ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年06月02日
 マンガホニャララ

 絶対にちばあきおの『キャプテン』を好きなブルボン小林が、はたして歴代主人公のなかで誰がいちばんフェイヴァリットなのか、かねてより気になっているのだったが、この『マンガホニャララ』を繰り返し読んでいるうち、そうした尺度、つまりは感情移入的に特定の人物を解釈することは、ブルボンというマンガの読み手にとってさほどプライオリティが高くないのかもしれない、と思うようになった。

 さて。ブルボン小林が『週刊文春』で隔週連載しているコラム、『マンガホニャララ』が一冊にまとまった。過去に何度か引用したときがあるほど、毎回、楽しみにしていたものである。連載時よりも図版が多くなっているのはともかく、あらためて確認するに、さまざまな切り口を用いながら、彼なりの尺度をしっかり、マンガ表現に託された魅力を世に問うているのがわかる。じつは紹介されているなかに、はじめて知った作品はほとんどないのだけれども、佐藤にんとんの『にんしんゲーム天国』だけは、へえ、こういうマンガがあるのか、と思い、興味を持って手に入れた。

 その項で〈僕が本作に感じ入るのも実は、ゲーム云々のことではなくて、言語の面白さについてだ〉といっているが、やはり『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』や『ゲームホニャララ』の書き手でもあるからこそのセレクションだと思うし、しかしじっさいにマンガは〈熱い愛情ゆえに言語的独り相撲に陥るにんしんさんは、ネットという場で語る、ある種の人びとの不自由さの戯画になっている〉ので、おもしろかった。

 たとえば『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』や『ゲームホニャララ』においては、今と昔の時代的な対比上にその作品(ゲーム)ならではの優位性または固有性を置き、感想をつけていくというのが、ブルボンという書き手の得意とするスタイルであって、それは『マンガホニャララ』でも同様に、自然と作品(マンガ)の背景、現代に付随する感性をもすくいとるかのような段取りになっていることが、『にんしんゲーム天国』の紹介からはよく見える。もちろん、ゲームとマンガでは表現の形式が異なっている以上、両者のあいだに微妙なアプローチの違いはあるものの、判断の基準に大きな差はない。

 ここで『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(現在は文庫化されている)に収録の、ゲーム『フロッガー』に関する文章をあたられたい。ブルボンは〈日本という国は漫画文化が発達していたから、デフォルメというテクニックを知っていた〉ので、〈ゲーム業界で日本が世界的に躍進したのは、デフォルメ力を持っていたからである〉とし、〈一方、米国で大ヒットした『フロッガー』の主人公が「蛙」というのは、逆の意味で日本にはないメンタリティがあったのだと思う〉のだが、〈これは個を愛玩する日本のデフォルメ文化にはないゲームのありようだ〉といっている。

 ただし、ブルボンは日本のすぐれたデフォルメ力を無条件に認めているのではなく、おそらくは、だからこそ、別個の視線を有した『フロッガー』の楽しみに気づかされる点を述べる。こうした判断の基準は、マンガ表現の魅力を取り上げた『マンガホニャララ』に持ち込まれたとき、とくに第2章が「「キャラ」と「個性」は違います」とあるとおり、いわゆる「キャラ」という価値観への懐疑として語られる。

 要するに、この国のすぐれたデフォルメ力の集約であるような「キャラ」のみが、マンガ表現の総和とはならないことを、喝破(というほど大げさなノリではないが)していくのである。では「キャラ」以外のいったい何が、というのが、『マンガホニャララ』の本文であり、ブルボン小林らしい分析になるだろう。「キャラ」とは、換言すれば、大勢的な傾向の顕著な表象にほかならない。そしてそこから漏れていくような個所や作品を足がかりにしながら、ほら、マンガはこんなにも楽しい、と、あらたな誘い水となりうる言葉を注ぐのだ。

・その他ブルボン小林に関する文章
 『ぐっとくる題名』について→こちら
 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら


posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2010年)
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