ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年08月13日
 隣のあたし(5) (講談社コミックスフレンド B)

 てっきり端役だと思われていた三宅が、ヒロインである仁菜と彼女が思いを寄せる京介のあいだに割って入り、噛ませ犬に昇格した、というのが前巻のあらすじであって、どこまでが予め構想されていたのか、読み手からしたらまったくわかれないこういう人事があるから、少女マンガは油断ならねえ、のだけれども、はたして三宅はその人柄の良さで噛ませ犬のポジションからもっと上へと這い上がれるのだろうか、というのが、まあ多少の曲解を込めているのだったが、南波あつこの『隣のあたし』の5巻におけるストーリーである。ここで重要なのは、題にあるとおり、誰かの隣にいる「あたし」の心情が、作品自体のエモーションを織り成していることだろう。もちろんそれは、基本的に、京介の隣に幼馴染みとしてしかいられない仁菜の、そして今は三宅の隣に恋人として存在しようとしている彼女の、その内面を指している。簡潔に述べるなら、恋に揺れる乙女心を焦点化しているわけだが、作中人物たちの相関にあっては、もう一方の「あたし」すなわち京介の隣に無理やり居座りながらも時に元恋人の久米川とも逢瀬を重ねる麻生結衣子の、やはり二股の狭間で不安定な挙動を持った心情が、仁菜の対照となることで、そうしたテーマに厚みを与えているのだった。このように考えるのであれば、男たちは、天秤の左右に乗せられた重石のような役割だろう。だがしかし、重石にだって内面がある。と、いわんばかりに京介が、ここにきて大きな動きを見せる。仁菜が三宅と付き合いはじめたことで、彼女に対し、今までになかった反応を引き出されてしまうのだ。これもある意味で、仁菜や結衣子が立っているポジションの応用だといえる。三宅が噛ませ犬くさいのも、じつはそこだ。彼の実直な態度は、自分が誰の隣にいなければならないかを迷わない。これはおそらく『隣のあたし』の本筋からは外れている。物語にとって、とりあえず現段階では、変動をもたらすためのトリガーにほかならないのである。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら

・その他南波あつこに関する文章
 『スプラウト』
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 誰かを深く想う、というのは時として地獄であろう。霧里は京都島原を追われ、江戸は吉原へと発つ。しかし彼女は知らないのだ。京都に残された弟の半次郎が、染め物師としての腕前から、その一際立った容貌から、やがて地獄の渦中に呑まれてしまうことを、知らない。宮木あや子の同名小説を斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』も3巻であるが、おそらくは意図して安野モヨコふうになっていく絵柄を、いやまあたしかにキャッチーではあるものの、個人的にはあまりよく思わないのだけれど、この作者ならではの表情がそこかしこに生きていて、今にも壊れそうなエモーションをよく掴まえている。いずれにせよ、悲痛である。運命の苛酷さがロマンティックにデザインされることで、吐く溜め息に鮮やかな色彩の宿る、それがとても悲痛に見えてくるのだった。作中の誰しもが業をしょっている。そのことは江戸時代という設定によっている。彼らの心理は現代的に解釈されたものにほかならないが、デフォルメといってもよい、イメージといってもよい、地獄を与えられた人間はかくも苦しんだ顔を持つ。幸福のなかにあってさえ。このような説得力は、笑みの真偽をどう描き分けるかの手つきから、やってきている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら