ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年10月29日
 ドミノ (マーガレットコミックス)

 山口いづみの『ドミノ』は、とにかくその表題作に見入らされるものがある。全三話で成り立った長めの短編とでもいうべきマンガである。作者のこれまでと比べるなら、他の作家をよく勉強し、吸収、取り入れ、とくに絵柄や構図のレベルにおいて、従来の作風とは異なったところを出してきているのだったが、それが下手な色気とはならず、上手い具合に引きの強さをつくり、随所にさわやかでいて、自然と気持ちの高まる風をふかせる。

 ストーリーは以下のようなものであって、ことさら凝ってはいないだろう。子供の頃から好いている央太と高校でも一緒になれ、心を弾ませる柚子であったが、ケンカの噂が絶えない問題児の仁科と同じクラスになってしまい、彼と顔を突き合わせるたび、互いの印象を悪くしていく。しかし央太がもう一人の幼馴染み、千春と付き合うことになり、意気消沈する柚子を励まし、元気づけたのは、意外にも仁科の気遣いであった。また、物怖じしない性格の柚子と接するうち、他人に対してナーヴァスになっていた仁科にも変化があらわれはじめる。

 要するに、犬猿の仲を思わせる男女のあいだに恋愛感情が生まれるまでを「ドミノ」は描いていて、まあそれ自体は特筆すべきトピックになりえないのだけれども、登場人物が少なく、ひじょうにシンプルな筋のなかで、たった一つの出会い、関わりが、いかにそれぞれの心を動かすかを、すでに述べたとおり、不器用な様子がドラマティックにも感じられるほどのさわやかさ、場合によってはそれが藍より出でるぐらいの青さをもって、掴まえられているのだ。

 もしかすれば、小玉ユキの『坂道のアポロン』や吉田秋生の『ラヴァーズ・キス』等に見られるような、自己表現が拙いあまりに屈託した少年像を、あくまでも少女の視点や所感を引き出すために擁し、物語の本質をまったく『別冊マーガレット』のカラーに染め直した作品、という印象を抱く。だがそれが、こんなにも心地の好いエモーションを連れてきてくれることが、何よりも嬉しい。コミュニケーションというのは、実に不思議なものである。ちぐはぐ、絡まり合って、しばしば厄介になる。でもそこからがほんとうのスタートではなかったか。面と向かい、会話を重ねるにつれ、次第に表情を変化させる柚子と仁科の姿は、ちょうどそのことを教えているのだと思う。

 表題作のほか、もっとも先に発表された「夏月花」には、作者の本来の持ち味がよく出ている。「小さな世界で」には、「ドミノ」へと繋がっていく試行錯誤を求められる。いずれも習作にとどまらない魅力を放っている。

・その他山口いづみに関する文章
 『ハルフウェイ』について→こちら
 『アカンサス』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キリン』について→こちら
 『恋愛幸福論』について→こちら
 『HAPPY DAYS』と『ビターチョコレイト』について→こちら
 『ロマンチストベイビー』について→こちら
2010年10月26日
 前巻、それまでに背負ってきた重荷のため、照と訣別しなければならなかった黒崎(DAISY)の告白は、いっさいが取り返しのつかない段階に入ってしまったことを教えるほどに、悲痛であった。そして照は、黒崎が兄の死に関与していたことを知ってしまい、また彼が何の弁解もせず自分の元を去ったことに対し、たいへんショックを受ける。以上のようなくだりを経、最富キョウスケの『電撃デイジー』はこの8巻で、過去の因縁を解き明かしながら、サスペンスの色合いを濃くしていくのだった。が、基本としては、精神の暗がりにはまってしまった青年をヒロインの懸命さがすくい上げようとする、という実に少女マンガのロマンスらしいコンセプトを踏襲しているのであって、物語上のエモーションもそこに由来しているといえる。おそらく二人が再会を果たすのは次巻以降であろう。ここでは〈何かあるのかな 私にできること… なんでかな むずかしいよ わかんない 私のお兄ちゃんを殺したと言って いなくなった人に 私は何を伝えたらいいんだろう またまちがえるくらいなら じっとしていたい… きっと私じゃなくったって 誰かが……〉と意を失しかけた照が、周囲の人びとの助けを得、立ち直り、兄と黒崎のあいだにいかなる繋がりがあったのかを理解、〈ねえ お兄ちゃん 私にはわかったよ お兄ちゃんは間違っていない 私これから黒崎のこと助けに行くよ〉ふたたび為すべきを取り戻すまでを描いている。回想型の展開が続き、いささかシリアスな調子を強めているのだけれども、そのような構成において支配的になっているのは、モノローグに乗せられたポエジーである。7巻では(黒崎の)携帯電話からのメールに顕著であったそれは、今巻では(兄の恋人であった理子の)照に真相を打ち明ける語り、(兄や黒崎の恩人であった緑川教授が)黒崎に残した手紙などに垣間見られる。もちろん、先に引いた照の心の声であるようなパートもしかりなのだが、しかしそれだけはまだ(読み手以外の)本来届けたい相手に達していないことが、ある種のせつなさとこれからのストーリーを呼び込む。

 7巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他最富キョウスケに関する文章
 『青春サバイバル』について→こちら
 『ペンギンプリンス』について→こちら
 『プリキュウ』について→こちら
2010年10月22日
 僕らはみんな死んでいる 1 (クイーンズコミックス)

 閉鎖空間に隔離された人物たちが、さあ殺し合ってください、という今日的なフィクションの様式を、きらの『僕らはみんな死んでいる♪』は逆手にとっている。同じ日に死亡した8名の男女が神を名乗る何者かによって一室に集められた。そして一つの提案が出される。望むのであれば生き返りのチャンスを与えよう、と言うのである。それはつまりラブゲーム、そこにいる誰かと恋をすること、〈たとえばユーとユーがアチチになれば ふたりは生き返ってゲーム終了!!〉なのであって、元の世界に帰れるのだった。こうして、今まで互いに素性の知らなかった8人の奇妙な共同生活が幕を開ける。と、まあ、基本的にはワン・アイディアの産物と見なして良いだろう。不可抗力に課せられた条件は、各人の心理を深く掘り下げるための方便になっているのだと思う。このとき重要なのは、殺人のゲームとは違い、恋愛のゲームといった比較的に与しやすいものに対し、どのような抵抗を設けるか、障害を用意するか、すなわちドラマを駆動させるキーをいくつ作れるか、なのだが、1巻の時点では、殺人ゲームの場合との差異はじつはさほど大きくない。要は、状況の一変が精神にもたらした不安と混乱をベースに人間関係の整理をしているにとどまる。もちろん、長篇化の期待されているマンガなのだとしたら、今後の展開こそが本題になるのは間違いないのだけれども、まだストーリーが十分軌道に乗りはじめていないにもかかわらず、新たにゲームの参加者を追加してきた、このことの意味をどう判断するかは難しい。さしあたり盤上の駒を増やせば物語が動く、の論理でそれが行われているのだとしたら、当初の構想をひろげるにあたって、さっそくの手詰まり、先行きの不安を感じさせるし、いやいや、それすらも織り込み済みでまずは基礎が築かれているにすぎないのだとすれば、必然、奇数人数のなかにどう足掻いてもカップルになれない余剰が生じてしまう以上、べつに殺し合うわけでもないのに、サヴァイヴァルは過酷とならざるをえない。いきなり高いハードルを作品は前にしている。

・その他きらに関する文章
 『心臓より高く』について→こちら
2010年10月21日
 爆音伝説カブラギ(1) (少年マガジンコミックス)

 佐木飛朗斗の宇宙は、何度となくパートナーを違えながら、いくつもの作品をまたぎながら、つねに膨張をし続け、はたして秩序があるのかどうか、余人にはうかがい知ることのできない様相を呈しているのだったが、まさかそれがここにきて、ついにクロニクル化されるかよ、といった幕開けにまずは驚かされるのが、『爆音伝説カブラギ』である。

 作画をつとめる東直輝とは、『外天の夏』や『妖変ニーベルングの指環』に続き、三度目のタッグとなるのだけれども、それはさておき、イントロダクションにおいて、所十三と組んだ『疾風伝説 特攻の拓』の、あの群雄割拠を前史に抱いていることが明らかとされている。すなわち〈1990年 爆音小僧六代目真嶋夏生引退。族(チーム)は解散状態となる‥‥翌1991年 鮎川真里 CB400Fourを再生するとともに七代目を襲名。横浜大抗争時代の幕開けであった‥‥〉のであって、そこから数十年後、伝説のCB400F(フォア)を受け継ぎ、爆音小僧の十六代目を襲名した少年、鏑木阿丸の活躍を『爆音伝説カブラギ』は描く。

 天羽時貞が在籍した獏羅天は現在、B・R・Tというギャング集団に形態を変えている。魍魎の武丸は、その姿こそ見せていないが、大企業「一条グループ」の次期総帥として不良少年たちに憧れられている。時代は変わったのだ。にもかかわらず、あの頃と同じく街にはまだ血が流れ続けているようであった。そしてそこに登場するのが、真紅のCB400Fを駆り、かつては鮎川真里や浅川拓の通っていた私立聖蘭高校の一年に転校してきた主人公の阿丸なのだが、彼がB・R・Tの幹部候補である桜庭多美牡の幼馴染みであったことから、因縁の糸が複雑に絡まりはじめる。というのが、この1巻のあらましであろう。

 以前にも指摘したが、高橋ヒロシや田中宏(Wヒロシ)に代表されるとおり、現在のヤンキー・マンガは『機動戦士ガンダム』シリーズのようなアーカイヴ性と中上健次における路地のようなサーガ性を併せ持っている。佐木飛朗斗もまた、諸作を通じ、近しい傾向を強めつつあるといってよい。このとき『爆音伝説カブラギ』は、ある種のメルクマールになりうるのかもしれない。爆音小僧や獏羅天といった固有名は、要するに『機動戦士ガンダム』シリーズのエゥーゴやティターンズみたいなものだと考えられるし、桑原真也をパートナーにした『R-16』等にも役割を異にしつつ偏在していた「おバあ」とは、結局のところ、中上にとってのオリュウノオバみたいなイメージではないか。いずれにせよ、クロニクルならではの特質を前面に出してきたのは確かだ。

 他方、これまでとは傾向の違った点もうかがえる。何より、登場人物をむやみやたらに増やしながら、大風呂敷をひろげ、さらには不良少年が題材であるのに、なぜか政界や財界にもカメラを回し、物語がいったいどこへ向かっているのか、焦点が不明になる、という悪癖が(まだ)抑えられているのは、大きい。ヒロインも(現段階では)一人であって目移りしないし、おおよその対立構造もはっきりとしている。

 1-Dのクラスメイトたち、なかでも爆音小僧に思い入れの強い菊川富弥也の反感を得ながらも、次第に協力関係となり、阿丸は、多美牡ひいては蓮之葉学園やB・R・Tとの決戦になだれ込んでいく。このように筋道は(留保がしつこくて申し訳ないのだけれども、とりあえずは)一本化されているのである。

 そして、なるたけ注意されたいのは、主人公である鏑木阿丸の性格と行動だ。彼は決して『特攻の拓』の浅川拓や『外天の夏』の天外夏のようなオタクでもなければ消極的な人物でもない。宮沢賢治的な無抵抗主義あるいは神聖もしくは偽善によってそのポジションを確保されているのではない。むしろ積極的に自分の旗を振り、ばんばん敵をのしていくのである。この差は、やはり看過できない。作者の用意した都合の良さでは、もはや世界に関与することはかなわない。あたかもそう告げるかのようなパワーを溢れさせている。

 転校初日、自己紹介の場面で阿丸は言っていたな。〈夢は“宇宙飛行士”〉であると。〈凄ェだろ? テメェら! 成層圏脱出だぜ〉と。それはもしかしたら、まあ妄想が過ぎるものの、彼こそが佐木飛朗斗のつくり出した宇宙を飛翔し、抜けていった先でありとあらゆるを一望する、こうした企図を、象徴的に、思わせるのだった。

・その他佐木飛朗斗・東直輝に関する文章
 『妖変ニーベルングの指環』1巻について→こちら
 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
2010年10月17日
 少女共和国(2) (講談社コミックスキス)

 新任の教師はほくそ笑む。〈オトナ ナメんじゃねーぞ〉と。〈自分ならうまくやれるって思ってるよーだけど その自信は貧困な知識と想像力の産物だってこと おぼえといたほーがいいぜ いつか なにもできない自分を目の当たりにするよ〉と言うのである。そして少女は無理解な大人に対して〈先生――無知が愚かと言うなら 子供の気持ちへの親や教師の無知も愚かと思っていいんですね――〉こう憤り、次のように思うのだった。〈子供 ナメんじゃねーよ〉

 森下薫の『少女共和国』は半径の狭い社会に追い詰められた中学生のあらがいを描く。この2巻で完結した。1巻の段階では、もっと壮絶な果たし合いが繰り広げられるのかと思われたが、存外『中学生日記』的なレディメイドに終始している。しかしそのエモーションの切実さ、たとえば誠実さを望めば望むほど何もかもが裏返ってしまうような通念を前に膝を折りかけながらも、小さな希望をぎゅっと握りしめ、ふたたび未来を信じたいと願う様子には、間違いなく、こちらの胸へ届いてくるものがあった。

 トーコの機転によって、寛容さに乏しい担任の古関を陥れ、安息の日々を得た2-1クラスだが、代わりにやってきた日向は余計癖のありそうな教師であった。実際、彼はトーコの本性をいち早く見抜くと、激しい揺さぶりをかけてくるのだった。表向き、トーコと日向の対決をベースに物語は進んでいくのだけれども、全編の結末にあきらかなとおり、本質は、少々違う。日向は、トーコや子供たちの敵ではなく、あくまでも大人の立場を生きたい人間として登場している。このことの説明は難しく、ほとんど古関との比較でもって述べるしかないのだが、古関が大人であるかぎりは子供の敵以上の役回りが与えられていなかったのに対し、日向の場合、大人と子供の二項は必ずしも対立すべき概念ではない、という可能性を持たされているのである。

 正直な話、日向をもっとニヒルなタイプに仕立て、トーコとの対決を激化させた方が、ストーリー上のスリルは高まったろう。盛り上がったに違いない。そこが残念にも思われるのであって、結局のところ、日向の善意とでもすべき点がレディメイドな感触をもたらしているのだったが、もちろん、彼の第一印象がとりあえずのミスリードを狙っていたのだとすれば、それは決して失敗していないし、結果、古関とはべつの役割が担わされることとなっている。

 もしも簡単にまとめて良いなら、『少女共和国』のテーマとは、この世界の限定性のみを見、それを否定、変えてしまうことではなく、この世界の広さ、美しさを認め、いかにそれを受け入れるべきか、にある。クライマックスにルイ・アームストロングの「What A Wonderful World」が用いられているのは、まあ確かに、象徴的だ。そしてそのとき、トーコにとっての日向は、人生を先取りした存在、ある種の導き手にほかならない。いろいろなことを知りながら大人になるのは悪じゃないよ、という提言を果たしているのだと思う。

 しかしそれにしても、だ。どこまでが作者の意図なのかはわからないが、おもな登場人物のなかで、もっとも学校を嫌っていたトーコが進学し、他の三人(運野、ルイ、峰ちゃん)が日本の教育からドロップアウトしたかのようなラストを幸福と呼ぶのは、いくらか皮肉が過ぎる。

 1巻について→こちら
2010年10月15日
 彼はディアボロ!(1) (講談社コミックスフレンド B)

 霜月かよ子の『彼はディアボロ』は、作者にしては珍しい、と思われるようなコメディ色の強いマンガである。しかしながら、概容はひじょうにオーソドックスだといえる。憧れの上級生を射止めるべく、下手にまじないをかけたのがいけなかった。天使を呼び出したつもりが、現れたのは魔王ルシファーであって、女子高生の山田めい子は処女であったばかりに、無理やり魔女の契約を結ばされ、そいつにこき使われることとなってしまう。要するに、ちょっとばかりずっこけたヒロインがサドっ気抜群のイケメンさんにあれこれ振り回される、式のヴァリエーションになっており、ルシファーがめい子の担任教師、瑠偉として、学校に赴任してくるところから物語ははじまる。少女マンガによくあるパターンを、霜月の、必ずしも少女マンガふうではない作風でやっている、そのあたりが1巻を見るかぎりの特徴であろう。本来ならシリアスな調子の絵柄で、ハイ・テンションなギャグをやっているところが、大きな魅力となっているのだ。そこを含め、月刊の少年マンガ誌に載っていてもよさそうなほどにラブコメとしての射程は広い。

・その他霜月かよ子に関する文章
 『ベインズ』について→こちら
2010年10月13日
 フィクションのアウトサイダーにとってカリスマとは何か、の問題は今や主人公のポエム力に発揮されるものとなってしまった。こうした傾向は、和久井健の『新宿スワン』にまで及んでいるのだったが、ことヤンキー・マンガにかぎっていえば、柳内大樹の『ギャングキング』に顕著であろう。もしかしたら、昔からそうじゃん、と見られる向きもあるかもしれない。しかし、ここで留意しておかなければならないのは、現在の多くが、ストーリーやプロットを通じ、説得力の足しをつくっているのではなく、なんとなく気の利いたセリフを作中人物に自信満々で喋らせておけば全体の辻褄が合っていることになるんじゃねえの、ふうな誤魔化し、でっち上げにしかなっていない点なのであって、個人的にそれをあまり良しと思わない。背景に一本筋の通ったところを確認できず、かわりにポエム力を増長させるあまり、吉田聡の『湘南爆走族』やきうちかずひろの『ビー・バップ・ハイスクール』の頃にはあったハードボイルド性を薄れさせているのは、やはり時代性なのかもしれない。

 かくいう時代性を等しくしながらも可能性を感じさせるのは、奥嶋ひろまさの『ランチキ』のような作品である。ひとまず特徴として述べておきたいのは、確かに主人公の主人公たる資質はポエム力に委ねられているのだけれども、反面、腕力の強みはほとんど取り去られてしまっている。このおかげで、なぜポエムが正当化されるのか、それはね、ケンカの勝者が言っているからだよ、なぜ腕力が正当化されるのか、それはね、ポエム力があるからだよ、というトートロジーに陥ることを免れているのだった。口八丁の人物が成り上がりを達成していく様子は、鈴木大の『ドロップ』コミカライズ(掲載誌が一緒)に近接しているが、『ランチキ』のほうが、根性を見せることに対しての照れが少ない。外的な要因によって、というより、内的な必然によって、不良少年ならではの欲望の駆動されている印象が高まっているのだ。

 さてしかし『ランチキ』においてポエム力がいかなる効果を持っているのか。それは、まあ主人公自身にまつわるエピソードではないものの、この4巻で五島が種田双子の兄にどのような影響を与えたかのくだりにもよく示されている。五島本人の言葉を借りるなら〈あーあれか…単純やな…………〉程度の出来事にすぎないのだけれど、そこには正しくポエム力のなせるワザが認められるのである。だが、五島でさえも主人公の鹿野乱吉には〈こいつには口ゲンカでは敵わへんな…〉なのであって、そういうへらず口では負けを知らないような面が、彼を主人公たらしめているのは間違いない。五島に〈こいつには口ゲンカでは敵わへんな…〉と思わせたのは〈俺はなぁ 半殺しなんて怖くねぇ! 俺が怖いのは半分死んだみたいに生きることじゃ!〉というセリフに与えられたポエム力にほかならないのだが、いやもう、これはこれでやたら燃えてくるものがありますぜ、であろう。とはいえ、ストーリーやプロットのレベルで、乱吉ならそう意気込んでも不自然ではない、発言の中身にも頷ける、十分な裏づけがとられているので、思わず、がっとくる。

 乱吉の場合、ハートの強さに実際の腕力が追いついていない。このギャップが、物語の中軸をなすと同時に、ポエム力を顕在させているのだ。他方、『ランチキ』とは、チーム「鹿金(シカバネ)」の二人、乱吉と金田鉄雄(キム)のバディものでもある。十分な腕力がないので言葉が先走るばかりの乱吉と口数は少ないが立派にケンカのできるキム、彼らの関係は、言うまでもなく、ある種の対照となっている。結果、キムの活躍が目立てば目立つほど、乱吉の存在は相対化され、矮小なイメージを背負わされてしまう。当然、ジレンマが生じる可能性もある。そのような予感を、誌衛館高校との対決において、キムの仇をとるつもりであった乱吉が敗北し、反対にキムが乱吉の仇をとって勝利する、という展開はうかがわせる。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
2010年10月10日
 小説宝石 2010年 09月号 [雑誌] 小説宝石 2010年 10月号 [雑誌]

 よしもとよしともの『噛みながら』は、長嶋有漫画化計画の一環として『小説宝石』の9月号に前編が10月号に後編が掲載された作品である。長嶋の『僕は落ち着きがない』は既読であるものの、そこから派生した直接の原作小説に関しては(現在の段階では正式にリリースされておらず)目を通せていないため、ここではあくまでもよしもとの作家論的に話を進めていくことにしたい。

 今さら指摘するまでもないが、よしもとのマンガにおいて、死者の存在は、しばしば、重要なモチーフをなす。言うまでもなく、死者とは彼岸へ向かう者のことである。そしてそこには、此岸、つまりは我々が生きているこの現実をどう見つめるか、の問題が集約されているように思う。過去の作品を参照してみればあきらかなとおり、死者からの視線を意識し、それによって物語や構図が定められているケースというのは、決して少なくはないのだ。

 たとえば『青い車』(95年)を思い出されたい。主人公と女子高生のペアは、主人公の恋人=女子高生の姉が他界していることを共有していたのであって、ラストに近い箇所、女子高生の告白のなかで〈でも苦しいよ チクチクするんだ〉と言われている痛みは、一つの側面を取り出してみせるなら、まず間違いなく、死者である姉に応答した態度としてあらわれている。その前段に置かれた〈ねえ もし 神様がいたらさ きっと あたし達のこと 雲の上から観察してるんだ くそくらえだわ〉という印象的な呟きもまた、同様に受け取れる。神様と仮定されている背後には、おそらく、姉という死者の存在が意識されているのだ。こう考えるとするならば、『青い車』とは、此岸にとどまり、死者から見られている側の物語といえるだろう。低いカメラで登場人物を下から捉まえたような構図が多いのは、作品の焦点が彼らのいる場所=地上よりも高い位置に合っているからなのである。

 死者を向こうに回すことで、此岸に生きることの煩わしさを『青い車』は散文化しているのだったが、このような触感は、初期作『7-12』(86年)の時点ですでに確認できる。

 さてしかし、もう少しばかり発表の近いところから『噛みながら』と比較すべき作品を出しておきたい。『アヒルの子のブルース』(98年)である。そこでは、主人公の少年にあたかも此岸と彼岸のあいだに宙吊りされているかのようなイメージが与えられている。無論、いやあの少年は子供と大人とに切り分けられたあいだを浮遊しているのだ、との解釈も十分に許されるのだったが、それは時間の軸といおうか、縦の線を抽出しているにすぎない。死者との約束=現実の残酷さを前に果たされなかった約束が、少年の気を強く引いている以上、空間の軸として判断されるべきは、やはり此岸と彼岸のあいだを渡っているのであって、そのような横の線と先ほどの縦の線が交錯しつつ、ねじれ、深く絡まってしまっているところに『アヒルの子のブルース』のエモーションは託されている。

 これとよく似た成り立ちを『噛みながら』は持っていないか。すなわち、大人、子供、此岸、彼岸、の境界を四方に抱くどこかで混乱し、来し方はともあれ、行く末を曖昧にぼかされてしまった人物の、その心象を描いているのである。

 作中の設定などは、おおもとのアイディアである『僕は落ち着きがない』に程よく忠実だといえる。『僕は落ち着きがない』では不登校児だった頼子を主人公に、成長した彼女が偶々銀行強盗の現場に出くわし、その渦中で脳裏に去来する数々、高校生であった頃の記憶と、じっさい目の前で繰り広げられている椿事とが、まるで白昼夢のように、入れ替わる。この往復運動によって、大人、子供、此岸、彼岸、の境界が次々提示される仕組みとなっているのである。時間の軸を無視して聞こえてくる〈あんた 強盗に撃たれて死んだんだよ 頼子〉というセリフに暗示的なとおり、銀行強盗の所有した銃器は、死んでしまうこと、言い換えるならば、取り返しのつかなくなる可能性を孕み、我々が生きているこの現実を、頼子に突きつける。取り返しのつかなくなる可能性が、もはや過去でしかありえない出来事をもほじくり返す。やがて彼女は思うだろう。〈何もかも終わってたんだ あたしが引きこもっている間に〉

 しかしながら、物語上のカタルシスは、頼子が、取り返しのつかなくなる可能性のなかで逆立ち、意表をつく行動に出、もしかしたらこの現実も自分の運命もこの世界ですらも変えられるかもしれない、という期待をはっきり教えてくれているところにある。

 そのような点、〈得るために失うものがあるとしたら あたしたちは何を失くして 何を得たのか〉と悩み、〈恋人ができたり 別れたり 仕事がうまくいかなかったり 生きていくのは大変さ あの頃みたくヘコむ事がいくらだってあるんだ〉と実感していた主人公が、ついには〈スッゲー悔しいけど 仕方ないや 思った通りやったんだもん〉と気分をあらためていくあたり、確かに『アヒルの子のブルース』のカタルシスと通じるものがある。けれども、両者を並べたさいに重要なのは、『アヒルの子のブルース』では、あたかも此岸=我々が生きているこの現実は、彼岸から見られているかのごとく、地上から離れ、上空からのカメラで捉まえられたショット、構図を多用、表されていたのに対し、『噛みながら』において、作中の光景を収めるための視線は、もっと低い場所、ほとんど地上と同じ位置に示されていることだ。

 それこそ、小説として書かれた『西荻タワー』(04年)や小説とマンガのミクスチャーであった『見張り塔からずっと』(09年)などの近作にあってさえ、我々が生きているこの現実は、死者や彼岸、そして頭上から見下ろされるのがちょうどよい、そうしなければたまらない、とでも言いたげな認識を求めることができた。『アヒルの子のブルース』の言葉を借りるのであれば、〈ひしめきあう狭い世界 あさましくえげつない人々の群れ〉に〈君はもううんざりじゃないかね?〉なのである。

 もちろんそれは、『噛みながら』でも、頼子の不機嫌そうな表情に反復されているのだったが、ここで注意されたいのは、地上に足のついた構図、此岸へのカムバックを謳う物語を通じ、その不機嫌そうな表情が晴らされていることにほかならない。『アヒルの子のブルース』のラストのカット、あそこで空のまぶしさにかざされ、影をつくっていた手の平が、『噛みながら』におけるラストのカットにはない。

 かくして余談めいていくのだけれども、『魔法の国のルル』の前編(02年)がかえりみられるだろう。地上を遠巻きにすることで得られたパノラマ、それが暫定的な幸福を教えてくれる場面で物語は中断しているのだが、たぶん、きっと、あの少年は、『噛みながら』の頼子がそうであったように、ふたたび我々が生きているこの現実へと戻ってくる。帰ってくる。はたしてそのとき、彼はどれだけの希望を此岸のなかに見つけられるか。後編の発表が待たれる理由はそれである。

・その他よしもとよしともに関する文章
 『見張り塔からずっと』について→こちら
 『ブロンちゃんの人生相談室』について→こちら
 『4分33秒』について→こちら(01年に「NEWSWAVE ON LINE」内のコンテンツに書いたもの)
2010年10月06日
 LIVE(初回限定盤)(DVD付) LIVE

 NEWS、通算4枚目となるフル・アルバム『LIVE』は、たいへん聴きどころの多い作品だと思う。反面、パンチの弱さのようなものをどこかしら感じてしまうのであったが、しかしそれこそがこのグループのカラーであったとすれば、正しくNEWSじるしの佳作にほかならない。無論、熱心なファンにしてみたら、これは必ずしも肯定的な意見とは受け取れないかもしれない。けれど、何を差し置いても、ポップスとしての強さ、そして勢いやノリに任せた姿勢で取り組まれては台無しになってしまうそれに対し、派手さではなく、地力の高さ、メンバー各人のポテンシャルとその総和をもって、見事に応えている。じんわりと胸に響いてくるようなエモーションを与えているのである。

 確かにアルバムは「恋のABO」のアッパーなディスコでペダルを踏む。タイトル・チューンでもある「LIVE」のファットなロックで大きな車輪が回り出す。そのほかにもジャニーズならではのきらきらしたシーンは多い。だが個人的には、いつかへの郷愁をミディアムに綴った5曲目の「秋の空」や、先立ってシングル・リリースされていた9曲目の「さくらガール」、ヒルクライムが楽曲を提供した12曲目の「内容の無い手紙」、初回限定盤においてはラスト・ナンバーとなる13曲目の「エンドレス・サマー」などの、等身大のイメージを生きているかのような楽曲にはっとするし、実際、そこで聴かれるヴォーカルの、まっすぐにまっすぐと伸び、あれだけ遠かった過去や未来にもじきに手が届いてしまいそうなしなやかさこそが、他のグループとの明らかな差別点になっている。

 いやいや、おまえは単純にヒロイズム(ソング・ライター)の関わったナンバーが好きなだけなんじゃねえか、と言われたら、ああ、まあ、そうだろうね。先に挙げたうち、「秋の空」「さくらガール」「エンドレス・サマー」の3曲に、作詞や作曲でヒロイズムのクレジットが入っている。嵐との仕事で知られる吉岡たくが、いかにもなアレンジをリズムに加えた8曲目の「ワンダーランド」だってヒロイズムの作であり、じつはそれも好きである。ただ、そうしてうかがえるのはNEWSというグループとヒロイズムが寄越した楽曲の相性の良さにほかならない。初期の頃はともかく、現在のNEWS、つまりはさまざまな経緯を得、次第に成熟をまといはじめた彼らにとって、ヒロイズムの手がけたセンチメンタル、損なわれたもののなかから黄昏を取り出し、後悔を希望に変えていく素振り、前向きであろうとする印象のメロディを、メンバーが達者にリレーし、熱っぽく、ユニゾンのコーラスへと結びつけていく様子は、それだけでもう十分な個性になりえているのだ。

 けだし「エンドレス・サマー」は出色であろう。バンド・サウンドの後ろにストリングスを置いたさわやかなポップスである。やはりヒロイズムが作曲、前作『color』のハイライトを飾った「FLY AGAIN」に通じる感動を持っているが、バラード・タイプのそれとは違い、アップ・テンポな響きをたたえているところが、とくに好ましい。そりゃあ、かつては〈はみだしたまま・生きていけると・大袈裟に言ってみたけど・大胆なほど未来はすぐに変わらなかった〉のであって〈追いかけるたびに遠ざかってく・虹のようなあの日々は・輝きだけを胸に残し・終わりを告げた〉のだったが〈まだ夢に夢見た季節がここにあるから・僕らは行くよ・もう一度輝く自分を探す旅〉に出るのは〈やがて僕らがありふれた大人になっても・扉はいつも・きっと・あの夏に繋がっているから〉なのだと、こういう心象はおそらく、誰のなかにも小さく燻り、あるいは眠り続け、起こされるときを待っている。それをやさしくキックし、たとえめいっぱいの努力が挫折や敗北にしか行き着かなかったとしても決して無駄じゃない、無駄じゃないんだぞ、思わず明言したくなるぐらいの勇気を与えてくれる。

 ヒロイズムのソング・ライティング以外では、すでに述べたとおり、「内容の無い手紙」が、いや、まんまヒルクライムじゃんね、これ、ではあるものの、パート分けされたラップ調のフレーズにおいて、各人の歌唱スタイルが如実となっており、存外、個人戦の様相を呈している。そこに強い強いフックを求められるのが良い。そしてもう一つ、NEWSやテゴマスの諸作と縁深いzoppが作詞、11曲目の「D.T.F」にも名前を見つけられる大智が作曲を担当した6曲目の「2人/130000000の奇跡」を、『LIVE』のハイライトとして挙げたい。ハードなギターの鳴り渡るナンバーなのだけれども、基調をなしているのは明るく跳ねたキーボードの旋律である。疾走感がある。せつなさが駆ける。次のようなキャッチーなリフレインに、破れてもなお瑞々しい恋心が宿る。〈2人/130000000の奇跡・なのに・こんなにも簡単なの・「ずっと一緒にいようね」って・君は笑ってた・じゃあなんでさ・こんなにも胸が痛い・もう壊れちゃいそうだ・I want you I need you I miss you My love・Forget you Good-bye? I don't wanna do it〉

 それにしても通常盤の14曲目に収められた「share」は、メンバー6人が作詞作曲したナンバーで、すでにファンのあいだでは知られ、待ちに待ったスタジオ・ヴァージョンには違いないのだったが、端整なディレクションによって親しみがこぼれ落ちるほどの臨場感が制御され、あくまでも「恋のABO」のシングルで聴かれるライヴ・ヴァージョンに比べてしまうから、の話になるのだけれども、カタルシスの部分に弱さが出てしまっているのを少々残念に思う。

・その他NEWSに関する文章
 「さくらガール」について→こちら
 「恋のABO」について→こちら
 『color』について→こちら

 コンサート『LIVE!LIVE!LIVE!NEWS DOMEPARTY』(2010年9月28日・東京ドーム)について→こちら
 コンサート『NEWS WINTER PARTY DIAMOND』(2008年12月30日・東京ドーム)について→こちら

 テゴマス・コンサート『テゴマス1stライブ テゴマスのうた』(2009年8月5日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 音楽(2010年)
2010年10月02日
 セツ 1 (マンサンコミックス)

 世が世であれば、『週刊漫画サンデー』に木葉功一が、というのは意外な連載であるように思われるかもしれないが、おそらく今はそういう時代ではないのだ。しかし相変わらずの個性、独特なタッチ、ダイナミックなアクションは健在である。女子400m走、世界陸上の金メダリスト、天翔セツは、知名度、人気の高さから渋谷警察署の一日署長を引き受けることになったのだけれども、その日偶々、赤坂で銀行強盗が発生、凶悪な犯人たちが多数の犠牲者を出しながら逃亡する場面を目の当たりにしてしまう。持ち前の脚力で、果敢にも、あるいは無謀にも犯人を追跡しようとするセツは、懸命な行動のなか、不思議な能力を開花させるのだった。以上が発端であって、結果、警察官となった彼女がさまざまな犯罪者と次々対峙していくというのが、この1巻より見えてくる『セツ』の物語であろう。かくして、過激な銃撃戦が繰り広げられるのであれば、作者の得意とするところなのだが、ここでは、あくまでもそのキャリアからしたらの話だが、比較的それは抑えられていて、かわりに人情噺のような部分が大きくなっているのは、たしかに『週刊漫画サンデー』調であるやもしれない(いやいや)。とはいえ、狂人と紙一重の超人もしくは超人と紙一重の狂人が、エッジの立ったヴィジョンを持たされ、道徳や倫理を含め、この社会の現実性と逆立ちしたかっこうになっているのは、従来のとおり。たとえば、主人公であるセツの、研ぎ澄まされた感覚が、他の人間には認知されない星のイメージを、犯罪者の姿に映し出すのもそうであるし、犯罪者の、一線を踏み越えてもなお悪びれない表情が、ある種の迫力を得ているのもそうだ。正直、絵柄のレベルではなく、ストーリー自体にもっとダイナミズムが欲しい気がするものの、紛れもなく、木葉功一というマンガ家の特殊な技量は発露している。

・その他木葉功一に関する文章
 『フルーツ』について→こちら