ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年08月27日
 ヒロイン失格 1 (マーガレットコミックス)

 今日、無根拠な思いなしによって妄想にこだわるタイプの女性像は、必ずしもヒロインを失格するものではないだろう。ここ最近、少女マンガのセオリーを意図的に外すことで成立している作品の支持されるような傾向が、随所で見かけられるが、幸田ももこの『ヒロイン失格』も、1巻を読むかぎり、そのラインに乗っかろうとしている。いや確かに『姐さんカウントダウン』や『よってけ! 音子村』の段階で、こうした作風は著しくなっていたけれども、『ヒロイン失格』において、それはさらに極まった。通常の少女マンガでは、ヒロインのライヴァル役にあたるような、見かけはべっぴんさんではあるものの、性格はせこく、少々柄の悪い人物を主人公に据える、というワン・アイディアをベースに、しかしストーリーの展開はオーソドックスなパターンを踏襲し、現代的なラブコメを描き上げているのである。おそらくは、いわゆる負け犬的なシンパシーが狙い。けっこう、あざとい、と思わせる部分は多いが、白けるほどの嫌みを感じさせず、真摯にもエモーションを伝えてくるあたりに、作者の資質がよく出ている。

・その他幸田もも子に関する文章
 『よってけ!音子村』について→こちら
 『姐さんカウントダウン!〜恋愛抗争編〜』について→こちら
 『姐さんカウントダウン!』について→こちら
 『誰がスッピン見せるかよ』について→こちら
 『そんでむらさきどーなった?』について→こちら
 恋言心 〜こいごころ〜 (マーガレットコミックス)

 ケータイコミックの市場における35万ダウンロードが、実際どれぐらい価値のある数字なのか知らないのだったが、コミックスのオビにそう宣伝されている桜乃みかの『恋言心〜こいごころ〜』は、たとえばケータイ小説の「ケータイ」がジャンル的な修辞であったとしたとき、ちょうどそこに含まれるかのようなストーリーの、読み切りマンガを三つ収めている。要するに、たかだか恋愛程度のことに、わざわざ深刻な背景を用意し、感動の種を蒔くのだけれども、いやべつに腐そうとしているのではなくて、正直、そのメロドラマティックなところによって心をたいへん騒がしくさせてくれるラヴ・ストーリーが編まれているのだ、といいたい。どの篇も注意して見られたいのは、男女の関係が内面を持った者同士の齟齬として描かれている点である。一方通行の視点を片方だけに絞り込み、カップルのコミュニケーションあるいはディスコミュニケーションを捉まえるのではなしに、一方通行の視点が二つ揃いはじめてそれが成り立つ様子を物語化している。以前の恋人に裏切られ、ショックのあまり声の出なくなってしまった女子高生が、新しい恋人の誠実さに心身を回復していく、というのが表題作のあらましなのだけれど、相手の気持ちを疑うことなく、確かめ、信じるにはどうすればいいのだろう、このような問いを発し続ける二個の心情を、どちらも伏せず、順繰り明かすことで、作品の本質は作られているのであって、ヒロインに与えられたハンデは、それを引き出すのに要された方便にほかならない。まあ、主人公の悲劇性は結局のところ自業自得じゃんね、と述べることも可能であろうが、そうした批判は表面的なものを指しているにすぎない。身近に離婚という事件があったせいで、好き合っていながら付き合えない幼馴染みたちを描いた「好きのその後は」も、根底は同じく、今まで認識の異なっていたペアが次第に共通の理解を得ていく部分に好感を宿らせている。「恋言心〜こいごころ〜」や「好きのその後は」よりも以前に発表された「Last Stop」に関しては、障害にあたる設定がやや過剰なのもあって、それら二作と比べて習作の域に止まる。
2010年08月25日
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 ああ、またもやENDLICHERI☆ENDLICHERIに魅了されてしまうわけだ。やはりこのアーティストはジャニーズやアイドルの枠内で計られるべきではないのだろう。たしかにギターの土屋公平、竹内朋康、ベースの鈴木渉、ドラムの屋敷豪太、キーボードの十川ともじ、パーカッションのスティーヴ・エトウ等々の、バックをつとめるミュージシャンの錚々たる顔ぶれがそれを許さないというのはある。だがしかし、彼らを従えなければ達成されないものがある、おそらくはそのような確信をパフォーマンスによって見事再現してみせたところに、ENDLICHERI☆ENDLICHERIの、中心の点である堂本剛の、最大の価値を見られたい。

 昨日(8月24日)、ENDLICHERI☆ENDLICHERIの「CHERI E」と題された今回のツアーを国立代々木競技場第一体育館で体験したのだった。去年の公演を記すさいにも述べたが、ENDLICHERI☆ENDLICHERIにおける堂本剛とは、ケリーというペルソナを得たマルチなパーソネルである。超ど級の演出ではなく、まさしく音楽の鳴り響くさまを通じ、この世界と現在と自分との関係を、三角形状にこしらえられたステージの上に切り出していた。

 いくつかの曲は入れ替わっていたものの、セット・リストは去年と大きく変わらない。ただし、このツアー全体の主旨がそうなのか、偶々この日のモードがそうであったのか、ちょっとわかれないのだけれども、ハイなテンションとポジティヴなフィーリングが前面に出、全体的なイメージはだいぶ違って感じられた。抑圧のなかでがんじがらめになった苦しみを余裕で蹴飛ばすかのような頼もしさが、楽曲の表情を、屈託のないかわり、昂揚を目一杯詰め込んだものへと変えている。

 ジャム・セッション的なパートが混沌としていなかったぶん、1曲1曲がタイトに決まっていたようにも思う。とはいえ、まあMCのコーナーが長かったのもあるが、およそ3時間のあいだに披露されたのは10曲ちょっとであって、バンドの演奏がフレキシブルであればあるほど、素材がフル以上の構成を経、ライヴならではの脈を持っていくスタイルは健在、生きるというのは不確定な出来事の数々から他には替えられない一瞬を掴み取ることなのだ、と、ファンキッシュなグルーヴに教えられる。

 序盤に繰り出された「傷の上には赤いBLOOD」の、あの、ホーン・セクションとぴょんぴょん跳ねる(じっさい観客もぴょんぴょん跳ねる)リズムに合わせた〈傷の上には赤いBLOOD・この世に降りた意味鳴らせ・罰当たりと云われてみても・いいんじゃない? ねぇ夢見ようか〉というフレーズが、うなだれた気分の向こうに晴れ間を覗かせる。そして本編のラストを飾った「これだけの日を跨いで来たのだから」の、あの〈悲惨な出来事なんて・あるのが当たり前じゃない? これだけの日を跨いで来たのだから・あたしたちはね・歩んでいるの・一歩一歩と人生って道を〉というフレーズが、どこまでも伸びやかなヴォーカルと相まって、決して困難に負けてはならないと背中を押す。

 それにしても、ハイなテンションとポジティヴなフィーリングのまざまざとしていたのはどこよりも何よりも、アドリブのインストゥルメンタルで場面を繋いでみせるアンコールではなかったろうか。だいたい、去年のそこから生まれてきたのが「音楽を終わらせよう」であったことを考えれば、後半に出現したヴォーカル入りのナンバーは完全に風向きを異にする。

 とくに派手だったのは、なんと竹内朋康がギターを置き、マイクを手にし、ラップをやり出したあたり、である。堂本剛はベースへと回り、主人公は完全に竹内だといってもよかった。ヒップホップのアーティストとコラボレイトする機会が多いだけであって、そのアジテーションもなかなか堂に入っている。しかし重要視したいのは、これによりロックやファンクをすでに内包していたENDLICHERI☆ENDLICHERIが、ヒップホップふうのアトラクションをもこなせると実証した点にほかならない。要するに、可能性の幅にまだまだ広げられるだけの余地があることを、見事にあらわしていた。

 実際、その後に堂本剛が即興の歌詞でヴォーカルをとったラストの楽曲は、これまでと同様に愛をテーマにしながらも、その愛がひたむきな顔つきで迷いに負けない力強さを寄越す、ENDLICHERI☆ENDLICHERIにとっては初期の衝動みたいでもあり新しい鼓動にも似た祈りを、間違いなく、描き出していたのである。やがて巨大なカーテンがステージを包み込む。そして最後には誠実な余韻がちゃんと残された。

・その他堂本剛に関する文章
 DVD『薬師寺』について→こちら
 『RAIN』について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら
 『僕の靴音』について→こちら
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2010年08月21日
 この『チュー坊 日記』は、コンビニ向けのアンソロジー『ヤングキングα』の「新不良聖書」に1話から10話までが収録されている。南勝久と門尾勇治の師弟がタッグを組んでヤンキー・マンガを描くとなれば、両者のキャリアを知っている者からすると、期待せざるをえないところなのだったが、まあ南の監修で門尾が絵を描きましたよ、といわれたなら、まったく納得のいくものであって、ひじょうに安定した内容をキープしてはいるのだけれども、あと一つ、化学反応と呼ぶほどのサプライズは見受けられない。要するに『ナニワトモレ』の、とくに初期の、あの、大阪弁のギャグが勢い任せなのにも似た独特なテンポで、中学生ならではの狭い世界が、思春期が、そして成り上がりが、描かれていると思われたい。大阪市内でも知られた不良校、北邦中学に入ったサッピは、スケベ心は一人前だが、それまでケンカをしたことがなかった。しかし、成り行きから一年生同士のいさかいに巻き込まれていく羽目になる。そこにマドンナ的な存在であるサラへの恋慕や、小学校よりの連れ合いであるリュウジやカメとの友情が入ってき、おおまかなストーリーは出来上がっている。北邦中学の内部は、西小出身者と東小出身者に分かれており、双方の対立が派手なパートのメインだろう。なぜケンカ慣れしていない主人公が他の少年たちよりも強いのか。体が頑丈だったから、というのは、小学校を卒業したばかりの人物を題材にしている以上、ひじょうに単純ではあるものの、理には適っている。割合オールドスクールなつくりの作品だが、基本的な設計図がちゃんとしているので、白けてしまう部分はきわめて少ない。

・その他門尾勇治に関する文章
 『Don't give up』について→こちら
 『真犯人』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『欺瞞遊戯』について→こちら

・その他南勝久に関する文章
 『なにわ友あれ』
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 ここ最近、ヤンキー・マンガと呼ばれるような作品はさすがに増えすぎなのであって、正直、手に余りつつあるのだったが、携帯電話向けに配信されたコンテンツをコンビニ版の単行本にまとめた『ヤングキングα』の「新不良聖書」などはまさしくその飽和点とすべき佇まい、このなかからジャンルの新機軸やビッグ・ヒットが生まれるとは到底思えないのだけれども、まあ商売として成功すればいいですね、といったところである。

 さてその「新不良聖書」に収められているのが、俳優の宇梶剛士が原作をつとめ、『タイガーズ』の白鳥貴久が作画を担当した『COOL TEAM』で、1話から9話までが読めるのだが、評価を厳しくすれば、類型的な描写や展開が多く、さほどのトピックを含んではいない。

 内容は、二千人のメンバーで構成されるチーム「ゼブラ」の頭(ヘッド)、立花了を主人公にし、暴力で回るような青春を、ギャグとシリアスの相半ばするテンションのなかに描く、といったものである。了に関しては〈後にこの少年は役者になるがそれはまた別の話である!〉と、作中で解説されているとおり、おそらくは宇梶自身をモデルにしている部分もあるのだろう。たしかに、ケンカは強く、人望も厚いが、色恋にはからっきしな彼の性格は、前時代的な、軟派になりたいのになれない硬派のイメージを、それが長所でもあるふうに再現している。しかし、一部のファッションや登場してくる女性の人物は今日的にデザインされており、自伝の要素や深い時代考証を読む必要はなくて、たんにバッド・ボーイのロマンをなぞらえているにとどまる。

 了とはまったく違い、セックスに屈託のない「ゼブラ」のナンバー2、乾鷹志が良い味を出している。彼と主人公の、バディものであるような側面もまた、この手の作品におけるセオリーといえるものの、いやじっさい、物語にとってももっともユーモラスで人間味を感じさせるのは、不良少年の誠実さを(わざわざ)説こうとする点より何より、そこなのだったが、本筋は、ナンバー3の海江田が暗躍し、構成員二千人の説得力のないまま、巨大なチームの権力闘争に発展していきそうな気配を孕む。
2010年08月19日
 女神の鬼(16) (ヤングマガジンコミックス)

 社会の縮図や比喩としてサヴァイヴァルを描くのではなく、サヴァイヴァルそのものを描くこと、したがって鎖国島の〈港をスタートして…この道を真っ直ぐ行く!! 山道に入って そこを ずっと 真っ直ぐ登る!! すると山の中腹辺りで‥‥王の領域の入り口に突き当たる!! ソコを左に曲がって…あとは そのまま 道形に進んで行けば‥‥女神岩(ゴール)じゃ‥‥!!〉というたったそれだけの展開に、火薬や銃器、大量の暴力が持ち込まれる。もちろん、主人公であるギッチョ(佐川義)の願いは、次のようなものだった。〈まるで女神様が座っとるみとーな っちゅー その色っぽい女神岩に このワシが一番最初に辿り着いて‥‥御札をゲットして 王様になるんじゃあぁああッ!!〉

 ついに昭和58年度の鬼祭りが幕を開けた。16巻に入り、田中宏の『女神の鬼』は、ますますのスリルを高速回転させていくのであったが、しかし、この正念場に至って、いきなり金田の過去編を挿入し、いったんワキ道に逸れてしまうあたり、作品の構成としてどうなの、というのがあるにはある。ただしここでは、物語の大きさに対応すべく、肯定的なスタンスでそれを解釈していくことにしたい。

 本筋、つまりは鎖国島で開催されている鬼祭りが、すでにいったとおり、若者たちが一つのゴールを共有することでしか果たされないサヴァイヴァルそのものであるとすれば、金田の素性をプレゼンテーションしていくくだりは、まさしく社会の縮図であって比喩のなかにサヴァイヴァルを描いている。精神的にも物質的にも、貧しい暮らしぶりを余儀なくされた少年が、ほとんど独力で、この世界に生きられる可能性を見出さなければならない様子が、繰り広げられているのだ。このとき注意されたいのは、生まれや育ち(遺伝や環境)のせいで、すなわち当人の与り知らぬ運命によって、そうせざるをえなかった点だろう。小学生の頃の話だ。薬に蝕まれ、気の触れてしまった母親に囚われてしまい、父親や兄からも見捨てられてしまった金田は、虐待を受けながらも逃げられず、腹を空かせては盗みを働いていた。実情はどうであれ、世間からしたら、文字どおりの悪童にほかならなかった。そんな彼にも一人の友人ができた。コンチャン(近藤裕二)である。さまざまな紆余曲折を経、成長した二人はビイストに加入、ギッチョたちとの対立関係を築いていくこととなる。

 じつはその、紆余曲折にあたる箇所こそが、金田の素性における要なのだけれども、母親を喪ったあとも狂気にあてられたかのような破壊衝動に飲まれ、ついにはコンチャンを傷つけてしまい、すべてを御破算にしてしまった彼が、夜の街をさまようなか、ケンエー(雛石顕映)との出会いを通じ、決して健全とはいえないまでも再生を果たしていく、こうしたプロセスの最後に、ふたたびコンチャンが登場してき、この世界には他には替えられない存在がたしかにあることを、金田に教えている。

 コンチャンと別れたまま、中学校にあがり、孤軍奮闘していた金田は、たまたま遭遇したケンエーの〈ガキが‥‥‥‥何ムキんなって一人でツッパっとんなら‥‥‥‥おお!? 所詮限界じゃわい 仲間も無しに…〉という言葉に、〈それまでに出会ォた誰とも違う その特別な雰囲気の男の『仲間も無しに‥‥』の一言に ワシは固まった‥‥〉のであって、〈ホンマなら横におるはずの……………仲間がおらん苦しさから逃れるために‥‥ケンエーくんの野望とゆー名の友情に飛びつ〉き、〈中身がどーであれ 仲間ってゆー空気の中におる間は 苦しみから解放される気がした‥‥〉のだったが、それでも自分には欠落があることを認識しているので、〈救われたはずなのに…なんで‥‥なんでこんとに‥‥まだ 苦しくて…涙が出るんや‥‥〉と問わずにいられない。そうした欠落にあたるがゆえ、唯一埋められたのが、金田を追ってビイスト入りしたコンチャンだったのだ。

 さてしかし、いったん整理しておきたいのは、家族や世間から迫害され、あるいは彼自身が家族や世間との関係を放棄した結果、それら以外の拠り所を金田が求めなければならなかった。そこで要するに、コンチャンやケンエーのみが、金田にとっては正義や安息を預けるのに値した、ということだ。しかしてそれは、帰属先が自明ではないばかりか、保証されてもいないとき、はたして人はいったい何を信じればよいか、といった問題を内包している。金田が不良少年としてのレッテルを生きなければならないのは、本質的に、その居場所を家族や社会からは与えられていなかったためなのである。

 コンチャンやケンエーによって、金田の魂に救済をもたらしているのは、それが特殊であろうがなかろうが、共同体の論理にほかならない。共同体の論理がいかに構築され、共同体の論理を個人がどう引き受けるのかは、田中宏が『BAD BOYS』の昔から『女神の鬼』に至るまで、ライフワーク的に編んでいるテーマの一つだといえる。このことが、鎖国島の、鬼祭りの、決戦の、その直前に、あらためて確認されているのだとすれば、金田の過去編は、物語の全体にとって絶対不可欠なパートにも思われる。

 じじつ、急襲され、倒れたコンチャンを金田が背負い、ケンエーに助けを請う場面は、今回の鬼祭りをエスカレートさせるのに応じたイグニッションになっているのだし、そのさい見逃せないのは、ちょうど同じところにケンエーの兄であり、足に怪我した顕治が居合わせ、逆上のあまり次のような言葉を吐き、金田に秘蔵の火薬を与えようとしていることだ。〈火薬か…!? ナンボでも持って行けぇや‥‥ナンボいるんなら…お!? そのかわり‥‥原 真清一派だけじゃない‥‥雛石の血を汚したドグサレ‥‥‥‥‥‥東 紳彌(アズマ)ぶち殺せ…!!!!〉

 アズマの裏切りによって窮地に立たされた顕治にすがれるものがあるとすれば、また他には替えられない存在がいるとすれば、それは間違いなく弟のケンエーであった。自分に尽くすケンエーの姿を見、〈結局…最後に信用できるのは‥‥“血”のみじゃ………〉と実感するのである。ここにもまた、共同体の論理が働いているのはあきらかだろう。共同体は何らかの価値観をベースにすることで生成される。顕治にとってはつまり血縁がそれにあたる。

 顕治が火薬を渡そうとするとき、金田に突き付ける条件は、そうした価値観を別個の人格に強要し、共同体を拡張する場合の駆け引きを見事に含んでいる。〈お前は 唯一ケンエーとずっと仲間じゃった‥‥ワシら雛石兄弟を支える一番の側近として今回特別に‥‥ワシら以外は絶対に入れん火薬倉庫に入れてやる‥‥!! お前が信じるに値するかどーか…もし裏切ったら そん時は コン(引用者註・コンチャンのことね)を殺す!! えーのォ…コンは人質として ココにおいとけ‥‥ワシらに忠誠を誓う証として…火薬(はっぱ)でアズマの首ぃ獲って来いや……!!〉という、以上の言葉はじっさい、戦略的に見られるべきだろう。顕治の思惑において、金田が共同体の一員に相応しいかどうか、ある種のミッションをあいだに置きながら、試している。

 お前の大事なものを守りたいのであれば、真清の一派やアズマを殲滅せよ。顕治の提案を是とすることで、金田は鬼祭りに復帰していく。一方で、アズマはともかく、真清のサイドにも金田を迎え撃つのに十分な闘志が蓄えられていることを看過してはならない。鎖国島の王様になるべく、女神岩に向かい、独走していたはずの真清が、ふいに足を止める。同じ東側の仲間であるウルメが、金田に傷つけられ、倒れているのを目にしたのだった。そうしてついに、あの飄々としていた真清が〈鬼祭りはいったんおいといて‥‥‥‥金田のクソガキ殺すど!! ワシの仲間に指一本でも触れたヤツは一人残らず‥‥皆殺しじゃ‥‥‥‥!!〉と激昂を帯びるのだけれども、このような因果は、直線的なルールにガイドされていた鬼祭りの内容を、異なった共同体の複雑な衝突へと発展させる。はずみをつける。

 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 1巻と2巻について→こちら

 『KIPPO』1話目について→こちら
2010年08月17日
 はしたなくて ごめん 3 (りぼんマスコットコミックス クッキー)

 石田拓実の『はしたなくて ごめん』の3巻は、ボーイ・ミーツ・ガールの枠組みにセックスへのアプローチを旺盛にした1巻や2巻とは、少々表情を違えている。じっさいメインの登場人物は、本来のヒロインである真奈緒の妹、桃花と、彼女に一途な想いを寄せる年上の幼馴染み、ハルにシフトしているし、「あとがき」にあたる項で作者が「私なりの中学生日記風を目指してみました」といっているが、桃花の置かれた半径の狭い世界をベースに、思春期が誠実なものであるとすれば、その誠実さのスケッチであるような側面が強まった。無知であるがゆえに無垢であった桃花が、ハルとの再会を経、学校での立場を悪くしていくなか、それまで気づかなかった人間関係のデリケートな表情を見、屈託してしまうのではなく、受け入れ、成長のサインをかざしていくところが、とても素敵だと思う。目の前で繰り広げられている光景に関し、必要最小限の好奇心しか持ち合わせていなかった少女が、たとえそれが小さな社会であったとしても、たしかにそこで視野の広がりを手に入れられているのである。

・その他石田拓実に関する文章
 『パラパル』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 白のエデン(1) (講談社コミックスフレンド B)

 あの雪の日、その少年に出会えたことだけが、少女にとっては、ただ一つの。

 前作にあたる『彼はトモダチ』で、終盤の物語に泥沼の様子を演出していった吉岡李々子だったが、この新作『白のエデン』は、1巻の段階から作中に深い溜め息が渦巻き、幸福が遠く、ずっと身近ではないもののように描かれている。

 義理の父親や兄とは折り合いが悪く、実の母親のプレッシャーに応えなければならないヒロイン、芹川真白の居場所は家庭にない。かといって、学校では友人もなく、浮いてしまっている。〈イイコにしなきゃ イイコにしなきゃ イイコにしなきゃキラわれちゃう ひとりはイヤだ。〉そう願えば願うほど、彼女の孤独は増していくようだった。しかしあるとき、一人の青年に出会う。高野藍、彼には幼い頃にやさしく手を差し伸べてくれた少年の面影があった。

 藍に誘われ、通いはじめることになった鳥の子学習塾という場で、さまざまな経験を真白は積み、成長を重ねていく、というのが、おそらくは『白のエデン』の概容になるのだろう。

 むろん、義兄である秀人や藍の弟の颯生、そして藍との関係にはラヴ・ロマンスの予感が託されているのだけれども、それを縦の線とするのであれば、家族や級友を含め、摩擦化された周囲との関係をいかにしてやり直すかが、横の線に見られるのであって、双方の織り成す人間模様の色彩は、いささか暗い影を持っている。

 今日の少女マンガにおいて、離婚や再婚、といった設定の向こうに家族のディスコミュニケーションを捉まえる手つきは、決して特殊なものではない。どころか、汎用率は以前にも増して高まりつつある。真白の抱えるオブセッションは、少なくとも彼女にとって、家族のイメージがネガティヴな作用しかもたらしていない、このことからやってきているのだったが、それが現代的な印象をともなうための機能を担っているのは、まず間違いない。

 学校での待遇にしてもそうだ。要するに、共同体のなかで具体化された抑圧を生きる個人の物語になっているのである。もう少し主人公の年齢が上であったなら、いわゆるアダルト・チルドレンのストーリーになりえていたかもしれない。だが、中学三年生まで年齢を落とすことで、まさしく現代的な思春期の困難へとドラマを寄せていっているのだった。

 ところで、鳥の子学習塾の塾長代理をつとめる当道である。作者がオマケのページで触れているとおり、塾生である佐々本(早良)とともに前作から引っぱられてきた人物なのだったが、『彼はトモダチ』でも本筋には直接関係がないながら重要な任務を果たした彼の存在は、そう、まるでライ麦畑のキャッチャーを彷彿とさせる。こういう好漢を、憂鬱な筋書きに対し、配慮のごとく用意できるあたり、作者のやさしさ、強みであると思う。

・その他吉岡李々子に関する文章
 『彼はトモダチ』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『99%カカオ』について→こちら
2010年08月13日
 隣のあたし(5) (講談社コミックスフレンド B)

 てっきり端役だと思われていた三宅が、ヒロインである仁菜と彼女が思いを寄せる京介のあいだに割って入り、噛ませ犬に昇格した、というのが前巻のあらすじであって、どこまでが予め構想されていたのか、読み手からしたらまったくわかれないこういう人事があるから、少女マンガは油断ならねえ、のだけれども、はたして三宅はその人柄の良さで噛ませ犬のポジションからもっと上へと這い上がれるのだろうか、というのが、まあ多少の曲解を込めているのだったが、南波あつこの『隣のあたし』の5巻におけるストーリーである。ここで重要なのは、題にあるとおり、誰かの隣にいる「あたし」の心情が、作品自体のエモーションを織り成していることだろう。もちろんそれは、基本的に、京介の隣に幼馴染みとしてしかいられない仁菜の、そして今は三宅の隣に恋人として存在しようとしている彼女の、その内面を指している。簡潔に述べるなら、恋に揺れる乙女心を焦点化しているわけだが、作中人物たちの相関にあっては、もう一方の「あたし」すなわち京介の隣に無理やり居座りながらも時に元恋人の久米川とも逢瀬を重ねる麻生結衣子の、やはり二股の狭間で不安定な挙動を持った心情が、仁菜の対照となることで、そうしたテーマに厚みを与えているのだった。このように考えるのであれば、男たちは、天秤の左右に乗せられた重石のような役割だろう。だがしかし、重石にだって内面がある。と、いわんばかりに京介が、ここにきて大きな動きを見せる。仁菜が三宅と付き合いはじめたことで、彼女に対し、今までになかった反応を引き出されてしまうのだ。これもある意味で、仁菜や結衣子が立っているポジションの応用だといえる。三宅が噛ませ犬くさいのも、じつはそこだ。彼の実直な態度は、自分が誰の隣にいなければならないかを迷わない。これはおそらく『隣のあたし』の本筋からは外れている。物語にとって、とりあえず現段階では、変動をもたらすためのトリガーにほかならないのである。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら

・その他南波あつこに関する文章
 『スプラウト』
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 誰かを深く想う、というのは時として地獄であろう。霧里は京都島原を追われ、江戸は吉原へと発つ。しかし彼女は知らないのだ。京都に残された弟の半次郎が、染め物師としての腕前から、その一際立った容貌から、やがて地獄の渦中に呑まれてしまうことを、知らない。宮木あや子の同名小説を斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』も3巻であるが、おそらくは意図して安野モヨコふうになっていく絵柄を、いやまあたしかにキャッチーではあるものの、個人的にはあまりよく思わないのだけれど、この作者ならではの表情がそこかしこに生きていて、今にも壊れそうなエモーションをよく掴まえている。いずれにせよ、悲痛である。運命の苛酷さがロマンティックにデザインされることで、吐く溜め息に鮮やかな色彩の宿る、それがとても悲痛に見えてくるのだった。作中の誰しもが業をしょっている。そのことは江戸時代という設定によっている。彼らの心理は現代的に解釈されたものにほかならないが、デフォルメといってもよい、イメージといってもよい、地獄を与えられた人間はかくも苦しんだ顔を持つ。幸福のなかにあってさえ。このような説得力は、笑みの真偽をどう描き分けるかの手つきから、やってきている。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年08月08日
 すばる 2010年 09月号 [雑誌]

 『すばる』9月号掲載。松田青子の『ノースリーブ』は、若葉という主婦が、買い物の帰り、自分が住んでいるマンションの一階で、「うわっ、カギ落とした、待ってて、俺ちょっと戻って探してくる」と慌てて言い、出かけていった夫の陽一を待っているだけの短篇小説である。もちろん、その、だけ、のなかに、いかなる実感がつくられているかを見られたいのであって、たとえばさっき買ってきたばかりのリステリンを袋から出し、手にとりながら〈商品名、内容量、注意事項などが記載されているセロファンに、小さく「ターター」と書かれていて、「ターター」ってなんだと思いセロファン上をくまなく窺えば、どうやら「ターター」とは歯石のことらしい。えらくかわいい言葉である。この世に生まれてはじめてしゃべる言葉が「ターター」だという赤ちゃんもどこかにいそうではないか〉と思ったりするのだが、それのみでは間が持たず、回想が入ってきたりもする。そうして回想は、若い日の失恋にあてられており、もしかすればそこからが本題であるのかもしれないのだけれど、女性の、あるいは若い女性ならではの、心理の、とくに幼いところを、ユーモラスに、しかしそのおかしさが、当人にとってはほとんどまじであるようなとき、傍目にはぞっとしない類なものであることを、描写していく。結果、作品の印象には、主人公の内面をどう評価するか、が連なってくるのだったが、物語の微笑ましさを素直に受け取り、シンパシーを寄せても構わないし、独我論的に他人を解釈、勝手に満足しきった彼女の態度や、ノースリーブの件を深読みするあまり、ほんとうは全部この人の妄言なんでしょう、まるでおっかないホラーみたいだ、この季節にぴったりの恐怖すら覚えられる。
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2010年08月07日
 賢い犬リリエンタール 4 (ジャンプコミックス)

 リリエンタールはほんとうにかわいいなあ。ほんとうにやさしいし、ほんとうに賢いのだな。葦原大介の描く『賢い犬リリエンタール』がほんとうに好きである。

 全4巻という長さは、『週刊少年ジャンプ』の傾向からすると、ほとんどヒット作とは見られないだろうが、そうしたサイズも含めて、ほんとうにとてもナイスなマンガであったと思う。

 コメディの要素が強い作品ではあるけれども、ふいにこう、じんわりとさせられるものがあって、それらがコントラストというよりも、一つのやわらかな基調をなしていたところが、最大の魅力であった。

 エンディングに向かい、背景下の物語にあらかたの決着がついていく様子を、すまん、ついつい涙しそうになりながら、読んだのだ。

 不思議な力を持った犬、リリエンタールが、ついに本気となった黒服の組織にさらわれてしまう。リリエンタールの姉であるてつこやその兄、そしてこれまで縁のあった人物たちが一致団結し、リリエンタールの救出に出発する。

 作中でいわれているとおり、リリエンタールとは、人間の心や意識を現実化する能力そのものであった。これをめぐり、いわば私欲と善意とが正面からの争奪戦を繰り広げる。しかしながら、さほど難しい筋書きではない。

 要するに、一個の人格を前に他人はいかような働きかけを持ちえるか、そうしたテーマを単刀直入なストーリーに編んでいるのである。

 クライマックスで、リリエンタールの語る孤独が、平易であるぶん、ひじょうに鮮明なあたり、作品の本質がよくあらわれている。いわく〈だれだって じぶんがいなくなるのはこわいですぞ?(略)きえてしまうのがこわいのは きっと だいすきなひとにあえなくなるからですな!〉

 生きること、死ぬこと、いなくなること、消えてなくなること、すべてがありふれているにもかかわらず、どうして慣れにくく、悲しまされるのだろう。もしもありとあらゆる人格に、心、が備わっているとすれば、それはいったいこの世界の何によって動かされ、明滅するのか。

 リリエンタールの言葉は、徹底された簡素さを通じ、ある種の真理を探り当てているのだったが、重要なのはやはり、これまでのエピソードにおけるギャグやナンセンスを経、リリエンタールならそう言うね、リリエンタールがそう言うなら間違いないね、と信じられる説得力が与えられていることにほかならない。

 あるいはこれまでのエピソードにおけるギャグやナンセンスとは、作中の人物たちが、リリエンタールの純粋さを受け入れ、変化していく過程でもあった。こちら読み手の感想もそこから由来している。

 単行本化にあたり、最終回のあとで新たなエピローグが加えられた。ヒロインであるてつこの、不登校児である彼女の卒業式が描き下ろされている。

 そこでは、本編のベースであったSFやファンタジーふうの展開はいっさい排せられ、しかし本編に等しいテーマがたしかに示されている。

 一個の人格が、他人に関与し、他人に関与され、心を動かし、動かされ、この世界もしくは社会とコネクトすることの成果が、笑顔、という具体例に表現されているのである。

 リリエンタールの行動に、たまらず、ぐっとくる。おまえはほんとうにかわいいやつだなあ。ほんとうにやさしく、ほんとうに賢い。

 はたして現実にはいくつもの困難が存在している。だが誰だって彼のように生きられるかもしれない可能性を、勇気を、作者は、最後の最後に置いた。
2010年08月05日
 BENGO! 4 (ジャンプコミックスデラックス)

 全4巻で完結したところから振り返るに、きたがわ翔が弁護士マンガを描いた、以上の感想を持てなかったかな、というのが、この『BENGO!(ベンゴ!)』である。ラストまでの内容にはいくつかの変節があったように思う。松下弁悟、若林航大という二人の主人公の因縁、対立、協力、葛藤の法廷ドラマを経、最終的には〈弁護士がバーテンをしながら気軽に相談に乗る こんな面白いバーがあったら市民は大喝采するんじゃないかと思ったんです〉このような発想のもと、弁護士バーを開いた「SHOWSO」の面々が、困りに困った依頼者の相談に応じていくスタイルとなった。序盤と終盤とでは、ずいぶん物語の形式が違っているのは、紆余曲折というか、試行錯誤というか、結局はうまい具合にアイディアが安定しなかったふうにも見えてしまう。職業ものにおいて定番とすべきパターンを引き受けるかどうか。この一線の上で、迷い、ずるりとこけ、落っこち、着地点もあまりはっとこない。

・その他きたがわ翔に関する文章
 『ガキホス』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『デス・スウィーパー』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
 蒼太の包丁 25 (マンサンコミックス)

 グルメ・料理マンガには長期連載化していく作品が少なくはないが、大河のようなドラマを充実させている例は多いと言い難い。それというのはたぶん、ショートなワン・エピソードを基本に、文字どおり、回を重ねることが第一義となっているものが大半だからであって、幅の広い時間進行は結果的に生じているにすぎないためなのだと思う。つまりは当初の設計図にそってつくられた構造に建て増しの物語が与えられているわけで、作中人物の性格に、成長とはべつの意味で、当初の設定とのぶれが出てしまうことが珍しくないのもそのせいだろう。こうした皮肉をおそらくは意図的に回避すべく、作中人物同士の相関性と背景のストーリーを厚くしているのが『蒼太の包丁』である、というのは以前にいったような気がするのだけれども、いやじっさい、25巻に入った現在も、主人公の成長や周囲の感情、環境のゆるやかな変化に、最大の特徴がある。「富み久」の親方は、年末も忙しいというのに、どのような思惑があってか、花ノ井が自分で開いた店「花ノ井」の手伝いに蒼太を行かせる。それもまた、蒼太の、料理人としての、新たな糧となっていくのであった。というのが、ここでのおおよそである。カウンター越しに並び、互いに包丁を握った花ノ井と蒼太のコンビネーションは、正しく今までのストーリーがあってこそであるし、主人公をめぐる女性たちの対応も同様に、過去の積み重ねによっている。単発のエピソードを見るなら、読み手を感動させるために、作中人物を泣かせる、こういった手法のあざといものもあり、そちらに関してはさほど褒めないのだったが、「花ノ井」と競合する「松井」の大将と花ノ井の対面にはまったくべつの緊張があって、なかなかに印象深い。男と男の、職人と職人の、歳の差に関係のないプライド、言葉では通じ合えない部分が、よく出ている。

 24巻について→こちら
 22巻について→こちら
 20巻について→こちら
 18巻について→こちら
 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
2010年08月01日
 どうしたって別れはつらい。好き合っていればなおつらい。だからこそ、どうして離れ離れにならなければいけないのか、と人は思う。最富キョウスケの『電撃デイジー』は、7巻にきて、大きく物語を動かした。ヒロインの照と自らがDAISYであることを隠し続ける黒崎の、二人の距離が縮まりつつあるなか、今は亡き照の兄と黒崎にまつわる因縁がふたたび浮上、心穏やかでないながらも無事を保っていたはずの日常が切り裂かれるのである。照がDAISYと交わす携帯メールのやりとりは、これまでにも両者の内面を具体化するにあたり、効果的なパートを果たしていたが、ここではそれがさらにエモーショナルなシーンをつくり出す。ふつう、マンガの表現において、モノローグは、読み手には通じているものの、じっさいに伝えたい相手には届けられない、つまりはその作中人物のパーソナルな表明にとどまる。だが『電撃デイジー』では、モノローグの一部は、携帯メールの文面として書かれ、対象への告白に近しく機能する。黒崎とDAISYの、照が薄々勘づいている合致もじつはそこに担われていたのだけれど、状況の不幸は、そのような告白を経ることで強まってきた関係を、ひどく哀しいものへと転じさせてしまう。すなわち携帯メールという手段が、ラヴ・ロマンスの悲劇性をより高めている。それにしてもこの巻のクライマックスである。DAISYが照に向けて打つ携帯メールの文章がせつない。直接に会って話していれば、せめて携帯電話が繋がってくれさえすれば、それは生じえなかった。本来なら、愛の言葉であって、二人の結びつきをいっそう固くしてくれてもよかった。なのに、反対の感情が占めていく。きれいな印象に綴られれば綴られるほど、別れの挨拶でしかなくなっていく。寂しさを増していくのがつらい。つまりは次のとおり。〈いつもそばで 笑っていてくれて ありがとう 僕の意地悪を かわいく受け止めてくれて ありがとう ――それから―――― 君が大好きだと言った デイジーの花を 僕もきれいだと 思ったけれど 僕のそばにいる君は その花よりも ずっと きれいな女の子だと思いました〉

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他最富キョウスケに関する文章
 『青春サバイバル』について→こちら
 『ペンギンプリンス』について→こちら
 『プリキュウ』について→こちら
 だから恋とよばないで 2 (Cheeseフラワーコミックス)

 少女マンガの、とくにすぐれたラヴ・ストーリーを目にしているとき、この人物は、その人物に対し、いったいいつどこで心を開きはじめたのだろう、と考えさせられることがある。要するに提示がなされていないためなのだが、それは必ずしも描き落としているというわけではない。むしろ周到に秘せられているからなのであって、ちょうど文章における行間がもっとも大切なものを隠すことで深い彫りを持つのと同じく、作品自体の表情をとても豊かにする。藤原よしこの『だから恋とよばないで』の場合、ジロー(高柳次郎)の心理がその役割を果たしていると見てよい。

 物語は、高校2年生のヒロイン、鳴瀬心(ほんらいは心のほうが適切ではあるのだけれども、文章上のややこしさを避けるべく、以降は鳴瀬と表記していく)が、若い数学教師のジローに惹かれ、じょじょに片想いを強めていく様子を、ときめかせる材料、軸の足としている。しかしそれがあくまでも一方的なものにほかならず、したがって独りよがりな言動にとどまるのであれば、展開と構成にメリとハリはついていかない。そこをジローの心理が補っていると考えるのが妥当なのである。

 いやたしかにこの2巻で、鳴瀬と親しくしているのを職員から誤解されたジローが〈ちゃんと「生徒」だと思っています 大事な生徒の1人だと〉思っており〈ほかの生徒と 一緒だよ〉と言明しているのだけれども、それは両者の関係を指しているにすぎないのであって、決して鳴瀬がワン・オブ・ゼムであることの証明とはならない。もちろん、ジローが鳴瀬に対して恋愛感情をもっているかどうか、をいっているのではない。むしろ、恋愛感情であるかどうか、という点について述べるとするなら、すくなくとも現時点では、否だろう。肝要なのは、ジローにとって、一人の生徒が、おそらくは、他とは区別され、意識されている、このような疑いを読み手に抱かせるだけの、心理の、描写が、自然と働いていることなのだ。

 言い換えるのであれば、まず間違いなく、鳴瀬はジローの心に触れている、ジローは鳴瀬に心を開きはじめている、のだったが、それがいったいいつどこからであったか、は周到に秘せられている。秘せられているがために、物語は、ほんらいは不器用なはずの主人公が、恋愛感情を通じ、積極性を得ていく様子に焦点を結ぶような構造を持ちえているのだと思う。ジローがくだけた性格の人物である以上、彼の言動はたんに迂闊さのあらわれなのかもしれない。こうした予断を加えてもなお、上記してきた推測は残る。それこそがすなわち、ラヴ・ストーリーとしての余地となっている。

 さてしかしもう一つ付け足しておきたいのは、生徒だから教師だからという立場の問題とはまったく無関係に、ジローには恋愛感情を自ら禁じているふしがある、と察せられるところなのだった。それはこの2巻に挿入された次郎の過去編が教えるとおり、喪われた兄と彼の恋人であったミヅキの存在にかかっている。もはや取り返しのつかないまでの、深い、負い目がそうさせている。そのせいでジローは女性から〈いつもフラれちゃうんだもん いつも! すぐ! 「本気じゃないんでしょ」とか「何 考えてんのかわかんない」とかサ〜〉言われてしまうのだけれど、これを鳴瀬は〈それ は きっと 先生の心の中に 誰か いるから じゃないんですか? 先生の黒い瞳が 時々 その人を想って揺れるから――――〉と、さながら女のするどい勘で、予想するのである。

 鳴瀬の予想は、今までにジローが落としたいくつものヒントを集めた結果、やってきている。ここでいっているヒントとは、しかしジローが意図したものではない。鳴瀬の真剣な眼差しによって、奇しくも発見されたものにほかならないのだが、ジローの不注意あるいは不用意な態度が事前に置いておいたものでもある。かくして新たな問いが顕在する。すなわち、なぜ鳴瀬だけがそれを見つけることができたのか、である。当然、そのことは鳴瀬自身の固有性というか、彼女をヒロインたらしめている物語上の要請によっているだろう。だが同時に、彼女の発見が、ジローへの働きかけとなり、彼の心に何らかの反応をもたらさなければ、ラヴ・ストーリーにふさわしい情緒は出てこない。

 今後、『だから恋とよばないで』の物語がいかに転がり、ヒロインの恋愛感がどうなっていくのかは、知らない。もしかしたら両想いを叶えるかもしれない。失恋に終わっても不思議ではない。いずれの可能性も、鳴瀬の積極性はもとより、ジローの心理を参照し、はじめて導かされる。こうした相関が作品自体の表情をとても豊かにしていることは、いちばん最初にいった。

 1巻について→こちら

・その他藤原よしこに関する文章
 『恋したがりのブルー』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  1巻について→こちら