ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年07月27日
 凍牌 10 (ヤングチャンピオンコミックス)

 覚悟と責任だけだ。ただ覚悟と責任だけが、その人間の眼を生かしも殺しもする。志名坂高次が『裏レート麻雀戦牌録 凍牌』というマンガに描き続けているのは、つまりそうしたことの繰り返しであるように思う。

 しかしまあ、氷のK(ケイ)と呼ばれる主人公の、じつに壮絶な生き様であることよ。高校生の身でありながら、裏の世界に出入りし、莫大な金を稼いでは奪われ、右足の小指をも失い、腹を切っては死に瀕する。にもかかわらず、決して敗北はしない。いや、決して敗北の許されない条件を自分に課すことでしか、生きられない。かけがえのないものを守れないのだから、すさまじい。

 最初はたんなる遊び心にすぎなかった。しかしずるずると引き込まれる泥沼のなかで、その少女のみが輝いて見えた。アミナ、ヤクザに売買されていたその異国の少女の、どれだけ不幸を負わされても希望を手放さない姿が、ケイに光を教える。退屈な日常も孤独な運命も地獄であるならば、たった一つ、たった一つ信じられるもののすべてを喜びに変えるべく、より深い地獄へと潜っていくのである。

 もちろん、他の誰かに選ばされたのではない。自分から選んだ。ゆえにそれをでたらめとしないためには、勝利が要る。いっさいの覚悟と責任を引き受け、命さえも賭けざるをえない。物語が進み、後戻りができなくなればなるほど、ケイの眼はするどく、つよい意志を示した。しかるに、現在の「全日本麻雀竜凰位戦」編は、以前にも増して苛酷な状況をケイに突きつける。

 8巻、畑山の退場は残酷であった。〈もう負けねえ 俺は畑山 意地の張り合いと麻雀なら もう誰にも負けねえ!!〉さらに9巻、女王アイとの再戦は熾烈であった。〈あはっ 私のトラウマとかとんだ甘ちゃん? わはははスゲ――――〉そしてこの10巻、伝説の雀士、大辻の妨害、最大のライヴァル、堂嶋との差し合い、病に倒れたアミナを救うには、一般の大会であるはずの裏に隠された陰謀を曝き、「名簿」と呼ばれる何かを手に入れなければならない。〈…誰が来ようが関係ない……必ず勝つ……いや…殺してでも奪い取る〉

 これまでのストーリーではっきりしているとおり、クラスメイトや幼馴染みでさえも平然と切り捨てられるぐらい、ケイには容赦がないのだけれど、必ずしも無情だというのではない。時と場合によっては、迷わされ、惑わされる。

 だがそこでは、葛藤や逡巡など、クソの役にも立たない。同卓の敵を喜ばせるエサになるばかり。弱みにつけこまれたなら、すぐさま足下をすくわれる。慈悲や憐憫のまったく剥奪された場所に立っている。

 当然、一寸先は闇、のシビアな設定は、博打、ギャンブル、麻雀を題材にしたフィクションの、ジャンル的なコードに要請されてはいるだろう。他の作品だってそうじゃん、なのだったが、『凍牌』において重要なのは、ありとあらゆる場面が死活と関わるなか、少年がくだしていく決断を、受動性のドラマにするのではなく、所与の条件の、たとえそれがシビアなものであろうとも、自覚的な肯定化として、描いている点にほかならない。

 それにしても、堂嶋あ、ここにきて立ちはだかってくるかよ、そしてやっぱりかっこういいな、おまえ。大辻のトリックにはまり、ついに焦りを見せるケイに、ふたたび、勝負の何たるかをあらためさせるには、この男との戦いが必然、必要であった。

 これまでもことあるごとにケイの甘さを突き、結果的に危機を乗り越えさせてきたのは堂嶋だったわけだが、1巻、最初の出会いの時点で、氷のKとしてすでに活躍し出していた少年の、しかしまだほんとうの覚悟と責任を知らない眼に向かい、次のように言っていたのが思い出される。〈ぬるい〉
2010年07月25日
 もはや先週と同じ気持ちでその場に居合わせることは叶わなかった。周知のとおり、今後もメンバーを1人引いた状態でKAT-TUNの活動は続くことがほぼ確定的になってしまったせいである。もちろんそれは、現在のツアーが発表された段階で、十分に考えられるものであった。しかし考えうるかぎり、もっともあって欲しくないものであった。いずれにせよ、寂しい? と問われたなら、寂しい、と答えるしかないんだ。いやたしかに5人のKAT-TUNもまず間違いなくKAT-TUNなのだったが、そのことは決して6人のKAT-TUNをKAT-TUNではなかったとはしないのであって、双方をKAT-TUNとして認められる以上、あるいは双方がまったく同じではない以上、前者が後者の、後者が前者の、いちばん近い比較対象になるよりほかない、にもかかわらずそれは必ずしも幸福な見方とはなれないのが、寂しい。

 要するに、「KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR」を観るのは二度目であった昨日(24日)、グループを取り巻く状況が状況なおかげで、赤西仁という不在を痛切に意識せざるをえなかった。

 セット・リストや演出は、先週と今週とで、そう大きく変わらない。たとえば田中くんのソロ・コーナーに女性のダンサーが登場せず、きわどさは以前よりも控えめになっていたのは、まさかPTAに怒られたわけではあるまいね、なのだけれども、そのような変更はあくまでも細部に止まるであろう。したがって、初見のときよりもいくらか冷静にショーを眺められたのだったが、やはり「Keep the faith」や「DON'T U EVER STOP」のようなドライヴとグルーヴに、赤西くんのヴォーカルが入っていないのは、パワー・ダウンの印象を免れない。オリジナルのヴァージョンとは完全に出力が違うのであって、こればっかりは他のメンバーが達者にフォローしようとすればするだけ、欠落のほうが際立ってしまう。重要なのはそれが、6人が5人になったという単純な数の引き算によって生じているのではなく、赤西仁の個性を誰も肩代わりできないことの証明になっている点である。

 もちろん、赤西くん抜きで新しく設定されたコンビネーションを悪くいっているのではない。5人のKAT-TUNには5人のKAT-TUNならではの魅力がある。「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」や「THE D-MOTION」の、改められ、新しくされたヴァイブレーションはそれを教えている。しかし同じく6人のKAT-TUNには6人のKAT-TUNならではの魅力があった。すでに述べたように、今はただ、その差異があきらかであればあるほどに、寂しい。

 ところで映画『BANDAGE』に、赤西くん演じる主人公が女性マネージャーから「あんた、ソロで何やるの」みたいなことを言われるシーンがある。このタイミングでDVD化されたのは、あまりにもアイロニックで、胸が痛いよ。感傷的すぎるかな。

 7月16日の公演について→こちら

・その他KAT-TUNに関する文章
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら

・その他赤西仁、LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

 コンサート『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』(2010年2月8日・日生劇場)について→こちら
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2010年07月24日
 バビル2世ザ・リターナー 1 (ヤングチャンピオンコミックス)

 バビル2世復活す。横山光輝がマンガ『バビル2世』に提示した世界像が、はたしてこの現代にどう再現されるのか、『バビル2世 ザ・リターナー』への関心はそこに尽きるのだったが、この1巻に繰り広げられているのは、いやいつもどおり、じつに野口賢らしいサイキック・バトルであった。が、しかし驚くべきなのは、設定自体は『バビル2世』とそのオルタナティヴなエピソードにあたる『その名は101』に、きわめて忠実だという点である。じっさい物語は、『その名は101』の続編を引き受けるかのように、バビル2世こと浩一少年と、彼の血を投与してつくられた超能力兵士たちの死闘を連想させながら、進む。2010年、東京の街を見下ろした学生服の少年は、こう言っただろう。〈始めるぞ アメリカとの戦いを〉と。在日米軍のヘリ部隊が、今まさに、彼に向かい、攻撃をしかけようとしているところだ。このとき、バビル2世をかつて知ったる官房長官の伊賀野は、空前の事態にも顔色一つ変えず〈あんたらアメリカは彼を怒らせた これで終わるとは思わないほうがいい〉と告げるのだった。バビル2世がアメリカと対立しなければならない理由は、作品の裏に伏線のごとく隠されているのだけれども、おそらくは、やがて野口による『その名は101』の解釈となってあらわれてくることを予感させる。バビル2世がロデムと交わしている〈アメリカは世界を統一して世界政府を創ろうとしている 国連と同じく議長はアメリカとはちがう大陸から選ばれるだろう だが陰であやつるのはアメリカだ やろうとしていることは“ヨミ”と同じだ〉という会話が、ひじょうに示唆的だ。もちろんヨミとは、『バビル2世』の本編における最大のライヴァルである。じつは、そのヨミを対照点にし、善悪の抽象性を描くことと、アメリカを仮想敵とし、現実を寓話化することとで、『バビル2世』と『その名は101』は枝分かれしているのだが、『バビル2世 ザ・リターナー』は、双方の展開を統合、ほんらいは主人公であるバビル2世にテロリストの汚名を着せることで、今日的なテーマを組み込もうとしている。要するに、巨大なイデオロギーを持たない世界の正義は何によって保証されるのか、それだと思う。野口の描き出すサイキック・バトルは、超高速をコマ落とし、大きく広げられたカットのなかに、スペクタクルを隆起させる。リニューアルされたロデム、ロプロス、ポセイドンのデザインは迫力に富む。地球規模の危機を持ち込まれ、戦場と化していく日本、〈ぼくはバビル2世 三つのしもべとともに アメリカに宣戦を布告する〉

・その他野口賢に関する文章
 『サンクチュアリ -THE幕狼異新-』(原作・冲方丁)
  1巻について→こちら
 『狗ハンティング』(原作・夢枕獏 / 構成・子安秀明)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『KUROZUKA -黒塚-』(原作・夢枕獏)
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
2010年07月23日
 サイゾー 2010年 08月号 [雑誌]

 『サイゾー』8月号の「CYZO×PLANETS 月刊カルチャー時評」内、マンガのクロス・レビューに参加しています。取り上げている作品は『弱虫ペダル』『ケッチン』『君に届け』の三本です。今回はわりと点数が辛めになってしまいました、が。
posted by もりた | その他。
 ガキホス 2巻 (ヤングキングコミックス)

 全2巻で完結したところから振り返るに、きたがわ翔がホスト・マンガを描いた、以上の感想を持たないかな、というのが、この『ガキホス』である。ストーリーにしても、とくに目新しい印象を得てはいない。主題とすべきは、欲望と拝金とが結託した水商売の世界に主人公のイノセントがどう作用していくか、だろう。が、それもまた、決して珍しいものといえない。良かったのは、ステレオタイプな道徳に色目を使ったかのような反省を持ち込まず、総じてアッパーな展開に徹していた点で、物語の深さがどうとかいうのはともかく、ひじょうにライトなエンターテイメントが、肩を凝らせない。惜しかったのは、ほとんど同じ理由によっているのだけれども、主人公に必要とされた軽さ、明るさとはべつのレベルで、作中人物たちの存在が、薄っぺらくなってしまっていた。男性キャストの集合を、会社組織の読み替え、あるいはホモソーシャルの寓話に見せたい部分が、こうした系の必然として、あきらかにありながらも、その点はあまりうまくいっていない。ストーリーは、最終的に、伝説のホストであった父親の残したテーゼを主人公が受け継ぐ、といった箇所に着地しているのだったが、それが水商売の世界に特徴的なペルソナ被りのゲームのどことどう違うのか、まあ愛があるかないかの抽象性で線引きされているのかなと判断がつくものの、いささか曖昧なままになっている。

 1巻について→こちら

・その他きたがわ翔に関する文章
 『デス・スウィーパー』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『刑事が一匹』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
 SHIBUYA大戦争 1 (ヤングキングコミックス)

 俵家宗弖一の同名小説を小幡文生がコミカライズしたのがこの『SHIBUYA大戦争』なのだけれども、副題に「ドリームキング外伝」とあるとおり、基本的には柳内大樹の描いたマンガがベースとなっていて、本編よりずっと前の時代、1990年のひと夏を作品の舞台に置いている。主人公は『ドリームキング』あるいは『ドリームキングR』で、街の顔役を果たしたタカである。その、彼の、若き日の活躍が繰り広げられているのだったが、概ねサブ・カルチャーのシーンに『池袋ウエストゲートパーク』が登場して以降の、ストリート・ギャングもののヴァリエーションとして評価されたい内容だと思う。少なくとも1巻の段階では、90年代という時代設定に、さほど深い意味を見て取る必要がない。ファッション雑誌の人気読者モデルをつとめているタカは、渋谷(作中の固有名の表記にどれだけのこだわりがあるのか判別し難いため、ここでは渋谷に統一する)の若者たちの支持も厚く、カリズマ視されている。業界からの注目も高い。クラブでイベントを開けば、多くのファンを動員する。しかし、人と金の集まるところには、必然、トラブルが生じるのであって、清國會というヤクザやダガーズというチームに目をつけられたタカは、彼らのほかにもガラの悪い連中と渡り合わなければならない羽目になる。このようなストーリー自体は、小説版にきわめて忠実であるといってよい。反面、マンガ版において、もっともつよいフックをなしているのは、『ステゴロ』でも十分に確認された小幡の、勢いあるヴァイオレンス描写だろう。キャラクターデザインには柳内の名がクレジットされているものの、絵柄や作風にその影響をほとんど感じさせないのは、決して悪い印象をもたらさない。かえって個性と呼ぶべき面が際立っているのだ。とくにそれは動的なアトラクションによくあらわれている。

 小説『ドリームキング外伝―シブヤ大戦争』について→こちら
 
 『ステゴロ』1巻について→こちら

 『ドリームキングR』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年07月22日
 ドリームキングR 6 (ヤングキングコミックス)

 おまえ、この前と言っていることがぜんぜん違げえじゃん、と思われるかもしれないのを承知のうえで書くのだったが、やっぱり柳内大樹のマンガが好きである。とくにこういうものを持ってこられるとそれを実感する。『ドリームキングR』が、ついに完結した。エンディングへ向かい、6巻で繰り広げられるじつにまっすぐなサクセス・ストーリーは、もしかしたら俵家宗弖一の原作に負うところが大きいのかもしれないが、しかし柳内ならではのテンションが生き生き、作中人物のほとんど根拠のない自信をいっそ清々しくし、細かい点にこだわるのは野暮だいね、と、たいへん痛快な気分を味わわせてくれる。まずだいいち話運びのテンポが良い。近年の作品を目にするかぎり、どうやら作者は主人公を、わざわざ、苦悩させるのが高尚な表現だと信じているふしがあって、いやまあ、それはそれでべつに構わないのだけれども、頭を抱えている主人公を物語のなかでどう動かすかの原理が、ものの見事に破綻しきっているばかりか、そもそも彼の基礎であるような資質をもご破算にしてしまうため、いったいその言動のどこから説得力を得ればいいのか、むしろこちらが頭を抱えたくなるのもしばしばであった。要するに、『ドリームキングR』のクライマックスは、そうした躓きを免れている。何せ、オザキック改めオズマックスやJとともに「ゼロル」のセカンド・ブランド「ゼロリズム」を立ち上げたジョニーの、行く手を阻む困難にもまったくめげず、やがてSHIBUYAで名をなしていくまでの様子に、プロットは一本化されていて、展開に迷いがない。アパレルのトップ・デザイナーになるにはなぜか血みどろの抗争劇を繰り広げなければならない、という意味不明瞭なぶれもようやく除けられている。Jやカエデ、オザマックスたちとジョニーの関わり合いにしたって、個々のエピソードを通じ、簡潔ながら十分な深さを与えられているように思う。作中人物の葛藤をことごとくセリフで説明してしまう、抽象性を誤解した、いつもの悪癖が押さえられていて、コマの単位で魅力的な場面が多い。終盤、巨大チェーンである「ウォーライウェア」のバイヤーに〈ジョニーさん アンタにとって…『洋服』とは何か〉と尋ねられ、主人公が自問自答する数ページは、その答えがどうというより、その答えを覗かせる無口な間のなかに、ひさびさこのマンガ家の真価を見た気がした。

 5巻について→こちら
 4巻について→こちら 
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『新説!さかもっちゃん』1巻について→こちら
 『ギャングキング』
  19巻について→こちら
  18巻について→こちら
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  14巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
2010年07月20日
 ここ最近の坂本龍馬ブームにおいては、彼をいかに人間らしいイコール矮小な人物として表現するかに説得力を設けようとしているふうな印象を受けるのだけれども、この柳内大樹の『新説!さかもっちゃん』もそうしたデンを採用しているあたり、まったく現代的な意で「新説」とうそぶくのに相応しいのだろう、が、それはともかく、このマンガに対する残念はこの作者の作家性に対する残念とほとんど同義であることだけは、前置きしておきたい。

 率直にいってしまえば、ストーリーをあまり練らず、かっこうよさげなカットとポエミーを前面化したい、このような欲望を隠そうとしないのが柳内の作風なのであって、少なくとも1巻を読むかぎり、『新説!さかもっちゃん』でとられている手法は、決して冴えた実験性などではなく、たんに作者にとって都合のよい方向性にすぎないのではないか、と思われてしまう。4コマのテイストとシリアスなタッチの複合は、たしかにアイディア以外の何ものでもないのだったが、しかし両者のギャップがもたらしているのは、ギャグやサプライズというより、ストーリーの簡略、かっこうよさげなカットとポエミーの突出にほかならない。当然、それを高く買う向きはあるに違いないのだけれども、個人的にはさほどはっとしない、といったところである。

 発表しているのが『週刊ヤングジャンプ』だからというわけではあるまいが、4コマのパート自体は、どことなくかつての森下裕美を彷彿とさせる、どたばた劇がなかなか楽しいものの、あくまでも本分はシリアスなタッチのほうにあるように見えてしまう。反面、シリアスなタッチでは、吉田聡の系譜であるようなおかしさ、デフォルメの質を生かした部分にこそ見るべきものが多い、たとえばp71のドジョウすくいのくだりなどはすごくキュートなのに、たいていは脈絡を欠いたヒキ(オチではない。オチてはいない)に大きなコマをあて、体裁のみを取り繕うばかり。要するに、長所と短所とが逆の出方をしているのだった。

 さて、ここからは余談になる。もちろん『新説!さかもっちゃん』は、ぜんぜんヤンキー・マンガじゃないのだが、上記した手法は、同じ作者の『ギャングキング』に支配的な感性の延長線上にあるのは疑いようがない。いうまでもなく『ギャングキング』は、近年のヤンキー・マンガを代表する一作だ(まあね)。そして近年のヤンキー・マンガが、いや当然すべてではないものの、その多くが特徴としているのは、一枚のカットと説明調のセリフで事を済まそうというスタイルであって、それは意外にもノベル・ゲーム(あるいはギャルゲー)の流儀と大差がない。だが、ノベル・ゲームのインタラクティヴなアプローチが、重層的な解釈を許しやすいのに対して、ヤンキー・マンガの形式は、単層的かつ直線的なストーリーを強化するための方便にしかなっていないので、表現にひろがりの出来損なっているのが、悔しい。

 誤解があってはいけないのだけれど、何もノベル・ゲーム万歳という話をしているのではないし、どちらがすぐれているかということでもない。手法上の不満を端的に、自分が今の柳内大樹に厳しい理由を述べたまでだ。

・その他柳内大樹に関する文章
 『ギャングキング』
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 『ドリームキングR』
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 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
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 『ドリームキング』
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  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年07月19日
 打撃王 凜(17)<完> (講談社コミックス月刊マガジン)

 結局のところ、中学生編で終わってくれてもよかった、そしたら妙なしこりを残さなかっただろう、満を持して傑作だと謳えた。いやしかしまあ、長篇としては中途半端なところで完結してしまった感を免れないのだったが、でもね、と思う。これだけは言っておきたいな、って思う。ありがとう。最後まで燃えたし、泣かされそうにもなった。このマンガが最高潮に好きである。

 佐野隆の『打撃王(リトルスラッガー) 凛』が全17巻で幕をおろした。すでに述べたとおり、中学生編の熱狂をキープしたまま、高校生編に入っていき、目指せ甲子園を描いてはいたものの、まさか校内試合の段階でストーリーをフィニッシュしてしまったのは、さすがに悔しい。残念にもほどがあるのだけれど、ラスト・スタンドとでもすべきクライマックスには、これまで作品を引っぱってきた魅力が余すことなく凝縮されており、くそ、涙をこぼしかけてしまう。

 ああ、主人公である凛の前に、かつての、そして現在の、最大のライヴァルが立ちはだかる。〈レギュラーになる為には 甲子園へ辿りつく為には やっぱりお前を越えなきゃいけないんだな――寺嶋!!〉

 今にも崩れかねない意識を押してまで、寺嶋との対決をあえて選んだのは、親友との約束を果たすためだ。そう、〈知っている この感じを僕は知っている こんなふうにボロボロになって何度倒れても 何度でも立ちあがった 何度でも 何度でも 僕の目の前でこうやって何度でも――〉立ち上がった少年を、凛ばかりでもなく、読み手であるこちらもたしかに知っている。

 キャッチャー・ミットを構えて〈こんな絶体絶命の状況なのに 体も こんなボロボロなのに 寺嶋 今 こうしてお前と勝負できる事が 楽しくて 楽しくてしょうがないんだ 僕 オカシくなっちゃったのかな?〉と微笑んだ凛に、寺嶋もあの少年のことを思い出す。〈あいつも 同じような事をよく口にしていたな〉と。〈相手が強ければ強い程 状況が苦しければ苦しい程 自分が どこまでいけるのか試せる 投手を そして野球を 心から楽しむ事ができる――と〉

 やっちん、やっちん、やっちん。やっちんとの絆が、いま一度、カタルシスのあふれた場面へと結びついていく。結局のところ、『打撃王 凛』とは、二人の少年の出会いからはじまって、二人の少年の出会いに尽きる、物語であった。とにかくその、始点と終点だけははっきりと定められ、漏らされることがなかったので、事前に準備されたいくつもの予感をほとんど放棄していながらも、汗を握っていた手の平をふと目頭のほうに持っていきたくなるのである。

 以前にもいったが、作画のレベルもひじょうに高く、あるいはだからこそ、ワン・シーンごとの躍動に、ひたすらのめり込まされるのだし、おおよその展開は見え透いているにもかかわらず、ただ息を呑む。凛が、自分の精根をふんばりと引き換えていくさまに十分な迫力があるため、すでに挙げてきたくだりに心は動かされるのだ。

 いずれにせよ、この作品と作者はもっと高く見られてもよい。よかった。すくなくとも、近年の野球マンガにおいて屈指の内容を誇っている。それはもう絶対に間違いなく。

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2010年07月17日
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 だめだよ。ありえない、といういことが、ない。馬である。馬である。何はともあれ馬なのであって、もう最高潮に馬なのだったが、ふつうあれは思いついてもやらない、しかしそれをやるからたまらないのだし、そこが好きだよ、と痛感させられる。いやおまえは何を言っているんだ、てな話なのだけれども、要するに、だ。昨日(7月16日)は東京ドームで開催された「KAT-TUN LIVE TOUR 2010 PART2:WORLD BIG TOUR」を観に行ってきたのだった。

 そしてその、ハイライトとすべき一つがアンコールに出てくる馬で、少しでも間違えればギャグでしかないような演出なのだが、グループのカラーからしたらまったく外していないところに、あらためてKAT-TUNの本質を見た気がした。もしやKAT-TUNの存在とはすでに、アイドルというより、エピック(叙事詩)そのものなのではないか。これが先頃のアルバム、『NO MORE PAIИ』のリード・トラック、「N.M.P. (NO MORE PAIN)」を耳にしたときの印象であり、そうした推測を裏づけるほどのインパクト、エキサイティングなショーを、まさに目撃する。

 じっさい、エピックと呼ぶに相応しいイメージの「N.M.P.」でコンサートは幕を開けた。客電が落ちるやいなや、Kis-My-Ft2の藤ヶ谷くんにイントロデュースされ、ミュージック・ヴィデオのオープニングどおり、メンバー個々の映像と壮大なオーケストレーションが流れる。天井だ。宙から降りてくるゴンドラに乗って5人が登場し、衣装も含め、あのファンタスティックでサイバティックな「N.M.P.」の世界像を再現するのである。メロディはゴージャスな明暗を描き、田中くんのラップが扇情的に、しかしてやはりクライマックスで〈Nooo Paaaaaaaaaaaaaain〉と声を張る上田くんはエモーショナルだ。

 痛みは要らない。その想いが残響となってもまだ、ゴンドラは下がり続ける。だが、じょじょに地上までの距離を縮めるなか、「FALL DOWN」のアグレッシヴなミクスチャー・ロックが炸裂する。歌詞にある〈暴走まるでCrazy train〉の一節よろしく、ステージに設置されたモニュメントが、巨大な爆発音をともない、倒壊してゆく。なるほど、公開リハーサルで見られた演出は、ドームのサイズに拡大されるとこうなるんだ。迫力は二倍三倍に増した。びびって、わっとなってしまったじゃねえか。

 いずれにせよ、もうKAT-TUNのコンサートははじまっているんだぞ、という興奮に包まれている。それが夢でも幻でもないことを続く「Real Face」は高らかに宣言していただろう。ここから地上に降り立った5人が「ONE DROP」、「Keep the faith」とハード・ロックを序盤に展開するさまは、今やお決まりのパターンとはいえ、どうしたってテンションを引き上げられてしまう。バックをつとめるFiVeの演奏ものっている。個人的には、牧野くんのドラムにもうちょい重みが出ていればなおよかった、少し音が硬めなんじゃないかな、と思う。しかし畳み掛ける勢い、アタック、アタック、アタックは、間違いなく「ONE DROP」のせつなかっこうよさに似合っていた。

 引き上げられたテンションは、「THE D-MOTION」と「Love yourself〜君が嫌いな君が好き〜」でダンスのモードにビートを違えられても、決して落ちることがない。どちらも赤西くんが担当したオートチューンのパートを田中くんをメインにしたラップへと差し替えたヴァージョンだ。それにしても「THE D-MOTION」の楽しさときたら。自然と体が揺れてくる。またスタジオ音源と大きく異なっているのは、締めの部分である。中丸くんのリフレインに亀梨くんのヴォーカルが重なり、余韻をつくる。ライヴならではのタッチをよくあらわしていて、これ、ぜひとも高く評価されたい。

 ソロ・コーナーへのブリッジとなる亀梨くんドラム・ソロは、まあご愛嬌であって、類い希なる色気が迸っているのを視認できるだけで満足なのだったが、田中くんの「MAKE U WET -CHAPTER2-」は、ちょ、ちょっとちょっと、ただでさえエロティックなナンバーが、女性ダンサーとの絡みを入れたパフォーマンスによって、さらにえらいことになっていた。曲調自体がじつはそうなのだけれども、性交をダイレクトにイメージさせるのは、おそらく、洋楽的な過激さを狙ってのものである。さてこの、いやらしさのむんむんに満ちた空気をどうしたもんか。

 田口くんがすごいのは、結局のところ、そこであった。どこまでもほがらかにチャーミングな笑顔の「LOVE MUSIC」で、さっきまでの猥褻なムードを一変させてしまうんだからな。そして和太鼓のセッション等を挟み、中丸くんは新旧のソロ・ナンバーをメドレーで繋げる。動の部分と静の部分が1曲ごとに入れ替わる。どうしてこの人はこんなにも器用なんだろう。「FILM」のやさしさに浸りながら、ついつい感心する。ソロのコーナーにかぎったことではない。先述した「THE D-MOTION」のくだりもそうだし、他のナンバーもそう、トークやコントの場面もそうだったのだけれど、今回のショーにおいて、中丸くんの活躍こそが、すべてのクオリティを左右していたのは紛れもなく。いくら褒めたって褒め足りねえよ。

 メンバーが出演しているテレビ番組や商品のCM、過去のミュージック・ヴィデオをバックのスクリーンに映し出すというブレイクを経、「DON'T U EVER STOP」、「RESCUE」、「LIPS」のヒット・パレードで、ふたたび5人が足並みを揃える。そうして膨らんだ熱気を、「愛のコマンド」のヘヴィ・ロックが、「GOLD」の初期衝動が、よりいっそう加速させる。ヤマだぞ、ヤマ場だぞ、中盤のヤマ場がやってきているぞ、と、誰に教えられるでもなく、実感する。たちまち燃え尽きそうだ。どうせなら燃え尽きてもよかった。

 休憩を兼ね、ファン・サービスの一環ではあるものの、トークのコーナーはいささか長く思われた。ツアーに帯同しているKis-My-Ft2を紹介し、彼らが自分たちの持ち曲である「祈り」と「FIRE BEAT」を披露する。後者においては、KAT-TUNの面々も一部に加わる。Kis-My-Ft2も好きなグループなので、こうしたドッキングは、スペシャルなイベントであれば、嬉しい。「祈り」の、北山くんと藤ヶ谷くんの、ツインで聞かせるヴォーカルは、言うまでもなく、甘い、痛み、を誘う。

 さあ、コンサートの本編もいよいよ後半戦である。「僕らの街で」は、FiVeがアコースティックで演奏するヴァージョンで歌われた。そして、きた。『NO MORE PAIИ』に収録された楽曲のなかでもひときわ感動的な「FARAWAY」が、ここで、きた。あくまでも個人的な感慨でしかないのだったが、半ばに〈生き急ぐことさえ / 君のためだと思ってた / もし世界の裏 / 離れても / 途絶えない絆 / 感じて〉というフレーズがあるじゃんね、それはそれとして胸を震わすのだけれども、ふいに現在の一片を欠いたKAT-TUNを重ねてしまい、よけいにはまる。だが、あたたかく波打った旋律に託されているのは力強い願い以外の何ものでもないので、悲しみに暮れない。

 明るいほうへ、明るいほうへ「RIGHT NOW」と「HELLO」のハイなアジテーションが導いていく。他のメンバーが姿を消し、田中くんと中丸くんのコンビが並び立てば、もちろん「ONE ON ONE」だ。初期の楽曲でもとくにこれが好きなのは、田中くんの尖ったラップがばりばりと憂鬱を引き裂く一方、中丸くんは真っ直ぐと伸びるメロディに繊細さを隠そうとする、そのコントラストに青の時代ならではの清潔なフラストレーションが預けられているからであって、つまりは若気の至りで世界と取り引きしているところが、燃える。

 かつてのモチベーションが「ONE ON ONE」を通じて再検証されたのち、上田くんからのソロ・コーナーに入る。この上田くんのナンバーが、やたらすぐれていた。てっきりアルバムから「RABBIT OR WOLF?」をやるのかな、と踏んでいたのだが、どうもそんな様子じゃないね、と首を傾げていたら、ピッチのはやい打ち込みがかかり、ニュー・ウェイヴともゴシックともヴィジュアル系とも似て非なる、耽美でアッパーなサウンドを繰り出してきたのである。メイド服の女性が数名、上田くんに従い、英語詞で綴られたナルシズムに振り回される。楽曲もパフォーマンスも一発で気に入った。

 亀梨くんの趣向も興味深かった。新旧のソロ・ナンバーをミックスし、一個のドラマに仕立てているのだけれども、独特なセンスのいかんなく発揮された構成には、やはり常人には及びもつかないものがある。Kis-My-Ft2のメンバーと咬みつ咬まれつのヴァンパイア劇を演じる姿に、女性の観客が歓声をあげるのはたぶん、やおいの幻想に近しいものがあるためだろう。中丸くんのビートボックスが相変わらず達者なのに、おお、と唸らされたのち、「Going!」を筆頭に終盤が訪れてしまう。

 さしあたり「ハルカナ約束」や「Will Be All Right」はパスされてしまったが、ファンにはお馴染みの「WILDS OF MY HEART」や「Peacefuldays」では、当然のこと、会場中が一体になる。本編のラストを『NO MORE PAIИ』からのバラード、「PROMISE SONG」で迎える。このへんは予定調和のきらいがあるにはあるものの、有終の美の、きらきらまばゆさに、ぐっときてしまうのだから弱るよ。

 そして馬である。アンコールの1曲目が馬だったのである。正直、そのイントロが響き出したとき、まさかもう一度「N.M.P.」をやるのかい、と斜に構える部分がなかったといえば、嘘になる。にもかかわらず、予想を越え、さすがにぶっ飛んだのは、メンバーが実物の馬に乗ってステージのワキから登場し、アリーナの周縁を回りながら、ひじょうに真剣な顔つきで「N.M.P.」に情感を込めていたことだ。要するに、アルバムの通常盤におけるジャケットを再現していたのだったが、ふつうそれは思いついてもやらない、しかしとうに詰まらない常識など突き抜けているのが、ずばりKAT-TUNにほかならない。

 威風堂々とした姿は、正しくエピックそのものであった。誰が文句をつけられよう。ショーの最中、赤西くんの不在について、まったく考えなかったわけではない。コンサートの内容が良ければ良いほど、複雑なものを覚えなかったわけではない。あるいは赤西くんがいたらと想像しない場面もなかったわけではない。だがアンコールのインパクトはありとあらゆる疑念を吹っ飛ばしてくれる。

 英雄たちはみな、いくつもの危機をかいくぐり、ときには敗北し、ついには勝利を収めるからこそ、エピックの価値を持ちえるのだし、KAT-TUNにとっては、ありえない、ということが、ない。それだけは疑いようのない事実なのだ。「Peacefuldays」の歌詞を借りるならば〈ソレだけがすべてソレだけを望もう〉なのである。少なくとも「Going!」のリピートにより、3時間強のステージに幕が降りるまで、何も怖くない、そう信じられるほどの幸福に身を委ねていた。

 ところで中丸くんが、ブログを持っている人はKAT-TUNのコンサートがすばらしかったと書いてね、みたいなジョークを最後の最後に言っていたが、ちくしょう、このブログはいまいちだよ、あまりうまく書けていない。

・その他KAT-TUNに関する文章
 『NO MORE PAIИ』について→こちら
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら

・その他赤西仁、LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

 コンサート『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』(2010年2月8日・日生劇場)について→こちら
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2010年07月16日
 ワーキングピュア(3) (講談社コミックスキス)

 いずれにせよ、現実は厳しいばかりである。それはもう前提のように定められているのだから、仕方がない。仕方がない。仕方がない。肝に銘じるしかない。でも決して諦めるのではない。自分に果たせることと果たせないことの区別は、じっさい壁にぶつかってみなければわかれない。そのとき、がんばる、という誓いが、どうか悪い含みを持たず、励まし、背中を押すものであって欲しい。ほんの少しでもいい。勇気をもらいたいと思う。

 小山田容子の『ワーキングピュア(Working Pure)』は、やっぱり良い作品だ。好き、の一言に感想は尽きる。とある銀行で働く面々をオムニバスの形式で描いたマンガなのだけれども、それまで漠然と生きられた日常の、必ずしも劇的ではない変化がしかし、シビアな状況の訪れとなっていき、ついには息を詰まらせ、膝を折りそうになる姿を、そこから立て直し、不安のなかにも希望が隠されていると信じられるほうへ足の向きを違えるまでのドラマにしながら示していて、その、アップとダウンの成り行きを見守るうち、ふと自分の胸に手を置きたくなる。

 たとえば3巻の内容では、三本目に収められているエピソードに、こういうパンチラインがある。〈ここじゃ頑張っても報われないことなんて山ほどある そのたびにへこんでたら身がもたない だから 腹を決めるんだ どんなことがあっても自分は自分だ なにも 変わらない〉これは大事なチャンスを逃した主人公が〈こういうとき みんな言うんだ 出世だけがすべてじゃないって そりゃ今はいいよ(略)でももうおしまいだ だってオレ 他になにもないんだもん 友だちも 彼女も 仕事以外の大切な生きがいも〉とくじけているのを見、同僚がかける言葉である。

 たった一つ、何か一つでいい、人はプライオリティのはっきりとさせられるものを手にしていられれば、ある程度の困難に耐えていける。目的と意志はそこに集約されるからなのだが、裏を返すなら、いつだって支えは小さく、少ない。それを守り続けるのも容易じゃない。奪い取られる機会のしばしば訪れる。今しがた挙げた〈でももうおしまいだ だってオレ 他になにもないんだもん〉という言葉は、そのような条件をたしかに代弁しているだろう。

 だが、そのような条件自体は特別な誰かにかぎられたものではなく、そして徒労に終わる可能性もまた同様に与えられている以上、敗北や失敗を通じ、不公平を訴えてみせたところで正当化はもたらされない。むしろ正当化されえないことを皆が経験則として知っているからこそ、いくらかの同情を得られるのであって、これはふつう、惨めである様子をともなう。当然、いつまでも惨めなままでいさせてくれるほどの猶予を、この社会は用意していない。あるいはそれだけの余裕を社会に求めることなどできない。

 こう考えられるとき、会社員もしくは社会人というのは、それに対する耐性を順次試験されるためのポジションにほかならない。もちろん、どうにもならない場合、リタイアを選択肢に数えてもよいのだったが、その判断基準がどこに属しているのか、自分の側か、社会の側か、設定をするさいにもはっきりとしたプライオリティが要請される。先述したパンチラインが射抜いているのは、おそらく、そこである。

 そのとおり〈ここじゃ頑張っても報われないことなんて山ほどある そのたびにへこんでたら身がもたない だから 腹を決めるんだ どんなことがあっても自分は自分だ なにも 変わらない〉のであって、ストーリーは、敗北や失敗を引き受けられるだけの理由を今一度あらため、コンプレックスやプレッシャーの狭間から抜け出した主人公の、明るい表情を映して、閉じる。躓きも込みで日常は繰り返し繰り返す。そうしたイメージに現実の厳しさはよっているのではない。もっとべつのもの、そうしたイメージの内側において確認されるメンタリティに左右されているのだ。と、締めの印象は教えている。

 派手な作風ではないし、物語のつくりも地味ではある。それは他の篇にしてもそう。身近な世界をモチーフにしているため、ありふれたテーマに多くが占められている。だが作者は、コマ割り、登場人物のディレクション、展開を含め、細かい部分に気を配り、そのことを実感的に描くのに成功している。大げさな重たさや暗さに喩えられない、もっと平均的なつらさを正確に掴まえているので、かすかな覗いた希望も信じられる、頼もしい、とっくり諭されるものがある。

 1巻について→こちら
2010年07月13日
 L DK(4) (講談社コミックスフレンド B)

 ヒロイン、葵が想いを寄せる同居人、柊聖のその兄、草樹が登場、何やらいわくありげな様子でちょっかいをかけてき、ストーリーが大きく動くかと思いきや、そういうわけでもなく、この手のラヴ・コメディらしい一進一退を渡辺あゆの『L・DK』は4巻に入ってもまだ繰り広げているのであったが、物語のテンポを見るうえでは、やや間延びし出しているふしがあるのは、結局のところ、何も起こってないじゃんね、といえるからなのだけれども、中心人物である二人の微妙な距離感をどう表現しているかの部分に手抜かりがないため、いよいよ飽きが訪れてもよさそうなラインをうまく逃れている。『L・DK』という題名が示唆的なとおり、このマンガの本質は、一個の部屋のなかに一組の男女を描くことである。しかしそれだけでは、若年層向けのアピールを果たすのに必要な刺激が生まれないので、いかにもトラブルでござい、の様式に従ったエピソードが用意されているにすぎない。おそらく作者の苦心もそこに費やされているのだが、個人的にもっとも魅力を覚えるのは、やはり、葵と柊聖の表情なのだ。じっさい、二人の胸中はほとんどそうした表情によって補われているだろう。とくにここにきてからは、葵に心をひらきはじめた柊聖の表情がいい。現段階での問題は、だがそれしか特筆すべき点がないことだと思う。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら 

・その他渡辺あゆに関する文章
 『オトメゴコロ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『キミがスキ』
  2巻について→こちら
2010年07月11日
 BALANCE 1巻―BLOODY PARTY (ヤングキングコミックス)

 前作にあたる『B.M.N.』(のちに『B.M.N.ジャパン』)の、とくに終盤がそうであったのだが、SP☆なかてまの欠点は、あまりマンガがうまくないと判じられてしまうことなのだけれど、もちろん、それはちょっと乱暴すぎるよ、といわれればたしかにそのとおりであって、言い換えるとしたら、ストーリーからコマ割りまで、一般的にうまいと受け取られるのとは違ったコードが支配的なマンガのつくりをしており、これを独自性として評価するのに十分な成果を必ずしもあげられていない、のである。新作の『BALANCE〜BLOODY PARTY〜』にも同じことがいえる。さしあたり1巻の序盤、数ページを見られたい。とある高校によその不良少年が数名で乗り込んでくる。これはもう、インパクトだけで解説の必要がないほど燃える展開なのだったが、かっこうよさげなカットを並べただけの内容になってしまっているため、物語の導入だから、というのとはべつのレベルで、いったい何が起こっているのかをスムーズに受け取れないのが、ひじょうにもったいない。そしてその、いちカットいちカットをやたら前面化した手法のしわ寄せが、後々、過剰なモノローグを用いた状況説明に回されているのも、マンガというよりノベル・ゲームの着想に近しく、現行のフォーマットで発表されるかぎり、不利に働く面が多い。いや、お、と思わせるテンションはあるのだ。〈その名は この街で 忌み嫌われる…赤羽 大海 通称…レッドウィング〉と呼ばれる主人公が、過去の因果から賞金をかけられ、界隈の猛者に首を狙われる。こうした発端はスリリングであるし、彼をバネ君と慕う後輩の喜屋武雄も良い人物像をしている。ただ、全体をまとまりとするなかでそれらがさほどよく噛み合っていないのを、惜しむ。なかてまは、個人的に50年組と呼んでいる作家の一人に数えられる。1975年(昭和50年)前後の生まれである彼らは、ハロルド作石や高橋ヒロシに影響を受けた最初の世代といって構わないかもしれない(なかてまはハロルドのアシスタント出身でもある)。間違いなく、ヤンキー・マンガの系において重要な契機を担っているのだけれども、それがしかし、表現自体の更新に躓いていると感じられることが少なくはない。当然ながら、この『BALANCE〜BLOODY PARTY〜』を通じて、作者が大きくジャンプ・アップする可能性はあるだろう。できればあって欲しい。
 疾風・虹丸組 1巻 (ヤングキングコミックス)

 ときとして人は自分を中心にした世界を探せる。このような独我論において、他人は自分にとって都合のよい解釈でしかないのに、どうしてだろう、孤独からの安全圏だけが見つからないのは、おそらくそんな世界などどこにもないからであって、たいていは錯誤か徒労に終わる。

〈わかってんよ 潤……わかってるけど どーしてもオレはそんな風に考えちまう…エイト達がオレと一緒に居てくれんだって もしかしたら…………オマエがオレと友達で居てくれっから…だから オレとも居てくれんじゃないかってよ…〉

 すべての魂は寂しい。だからこそ魂には救いがあって欲しい。そのための祈りではなく、戦いを描くこと、これが桑原真也と佐木飛朗斗の決定的な違いだと思う。ついに桑原が単独で不良少年たちの闘争域に踏み込んだ。『疾風・虹丸組』の1巻である。

 その頃、虹川潤と羽黒翔丸の二人を中心に結成されたチームにまだ名前はなかった。ただ他の暴走族と同様、誰からも抑圧されたくない、そして伝説のチームである関東・無限郷が残した遺産を目指し、街の頂点へと駆け上がろうとするのだったが、翔丸は自身の不安と狂騒を抑えきれず、少年院に送り込まれてしまう。かくして、トップに立たざるをえなくなった潤は、二人の名をとってチームを虹丸組と名づけるのだった。

 物語の柱は、翔丸の不在を負った潤が〈オレ達の目的はナラシナ全制覇して自衛隊の敷地に埋まってる「遺産」を手にすることだ〉といっているとおり、ひじょうに簡潔で明解なものである。「無限郷の遺産(インフィニティ・ゴールド)」をめぐり、同じ地区に遍在するチームが互いに互いを敵視、血塗れの抗争劇を繰り広げていくのだ。

 いくつかのアイディアを、この手のジャンルの歴史から引っぱってきていることは、序盤で「無限郷の遺産」の存在を印象づけるにさいし、作中人物に〈なんか そんなマンガ見た事があるぞ〉というエクスキューズを言わせているように、自覚化されているのだけれども、重要視されるべきは、そうした枠組みのなかでいったい何が起こっているのか、だといえる。

 すくなくとも1巻の段階では、強さとは何か、ではなくて、弱さとは何か、を問おうとするかっこうへと作品の内容は傾いている。それをあきらかにしているのが、羽黒翔丸の人格に対して向けられる〈アイツはなんでも“貸し借り”で考えやがる…自分一人的(マト)になってオレ達への借りをチャラにしようってつもりかよ…〉こういう評価であるし、虹丸組を事を構えることになる双騎龍団(ツイン・ドラグーン)や紅蓮(アグニ)の内部事情を掘り下げていく手つきである。すなわち、主人公である潤の強さが虹丸組を格上げすればするほど、彼との対照に配置された人間の悲しさが目立たされている。

 そこにはもちろん、ヤンキー・マンガの文脈において、高橋ヒロシが『キューピー』で指した我妻涼の影を見ることができる。とくに潤と翔丸の関係がそうさせるのだったが、いったん狭い世界の外に出、そこから戻ってくる者と、狭い世界にとどまり、約束を果たそうとする者、双方の立場が役割上、逆転している点は注意されたい。いうまでもなく山本隆一郎の『サムライソルジャー』が抱いている構図とも反対になっている。いやまた、加瀬あつしの『カメレオン』におけるキュウと美島ジュンや、藤沢とおるの『湘南純愛組!』における神堂寺郁也や阿久津淳也などのパターンとも似て非なるところがある。後者に関しては、翔丸と少年院で知り合った紅蓮の頭、美剣號の分担がたしかに近しい。

 いずれにせよ、『疾風・虹丸組』では、潤のカリズマよりも、翔丸や、双騎龍団の総長である板東妻吉、紅蓮で副総長をつとめる柊高志、総長である美剣たちの、負のオーラが、作品の輪郭をことにはっきりとさせているのであって、それはたんにワキにいる人物のほうが魅力的に描けているというレベルとは異なる。

 あくまでも潤との対照になっていることがキーなのだ。柊の弱さを見、彼を庇おうとする美剣の〈オマエは 自分の為に嘘ついた事は一ぺんも無いもんな……… オレはもっと強くなる!! オマエにこれ以上 哀しい嘘をつかせない為にもなッ〉こうした男気は間違いなくそれ、つまり潤との決闘を通じて浮上している。

 弱さとは悲しみである。暴力とは恐怖である。『疾風・虹丸組』のエモーションが、この言い換えのレトリックに生じていることは、疑うべくもないだろう。だが、悲しみや恐怖で他人を制せられたとしても、本質的な孤独は消えない。決して私欲を生きようとしない潤が主人公とされ、いささか強すぎる理由は、たぶんそこに託されているのではないかと今は読める。

・その他桑原真也に関する文章
 『姫剣』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2010年07月10日
 JUMP NO.1

 Hey! Say! JUMPに関しては、これまでに発表されてきたシングルの数々が必ずしも自分の好む音楽性とは一致しなかったため、さほど関心が高くなることもなかったのだが、ファースト・フル・アルバムとなるこの『JUMP NO.1』はしかし、いやまあグループ自体の特徴をつよく印象づけるという意味では、他にはないサムシングをはっきり得られるわけではないものの、ジャニーズ歌謡を一個のジャンルとするのであれば、それの現在形をひじょうにレディメイドなかたちで提出していて、若々しいなかにどこか懐かしさを感じさせるところが、思いのほか楽しかった。驚きがまったくない、というのは、ときとして魅力的な措置となる。個人的には9曲目の「Dreams Come True」以降の並びが好きである。より正確を期すなら、10曲目の「Time」をもっとも好きなナンバーとして挙げたいのであって、じつはそこまで行ってよくやく『JUMP NO.1』の方向性に、はまれた。じっさい「Time」って白眉ではないかい。ハードな打ち込み、ダンサブルな曲調に、メロディ化されたせつない別れとささやかな期待とが、縫い込まれていく。この手のサウンドはまさしく、平田祥一郎という作曲家が得意とするものだろう。そして歌詞をのせているのはメンバーの高木雄也である。高木くんのレトリックは、入魂の息遣いをうかがわせるけれども、決して非凡なものではない。だが、むしろ〈終わりなき永遠を感じてた / You & I / サヨナラもべつに / いいじゃん / いいじゃん / 振りはらう / 愛してるの言葉も / 思い出の中だけ / 時計の針止めた / フ・タ・リはもう戻らない〉そのようなステレオタイプ性にあらわれた率直さこそが、ひどく胸を打つ。純粋であることとメランコリックであることが、照れ隠しのない表情の向こう、混在しており、それが性急なビートによって、まざまざ強調されているのだ。ただし、全体的にミックスが変ではないだろうか、これ。まさか編曲に有岡くんがクレジットされているのは無関係と思うが、ヴォーカルのバランスがときおりおかしくなるし、バックの触感がちょっと耳障りになる箇所がある。他のリスナーもそう感じているのかどうか、はたしてそのようなミックスが正解で狙いなのかどうかは不明なのだが、できればもっとべつの仕様で聴きたかった。八乙女くんが作詞作曲した13曲目の「アイ☆スクリーム」もなかなかにキュートだ。たぶん、磯崎健史と吉岡たくの、いかにもポップなアレンジが功を奏している。15曲目の「Dash!!」は、いっけんHey! Say! JUMPには似つかわしくないようなロック・ソングになっているのだけれど、編曲に清水昭男の名を見つけ、なるほど。ストリングスを含んだ大仰なバラードの「Thank You 〜僕たちから君へ〜」で幕がおりるあたりも、ジャニーズ歌謡のセオリーどおり。それにしてもしかし「Thank You 〜僕たちから君へ〜」の終盤、余韻を残すよりも先に転調し、ブラス・バンドのレパートリーふうにシングルのメドレーがはじまるのは、良くも悪くもすげえアイディアだなあ、と衝撃をもたらすし、メンバー一人一人が最後にメッセージをあてているのは、蛇足気味に受け取れる。
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2010年07月09日
 小説新潮 2010年 07月号 [雑誌]

 『小説新潮』7月号掲載。小説のことは小説家にしかわからないのかどうかは知らないが、すくなくとも小説家が小説以外のことをやり出すとけっこう退屈だぞ、という展開をここ最近いくつか見た気になるのであって、舞城王太郎の活動なども例に漏れない。もちろん、舞城は小説以外もすごい、的な言説があることは承知しているのだけれども、個人的にはそれに乗らないし、乗れない。できれば小説だけをやって欲しいのだが、もしかしたら小説を書くのが難儀になってしまったので小説以外のことにも手を出すのかな、と思わされるのもまた退屈ではあった。この『You Ain't No Better Than Me.』には、作者の新作をひさびさに読めたという刺激はあったものの、正直、それ以上の実感を得られなかったのは、文体と啓蒙、設定の、らしさ、で話をやっつけちゃってる印象がしたためである。現在はサンディエゴ警察の風紀課につとめている〈俺〉のもとへ、ある日突然、何の予兆もなく、子供時代に想いを寄せていたアンジェリーナから電話がかかってくる。彼女と彼女の娘たちはその人生に超常的なトラブルを抱えていた。当然、〈俺〉は巻き込まれ型に首を突っ込んでいくことになるのだったが、ちょうど同じタイミングで情報屋の娼婦からも緊急で厄介な案件を持ち込まれてしまう。ある種の過剰さが、躊躇いもせず、膨らんでいくなかで、雨降って地固まる、式の光景が繰り広げられるさまは、たしかに鮮烈なパワーを持っている。ただし、それはすでに過去の作品を通じ、獲得、披露されていたもので、作者と読み手の関係においては、今さら確認の域を出ていないように見られるのだ。いやまあ「でも期待することとお祈りすることは同じじゃないの?」「全然違うよ。お祈りはお祈りで、期待することは、相手に寄越せ寄越せってしつこく言うことじゃん」このような主人公と少女のやりとりは和むし、好意的にならざるをえない。しかしその点を含め、舞城王太郎というイメージを忠実になぞらえているにとどまる。

・その他舞城王太郎に関する文章
 「ドナドナ不要論」について→こちら
 『ディスコ探偵水曜日』上・下について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈最終回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第四回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
  「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
  「第一部 梢」について→こちら
 『イキルキス』について→こちら
 「182(ONE EIGHT TWO)」について→こちら
 「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」について→こちら
 「子猫探し」について→こちら
 「重たさ」について→こちら
 「喜びは鳥になる。」について→こちら
 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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 群像 2010年 08月号 [雑誌]

 『新潮』8月号掲載。舞城王太郎の難病ものは、いわゆる難病ものに対する批評性を込みで読まれるべきなのかもしれないが、もっともエモーショナルなのはやはり難病ものでしかないような点であって、つまりは主体にとって大切な誰かがだんだんと喪われていく様子に、かなしい。難病もの、そう書いた時点でほとんどネタを割っているみたいなものだから、続けていってしまえば、この『ドナドナ不要論』も、語り手である〈僕〉の妻、涼子が膵臓癌にかかっていることが発覚し、死、という存在への意識が、作中人物のみならず、読み手であるこちらの目の前に重たくおりてくる、そこのところで物語自体のシンパシティックな面がより強調的に見え出すのである。じつにこの作者の作品らしく、饒舌なエクスキューズとショッキングな事件を通じて、小説は軌道に乗りはじめるが、基本的にそれは半径が狭い世界を描写しているにすぎない。複数の価値観が、密閉状の社会生活に押し込まれ、せめぎながらも、どこかで折り合わなければやっていけない、この、おそらくは関係性と言い換えてもよさそうな事柄が、語り手の心理に代弁されているのだ。したがって物語は、作中人物たちの感情が、他からの働きかけを受け、いかに反応したかをベースに組まれていくことになる。ときとして病は人を以前とは違ったふうに変える。癌に蝕まれたものの、手術は成功し、かろうじて命を取り留めたはいいが、娘の穂のかに厳しく当たるようになってしまった妻を見て、〈うわあ…と僕はただただ驚く他ない。別人みたいとかじゃない。完全に別人だ。あれは涼子じゃないぞ〉と思う。ここで見直さなければならないのは、涼子の人格ではない。かつて家族間にあったはずの信頼がすでに壊れつつあるということだ。察して〈僕〉は、すっかりと壊れてしまうのを防ぐために善処しようとするのだったが、そうはうまくいかない。もちろん、それを不幸だと判じることはできる。だが、不幸であると定められたとたん、それは不幸以外の何かしらかに変容する機会を失してしまうだろう。結局のところ〈僕〉が、懸命になってまで抵抗しようとしているのは、不幸が不幸として意味づけされてしまう不幸にほかならない。たぶん、『ドナドナ』という歌に持たれる印象もそこにかかっているのだし、涼子の叔母を例にある種の資質が否定的に語られるのも同様だといえる。

・その他舞城王太郎に関する文章
 『ディスコ探偵水曜日』上・下について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈最終回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第五回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第四回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第三回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第二回〉」について→こちら
  「第三部 解決と「○ん○ん」〈第一回〉」について→こちら
  「第二部 ザ・パインハウス・デッド」について→こちら
  「第一部 梢」について→こちら
 『イキルキス』について→こちら
 「182(ONE EIGHT TWO)」について→こちら
 「ソマリア、サッチ・ア・スウィートハート」について→こちら
 「子猫探し」について→こちら
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 「SPEEDBOY!」について→こちら
 『みんな元気。』について→こちら
 「A DRAGON 少女(ドラゴンガール)」について→こちら
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2010年07月08日
 NOVA 2---書き下ろし日本SFコレクション (河出文庫)

 津原泰水の『五色の舟』は、大森望が責任編集した文庫『描き下ろし日本SFコレクション NOVA2』に発表された小説であって、奇っ怪で幻想を帯びた世界のなかに、哀切の豊かに溢れだした物語を織り込んでいる。いやいや、とても鮮やかな印象の憂いである。戦時であった。誰もまだ知らないが敗戦が近づいていた。奇形であることを売りにし、興行を組んでいる一座があった。足無しのお父さん、一寸法師で怪力の昭助兄さん、牛女の清子さん、蛇女の桜、そして〈僕は生まれつきの腕無しで、指は肩から生えている〉し、まったく耳は聞えず〈声が聞えなくとも人がなにをいっているのか解る子〉だった。血の繋がりはないのだけれど〈僕ら〉は間違いなく家族だったろう。あるときのことだ。人と牛のあいだに生まれ、未来を予見できる怪物、くだんの噂を聞きつけたお父さんはそれを一座に加えたく、〈僕ら〉を引き連れて、岩国に向かうのだったが、惜しくも軍に先を越されてしまう。横取りされたくだんはしかし、感覚の鋭敏な〈僕〉にいくばくかの影響を与えていたのだった。そのせいで暗示的な夢を見、とある不安を抱くようになってしまった〈僕〉と家族の行く末が、くだんの能力とはいかなるものであったかを種明かしつつ、展開されていくのだけれども、特殊な設定によって照射されているのは、欠損を持った人間が欠損を持った世界を生きることにも必ずや幸福はあるという、ひろく普遍的な題目なのだと思う。当然、シンパシーもそこに宿る。さまざまな不自由に制約された〈僕〉の資質は、複数の面において複数の現実性をまたぐための触媒作用を果たしている。カッコの種類で区切られた言葉のありようがそうであるし、夢のあちらとこちらとに分かれた立場がそうであって、歴史を違えた戦後がそうだ。どちらかにはあったはずの真実がどちらかでは絶対にありえなかった真実となる。この、二つの位相が対立し合うあいだに立たされて所在をなくした〈僕〉はただ、自分の運命が自分の望んだとおりであって欲しかったことを願う。

・その他津原泰水に関する文章
 『バレエメカニック』について→こちら
 『たまさか人形堂物語』について→こちら
 「土の枕」について→こちら
 『ピカルディの薔薇』について→こちら
 『ブラバン』について→こちら
 『アクアポリスQ』について→こちら
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2010年07月05日
 トクボウ朝倉草平 7 (ジャンプコミックスデラックス)

 たとえば、2ちゃんねるにおけるニュース速報版の住民が、必ずしも政治的にシリアスな重みを持っているとはかぎらないのと同様に、高橋秀武の『トクボウ 朝倉草平』に描かれている政治性も、ある程度斜に構えた態度で咀嚼しなければならないのだったが、しかしその、冗談半分本気半分をぶれず、おそらくは自覚的にキープしているあたりに、今日的な、質、が刻まれているのだと思う。いっけんむちゃくちゃでギャグにしかなりえないような筋書きが続いたあと、ほとんど唐突に、やたらエモーショナルな展開が訪れるのもこのマンガにとってまったく不思議なことではないだろう。いやいや、7巻の話になるのだけれど、警察庁生活安全局特殊防犯課指導係(略してトクボウ)の朝倉草平と巨大な権力を盾に政界へとアプローチするツルイ警備の対決が、海上でのクーデター騒動を経、いよいよ表面化しはじめたのと同じ頃、先の件でツルイ警備を追われたため、朝倉に強い恨みを抱く森田勝利は、誰からの恩恵を得られないまま、復讐の炎を燃やし、一人行動を起こそうとするのであったが、そこで、だ。ついに直接の死闘を繰り広げることとなった朝倉と森田の表情からは、これまでとは違い、ギャグへの傾き、テンションがまったく消えている。いったい何がそうさせているのか、しごく簡単に述べるとしたら、両者の葛藤があくまでも彼ら個人の問題によっているせいである。この国の社会に対しては、皮肉という回路を通じることでしか、有効なアプローチをとれなかったのに反し、内面をドラマ化するさいには、いささかストレートな段取りが踏まれているのであって、まあたしかに義憤が正当性を持つには回りくどい手続きを経なければならないのに比べ、私怨はつねに率直さを訴えかけようとするものなのだ。しかるに、そうした率直さをひた隠しにすることが朝倉の、複雑というよりは厄介な、パーソナリティの一端を担っていたことが、森田との対峙によって示唆されてもいる。そう、彼がことあるごとに呟く〈…ああ 死にたい〉の一言は、つまり〈忌々しい事に…実に忌々しい事に 僕は…もう…こういう半端なところでは死ねないんだった〉という、自分がまだ死ねない状況にあることへの疲れ、感想にほかならない。朝倉の大義は、政界を牛耳る父親の存在と決して無縁ではない。だがそれは表に出されない。かわりにほかのものを背負い込んでしまう。ひじょうにねじれた人格が、にもかかわらずまっすぐ歩こうとする足どりを『トクボウ 朝倉草平』の物語とすべき部分は追っている。 

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
2010年07月04日
 「薬師寺」 / 堂本剛 初回盤 【DVD+CD】

 堂本剛のアポリアは、きわめてアーティスティックであろうとするアプローチが、ジャニーズという資本やイメージをバックにしなければほとんど維持することができず、したがって真にアーティスティックであるとは一般的に見られない、そのいかんともしがたいところに生じているのだったが、しかしそれがある種の異様な凄みを彼のステージに与えていることは、この、昨年(09年)の7月11日に奈良の薬師寺で行われたパフォーマンスを収めたDVD『薬師寺』から確認できる。

 独特な世界観、という便利な言い回しがある。たいてい、こいつはちょっと形容しがたいぜ、と困らされるような場合に用いられるのだけれども、キーボードの弾き語りによってショー全体の幕を開ける「ソメイヨシノ」は、まさしくそれだと思う。必ずしも取っ付きやすいとはいかないメロディや歌詞が、凝った工夫もなく、剥き身に近しい状態で再現される。あくまでもスタティックな楽曲の魅力はそこで、堂本がすぐれたシンガーであることの声量に、まったく依存してしまい、大仏を背後にして設置された野外のステージは必然、開放感に溢れていながらも、どこか悲壮でシリアスな響きばかりが強調的になっていくのだ。これは7月10日の演奏をパッケージした初回限定盤に付属のライヴCDにおいて、つまりは映像を抜きにしたとき、密室状の息苦しさにすら似てくる。だがやはり、そういった複雑なねじれの構造こそがこのアーティストの本質であって、他には替えられないインパクトを担っているのだとしか言いようがない。

 空の突き抜けたコンディションに相応しいカタルシスを持っていくのは、むしろ、堂本がベースを携え、ジャム・セッションふうに展開される2曲目のインストゥルメンタル・ナンバー「美我空」以降であろう。ギターに名越由貴夫、ベースに吉田健、ドラムに屋敷豪太などを迎えた布陣は、山折り谷折りに堂本が先陣で刻むコントラストを繊細かつダイナミックなタッチでフォローする。スティーヴ・エトウのパーカッションが立てる金属性のリズム、そして十川ともじのキーボードが、オーガニックな印象の高まった演奏に機械質の触感を加えているのも、演奏を躍動させるのに必要な効果を上げており、3曲目の「Let's Get FUNKASY!!!」で、すべては跳ねっ返りのヴァイブレーションへと変調、すばらしい昂揚を描き出すのである。

 続いてもファンキッシュな4曲目の「Love is the key」はもちろんのこと、ラスト・ナンバーにあたり、堂本がギターを鳴かせる11曲目の「和FUNK JAM NARA STYLE」までを通じながら、顕著にあらわれているのは、のちに発表される「音楽を終わらせよう」へと繋がった道のりにほかならない。剛紫名義のアルバム音源では、ひたすら鬱屈していた5曲目の「TALK TO MYSELF」が、このようなモーメントにあっては何よりもやさしさとあたたかさを伸びやかにし、〈リアルを… / 光りを…〉というリフレインに真新しい感動を与えている点に注意されたい。

 それこそ「TALK TO MYSELF」に委ねられた〈リアルを… / 光りを… / 真っすぐに / 君に捧げたいんだけど時代はそうさせないかも知れないな…〉の呟きは、「音楽を終わらせよう」における〈どうしたんだい / 時代よ…〉の問いかけと密接であるだろう。そしてそれは、ソロ・デビュー曲である「街」のあの〈愛を見失ってしまう時代だ / 誰もが持っているんだ / 自分を守り生きていく時代だ / だからこそ僕らが / 愛を刻もう傷ついたりもするんだけど / 痛みまでも見失いたくない〉という決意を、たしかに引き継いでいるのではなかったか。

 今回のセット・リストで特筆すべきは、6曲目に「ORIGINAL COLOR」が、9曲目に「街」が、要するに堂本剛のディスコグラフィのなかでも初期の代表曲が披露され、近年のまったく方向性が異なったナンバーとも、違和感なく、溶け込んでいることだ。どちらも堂本のメロディ・メイカーとしての才能が突出している楽曲であって、多少のアレンジを入れてはいるが、かつてそれらに託されていたテーマが、今なおいっさいの切実さを失っていないことだけは、青くささが雄弁を得たかのようなコーラスに証明される。まず間違いなく証明されている。映し出される景色の美しさ、カメラ・ワークも相まって、思わず胸の奥から込み上げてくるものがあった。

・その他堂本剛に関する文章
 『RAIN』について→こちら
 コンサート『ENDLICHERI☆ENDLICHERI CHERI 4 U』(09年8月19日・国立代々木競技場第一体育館)について→こちら
 『空 〜 美しい我の空』『美 我 空 - ビ ガ ク 〜 my beautiful sky』について→こちら
 『I AND 愛』について→こちら
 『Coward』について→こちら
 「ソメイヨシノ」について→こちら
 [si:]について→こちら
 『僕の靴音』について→こちら
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