ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年05月31日
 叫びと祈り (ミステリ・フロンティア)

 物語とは、実感を指すのか、記憶を指すのか、想像を指すのか。いずれにせよ、それは生と死の狭間に覗き見られる憐憫のようであった。梓崎優の『叫びと祈り』は、斉木という青年を主人公に、世界各地を雑誌記者として取材して回る彼を探偵役とし、さまざまな事件を語り、真相に驚きを加えていく、いわばミステリ形式の連作短篇集である。斉木の職業柄、ほとんどのエピソードは海外を舞台にしていて、たとえば、冒頭に置かれた第五回ミステリーズ!新人賞受賞作の「砂漠を走る船」にもっとも顕著なとおり、この国の価値基準を他の文化や環境に持ち出していったとすれば、必然、ある種のギャップを目の当たりにしなければならないなかに、苛酷な認識とミスリードが仕込んであるのだったが、そうした手法自体が洗練的に思われるのは、おおよそのプロットが、たぶんわかりやく、欠落をベースに組まれているためだろう。時や場所、規模の違いはあれ、斉木の推理は、作中あるいは行間に用意された何かしらの欠落を埋める行為と近しい。もちろん、ほんらい探偵小説ってそういうもの、といわれればそうなのだけれど、注意されたいのは、欠落そのものの重みに物語が生まれているのではなく、欠落を埋めようとする行為に対して物語が宿されている点である。四話目にあたる「叫び」の変調を経、最終話の「祈り」に至ると、独立したエピソードであったはずの各個が、一つの主題を為すこととなる。そしてそれは、斉木当人の巨大な欠落として、あらわれている。とある理由で、幽閉状態を強いられた彼は言う「でも、もういいんだ。だってここは雪に閉ざされた城なんだ。物語は物語に留まって、終わってしまうんだ。全て、消えてしまうんだ」。詳細は省くが、「物語に留ま」るというのは、この場合、欠落そのものの物語化を意味しうる。しかし、小説が、主人公が、やがて選び取っていくのは、あくまでも欠落を埋めるのに必要とされた物語にほかならない。そのような物語は、できるだけやさしくあたたかであって欲しい。こうした想いが、おそらくは「祈り」という言葉に託されている。
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2010年05月29日
 覇―LORD― 19 雑草 (ビッグコミックス)

 つねづね述べてきたとおり、武論尊(作)と池上遼一(画)のコンビ版「三国志演義」にあたる『覇 -LORD-』では、古代日本から渡ってきた二人の倭人、劉備(燎宇)と常元とが、英雄(聖)と下衆(邪)の対比において、両の極を為しているように見立てられるのだけれども、ここ最近、劉備にとってほんらいのライヴァルである曹操よりも常元のほうが存在感を大きくしているのは、一時的にであれ、私的なロマンをどう描くかに物語の方向性がシフトしているためだろう。たとえばこの19巻などは、大局を見据え、国単位の改革を野望する劉備や曹操よりもむしろ、私情や私怨をモチベーションに、死屍累々を駆け抜ける常元や紅蓮、呂布の姿に、スポットがあてられている。常元の暗躍を指して、〈…“国”や“種”ではない………どの“地”にも“雑草”は生える……手を怠れば 雑草は作物を駆逐する……雑草(やつら)には“自制”も“律”も無い!………葉茎を刎ねられても“根”を伸ばす!〉という劉備の言葉には、それが秩序の壊れた乱世で発せられているかぎり、たしかにある種の道理を見出せるのだったが、しかし一般化してみたとき、やや厳しく、冷たいものを感じる。この厳しさや冷たさによって屈折した立場を負わされているのが、もしかしたら常元や紅蓮なのではないか、と思える。それはつまり、同情の余地だといってよい。たしかに常元も紅蓮も、倫理の観点からすれば、許されない点が多い。とくに常元のクソ野郎っぷりときたら。しかし理由や原因がまったくないわけではないことの奥に、作品世界の背景があらわれている。反面、かつては〈己の“欲”のままに戦い、飲み食らい犯し――力尽きれば、その場で野垂れ死にすればよいと思っていた……〉はずの呂布にもたらされた〈だが、戻る場所を………この呂布(オレ)が、帰る場所を望んでいる……〉という迷いが教えているのは、すべてがあまりにも私的であるがゆえの孤独だといえる。寄る辺を持たない人間は、たとえそのことに耐えられるだけの強さに抱かれていたとしても、ひっきょう孤独である点に変わりはない。どのような超人であれ、そうした孤独からは決して逃れられないので、彼は父として他人と繋がりうる可能性を、じつの息子である関平との関係のなかに見出すのである。ところで、いくつかの言動は、呂布と常元がいわば、あの偉大なる悪漢、董卓の(孤独に生き、孤独に死んだ姿の)ヴァリエーションにほかならないことを、示唆している。じじつ、彼らは生前の董卓に庇護されていたのだから不自然さはあるまい。

 17巻について→こちら
 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
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 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
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・その他武論尊に関する文章
 『DOG LAW』(画・上條淳士)について→こちら
2010年05月28日
 おバカちゃん、恋語りき 5 (マーガレットコミックス)

 馬鹿。ばか。バカ。ラヴ・ストーリーの類がときおり滑稽に見えてしまうのは、恋のせいで人はバカになってしまうことがあるんだぞ、という事象の直接的な表現たりえるからであって、では最初からのバカが恋をしたらどれぐらいのタガがはずれるのか、ああ、まったく手に負えねえや。佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』も5巻目に入ったが、相変わらずのバカさ加減に惚れ惚れすらあ。その、とてもコミカルでキュートなさまが大好きであるよ。

 園田音色と栄山トキオの関係は、まあ順調であった。いよいよキスをするような段階にまでいった二人だったが、しかし少女マンガの常として、彼氏の側にすれば昔の女が登場してき、また一波乱巻き起こる。というのが、ここでのくだりになるのだけれど、いやいやもちろん、それによって作品の軸がぶれたりすることはないから、安心してよい。

 水島華弥、かねてよりトキオや相澤深の過去に関わる人物とアナウンスされていた彼女の登場は、結局のところ、もう一人バカが増えやがった、と思わせる。今どき華族の令嬢という大げさな設定は、このマンガにとってさしたるサプライズにはなるまい。要は、浮き世離れした生活環境で育ったため、やはり、頭のネジが一つ二つゆるんでいる、屈託のないエキセントリックさんであることが、音色のラヴ・ストーリーにおいて、最大の障壁となってくるのである。

 権力をフル活用し、無理やりトキオと結ばれようとする華弥を、はたして音色は阻止することができるのか。まさか協力を申し出た深とともに水島家の大邸宅に乗り込み、警備と戦い、カバと戦い、凄腕の執事と戦い、トキオの救出を目指す。話の筋はめちゃくちゃであるし、少年マンガのごとき展開も見せるが、そのハイなテンションですべてをオーライにしてしまうところが、何より『おバカちゃん、恋語りき』の魅力だろうね。音色たちの危機に、おお、ここでおまえらが助けにくるのかよ、という今巻の引きには、ごめん、ちょっと燃えた。

 一方で、華弥やトキオとの因縁を通じ、深のデリケートな心理を手探り、描写しているあたりに、このマンガの、じつに少女マンガらしい一面が垣間見られる。32話目を丸々使って展開される深の中学生時代は、過去回想の導入は内面の代弁になりがち、というフィクションの利点と弱点において、利点だけがちょうどよく生きるように、前後の繋がりも含め、工夫されている。もはや噛ませ犬に近しい状態の深が、現代的なロマンスならではのエモーションを負うことで、物語上、必要不可欠なパートを為しているのである。

 だからこそ、音色とトキオのあいだに割って入れないかもしれない可能性を前に、他人からはもう〈気づいてるでしょ? あの二人に特別な空気ができはじめてること 障害があればあるほど恋は盛り上がる〉ので〈一人であがいてバカみた〜〜い〉と言われてしまいながらも、自分の気持ちを諦めない深の〈あがくよ 本気だから〉という言葉には、ぐっとくるものがある。

 振り返るのであれば、当初の深は、何事にも動じず、合理的であるほどにクールなタイプであった。それが恋をすることで、すっかりと打算を忘れてしまう。つまりは、バカになっている。その、音色とはべつの意味で、バカに準じていることが、彼に主役級の存在感を与えているのだと思う。

 ほんらいは非情なはずの深にしてみたら、音色からトキオが引き離されるのは、願ったり叶ったりだったろう。しかし損得をかえりみず、音色のために〈君のために トキオを取り返してあげる〉と決する姿からは、『おバカちゃん、恋語りき』の全体像にかかっているテーマのようなものがうかがえる。誰かのため。作中人物のおおよそを統べている行動理念は、それにほかならない。あの美羅川生徒会長にしたって、そうだよ。たまたま、傍迷惑にしかならないことが、ギャグをもたらしているのである。いいや、たまたま、じゃねえな。

 いずれにせよ、現在のエピソードで、華弥がある種の悪役となっているのは、上述したテーマとは反対の立場、すなわち、あくまでも自分のためにトキオの自由を奪っているからであるのは、あきらかだ。

 こうして作品の構造はつくられているのだったが、トキオを救うべく、下着姿をさらすのも辞さない音色の、想いのつよさを〈……はずかしいにきまってんじゃん…でも今は…ぱんつよりトキオでしょーが!!〉といい〈あたしの大切 うばいかえす〉と示していく言葉には、誰かのためが自分のためとイコールであって欲しい、自分のためが誰かのためとイコールであって欲しい、相思相愛の本質めいたところが託されているので、たんなるエゴにとどまらない印象を持つ。

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 『otona・pink』2巻について→こちら
2010年05月27日
 コイバナ!恋せよ花火 8 (マーガレットコミックス)

 いやはや、校長先生の扱いがすげえな。とにかくもう、ななじ眺『コイバナ! 恋せよ乙女』の8巻に関しては、それに尽きる。というのは、まあ冗談半分本気半分であるが、はからずも会食状態になった校長先生と宇野誓のツー・ショットは、両者のコミュニケーションも含め、なんかこう、めちゃくちゃであって、なんだこれ、と思わず口に出してしまうぐらいの迷シーンであろう。

 しかしながら、もちろん本題はヒロインである花火と宇野誓(花火がそう呼んでいるせいか、どうしてもフル・ネームで書きたくなる)の、やきもきとしてくるラヴ・ロマンスなのだったが、以前にもいったとおり、このマンガは、ワキを固める人物たちの群像がまた程よくて、マサトとしのっちょカップルの危機や、佐々に対する厚美の片想いなど、関係と経験とを蓄える場としての高校生活にも、少しずつ変化が見られていく。ああ、みんな幸せになれるのかい。

 懸命な厚美の努力を目にし、宇野誓が〈ふーん どっこもフクザツだーね〉と呟くのを受けた花火の〈そりゃカンタンがいいに決まってるし カンタンを望む人のが絶対多い気がするのに カンタンじゃないことのが多いね〉という言葉がひじょうに印象的なのは、それが作品全体のテーマをまるで代弁しているかのように感じられるからだと思う。〈でも だからこそがんばろうと思うし がんばってって思うし〉その対象は違えど、誰もが他の誰かに惹かれ、好かれたいと願い、働きかけ、傷つき、にもかかわらず、自分の気持ちを諦められない。だがそして報われる想いもあった。

 紆余曲折を経、ようやく花火は宇野誓と相思相愛に近しいところにまで行けた。これは正しく本筋における大きな前進であり展開にほかならない。けれども、そこで最初期の障害が改めて確認されることとなる。つまりは、若い男性を苦手とする花火の性質が、当人の思慕とは裏腹に、宇野誓からのアプローチを拒絶してしまうのである。

 以前のストーリーにあっては、宇野誓のバリアをどう花火が解いていくかが、要約のうえでの重要なトピックであったといえる。今後のストーリーでは、もしかするとそうした立場が逆転することになるのかもしれない。どちらか片方がもう片方に歩み寄るばかりではなく、双方が歩み寄ることで一つの解決が得られるのであれば、当然、それがいいに決まっている。

 7巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他ななじ眺に関する文章
 『パフェちっく!』
  22巻について→こちら
  19巻について→こちら
  14巻について→こちら
 私日和 2 (マーガレットコミックス)

 ときどき、運命というものを思う。時間の進みは常に不可逆であり、現在を過去として積み重ねていった先の、未来を現在として上書きしていった結果が、いく通りも用意されていたうちの一つなのか、あるいはそれしか用意されていなかったのか、ほんとうの答えは誰も知れない。知れないことが、幸福なのか、不幸なのかすら、わかれない。場合によっては、運命のやさしさと残酷さもそこに生じる。ああ〈すべてはなるようになるし なるようにしかならないし 希望? 絶望? 願い 祈り〉。

 だめだ。泣きそうになるので弱るよ。羽柴麻央の『私日和』は、読み切り形式のシリーズ・マンガであるが、2巻に収められた「ありあけの月とダンス」そして「ブルーブルーバード」の二篇を前に、じっと目頭が熱くなる。

 あらかじめいっておくと、「ありあけの月とダンス」と「ブルーブルーバード」は、それぞれ主人公の違う独立したストーリーとなっているものの、設定上、前者は後者の未来を描き、後者は前者の過去を描く、深い繋がりを持っている。当然、表紙から順番にページをめくっていく読み手は、「ありあけの月とダンス」に目を通したのち、「ブルーブルーバード」を開くこととなるのだけれども、「ブルーブルーバード」の成り行きによって、まず間違いなく、もう一度「ありあけの月とダンス」の内容に触れたくなるだろう。「ブルーブルーバード」という題は、おそらく『青い鳥』の童話にちなんでいるが、はたして一人の少女が青い鳥を得られたかどうか、「ありあけの月とダンス」のなかに確認したくなるだろう。かつての少女が〈…うん そうね 先のことなんてわからないよね すべてはなるようになるし なるようにしかならないし〉と言うのを聞くだろう。時間に与えられた静かな喜びと悲しみを見つけるだろう。それを受け入れるかのような作中人物たちの表情に、もしかすれば、運命というものを思うだろう。

 作者のセンシティヴな筆致が、感覚のみに頼ってはいないことを、小道具の描写は教えてくれる。細部に向けられた注意が、作品の感動を、やわらかなイメージのまま、具体的にし、つよめているのである。

・その他羽柴麻央に関する文章
 『イロドリミドリ』について→こちら
2010年05月26日
 ベリー ダイナマイト 3 (マーガレットコミックス)

 これは中原アヤのキャリアのなかでもかなり残念な部類に入るマンガなのではないかと思う。麻衣とくるみの二人は、STAR BERRYというティーンのアイドル・ユニットを組んでいるが、まだ売れていない。しかし業界の力関係に負けず、がんばり、それぞれの個性を発揮しながら、じょじょにファンを獲得していくのだった。このようなストーリーをまったくのクリシェ、おそらくはあえてだろう、安手のファンタジーとして描いていたのが『ベリーダイナマイト』なのだけれども、全3巻で完結した内容のなかに、冴えたところはほとんど見受けられなかった、といってよい。基本的には、一つのエピソードに対してハートフルなオチの用意されたコメディになっている。それはもちろん作者の持ち味にそったものではあったろう。だが、つくられたエピソードそのものに、あ、っと引き寄せられるほどの魅力が、まったくなかったのである。まず何を目指した作品だったのか、ヒロインたちの友情だったのか、芸能界での困難にアレゴリー化されたガッツだったのか、アイドルという職業の持っている有意だったのか、たんに今ふうのアイドル・ブームに刺激を受けただけなのか、そしてそれに便乗したかっただけなのか、すべてというにはあまりにも散らかりすぎ、よくわからなかった。言い換えるなら、焦点の定まっていない印象がつよかった。結果、この最終3巻ではとても精度の低いラヴ・ロマンスが繰り広げられることになってしまう。いや、アイドルとファンとの関係性が恋愛に喩えられているのだと解釈できるかもしれないが、そこでのコミュニケーションには、わざわざ、安直なドラマしか与えられていないため、ひじょうに説得力を欠く。

・その他中原アヤに関する文章
 『ナナコロビン』
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ときめき学園・王子組』について→こちら
 『ラブ★コン』
  16巻について→こちら
  11巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
2010年05月25日
 Id Will Overcome

 大して頭の良い人間ではないから、ちょっとばかし難しく聴こえてしまう音楽は勘弁であって、たとえばまあ、ギターを小刻みに変拍子を重ねるよりも、余計なものを削いでいくほどにシンプルなかっこうのなか、ヘヴィなリフをただ響かせていてくれたほうが、何はともあれ、燃えるよね。かっとなる。と、思うときがあるのだったが、THE ABOMINABLE IRON SLOTHのサウンドはどうかといえば、それだ。かつてはヴォーカル以外を、WILL HAVENのメンバーで固めていたグループである。現在はラインナップを違えてはいるものの、ずっしりとした低音のグルーヴに最大の魅力を宿らしている点に変わりはない。06年のファースト・アルバム『THE ABOMINABLE IRON SLOTH』と同様、セカンド・アルバム『THE ID WILL OVERCOME』にもまた、スラッジやドゥームの文脈を参照したかのようなアプローチが備わっているのだが、しかしこのバンドの場合、90年代におけるグランジ以降のモダンなハードコアやガレージのロックを思わせる、そうしたニュアンスの多分に含まれていることが一つの勘所となっており、ともすれば直情型、アグレッシヴで激しい印象の前面に出ている。テンポをスローに置いてはいるのだけれど、楽曲のほとんどは、3分にも満たないコンパクトさ、ワン・アイディアにダイナミックな仕上がりを施す。雄叫びのぎゃんぎゃんうるさいヴォーカル、ノイズ被りのギターはストレートなリフを力任せに畳み掛け、反復するリズムがぐるぐるとぐろ巻く。持ち味をもっともはっきりとさせているのは、4曲目の「TWO BLACK HELLCOPTERS」だろう。スピードに勢いを噛ませた8曲目の「BIG IRON DOOR」もなかなか。いかんせん、展開のヴァリエーションが豊富ではないため、全体を通してみると単調な面も少なくないが、とりあえずは燃えるし、かっとなる。それが美点だと目立たせることに成功している。

 バンドのMySpace→こちら
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2010年05月23日
 Diamond Eyes

 95年のデビューよりこちら、グランジやアメリカン・オルタナティヴ、モダンなヘヴィネス以降のミクスチャー・ロックを起点としたバンド群において、DEFTONESが傑出したグループであり続けているのは疑いようがないのだったが、00年のサード・アルバム『WHITE PONY』によって作り上げてしまった巨大なピークを、他のアーティストのみならず、彼ら自身が越えられずにいるのもまた事実であった。すくなくとも03年の『DEFTONES』と06年の『SATURDAY NIGHT WRIST』に関しては、方向性の豊かさを高く買うことができたものの、『WHITE PONY』の印象を上書きするまでのインパクトは得られていなかったと思う。さてはたして、通算6枚目となるフル・アルバム『DIAMOND EYES』はどうか。まさしくDEFTONESの新作と認めるのに十分な質の内容である。さすがではある。しかしながらディスコグラフィに並べられたさい、頭を一つ抜けていくかといえば、そうはいかない。まあ、すぐれたレベルの作品が提出されている以上、このへんはもはや、トップ・ブランドならではの困難と見なすべきなのだろう、であって、凡百のクラスがいかにふんばっても届けない域に在ることだけは間違いない。ひとまず、今作に関しての大きな特徴を述べるなら、オリジナル・メンバーのチ・チェンが意識不明の重体から回復せず、代役を立てているため当然ではあるのだが、ベース・ラインの組み立てが以前までとは決定的に異なっていることだ。元QUICKSANDのセルジオ・ベガのそれは、かつてよりもメロディアスなグルーヴを強調的にしていて、もしも新機軸と呼ぶに相応しい点があるとしたら、あんがいそこになるのかもしれない。このことはたとえば、2曲目の「ROYAL」や3曲目の「CMND / CNTRL」など、アグレッシヴなアプローチのなかに美しさを灯したナンバーの、リズム・セクションにおいてとくにあきらかであるし、タイトル・トラックにあたる1曲目の「DIAMOND EYES」や6曲目の「ROCKET SKATES」など、重量感のたっぷりな扇情性がじつに、らしい、と感じられるナンバーにも、やわらかなセンセーションを与えている。また、5曲目の「BEAUTY SCHOOL」や8曲目の「SEXTAPE」のような、テンションの高まりを極力抑え、スタティックに展開する楽曲が、過去になく際立っているのも、『DIAMOND EYES』の魅力となっており、おそらく、ライヴの場面では、ヴォーカルのチノ・モレノがギターを携えて歌うモードなのだと推測されるその、美しくも儚げな叙情に、浸る。

・その他DEFTONESに関する文章
 『SATURDAY NIGHT WRIST』について→こちら
 『B-SIDES & RARITIES』について→こちら

 06年8月10日の公演について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2010年05月22日
 なるたけフェアになるよう、まず最初にいっておきたいのは、正直な話、『荒くれKNIGHT 黒い残響完結編』の前4巻までをさほどおもしろいとは思わずに読んでいた。だがしかし、この5巻は、いいぞ。ぐっとくる場面が目白押しである。何よりも輪蛇(LINDA)がいい。そしてCOBRA(虎武羅)もいい。

 初代輪蛇の赤蛇はこう言った。〈木原よ…………今後自分に迷った時は仲間を見ろ 人は仲間によって自分の姿を知らされるんだ 仲間がクズならおまえもクズだ(略)卑怯な野郎は卑怯な夢しか見ねえ 卑怯者の国の王様の墓は卑怯者によって暴かれて盗まれ……消えるんだぞ〉と。それを聞く二代目輪蛇の木原は次のように応えたろう。〈赤蛇……不思議だぜ あんたのいう事はどうにもしみったれてるがよ なんだかよ 白髪になってもずっと覚えてる気がするよ〉。

 以上は、たんなるセリフの響きにとどまらない。重要なのは、このポエジーとでもいうべき言葉のあり方が、マンガのなかで、たしかにストーリーと結びつき、登場人物たちのさ迷い、傷を押し、信念を得ていく姿の正しく代弁になっている点なのだ。

 おそらく吉田聡という作家の良さは、「個」よりもむしろ「群」を描く手つきにある。だいたい『湘南爆走族』の長所もそこにあったのだし、無印の『荒くれKNIGHT』や『荒くれKNIGHT 高校爆走編』にしたところでそれは同様であった。たぶん『荒くれKNIGHT』の前シリーズまでで、もっとも「個」や「我」を体現していたのは、あのすばらしきクズ人間のヒデオ、野口英男なのだが、彼が本来ならまったく評価のできない性格をしているにもかかわらず最高潮に魅力的でありえたのは、やはり善波七五十を頂点とする「群」との関わりにおいて、その存在感がアピールされていたからにほかならない。

 多くの後続に影響を与えながらも、吉田がかつてほどには巨大な作家に見られなくなってしまったのは、もしかすれば時代的な背景として「群」ではなく「個」が表現のベースとなっているような作品の売れる傾向がつよまったせいなのかもしれない。もちろん、それに合わせたマンガを吉田も発表してこなかったわけではないのだけれど、持ち味の十分に生かされる機会は減っていった。

 いずれにせよ、「群」であり、あくまでも「群」を中心に「個」を配置していくさい、作者の本領に十分な発揮の見られることを、『黒い残響完結編』の5巻を通じ、確認されたい。いうまでもなく、「群」とはチームの枠組みを含意する。

 物語は、がらがら蛇残党との対決を経、いよいよ一つにまとまった初代虎武羅の様子を追いはじめるのだが、その困難は、すでにチームとして確立されている二代目輪蛇との対照において、明確化される。赤蛇の言葉を受け、輪蛇を率いた木原が決意をあらたにする一方、木原の誘いを蹴り、COBRAを始動させた大鳥ではあるけれど、彼のカリズマのもと有能なメンバーが集まりだしてもまだ、チームは「群」としての機能を十分に果たしていない。輪蛇とタメを張れるほどの器にはなっていない。そこをもう一つのチーム、百目小僧が狙ってくるのである。

 赤蛇の意志を木原が継いだように、大鳥はネギ先輩(根岸)の意志を継いだ。しかしそれが、輪蛇とは違い、COBRAそのものとなるにはもっと多くの時間が必要とされる。がらがら蛇残党の美濃原は、大鳥を認めて言う。はたしてCOBRAは〈輪蛇のようになれるか……?〉。

 もちろん、熱心なファンは周知のとおり、COBRAと輪蛇のライヴァル関係がある種の均衡をつくり出すのは、もうしばらく先のことだ(『黒い残響完結編』は本編よりも遡った時代を舞台にしている)。そう、先に引いたセリフのあと、美濃原は〈リーダーの下 まるで一匹の蛇のように…COBRAが 常に新しい風を探して動けるようになるまで もう一世代はかかる――〉と続けているのだったが、これはシリーズの全体像を考えるうえで、予言の効果に近しい。

 さしあたりまとめるのであれば、『黒い残響完結編』の1巻から4巻までは、大鳥という「個」とさまざまな「個」の出会いが、やがてCOBRAという「群」の誕生へと連なっていく時間を描いていた。しかして5巻に入ってより、COBRAという「群」の積み重ねていく時間の内側に、大鳥という「個」やさまざまな「個」の抱えた苦悩を描いているのであって、その、構造的な違いが必然、作品自体の見え方をも変化させているのだし、作者の資質がどちらに向いているのかは、あらかじめ述べておいた。

 それにしても、背水の陣あるいは満身創痍とでも呼べる状態で、輪蛇や百目小僧ら強豪と渡り合おうとする初代COBRAの、無謀といおうか勇敢といおうか、ひたすら自分たちのガッツだけを頼みとした姿、奮闘には、ぐっとくるものがあるだろう。

 損得の勘定でいば、絶対に得はしない。にもかかわらず、退くことはできない。すべてを賭しても守りたいものがあるのだった。それはつまり、ポリシーと称して差し支えがないもの、メンバーにとっては大鳥の、大鳥にとってはネギ先輩の、〈他人が勝手につけた“値段”じゃなくてよ……自分らの“価値”を探してみろよ トサカをあげて歩けよ〉という言葉の。

 3巻について→こちら
 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

 『荒くれKNIGHT 高校爆走編』
  11巻について→こちら
  最終回について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら

 『荒くれKNIGHTキャラクターブック THE BIBLE OF KNIGHTS―荒くれたちの聖典―』について→こちら

・その他吉田聡に関する文章
 『ジナス』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら  
  1巻について→こちら
 
 『湘南グラフィティ』について→こちら
2010年05月21日
 花宵道中 2 (フラワーコミックスアルファスペシャル)

 おおむね、歴史上の遊郭を題材にしたフィクションが描き出しているのは、決して覆せない運命を生きること、なのではないかと思うのだったが、この宮木あや子の同名小説を斉木久美子がコミカライズした『花宵道中』も例に漏れない。とどのつまり、絶対的な制度を否応なしに受け入れなければならない女性の姿を主体化し、幸と不幸にわかれてしまう実感を、しかし後者のなかに見られるほころびでしか前者はありえない、と、いやだからこそ小さいはずのものにすべての希望を任せるよりほかないのだ、と、こういう認識の上に置きつつ、表現の対象にしているのである。オムニバスに近しいストーリーはその2巻で、二人の女郎の、どれだけ華やかに映ろうとも恵まれているとは言い難い経歴を遡っていく。まだ客をとれないほどに幼い茜は、茶屋で見かけた若い船頭に想いを寄せるのだったが、はたしてそれは自分の価値が何によって定められているのかを思い知らされる恋となる。他方、茜と同じ吉原の山田屋の霧里は、かつて島原にいた頃、あまりの人気を疎まれ、同業からの評判を悪くしてしまうのだけれど、唯一の肉親である弟の存在をよすがにすることで、毅然とした態度を守り続けるのであった。前巻の朝霧もそうだし、霧里にしても茜にしても、立場や境遇が違う。生まれも資質も違う。適正も年齢も違う。だが、女郎であるという点で一致している。女郎である以前に、ただの女であるという点で一致している。女である以前に、ただの人間であるという点で一致している。そして、ただの人間がどう足掻いても逆転することのない運命を引き受けなければならない、という点で一致している。これの悲哀にも見えることが作品の本質、ドラマトゥルギーの形成にかかってくるエモーションであり、現代的な共感の幅だといえる。もちろん、そうした根幹は原作の段階によっている部分に違いないものの、斉木は構図やタッチに工夫を凝らしながら、いくつものシーンに印象を織り上げている。

 1巻について→こちら
 
・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年05月19日
 A−BOUT!(2) (少年マガジンコミックス)

 いうまでもなく、不良少年を題材としたフィクションの闘争においては、階級(学年ヒエラルキー)とテリトリー(地区予選的枠組み)の二つが最大の指標となる。もしかするとこれは、等しく学園を舞台にしている以上、スポーツ・マンガにも通じる点であるのだったが、しかし00年代以降、ヤンキー・マンガのジャンルでは、高橋ヒロシの『WORST』が象徴的なとおり、前者は組織化された宗教(もしくは字義ままのギャングやヤクザ)を扱うかのごとく小さくまとまっていき、後者を熾烈に肥大、それがちょうど国盗り合戦や軍記物のスタイルを彷彿とさせる傾向がつよくなっていった。どうしてなのか、の考察には余程の時間をかけなければならないので、さしあたり置いておきたいのだけれども、2010年代に入り、またすこし様子が違ってきているぞ、と感じられるのは、たとえばこの、市川マサの『A-BOUT!』のように、階級(学年ヒエラルキー)を燃料にアウトサイダーの闘争を描く作品があらわれはじめているためである(おそらくは細川雅巳の『シュガーレス』も同様に見ることが可能であって、現時点では平川哲弘の『クローバー』や吉沢潤一の『足利アナーキー』との差異もそこに設けられるだろう)。不良少年ばかりの集まった私立光嶺高校、転校生の朝桐真之輔は、自分が新顔であることを気にしない。まだ一年の立場であることもまったく顧みず、上級生にケンカを売り、はたまたでかい態度をとっているせいで、同級生にケンカを売られ、騒動、騒動、騒動を繰り返すうち、校内で注目の的になっていく。『A-BOUT!』について、現在2巻までの概容を述べるとすれば、こうなる。主人公、朝桐の個性はたしかに、フル出力のわがままっぷり、まるでギャグでしかないほどの傲慢な態度、ずばり頭の悪い様子にあるわけだが、それが物語にとって重要なのは、光嶺高校という制度のなかで徹底されていた階級(学年ヒエラルキー)に、ノーを突きつける、かのような役割を担っているからにほかならない。そしてそれに対する反発として、同調として、80人の軍団を率いる砂原、狂犬としておそれられる柾木、意外な実力者でメガネの瀬下など、朝桐と同じ一年生である彼らの姿が描かれ、直線状のストーリーを起伏のあるものにしているのだし、作中人物たちの連なりが、まず先にイデオロギーありきではなく、必ずしもコミュニティの問題と一致していないところもまた、本作の特徴だといえる。

 1巻について→こちら
2010年05月18日
 アライブ 最終進化的少年(21) <完> (月刊マガジンコミックス)

 とうとう二人の少年の愛と憎に幕がおりる。この21巻で完結を迎えた『アライブ 最終進化的少年』(原作・河島正、作画・あだちとか)だが、いやたしかに作品は、設定を凝らしながら、多数の人間を巻き込み、やたらスケールのでかいお話を繰り広げてはいたけれども、大局的に見れば見るほど、主人公の叶太輔と親友である広瀬雄一の葛藤に核心が委ねられなければならないかっこうをしていたと思うし、じっさい彼らの直接的な闘争をクライマックスに、すべての決着がつけられている。

 もちろん、落合恵をあいだに挟んでの三角関係をベースに概容を掴むことも可能ではあるのだったが、基本的に彼女の存在はトランスミッションの役割に近く、本質はやはり、『デビルマン』の不動明と飛鳥了や『AKIRA』の金田と鉄雄に象徴されるような、この国のマンガ史において指標となった図式の一つ、すなわち、身近な他人への憧憬を通じることで、欠損を自覚してしまった者が、その欠損ゆえに他人を欲望しようとするとき、彼によって欲望された者はそれをいかに引き受けるか、の00年代的なヴァリエーションにほかならず、さながら当然というべきか、双方の緊張は、半径を一気に広め、世界規模のスペクタクルとして描き出される。結果、自殺ウィルスを生き延び、アクロの心臓を脅威と知った人びとが、国家レベルの権力と敵対、各々が自分で決定した使命を果たすこととなるのである。

 ここで重要なのは、いくつもの類例に比べ、欠損を自覚せざるをえなかった者、つまりは『アライブ』の場合、広瀬の動向にあまり焦点が合わされていないことだろう。彼の苦悩と混乱は意外なほどワキに除けられ、かわりに大輔のアクティヴかつポジティヴな活躍がストーリーに不可欠な動力をなしているのであって、言い換えるのであれば、広瀬を主人公化しては読めない構造を作品が持っている(たとえば『ベルセルク』のグリフィスとは違う)。たしかに劇中で、能力者と呼ばれ、特殊性を備えた人物たち皆に、あらかじめ何かしらの欠損が埋め込まれているのを見、ほんらい広瀬に集中させられるべき機能があえて分担させられている、と解釈することが可能ではあるものの、そのさい押さえておきたいのは、大輔との出会いを経て、彼らから引き出された好意的な反応が、あくまでも相関性のドラマをつくりあげていることなのだし、じつは家族のテーマやラブコメのモードもそこに付随しているのである。だが当の広瀬に関しては、最後の最後まで、そうしたリクリエーションから疎外されている。

 大輔の、いわばヒーローの建て前とイコールであるようなモチーフが物語の前面にきていることを、少年マンガ的なロマンに要請された結果だというふうに判断しても構わないのだったが、他方でそれを根拠にしながら、類例よりも時代がくだっているがゆえの特異性として述べられる。

 誤解をおそれずにいえば、『アライブ』に提示されている社会像はたいへんシンプルなものであり、破滅のイメージにはさほどの重量と絶望を感じられない。ショッキングな描写はあるにはある。いや少なくはない。にもかかわらず、圧倒されはしない。こうした受け取り方はむろん、読み手であるこちらの資質にかかっているのかもしれないし、ソフティスケイトされた絵柄のせいなのかもしれない。いずれにせよ、終末の風景がステレオタイプであるほどにフラットな状態であらわれているのは間違いなく、そのため十分なインパクトを損なってはいるのだったが、しかし生や死に対するアパシーがまったくありふれた日常を程よく抽出している。これをすでにある足場とし、そこからエモーションの回復されていく様子を紡ぎ出そうとするのであれば、広瀬の自閉性はむしろ追認にしかならない以上、大輔の積極性に作品の企図が担われなければならないのは、ほとんど必然であった。

 20巻について→こちら
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2010年05月17日
 勝利の悪魔 3 (りぼんマスコットコミックス)

 槙ようこのファンのつもりではあったが、正直なところ、この『勝利の悪魔』には最後まではまれず、やや残念な気持ちを抱いたのはつまり、貧乏なヒロイン、女装男子など、設定のおおよそが、いささかトレンド的というか、現代のサブ・カルチャーにおけるマーケティングを研究し、わざわざ用意されたふうであって、しかしそれが作者の持ち味をよくは引き出していない、と受け取れたせいである。おそらく全3巻の内容に試みられているのは、そういう今日に流行のアイディアをある種の引っかかりとする一方で、きわめてスタンダードな様式の、たとえば男性にも読めるだとか大人にも読めるだとかの枕や飾りを必要としないぐらいの、じつに少女マンガらしい少女マンガの学園コメディを描き出すこと、だったんだろうと思う。もしもそうだとすれば、野心は野心として高く買えるのだけれども、ガジェットをふんだんに盛ったわり、個々のエピソードは素朴すぎ、あまりにも表層的なアトラクションに終始した感は否めない。もちろん肝要なのは、読み手に想定された若い人びと(『りぼん』の読者層)に対し、どれだけアクティヴな表現たりえているか、訴求力を持ちえているか、ではあるのだったが、たぶん作者の実績においてこれがマスターピースに選ばれることはない。

・その他槙ようこに関する文章
 『山本善次朗と申します』
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 『14R』について→こちら
 『たらんたランタ』
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  1巻について→こちら
 『STAR BLACKS』
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  1巻について→こちら
 『愛してるぜベイベ★★』
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2010年05月15日
 17[じゅうなな](5) <完> (講談社コミックスフレンド)

 ずるいよ。ここにきてこういう本領を発揮したかのようなドラマを描き出すんだから、しんしんと泣く。桜井まちこの『17[じゅうなな]』最終巻であるが、詩歌と恵のカップルに訪れる結末は、同作者の傑作(といって差し支えがないよね)短篇「冬の塵」の、あのすばらしくすぐれた叙情を思い起こさせる。誓い〈まけない さみしさに 自分に〉そして雪の降る。夜に染められた空を白い塵が舞う。ああ、この光景だけでも胸に軋んでくるものがある。5巻のストーリーを要約すれば、おそらくは他愛ない。ようやく通じ合えた二人が高校卒業を機に離ればなれになるやもしれない、の、皆様よくご存知のくだりである。しかしそれがどうしてこんなにも心を動かすのか。理由は大きく二つほど挙げられる。一つには、桜井ならではの端整なカットが作中人物の内面を見事に代弁しているからであって、目や口の開き、表情はもちろん、遠めの佇まいから滲んでくるエモーションを画の力というのであれば、それにはっとさせられてしまうのだし、そしてもう一つは、ストーリーのレベルになるのだが、前巻までの展開に強烈なひっくり返しが加えられており、そこで生じたギャップとでもすべきなかに、ある種のリアリティ、あまりにも厳しい現実の認識が捕捉されているため、つらくさみしい想いの実感がひじょうに高まっている。ふつう、こういうピュアラブルなロマンスにおいて、イノセントなヒロインはその無邪気さゆえに他人の気持ちを溶かす、何よりも一途であることが、純粋であることが、周囲にも認められ、幸福となる。じつは『17』もまた、4巻の時点での内容をいうなら、そのようなロジックで進まされているマンガであった。詩歌の屈託のなさが、恵の過去、秘密、暗がりを晴らし、認められていくところに、作品の軸足が置かれていたのである。だが5巻に入って、つまりはクライマックスへと至り、事態は反転する。いつしか将来を頭に入れていた恵に比べ、詩歌には恋愛の価値基準しか備わっておらず、それは必ずしも世間には通用しないことが、読み手に対し、曝露されてしまうのだ。このあたりの成り行きは存外悲痛な見え方をする。主人公の前向きな魅力は、たんなる幼さでしかなかったことが、容赦なく指摘され、じっさい学校という小さな世界の外側ではまったくお話にならない。あたかも恋人以外のことに関しては空っぽであるかのようにすら表現されている。ロマンスの励ましがいくら必要であっても、ロマンスだけでは生きていかれない現実が、突きつけられる。たぶん作者は、男女の関係をベースに、置いて行く者と置いて行かれる者との差異を用い、それでも後者が前者の手助けになろうとする心境を掴まえようとしたにすぎないのだと思う。しかし掴まえようとする手つきに要求された精緻さは、同時にエゴイズムの深さをもえぐっているのであって、さらには依存と自立の問題を学生生活から社会生活への移行上に浮かび上がらせる。だからこそ、それを踏まえて述べられる〈……今まで「恵のため」とか……「助ける」とか 「がんばって」とか……クチばっかでごめんなさい……がんばって……恵と離れても まけないように…………恵が……安心して東京にいられるように……あたしもがんばる……〉という詩歌の言葉や〈………メールも……電話も…………忙しくて だんだんできなくなるようになるかもしんない…………けど…おなじだから……さみしいのも……つらいのも……………離れても……おなじキモチだから……〉という恵の言葉のあいだには、センテンスが示す以上の含み、一緒にいられないことを受け入れてもなお、繋がりの決して断ち切られないつよさが芽吹く。

 4巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他桜井まちこに関する文章
 『minima!』
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  1巻について→こちら
 『H-ラブトーク-』について→こちら
 『H-エイチ-』
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  3巻について→こちら
2010年05月13日
 Going!(初回限定盤1)(DVD付) Going!(初回限定盤2) Going!

 聴けよ。ああ〈死んでねぇだけ「生きろ」今だろ?〉というメッセージの堂々たるや。

 6人のKAT-TUNが真のKAT-TUNである以上、5人のKAT-TUNは引き算にしかなれない、とは以前にも書いたのだったが、しかしそのマイナスが、すべての希望を無制限に飲み込んでしまうブラック・ホールではなく、より多くの幸運と新しいステップを彼らに与えるためのハンデになってくれればいいな、と思う。

 このような願いははたして、赤西仁抜きで制作された通算12枚目のシングル「Going!」によって叶えられたか。正直なところをいえば、こちらの胸に微妙なしこりを残す。いかんせん、前シングルである「Love yourself 」の切り拓いた地平は広く、そこで得られた興奮が大きすぎた。野心味に溢れたポップ・チューンであると同時にハイ・ポテンシャルなダンス・ナンバーでもあったあれと比べるなら、アイドルに用意された楽曲として保守的な路線にも感じられるし、つまりはKAT-TUNというグループのイメージが音楽性に再現されていこうとするとき、羽目外し、はからずも孕んでしまう個性と魅力とが、体よくまとめられたスタイルのなかに乏しい。

 作曲に「YOU」のSakoshin、そしてジャニーズ周りではスウェーデンの作曲チームと組むことが多い周水(Shusui)、編曲には嵐との仕事で知られ、「Love yourself」を担当した吉岡たく(Taku Yoshioka)を迎えた布陣は、万全なものといえただろう。だが残念ながら猛烈なケミストリーだけが起きなかったといわざるをえない。私見を述べれば、ある種の行儀よさ、やたらマイルドなテイストはおそらく周水の持ち込んだものであり、彼を加えずにSakosinのソング・ライティングを吉岡がアレンジしたならば、また違ったアプローチになったのではないか、と感じられる。

 しかしながらまったく特筆すべき点がないわけではない。かねてより、赤西くんを欠いたKAT-TUNにとっては田中くん(JOKER)こそがキー・マンである、という推測を個人的に持っているのだけれども、それはたしかにラップ・パートのふんばり、最重要なフックとして躍動する個所を得、実証されているのだった。これまでの(『マブ論』でライムスターの宇多丸がいっていた言葉を借りて述べるなら)ジブラばりのサグさを抑えめ、クレバの柔軟さを少しばかり学んだかのような押韻は、ともすれば爽やかさの重視が引っかかりの弱さへと通じてしまうタイプの楽曲において、もっともでかいカタルシスとなりえているのである。

 さしあたり(一時的にではあれ)体制を違えてしまったKAT-TUNがあげるべき狼煙に「Going!」が相応しいかどうかの判断をつけにくいのは、新境地というよりも安全策に受け取られかねない作風が、引き算の公式を打ち破れていないからであって、曲調はまったく違えども、やはり赤西くんの離脱を受けてリリースされた「僕らの街で」が、ソング・ライティングのレベルとはべつに、複雑な気持ちを抱かせたことを思い出させる。

 つまりはグループが有しているカラーの問題なのであった。KAT-TUNならではの色、色合い、それはしかし、通常盤の2曲目に収録された「FALL DOWN」で、たとえ6人が5人になろうとも、しっかり発せられている。

 欧米のモダンなラウド・ミュージックをJポップのラインにカスタマイズしてきたかのような「FALL DOWN」は、そもそもこのグループがミクスチャー・ロックのアプローチとひじょうに親和性の高かったことを、ふたたびあきらかにしている。そしてここで、正しくキー・マンたる役割を果たしているのが、田中聖であることは疑いようがない。過去には「PARASITE」や「PIERROT」などのソロ・ナンバーで、同様のアイディアを実践していたのが田中くんではあるが、そこで得られた成果を、今度は5人編成のコンビネーションに応用、敷衍化することで、これぞKAT-TUNだというテンションをまざまざ実現してみせている。

 グループの単位でいうなら、たとえば「LIPS」で試みられたスピード・メタルとは決定的に違う、もしかすれば「愛のコマンド」や「MOON」のヘヴィ・ロックに近しく、その延長線上にあるのかもしれないが、若さを盾にした勢いは初期の「SHE SAID...」さえも彷彿とさせる。いずれにせよ、そうした先行例に比して田中くんのラップ・パートはアグレッシヴなぐらいに前面化されている、このことが「FALL DOWN」に、日本のアイドルに与えられたそれとしては、破格なまでのインパクトをもたらしているのだ。

 冒頭に引いた〈死んでねぇだけ「生きろ」今だろ?〉というフレーズは、JOKER(田中くん)が「FALL DOWN」のラップ・パートにあてた自作詞なのだけれど、こういったクリシェを今どき、照れず、冷めず、茶化さず、まっとうな熱量に変えられているその正直さは讃えられてよいし、〈One who was wearing the lousty trousers was me. 'N who was drunken by the Sex Pistols and the bottle of whisky was me〉という英語詞にうかがえるバッド・ボーイズ、ロック・スターへの憧憬こそが、メロディアスなヴォーカルと対を為しながら吐き出される言葉群に、刹那的なエネルギーを召喚しているのは間違いない。

 ところで、こうした激しめのナンバーで亀梨くんが力むのを耳にするたび、いつだったか彼が何かのラジオ番組で、カラオケに行ったらNIRVANAやSLIPKNOTを歌う、とコメントしていたのを思い返し、微笑ましい気持ちになるのだったが、それはともかく、「ONE ON ONE」の頃より、田中くんのラップといえば、中丸くんのヒューマン・ビートボックスであって、「FALL DOWN」を盛り上げているもう一つの黄金律はそれだろう。

 中盤、ギターのソロを向こうに回し、先ほど挙げた〈One who was……〉という田中くんのアジテーションに絡んでいき、双方のアクセントをさらに深くするスクラッチのノイズを聴かれたい(カラオケのヴァージョンではオミットされていることからも中丸くんのビートボックスであることが察せられる)。とくに、これはほかのナンバーにもいえることなのだが、メタリックなギターとヒューマン・ビートボックスの相性が音楽面の特徴となっているアーティストは世界的にレアなのではないかと思うし、中丸くんの卓抜したスキルがそれを可能にしている点は指摘しておきたい。

 あまりにも長くなったのでとりいそぎ、初回限定盤の2に田中くんのソロ・ナンバーである「I DON'T MISS U」と中丸くんのソロ・ナンバーである「Answer」が収められることになったのは、上記したとおり現在の編成にあって貴重な役割を負っている2人なだけに興味深い。

 どちらもメロウな仕上がりのラヴ・ソングではあるものの、それぞれの資質が異なったかたちで反映されていて、「I DON'T MISS U」のミステリアスな響き、メロディをともないながら〈君はlike a 頭 かき回すMuddler〉であり〈忘れたい君の思い出はSyndrome〉なので〈DJ巻き戻せ出会いのIntro〉とラップされるフレーズのセンスは、じつに田中くんらしいし、しびれるし、澄み渡った情緒の「Answer」では、中丸くんのやわらかな歌声が、せつなさの影にあたたかな励ましをつくる。〈雨の中 夜の中〉と〈遠くまで 遠くまで〉と続いていくリフレインが、とてもやさしい。

 ・その他KAT-TUNに関する文章
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2010 公開リハーサル』(4月28日・さいたまスーパーアリーナ)について→こちら
 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら

・その他赤西仁、LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

 コンサート『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』(2010年2月8日・日生劇場)について→こちら
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2010年05月12日
 風が如く 8 (少年チャンピオン・コミックス)

 全編の展開は必ずしもエキサイティングだったとは言い難いものの、最後の段に来、さすがのポテンシャルで爽快なぐらいの感動を寄越していると思う。米原秀幸の『風が如く』がこの8巻で一応の大団円を迎えた。かっこういい生き方に憧れる現代の少年、時越速太が、戦国時代にタイムスリップ、そこで天下の大泥棒、石川五右衛門と行動をともにするうち、成長を果たしていく、というふうにストーリーは要約可能ではあるけれども、荒唐無稽な冒険活劇のなかに歴史上の人物の魅力をどう描くか、次々に用意されたアイディアが物語のスケールを大きくしすぎ、作品の焦点が定まらず、もしかすればとっ散らかった印象を持たされてしまったのが惜しい。もちろん本来の主人公は石川五右衛門である。したがってワープくん(速太のことね)は狂言回しにすぎない。だがそうだとしても、SF調の設定によって高められた架空性が全体の整合度をうまくフォローしきれていないところがあったのはたしかで、ゴエモンを中心の点とするあれこれが十分なアンサンブルを奏でられていなかったのも悔しい。だがしかし、ラストが抜群に決まっているのは最初に述べたとおり、読後の感想を決して悪くはないものにしている。ちょうど円環を閉じるていでまとめられた結末は、本作がボーイ・ミーツ・ボーイの類例、とりわけグッド・ボーイとバッド・ボーイのそれであったことを示してくれる。今やサブ・カルチャーが強力な影響源となる時代である。そのとき、フィクションは生き様を教えられるか、フィクションから生き様を学べるのかは、重要なテーマとなりうるだろう。当然、これはマンガ表現において、すけべな描写にかける熱量を技術と呼び、洗練をさも高尚であるかのように評価するのとはべつのレベルの、であるにもかかわらず同根の問題を孕んでおり、つまりはスペクタクルにすぎないものを信条化することの可否を意識されたい。それこそ『風が如く』のワープくんは、範馬刃牙や月島花といったサブ・カルチャーのヒーローを見、ああなりたいと願う人間であった。はたして彼の根性は、フィクションのごとき体験を経ることで試され、鍛えられた、とすべきか。いやむしろそうした面は、過去回想編を含め、ゴエモンの姿にこそ託されている。そして、結果的に、ではあるが、ゴエモンに与えられたスペクタクルは、中途で幕を下ろされている。絶体絶命に陥ったはずの彼がいかにして危機を乗り越えたのか描かれていない。クライマックスへ至り、かわりに浮上しているのは、ワープくんの主観であって、これまでに得てきた出会い、あるいは仲間がいることの尊さにほかならない。設定に負うしスペクタクルはよそに、本作を通じて何か教えられるものがあるとすれば、結局のところ、そこに集約される。欠損を抱えた人びとが欠損を抱えているがゆえに一つの和となっていく場所に辿り着いているのだ。それにしても現代に戻ってきたワープくんの向かう先が、まさか『ウダウダやってるヒマはねェ!』と同じ桜城高校とはね。ああ、学園を舞台にゴエモンとバディを組む彼の姿も見てみたかったな。

・その他米原秀幸に関する文章
 『南風!BunBun』1話について→こちら
2010年05月09日
 シュガーレス 1 (少年チャンピオン・コミックス)

 間違いなくこれだ。これこそが少年マンガの本分である。男の子には戦わなければならないときがある。是が非でも戦わなければならないときがある。自分の価値を掴みとるために戦わなければならないときがある。自分の価値を奪われないために戦わなければならないときがある。自分の価値を確かめるために戦わなければならないときがある。勝つことも負けることもある。もちろん勝つためには戦わなければならないのであって、少なくとも下に見られるのだけは勘弁なんだろう。上から見られてんのが許せないんだろう。つまらん遠慮はいらん。気に入らない連中には片っ端から挑みかかっていけよ。たとえ負けるにしても、身の程をわきまえるのは思う存分に戦ってからでよい。仕方がない。男の子には、ちっぽけ、なのに、でかい、意地があるのだから仕方がない。そしてその、どうしようもなく男の子であるような部分を剥き出し、我が儘なまでに純粋で鮮烈な少年たちの姿を躍動させているのが、細川雅巳の『シュガーレス』なのである。

 彼は言った〈弱肉強食ってのが九島高校の “風車”のルールだろ〉と。校舎の屋上にそびえる風車、そこに自分の名前を掲げようとする少年たちが集まるから通称“風車”、九島高校の頂点(テッペン)を目指す者に与えられた条件はたった一つ、すなわち戦って勝つ、それだけであった。椎葉岳、今年新入生の彼もまた、風車に惹かれ、門をくぐった人間である。ケンカ、ケンカ、ケンカ、〈動物なら 上に立ちたいと思って当然だろ 弱肉強食ってヤツだよ〉と嘯き、上級生であろうがお構いなし、現在“風車”の頂点にいる3年生、シャケ(荒巻至)との対戦を目論み、次々に騒動を巻き起こしていく。同じく新入生の丸母タイジは、その巨躯にもかかわらず、風車に興味を示さずにいた。〈頂点(テッペン)とか 時代遅れだ〉平然と言うタイジであったが、しかし岳との出会いを通じ、はからずも1年生同士がしのぎを削り合う戦線に加わることとなる。やがて二人の前に姿を現したシャケはこう言う。〈正面から人を殴る勇気と 正面から人に殴られる度胸のある奴が 正面から殴り合って 強い方が勝つ それが“風車”のケンカだ〉そして圧倒的な強さをもってそれを実践してみせる。なるほど、頂点は高く。遠い。だが当然、そこで怯まなかった者にのみ風車へと向かう資格が与えられる。

 基本的には、バトル・トゥ・バトルのオン・パレードに物語の進行を担われたマンガである。それが正しく『シュガーレス』の魅力になっているのだが、ここで少年マンガ史について一つの仮説を述べたいのだけれど、もしも80年代から90年代にかけて大きな転換があったとすれば、車田正美が学ランの主人公を描かなくなったことを例に語れるのではないか。要するに『男坂』の未完と『聖闘士星矢』のロングランに何かしらの手がかりを求められる。言い換えるとしたら、学園という舞台にロマンが求められなくなった結果、広義な意味でのファンタジーに題材が移っていき、そのことがちょうど時代のセンスとマッチしていたがゆえに、後者は成功したのかもしれない可能性を考えられる。もちろん、作者自身の資質の変化もあったろう。しかし80年代後半から、少年マンガにおける学園ものはラブコメかヤンキーの両極に分かれ、モラトリアムを描き、本来はその中間でありコアであったはずの立身出世的な項が抜けていき、かわりに異世界での冒険にそれを託すケースが主流化した、このような背景と車田が学ランの主人公を描かなくなったことは必ずしも無縁ではないと思う。

 しかるに時代は一回りした。それを予感させるのが『シュガーレス』の登場である。このところ『週刊少年チャンピオン』には、まさか当の車田が『聖闘士星矢』を移籍させたこととどれだけ関係しているのかは知れないが、正美イズムを隔世遺伝的に継承しているかのような作家、作品が増えてきている(すこし前には石山東吉ラインの哲弘もいた)。いよいよその真打ちに値すべきが『シュガーレス』だとさえいえる。たしかにここで展開されている作風は、細川のキャリアからすれば、線の違い、女性がいっさい描かれないあたりも含め、新境地、一種のトライアルに受け取れる。だがそれが、作者本人の望んだものであれ、外部(編集サイド)の要請であれ、学園にロマンを取り戻すための強烈な一撃になっている点が、重要だろう。他の作品を引き合いに出して申し訳ないものの、大暮維人の『天上天下』が、鈴木央の『金剛番長』が、学園にロマンを取り戻すことができず、見事に瓦解していくさまは、じつに悲痛であった。そうした残念を晴らし、期待に繋げていけるだけのインパクトが、この1巻には宿っている。不良少年をメインに据えているからといって、ヤンキーがどうだ、アウトサイダーがどうだ、なのではない。モラトリアムでもなく、夢想でもない。いまその若さにかけられる熱量のすべてを描く。難しい理屈はなしだ。忘れちゃおう。これこそが少年マンガの本分であると支持したい。


・その他細川雅巳に関する文章
 『星のブンガ』1巻について→こちら
2010年05月07日
 Infestation

 正直なところ、RATTのいくつかの作品より、ヴォーカルのスティーヴン・パーシーがその後やっていたARCADEのファースト・アルバムのほうが、疾走性が高く、アグレッシヴであり、ダークさもあって、好きに思っていた人間だから、今さらLAメタルだラットン・ロールだの言われても、どうかな、だったのだけれども、11年ぶりとなる新作『INFESTATION』のリリースに際し、まさか『ロッキング・オン』の5月号(先月号)に、ギターであるウォーレン・デ・マルティーニのインタビューが載っているのを目にして、驚き、『BURRN!』の5月号(これも先月号)で、バンドに対して理解の深い広瀬和生が95点のレビューをつけているの見て、驚き、まあいくらでも穿った見方はできようが、しかし以前だったらまったく考えられなかった事態に興味を持たないはずがないんだ。じっさい、なんだよ、これ、すげえいいじゃねえか。サウンドのスタイルは、定型的なアメリカン・ハード・ロックであり、その、良くも悪くも期待を裏切っていないところが、ファンには納得の魅力ではあるものの、いやむしろ、いったんは前線からはねられた感のあるベテランが、ふたたび、これほどまでにエネルギッシュな作品を送り出してきたことが、ブリリアントなのである。するどくエッジを立て、切り込んでくる1曲目の「EAT ME UP ALIVE」、AEROSMITHやVAN HALENをルーツにしていたことを正しく追確認させるかのような2曲目の「BEST OF ME」等々、90年の『DETONATOR』や97年の『COLLAGE』では失われて久しかったフレッシュさを取り戻しているのが、嬉しい。どのナンバーにもつよいフックが備わっており、爽快にかっ飛ばす。見事なる復活劇を遂げた以上の価値がある。

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2010年05月06日
 蒼太の包丁 24 (マンサンコミックス)

 料理マンガの系には長期連載化するものが少なくはないが、時間の流れをうまく掴み、丁寧に描けているものほど、物語の魅力に富む。たとえば、現在それに成功しているケースとして『蒼太の包丁』を挙げられる。この24巻には、主人公の将来に関し、大事件となるようなエピソードはないのだけれど、しかし細かいところで作中人物たちの変化や成長が押さえられているため、積み重ねられてきた過去に自然と想いを馳せる、そして今後の展開にも興味をそそられるのだった。蒼太の恋愛はじつにスローリーである。他の職人との関係もそうなのだが、決定的なモーメントはなかなか訪れない。だがそのじれったさのなかにこそ、心情の深みがよく出、ああこのように微妙なニュアンスを一つ一つ汲み取っていく日々が、人生であり、生活であるのかもしれないな、と、多少大げさにいえば、思わされる。たとえば、ついに自分の店を持ったはいいが、オープン早々ピンチに陥った花ノ井に、「富み久」の親方や蒼太が自分なりの手助けを与えるくだりなど、筋書き自体は定型のパターンではあるものの、それぞれの性格と今までのストーリーを踏まえたうえでの構成が妙でいて、ダイナミックな引きはないかわり、ページ毎に小さな読み応えが生まれている。しかしてその、小さな読み応えのひじょうに侮れないのが、『蒼太の包丁』というマンガの魅力でもある。また、泉田や坂口といった「富み久」の常連たち、ワキの人々がじょじょに存在感を大きくしているのも、新たな楽しみとなりつつあるのだが、蒼太に目をつけた金持ちの嬢ちゃん、真知のもたらすアクセントもよい。それにしても蒼太の野郎もてやがんな。たとえ好いた相手ではなかろうとも、そりゃあ〈雑魚とは違うの…あなたは特別な人 なんたってこの私が認めた男なんだから〉と言われたならば、はっとすらあ。

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 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
2010年05月03日
 文藝 2010年 05月号 [雑誌]

 『文藝』夏号掲載(先月出てたやつね)。たとえば先般にリリースされた『魔法使いクラブ』もそうだし、このところの青山七恵は、自身にとってある種のトライアルといえるような小説を、しかし決して質の低くないレベルで次々と送り出しているのだったが、短篇であり小品ではあるものの、『役立たず』からもまた意欲的なアプローチがうかがえるのであって、さしあたり男性を主人公に据えながら三人称で語りをはじめる、それを新境地と見なせるかもしれない。配送ドライバーとして働く阿久津の趣味は、描いた有名人の似顔絵を週刊誌に出すことである。あるとき、彼の投稿が載っているのを目にした大学時代の知り合いからメールが届く。弥生というその人物は、かつて阿久津が憧れた女性であった。それが踏ん切りとなり、阿久津は付き合いのうまくいかなくなった恋人と別れ、そしてついに弥生との再会にまで漕ぎつけるわけで、作品は、この二人がともに過ごすひとときを掴まえていくことになるのだけれども、はたしてステレオタイプな男女の関係が、ちょっとした悪意の物語へとスライドし、目も当てられない結末をもたらす、ひねりに魅力を負わせている。今まで作者によって採用されることが多かったのは、ワキの場合はもとより主人公であったとしても、淡泊というか、あっさりというか、わりとクセのない男性像であったのだが、阿久津はややタイプが異なる。いや、たしかに人となりは凡庸でしかないとはいえ、自意識の過剰さが目立つようにこしらえられており、それを動力にし、物語は回っている。彼の仕事中における態度、似顔絵に向かうモチベーションなども、本質的には自意識の影響下に置かれ、そうした根性の持ち方が、弥生とのやりとりを経、とうとう身も蓋もなくなってしまうのだ。次第に彼の言動が痛々しく、あるいは滑稽になるさまは、自分の価値を高く決めつけている人間が他人の内面を低く見積ろうとする、不遜な視線を題材にした悲喜劇を思わせる。弥生の言いを真に受けるのであれば、他人そのものを欲望する主人公が他人の欲望を欲望する他人によって復讐されているにすぎず、手の平返し、仕掛けはさほど凝っていないだろう。しかし特徴とすべきは、やはり、自意識のありようを糸口にすることで、コミュニケーションの局面を細かく、一つ一つの反応をよく描写している点である。阿久津う、おまえさんはじつに独りよがりだよ。そのおかげで皮肉的な成り行きに、ああ、ああ、相づちを打つ。

・その他青山七恵に関する文章
 『ファビアンの家の思い出』について→こちら
 『うちの娘』について→こちら
 『山猫』について→こちら
 『ニカウさんの近況』について→こちら
 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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