもかかわらず、本来なら下世話でいて破廉恥なはずのそれが、伸びやかなヴォーカルのメロディと化学反応を起こしながら、絡み合い、愚直さを踏み越えるほどにポジティヴで力強いセンセーションを実現しているのだから、恐れ入る。

 そして、バックのトラックに負けじと息巻く田中くん(JOKER)のラップ・パートだ。これがある意味では「CHANGE UR WORLD」最大の決め手だろう。かねてよりKAT-TUNのアンセムに欠かすことのできなかったそれであるが、ここでは曲中のブレイクを果たすのみではなく、さらに扇情的なフックとなりえている。ヴォーカルの面において、現在の5人編成は、いくら各々のふんばりを認めようとも、オリジナルのラインナップと比べたとき、少々出力に不足があるのを隠せない。仕方がないのである。しかし、田中くんのアジテーションがそれを肩代わりした、というのでは語弊があるので、なるたけ正確を期したいのだけれども、低い声でドスを利かせたラップが、全体のなかで大きなアクセントとなり、ヴォーカル・パートにもうちょっと厚みが欲しいところを、ひっくり返し、清々しくもフレッシュな印象に変えているのだった。

 いずれにせよ〈低脳 / 手と手を合わせPRAYしろ〉という攻撃的なフレーズが音楽番組などで堂々炸裂していたのは痛快であったし、〈FLY HIGH SOLDIERS / (WOW)WE'RE SOLDIERS / (WOW)LIKE A SOLDIER / (GO HOME)お帰んなさい / (欲の)亡者 / (ただの)傍若無人なGAME〉と韻を並べたクライマックスの男伊達ときたら。爽やかさのなかに無骨な態度を覗かせる。

 田中くんのラップ終わり、激しさが一旦止む。しかしてそれをバネに再度の盛り上がりが生じていくのだったが、ここだ。ここで上田くん、田口くん、田中くん、中丸くん、亀梨くんと、次々にスポットライトが移っていく展開は、KAT-TUNという個性の内訳を明確に教えてくれる。とくに〈今 / 手を / 空へ / 限界を超えてゆく〉と中丸くんがキーをハイに入れるのを受けて〈CHANGE UR WORLD〉と亀梨くんがシャウトするその声は、か細さのなかに目いっぱいのエモーションを張り詰めさせていて、取り返しのつかないことを取り戻そうとするのがたとえ無駄だとしてもそうせずにはいらない、抑えきれないぐらいの切実さをこちらの胸に突き立てる。うまいへたとはべつのレベルで、きりりと引き締められるものがある。

 かように「CHANGE UR WORLD」は豊富なトピックを持っているのだけれど、いやいやカップリングに収められた他のナンバーにしたって、どれもがタイトル・トラックに劣らないほどのインパクトを有しているのが、まあ一言で言えば、やったね、なのである。初回限定盤2の2曲目、田中くんのラップで幕を開ける「REMEMBER」は、アレンジのみならず歌詞も含めて、80年代のスタジアム・ロックを彷彿とさせる。時代錯誤だと思うかい。おそらくそうではないだろう。そうではなくて、海外の若いハード・ロック・バンドにも同様の傾向がうかがえる00年代以降の流れをきっちり受け止めているのだと考えられたい。そしてそれが、こうもジャストに決まっているアイドルがKAT-TUN以外のどこにいるっていうんだ。

 同じく3曲目の「ニートまん」は、上田くんのソロ・ナンバーで、すでにMOUSE PEACE名義のコンサートで披露されていた。ヴィジュアル系にも似たソリッドさとアニメ・ソングみたいなハイ・テンションを併せ持ちながら、(・∀・)こうしたAAを多用し、働きたくないよ、と夢想をオープンにしているのが、ひじょうにキュートであるし、痛快だ。作曲に、声優関連の楽曲でも仕事をしている黒須克彦が関わっていることから示唆的なとおり、間違いなく意識的にインターネットやオタクの文化圏へアクセスを試みている。

 NTT presented by Junnosuke Taguchiとクレジットされた4曲目の「GIRLS」は今回、裏のハイライトと呼ぶに相応しい。NTTとはずばり、中丸くん、田中くん、田口くんの3人の頭文字をとったユニットである。田口くんが指揮をとり、ダンサブルでエレクトリックな高揚感にラップをメインで搭載し、ぶっちぎりのパーティ・チューンが繰り広げられるのだったが、これがもう、田中くんと中丸くんのヒップホップ・サイドにおけるスキルを存分に味わえるのがたまらなく。田中くんが〈振り回せ (Boom!Boom!) ここバビロンcity / Raga song 踊らにゃ損 / 踊るAho! に見るAho! 踊れAho!〉とけたたましいフローを効かせれば、中丸くんは〈HBB Look at Me! Me!/ かなりHigh俺らNTT / やれるもんならPull upさせてみな〉といった具合に血気の盛んなヒューマン・ビートボックスを聴かせる。どちらにもKAT-TUN本体ではなかなか顕在化しないスリルが満ち溢れているのが嬉しい。無論、それらの特性を自分のフィールドに持ってき、すばらしくまとめ上げた田口くんの辣腕を忘れてはならない。三者三様、スタイルもアピールも異なった3人によって織り成されるコントラストは、確実に体温をアップさせる。まるで腕を掴まえられて、引っ張られ、次のとおり誘われている。〈俺らのPaceに / 置いてけぼり?/ って下らんノリって気付きなさいな / もう懲り懲りって言い訳並べず / 心の檻ってぶち壊すもんじゃありませんか?〉

 以上のフレーズは田中くんによるものだが、「CHANGE UR WORLD」はもとより、「GIRLS」ばかりではなく、他のナンバーも含め、そのラップが以前にも増してヴァリエーション豊かとなっている点に、KAT-TUNの現在と今後が占われている気がしないでもない。少なくともそれは「Love yourself〜君が嫌いな君が好き〜」後の混乱を経て訪れた「Going!」から「CHANGE UR WORLD」への変化と符合しているのである。

 たとえば、通常盤の2曲目にあたる「GIVE ME, GIVE ME, GIVE ME」でも田中くんのラップは、グループ自体の足どりと同時進行上に新たな存在感を得ている。「Love yourself〜君が嫌いな君が好き〜」以降、特徴的となっていたオートチューン・ポップスの路線は「GIVE ME, GIVE ME, GIVE ME」に受け継がれた。JUJUや加藤ミリヤ、西野カナなどのプロデュースで知られるジェフ・ミヤハラが作曲を担当しているのだけれども、メロウに濡れそぼったフィーリングは、なるほど、それらのアーティストから連想されるものと大きくかけ離れてはいまい。一方で、しっとりとしたスロー・ナンバーであるにもかかわらず、ギターのリフがぎゃんぎゃん鳴り、重量級のリズムがずしんと響く、こうしたアレンジに対し、さも当然のごとく、せつなかっこういいモードを全開にしているのが、とてもKAT-TUNらしいし、またここではZEEBRAばりの凄みではなく、KREVA寄りの柔らかさで、悲しみと優しさの中間点を手探り、綴っていく田中くんのライムが、タイトルどおりに〈GIVE ME GIVE ME GIVE ME GIVE ME ONE MORE CHANCE〉と重ねされていくコーラスをさらに印象深くしている。

 ところで田中くんの話を続けたいのだったが、通常盤3曲目の「NEVER×OVER〜「-」IS YOUR PART〜」において、従来のJOKERではなしに田中聖の名義で作詞にクレジットされているのは、楽曲の特性を考える上で意外と重要に思われる。メンバーの紹介をリレーするという、まあSMAPでいえば「Five True Love 」や「FIVE RESPECT」に近しい位置づけのナンバーである。その制作に、JOKERと田中聖のパーソナリティを使い分ける彼が、あくまでも後者を選び、関与しているのは、KAT-TUNのTであることの明確な意思表明にほかならない。各々のソロ・ナンバーをリミックスし、高速のビートで繋ぎ、メドレー化したバックのトラックは、ひじょうに効果的でいて、中丸くんから亀梨くん、亀梨くんから田口くん、田口くんから田中くん、田中くんから上田くん、上田くんから中丸くんへ、手渡されたバトンをマイクに変え、KAT-TUNのイニシャルを循環するヴォーカルには、紛れもなくこのグループの現在が印されている。

 そう、そして未来はまだわからない。〈READY「K」 CARRY「A」 FOLLOW「T」 MORE「T」 WOW WOW CALLING「U」 HURRY「N」 WOW WOW〉と繰り返しながら歌われるなか、しかし運命は常に開かれていることが〈FOREVER... WE NEVER GIVE UP THE DREAM 「FOREVER... WE NEVER GET AWAY」〉というメッセージに、そのために今を生きなければならないことが〈WE NEVER OVER「OVER」 WE NEVER EVER CHANGE「WOW YEAH」〉というメッセージになり、託されているのだと信じられる。

・その他KAT-TUNに関する文章
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2010年11月22日
 何はともあれ『ヤングチャンピオン』NO.23(前号)の次号予告を目にした瞬間の衝撃といったら。うおお、ついにこのときが来たか。声をあげずにはいられなかった。まさかまさか、立原あゆみの二大巨編『本気!』の主人公と『仁義』の主人公の共演が仄めかされていたのである。実際、ファンの多くにとっても事件であったろう。もちろんこれまでにも同一の世界観をシェアする立原の作品群において、双方の作品がリンク、ニアミスする機会がまったくないわけではなかった。しかし、あの白銀本気(まじ)とあの神林仁と八崎義郎のコンビが直接に相まみえることだけは、それがまるで犯してはならないタブーであるかのごとく、避けられてきたのだった。だが、とうとうその禁は破られた。『ヤングチャンピオン』NO.24に掲載の『火薬』で、本気と仁義が緊張とともに接触を果たす。

 とはいえ、立原あゆみデビュー40周年特別企画として発表された読み切りの『火薬』から、メモリアル以上の側面を見出すことは難しいかもしれない。けれどもやはり、いやむしろこれが描かれたということに意味がある。『火薬』では、現在連載中の『仁義S』の番外編に近しいスタイルがとられている。『仁義S』の主人公である猿山アキラが、漁師組合の揉め事にかり出され、同じく解決に出向いていた気志団というグループと邂逅する。いうまでもなく、アキラのバックに付いているのは仁と義郎である。そして、気志団のバックには本気がいる。つまり、アキラと気志団とをそれぞれの代理に置きながら、仁義と本気はお互いを視野に収めることとなるのだった。無論、ファンの願望としては、あのマンガの主人公とこのマンガの主人公はどっちが強いんだろうね、的なドリーム・マッチを実現してもらいたいところであって、残念ながらというべきか、それは叶えられなかった。あくまでも一つのエピソードの両端を『仁義』のメインと『本気!』のメインが担っているにすぎないのだったが、場合によってはさらなる展開もありうるぞ、と期待させる決着が心憎い。

 それが立原あゆみ版『大甲子園』になるかどうかは不明ではあるものの、もしもあるとすれば『本気!』シリーズの正統な続編として描かれる可能性が最も高い。『本気!サンダーナ』と『仁義S』の物語を通じ、巧みに回避されてきた風組と関東一円会と極地天道会の三つ巴が、壁村耐三というカリスマをかつて抱いた『あばよ白書』の猩猩組はもとより全国の極道を巻き込み、にわかに日本が内乱状態と陥ったなか、すべてのヤクザの夢はヤクザをやめることでなければならない、このようなテーマを背負った本気が、テロリズム的なアプローチも良しとする『仁義』シリーズの世界へと介入していくというのが、作者のヤクザ・マンガを総括するのに相応しいシナリオであると思われるのだ。『本気!』も『仁義』もスタートした当初は、いけいけのチンピラを題材にすることで成り上がりのストーリーにダイナミズムを生み出していたが、作品の性格は完全に異なる。どれだけ慈愛を生きられるか、を本気が体現する一方、仁や義郎が引き受けていたのは、どれだけ非情に生きられるか、であったろう。

 今回の『火薬』において、本気はほとんど事件に関与していない。『弱虫(ちんぴら)』のクライマックスと同じく、ただ圧倒的な存在感を知らしめるのみである。仁に〈あの野郎 指鉄砲でオレを殺した〉と言わせ、義郎には〈男も女も触ってはいけない奴がおる〉と言わせるにとどまっている。しかしそれは立原ワールドの真底に込められた揺るぎない信念を実は教えているのであって、本気の姿を目の当たりにしたアキラが〈オレは! 潰しがいのある憧れがいたような気がした〉と火をつけられるのは、深遠を覗き見ることによる畏怖と尊敬のためにほかならない。

 ※立原あゆみの足跡や影響に関しては、『立原あゆみ 雑誌掲載作品データ』を同人誌で出されているsoorceさんのブログ「情報中毒者、あるいは活字中毒者、もしくは物語中毒者の弁明」にたいへん詳しくまとまっているので、ぜひそちらも御覧になってください。現在、立原あゆみデビュー40周年記念イベントも行われております。

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  12巻について→こちら
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  10巻について→こちら
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  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
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 『涙星〈アース〉チンピラ子守歌』1巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
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 『極道の食卓』
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 『ポリ公』
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 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2010年11月21日
 絶叫学級 6 (りぼんマスコットコミックス)

 09年8月にサークル・WAIWAIスタジオが出した同人誌『ぶっとびマンガ大作戦 Vol.13』では、口裂け女マンガが特集されている。そこで新田五郎は、どうして70年代後半に口裂け女伝説が流行ったのか、〈多くの解説者の言うとおり〉としながら以下のように述べている。要するに〈「多くの子供が塾に通い始めた時期」であったことは大きい〉のであって〈学習塾が、それまでとは違った子供たちのうわさネットワークとして機能した可能性は大いにある〉のだし、〈一方で、「地域内のつながり」が急速に薄れていく時期でもあった〉から〈わけのわからない人間がそこら辺にまぎれていても、不思議ではない状態になっていた〉ことの反映として、なるほど、口裂け女はいたのかもしれない。また新田が〈「口裂け女」とは、「口裂けでなければならない」という要素と「だれでもなるかもしれない、なってしまうかもしれない」という要素があって、超個性派で出自がしっかりしているドラキュラやジェイソン、フレディ、あるいは貞子などと、まったく無個性で十把一絡げの「ゾンビ」との中間的存在ではないかと思うのだ〉と、その特性を推理しているのは興味深い。

 いしかわえみの『絶叫学級』は、都市伝説型のホラーを短編のスタイルで描いていくマンガであるが、6巻に口裂け女を題材にしたエピソードを収める。話の筋自体はひじょうにシンプルで、凝っているとは言い難いのだけれど、口裂け女を現代に蘇らせることの必然とすべきものがその向こう側には着実に備わっているように思う。『絶叫学級』の口裂け女は、男子生徒に人気があった女性教師の不幸となっている。それはつまり、大人が子供の社会に介入することの困難を反映しているのだろう。ここにおそらくは今日性が見られるのである。学校という半径の小さい世界において、教師と学生の関係はかつてと違ってしまっている。両者の立場はもはや教えると学ぶの取り引きをキープしてはおらず、たんに射程が狭いゲームへ揃って参加しているにすぎない。結果、偶々陥れられた側の悲劇と報復とが口裂け女のイメージに象徴化されているのだった。さらに注意されたいのは、巻末に加えられたエピローグにあたる「番外編」だ。〈現代の口さけ女の苦手なもの それは「大人数の子供」だと言われている〉と決着するそれは、もちろん孤独や疎外感に対しての否定となっている反面、子供の社会を自己完結させ、共同体の内なる規範を自動的に強化してもいる。

 共同体内部の規範は、ときとして同調圧力の脅威となり、所属する人間を苦しめる。八方塞がりにする。いじめはその具体例であろう。はたして、いじめのなくならない世界をどう生きるか、これをテーマにした「悪魔になった日」は、作品のナビゲーターである黄泉の過去編に通じるものがある。黄泉が作中人物たちの運命にほほえみかけているようであるのも、きっと、そのためだ。退屈な日常に飽き飽きした少女の不思議な体験を描いた「黄泉行きバス」は、確かに人生賛歌のクリシェではあるものの、ああもう、ちくしょう、最高に泣かされる。〈お前は生きてるんだ 毎日なんていくらだって変えられる 「つまらない人生」なんて悲しいこと言うな〉こういう真っ正面からのメッセージに照れないことこそが健全と呼ぶに相応しい。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『自殺ヘルパー』(原作・吉成郁子)について→こちら
2010年11月19日
 トクボウ朝倉草平 8 (ジャンプコミックスデラックス)

 インターネット時代の感性でハードボイルドをマンガ化するとこうなる。そしてそれがハーフボイルドのようなレディメイドになりかねないところを躱し、皮肉とロマンに満ちた世界を完遂しているのが『トクボウ朝倉草平』の最大の魅力であろう。本作で高橋秀武は十分な腕前を披露した。もちろんこの最終8巻でも、ひりりとしたユーモアは健在であって、単発のエピソードにおいて生き生きとしているのだったが、全編を通じ、大きな流れをなしていたツルイ警備との決戦には、思わずこう、やってくれたなあ、とシリアスに胸の高まるものが込められているのである。兎にも角にも、一見すれば奇人変人の類でしかない主人公、朝倉草平の行動理念が、その個人的な正義が、あくまでも徹底し、貫かれているがゆえに巨悪を砕く、こうしたプロットを堂々展開しているのが、良いよ。たいへん盛り上がる。ここで重要なのは、草平の、個人レベルの正義から、しかし確かに頷かされるだけの確信が得られることなのだ。それは権力に対する懐疑として、まずは次のとおり述べられる。〈権力ゲームさ 権力なんて 単純に競技人口が多いだけのただのスポーツさ 権力を手にしたらなにができるのか…… 別に なんにも…… 別になんにもないんだ 結局みんな 権力というお山のてっぺんからいい景色が見たい… たったそんな事… そんな子供みたいな事で血眼になっているのさ……〉と。これを聞いた平凡な刑事の辻恵一が〈……俺は見てみたいっすよ… いい景色〉と言っているのは、しごく真っ当であって、必ずしも批判されるべき意見ではない。誰だってこの世界や社会のプリンシパルになりたい。本音を曝せば、そうした欲望を斥けることは難しい。だが草平はそれすらも容易く〈…そうかね〉と一蹴する。〈お山の下に広がっているのは こうして僕らがはいつくばってる地面に決まっているのにかい…………〉そうやってひっくり返してみせるだった。草平の態度は、いたって平明だといえよう。要するに、皆がのぞんでいるゲームには乗らないよ、と断じている。問題は、それが単に天の邪鬼である以上の意味合いを持てているのか、あるいは否か、であろう。実際、彼の態度は、クライマックスにおいて、物語上のスリルと不可分になっていく。はたして、すべてが決着し、ラストを飾るカットの、作品の印象さえも左右しそうなほどに穏やかなイメージは、どこからやってきているのか。最も注意されたいのは、主人公がベンチに寝そべっている構図である。そうしてその視線の先でひろがっているものにほかならない。空だ。ここにきて〈お山の下に広がっているのは こうして僕らがはいつくばってる地面に決まっているのにかい…………〉という、彼の言葉が思い返される。草平は権力の頂点に立つことで眺められたはずの景色を見ようとはしない。決してしなかった。かわりに、晴れ晴れ、果てしなく続いていくかのような空を見ている。いうまでもなく、それは安らぎの象徴である。

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2010年11月15日
 花宵道中 4 (フラワーコミックスアルファスペシャル)

 ちくしょう。悲劇ばっかりじゃねえか。宮木あや子の同名小説を、斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』だが、あたかも近世の底辺であるかのように描かれた遊郭では、その華やかさとは裏腹にまったくの不幸せが綴られる。小説のほうを確認すれば明らかなとおり、構成と内容は、原作を忠実になぞらえているといっていい。もちろん、それに絵が付くことでイメージにはっきりとした輪郭が備わっているのは、マンガ版ならではの利点だろう。連作の形式で繰り広げられる物語は、この4巻で、今までに含められてきた因果関係の全貌を教える。これがもう、最高に哀しい。霧里の苦労が、半次郎の想いが、朝霧の恋が、互いに平行線であった世界が密に繋がり、ああ、という大きな溜め息をもたらすのだった。『花宵道中』に示されている不幸せとは、おそらく、あらかじめ定められた運命を決して変えられない、このことに集約されると思う。どれだけ藻掻こうが、いくら抗おうが、地滑りし続ける人生は下へ下へ向かうのを止めない。夢は夢のまま、潰えるよりほかない。しかしながら、すべては苦しみにすぎないのか。確かに作中人物たちはその生涯を閉じる間際にしか安息を得られない。だがそこで見られる光景は、いつだったか各自の胸を満たした幸福の、鮮やかなリフレインでもあったろう。たとえ少しでも、たった一つでも、記憶をやさしく撫でるものがあったとすれば、それはもしかしたら懸命に生きたことの証になるのかもしれない。はたして、霧里や朝霧の妹分、八津もまた、彼女らと同じく悲劇を辿ろうとしている。どうか、髪結の職人である三弥吉との出会いが八津にとっての救いであって欲しい。そう祈らずにはいられない痛みを湛え、新展開の第四部が幕を開けた。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年11月11日
 マンガ史に名が残ることはないだろうし、大勢に影響を与えることもないのだろうが、しかし良質だと認められる作品が一つ、完結した。所十三の『AL(アル)』である。『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』とその続編『D-ZOIC』で、恐竜時代のファンタジーを確立した作者が、新たな趣向を凝らしながら、やはり見事なまでにダイナソーのロマンを描き上げている。『ユタ』シリーズと大きく異なるのは、人間(ホモ・サピエンス)がいっさい登場しないことだ。すなわち恐竜や古代生物しか出てこない。もちろん、恐竜の生態をイメージし、スケッチを試みたマンガというのは、これまでにも数々ある。この作家にも『DINO2』があったことを忘れてはならない。だが『AL』ではそれが、あくまでも少年マンガ的なエンターテイメントの正統に昇華されている点こそを、高く見られたい。人間の少年像を模したトリケラトプスの主人公アルが、いくつもの障害を乗り越え、多くの仲間を得、宿敵であるティランノサウルスの牙王率いる肉食の軍団に戦いを挑んでいく。テイストとしては、高橋よしひろの『銀牙』シリーズやアニメーションの『ガンバの冒険』に近しいかもしれない。いずれにせよ、小さき者たちが力を合わせて大きな存在に立ち向かう姿に燃える。感動させられる。クライマックスにあたる4巻で、ついにアルは牙王と直接対決することになる。もうねえ、このあたりがさあ、アルの仲間カブの如実な成長であったり、老兵のエドが若い世代に託す希望であったり、心をぐらぐら揺すってきてたまらないのであった。確かに、展開としてはステレオタイプなのであって、古くさいと言わば言えなのだったが、いやいや、少年マンガ的なエンターテイメントの正統とは、ずばりこれではなかったか。愚直なほどに、健全なぐらいに、核心を突いている。反面、そのような性格、作風や題材を含め、ほとんどキャッチーには思われなかったのが惜しい。また、デフォルメよりもディテールを優先したせいか、作中の個体に区別がつけづらく、こいつ誰だったっけな、感情移入を逃してしまう場面が少なくなかったのも悔しい。

・その他所十三に関する文章
 『D-ZOIC』
  6巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら 
 『白亜紀恐竜奇譚 竜の国のユタ』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年11月07日
 ヤクザ・マンガにとって北海道とは何か。このような問いは一考に値するのだったが、なるたけ深い検討がなされなければならないと思われる以上、とりあえずは提起だけにとどめたい。まあ、新宿が舞台であればVS中国や韓国の、沖縄が舞台であればVSアメリカの、北海道が舞台であればVSソビエトの、といった具合に、ある種の喩えを含んでいるのは間違いない。そこでは戦後という残響のなか、対外と接しなければならない極道の真髄が、ひいては日本人としてのアイデンティティが試されているのである。たとえば、史村翔と池上遼一の『サンクチュアリ』や本宮ひろ志の『男樹・四代目』を代表例に挙げられるだろう。しかし、立原あゆみの『本気!』の主人公が北海道出身であったり、和久井健の『新宿スワン』(厳密にはヤクザ・マンガではないがやっていることはヤクザと一緒)の主人公が北海道に渡らなければならかったりしたのは、必ずしもその限りではないと思われるし、また高橋のぼるの『土竜の唄』ではどうだったか。ほかにも参照すべき作品は多い。

 無論、東元俊也の『破道の門』もその一つに数えられる。部分的にではなく、全面的に北海道を舞台にしているのは案外珍しい。他方、ロシアン・マフィアが麻薬の象徴であるような点は、こうした系統のパターンであろう。そしてやはり、ここでのヤクザは外国からの勢力に対して国防あるいは自警の役割を果たしている。もっとも物語上の要点は、この10巻で完結した段階から振り返るに、もっとべつのところに求められるかもしれない。ロシアン・マフィアに両親を殺された若者、藤沢ケンジの復讐劇でもあったわけだが、それはつまり、天涯孤独となってしまった彼が新しい家族を得ていく過程でもあったのである。8巻以降、クライマックスに向かい、そのテーマは急激に加速する。ヤク中になりかけたケンジを救うべく兄貴分の虎島は、自分たちが家族であることを強調する。文字どおり、オヤジである組長が死ぬ。ケンジの実の父親が明かされる。そして九条英治というカリスマは、ケンジを庇いながら、こう言うのだった。〈おまえの父親が誰だろうと関係ねぇ‥‥おまえは俺の弟だ〉

 ともすると『破道の門』における擬装破門とは疑似家族の言い換えにあたる。組織というよりは共同なのである。しかもそれは自分で自分の運命を選び直した結果、属するものとなっている。すなわちア・プリオリにはありえないのだ。必然、仁義や民族ですら無関係といえるだろう。ハイライト、父殺しの試練を経、寄る辺を獲得するケンジとは反対に、宿敵イワノフはすべてから切り離されて、死ぬ。そこには新しい価値観が興り、旧い価値観が没するといった構図が生じている。ロシアン・マフィアであるイワノフの生涯は、戦後という残響のなか、ソビエト史とともにあったのだったが、ケンジの背景にもはや日本史は存在しない。それをラスト・カットに掲げられた〈極道でもマフィアでもない新しい道――――俺たちは“破道”を進む〉このような宣言は象徴している。

 いちおうは第1部完の名目でストーリーは閉じているけれども、はたして第2部が描かれるかどうかは正直わからない。もしもあるとすれば、共同とは別個のテーマが設定されなければなるまい。

 1巻について→こちら