ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年09月29日
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 やっぱり、安定した歌唱力、がこのグループのキーなんだよな、と、昨日(28日)東京ドームで行われたNEWSのコンサート「LIVE!LIVE!LIVE!NEWS DOMEPARTY」を観ながら思ったのであった。ニュー・アルバム『LIVE』を引っ提げてのツアーになるわけだが、ダンスや演出を派手に決め、観客の度肝を抜くというよりも、ヴォーカル・パートの充実した楽曲を次々に披露、それを足がかりに全体のエンターテイメント性が高められている、かのような印象を持っているのである。

 いや確かにオープニング、アリーナの中央に設置されたステージ、方々に置かれた6つの球体が割れ、そこからメンバーが、どどん、と登場してきたときのインパクトは、ひじょうにでかい。でかかった。そして「恋のABO」である。アップ・テンポなダンス・チューンに、心躍るし、体揺れるだろう。だが、繰り広げられるアトラクションはさほど凝っているとは言い難い。基本としては、楽曲中心主義的なパフォーマンスで会場のテンションをアップさせていく。2曲目のアンセム「weeeek」にしてもそれは同様だ。ライヴならではの悪のりを加えながら、あくまでもそのやたら高性能なミクスチャー・ロックの魅力を、最大限に生かし、生かすことで、NEWSというグループのコントラストを鮮やかに描き出す。

 序盤、四季折々のコンセプトをもって「さくらガール」(春)「SUMMER TIME」(夏)「紅く燃ゆる太陽」(秋)「星をめざして」(冬)のシングル群がオンパレードされる。バックのサウンドは、総じて録音されたものを使用しているにすぎないのだが、打ち込みが主体であること、それが床を伝わってくるほどのヴォリュームで鳴らされているため、胆の太いグルーヴが体感される。無論、そのなかで各人のヴォーカルが各曲に与えられたエモーションを熱っぽく再現していくところに、ここぞ、とばかりのクライマックスが宿されているのである。美しいレーザーライト、メンバーがリフトに乗り、高く上がった場所で歌い上げられる「星をめざして」のロマンティックさ加減ときたら。

 新作からの「Dancin' in the Secret」を間に挟み、ソロ・コーナーへと入る。まずはテゴマスだ。象の仕掛けにまたがり「僕のシンデレラ」を。降りて「夜は星をながめておくれ」である。言うまでもないことだったが、やはりこの二人のヴォーカルは侮れねえ。掛け値なしに、うまい、と思える。グループ全体のナンバーにおいても、手越くんと増田くんが果たしている役割はとても大きいのだけれど、これだけの実力があればさもありなん、だろう。堪らず、しんみりとする。一転、コメディ・パートを引き受けたのは小山くんと加藤くんのコヤシゲ・コンビであった。ほとんどストーリーをなしていない歌詞の「言いたいだけ」は、ユーモラスな曲調は当然、その中間に置かれたトークも相まって、最高に笑えた。

 しかしこの愉快な空気のあとに、『LIVE』アルバムのハイライトでもあり、少年時代への郷愁が感動的な「エンドレス・サマー」を持ってくるかね。もっとも期待していた楽曲であっただけに曲順にもったいなさを覚えた。ともあれ、「エンドレス・サマー」で再びメンバーが合流し、新旧織り交ぜたセット・リストが続いていく。「秋の空」のセンチメンタル、「BE FUNKY!」の果敢なガッツに、胸が痺れる。

 はたして錦戸くんはソロ・コーナーで何をやるのかしら。アコースティック・ギターを片手に現れた彼の場合、スケジュールが忙しく、準備は万端ではなかったのか、コヤシゲのようなギミックはまったく用意されていないようであった。と、まさか関ジャニ∞の「LIFE〜目の前の向こうへ〜」を弾きはじめ、歌い出したときには、おおこうきたか、と驚いたのだが、結局のところそれは触りでしかなく、本題はジャニーズ・グランジのギター・ロック「code」だ。これまでのツアーでもさんざん演奏されてきた楽曲だから、熱心なファンからすれば、またかよ、な部分もあろう。しかし個人的には大好きな一曲なので、とにかく聴けたのが嬉しい。最初、アコースティック・ヴァージョンでプレイされていたそれは、途中からQuestion?がバックに加わり、オリジナルに近しいバンド形式へと姿を変える。ダイナミックな展開、ハードなトーンのギター、そして印象的な次のフレーズ。〈君を彩る全ての要素を・僕が守ってみせよう・何があっても傍にいよう・君が悲しむ全ての要素は・僕が奪うから・ありったけの・愛を・愛を・愛を〉

 そのまま錦戸くんの紹介を受け、6人全員でマイクを握るのは、ヒルクライムが楽曲を提供した「内容の無い手紙」である。これも好き。ラップ調のヴォーカルをリレーし、せつない恋心が叙情される。

 さて。NEWSは今年で結成7周年に達した。その旨をアナウンスし、やはりラップ調の「Happy Birthday」である。なるほど、ヒルクライムのあとにSEAMOのナンバーが続くわけだ。そして過去の映像をバックのスクリーンに映しながら、デビュー曲の「NEWSニッポン」で、大盛り上がり。初期の代表曲である「チェリッシュ」を経、山下くんが自らのソロ・ナンバー「One in a million」で、その類い希なる存在感をアピールする。今回のショーにおいて、もっとも激しいダンス・シーンはここではなかったろうか。エレクトリックなビート、ライティングの眩さも断トツであったように思う。むしろ、そういう派手さがNEWS本来の持ち味とは別個のものであることを逆説的に知れたのだった。

 気球などのアトラクションを駆使、一通り代表曲をこなしたところで、メンバー全員が作詞した「share」の感動によって、コンサートはエンディングを迎える。〈すれ違いゆく風の中で・僕らはなぜ出会えたんだろう・同じ星が今見えるなら・僕らはただそれだけでいい・Just only stars… just only stars… Just only stars blinking always breathe in us〉というコーラスが正しく、一期一会の、千載一遇の、奇跡のような、宝物のような瞬間が、今ここにあって、それが散り散り、離れ離れ、別れ別れになっても、必ずや背中を押し、励ましてくれることの願いを高らかにする。

 山下くんのタキシード仮面や手越くんの女装(もはや恒例であろう)まで飛び出したアンコールを含め、前回からひさびさに観られたNEWSは、彼らがNEWSであることの本領を、余すところなく発揮し、またいつか会える日を大きく期待させた。

・その他NEWSに関する文章
 「さくらガール」について→こちら
 「恋のABO」について→こちら
 『color』について→こちら

 コンサート『NEWS WINTER PARTY DIAMOND』(2008年12月30日・東京ドーム)について→こちら

 テゴマス・コンサート『テゴマス1stライブ テゴマスのうた』(2009年8月5日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
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2010年09月26日
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 なるほど。これが上田竜也という美学の魅力かあ。抜群の、かっこうよさ、と、かわいらしさ、の相反する二つの要素が分かちがたいまでに同居したステージは、事前に予測していた以上の、ときめき、をもたらしたのだった。昨日(9月25日)は、国立代々木競技場第一体育館に、彼のソロ・コンサート「MOUSE PEACE uniting with FiVe TATSUYA UEDA LIVE 2010」を観に行ってきたのである。

 上田くんは姿を見せぬまま、まずはオープニング・アクト的にFiVeが自分たちのオリジナル・ナンバーをプレイするところから、「MOUSE PEACE uniting with FiVe TATSUYA UEDA LIVE 2010」の幕は開く。出だし、中江川くんのヴォーカルが少し不安定であったものの、上里くんのベースと牧野くんのドラムがつくり上げていくグルーヴは、いつも通り、盤石、その厚みのある演奏で、会場に火を入れ、暖める。楽曲の特徴として、RADWIMPSほどウィットに富んでいるわけでもなく、The Mirrazほどに皮肉が効いてるわけでもないし、ONE OK ROCKほどのアグレッシヴさを持ち合わせているわけでもないのは、やはり惜しいのだが、上述したリズム隊の活躍、そして石垣くんのキーボードによって差し込まれるハード・ロックふうの華麗なフレーズには、正しくこのバンドならではのポテンシャルがある。無論、中江川くんの弾くギターが、ブルージィにもグランジィにも歪んで、響き、FiVe印のグルーヴにより強力なパンチを与える。4曲ほどでFiVeがいったんステージを下がると、さあ、いよいよ自身のユニットMOUSE PEACEを率いる上田くんの登場だ。

 オープニングからして凝っている。外国人の少女が、夜の森をさ迷い、やがて老紳士に出会い、心優しき主人が待つという城へと誘われていく、このような映像がスクリーンに流れる。中世ヨーロッパふうのファンタジー、童話のダーク・サイドを模した世界観が、観客の意識に植え付けられるだろう。そして1曲目は、KAT-TUNのセカンド・アルバム『cartoon KAT-TUN II You』に収録されていたソロ・ナンバーの「LOST」だ。ステージの中央に巨大な階段が設置され、その頂上から上田くんがマイクを片手に降りながら姿を現す。バックを固めたMOUSE PEACEとFiVeの演奏は、ヴィジュアル系のロックを思わせる疾走を果たしていき、上田くんのワキに寄り添ったMOUSE PEACEのギターは低く構えたそれを早弾き、あらかじめ提示されたコンセプトを、音に、見栄えに、ダイレクトに再現する。

 ストリングスの楽隊。女性奏者も含めた三本のギター。キーボードの旋律。ゴージャスにもダイナミックにもうねるサウンドに、とかく燃える。そこにきて、複雑な拍子をスピーディに展開する「RABBIT OR WOLF?」が2曲目である。やはり燃える。だが、個人的には3曲目の「腹ペコマン」が最高であった。スクリーンに映し出されるのは(・∀・)こういう顔文字を多用した歌詞、立ち上がったばかりの世界観をぶち壊しにしかねないようなハッピーな曲調、テンションはまるでコミックなのだけれども、実はそれが違和感なくはまっているところに、上田竜也という美学の本質を見た気がしたのだった。

 後半で披露された「ニートまん」や「ヤンキー片想い中」などもそうなのだが、ギャグすれすれ、ハッピーなトリガーを引きっぱなしの場面に、上田くんの、かわいらしさ、は充実している。スマイル一つで何かもを蕩かしてしまう、あの、かわいらしさ、である。反面、「LOST」や「RABBIT OR WOLF?」などのルナティックでクールな局面では、かっこうよさ、が万全となっている。精悍な王子様のごとき、かっこうよさ、である。後者を王子様に喩えるなら、前者は、無邪気なお姫様みたいな、かわいらしさ、といえるかもしれない。天使と悪魔の喩えにかけてもよい。いずれにせよ、かくいう二面性を一つの身体に宿しながらも、双方が決して仲違いをしていないので、ときめく。

 そればかりではない。もしも「LOST」や「RABBIT OR WOLF?」が、ヴィジュアル系やゴシック・ロックとの近似値をとっているのだとすれば、「腹ペコマン」や「ニートまん」には、ニコニコ動画やオタク系コンテンツとの親和性がうかがえるだろう。いや、たしかに両者は、今日において必ずしも対立し合う関係にはないどころか、ミックスされてしかるべき可能性を覗かせてはいるのだったが、それをおそらくは、きわめてナチュラルに、あるいは無自覚に共存させてしまっている点も併せて、上田竜也という美学は完成しているのだと思う。

 コンサートの中盤に置かれた「マリー・アントワネット」は、そうしたすべての高度な達成にほかならない。KAT-TUNのツアーで先立って公開されていたナンバーだけれど、展開の早い打ち込みがビートを鳴り響かせるなか、エフェクトによって匿名性を高められたヴォーカルが、タイトルに暗示的な貴族の私欲、贅沢な暮らしぶり、我が儘な態度を、屈託なく、宣う。バック・ダンサーをメイドに見立て、軽快なステップを踏み、理不尽な社会観さえもポップに昇華した演出は、KAT-TUNの時と同様である。しかし今回のソロ・コンサートでは、そこから先の物語が用意されていた。城に火をつけられ、メイドたちが次々と倒される。主人である上田くんは追い詰められ、崩壊のイメージが広がる。そしてそれがそのままショー全体のクライマックスとなっていくのである。

 逆襲の炎を吐くドラゴン。水柱。バック・ミュージックは盛り上がり、破滅のワン・シーンを荘厳なカタルシスに変える。これがすばらしかった。やがて「愛の華」や「花の舞う街」のセンチメンタルを受け、幕は閉じられるのだけれども、ここでのスペクタクルがあってこそ、それらの儚さが生きてくるかのような構成になっていたのだ。

 ところでこの日、客席には田口くんが来場していた。MCのコーナーでその件を上田くんは嬉しそうに触れていたが、アンコールのラスト、ジャンプを繰り返し、演奏を締める箇所でも田口くんをいじり、じっさい田口くんはそれに応え、元気よく跳ね、会場中を沸かせていた。ソロでの活動とグループでの活動をどう線引きするかは、まあ人それぞれであろう。だが「MOUSE PEACE uniting with FiVe TATSUYA UEDA LIVE 2010」は、まず間違いなく、KAT-TUNという母体のなかで得られた成果を持ち出し、延長していったものであって、たぶん上田くん本人もそのことを熟知している。こういう言い方をしてはあれだが、同じく今年にソロ活動を行った赤西くんの場合、KAT-TUNとはべつの表情を出そう出そうとするあまり、どこか身の丈に合っていない印象を覚えてしまった。それが今回の上田くんにはなかったのである。どちらが正しいのかはわからない。わからないが、しかし。そうであるがゆえに、この日のショーはKAT-TUNのファンとして素直に楽しかったし、満足させられる内容をなしていた。

・その他KAT-TUNに関する文章
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR』(2010年・東京ドーム)
  7月24日の公演について→こちら
  7月17日の公演について→こちら
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2010年09月23日
 文学界 2010年 10月号 [雑誌]

 『文學界』10月号掲載。北野道夫の小説は変だ。相変わらず。にんともかんとも、いわく言い難い。どこからどこまでが論理的に構成されているのか、一概には判断しきれないのだったが、筋書きだけを辿ると実に混乱していて、次第に何もかもがでたらめのように思われてくる。にもかかわらず、不思議と引っぱられるものがある。ありがち、うっちゃってしまいたくなるような描写の数々にさえ、なぜか目の離せなくなるところがある。この『泥のきらめき』という作品にしてもそうだ。まず最初に作者を彷彿とさせる人物が出てくる。彼は祖父の三回忌のため田舎を訪れている。だが、はっきりいって、このくだりが何を意図しているのかは不明なまま、まったくべつの物語が幕を開ける。しかしそれは、物語と形容するには、とても奇妙に歪んでいる。一人の若い女がいる。彼女は〈町の集会所の掲示板に出ている行方不明者の貼り紙を見ている〉うちに、その人物、田中きみ子とは自分のことではないかと信じはじめる。そして彼女は、いつしか田中きみ子となり、それまでの履歴を述べていくのだけれども、この田中きみ子によって語られる田中きみ子は、まるで複数の死者であり、複数の生者であり、つまりは誰でも構わない存在となり、やがて田中きみ子ですらなくなっていく。男性パートと女性パートの二つを並べている点は、前作『虹と虹鱒』に通じるものの、両者の関連性はほとんど明らかにされない。男性パートにおける〈小説も、一年以上書いていなかった〉という記述は、先にいったが、作者自身を想起させる。としたら、女性パートはその人物の手がけた創作、フィクションにほかならないと仮定するのは容易い。じっさい彼は〈私の心の中には、偏った価値観と煩悩に満ちた恣意的な極楽浄土が幾通りも繰り広げられている(略)しかし今は、嘘の極楽から差してくる嘘の光に感銘を受けて、泥の浄土で空想を遊ばせていたい〉といっている。おそらくはそうした〈偏った価値観と煩悩に満ちた恣意的な極楽浄土〉を、田中きみ子をめぐる物語は肩代わりしているのであって、いかにもそれは人工的、作り物めいている。だが、そこから顔を出す猛烈な違和感の方こそが、こちらの胸元に突きつけられるほどのリアリティを持ち、空疎に終わらぬまでの重量を小説に与えているのだ。妄想にも近しい不確定な触りが、裏返り、ある種、現実性の刻印をなしているのである。自分は何ものでもないということは自分が何ものにもなれるというパラドックスを含有する。このパラドックスに対する疑いを意識し、取り除こうとする腐心、痕跡を『泥のきらめき』の中核には求められる。

 『虹と虹鱒』について→こちら
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2010年09月20日
 地球の放課後 2 (チャンピオンREDコミックス)

 吉富昭仁の『地球の放課後』2巻には印象的なセリフがある。正史という少年の妹、清美が、夢とも幻ともつかぬ場面で〈放課後が終わったら…その次に来るのは夜なんだよ 真っ暗闇の夜……〉と言う。これはもしかすれば物語の行く末を暗示しているようにも思われる。〈放課後が終わったら…その次に来るのは夜なんだよ〉

 前巻のときに述べたとおり、作品は、人類がすでに終末を迎えてしまった世界を、わずかな人間たちが、のんびりゆっくりと過ごしていく風景を、まるで週末における休日のごとく、あるいは放課後の様子に喩えながら、描いている。はたして、それにもいつしかおしまいがやって来るのだとしたら、夜、の一語に集約されるイメージには深い意図が託されているのかもしれない。

 しかしながら、正史、早苗、八重子、杏南、たった四人の生き残りと、そして読み手はまだしばらくのあいだ、かくいう不穏さを頭の片隅に置いたまま、忙しない活動を止めた都市空間のなかで、自由にも奔放にも送れるだけ送れる時間を、一種の幸福として感じられるところが、『地球の放課後』の魅力だろう。

 吉富というマンガ家は、たとえば先だって1巻がリリースされたばかりの『しまいずむ』みたいに、スタティックな日常をアブノーマルにもエロティックにも演出することができる。だがそういった持ち味を、ここではサービス・カット程度に抑えている。水着や露出の多い衣装は、必ずしも欲情の喚起に限定されてはおらず、束縛や抑圧から解放された心地好さのほうを多く伝えてくるのだった。

 SF的なカタストロフの設定にしたって、同様である。社会は機能を停止しているにもかかわらず、各自の社会性を通じ、共同体を営もうとする作中人物たちの姿こそが、穏やかですらある空気を、そこかしこに呼び込んでいるのであって、これはよくあるフィクションの、危機的な状況に男女が置かれたらとりあえずレイプ、のような貧しい発想とは対極をなしている。

 いずれにせよ、世界の終わりをこんなにも表情豊かで心地好くあらわしている作品は例が少ない。それはもう十分にトピックであるほど。

 1巻について→こちら
2010年09月19日
 たとえワン・シーンでも心を動かされるものがあれば、その作品は十分記憶に残りうるわけで、『ワルタハンガ〜夜刀神島蛇神伝〜』においては、完結にあたる3巻の、とある場面を正しくそれとして挙げたい。榊純一というワキの人物が、命を賭し、息子の火一にあて、メッセージを残していく箇所である。頼りないプレイボーイのごとく描かれていたはずの彼が、危機的な状況下、まさかの行動に出、一種の倫理を果たす姿はひじょうにぐっとくる。

 じっさい彼の決死は、『ワルタハンガ』というマンガにもしも何かしらのテーマを見るとするなら、ほとんど代弁的な役割を負っている。このことは、純一亡きあと、火一の名前がどこから由来しているのか、主人公の八尋慎二が、おそらくはこうだ、と解釈を与えている箇所に明らかだろう。すなわち〈『カイチ』っていうのはさ……中国に伝わる伝説上の生物の名前だよ……頭に一本の角を持ってて(略)人間同士が争っていると理の通らない方を その角で突き倒すといわれているんだ 中国では――正義と公正の象徴だよ〉

 もちろん、自己犠牲によって退場を余儀なくされる存在は、パニック・ホラーの常套にほかならないのだから、あくまでも形式に要請されている、以上の意味を求める必要はないのかもしれない。したがって『BM ネクタール』以降、藤澤勇希の作品に繰り返し現れるこうしたモチーフを、単にドラマツルギーのパターンであると判定してしまうことも可能なのだが、定めしそれは物語からは外すことのできぬ基本的な条件のようにも信じられるのだった。

 この世界の歴史や進化を必然や自然と呼び換えたとき、はたして人類に生きていけるだけの価値があるか。おそらくはこれが、藤澤のパニック・ホラーに一貫している問題提起である。『ワルタハンガ』では、私利私欲のためツチノコ狩りへ無人島に赴いていった面々が、未知なる生態系のなか、捕食される側に回されてしまう。招聘元であるテレビ番組のプロデューサーが言うセリフが印象的だ。〈この世に悪い生物など存在しない 全てそれぞれの生態に従って 生きているだけだ もしも悪い生物というものが存在するというなら 功名心と好奇心だけで他の生物の聖域に土足で踏み込む 我々人類がそうだろうな〉のであって、そこでは人類を中心とした主義主張はいっさい通じえない。生き残れたという結果が自然や必然に還元されるのみなのだ。

 とはいえ、作者はフィクションならではの救いや希望を無視してはいない。『BM ネクタール』はもとより、『エレル』や『メトロ・サヴァイブ』、『レギオン』などと同様に、少年や少女の生存を未来の保証に置き換え、それを命がけで守る責任を大人たちに課することで、先ほどの問い、この世界の歴史や進化を必然や自然と呼び換えたとき、はたして人類に生きていけるだけの価値があるか、に一応の留保を設けようとしている。

 ただし、舞台設定の規模が小さいわりにストーリー展開の密度は低く、全体的にスリルを欠いた。無職の中年男性、八尋の個性もあまりうまく使われなかった。

 1巻について→こちら

・その他藤澤勇希に関する文章
 『レギオン』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『メトロ・サヴァイブ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『エレル』全2巻について→こちら
2010年09月14日
 わたしが泣いた日 (講談社コミックスフレンド B)

 周知のとおり「BETSUFURE LOVE COLLECTION」は『別冊フレンド』周りの作家(おもに新人作家)による読み切りマンガをオムニバスで収録したタイトルであって、この『わたしが泣いた日』もそのうちの一冊なのだったが、いやこれはまれに見る充実度ではないかと思う。正直なところ、『ウメニウグイス』がなかなかだった日暮キノコの「金ピカの頃」と高橋利枝が「HOLE」シリーズの新エピソード「HOLE-赤いスパイク-」を目当てにしていたのだけれども、その他のものもたいへん良かったのである。

 とくに収穫として挙げたいのは、菅原じょにえるの「同情の戦利品」である。こういう作家が不意に現れてくるから『別冊フレンド』は侮れねえ。無論、少女の気持ちを題材にしているが、ラヴ・ストーリーの系ではない。「中学生日記」的とでもいおうか、なテーマの内容となっている。父親が甲斐性なしのろくでなしなせいで、貧しい暮らしを送っている佐藤有希は、同級生の男子、佐藤が学校に持ってきたデジタル・カメラをついポケットにしまおうとしているのを本人に見つけられ、咎められる。ただし佐藤が寛容であったため、大事にはならず、じっさい有希の訴えを聞いた彼から中学生でもできる新聞配達のアルバイトを紹介されるのだった。

 こうして二人の、まだ恋愛とは呼ばれないような関係をベースに、子供の力ではどうしようもないこの世界の痛み、そしてそれが小さな世界だからこそささやかな希望が大きな救いとなりうる様子を、誠実に描き出していく。画力のみを見れのであれば、決して巧いとは言わない。ストーリーに関しても、今ふうに下流社会云々の説得力はあるかもしれないけれど、いささか古くさい。にもかかわらず、だめだ、読み終えて、もう一度、そこに立っている少女と少年の姿を目に焼き付けておきたくなるぐらいの魅力を持っている。自分で得るものと他人に与えられるもの、小道具として用意されたデジタル・カメラとマフラーの存在がよく生き、「同情の戦利品」という題名にかけられた意味合いは、あまりにもせつない。しかしせつないだけに終わっていないのは、その二つを象徴に、確かに運命が変わった、無力な少女が少年のやさしさを借りて自分で自分の世界を変えられたのだ、と信じるのに十分な感動を直に手渡してくれるからにほかならない。いずれにせよ、菅原じょにえるの「同情の戦利品」は記憶に止めておきたい作品だと思う。

 さて、「同情の戦利品」以外に目を移すと、村瀬いくえの「わたしのなかのきらきらの」は、いやまあ、こうした物語は少女マンガのジャンルには珍しくないだろう。むしろ絵のセンスに助けられている点が大きい。とはいえ、同じく男性教師と女子生徒のどたばた劇をであった過去の読み切り「あなたの美しい」に比べて、地に足の着いた表現が多くなっており、登場人物のエモーションに厚みが加わった。中村智の「光のソナタ」は、ピアニストを目指す若者の出会いと葛藤という長篇向きといってもよいアイディアを手堅くまとめていて、その手つき自体が個性と呼ぶに相応しいものとなっている。
2010年09月13日
 終盤の展開においてギャグのテンションはほとんど消え去っている。かわりに一組のカップルのエモーションが極端なほどに突き詰められることになった。畑亜希美の『真夜中だけは好きでいて』が、この3巻で完結した。今しがた述べたとおり、いわゆるラブコメのコメディにあたる部分は後退が著しいのだったが、しかしストーリーのレベルでは、春日まどかと桐谷純の、離れる離れない、の関係をシリアスに描き出すのに成功し、ラストのページに至るまでを魅力的に見せている。確かに、いささかクリシェというかメロドラマふうに話が進みすぎるきらいはある。二人の愛は見事に障害を乗り越えました、式の決着にも、だいぶ都合の良さが加わっているように思われる。けれども、好き合っているからこそ感情がままならずに自分から引いてしまう、このようなデリカシーが、いくつかのきっかけを経て、好き合っているからこそ感情をまっすぐ相手に向けなければならない、という変調を得る瞬間の輝きだけは、紛れもなく切り取られているので、主人公たちの結びつきを前に信じられるものが生まれているのである。作品を構成しているアイディアはいずれも目新しくはない。通俗的といってよい。その手垢にまみれたところを、まずはユーモラスな勢いを通じ、軌道に乗せ、事細やかな心情のなかに胸を刺す痛み、所詮こんなのは夢物語だよ、と判じられてもへいちゃら、動じないぐらいに強いロマンスへと持ち上げた。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他畑亜希美に関する文章
 『ベイビー☆キスをどうぞ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
2010年09月09日
 ARISA(5) (講談社コミックスなかよし)

 選ばれた学生の願いを叶える「王様」というアイディアをベースに、教室単位のサヴァイヴァルを安藤なつみの『ARISA』は描いているが、この5巻では、「王様」の最初の犠牲者にあたる望月静華の復讐劇にストーリーを大きく割いている。ヒロインであるつばさの双子の妹、ありさにライヴァル心を燃やし、絶対的な存在として崇められる「王様」への不信を口にしてしまったがため、クラスメイトに迫害、結果、心身ともに深いダメージを負った静華は車椅子での生活を余儀なくされ、しばらくのあいだ学校を休んでいた。その彼女が、修学旅行に参加すべく復学、今度は逆に「王様」の力を利用し、(現在はつばさがなりすましている)ありさに悪を為そうとするのである。たしかに、はたして「王様」の正体は何者か、のサスペンスは徹底されているけれど、静華の存在がクローズ・アップされたことで重視したいのは、学校や家族(つまり中学生にとっては社会の大きさにも匹敵する空間)から価値がないと見放された人物がいかに存在理由を回復するか、に作品の心情が移っている点だろう。ありさに対する報復こそが、静華においては自分を奮起させるのに最適なテーマであったのだ。もちろん、このことはマンガの内容を内面のドラマに後退させているふうにも見られる。しかし注意すべきなのは、主人公の活躍が、それも含め、あくまでも個人にかかってくる同調圧力の解除に通じているところだと思う。つばさの持っているエネルギーは決して、学校や家族に苦しめられるならアウトサイダーになれよ、と教えるものではない。自由を建前に個性を無理強いするものでもない。ただ、孤独な運命は変えられるかもしれない可能性を、どれだけこの世界がシビアであろうとも生きられる強さを、問うている。物語の構造としたら、ありさにしても静華にしても、級友の白い目に耐えきれず、高所より飛び降り、にもかかわらず死ねなかった、という部分で共通しているのは、自殺の否定になっている以上の意味合いを、おそらく持ちえる。当然そこに、希望を、救いを、ポジティヴな輝きを与えることが、つばさに与えられた役割にほかならない。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
2010年09月05日
 偉大なるちばてつや、ちばあきお兄弟に共通していたのは、主な題材をスポーツにとっているほか、貧困のなかに逞しさを描くこと、ではなかったか。と思われないのでもないのだった。そしてその系譜は、今や塀内夏子に引き継がれているのかもしれない。そのような予断を『明日のない空』の内容は許す。決して恵まれてはいない環境で生まれ育った少年たちの葛藤、ふんばり、そして這い上がりの精神が、力強いタッチに描かれているのである。

 生活苦に屈した父親が幼い弟と娘を殺害、無理心中を図ったせいで心を病んだ母親を養うべく、町工場で働きながら定時制の高校に通うサイ(才谷駿)にとって羽根を伸ばせるものがあるとすれば、それは部活動のハンドボールであった。長身ですぐれた才能を持った幼馴染みのガッツ(古賀毅)を含め、学校の仲間とともにコートに立っているあいだは、背負わされた重荷や不安から解放される。しかし勿論、だからといって現実は相変わらずの厳しさをゆるめはしないのだったが。

 この2巻では、父親が起こした事件の詳細を知り、あらためて母親が受けた衝撃の深さを知り、そしてガッツの姉である瑤子への感情が恋愛だと知っていくことのなかに、サイの成長する姿が示されている。一方、高校生にもかかわらず、全日本の強化合宿に呼ばれたガッツがそこで揉まれてもくじけない様子に、ハンドボールに向かう原動力、サイや仲間との絆、ホームとすべき場所の大切さが確認される。

 設定や絵柄、描写、物語の全部を引っくるめ、『明日のない空』というマンガに与えられた方向性は、きわめてオールドスクールなものだろう。けれども、新しいや旧いの基準では判断されない感動が、いや間違いなく宿されているあたりに、作品の魅力、本質を見られたい。

 母親の担当医に〈お母さんはね、本当に死んでしまいたいわけやないんよ。「死にたい程苦しい」と訴えているだけなの。誰にもわかってもらえないのがつらいんよ…〉と告げられたサイが、回想と内面のドラマに踏み込んでからの数ページは、構成にしたって展開にしたって、今どき素朴すぎるきらいがある。それなのに、ちくしょう。胸を痛めるほどに圧倒されてしまうのは、具体性の強い記述と抽象度の高い表現が、人間関係そのものの距離感をよく教えてくれ、作中の人物にそれを悩ませる表情、作中の人物にそれを歩ませる動きを通じ、誠実な態度の何たるかがしっかり刻み込まれることとなっている、かくいう深さを見事に覗かせるからなのだ。

 サイの根性は本物だと思う。それがすなわち『明日のない空』の説得力でもある。ところで、最初の話に戻るのだけれど、ちば兄弟において、根性の概念は東京の下町を舞台にしていることと無縁ではなかった。『明日のない空』の舞台は大阪である。近年では森下裕美が『大阪ハムレット』で、やはり大阪で暮らす人々に逞しさを託しているが、いずれの場合も土地柄、背景によって印象づけられているのは日本的な情緒にほかならないのであって、それに関する興味の有無がたんに新しいや旧いの基準を分けているにすぎない。

 1巻について→こちら

・その他塀内夏子に関する文章
 『イカロスの山』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『雲の上のドラゴン なつこの漫画入門』について→こちら
2010年09月02日
 ああ「12ヶ月」という楽曲がとてもいいな、と思うのだ。こうやってカミセン(Coming Century)を熱心に聴くようになったのは昨年の活動以来だけれども、V6のニュー・シングル『only dreaming / Catch』の初回限定であるMUSIC盤に付属されたボーナス・ディスク、そこに入ったカミセン名義のナンバー「12ヶ月」は、ミニ・アルバム『Hello-Goodbye』で得られた充実の間違いなく延長線上にある。カミセンの優位とは、メンバー3人のまさしく三者三様の声質が、現代的なコンテクストを汲んだトラックの上で、エモーションのひじょうに鮮やかな世界を切り開いているところにあるのだったが、Sonar Pocketや湘南乃風、FUNKY MONKEY BABYSと関わりのあるSoundbreakersをバック・アップに迎えて、せつない線のラヴ・シーンを描き出す。

 正直、ヴォーカルの巧みさをいえば、V6の年長組にあたるトニセン(20th Century)の方に圧倒的な分がある。だがすでに述べたとおり、森田くん、三宅くん、岡田くんの、歌声の、必ずしも技術論には還元できない特徴的な部分が、カミセンの最大の魅力なのであって、それを「12ヶ月」に満ちる情緒はフルに生かしきっているのだった。派手な展開も決してなく、穏やかに刻まれた打ち込みのなか、誰かを想うと必然、心の動きが激しくなってしまうのをなるたけ抑えているかのようなコーラスは、今までになかったぐらい大人び、しかしその奥の奥で静かに燃え続けたまま、まだ消えないでいる気持ちを確かに伝えてくる。とくに岡田くんのファルセット、森田くんの低音から三宅くんの高音へとリレーされるラップときたら、自分の経験に重ねて、痛くした胸を押さえたっていい。〈時間を戻せたら・君に会えたら・この腕でしっかり・抱きしめる・もう二度と君が・世界から消えないように〉と。〈言いたいのに・抱きしめたいのに・ケンカだっていいから・君としたいのに〉って。そう〈泣いて・思い出すのは笑顔ばかりなのに・何故〉

 そして最後の〈夕暮れがそっと・空を染めていく・あの日の向こう側・君が笑っている〉という甘やかでいて寂しげなフレーズのあと、曲間なしでアップ・テンポで軽快な「New Day」に繋がっていく構成がまた、「12ヶ月」の表情と輪郭をくっきりさせている。カミセン名義でありながらもトニセンをフィーチャリングした「New Day」は、ダンサブルなポップ・ソングとなっていて、前向きなメッセージが何よりも力強く。と、まあカミセンの楽曲についてのみ触れてきたのだったが、いやじつはV6名義のタイトル・トラックである「only dreaming」にしても、ここ最近のシングルでは出色だと思われるし、トニセン名義の2曲にしたって、おそらくはジャニーズでもっとも成熟することに自覚的なグループであるのをうかがわせるほど、すぐれた歌唱力によっておおらかな風景を掴まえている。

・その他Coming Century(V6)に関する文章
 コンサート『We are Coming Century Boys LIVE TOUR 2009』(8月7日)について→こちら
 『Hello-Goodbye』について→こちら
 V6『スピリット 初回生産限定(MUSIC盤)』収録曲について→こちら
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 Tear the Signs Down

 08年の前作『THIS IS A FIX』より、元YOURCODENAMEIS:MILOのポール・ミュレンをメンバーに加えたTHE AUTOMATICであるが、サード・アルバムの『TEAR THE SIGNS DOWN』は、いやいや、さすがにポールのインプットでかすぎだろ、と思わせる。まあ確かに『THIS IS A FIX』の時点で、現在の方向性は垣間見えていたけれど、ここまでくるともう、06年にデビュー作『NOT ACCEPTED ANYWHERE』を発表した頃とは違うバンドのよう。無論、力強いコーラス、リズムのパターンなど、随所にTHE AUTOMATICらしさは残されているものの、かなりの部分にYOURCODENAMEIS:MILOのテイストが入ってきているのである。何はともあれ、二本になったおかげでギターのサウンドに厚みが出、本来のヴォーカルであるジェームス・フロストではなく、ポールがメインでマイクをとっているナンバーの増えたのは、大きい。また彼は、前任であるアレックス・ペニーの代わりにキーボードも担当しており、その旋律の与える印象が以前とはだいぶ異なっているので、たとえジェームスがメインのヴォーカルであってさえ、楽曲の表情は着実に変化している。ニュー・レイヴ、ブリット・ポップ、ポップ・エモ、ポスト・ロック、ロックン・ロール、THE AUTOMATICにYOURCODENAMEIS:MILOという、野心的なアプローチによって英国のホープでもあった二つのバンドの、その音楽性が見事にミックスされ、コンパクトな楽曲のなかに射程の広いサウンドが実現されているところが、最大の魅力であろう。とにかく。さあ。2曲目の「INTERSTATE」を聴きたまえよ。音響、バックの演奏に深い溜まりを持たせながら、構成はきわめてシンプル、軽快なテンポとストレートに伸びてくるコーラスが心地好い。8曲目の「RACE TO THE HEART OF THE SUN」におけるヘヴィなグルーヴは、ざっくばらんに激しさを増していくが、次第に美しく、細やかな情緒を作る。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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