ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年06月30日
 ジャンルと呼ぶほど大げさなものではないかもしれないが、マンガの世界には、酒造(酒蔵)もの、とでもすべき系譜はたしかにあって、この、くりた陸の『美姫の蔵』もそこに含まれるだろう。酒造といえば、たとえば尾瀬あきらの『夏子の酒』などが思い起こされるわけだけれど、『美姫の蔵』もまた、妙齢のヒロインが特殊な産業のなかで奮闘する姿を描く。江戸時代から続く造り酒屋に生まれ、育った阿部美姫は、幼い頃より家業に誇りを持ち、やがては酒造りの道へと進みたいと思ってはいたものの、父親がいまだに女人禁制のしきたりを貴んでいたため、双子の弟である蔵太郎に跡を譲り、東京に出、会社勤めをすることになる。しかし三十歳になったとき、とある大きな転機が訪れ、女杜氏を目指すことを決意するのだった。おそらく、伝統の厳しい世界において女性が自分の地位を獲得していく過程に酒造を題材化したことの意義は託されており、もちろんそれは、多種多様な制約によって構築された社会を前に女性が自立的に生きることの喩えになりうる。しかし『美姫の蔵』の感動はもう少しべつのところにある。じっさい作中の時間を担っているのは、酒造りの困難というより、そのもう少しべつの点にあたる。簡単に述べるとすれば、失われてしまったもの、失われるかもしれないものを、個人個人がいかに背負い、引き受けるか、のドラマが、主人公と酒蔵の歳月として、あらわされているのだ。数々の苦悩はやがて開かれた未来に繋がっていく、こうしたストーリーはおおよそレディメイドと判断される。はたしてそれは作者の持ち味にほかならないのだったが、レディメイドであるような物語を通じ、登場人物たちの躓き、再起を図る様子が、必ずや誰にも訪れる、というケースへと一般化されているので、折々の場面に、勇気づけられる印象を持つ。

・その他くりた陸に関する文章
 『銀座タンポポ保育園』について→こちら
 『給食の時間』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『オレの子ですか?』5巻について→こちら
2010年06月29日
 Taste the Sin

 この力瘤いっぱいに詰め込んだガッツでおまえさんのやわさを打ち砕いてやるぜ、と言わんばかりのヘヴィ・ロックを米ジョージア州サバンナ出身のトリオ、BLACK TUSKは響かせる。07年にリリースされたファースト・アルバムの『PASSAGE THROUGH PURGATORY』はかなり強烈な一撃であったが、セカンド・アルバムにあたる『TASTE THE SIN』もそれに引けをとらぬほどにハイパーな作品となった。サウンドの基本線にもちろん変わりはない。ギター、ベース、ドラムが激しさをフルに、重低音のアタックをさんざん繰り広げる1曲のなかで、メンバー全員が入れ替わるようにヴォーカルをとり、叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ、フラストレーションなんて知ったこっちゃないよ、メタリックであることとグランジィであることとジャンクであることとスラッジィであることとハードコアであることが火花を散らしながら、痛快無比なクライマックスを連ねていく。とにかく、これを食らったらやばい、というインパクトを真正面から発揮してみせるのである。圧倒されるよりほかない。ジャケットのアートワークから察せられるとおり、BARONESSとの共通項を散見できるけれども、BLACK TUSKのほうがもっとずっとストレートでアグレッシヴだ。すべてのナンバーがぐしゃぐしゃに歪んでいるものの、衝動はクリアーにはっきりとした興奮をつくり上げている。いいか、気に入らないものが目の前にあるときは徹底抗戦の構えを見せなければだめだ、怒濤のごときグルーヴはまるでそう訴えかけてくるかのよう。思わず奮い立つのであって、ちくしょう、後ろ暗さを引き受けることだけは勘弁な、ぐっと拳を握る。

 『PASSAGE THROUGH PURGATORY』について→こちら

 バンドのMySpace→こちら
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2010年06月28日
 さて。芦原妃名子の『Piece』であるが、4巻に入り、急展開というか新展開が訪れる。これまで秘せられていた真実が、意外な人物の口から語られるのである。おそらくは物語の印象自体を左右しかねないため、詳しい言及は避けるけれども、もしかすれば浦沢直樹的な手法でアダルト・チルドレンが描かれているにすぎないのではないか、と思わせる。そのへんに多少の危惧を抱くし、いやたしかに序盤よりミステリやサスペンスのコードを引っぱってきているマンガである以上、唖然とするようなはったりが必要なのは間違いないのだったが、しかしそれによって作品の幅がずいぶんと狭くなってしまったようにも感じられるのであって、結局は、生まれと育ち(遺伝と環境)の問題に集約されるのかよ、と口を挟みたくなってしまう。もちろん、アダルト・チルドレンの傾向であったり生まれや育ちに端を発する困難は、同じく芦原の『砂時計』においても重要なテーマを果たしてはいた。これを踏まえるならば、作家性とでもすべき切実さを認められるものの、あれとはまたパターンが違い、きわめて人工的もしくは人為的な設定を出してきているため、問題提起の深さのみが筋書き化されている印象を受ける。とはいえ、この『Piece』があくまでも少女マンガのジャンルに置かれ、展開されている点は、考慮に入れておかなければならない。そしてたぶんそこに、希望が、救いが、幸運が、やがて刻み込まれることになるのだろう。どういうことか。少女マンガにとって、希望とは、救いとは、幸運とは、おおよその場合、ロマンティックなドラマを通じ、孤独な運命を変えていく、運命の変わっていく様子を指す。これはすでに水帆と成海の関係に発芽しつつある、あるいは水帆の一方的な感情のなかに備わりつつある。たとえば、4巻からもっとも明るく光っているセリフを拾おうとすれば、絶対に、疑いなく、次の、これだ。〈感じていることを“伝える”努力をしてみる 楽観的な夢を見よう 全力で創造しよう チープでも安っぽくても 子供っぽいねって笑われても 別にいい 「現実なんて こんなもんだよ」と 固く 自分を閉じてしまわないように “夢のような現実”を 強く 思い描く〉。それはまるで、孤独な運命は変えられる、と信じる、願いのように響く。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 
・その他芦原妃名子に関する文章
 『月と湖』について→こちら
 『砂時計』
  10巻について→こちら
  8巻について→こちら
2010年06月26日
 Are You One of Us

 ああ、やっぱりこのバンドは好き。何はともあれその、ハードに決まっているロックン・ロールを聴くうちに、こう、心からうずうずしてくるところが良いよ、と思う。英リーズ出身の5人組、THE GLITTERATIのセカンド・アルバム『ARE YOU ONE OF US?』であるが、05年のデビュー・アルバム『THE GLITTERATI』で得られた期待と興奮を裏切らず、新しいストックとしてはじつに申し分のない作品に仕上がっている。いやいや、考えてみれば、ずいぶんと待たされたものだけれど、ジャンル的には同じ年代の同じ棚に入れられるだろうね、のTHE DARKNESSやSILVERTIDEなどがまさしく鳴りを潜めてしまったなか、ふたたび活動を表に出してきてくれたのが嬉しいし、じっさいにサウンドは以前と変わらぬ印象をグルーヴに織り込み、今一度鮮明さをアピールすることに成功している。スタイルを簡単にあらためるなら、あきらかにTHE SWEETやSLADEのようなグラム・ロックを参照していて、メロディのつくり、楽曲のキャッチーさ、いかにもブリティッシュ然とした雰囲気も当然、そこに由来している。はたまた、ヴォーカルはパッションを全開にし、リードとリズムのギターがアグレッシヴに切り込んでくるさまは、どこかAEROSMITHを彷彿とさせる。しかしそれらが、正しく温故知新を感じさせるのは、モダンであろうとするアプローチをまったく忘れていないからであって、CDジャケットの写真でメンバーの一人がそのTシャツを着ているほどにTHE WILDHEARTSと懇意であるのもよくわかる。今回のプロデューサーにはマット・ハイドが迎えられているが、過去にMONSTER MAGNETやFU MANCHU、THE 69 EYESといったアーティストを手がけているだけであって、もしかすれば前作のマイク・クリンク以上にはまった。パワフルでラウドな面がより強調的となっており、扇情性は以前にも増しているのである。だからこそ、どのナンバーも跳ねるようにするどく響き、かっこういい。ああ、もうほんとうに好き。最高にお気に入り。

 『THE GLITTERATI』について→こちら

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2010年06月24日
 ちぇんじ123 12 (チャンピオンREDコミックス)

 平均未満な少年の価値が、破格な美少女との出会いや、複数の異性との関係を通じ、底上げされるという、男性向けのラヴ・コメディにあってオーソドックスなパターンに、多重人格、バトル、ヒーロー指向などの要素を盛りだくさんにしながら、荷崩れせず、バランスもよく、坂口いく(原作・絵コンテ)と岩澤紫麗(漫画)の『ちぇんじ123』は、物語の最後まで見事に完走した。最終の12巻である。この作品の、とくに男性性に託されたテーマは、オタク的な資質を持った小介川に、ヒロインであるひふみの父親であり、最強の格闘家である流河竜也が、こう告げるセリフに託されているふうに思う。〈俺なんかより ムコ殿の方が一番無敵に近い所にいると思うぜ〉、〈北海道で言ってたよな 生きていくのに人が人を殺す必要なんて無い 戦場や殺(や)らなきゃ殺(や)られる状況それ自体が正義じゃないって〉、〈戦うよりも友達になる お互い へつらう事の無い本物の友達を作り続ければ 敵なんていねえ 文字通りの無敵ってヤツだ〉、〈お前さんは その絶対不変の正義を貫けばいい〉と、そしてそれは、じっさい全体のストーリーにおいて、ほとんど取り柄のないように見える小介川がどうして多数の人間から愛されるのか、を裏付ける理由となっている。言い換えるのであれば、やさしい心根がそのまま当人を支える芯の強さになっていた、ということなのであってそれが、特異な症状のせいでつねに自分に不信を抱かざるをえなかった少女の、まさしく欠損を補う役割を果たしてもいたのだ。うららかなエンディングを含め、整合性は高く、坂口にとっては、裏方ではあったものの、ひさびさの会心作だろうし、岩澤にとっては出世作と呼ぶに相応しい。

 7巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
2010年06月22日
 00年代のヤンキー・マンガにおいて、ギャングのキングになるという夢想は、その切実さにもかかわらず、屈折し、やがて敗北する運命にあった。『キューピー』の我妻涼しかり、『莫逆家族』の五十嵐けんしかり、『GOLD』の御吉十雲しかり。『ギャングキング』のピンコはどうなるかまだわからないが、心はやはりよじれ、暗いものを背負わされている。それはまた、不良少年が不良少年のまま社会に出たとき、必然的に引き受けざるをえない試練だったろう。吉沢潤一の『足利アナーキー』が、はからずも2010年代をマークしつつあるこの作品が、決定的に異なっているのはそうした点である。

 たとえば、主人公のハルキが3巻のなかで〈オレはよォオー!! 日本一のギャングになるのが…夢なんだ〉と言うそれは、とても前向き、ポジティヴな触感を持っている。だからこそ、彼に恨みを抱き、相対していたはずのジェットは、呆気にとられ、以前までのわだかまりを捨てられた。しかし、ジェットが尋ねるとおり〈だいたい日本一って…オマエ…何をもって日本一なんだよ〉なのであろうか。じつは行方や根拠のほとんどはっきりしていないことが、『足利アナーキー』というマンガのストーリーと展開をエネルギッシュにしているのだけれども、その思い切りのよさはたしかに、先行する作品や作家には見られなかったものであって、おそらくは吉沢の世代や年齢(現在22歳でいいのかな)に還元可能な問題である一方、登場人物たちの置かれている状況によっている。

 ここでは後者に関して、いささか真面目な感想を述べたい。主人公であるハルキ(黒澤春樹)やカザマサ(真壁風雅)の立場は、いちおうは高校を無事に卒業する予定の学生である。すなわち、社会人や大人になる手前の段階にいる。これをモラトリアムと言い換えても差し支えないし、あるいは実直に、若さ、と見てもよい。『足利アナーキー』にとって重要なのは、その若さがまさしく肉体や精神のピークとして描かれていることなのだ。このとき、社会や道徳に付随する条件はいったん保留される。作中に、無難な高校生や堅気の人間があまり出て来ないのは、そういう条件の保留と物語の構造とがダイレクトな結びつきを得ているからにほかならない。カザマサはヤクザのスカウトを断るが、べつだん暴力の存在を否定するのではない。いやむしろ、暴力への積極性に、生の実感を見、求めようとしているのであって、生の実感が、いま、ここ、にしかないものである以上、組織的な犯罪や将来のプランは、さしあたり不要とされている。もちろんそれを一般化し、是か非かを問うことはできる。しかし『足利アナーキー』の魅力であると同時に強烈なグルーヴは、倫理上の危惧をあらかたすっ飛ばすかのようなフル・スロットル、無鉄砲なスタンスに由来しているのは間違いない。

 従来の目線でのぞむのであれば、まじにとるべきなのか、ギャグととるべきなのか、判然としないセンスに満ちているのも、そのためだ。モノローグを借り、盛り込まれた蘊蓄の類に、ロジカルな根拠がいったいどれぐらいあるだろう。あるにしてもないにしても、それはそれなのであって、ある種の雄弁さが空転せず、大げさな力説が白けそうになるところでぎりぎり、作品自体のテンションをアップさせている、このことを『足利アナーキー』の本質的な特徴とすべきである。登場人物たちのモチベーションは、冷静に判断してしまえば、たいへん馬鹿げている。だが、馬鹿馬鹿しさを真芯から引き受けて立っている様子がちょうど、いま、ここ、若さの証明になりえているので、ぎょっと目の離せなくなる。

 2巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 番外編「乙女シンク」→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
2010年06月20日
 マサムネ (ヤングキングコミックス)

 このマンガ、『マサムネ』における木村シュウジのタッチは、どこか『軍鶏』のたなか亜希夫を思わせる。おそらくはそこに注意すべきであろう。不良少年を題材にしたマンガの歴史はすでに古く、ここ最近目新しくなってきたのは、ケンカ自体を熱心に描くような作品が増えてきたことである。いや、その手のジャンルにケンカはつきものでしょう、という向きもあるかもしれない。が、じっさい多くの作品にあたってみればわかるとおり、他のジャンルに比して、必ずしもアクションのシーンは豊富ではなかったのだけれども、それが変わってきているような印象を受けるのだ。一つにはたぶん、表現の様式的な問題であって、ヤンキーやギャングによる闘争がストリート・ファイト型のアプローチと密になった結果、具体的な打撃戦でページの埋められる機会が高まったからなのではないか、と推測される。ともすれば、上條淳士の『赤×黒』や、たなか亜希夫(原作・橋本以蔵)の『軍鶏』、森恒二の『ホーリーランド』などに見られたアイディアの、格闘技抜き、よりヤンキイッシュな変奏といってよい。いずれにせよ、『マサムネ』という作品もまた、ケンカ、ケンカ、ケンカの迫力を前面に、不良少年たちのアティテュードを講じようとしているのだった。主人公の金田正宗は、かつて恩を受けた立花が教師として勤める天領高校に通うことを喜ぶのだのだが、しかし立花は、工業科を取り仕切る尾張勝信に重傷を負わされ、現在絶対安静の状態に陥っている。これを発端に、正宗と勝信とその周辺がばちばちのバトルを繰り広げていく。ストーリーはひじょうに簡素であって、大部分をはったりで通している。個々のカットに勢いの溢れているところが良い。骨太な絵柄もじつに生きている。残念なのは、ドラマのレベルにまったくひねりがないため、次第に単調さのつよまってしまう点である。また、〈暴力は俺にとって――――秩序だ 俺の秩序(ルール)に例外は無いんだ わかるだろ?〉という勝信と〈ド突きド突かれはお互いを認め合うためのもんや それが俺の喧嘩や 支配のための暴力は 俺は認めんわい〉という正宗の、ある意味テーマに類した対決からは、それが両者の立場を違えている以上の説得力を、最後まで得られずじまい。
2010年06月19日
 サイゾー 2010年 07月号 [雑誌]

 『サイゾー』7月号(今月号)よりはじまった「CYZO×PLANETS 月刊カルチャー時評」で、市川真人さん、宇野常寛さんとの『1Q84 BOOK3』座談会に参加しています。構成は坂上秋成さんです。また同企画内、マンガのクロス・レビューにも参加しております。取り上げている作品は『GIANT KILLING』15巻、『進撃の巨人』1巻、『朝がまたくるから』です。

 それから、2年ほど前にメールマガジン「週刊ビジスタニュース」に書かせていただいた「文芸誌を読むことについてちょっと」がブログ版「ビジスタニュース」に再掲載されております。
 http://bisista.blogto.jp/archives/1312051.html
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2010年06月18日
 NO MORE PAIN(初回限定盤)(DVD付) NO MORE PAIN

 期待と不安があった。しかし、期待と不安を秤にかければ、不安のほうに胸中は傾くようだった。シングルとして先行し、アルバムにも収録されることとなった「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」と「THE D-MOTION」の2曲はともかく、5人編成のままレコーディングされた「Going!」からは、KAT-TUNというグループが今後どこにどう進んでいこうとしているのか、確固たる方向性を掴むことができなかったためである。

 過去にも再三述べてきたとおり、08年のサード・アルバム『KAT-TUN III -QUEEN OF PIRATES-』は、掛け値なしの傑作であった。見事であるほどにゴージャスでグラマラスなポップとロックをすばらしくすばらしく聴かせてくれた。続く09年の『Break the Records -by you & for you-』は、個々の楽曲に良さはあったものの、トータルなコンセプトを望めば、その次のレベルを提示するには至れていなかったと思う。

 これがファンの贔屓目であるのか、あるいは厳しめの意見であるのかは知らない。だがすくなくとも、そのアーティストに一線級のポテンシャルが認められる以上、そのアーティストは彼らに魅了された人間をさらに魅了するだけの結果を残さなければいけない。プレッシャーはつねにあるだろうが、「Love yourself」と「THE D-MOTION」にあらわれていためくるめくハレーションからは、KAT-TUNならやり遂げるに違いない、という期待の二文字と手応えをたしかに受け取れた。反面、諸事情により状況が一転してしまったのは仕方なく、それを引き受けなければならなかった「Going!」の淡い色彩からは、とりあえず、の妥当性を上回るものを得られなかった。そこに不安が生じた。

 そしてついに登場したのが『NO MORE PAIИ』なのだけれども、いやまず先に結論をいってしまおう。KAT-TUNはやはり心強かった、と。

 フル・アルバムとしての性格を問えば、これもまたちょっと『KAT-TUN III -QUEEN OF PIRATES-』の内容には及ばない。『Break the Records -by you & for you-』と同様に、収録曲の半分近くをソロ・ナンバーで押さえた構成は、ある種のコンピレーションに近しいとさえいってよい。にもかかわらず、あらかじめ秤にかけられていた期待と不安の、不安をすこしずつ忘れさせてくれるような魅力が、個々の楽曲に備わっていて、最終的には、つまりそれが、この作品の特徴なんだと信じられる。

 冒頭の「N.M.P. (NO MORE PAIN)」に再現された過剰なエピックは、まさしくKAT-TUNというグループならではのものだ。大盤振る舞いのオーケストレーションが響き渡るなか、5人が歌い、紡いでゆくロマンティシズムの、激しく切ない印象に、おお、と思わず声が漏れる。なぜこんなにも浮き世離れしたサウンドが、ひたすらエモーショナルに届くのか。もはや、KAT-TUNだから、としかいいようがない。韻を凝らし、ふたたびKとAとTとTとUとNの六文字を刻んでいくJOKER(田中くん)のラップが最高潮に燃えるし、初回限定盤に付属されたミュージック・ヴィデオで確認できるように、クライマックスで〈Nooo Paaaaaaaaaaaaaain〉と苦悶を誇張する上田くんの叫びが、あまりにもドラマティックだから、むせ返る。

 要は、万全の掴みなのだ。いうまでもなくそれは、2曲目の「Love yourself」でキャッチーなポジションに切り替わるだろう。個人的なハイライトは、「FARAWAY」と名づけられた3曲目にあった。ゆったりとしたテンポにメロウなモードの揺らされるナンバーである。コーラスにおけるユニゾンがうつくしく、やさしく〈離れても・夜明けは・光を連れて来るから・涙をとかして・想い伝わるまで〉と歌う。この励ましに感動を誘われるだけであれば、あえて特筆はすまい。同じメロディが〈生き急ぐことさえ・君のためだと思ってた・もし世界の裏・離れても・途絶えない絆・感じて〉と繰り返すところに、刹那的な風景が描かれ、それがグループのイメージにぴったりと合い、じっさいメンバーの重ね合わせるヴォーカルは、どこまでもデリケートに、すぐにでも壊れそうな表情をのぞかせるので、目を離せなくなるかのように引き込まれる。

 次いでアッパーな「THE D-MOTION」が飛び出してくるわけだけれども、時間的な問題か、予算的な都合か、バンド・サウンドを意識した楽曲はすくなく、ほとんどが打ち込みのトラックを使っていることは、『NO MORE PAIИ』に一つの基調をつくり出しているようにも感じられる。先に、ある種のコンピレーションに近しい、と述べたのは、全体の統一性を踏まえてだが、それとはべつのレベルで、アルバムのトーンはバランス化されている。

 5曲目の「RIGHT NOW」などはまさしく、「THE D-MOTION」のあとに並んで違和感のないナンバーだといえる。中丸くんのヒューマン・ビートボックスにオートチューンをかけた変則的なアプローチのイントロを受け、電子音の響き、リズムのパターンが、たかたか、高鳴り出す。かつてはハード・ロックやスピード・メタルに描かれていた「俺」と「君」のレックレス・ライフが、ここではダンサブルなノリへと塗り替えられている。〈俺・MARIONETTE・君・MARIONETTE〉というフレーズは、この曲調でなければ、生きなかった。この曲調だからこそ、生き生きとしているのだ。6曲目の「ROCKIN' ALL NITE」は、ギターがじゃきじゃき轟いてはいるものの、アグレッシヴに攻めるのではなく、いかにもジャニーズ様式の、楽しげなパーティー・チューンに仕上がっている。どこか初期のKAT-TUNを彷彿とさせるのも、そのせいだろう。

 あいだに「Going!」を挟み、8曲目の「SWEET」からソロ・ナンバーのコーナーに入っていくのだが、「ROCKIN' ALL NITE」の流れで「Going!」とくるのは、いささか爽やかすぎるぜ、なのであって、しかしアルバムの単位で前後の仕切りを考えたさい、「Going!」の軽快なタッチが、さほど悪くない。スイッチを切り替えるのにちょうど適している。アクセントだ。

 さて。意外といってはあれだけれど、各自のソロ・ナンバーがなかなかに充実しているのは『NO MORE PAIИ』の良所ではないか、と思う。亀梨くんの「SWEET」は、タイトルどおりの甘やかなラヴ・ストーリーをアーバンなポップスに込める。そりゃあ前作に収録されていた「1582」のてんこ盛りなギミックと比べたら、派手さはない。とはいえ、しっとりとしたムードにあってさえ、力んで震えて掠れそうな声に、亀梨和也という色気はたっぷり詰まっている。田口くんの「LOVE MUSIC」は、とてもチャーミングだ。じつは「FARAWAY」でも思ったのだが、このところ、田口くんのヴォーカルが侮れねえ。総じてヴァリエーションが豊かになったというか。きらきらとした音色の「LOVE MUSIC」では、テンションに抑揚を効かせ、ほがらかなシーンに彩りを加えながら、ついには自作のラップまで飛び出す。

 それにしても、だ。田中くんの「MAKE U WET -CHAPTER 2-」が、サウンドにしても歌詞にしてもエロティックすぎる。SEを含め、かなり直接的に卑猥にセックスを題材にしていて、照れる。まったく〈淫らウサギちゃん〉じゃないし〈汚れたウサギちゃん〉じゃないよ。〈FACE TO FACE?〉か〈DOGGY STYLE?〉かって問われても、弱る。ともあれ、ひさしくラウドなヘヴィ・ロックのスタイルが定着していた田中くんであるが、「Going!」のシングルに収録されていた「I DON'T MISS U」よりこちら、じょじょにブラック・ミュージック寄りのセンスを発揮しつつあるみたいだ。

 8曲目の「RABBIT OR WOLF?」は、先般の公開リハーサルで耳にして以来、ずっと気にかかっていた上田くんのソロ・ナンバーで、じっくりあらためてみても、やっぱり、これ、好き。端的にいってしまえば、RADWIMPSあたりがロール・モデルであるふうなミクスチャーを、よりファンキッシュな演奏に合わせてやっている。世界規模のメタファーにナルシスティックな情緒の入り混じったさまが、直感的なカタルシスをもたらしている点に今日性がうかがえる一方、メロディを性急に滑らせていった先のスリルが、何よりもつよいフックとなっているところに、この歌い手がすでに「BUTTERFLY」というナンバーをモノにしていたことを思い出す。

 はたして中丸くんのヴォーカルが、『NO MORE PAIИ』というアルバムにとって、どれだけ重要な役割を担っているか、これはもう随所で認識されるとおりだろう。くどいようだけれど、ここでまた「FARAWAY」を挙げてもよい。いっけん線は細いながら、前に出ても後ろに引いても、安定したスタンスで楽曲の盛り上がりを支える。だいたい、ビートボックスの技にしたってそうだし、本質的に器用なのである。シンガーとしては達者なのだ。12曲目の「FILM」では、その達者な面が、センチメンタルな叙情をぱあっと輝かせている。

 5人が5人、それぞれの素振りで鮮やかにしてきたカラーは、ラストを飾る「PROMISE SONG」に統合される。歌詞のなかで「FARAWAY」という祈りが反復される。まあファンにしてみれば、これ、絶対にコンサートの本編でもエンディングにかかるよね、的な予定調和のバラードなのだが、旋律自体にはそれに見合うだけの感動が用意されているので、時と場合によっては、ついつい、ほろっときてしまいそう。通常盤には「HELLO」というナンバーが、ボーナス・トラックで、最後に加えられている。ハンド・クラップ、ストンプ調のリズム、扇情的な掛け声、のいずれもが勇ましく。〈突き上げろRAISE YOUR HANDS! 煽って・もっと・もっと・規制・蹴り上げりゃHOLD ON YOU!〉なのであって、「PROMISE SONG」とは別種の余韻を味わえる。できるかぎりのことが費やされたアルバムだ。

 赤西仁の不在は、不在として、間違いなく、ある。それは必然、活動の単位で、楽曲の単位で、いくつかの展開を左右しているのだろう。しかし、たとえ今は6人が5人であろうともKAT-TUNはKAT-TUNにほかならないのであって、その心強さは消せない。すくなくとも『NO MORE PAIИ』は、それを証明してみせた。マスター・ピースになりえるとは決していうまい。だが、上記した理由において、全幅の信頼を寄せたい。

・その他KAT-TUNに関する文章
 「Going!」について→こちら
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら

・その他赤西仁、LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

 コンサート『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』(2010年2月8日・日生劇場)について→こちら
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2010年06月16日
 過去にも何度か書いてきたとおり、サブ・カルチャー表現のなかでもとくにヤンキー・マンガの系においては、フィクションは生き方を教えられるか、という問題がダイレクトに顕在する、あるいは、顕在しなければならないのではないか、と思う。多くの場合、不良少年のイメージに憧れて不良少年になることが真に幸福なのかどうか、を前提とした作品のほうにテーマの深さを見られるからであるし、それ以前に、不良少年の存在をどうにか肯定化するさいの条件が、ストーリーやドラマの質自体を左右しがちなためである。

 おそらくは現在もっともメジャーなヤンキー・マンガである『クローズ』や『WORST』の作者、高橋ヒロシの画業20周年を記念し、『月刊少年チャンピオン』にて発表されたトリビュート・コミックのシリーズが、このたび『かってに高橋ヒロシ』として一冊にまとまった。参加しているのは、浜岡賢次をべつにすれば、永田晃一、鈴木大、SP☆なかてま等、つまりは個人的にに50年組と呼んでいる(昭和50年、1975年前後の生まれの)作家たちである。『弱WORST』と題しながらも、いつもどおり『浦安鉄筋家族』をやっている浜岡はさすがであって、オタク的なアイディアを採用し、見事に『クローズ』を二次創作した鈴木の『クローズLADIES』については、過去に取り上げた。

 永田の『ウィローズ』は、マンガ家マンガふうの半フィクションになっており、作者とニアイコールな男性の、その高校時代が振り返られていて、なかてまの『セニドクロに憧れて』は、たまたま知り合った女性のために一念発起、ダイエットし、トラブルに巻き込まれる不良少年の姿を描いているのだったが、たとえ手法は違えど、どちらもヤンキー・マンガ(前者は『クローズ』で、後者は『WORST』)に影響された主人公を題材にしている点で、共通している。

 さて『ウィローズ』のラストは、〈オッサンになった今でもクローズの男達のようにカッコよく生きてみたいと思っている そして10年後の俺に聞いてみたい クローズにあこがれて胸躍らせたあの頃のように……今も熱く生きてるかい?〉というモノローグによって締められている。『セニドクロに憧れて』の終盤には、このようなモノローグがある。〈近年の日本の漫画は世界から注目を浴び その日本国内でもマンガ原作の映画・ドラマなどあらゆる場面で影響力を放つ漫画に“想い”を乗せ描く漫画家がいて その“想い”を受け取る読者さんがいる… “想い”はそれぞれの解釈を経て 人々の心の中で生きている…〉。いずれの場合にも、まさしく、フィクションは生き方を教えられるか、という問題がダイレクトに顕在しているだろう。

 たしかに『ウィローズ』も『セニドクロに憧れて』も、トリビュートという枠内で、各人の個性を残しつつ、クオリティのキープされた、なかなかの意欲作といえる。しかし残念ながら、多少皮肉的に述べるとすれば、それはたんに影響を受けた側の雄弁さにすぎないのかもしれない。じっさい、永田もなかてまも、オリジナルの作品では、影響を与える側が、いかにしてその自覚を表現化し、驚き、感動を果たせるかのレベルにまでは及んでいない、今のところ。

 鈴木大『クローズLADIES』について→こちらこちら
2010年06月15日
 ギャングキング 19巻 (ヤングキングコミックス)

 柳内大樹の『ギャングキング』は、作中の人物が持ち回りで自分探し(!)に取り組んでいくマンガであって、もちろんこれは多少の揶揄を込めていっているのだったが、いやたしかに思春期も終わりに近い高校生活においては、自らのアイデンティティを疑い、危ぶみ、思い悩むのはまったく珍しいことではないに違いない。しかしそれが、必ずしも学生ならではの風景としては再現されていないので、その、わざわざご苦労さん、であるような回り道が企図しているところに、いまいち説得されないのである。青春、限られた時間のなかで足掻くことの切実さを見るよりも、所詮、高等遊民的なライフスタイルを不良少年のイメージに移し換えたにすぎない、と受け取れてしまう。これは、作者があきらかに手本に置いているハロルド作石の『ゴリラーマン』における藤本軍団の、あのきわめてすぐれたリアリズムと比較してみれば、一目瞭然だろう。ことによると、『ゴリラーマン』の現実性はすでに旧く、時代をくだった『ギャングキング』の現実性こそが新しい、このような解釈を許すべきなのかもしれないけれど、結局のところそれが、作品の魅力を十分に満たすだけの条件となっていないことが問題なのだ。

 そうした次第で、ようやくお宅に順番が回ってきましたよ、と、ついにバンコまでもが自分探し(!)のモードに入ってしまうのが、この19巻である。ワークマンズ編で謎の覚醒を得、超常的なパワーを手に入れたジミーは、街を取り仕切るギャングのボス、ピンコとの再戦を望む。一方、ジミーの謎の覚醒と超常的なパワーを見、彼が自分たち学生とは決定的に違う人間だと思い知らされた親友のバンコは、複雑な心境を一人抱えることになってしまう。以上にはちょっとばかりの脚色が加わっているけれども、概ねはいじっておらず、正直、ストーリー自体はよくわからないものになっていて、何だろう、これ、といった感じがつよい。アネが失恋するくだりなど、短いエピソードのなかにこのマンガ家の良さは出ていると思うのだが、もっと大きな部分、つまりは本筋にさほどの興味がわかないので、弱る。

 自分探し(!)の安易な導入ばかりをいっているのではない。ジミーのライヴァルであると同時に一種のダーク・ヒーローとして設定されているピンコに、文字どおり『ギャングキング』のテーマを見ようとしたとき、そこからもあまり、はっとしたものが感じられない。いささかまじめに突っ込んでいく。大規模なギャング、ジャスティスを率い、トマス・モアを引きながらユートピアを述べるピンコの造形はさしあたり、99年から00年代にかけて高橋ヒロシが『キューピー』に描いた我妻涼や同時期に山本隆一郎が『GOLD』に描いた十雲に類しているといってよい(おお、見事に『ヤングキング』だ)し、山本が現在『サムライソルジャー』に描いている桐生達也も同様の、破滅と孤独の裏返しにユートピアを指向するタイプのアウトサイダーなのだったが、しかしそれらと並べてみたとすれば、ピンコの佇まいには著しく評価できるだけのカリズマが備わっていない点を残念に思う。それは当然、ピンコに負わされているテーマがぼんやりしていることを意味しているだろう。法規上の悪たりえることで、自己をあえて反社会的な立場に措定し、テロリズムもしくは革命を目論むというのは、00年代のヤンキー・マンガに顕著なヒールの像であった。ピンコもまたその系譜を受け継いでいるのは間違いない。だが、自分探し(!)のテーマが作品全体の精度を低めてしまっているのと等しく、掘り下げ、徹底さを欠いているため、借り子のアイディア以上に成果をあげていない。

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 『ドリームキングR』
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 『ドリームキング』
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2010年06月14日
 ステゴロ 1巻 (ヤングキングコミックス)

 この10年をざあっと見渡しただけでも、ストリートでのファイトをモチーフにしたマンガというのは、決して数が少ないわけではない。しかしながら、ぱっと思い出そうとするかぎり、つよく印象に残っているのはさほど多いわけではない。それこそヒットした作品を挙げようとすれば、わずか、といえるほどもない。これはどうしてだろう、と考えるまでもなく、よく描けているものがほとんどないためである。では、どういったマンガが魅力的に映じてくるのか、あくまでも私見にすぎないのだが、路上における格闘を手がかりに、作中の人物が、現実から滑り落ちようとしているのか、あるいは現実を駆け上ろうとしているのか、正確に掴まえられていなければならないと思う。落ちる(堕ちる)上る(昇る)とは、必ずしも即物的な条件を指すのではない。多少大げさに述べるとしたら、その個人の、魂の、自律性の問題によっている。フィジカルなアトラクションに重きを置いているはずのストーリーが、なぜか内面の肥えると痩せるに迫真していくことがあるのはそのせいなのだったが、さて、小幡文生(作画)と俵家宗弖一(原作)による『ステゴロ』もまた、ストリートのファイトがモチーフとなりそうな気配をうかがわせる。池袋でスナックを営む姉と二人で生きる16歳の少年、獅頭忍が高校を中退し、素手喧嘩(ステゴロ)に自分を託すのは、父親を自殺に追い込んだ覚醒剤を憎み、カラー・ギャングからドラッグと金を巻き上げるためだ。ところが調子に乗りすぎた。武闘派ヤクザさえおそれる謎の男、阿修羅にのされた忍は、多額の借金を背負わされ、血なまぐさい闇のなかへ引きずり込まれてしまうのだった。もはや〈殺られる前に…殺るしかねぇ…〉のであって〈場数を踏んで 阿修羅より強くなるしか道は無ぇんだ…!〉という逼迫が、要するに、主人公をより過激にしていくのである。格闘家は出てくるものの、1巻の時点で展開されているのはあくまでもケンカであって、バトルそのものよりも裏社会の風景のほうが前面にきているのが、とりあえずの特色といえるだろう。一方でやはり、作中の人物の、魂の、自律性が、物語の行方を左右することになるのでは、と予感させる。小幡のタッチは、どこかしら桑原真也を彷彿とさせるところがあり、ヴァイオレントな展開に十分な濃さを与えている。
2010年06月12日
 ナンバデッドエンド 8 (少年チャンピオン・コミックス)

 まったく、クズみたいな野郎はどこにでもいるんだな。千葉にもいたし横浜にもいた。もちろんそりゃ渋谷にだっていらあ。しかしどうして、ただ平凡な高校生活を送りたいだけの少年が、そんな連中を相手にしなければならないのか。彼に恨みを抱くその男はたしかにこう言ったのだった。〈オメーがどう思おうが アイツらから見たらオレもオメーも同じクズなんだ!! オメーにクズばっか寄ってくんのはな…オメーがクズだからだよ…〉。

 ああ、こんなにも残酷で悲しい解答に対し、いや違う、どのような運命にも必ずや自由があるはずだ、という反証を与え、ひたすらポジティヴな説得力を与えているのだから、しびれるよりほかない。小沢としおの『ナンバデッドエンド』の8巻は、このマンガが掛け値なしの傑作であることを、あらためて教えてくれる。じっさい、どこからどう褒めればよいのか悩むほど、とても深い懐のエピソードを収めているのであって、さしあたり概容から入っていきたい。

 家族に嘘がばれ、友人である伍代の家に身を寄せた主人公の剛は、自分で学費を稼ごうとし、夏休みのあいだ、渋谷のカラオケ・ボックスでアルバイトをはじめるのだったが、折しもそこの客に、兄である猛にかつてくだされたチンピラたちが訪れていたため、過去の因縁に否応なく巻き込まれなければならなくなる。元マッドマウスのグリとグラは、難破兄弟をはげしく恨み、報復すべく、悪質な手段を用いて、剛を脅し、猛を誘い出そうとするのである。しかし剛はといえば、家族はもとよりアルバイトの仲間にもこれ以上の迷惑をかけたくないので、何もかも全部一人で背負い込もうとするのだった。

 こうしたストーリーにおいて、暴力の輪を自分以外へと広げるわけにはいかず、一方的な被害に遭いながらもそれに耐えようとする剛の姿が、まず目を引く。〈いつから無抵抗主義になった? ガンジーにでもなったつもりか?〉と言う伍代に答えて、剛が〈オレが…アイツらブン殴っても同じことのくり返し…って思ってたら めんどくさくなって…気のすむまで殴らせようって……イカれたヤツらとは早く縁切りしたくてよ…〉と述べているのは、間違いなく、本心だろう。注意されたいのは、そのとき、彼の心が、どう動いているか。おそらくは、周囲の人間を考慮してのみではなく、自分自身もまた暴力の輪から早く抜け出したい、このように動いていることである。

 筋金入りのヤンキー一家である難破ファミリーの、剛に託した全国制覇という夢は、ある意味、暴力と不可分だといえる。他方、ごく一般的な学生時代を歩みたい剛にとって、ヤンキーをあがるというのは、必然的に暴力の否定形をとらざるをえない。だが、暴力を否定することが、たとえ可能であったとしても、家族を否定することは、彼らからの愛情をつよく感じられる以上、ひじょうに難しい。これが『ナンバMG5』も含め、『ナンバ』シリーズ、『ナンバデッドエンド』全体を貫くジレンマの一つであって、主人公がケンカに応じてはなぜ、自分の素性を隠し、母親特製の特攻服を着、別個の人物を演じなければならないのか、物語下の条件としてではなく、深層のレベルでそれを見るなら、葛藤によって二つに引き裂かれる主体を、文字どおり、意味している。

 しかして、今回のエピソードのなか、グリとグラの攻撃を前に、もはや剛が特攻服を着ないでいるのは、そうしたジレンマ自体の放棄に値しているのだと思われる。もちろん、たんに実家から持ってきてはいない、程度の問題にすぎないのだけれども、裏切りが明るみとなり、すでに家族とは別離的になってしまったので、葛藤を覚える必要がないことの表象になっていると解釈しても差し支えがあるまい。

 だからこそリンチにすぎないとしても、それが暴力の終わりであるのならば、もう片方の主体を前面にしたかたちで、つまりは降りかかる火の粉に対して無力な状態で、引き受けざるをえない。すくなくとも、あれだけ欲していたケンカに荷担しない権利が、不慮のこととはいえ、結果的に行使されているのだ。

 当然、これが暴力の終わりになりうる、という見込みの甘さはべつの話としてある。結局のところ、伍代の心配もそこだろう。それにしてもまあ、剛を気遣い、難破家の両親や猛に働きかけ、仲をとりもとうとする伍代の友情には、あやうく涙しそうになるよ。猛の恋人であるカズミの、ちょっとした出番、〈アタシ知ってるぞ アンタが剛のこと大好きだってこと 剛だって アンタやみんなのことが大好きなんだ だからつきたくもねぇウソついてたんじゃねーか〉というセリフもひじょうに良い。こんな友達や恋人が今すぐにでも欲しい。

 いやいやともかく、他人の伍代がなぜ、しかもあれだけクールであった彼がなぜ、よその家の事情に立ち入るほど親身であろうとするのか。いうまでもなく、剛との友情がそうさせるのだったが、過去のエピソードにあったとおり、難破家の幸福な様子を目にするうちに彼自身が家族のイメージを再獲得しているからでもあって、その価値をよく認識しているためだ。またこれは伍代と難破家の関係にのみ特殊な印象ではないことを、先ほど引いたカズミの言葉は裏付けている。

 要するに、外聞上はヤンキーの家系でしかない難破ファミリーの、その良心がどこに見られるべきかを、近辺に置かれた人々の反応は示しているのだといってよい。ここで振り返りたいのは、7巻のくだり、まだ幼く小学生だった剛に、母親のナオミが次のように諭している箇所である。〈剛 気持ちが大事だよ 友達(ツレ)のために中坊に向かってったオメーは偉いよ お前は強くなる なんたって父ちゃんと母ちゃんの子 猛の弟だからな〉というこの、とくに〈友達(ツレ)のため〉という言葉は、口にする者や響きを変え、8巻のなかでさまざまに繰り返されることとなる。

 たとえば、猛に面会した伍代が剛の現状を〈逃げたらバイトの友達(ツレ)ボコるって言われて アイツ 自分が殴られることで終わりにしようとしたんだ…〉と告げているのもそうだし、いよいよ剛と和解するにあたって猛が発するのもそうだといえよう。

 対決の最中、グラに〈オメーがどう思おうが アイツらから見たらオレもオメーも同じクズなんだ!! オメーにクズばっか寄ってくんのはな…オメーがクズだからだよ…〉と言われたのを受け、さらには助けようとしたアルバイトの仲間がケンカにこわがるのを見、剛は暗い顔をする。〈あ〜あ…なんでこうなっちまうかな…アイツの言ってた通り…やっぱオレ クズなんだ クズなんだ… ちゃんとしたヤツんとこには あんなの寄ってこねーよ… オレの… アイツらと同じニオイかぎつけてクズが寄ってくるんだ〉と思う。途方に暮れる。

 だが、ほんとうにそうなのだろうか。違う、決してそんなことはない。〈オメーはクズなんかじゃねーぞ〉と救いを差し伸べるのが、猛の役割である。たいへん親密であった難破ファミリーの、家族のあいだで、兄弟のあいだで、いったい何がすれ違ってしまったのかを、彼の言葉と態度は総ざらいする。すなわち〈オラァな オメーもさ… オレらと同じだと勝手に決めつけてた…〉のであって〈強さで… 存在を証明するっつーか… 強けりゃ強いほど カッケーと思ってる人間〉だと思っていたのは〈だって オメーは男だし 難破勝とナオミのガキだし オレの弟だから〉なのだし〈実際オメーはハンパなく強ぇーしな だから オメーはオレと同じ側で…それは一生変わんねーんだって… オレ勝手に思っててよ…〉、〈でも…オメーは変わった… いや… 今 考えてみりゃオメーはもともと自分からケンカ売ってくヤツじゃねーし… ケンカも 友達(ツレ)助けよーとしただけだって 家出るとき言ってたっけ…〉と反省の色をうかがわせるのだった。

 猛のこのセリフと、7巻時点でナオミにあらわされた言葉、そして剛が一貫してとってきたスタンスに、大きなぶれはない。誤差があるとすれば、それはやはり、強さとして求められるものが全国制覇の野望によって具体化されることへのこだわり、なのだ。グリとグラを二対一で相手する剛を指し、〈どーせ勝てっこねぇ〉と〈あの2人をやった唯一の男が難破猛… つってもそりゃ3年前の話… 今の2人はそん時より数段上… 猛にだって勝てるぜ!〉とのたまうチンピラに、さりげなく伍代が〈弟の方が強ぇかもよ〉と反している点に注意されたい。

 剛は強い。そしてそれはつねに周囲の人間のために身を挺してきたからであることを、伍代はもちろん、『ナンバデッドエンド』の読み手は知っている。グリとグラとの因縁に描かれているように〈友達(ツレ)のため〉なら何でもするのは、猛も同様であるに違いない。しかるに、剛にとってそれはそれだけで完結しうる強さなのだったが、兄である猛の立場にしたら、あるいは勝とナオミの両親にしても、自分たちが為し遂げられなかった全国制覇の夢を託したくなるぐらい、魅力的な強さなのである。

 じっさい、剛が猛と等しく〈強さで… 存在を証明するっつーか… 強けりゃ強いほど カッケーと思ってる人間〉であるかぎり、家族の期待に応えようとする姿は真になるはずだった。が、すでにいったけれども、両者のあいだには温度のひらきがあり、したがってそれは真とはならない。なれない。むしろ、それが偽であることを隠蔽しようとして、嘘つき、家族を騙さなければならなかった。このことが、主人公の運命に軟禁を強いていたのは、周知のとおり。

 さてしかし、長い文章となってきたので、話をもとに戻しながら、多少の整理を加えておきたい。剛の境遇に対して〈オメーがどう思おうが アイツらから見たらオレもオメーも同じクズなんだ!! 〉と言ったのはグラであった。これに思い悩む剛に〈オメーはクズなんかじゃねーぞ〉と言ったのは猛であった。同時に猛は〈オレも…グリとグラ(あのふたり)と変わんねーよな…〉とも言っている。ここで、剛と猛とグラ(とグリ)の三者に、いちおうの区分を設けることは、必ずしも不可能ではない。たぶん、武力抗争によって自己実現を果たそうとする欲望において、猛とグラは共通している。一方、〈友達(ツレ)のため〉に体を張れるかどうかの基準において、両者を差別化できる。また〈友達(ツレ)のため〉に体を張れるかどうかを問うのであれば、猛と剛のあいだに違いはないものの、武力抗争によって自己実現を果たそうとする欲望において、両者は分けられている。

 問題は、武力抗争によって自己実現を果たそうとする欲望、言い換えるなら〈強さで… 存在を証明するっつーか… 強けりゃ強いほど カッケーと思ってる人間〉であろうとすることの極限とイコールであるような全国制覇のかわりに、剛がいったい何を望んでいるのかであって、それはつねづね作中で繰り返し述べられている以上、あらためるまでもないのだったが、たしかに猛は弟の口からこう聞いた。〈オレ ヤンキーのてっぺんとるより友達と一緒に白百合を卒業してぇ…!〉。

 あらかじめ伍代が〈アイツはヤンキー一家に生まれて いやおうなく暴力の世界で育ってきたけど 見つけたんだ 夢中になれるもの… 前向きになれるもんを… アンタ 兄貴のクセに何でそれを喜んでやれねぇんだ〉と訴えていたのを伏線に、ようやく剛の本心を受け入れ、やさしい言葉をかける猛の表情に、それまで物語を覆っていた緊張がゆるみはじめる。あまりにもナイスなクライマックスに思わず、ぐっとくる。

 難破家についていえば、あとは両親の許しを得るのみとなったわけだが、この8巻に見られる勝の、父親ならではの憂いが、ちくしょう、じつにせつねえな。

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 『ナンバMG5』
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2010年06月10日
 奥嶋ひろまさの『ランチキ』は、スマッシング・パンプキンズのTシャツを着たヤンキーとブラック・フラッグのTシャツを着たヤンキーがタイマンを果たす、というようなマンガである。めちゃくちゃな解説から入ってしまったが、まったくの嘘ではないよ。けれどもまあ、たしかに本題とはあまり関係ないのであって、作品の魅力をいうのであれば、不良少年の成り上がりを最優先のテーマとしている点にあるだろう。もちろん、ヤンキー・マンガにおいて成り上がりは必ずしも珍しいトピックではあるまい。しかし、現在この手のジャンルでは、あらかじめ才能の発揮された人物が、トーナメント形式で実施される抗争劇のなかで、シード枠的に優遇されているのが主流となっているのに対し、『ランチキ』の場合、それこそボトムに等しい位置の人物が一念発起、ちょうど自分で自分の可能性を試すかのように、向こう見ずなトライを、たとえ力及ばずとも挑んでいくところに、つまりは比較上の個性を述べられるのだし、じっさいもっとも大きなエモーションを掴まえているのである。

 ある意味では旧いパターンにあたるのかもしれないが、そこが良いよ、とも感じられるのは、少年の少年であるがゆえに未熟な思い込みを、立派なエレメントにし、物語のドライヴに白熱を加えているからなのだった。さて、作品は3巻に入り、本格的に高校生活編の幕を開く。親友であるキム(金田鉄雄)とチーム「シカバネ(鹿へんに金)」を組んだランチキ(鹿野乱吉)は、不良校として知られる降威高校に入学、ほとんど無名の状態から成り上がり、周囲に認められていこうとする。こうしたストーリーに関して、着目されたいのは、2巻時点のエピソードにより、降威高校のトップであり上級生の椿屋や亀山社中学出身ですでに一年最強とされている五島に高く買われたおかげで、周囲の評価が変化していることを、ランチキ自身は好ましく思っていない点にほかならない。同級生の視線を背に〈くそ…俺らを通して椿屋さんや五島を見てやがる…〉のを気に入らないのは〈俺は自分にしか出来へん青春を過ごすために降威高校に入学したんや(略)でもこのままじゃ椿屋さんと五島の名を借りただけで 中学3年間と全然変わらん高校生活になってしまうぞ〉と察せられるためで、他力には頼るのではなく、自力で実績を残すべく、「シカバネ」の二人は、ケンカの強さで知られる双子の種田兄弟との決闘を望む。要するに、はからずも手に入れたシード枠的なポジションを返上するところから高校生活の、新しい日常をスタートさせているのだ。

 これでランチキに見事な腕っぷしがあればカタルシスは単純化されたのだけれども、そうはなっていない。キムはともかく、ランチキときたら、相も変わらずぼろぼろ、決して強いとはいわれない。だが、それを『ランチキ』というマンガにとっての要所とすべきだろう。つまり、主人公の惨めでもあるような姿と悪戦苦闘とが、弱い自分を塗り替える、上書きしようとすることのパフォーマンスになっているのであって、〈部活にも勉強にもピントが合わんかった俺には もうケンカしかないっス 自分の中の劣等感や焦燥感 憧れや嫉妬を掻き消すためには闘うしかねぇ 今の俺には何もないけど どつき合いの中でだけ 何か得れそうな気がするんスよ〉という、子供じみてはいるものの、いやだからこそ初期衝動と覚しきモチベーションに随時具体性をもたらしている。

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2010年06月09日
 At Night We Live

 ああ、これは間違いなくFAR(ファー)の再結成作にして最高傑作であろうよ。このすばらしさを導き出すため、バンドは一時の解散を経なければならなかったのだとさえいってしまいたくもなる。まさか、いや、まさしく98年の『WATER & SOLUTIONS』を越える感動が、通算5枚目のフル・アルバムとなる『AT NIGHT WE LIVE(アット・ナイト・ウィ・リヴ)』に宿らされているのである。

 とにかく、ヴォーカルのジョナー・マトランガとギターのショーン・ロペスがもう一度タッグを組んだことで、類い希なるケミストリーの生じているさまは疑いようなく、清かさと激しさが理想的に同居するなか、胸をいっぱいにさせるようなエモーションがたちまち編まれていく。

 ソロ活動はもとより、ONELINEDRAWINGやNEW END ORIGINAL、GRATITUDE等のユニットを通じ、研ぎ澄まされるほどにデリケートな歌声を披露していたジョナーが、ここにきて、かつてないくらいに力強いのはやはり、自身のREVOLUTION SMILEで硬質なヘヴィ・ロックをプレイし、DEFTONESやWILL HAVENのアルバム制作にプロデューサーとして関わったショーンの、そのスタンスを汲んだところが大きいだろう。両者のキャリアが幸福な再会をのぞんだ。結果、これぞFARであり、しかし過去のFARを逸したサウンドが響かされている。

 ベースのジョン・グーテンバーガーとドラムのクリス・ロビンによって支えられたグルーヴは、バンドの一体感を何よりも強調的にしており、1曲目を飾る「DEAFENING」からして、メンバー4人の全力が見事な輝きをつくり出すのだった。暗い色をスタートのラインに引きながらも、メロディは伸びやか。固い拳でぐっと押すかのような圧のかかった演奏がきらめき、ガッツを誘い、続く「IF YOU CARED ENOUGH」が代表的なとおり、どのナンバーも基本の構造はシンプルであって、同時にキャッチーなラインを備えているのだけれども、奥底からたしかな誠実さを覗かせている点に、このバンドの表現力を見つけられる。

 そしてそのことは、落とされたトーンを通じて〈Crowided and lonely lonely〉というフレーズであったり〈Touch me to find me〉というフレーズにパセティックな印象の綴られた3曲目の「WHEN I COULD SEE」や、雰囲気をポップにしているのに〈Give me a big, true, actual reason / To believe you / Give me a reason〉というコーラスが切なさをたっぷりとたたえた4曲目の「GIVE ME A REASON」において、よりいっそうの恵みをもたらしている。

 そばに孤独を置いたまま、想像上に希望を探し、憐憫を、できるなら励ましを、あらかじめ定められた世界像に太く書き加えようとしている、こうしたイメージを『AT NIGHT WE LIVE』には持てるのである。

 もちろん、アグレッシヴであることとメロウであることのコントラストが、そのままダイナミックなスケールを得ている5曲目の「DEAR ENEMY」以降も、現在のFARをFARたらしめているハイ・ポテンシャルが、ナイーヴな心の揺らぎを、たんなる屈託にはとどまらせない。アルバム中もっともパワフルな8曲目の「BURNS」は、MY CHEMICAL ROMANCEでいえば「I'M NOT OKAY (I PROMISE)」型の、要するに、現代的なアンセムのフォーマットであって、たいへんカタルシスにあふれている。同じくアップ・テンポな10曲目の「ARE YOU SURE?」も、若返りしたかのようにエネルギッシュだ。

 本編のラストにあたる11曲目の「THE GHOST THAT KEPT HAUNTING」まで、あるいはその後に用意されたボーナス・トラックの「PONY」を含め(日本盤はさらに「I'M DOWN」を追加収録している)、すべてが充実しているのだから、うれしい。間違いなくFARの最高傑作であるし、目覚ましく、美しく、逞しいアルバムだと思う。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら(音出ます)

・その他ジョナー・マトランガに関する文章
 『AND』について→こちら
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2010年06月07日
 岡田ユキオの『MOTEL』が映画化される、と聞いたとき、まじかよ、と思ったのは、さほどメジャーな作品じゃなかろう、という気がしたからだし、その、独特なポップさ加減が、やはり一昔前のものに感じられたので、現代の風潮からするになかなか厳しいのではないか、と踏んだためであった。しかしまあ、じっさいの映画版はまだ観ていない。さてこの『MOTEL THE LAST WEEK』は、題名から察せられるとおり『MOTEL』の続編というか前日譚的な内容を持っている。すなわち、前作で幼馴染みの因縁を果たした朝倉と相田の二人が、それぞれ物語の舞台となった「シーサイドモーテル」に行き着くまでの過程をメインに描いており、『MOTEL』でとられたグランド・ホテル方式のアプローチは、複数のエピソードを通じ、同じ時間軸が繰り返し展開される、このような特殊な構成において、再利用されている。ああ、あそこの場面とここの場面がこうして繋がるのか、というアイディアの成り立ちが、興味深さを催させるのである。ストーリーの面でいえば、破滅型の人物たちがはからずもバッド・ラックと戯れてしまう姿に、最大のフックがあるだろう。収まるべきところに収まろうとする筋書きは、あんがい一本道であるため、起伏に乏しくあるものの、朝倉と相田の出会いにはじまり、両者の再会を予感させながら幕引きしていく、つまりは『MOTEL』へと接続されるラスト・シーンの印象は、じつに決まっている。

 『MOTEL』について→こちら
2010年06月06日
 なにわ友あれ(12) (ヤングマガジンコミックス)

 旧来より不良少年を題材にしたマンガは、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションに近しくあろうとする側面をたしかに持ってはいるのだったが、80年代頃から全国制覇の野望はむしろ作品の説得力を削ぐものとなってしまい、90年代頃には地区予選程度に収まった規模のなかに青春の群像とイコールであるかのようなモラトリアムを描く手法が主流化した。しかして現在もこの傾向を逸していないといえる。

 ここで問題となってくるのは、じっさい、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションとして現代における不良少年のフィクションを見たとき、たいていはさほどおもしろくないと感じられてしまうことだろう。モラトリアムのテーマは、さしあたり置いておく。

 すくなくとも、奇襲や武器の使用がジャンル上の倫理(正々堂々のタイマンがいちばん偉いの理屈)によって規制されているせいで、高い戦略性は求められなくなり、登場人物のパラメーターも結局はケンカのつよさのみに振られているのだったが、その要素を男性的なスケールの大きさに変換し、演出していくさい、ポエムの抽象性にコマを割き、本質を目くらますことばかりに聡くなってしまったのである。当然、それを技術の洗練と見なしても構わないのだけれど、個人的には、ちょっと説得されにくいせこさに目がいってしまうので、弱る。

 さてしかし、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションとして不良少年が生きられるマンガをのぞむとすれば、今日もっともすぐれいているのは、間違いなく、南勝久の『なにわ友あれ』ではないか。とにかく、11巻からこの12巻(そして次巻)へと続く展開には、繰り返し読み、確認したくなるほどの駆け引き、えげつなさも上等の戦略性が組み込まれているのであった。

 かねてよりグッさんは、自分たちスパーキーレーシングの戦術を「桶狭間の戦い」に喩えているけれども、それはつまり、奇襲や武器の使用をまったく厭わない態度を指しているといってよい。もしかしたら、いくつかの表現を過渡に暴力的と非難すべきなのかもしれないが、そもそも軍記物や国盗り合戦に死屍累々は付きものなのであって、むしろポリティカリー・コレクトな誤魔化しを除けていった結果、そのようになっているのだと思われたい。

 不良少年たちを、戦国武将の立場に置き換え、考えてみても、その扱いはなかなかに見事である。友情や連帯、利害の一致、上下の関係、これらをごっちゃにせず、線引き、ディレクションが巧みに機能しているので、登場人物の行動理念に納得のいくものが備わっている。

 だいたい、今やスパーキーレーシングでマーボとともに特攻隊長をつとめるハマダにしても、参謀役を任されているサトシにしても、前シリーズにあたる『ナニワトモアレ』では敵役に回ることもあったが、そこから別段ポリシーを違えたわけではなく、グっさんにスカウトされたことの意味合いを正確に把握しているため、言い換えるならば、自分の能力を生かす場を与えられたことに対して忠実なので、チームの前進に尽力するのだし、これはカワチンなどの『なにわ友あれ』で新規に登場し、オーディションされた人物たちにもいえる。

 プレストやハッシュレーシングとの三つ巴において、個々のリーダーが持っているカリズマ、アウェイやホームであることの地理的条件、そして機動力(自動車)が、重要な条件を果たしているのも、さりげなく、うまい。攻防の、勝敗の、現実的な理由付けとなっているのだ。

 以上は、あらかじめ述べたとおり、軍記物、国盗り合戦のヴァリエーションであることに関しての評価であって、個々人のビルドゥングス・ロマン、モラトリアムのテーマを踏まえるとすれば、べつの視点が得られる、このようなつくりもまた『なにわ友あれ』の魅力を補っている。

 それについては、やはり、主役級の位置に置かれたテツヤの成長、さらには彼の友人であるパンダのパーソナリティにかかっている。いうまでもなく、『なにわ友あれ』のリアリティは、90年代の過去を選び、実在の都市を舞台としていることも含め、本質的にはクルマとオンナの存在によって生じている。男性的な欲望を男性が持ちえている点に描写されているのである。そしてそのパターンにもっとも正直なイメージとしてあらわれているのが、テツヤとパンダになるだろう。『ナニワトモアレ』では、グっさんが負っていたポジションでもある。

 とくに、ここにきて、今までのストーリーを通じ、まさしくコメディ・リリーフをやらされてきた感のあるパンダの、意外な活躍ぶりには、彼の見方を変えるものがある。いやいや、駄目人間なのは相変わらずなのだったが、それが時と場合に応じて、じつに、やる。惨めさと切なさとシンナーだけの野郎ではなかったのかよ。たんに巻き込まれたのであれ、株を上げるとは、なるほど、こういうことだ、を地で行っている。

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2010年06月04日
 1年5組いきものがかり(1) (講談社コミックスなかよし)

 いわゆる学園ものは、家庭とはべつの単位で構成される共同体のテーマを自然と持ちえてしまうのであり、それを濃くしていくか、薄くしていくか、薄くしたかわりに何を前に出していくかによって、作品の内容は左右される、というのは、もちろん私見にすぎないのだけれど、ジャンル的な様式の強度を考えるとき、こうした仮定は必ずしも無意味ではないように思う。たとえば、フクシマハルカの『1年5組いきものがかり』の1巻を読むかぎり、このマンガは学園ものの様式をまったく信じ切ったところに描かれていて、おそらく作者本人はそのことに無自覚であるため、かえって共同体のテーマが、ひじょうに杜撰なかたちをとり、浮き彫りになっていると感じられる。あらましはといえば、とてもシンプルだ。15歳のヒロインが、吸血鬼に好かれ、狼男に好かれ、透明人間に好かれ、つまりはそのような、逆ハーレムとでもすべきサークルを「いきものがかり」と名付け、学校内に置き、恋愛というよりも性交をイメージさせるようなコメディを編んでいる。主人公を求める男性たちが人間ではない、というトピックは、たしかにストーリーを賑やかしながら転がすのに必要不可欠なアイディアだろう。しかしそれはワン・プッシュ程度の動力でしかない。じっさい、彼らが魔物や怪物であることの特殊性は、物語のレベルに深く根差しているのではなくて、展開を用意するのに都合された材料にほかならない。そこで注意されたいのは、登場人物として次第に増えていく魔物や怪物たちがみな、ヒロインを中心に「いきものがかり」という共同体に組み込まれていくこと、だがそれはたいへん安易に学園ものの様式をなぞらえている結果にすぎない、にもかかわらず作品の魅力を完全に担ってしまっていることなのである。ふつう一つのクラスを指して「1年5組」などというのに、このマンガでは、どうしてそれが題名に付せられているのか、ほとんど意味不明瞭になっているのであって、表層のイメージこそが『1年5組いきものがかり』の本質とイコールであるのは、そのあたりからもうかがえる。
2010年06月03日
 こと『トンデモマンガの世界2』に関して、トンデモという形容は、要するに、マイナーな作品を指しているにすぎず、紹介されているものを見るなら、作家そのものがマイナーな作品、メジャーな作家のマイナーな作品、ジャンル自体がマイナーな作品、の大きく三通りに分類されるだろう。

 何はともあれ、川野ゆーへーの『スリラー』が取り上げられているのは、うれしかった。ほんらいはギャグ・マンガ家であったはずの川野が、シリアスなストーリーに挑み、『月刊少年チャンピオン』に連載しながらも、ほとんど未完に近しい状態のまま、終盤が単行本化されなかった作品である。新田五郎が書くテキストのなかで〈本作は超能力と超能力者に作品内だけで通用する新造語を付けた点が、「ジョジョっぽいマンガ」だと言える〉とされているとおり、たしかにそのような雰囲気を持ってはいたし、作中人物の理念が直接的に言動化されているあたりからも、そうしたニュアンスのうかがえたマンガではあったが、しかし一方で〈本作が興味深いのは「木下」という、名前は平凡、デブでブサイク、性格最悪という敵キャラが、てっきり雑魚キャラかと思ったらなかなかやられずにしぶとく出続けるところ〉といわれているように、その、外見と役割が一致しないほどにインパクトのあるヒールと、態度は潔いもののじつは並み程度のポテンシャルしか持たない主人公とが、まるでそれぞれの全存在をかけるかのごとく、死闘を繰り広げていくさまが、タイトルに偽りなしの正しくスリルとなっていて、最高潮に燃えた。個人的には、トンデモである以上に、隠れた秀作と見なしたい。

 さてしかし、この『トンデモマンガの世界2』で、自分の関心領域と密接なため、もっとも興味深く読んだのは、やはり新田五郎が担当しているのだけれども、司敬(現・マンガ原作者の倉科遼)の『学ラン維新伝 竜馬翔る』や、熊野一真(原作)と松元出樹(漫画)の『電光! 武闘派倶楽部』、向上輝の『ガリベン番長』など、対決形式のバトルで描かれた学園ものを扱った箇所だった。とくに『電光! 武闘派倶楽部』について、〈学園もののマンガやドラマでは、「生徒同士がさまざまな理由で戦う」という設定のものが1980年代に多く作られ〉ていて、〈本作『電光! 武闘派倶楽部』もそうした流れの中で描かれた作品である〉ため、〈同時代的にはそれほど斬新なアイディアではない〉とし、さらには『ガリベン番長』の項で、〈「学校の勉強で上位になることこそ至上の価値」という考えや、「文武両道を求め、庶民を支配しようとするエリート層の育成」という悪役像は、やはり近い年に描かれた『電光! 武闘派倶楽部』と酷似してい〉て、〈当時、こうした悪役は多くの作品に登場する一種の典型だった〉のは、〈おそらく、1970年代半ばから1990年代初めまでが大衆社会に疑問が投げかけられた時期だったことや、戦前からの支配層が今でも影響力を持つという陰謀論的な認識が人々の間にあったこと関係しているのだろう〉と見ている点であり、他方で『学ラン維新伝 竜馬翔る』に架空戦記のイメージを指摘していることである。

 いわゆるヤンキー・マンガ(その起こりは80年代に暫定できるだろう)以前の、不良や番長、ガクランをベースにしたマンガ(つまりは70年代から90年代にかけ、多く発表されていたもの)の研究は、膨大な作品数のわりに、ほとんど進んでいないのが現状で、正直なところをいえば、もっと幅広に込み入った考察が欲しかった気もしないではない(まあそれはそれで本書のテーマとは違ってしまうから仕方がない)のだが、歴史的な要約としては、なかなか納得のいく内容になっている。

 ところで、この本の最後に置かれた山本弘の「あとがき」である。例の「非実在青少年」問題にあてられているのだけれど、もしも日本で他国と同様の規制が敷かれたら〈18歳未満のキャラクターのエロチックなシーンが、今のアニメやマンガやゲームの中に、どれほど多くあることか。それらが全滅するのである!〉そして〈マンガやアニメやゲームは日本の誇る文化なのだ。そして、その業界の多くの部分はエロによって支えられているのだ。エロを禁止したら業界全体が衰退する〉のだと、否定派を主張するその論調はいささか単純に走りすぎ、あまりよい文章とは思われない。

 『トンデモマンガの世界』について→こちら
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2010年06月02日
 マンガホニャララ

 絶対にちばあきおの『キャプテン』を好きなブルボン小林が、はたして歴代主人公のなかで誰がいちばんフェイヴァリットなのか、かねてより気になっているのだったが、この『マンガホニャララ』を繰り返し読んでいるうち、そうした尺度、つまりは感情移入的に特定の人物を解釈することは、ブルボンというマンガの読み手にとってさほどプライオリティが高くないのかもしれない、と思うようになった。

 さて。ブルボン小林が『週刊文春』で隔週連載しているコラム、『マンガホニャララ』が一冊にまとまった。過去に何度か引用したときがあるほど、毎回、楽しみにしていたものである。連載時よりも図版が多くなっているのはともかく、あらためて確認するに、さまざまな切り口を用いながら、彼なりの尺度をしっかり、マンガ表現に託された魅力を世に問うているのがわかる。じつは紹介されているなかに、はじめて知った作品はほとんどないのだけれども、佐藤にんとんの『にんしんゲーム天国』だけは、へえ、こういうマンガがあるのか、と思い、興味を持って手に入れた。

 その項で〈僕が本作に感じ入るのも実は、ゲーム云々のことではなくて、言語の面白さについてだ〉といっているが、やはり『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』や『ゲームホニャララ』の書き手でもあるからこそのセレクションだと思うし、しかしじっさいにマンガは〈熱い愛情ゆえに言語的独り相撲に陥るにんしんさんは、ネットという場で語る、ある種の人びとの不自由さの戯画になっている〉ので、おもしろかった。

 たとえば『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』や『ゲームホニャララ』においては、今と昔の時代的な対比上にその作品(ゲーム)ならではの優位性または固有性を置き、感想をつけていくというのが、ブルボンという書き手の得意とするスタイルであって、それは『マンガホニャララ』でも同様に、自然と作品(マンガ)の背景、現代に付随する感性をもすくいとるかのような段取りになっていることが、『にんしんゲーム天国』の紹介からはよく見える。もちろん、ゲームとマンガでは表現の形式が異なっている以上、両者のあいだに微妙なアプローチの違いはあるものの、判断の基準に大きな差はない。

 ここで『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(現在は文庫化されている)に収録の、ゲーム『フロッガー』に関する文章をあたられたい。ブルボンは〈日本という国は漫画文化が発達していたから、デフォルメというテクニックを知っていた〉ので、〈ゲーム業界で日本が世界的に躍進したのは、デフォルメ力を持っていたからである〉とし、〈一方、米国で大ヒットした『フロッガー』の主人公が「蛙」というのは、逆の意味で日本にはないメンタリティがあったのだと思う〉のだが、〈これは個を愛玩する日本のデフォルメ文化にはないゲームのありようだ〉といっている。

 ただし、ブルボンは日本のすぐれたデフォルメ力を無条件に認めているのではなく、おそらくは、だからこそ、別個の視線を有した『フロッガー』の楽しみに気づかされる点を述べる。こうした判断の基準は、マンガ表現の魅力を取り上げた『マンガホニャララ』に持ち込まれたとき、とくに第2章が「「キャラ」と「個性」は違います」とあるとおり、いわゆる「キャラ」という価値観への懐疑として語られる。

 要するに、この国のすぐれたデフォルメ力の集約であるような「キャラ」のみが、マンガ表現の総和とはならないことを、喝破(というほど大げさなノリではないが)していくのである。では「キャラ」以外のいったい何が、というのが、『マンガホニャララ』の本文であり、ブルボン小林らしい分析になるだろう。「キャラ」とは、換言すれば、大勢的な傾向の顕著な表象にほかならない。そしてそこから漏れていくような個所や作品を足がかりにしながら、ほら、マンガはこんなにも楽しい、と、あらたな誘い水となりうる言葉を注ぐのだ。

・その他ブルボン小林に関する文章
 『ぐっとくる題名』について→こちら
 『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』について→こちら
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