ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年04月30日
 Hey!リキ 17巻 (ヤングキングコミックス)

 今日のマンガ表現において過去回想編とは何か。当然異論はあるだろうが、内面描写の代替であるようなパターンが多い。それはつまり、作中人物にとっての知識や経験を描くというより、どのような記憶を彼らが負っているかに費やされることであって、その記憶がたいてい悲痛な出来事として追加されなければならないのは、トラウマの有無が心理や意識の存在とほぼイコールで結ばれるようになった90年代以降、フィクションの形式でスタンダード化し、発達してきた技法だから、なのである。ときおり過去回想編の類がひじょうに怠く感じられてしまうのは、要するに、これこれこういう内面を作中人物は持っていますよ、といった説明のあまり奮っていないにもかかわらず、わざわざ付き合わされていることが、たんに面倒くさくなるためだろう。そしてそれが、マンガ表現の全体で一般的とされているのが近年である以上、もちろん、ヤンキー・マンガのジャンルも同じ轍を免れてはいない。ヤンキー・マンガの不良少年たちによって語られる思い出、そのほとんどは昔でいうところの武勇伝とは違ってきており、後悔や残念、過去に受けたダメージの割合を高めることで、やはり、内面描写の代替を果たしがち、本質的にはせこくまとまっているものが少なくはない。世代論として見るなら、個人的に50年組と呼んでいる層(昭和50年、1975年前後の生まれ)の、言い換えるならば90年代に青春時代を過ごしたヤンキー・マンガの作家たちが、しばしば、そうしたマナーにはまってしまうのは、ある意味、道理のいくところではあった。さて、先ほどいった50年組に含むべき作家の一人である永田晃一が、この『Hey!リキ』の17巻で、前巻に引き続き、過去回想編を展開しているのだけれども、その手つきはしかし、内面描写ではなく、むしろ武勇伝をのぞんでいる節があり、あんがい興味深いのだったが、おそらくは作者の自覚的な意志にすべてがよっているのではない。国盗り合戦の現代版、軍記物のヴァリエーションとして、ヤンキー・マンガが成立させられてしまう、このようなジャンル側の今日性を素直に受け入れた結果であることが大きいのではないかと思う。国盗り合戦、軍記物では、武勇伝は重要なファクターとなる。その部分が強調されているにすぎないのである。ただしそのことを必ずしも悪く言うのではない。主人公であるリキの中学生時代をプレゼンテーションすることで、若気の至り、いけいけどんどんの単純明快さが出、長らく不調であった物語に一定のダイナミズムを与えているのだ。とはいえ、それが作品の良さとして今後に生きてくるかどうかはまたべつの話、留保しておかなければなるまい。ところで、17巻に入ってついに単行本から高橋ヒロシ(原案)のクレジットが取れた。
 
 14巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら

・その他永田晃一に関する文章
 『スマイル』(柳内大樹との合作)について→こちら
 『ランディーズ 完全版』について→こちら
2010年04月29日
 不安がないといえば嘘になる。しかしながら結局のところ、大丈夫なんだぞ、大丈夫、これまでだっていくつもの逆境を乗り越えてきたじゃないか、だからKAT-TUNは大丈夫なんだぞ、と思う。渡米を理由にした赤西くん二度目の離脱を受けての今回のツアー、もちろん、グループに6人揃っているのが真の姿である以上、1個のピースが不足していることは、単純に引き算にしかならない。ファンにしてみたらこれほどの不安はそうそうないのであったが、それでも当人たちが、とりあえずは前向きに歩みを進めるよ、と決めたのであれば、付いていくしかないのであって、はたして是と非のどちらに自分の心が傾くのか、確認するためにも、戸惑いながら、昨日はさいたまスーパーアリーナへ、公開リハーサルと銘打たれた公演を観に行ったのだった。

 結論はすでにいったとおり、大丈夫なんだぞ、こう信じられるだけの成果を得られたように感じられる。本格的なツアーがまだスタートしていない段階であるので、ショーの内容に詳しく踏み込むことは避けるけれども、いやいや、じっさい公開リハーサルという名目がどういった内容を指すものなのか、事前にはまったく予想がつかなかったのだが、おおよその流れだけが決まっているなか、セット・リストも決定的とはなっておらず、赤西くんのパートの振り分けをメンバーが忘れてしまう箇所もあり、バック・スクリーンや特殊効果が正常に機能していない場面もたびたび、楽曲の途中にストップがかかったり、中断も少なくはなく、コンサートとして評価するにはあまりにも未完成だったし、間違いなくファン・サービスの域を出てはいなかったものの、あるいは課題を多く残していたがゆえに、おそらくは今後それらが修正されていけば、おお、と感心させられるだけのステージが繰り広げられるかもしれない可能性、期待を十分に受け取ることができたのである。

 あの、赤西くんの、ヴォーカルの力強さを欠いている点が、楽曲の線すら細くさせてしまっているかのような印象は、たしかにあった。これはもう、いくら他のメンバーがフォローし合おうが、拭えないところだろう。だがかわりに目立ち、以前にも増して顕著となっていたのが、田中くん(JOKER)のラップであり、中丸くんのヒューマンビートボックスであって、音楽性の面を考えるなら、この両者の存在感が、5人編成のKAT-TUNにとって重要なキーであることは疑いようがない。少々ネタを割ってしまうことになるのだけれども、初期のナンバーに属し、田中くんと中丸くんのスキルの遺憾なく発揮された「ONE ON ONE」が、まさか、というか、やはり、というか、このとき披露されたのは、じつに象徴的であった。一方、もしかすれば6人編成のKAT-TUNにおいてニュー・アンセムたりえた「Love yourself」のクライマックス、赤西くんのオートチューン・パートに託されていたフックが、田中くんの壮烈なラップに差し替えられていたのは、ヴァージョン違いとしては全然あり、どころか楽曲のインパクトを新しくしていて、ひじょうにかっこうよかった。

 ほかにも、上田くんのソロ・ナンバーが意外なほどすぐれた今様のギター・ロックで驚かされる等々、触れたいところはあるのだったが、それはまあ、本番のコンサートをレポートするさいに残しておきたい。いずれにせよ、だ。たしかにコンサートと呼ぶには正直めちゃくちゃ、とっ散らかったステージは、公開リハーサルとエクスキューズするより仕方がない。しかし、たとえメンバーの1人を(一時的に、でいいんだよね)欠いたとしても、KAT-TUNは自分たちがKAT-TUNである理由を背負い、前進、将来を諦めず、描き、歩み続けることを選んだ、それだけはしっかりと確認されたのであって、よし、大丈夫、まだまだこのグループに付いていける、当然不安はあるよ、でも大丈夫なんだぞ、あらためて気持ちを昂ぶらせた次第である。

・その他KAT-TUNに関する文章
 「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」について→こちら
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら

・その他赤西仁、LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

 コンサート『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』(2010年2月8日・日生劇場)について→こちら
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2010年04月28日
 文学界 2010年 05月号 [雑誌]

 『文學界』5月号掲載。井村恭一の小説はいつだって奇妙なのだが、もちろんこの『妻は夜光る』も奇妙でいて、その奇妙なところが不思議と心地好い。作品の内容を率直にまとめるなら、まるでゾンビ状態になってしまった妻とともに生活を送る男の姿、日々が題材化されている、ということになる。〈妻はずっと寝ている。夜になると起きてきて、三時間ほど活動してふたたび横になる。そのあとは翌日の夜まで起きなかった。「そういう病気なのです」とセキグチは言う〉のだった。ツォと呼ばれるその病気にかかった者は、熱を出していったん死ぬ、死んだのちしばらくすると起き上がり、肉ばかりを求め、大量に食さなければならない。同じ団地の〈豊平さんの通夜に出席したものはほとんど猫に噛まれた。猫はツォに感染していた〉ため、妻を含めた住人たちはみな、ツォを発症しはじめるのだけれども、なぜかしら〈わたし〉にだけはその病状があらわれなかった。団地は隔離閉鎖される。住人に肉が配布される。そして監視されている。監視にやってきたのはセキグチという男で、たまたま彼は〈わたし〉の高校時代の知り合いでもあった。セキグチによると、発症を免れた〈わたし〉は運が良かった。おかげでそれを看病というのであれば、毎日毎日、妻に肉料理をつくってやれる。パニック・ホラーを思わせる設定はユニークであるものの、たしかに非凡ではないだろう。むしろ『妻は夜光る』が、奇妙と述べられる読み応えを持っているのは、異常事態であるような状況下、まったく平然とした日常が、びっくり驚きのサスペンスに腰を浮かすこともなく、地に足を着けたまま、淡々と描写されている点である。作中の世界像にそったスリルが全然ないわけではない。しかしもっとも大きな特徴は、妻との暮らしが主人公にいかなる実感をもたらしているか、に預けられている。今も一つの共同体である夫婦にかつてとは異なった関係性が生じる、たとえばこれは、歳月をテーマにしても暗示することができるわけだが、同じく事件や病気を用いても可能であるし、じっさいここでは、ツォと呼ばれる現象が手段に選ばれていると考えられたとして、あながち的を外していないように思う。さらには、団地や社会の、すなわちレイヤーの異なった共同体が夫婦の外側には存在させられている。セキグチの口からしばしば〈わたし〉は、感染した人々の移住計画を聞く。引っ越しを持ちかけられる。あるいはそれは、自分たちを取り巻く環境が次第に変わりつつあるとき、夫婦の生活がどうあればキープされるのか、を間接的に問うているのかもしれない。いずれにせよ、特殊で不穏な物語において、主人公の抱く深刻さは、ごく一般的な、ある意味で卑近な観念によっており、最大の魅力は、そのギャップをことさら大げさにしていかず、自然だと受け入れられるほどに落ち着き払い、軽妙なセンスでこしらえられた語り口にある、といえる。ある晩、凶暴化したツォに関する映画をDVDで鑑賞した夫婦は、次のような会話を交わす。「あたしがああいうふうになったら、頭を撃つ?」「銃がないからなあ」「バットとかで殴ればいいんじゃない?」「バットもないよ」「どうにかしなくちゃならなくなったら、どうするの」「しかたがないから、ちょっと食われてしまおうかと思う」。こればかりではなく、端々に見られる情緒のありようは、ユーモラスである以上に、どこか深い場所へとじんわり届いていきそうな温度をイメージさせる。

・その他井村恭一に関する文章
 『フル母』について→こちら
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2010年04月25日
 心臓より高く (マーガレットコミックス)

 少女マンガのジャンルにかぎらず、多くのラヴ・ロマンスまたはセックスを主題にした作品において、病気の感染、とりわけHIVの脅威が忘れ去られて久しい。それは現実上の認知がそうであることを反映しているのかもしれないし、これを性意識の前進と見るか後退と見るかは判断のわかれるところであろうが、あまりにも無頓着すぎるといわざるをえない描写がフィクションに増えた点に関しては、ときどき怪しく感じられてしまう。すくなくとも、妊娠だけ気をつけていればよいよ、という発想が、性交渉を題材化するのにさいし、豊かなものとは思われないのである。まあ、まったくの無菌状態で育ってきた童貞と処女の恋愛しか取り扱っていないのだとすれば、多少の留保は許されるのかもしれないけれど、近年ではむしろ、その幼さにもかかわらず、どちらかがすでにセックスを体験していることが悩ましくある、といった様子を深刻なドラマとしているケースが少なくはないのであって、やはり妊娠の可能性だけに注意を向けるのは、たしかに向けないよりはよいのだとしても、表現の作法にとってイージーな単純化にすぎないのではないか。こう考えられるとしたら、きらの『心臓より高く』に収められた「H‥」は、その、現在ではなぜかしら盲点となってしまった領域を突いているように思う。作中で〈……「こわい」「恥ずかしい」「いやらしい」そんなイメージでエイズと自分は関係ないって思いたがってる人も多いわね だけど予防しなければ誰だって感染する可能性があるの ……さっきセックスしたらすぐうつると思ったっていったわね コンドームなしの性交渉による感染効率は1%程度よ ――低いと思った? それなら予防をしなくても1回や2回大丈夫って思った? だけど1回の性交渉でも妊娠する人がいるように回数の問題じゃないわ 予防するかしないかそこが大事 自分と自分の大切な人を守るためにね〉といわれている警告は、おそらくは今や古びてしまっている。しかし古びてしまったからといって、必ずしも偽とはならないことを、高校生カップルの初々しい恋愛を通じ、描いているのだ。もちろん、教訓的なメッセージを含んでいるのが、えらい、のではない。やがてヒロインのもとを訪ねてくる吸血鬼、いうまでもなくあれは、ヘヴィな内容をファンタジーの色合いで柔軟するための方便ではなく、逃避の作用や孤独の源泉を表象しているのであって、それと向き合う場面が悲痛でありショッキングな印象を湛えていくあたり、語り口のうまさ、作品の結構がいかにすぐれているか、を高く買われたい。すなわち技術の評価に還元することができるのであって、じじつ自然と感動させられる説得性がつくり出されている。『まっすぐにいこう。』等々の代表作では、読み手にかかるストレスの軽減であるような、明るめのタッチに注がれていた筆力が、ここではシリアスな展開に傾けられている、あらためて達者な作家だと見直す。表題作もよい。いや、じつをいえば表題作である「心臓より高く」のほうがよいかもしれない。他人にコンプレックスを与えてしまったことを自分のコンプレックスとして生きる主人公が、表層的ではない、他人との深い関わりを得ることによってそれを乗り越えていく姿が、パーツモデルという特殊な業種を媒介に描かれており、いくつもの場面にはっとする。
2010年04月24日
 夢みる太陽 6 (マーガレットコミックス)

 基本的にワン・アイディアではじまったマンガではあるものの、そのワン・アイディアを次のワン・アイディアにスイッチ、またそのワン・アイディアを次のワン・アイディアにスイッチ、と、し続けることによって、高野苺の『夢みる太陽』は6巻の長さとなってきたわけだけれども、現時点に描かれているのは、ヒロインであるしま奈の、大家である藤原虎(たいが)に向けられた片想いであり、対する虎の反応なのだが、いやまさか、物語の当初からすれば、この二人が真剣な恋仲となっていく、もっというなら、それが本筋になっていくとは、まあ思わなかったよね。そもそも、家庭に居場所をなくした少女の自分探し的なニュアンスを含んでいたストーリーは、いくらかの変節を経て今や、たった一人の人間とたった一つでしかない関係性をどのように切り結ぶか、そのような主題が前面となったピュアラブルなロマンスをまっとうしているのである。三人の異性、虎、朝陽、善との共同生活という設定も、しま菜が生家に戻ることでいったん解除されており、自分の気持ちに正直となった彼女が〈あとは大家さんから「好き」って言ってもらえるように頑張るだけだ〉といっているように、作品の指針もひじょうに明確化されている。これは、『夢みる太陽』に共同体をめぐるテーマを見ていたとき、大きな転換として映る。他方、少女の成長を恋愛によってドキュメントしていたと見るとき、大きな前進の役割を果たしてもいる。いっけん作風がだいぶ異なるため、そうとは受け取りにくいのではあったが、意外と羽海野チカの『ハチミツとクローバー』が終盤にはっきりとさせた方向性、構造に近しい。

 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『バンビの手紙』について→こちら
 『Shooting Star』について→こちら
 『愛し金魚』について→こちら
 Evil Power

 とどのつまりは、気に入らないことと面と向かうのに必要なパワーを寄越せよ、ガッツを寄越せよ、と思うのだ。手の平をいつもグーに握らせていてくれるようなBGMを鳴らせよ、と願う。エクストリームなハードコアもデス・メタルもストーナー式のロックン・ロールも渾然一体にし、無作法なほどがしがしと響かせる、それこそが米イリノイ州シカゴ出身のトリオ、LAIR OF THE MINOTAURの使命であって、08年のサード・アルバム『WAR METAL BATTLE MASTER』に続く本作『EVIL POWER』も当然、このバンドならではのえげつなさをあらためて認識させると同時に、ストレスでがんじがらめになっているのなら大声で叫べよ、という気分にしてくれる。要するに、エキサイティングなのである。今回よりSOUTHERN LORD RECORDSではなく、自身たちで立ち上げた新レーベル、THE GRIND-HOUSE RECORDSからのリリースになったことが作用しているのかどうかは知らないが、しかしある種の新鮮さはたしかに再獲得されているし、以前にも増して焦点の定まった印象がするなかに、高純度で高密度で高濃度な轟音がひっきりなしとなっていて、何はともあれ4曲目の「EVIL POWER」が最高潮に好き。いかしている。すなわち、アルバムのタイトル・トラックにあたるわけだけれども、その、ゆるく隙間の空くことを許さぬほどに硬質さのきわまった演奏は、様式の陥穽に陥ったヘヴィ・メタルのパターンを、解体、ではなくて、強調、しているようですらあり、一歩間違えれば、怠いばっかりの展開しかもたらさないのであったが、どっこい手数の多さにノイズの濁りを加えることによって、緊迫感をすさまじくし、過剰化、凶悪化することで従来のイメージをデフォルメ、上書きしている。ギター、ベース、ドラムのダイナミズムは力押し、そしてEVIL POWER! EVIL POWER!(イーヴォーパーワー! イーヴォーパーワー!)と連呼されるコーラス、ともしたら馬鹿馬鹿しくなってもよいはずの振る舞いが、いやいや、熱湯をぶっかけられたときのように、ぎょっときてしまうのだから、弱るよ。まさしくイーヴルな魅力にやられちゃうのであって、同じことはここに収められたすべての楽曲に対し、いえる。いずれにせよ、LAIR OF THE MINOTAURの禍々しいカタルシスに満たされているあいだは、どれだけ気に入らないことが立ち阻んでいてもへいちゃら、パワーを、ガッツを、不足したりはしない。

 『THE ULTIMATE DESTROYER』について→こちら
 『CANNIBAL MASSACRE』EPについて→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2010年04月23日
 サイゾー 2010年 05月号 [雑誌]

 いま出ている『サイゾー』5月号、「マンガ大賞ノミネート10作品メッタ斬りクロスレビュー!」に参加しています。いちおうここで述べておくと、点数に関しては基本的に、どれだけ繰り返し読めるか、を目安に現時点での判断でつけさせていただきました。
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 Heavy Breathing

 とかくこの世は気に入らないことばかりなのだったが、ときどきはそういった諸々とうまくやっていけないもんだろうか、と思う。しかしうまくやれないや、と思う、結局のところ、うまくやっていく必要なんかねえんだ、と思う。うまくやっていけないから気に入らないのではない、気に入らないのでうまくやっていきたいくない、これはもちろんネガティヴな意見に相違ないのだけれども、くそでしかないものと和解することもまたくそである、そう振り切るほどに信じ抜き、腹を決めるかのような態度がやたらポジティヴに受け取れることがあり、はたしてパワフルでハイパーなパッションとエネルギーを彷彿とさせる。それにしても米ワシントン州シアトル出身の5人組、BLACK BREATHのサウンドときたらどうだ。昨年にリリースされた4曲入りのEP『RAZOR TO OBLIVION』には、いやはやこれはたまらない、激しく突き動かされるものがあったが、満を持してのファースト・アルバム『HEAVY BREATHING』にも、たとえ天地がひっくり返っても自分だけは覆らないぞ、と言わんばかりの太い芯が剥き出しなのであって、ハードコアとデス・メタルとロックン・ロールのマナーをミックスし、あらんかぎりアグレッシヴに出力していくスタイルは、ENTOMBEDやDISFEARのもっとも刺激的な箇所を受け継いでいるふうでもあるし、今回ツアーに帯同することになっているCONVERGEの近作ともかけ離れていないばかりか、同じくSOUTHERN LORD RECORDSに所縁のあるLAIR OF THE MINOTAURにも一脈通じている気がする。じっさい、バンドのメンバーは『EL ZINE』誌のインタビューで、影響を受けたアーティストの一つにENTOMBEDを挙げており、ヴォーカルがフェイヴァリットとして挙げているなかにL-Gペトロフ(ENTOMBED)やトーマス・リンドバーグ(DISFEAR)の名前を見つけられるのは興味深い。本作がレコーディングされたのはカート・バロー(CONVERGE)が所有するGOD CITY STUDIOSである。たしかに着想はまったくのオリジナルではないだろう。にもかかわらず何かのコピーであったりフェイクでは絶対にない。こう断言できるだけのインパクトがすばらしく、その轟音には備わっている。1曲目の「BLACK SIN (SPIT ON THE CROSS)」からしてもう、アクセルを大きく踏みっぱなし、鮮烈なドラムのアタック、2本のギターはヘヴィ・メタリックなうねりを上げ、重低音のぶいぶい利いたベースのラインと併走する。もちろんヴォーカルは雄叫びよろしく盛っている。それがかっこう悪いわけはないんだ、というスピードをフルに満たした楽曲が、中盤、テンポを落とし、ぶ厚いグルーヴのとぐろ巻く展開からふたたび加速していくさまに、自然と拳を握る。破竹の勢い、猪突猛進型の馬力がいかしたチャームではある。一方、インストゥルメンタルで構成された6曲目のタイトル・トラック「HEAVY BREATHING」や、スラッジやドゥームのごとき印象を引きずった9曲目の「UNHOLY VIRGIN」のように、スローでいて不吉な響きにも、ずぶずぶとはまっていく中毒性がある。要は、テンションの高さのみでは十分に判ぜられないポテンシャルが、端々にうかがえるのであって、しかしそれがソリッドに、容赦なく、乱暴なぐらいの豪快さで叩きつけられるとき、さっきまでのフラストレーションは木っ端、砕け散る。

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2010年04月21日
 ヤングチャンピオン烈No.5 2010年 5/30号 [雑誌]

 うんうん、吉沢潤一の本領はやっぱりこういう感じだいね、と思わず納得させられてしまう。こういう、とは、どういう、のか。言葉にして説明するのはなかなか難しいのだったが、たぶん、まじとギャグの二分法でマンガを考えようとしたとき、いっけんそのパースペクティヴが狂っているふうでありながらも、じつはそれが時代にそった感性になりえている(かもしれない)ので、作品自体に普遍であるのとはまた異なった魅力、とりあえずの定義化を無効とするようなインパクトが備わっている点を指したい。さてこの『乙女シンク』は『ヤングチャンピオン烈』NO.5に掲載された読み切りであり、『ヤングチャンピオン』の本誌で連載されている『足利アナーキー』の外伝ということになっている。物語の舞台は本編と一緒、『足利アナーキー』の主人公であるハルキとカザマサが通う栃木県立南総合高校で、彼らに憧れる一学年下の女子高生たち、ユン、マキコ、ランの、ヤンキイッシュでポップな青春の一コマが切り取られている。ストーリーはひじょうに簡素である。ユンとマキコとランは、友人のよぅちゃんを妊娠させたにもかかわらず、素知らぬ顔で学校にやってきた同級生、松本をこらしめるべく、武装し、夜道の襲撃を果たすのであった。ほんとうにたったそれだけのことでしかない。だがそれだけのことがとてもチャーミングな印象を持っているのは、たとえば、今どき地方都市でギャルのセンスに寄っていく高校生の指向、リアリティがよく掴めている、そう単純に述べてみせるのが正しいかどうか、当事者じゃない人間にはわかれないのだけれども、自分なりの解釈が許されるとすれば、おそらくは、半径の狭い世界を眼前に自分たちのプライオリティがどこに置かれるべきか、少なくともそのことをはっきりさせながら生きている若者の強さ、あるいは素直さが、できうるかぎり肯定の姿形で描かれている、これがはっとするほどの勢いを内容につけさせている。欲望も友情も恋愛も、三人のヒロインにとって大切だと信じられているものをまったく批判しない、たとえ軽さやちゃらさに勘繰られようとも、否定をしりぞけることにより、作中の世界、人物の表情を、彩りあざやかにしているのだ。彼女たちが保健室のベッドで横になり、ファッション誌を眺め、他愛のない言葉を交わすうち、寝入ってしまう、そのシーンの日常感たるや、良い良い。

 『足利アナーキー』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
  1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
2010年04月20日
 サムライソルジャー 9 (ヤングジャンプコミックス)

 吉田薫、ついに推して参るかよ。この9巻の顔に彼が、つまりは表紙のカヴァーに選ばれているのはまったくの道理であった。『サムライソルジャー』のストーリーにおいて、もっとも早い段階で主人公である藤村新太郎のシンパサイザーとなった吉田が、その男気たるところを存分に披露してくれるのだ。「渋谷連合」の面々に囲まれるなか、市川佑介の仕掛けにのって、殴り合い、負傷した藤村と神波多ナオトの窮地に、きたきたきた、いったんは不良(ガキ)の世界から身を退いたはずの吉田と、藤村に敗北を喫し「ZERO」で肩身を狭くしている江田昭二が、駆けつけてきた。予想外の登場に、鮫島は驚きながらも〈おめーらは もう不良(ココ)の世界じゃ終わった人間…見物せずにされ〉と言い放つのだったが、構わずに彼らは「渋谷義勇軍」を名乗り、臨戦態勢に入ろうとする。藤村を守るべく。しかしそれでも鮫島が〈義勇軍? お前ら2人で何ができる? 名前売りたいならウチに入れてやってもいいぞ?〉と述べるとおり、多勢に無勢、劣勢であることに変わりない。そこで吉田が口にするセリフがじつに奮ってらあ。〈俺は初代『藤村新太郎』を終わらせない ただ それだけに体を張る〉のであって、鮫島が〈負け犬とビビリが2匹…カッコつけてんじゃねえ!!〉とすごむのに対し、〈はっは〜ん 体張ったら 何か もらえると思ってるタイプだな おめーは / お前は体張って何が欲しい? 金か? 名誉か? 女か? それとも…友情か? / 俺は欲しいモノなんか何もねーよ ただ 自分のことはひとつも考えず 他人のことだけに必死な 藤村新太郎っちゅう超ド級のドアホウながめてたら 引退した体が勝手に反応しちゃうワケ いいじゃない それが俺の体の張り方だ〉と笑ってみせるのである。こういうタイプの言動は、一般的に旧いと見なされるだろう。くさいと思われてしまうかもしれない。だが、旧いやくさいが必ずしもださいとはイコールになりえない、そのことの当否を、吉田の活躍を通じ、確認されたい。要するに、今まで吉田を舐めてた連中はみんなごめんなさいするんだぞ、なのである。いや吉田ばかりではなく、江田にしてもそうなのだけれど、二人がたった二人で「渋谷連合」を向こうに回す姿は、前記した理由があきらかにしているように、利己をベースにした価値基準との衝突になっているのであって、正しくそれに打ち勝とうとすることが、一つの盛り上がりとなっていく。

 多少の観点を変えるのであれば、山本隆一郎がここでのくだりに描いているのは、まず第一にファイトでありバトルである。それはもしかしたら、『ヤングマガジン』や『ヤングキング』でヤンキー・マンガのイディオムを会得してきた作家が『ヤングジャンプ』で『週刊少年ジャンプ』的なテーマを再現している、といってしまってもよい。すなわち、努力と友情と勝利の介在が、スペクタクルの質そのものを左右するような展開を、不良少年もしくはアウトサイダーの物語に導入しているのであって、じじつ紙幅のほとんどは、一対一の勝ち抜き戦としてルール化された決闘に費やされているのだし、ごつごつ血みどろの戦いが繰り広げられているにもかかわらず、ある種の晴れやかさすら受け取れる。江田VS烏丸テツヤ、吉田VS寺恵一、「渋谷義勇軍」と「渋谷連合」とが互いの意地をかけながら相まみえていった結果、とうとう藤村と鮫島の直接対決がなされようとする。吉田と江田のふんばりに〈悪かったな2人とも ありがとう〉と素直な感謝を伝える藤村がいかしている。熱くなる。ぐっとくるものがある。しかし恋人を喪い、親友であった神波多と袂を分かち、孤独を生きる鮫島にしてみたら、それが気に入らない。だからこそ〈クズどもがッ!! ヘドが出る…頭ん中から爪先までヘドでたくさんだ!!〉と罵らなければならないのであって〈どんな友情ごっこだ? どんなつまんねえテレビドラマだ!? 他人の為に喧嘩する!? テメーらは不良(ガキ)じゃねえ!! ホモ野郎だッ!!〉という懐疑を〈ブッ壊してやる…コナゴナにブッ壊してやる…薄汚えバケの皮剥いで…薄汚え本性さらけ出してやるッ!!〉こうまでもつよく激しい否定の感情へと持っていくよりほかない。怒りをあらわにせざるをえない。他人を信じられないこと、いっさい信じないこと、自分しか頼りにならない、頼りにしないこと、そもそもそれが「渋谷連合」の背後に潜まされているイデオロギーであり、鮫島や市川の存在に表象されているものだろう、というのは以前にもいったが、彼らの振る舞いがきわめてネガティヴな意識からやってき、不幸ばかりを踏まえているのだとしたら、それを質すのは当然、主人公の役目ということになる。藤村は鮫島に言ったろう。〈喧嘩が強いだけの臆病者が 寂しい寂しいって泣いてんじゃねーよ〉と。吉田と江田の奮闘を目の当たりにし、いよいよ憤りを隠せなくなった鮫島の様子は、藤村との対照にあって、ちょうど子供が駄々をこねているようにも思われる。『サムライソルジャー』の作中、多くの場面で、不良がガキと読み替えられていることの意味合いもおそらくはそこに加算されている。
 
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
2010年04月18日
 スターダスト★ウインク 3 (りぼんマスコットコミックス)

 その小さな共同体は、その小ささゆえに、恋愛感情が入り込むことで、ふいに壊れてしまいそう。得るものと失われるものとが天秤にかかる、たとえばそれの避けがたいことを受け入れなければならない、といわれている一方、たとえば結果的に何も得られず失うばかり、そう考えられるとしたら、当然、悩まざるをえないよね。頭を抱えるし、臆病にすらなる。こうした認識を頼りにしながら、こうした認識のみに止まらない物語を、春田ななの『スターダスト★ウィンク』は用意しているように思う。同じマンションで隣同士、ずっと一緒に育ってきた杏菜、颯、日向の三人組であったが、中学三年のとき、思春期的な意識がつよくなることに従い、その関係にも複雑な変化がもたらされようとしていた。こうしたストーリー・ラインを作品は持っていて、ヒロインである杏菜に対し、颯が想いを寄せるのをよそに、彼女はといえば、日向のほうへ惹かれている自分に気づいてしまう、以上の展開が前巻までのなかに描かれてきたわけだけれども、同時にこのマンガが、三人組の内情だけで動かされていないのは、スモール・サークルの外側に位置している人物たちが、次々、スモール・サークルの現状と係わってくることから、じつにあきらかであった。そして2巻の引き、さらには3巻の内容において、とくに注意されたいのは、颯→杏菜→日向という矢印の、さしあたり終いであるような日向が、いったいどこの誰に向けて視線を送っているか、という点だろう。ネタを割らずにおくため、詳細は避けるが、それはつまり、三角関係の閉塞とは異なった葛藤を杏菜に与えることとなっているのだし、三人組の共同体が内情とは無縁に開かれてしまう可能性を孕んでいる。もちろん、スモール・サークルの維持を保守的に捉えるのでなければ、決して悪いこととはかぎらない。しかし、何かが変化してゆくことは何かが終わってゆくことをも意味しうる。印象的なモノローグがある。杏菜の〈恋人じゃないから 誓いもない 家族じゃないから血の繋がりもない ただ家がとなりなだけ でも それだけで人より特別な気がしてた それすら なくなってしまうんだ〉というこれは、たしかに日向への恋愛感情をもって発せられているのだが、敷衍するのであれば、一つの共同体が将来に解体されてしまうことの不安を示唆している。どうして主人公たちの年齢は中学三年に設定されているのか。読み手の年齢層(掲載誌である『りぼん』の需要)が踏まえられているのは間違いないにしても、物語の構造を見るのであれば、それが高校進学を期に離ればなれとなるかもしれない三人組にとって、その小さな共同体がその小ささだけで充足することのできた最後の瞬間を押さえているからにほかならない。繰り返すけれども、ヒロインの戸惑いは、まず恋愛感情によっている。だが、広く受け取ろうとしたさいにそれは一足先に大人びていく男の子たちを前にした戸惑いでもありうる。だいたい、杏菜を慮る颯にしたって、態度は子供じみているものの、良し悪しの判断、言い分はよっぽどしっかりしている。

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 『チョコレートコスモス』
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2010年04月17日
 居候お断り。 (講談社コミックス別冊フレンド)

 貧乏だがパワフルなヒロインと、年上だがナイーヴで頼りない青年が、諸般の事情により一つ屋根の下で同居することとなる、このような少女マンガのジャンルに定番なエッセンスをミックスし、片想いベースのラヴ・ストーリーを描いているのが、安理由香の『居候お断り。』である。主人公の町香は、高校に通いながら、母や兄とともに小さな食堂を切り盛りしていた。そこにある日、兄の高校時代の同級生であるという椎名が下宿してくることになるのだったが、無職である彼を世話するだけの余裕が家にはないので町香は良い顔をしないばかりか、昔から赤字経営にまったく危機感を持たない母と兄によけい苛立ちを募らせる。しかしそれまで肩に力を入れすぎ、頑なに生きてきた彼女の、心の強ばりをやさしく解してくれたのは、出会うなり嫌っていたはずの椎名であった。かくして、二人の関係が恋愛になっていくまでを作品は展開していて、まあそれもオーソドックスなパターンを踏んでいるにすぎないのだけれど、ほんらいはまだ子供じみている少女の、がんばり、背伸びすることの無理が、特定の誰か、つまりは異性の存在を通じ、年齢に相応しい可愛げを得ていくところに、白々しくないだけの実感が備わっているため、予定調和であってさえ、十分なときめきが生まれている。物語の心情は、あくまでもヒロインに寄り添っており、作者は「あとがき」で〈椎名はつかみどころのない感じが良いと担当さんに言われましたが 単に私が椎名のキャラをつかめていなかっただけの気がします〉と述べているが、たしかに今どき草食系男子といえば聞こえはよいものの、青年に与えられた個性は、もしかしたら少女の態度に対して、放られてきたボールを、壁、のように返している程度でしかなく、あまりぱっとしないのだけれども、技量以上の表現に手を広げていないぶん、かえって焦点が一つに絞られ、ぼやけていない印象を持つ。
2010年04月14日
 United by Fate

 やっほう。燃えたし弾んだ。何はともあれ、である。RIVAL SCHOOLSのライヴを生で観るのは、おそらくこの日会場に集まったファンのおおよそと同じく、02年のサマー・ソニック以来のことなのだが、いやしかし正直なところをいえば、前回の公演はフェスティヴァルの一角だったこともあり、たしか良いパフォーマンスだったよね以上の記憶をなくしてしまっていたのだけれど、あらためてRIVAL SCHOOLS好きだわ、なんてグッドなヴァイブレーションを持ったバンドなんだろう、と言いたい。それぐらい魅力的なショーの内容であったよ。

 とにかくまあ、前提としては、01年にリリースされた傑作級のアルバム『UNITED BY FATE』の楽曲を、この2010年に、ふたたび、ライヴで聴けたのが嬉しい。GORILLA BISCUITSやQUICKSANDの活動で知られるウォルター・シュレイフェルズを中心に、イアン・ラヴ、キャッシュ・トルマン、サム・シエグラーの、それぞれ80年代から90年代にかけてニューヨーク・ハードコアのシーンと深く関わってきたメンバーによって結成されたRIVAL SCHOOLSが、そこに響かせていたのは、ポップでありハードでありメロディアスでありグランジィであるような、しごく良質のギター・ロックであった。どのナンバーも、3分の幅をベースに、エモーショナルと評してもまったく差し支えがないだろうね、な感動をとらえていて、今もなお古びてはいない。それらが時を経て、まさしく目の前で演奏されるのだから、びりびりくるものがあらあ。

 はっきりいって、四人が最初ステージにあらわれたときの印象は、ぜんぜんいかしていない。ベースのキャッシュに雰囲気があるぐらいで、あまりはっとしない佇まいのバンドである。演奏がはじまった段階でもそれは大きく変わらない。ギターを携えながらフロントに立ち、ヴォーカルをとるウォルターは、ひょうきんにはしゃいだおっさん、といったところであって、カリズマ云々に喩えられるものはいっさい見られないのだったが、しかしどうしたことか、パフォーマンスがじょじょに熱を帯びるにつれ、ああイメージに釣られるのとはまたべつのかっこうよさがここにはあるな、と思わされる。本質の部分で、がしっと胸を掴まれる。ギター、ベース、ドラムのアンサンブルが、楽曲を前面化させ、ウォルターの真剣な眼差し、必ずしも圧倒的なわけではないが、せつなさをたしかにせつなくのせる歌声がきっかけとなり、グルーヴの底に込められていた情景をひどく鮮明にしているので、いつの間にやら気を呑まれてしまう。

 当然といえば当然なのだけれども、セット・リストに『UNITED BY FATE』からのナンバーがふんだんであったのは嬉しかった。やはり、スローでダイナミックなバラードふうの「UNDERCOVERS ON」はパセティックなほど染みるし、やはり、鮮烈なギターのリフと重低音のリズムとが激しくも轟いた「USED FOR GLUE」はアンセムにも感じられるほど熱く。個人的には、準インストゥルメンタルな「HOOLIGANS FOR LIFE」が最高潮にフェイヴァリットで、あの、すべてが上昇の気流を巻き起こしていくかのような輝き、まばゆさときたら、たまらず、歓喜の声をあげたのだった。

 さらには合わせて披露されたいくつかの新曲がまたナイスな案配であって、おおこれはリリースが予定されているらしいニュー・アルバムにも期待せざるをえない、と思わされる。
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2010年04月13日
 真夜中だけは好きでいて 2 (フラワーコミックス)

 駆け出しのCMプランナーであるヒロイン、春日まどかの恋した相手、桐谷純はライヴァル会社の営業マンであり、悪質な手段を辞さないことでその名を知られていた。しかしまどかの純真で一途な姿は、次第に桐谷の頑なな心を解していく。お互いにお互いを必要とし合う二人であったが、お互いがお互いを必要とすればするほど、結ばれるのは困難であるように思われてしまう。はたしてこの想いは諦められなければならないのか。それが相手のためであれば、自分の気持ちは殺そう、平静でいよう、そうつとめているにもかかわらず、激しく焦がれるばかりなのであった。畑亜希美の『真夜中だけは好きでいて』は、2巻に入り、まどかと桐谷の相思相愛が、両者を各々めぐる二つの三角関係が折り重なることによって、よけい波乱含み、さらに障害の与えられた様子を描く。以前にもいったとおり、ストーリー自体は、いかにもメロドラマティックな筋をなぞらえているにすぎないのだが、これもまた述べたように、作者ならではの手つきが、その、紋切り型ですらあるラヴ・ロマンスの光景を、なかなかのものにしている。人間関係はすっかり泥沼にはまっているのだけれども、それがコメディに近しいテンション、テンポのよさで繰り広げられているため、じめじめ暗くて重たくなるはずの内容に、意外なまでのさやわかさが出てきているのである。桐谷の過去、復讐劇であるような側面、彼に目をかけるMM広告の社長がマゾヒストふうであるなど、アイディアの一つ一つが見え透いていることに驚かされはしないが、それは必ずしも作品の印象を悪くしていない。物語のレベルで、というよりはむしろ、心情のレベルで、作中人物たちの表情を豊かにしている。このことはとくに主人公であるまどかの、どれだけ悩み疲れても明るさの失われない資質に、よく生かされており、結局のところ、桐谷や同僚の幸村が、彼女に惹かれるのもそこだろう。広告の業界を舞台にしている必然性にしても、働く女性を題材にしたリアリティにしても、1巻の時点と比べるに乏しくはなっていて、そのへん、評価が分かれてくるかもしれない。だが、恋愛のままならなさ、ままならなさにも耐えなければならないせつなさは、十分なぐらい胸に響く。

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・その他畑亜希美に関する文章
 『ベイビー☆キスをどうぞ』
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  1巻について→こちら

 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
2010年04月12日
 ナンバデッドエンド 7 (少年チャンピオン・コミックス)

 そう、ついに秘密を知られた剛が猛に連れ去られるのを心配し、〈どーする伍代〉と言う大丸に、伍代は〈マジでもう何もできねぇ…こっからは難破家(アイツんち)の問題だ〉と答えるしかないのだった。小沢としおの『ナンバデッドエンド』の、その物語は、とうとう、直接の問題を抱えた家族以外には誰も解決できない領域へ入る。当然、今まで以上にシビアであり、せつない問題を取り扱わざるをえないのだけれども、さすがこの7巻には、見るべき点が多い。したがって全部は触れられまい。いくら語っても言葉足らずになるのがオチであって、それはつまり、作品自体、たいへんすぐれていることが、ある種の佳境を得て、顕著さを増しているからなのだと思う。

 親の期待どおり育った兄、親の期待に添えなかった弟、こうしたコンビネーションはふつう、前者が世間一般から見ても優等生であるのに対し、後者は世間一般から見たら劣等生である、というふうに解釈される。しかし周知のように、『ナンバデッドエンド』というマンガにおいては、それが逆になっている。ほらまあ、猛なんてさ、どれだけコワモテであっても実家住まいの無職、しまいにはニートと呼ばれてしまう立場なわけだし、このへんの転倒した価値観は、もちろん秀逸なギャグにもなりえたのだが、シリアスな面でもまた、作品の彫りを深くしていることが、ここにきて、はっきりし出している。

 猛に問い質されたのち、両親と向き合い、真実を打ち明けなければならない剛の姿が悲痛である。〈ケンカばっかでヤになった…オレ 普通の高校生やりてぇって思って…普通にオレ…勉強とか部活とか〉ああ、こんなにも普通の、ごく当たり前の願いが、どうして、あれだけ団欒であった家族のシーンを引き裂かねばならないのか。思春期の子供を持った家庭にあって、親子間の葛藤は、決して珍しいものではないだろう。普遍的ですらある。一方、今どきのフィクションでそれをやるにはよっぽどの度胸が要る。テーマとしては古びたところがあるため、一つ間違えば、高級でありたい(だけの)読み手から、陳腐だと見なされてしまう可能性が高いためだ。この難しさを、変化球でありながら、ばっちりストライクに入るコースどりで描いているのが、7巻の前半、あの難破家にディスコミュニケーションが訪れてしまうくだり、といえる。

 自分たちに隠れて白百合高校へと通っていた剛を、責め、怒る両親のロジックは一貫している。父親の勝が〈オレが聞いてんのは なんでオレらに嘘ついたかってことだ!〉と口にするとおりなのであり、母親のナオミが〈お前は家族(みんな)をダマしてた 2年半も!!〉と述べているとおりなのであって、すなわち〈オメーは家族みんなを裏切った!〉ためなのだし、〈オメーは2年半オレらにチョーシ合わせて嘘ついてただけだ…〉からなのである。だが、剛の側に立ってみるなら、むしろ家族を裏切りたくなかったので、仕方なく嘘をつかなければならなかった。親と子の、心情のすれ違いが結果的に互いを傷つけ合う、こうした構図は必ずしも特殊ではなく、一般化されてしまっても構わないものだろう。しかしそのねじれが、難破家に固有のものであるとすれば、作品の構造によっているところが大きい。

 剛の告白によく耳を傾かれたい。〈教えてくれ オレ…行きたい学校に行っただけじゃねーか…オレのやったことって そんなに悪いことかな…〉と思うのは〈10代がケンカばっかで終わると思うと なんか…怖くなって…だってよ 学生ん時って…他にも色々できることとか…オレだってやりたいことも色々…〉あると気づいたからなのだったが、しかし自分に期待してくる両親の気持ちを考えれば考えるほど、正直にはなれなくなり、この苦しみが彼に〈オレだって好きで嘘ついてたワケじゃねーよ!! 千葉制覇とか関東制覇とかしたから何だっつーんだよ!! 全国制覇とかくだらねぇこと言ってんじゃねーよ!こんな家に生んでもらって迷惑なんだよ!!〉という、心とは裏腹な発言をさせてしまう。これは、主人公の剛が、筋金入りのヤンキー一家に生まれた次男であるにもかかわらず人並みの学園生活を夢見る、このような前提があってこそのものにほかならない。

 たしかにこの場合、剛の漏らした〈こんな家に生んでもらって迷惑なんだよ!!〉との文句は、売り言葉に買い言葉、的に出てしまったニュアンスがつよいものの、思春期の多くにとってそのような思いなしは、ファミリー・ロマンスの概念が教えるとおり、資質上、異常であることを意味しない。いやむしろ、正常であることの保証さえするだろう。このとき、今までそうした叫びを剛があげたことがなかったのは、そこに属している彼自身をも含めて難破家の環境が異常だったからだといえるし、他に理想を見る必要がないほどに難破家の環境が幸福に感じられたからだともいえる。いずれにせよ、もっとも注意されたいのは、先に引いた告白のなかで〈10代がケンカばっかで終わると思うと なんか…怖くなって…だってよ 学生ん時って…他にも色々できることとか…オレだってやりたいことも色々…〉と言われている点、要するに、両親の庇護から自立しつつある主体がモラトリアムの段階において自らの将来を模索しようとする、その、しごくナチュラルでもありえる成長の像が、ほとんどまっすぐな愛情で築き上げられている難破家の平和を切り裂いている、ということである。

 変化球でありながら、ばっちりストライクに入るコースどりで、親子間の葛藤を描いているというのはつまりそのような意味において、であって、いうまでもなくそれが『ナンバデッドエンド』に、ヤンキー・マンガのジャンルに止まらないだけの器量を与えているのだけれども、一方でユーモラスな設定のなかに家族の難題を描き出したエピソードは、今日でいうところのヤンパパであったりヤンママであるような層が、思春期に入って自意識に目覚めた子供との確執を通じながら、この社会でいかに保護者としての役割を再確認するか、多少真面目ぶって述べるとすれば、現代的な環境の変化が汲まれているようにも受け取れる。

 言い換えるなら、現在の若い世代が若い感覚を第一義に置いたまま父母のつとめを果たそうとする、その姿が成熟の新たな方向性になりうるかもしれないと仮定されるとき、主人公の発育と周囲の反応がそれを試しているのであって、予想外の事態に当面したナオミから呼び出され、剛の高校進学を世話した中学校教師、長谷川が再登場するのは存外見逃せない。前身にあたる『ナンバMG5』の、剛の妹である吟子が進路に悩むエピソードで活躍した長谷川は、そこにも描かれていたが、難破家の教育方針が是とは限らない推測となってあらわれており、両者の衝突は、そしてここでもまた反復される。

 長谷川とナオミの対談によって表象されている意見の異なりは、ずばりどちらが正論であるかを確定するのは難しい。教師と母親では、立場の違いがある以上、それは仕方がないことではあるものの、あくまでも一般論をとるなら、長谷川のほうに分があるように思われる。しかし彼自身が剛の進学に関し〈私は教師の権限をはるかに逸脱した行為をした…〉と謝りを入れているとおり、ナオミの怒りにまったくの正当性がないわけではない。同時に、剛の選択が、たとえ親子関係上の良識を欠いていたとしても、決して批判にのみ終わるべきではないことを、長谷川は〈難破さん…私が言うのも何ですが…剛のついた嘘に悪意はありません…家族が好きだからそうせざるを得なかったんです そこは…わかってあげていただけませんか…〉と代弁しているのであって、その〈アイツは何も悪いことしていません! アイツは自分を生きてるだけですから!〉という事実が、あらためてナオミの心情に息子の成長と自立を問うことになっている。このへん、タバコなどの小道具がナオミの苦悩をヤンママ(文字どおりヤンキーでヤングなママさんの意)のリアリズムへ寄せるのに役立っている。

 さりとて、『ナンバデッドエンド』の本筋であり本領は、ヤンキー一家の次男であることを課題として持たされた剛のハイスクール・ライフ、限られているがゆえに貴重な高校生活を、高いエンターテイメント性を介し、ファニーでありつつエモーショナルに切り出していることであった。これまでのストーリーにおいて、主人公が、生まれや育ちのせいで性格が歪んでしまった人物たちと渡り合い、勝利もしくは和解してきたのは、彼自身が生まれや育ちによって肯定されている、さらには彼自身が生まれや育ちを肯定していることの保証となっていたためにほかならない、こう作品のロジックを解釈できる。それが今回は剛を傷つける原因に裏返ってしまっているのだから、こたえるに決まっている。家を飛び出し、へこんだ彼を励まそうとする伍代と大丸の友情はやさしい。とくに伍代、いいやつだな、おまえ。かつて伍代が母親との確執を剛に救われていたことを思い返せば、なお感慨深い。〈これからお前がどーなりたいかだけハッキリすりゃ 今すべきこともハッキリすると思うんだけど…〉と、剛にかける言葉、表情に、照れ、は見えないだろう。

 しかるに、剛をふたたび奮起させる直接のきっかけとなっているのは、これが意外と重要なのだけれども、藤田さんとのメールのやりとりであって、そのあたりが、コミカルな場面のつくりも含め、じつに秀逸なのである。たまらないものがある。そう、どれだけどん底の気分にあっても、好きな相手からの連絡一つで、助けられてしまうことがある。思春期に固有なことではないが、思春期に顕著なことでもある。それが伍代や大丸の友情を前段とし、たいへんよく描かれている。藤田さんからのメールが着信したとたん、携帯電話をするどい手つきで開く剛の表情を見られたい。あれはたしかにギャグである。藤田さんのチャーミングさ(藤田さんには呼び捨てしたくないような魅力が絶対にあるよ)も半ばギャグである。しかしギャグである以上に、少年の励まされるが何たるかを、的確に再現している。いやほんとう。

 友情と恋愛の両方を糧に、ようやく剛は〈そうだ…忘れてた! スゲェしたいことあるじゃんオレ!! 白百合だけは卒業すっぞ!! 藤田さんやみんなと一緒に!!〉という決意とともに晴れやかな笑顔を取り戻すのだったが、それを、学費の工面を理由にカラオケ・ボックスでアルバイトするエピソードへとシームレスで繋いでいくのは、展開上、うまく出来ている。作者の技術だといえる。かくしてこれが、親子間の葛藤を題材にしている一方で、主人公にとって高校時代最後の夏休みを舞台にしていることがわかりやすくなっている。

 実際問題として、00年代以降、ヤンキー・マンガのジャンルは、夏休みをスキップしてしまうことが多い。その理由の一つは、学生生活の内容がどうというよりも、学園をベースに、国盗り合戦、軍記物をやっているにすぎないものがほとんどだからであって、おそらくは、作中の人物を内戦状態の外へ置き、ドラマを付け加えるのは、物語に余剰を持ち込むこととなりかねない、つまりは不要な設定であると見なされているためで、『ナンバデッドエンド』が、他と一線を画しているのは、やはりこの点、学生生活をあくまでも学生生活として描くこと、不良少年のモチーフを、国盗り合戦や軍記物のスタイルへとすり替えるのに適した方便とはしていないことだろう。驚くべきは、それが結果的に、しょせん地区予選程度の抗争劇を繰り広げているにすぎない他の作品に比べ、特攻服をまとった主人公による全国制覇という、スケールの大きな成り行きを孕ませてしまっているところでもあった。

 いずれにせよ、都内にある伍代の家で居候する剛は、渋谷の街に出、カラオケ・ボックスのアルバイトを得る。これは、距離と交通を考えるなら、千葉の実家にいてはありえなかったシチュエーションをもたらしているのだが、そこでストーリーに入ってくるのは、どうやら渋谷では知られた顔であるらしい二人組、見るからに凶悪そうな雰囲気を漂わせたグリとグラのコンビである。今後の展開を先取りしていえば、グリとグラの存在は、暴力を縦の軸に、不良少年のイメージを横の軸にしながら、剛と猛の兄弟たちと一つの対照をなしていくこととなる。

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 『ナンバMG5』
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2010年04月08日
 前巻からの引き、そしてこの最終11巻に描かれる全国大会の決勝戦から余韻まで、たいへんぐっとくるものがあった。野部優美の『空手婆娑羅伝 銀二』だが、一人の不良少年が、空手との出会いを通じ、とくに精神的な面で成長していく過程を、余すことなく描ききったと思う。作風は暑苦しく、ともすれば古くさかったかもしれない。だがしかし、そのような観点がマイナスとはならない、いやむしろそれ自体が、普遍的とさえ言い換えられそうな、色の濃い感動をもたらしているのである。クライマックスはもちろん、主人公である銀二とライヴァルにあたるピッコロ(伊東)の、はたしてどちらが最強に相応しいか、不屈さを試すがごとく、勝敗を分けていくところに見られる。試合内容のすばらしさは、小林まことの『柔道部物語』における三五と西野のそれを彷彿させる。一方で物語はここまでに、道場の人々、家族や友人を含め、周囲の愛情により、個人がつよく生かされる様子を、まっすぐ汲み取っていたのであって、そのすべてが決勝戦での打ち合いを介しながら、あらんかぎりのやさしさへと結実する点に、やはりぐっときてしまうのだよ。決勝戦の半ば、銀二とピッコロの対照を描くにさいし、ややアクロバティックな手法がとられているのだけれども、それはとてもうまくいっている。身体と内省の表現においては後者に寄りすぎではあるものの、拳の交わる一撃一撃を、あくまでもコミュニケーションの延長として、どう比喩的にあらわしたらよいか、すくなくとも作者なりの解答例が出されていることを評価されたい。やがてピッコロにかける銀二の〈おーし いつまでもこんな暗い所にいねーで 明るい場所に行こ――ぜ さ 立て〉という言葉の重みが、あるいは反対に深刻な世界を晴らすような軽さが、作品の鮮度を上げている。かくして銀二がピッコロの呼び名を変えるのは、さりげないが、じつに効果的な印象を持つ。所在のない人間はいつだってどこにだっている。だからこそ、誰にだって救いはある、必ずや互いが互いに互いを認められる人間と巡り会える、決して孤独ではない、と信じなければならない。たぶんそれは、いくら繰り返されても構わないテーマを担っているので、ぐっとしてしまう。

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2010年04月07日
 女神の鬼(15) (ヤンマガKCスペシャル)

 時として人は、趣味や世代の違いごときを理由に争う、壮絶な諍いを繰り広げる。しかしその、たかだかにすぎない程度のことが死活問題にまで発展してしまうような水準の持ち方、トライブやイズムとでもすべき対立の身も蓋もないありさまに、今日性がうかがえるのであれば、田中宏の『女神の鬼』が、作品の舞台に、高度に資本化され続けていく社会においてメルクマールたりえる80年代の過去を選んでいるのは、現代史の本質を探るうえでの必然にほかならないのであって、まあ作者がどれほど自覚的であるのかは定かでないにしても、さすがすぐれた嗅覚といえよう。この15巻の冒頭、鎖国島の王様を目指すギッチョのため、そして自分の不甲斐なさを晴らそうとし、単身、西側のテリトリーに忍び込んだアキラが、家屋にされた落書きを目に、呟く言葉を見られたい。〈よいよ‥‥見覚えのあるラクガキがあるわい‥‥うす気味悪ィモンばっかし描きゃ〜〜がって…〉そこには、場所を本土と離島に違えても何一つ変わらない、決して理解不能な者同士のあいだに横たわる価値観の衝突が、暗に示されているのだと思う。広島の市街にあって、のちほど鎖国島に集められていった不良少年たちは、みな同類、鬼として忌むべき存在に一元化される。だが結局のところ、そのなかにも差異の避けられぬことが、まさしく命を賭すほどに彼らを決戦させているのである。

 ところで先々の展開のネタを割ってしまうことになりかねないのだけれども、ちょうど発売のタイミングが重なった本巻収録分(第百二十二話)と『ヤングマガジン』NO.18掲載分(第百十八話)は、ぜひとも合わせて読まれたい内容になっている。後者に対する伏線の一部が前者に含まれているからなのだったが、それ以上に、寄生族と呼ばれる少年たちの存在感が、双方を通じ、ぐっと高まる仕掛けになっているためでもある。社会からは悪とされ、鬼とされ、鎖国島に送られていったのは、いわゆる暴走族の不良少年ばかりではなかった。ドングリマナコくんを例に、いっけんすれば弱々しく、人畜無害の坊ちゃんであるような少年たちが、他方に含まれていた。不良少年でもない彼らがどうして、鎖国島に追いやられなければならなかったのか。西側のテリトリーに入ったアキラを介し、ついに読み手はその理由を知ることとなる。壁一面に貼られた幼女の写真に〈………‥なるほど‥‥いわゆるお前ら寄生族っちゅ――のは…違う意味であっちで暮らせん鬼っちゅーコトか〉と納得させられるのであって、そうした趣味嗜好をまったく、変態の類としてしか理解できないため、不良少年たちに蔑まれた目で見られていることが、あきらかになるのだった。が、ここで留意しておきたいのは、やっぱり変態って気持ち悪いよね、ということではない。暴力に走ることも、性癖が異常であることも、社会の側からすれば、その質の違いは関係なしに、病巣として切り離したいということなのである。また、15巻の段階で寄生族の〈ホンマの王様〉としてアナウンスされている人物の正体がじつは、『女神の鬼』のなかでも、きわめて病んだ魂の持ち主ともいえる○○○である点は見逃せない(現時点では伏せておくのがよいだろうね)。

 要するに現在の感覚にしたら厳しめであるぐらい、暴走族も寄生族も、犯罪者でなければ病気のせいであるかのように扱われているわけだ。そこに物語が80年代であることの理由を見てよいものの、いやじっさい、12巻でギッチョが生まれ故郷を発たんとするくだり、松尾老人が問うとおり、世間から鬼と判断されてしまった以上、社会の側に彼らを受け入れられるだけの余地はない。当人たちにしても、この社会には自分が生きられる環境はないと察しているので、鎖国島へ渡ることを待望するよりほかなかった。

 かくして、もはや離島にしか居場所を与えられなかった若者たちの、トライブやイズムを違えてしまったがために共存はかなわず、互いを打倒しなければ自己の正当性も得られない、このようなサヴァイヴァルが幕を開けているのである。さらにそれは同世代間の闘争を、そして異世代間の闘争をも内包するだろうことは、とうとう西側への潜入を見つけられてしまったアキラを取り囲む敵、敵、敵の面々によってはっきりとさせられている。噂に聞いた先輩風情、元極楽蝶、宿敵の金田、それらは必ずしも一枚岩ではない。だが、各々の因縁が絡んだ先でアキラと、ひいてはギッチョと、真向かいの等しい側から対立するようなかっこうで結びついている。このへん、田中宏の緻密な設計図が感じられるところであって、ようやく鎖国島以前のエピソードが結実してくるのだけれど、構造のレベルでいうなら、かつては大勢を巻き込み、広い枠内で相対化されていた者同士を、狭い範囲に移すことで、その相対化をより直接的にし、つよめることになっている。ここで注意しておきたいのは、そうした相対化の免れえないことに、作中の人物たちが自覚的な点なのであり、むしろ彼らは進んでそれを引き受けているがゆえに、諍い、争いのなかに身を置くことを良しとしているのだ。もちろん、サヴァイヴァル自体はプロセスであって、方法上の問題にすぎない。結果としてのぞまれているのは、間違いなく、自他の優劣を明確とすることにある。この意味において、王様になることで獲得される絶対性とは、鎖国島においてじつに効率的な措置、具体的な権利だろう。

 鎖国島の王様とは、いわば相対化を前提とし、その地位の、価値が求められるような計算である。ただし、すくなくとも一人だけ、これを共有することなく、王様になろうとする人間がいる。そう、主人公のギッチョにほかならない。彼の闇雲なスタンスは、鎖国島の特殊なルール下にあっても、常軌を逸していることは、13巻からこちらの展開が教えているるとおりであるし、目的の前にはほとんどのライヴァルが意識されていない。あくまでもア・プリオリな欲望として行使されている。際立って純粋といっても差し支えがないと思う。ここで押さえておきたいのは、アキラをめぐり西側の連中が一堂に会する場面、ほぼ初見である渥美と荒木に対し、雛石兄によってギッチョが〈何より‥‥最後の‥‥‥‥‥いや‥‥最も色濃い‥‥内海一派じゃ!!〉と紹介されていることであった。渥美、荒木、内海の関係性についての詳しくは省くが、まず重要なのは、彼らからは内海を代理する人間としてギッチョが認識されている、この点だろう。濁りの巣のエピソードに描かれていたように、内海は亡くなった恋人(女神と言い換えてもよい)の記憶を手がかりに、トライブやイズムを越えようとした、あるいは一時的に越えていったのだけれども、結局のところ、社会から鬼として見なされたまま、死んだ。その役割をギッチョの引き継ぐかもしれない可能性が、渥美と荒木との邂逅を通して、読み手に仄めかされているのである。しかし同時に思い返されたいのは、1巻の幕開けで不吉な予告編のごとく描かれていた風景、悲痛なギッチョの独白であって、もしもあれが破滅をあらわしていたのだとしたら、純粋なまでの欲望の先、鬼として鬼の群れのなかを生き抜いたギッチョはいったい、何を果たすことになるのか。物語は未だ予断を許さずに続く。

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 1巻と2巻について→こちら

 『KIPPO』1話目について→こちら
2010年04月05日
 君のナイフ 1 (ジャンプコミックスデラックス) 君のナイフ 2 (ジャンプコミックスデラックス)

 持ち味のはっきりとしたマンガをいくつも描いてきている小手川ゆあだが、作家性とでも呼ぶべきは、当時流行りのサイコ・サスペンスを手本に置き、作品の心情を次第にアウトサイダーの側へと寄り添わせていった『おっとり捜査』の後半において、すでに具体的であったと思う。すなわち、次のとおり述べることが許されるなら、この社会から逸脱してしまうかもしれない可能性を今日的な原罪として見ることであって、それが織り込み済みである以上、逸脱してしまうかもしれない可能性を直に生きてしまった人間を受け入れられるだけの余地があるかどうかを、世界に対し、問うている。このことに関してはもちろん、『ARCANA』や『ライン』、『死刑囚042』などの諸作にも敷衍できるだろうし、最新の作として1、2巻が同時にリリースされた『君のナイフ』からもまた、同様の意識がもたらされる。

 高校の臨時教師として働く志貴雪鷹は、とある晩に知り合った女性から〈一回人を殺して500万円もらえるとしたらどうする?〉という不穏な提案を持ちかけられる。個人的な事情により大金を必要としていた彼は、半ば疑いの眼差しで話を聞くのであったが、はたして殺人の代行は現実のものとなってゆく。中国人男性のヤン、本職は刑事の久住と、各々の素性を知らぬままにチームを組まされた志貴は、悪質な手口で富を築く会社役員をターゲットとして殺さなければならない。じっさい、目の前で人が死ぬ、殺されて死ぬ、その場面に立ち合った彼は、臆しながらも使命を果たすべく、家捜し、厳重に閉じられていた地下室に足を踏み入れる。しかしそこで志貴が出会ってしまったのは、霊感で人の心を読める少女さつき、であった。父親の死体を見たにもかかわらず、自分たちの正体を知り〈すごい!あなたたち正義の味方だわ(略)私も仲間になる!! 連れてって!!〉と喜ぶさつきに唖然とし、予想外の事態に対処すべく、とりあえず彼女とともに現場を離脱した志貴と久住は、今後の展開に頭を悩ませる。さつきを殺したくない志貴に彼女を引き取らせた久住は、自分たちが起こした事件の犯人はようとして不明であることを、刑事の立場から確認し、笑みを浮かべる。一方、平凡な市民でしかない志貴は、良心の呵責に苛まれることになるのだった。

 かくして『君のナイフ』は、この社会から逸脱していきながらもこの世界に止まろうとする人物たちの様子を、殺人の代行というアイディアのなかに描く。与えられたターゲットについて、それがその個人に特定されなければならない理由は、志貴たちの側にない。にもかかわらず彼らの内面には、殺人を良しとしてまで目的をなさなければならない動機がある。両者の齟齬にサスペンスが生まれていて、宙づりにされているのはおそらく、正義の存在ということになるのだろう。誰のもとにも正義があることと誰のもとにも正義がないことの区別は、いったい何によってつけられるのか。社会的な基準を向こうに回すことで、心理の表層ばかり重たくなってしまった現代をドラマ化しているわけだが、必ずしも作品は、正義とは何か、倫理のあるべきを大上段に構えていない。むしろ確定された倫理はどこにもなく、足場とはならない、それが常であり、不安定であるような世界像をフィクションにあらわしているのだといえる。

 日常を踏み外してしまった志貴の葛藤をよそに、殺人の依頼は次々とやって来る。残酷な犯罪者でありながら逮捕から逃れている男がターゲットであるとき、久住がそれを容赦なく裁こうとするのを目にした志貴のモノローグが印象的である。〈不思議だ クズミのことが恐ろしくない 殺人も…それどころか好感さえ感じる 正義のためでも 金のためでもなく クズミは自分のために殺してるんだろう オレはずっと殺しに意味付けを探してたけど それは必要ないのかもしれない クズミは自分のため ただそれだけで…〉これは自己の正当性が、もしかすれば外在に頼れるものではなく、各個の心因に根ざしていることを射ているように思う。べつの価値観を用意することで、罪悪感を棚上げし、自分を納得させようとする志貴に比べ、久住の手続きはもっとずっとシンプルに見られており、それが先の言葉に繋がっているのだ。

 これを踏まえながら『おっとり捜査』の9巻を開かれたい。ある人物が自分の正当性を以下のとおり述べている。〈欲しい物は欲しい 犯りたい時は犯り 喰いたい時は喰う 込み上げてくる衝動を抑えきれない(略)オレたちはきわめて原始的な人間なんだろーな〉そして〈――――お前もか〉と、主人公にその行動原理を尋ねる場面である。作中でそれを言っているのは、社会から逸脱するほどの猟奇性を生きてはいるものの、すぐれて社会的な人間として描かれている。つまり、彼の資質が悪であるという判断は、社会性の有無によってのみでは、的確にされえない。だが、犯罪者にほかならないという自覚を〈オレたちはきわめて原始的な人間なんだろーな〉と指しているのは、話を『君のナイフ』に戻すのであれば、志貴が〈オレはずっと殺しに意味付けを探してたけど それは必要ないのかもしれない クズミは自分のため ただそれだけで…〉と見なす久住の態度にも通じる部分があるだろう。

 ところで作者の過去作を例に出したが、『君のナイフ』における志貴とさつきの関係にしても、前例がないものではない。いうまでもなく『おっとり捜査』の秋葉とみずほであったり、『ARCANA』の村上とまきであったり、『死刑囚042』の田嶋とゆめであったり、成人男性と純真な少女のペアは、小手川ゆあのマンガにとって鉄則ともとれる。おそらく作者が、このパターンのコミュニケーションを、ギャグの面でもシリアスな面でも、得意として扱っているというのはある。だがそれ以上に、欠損を抱えた者同士の結びつきであるような側面が、この社会から逸脱してしまうかもしれない可能性と相対する要素となっている。この世界に逸脱の可能性を生きてしまった人間が受け入れられるだけの余地はあるかどうか、たとえささやかであったとしても世界の一片と一片に間違いない二人が関わり合うことのなかに、もしかすればそれは示されようとしているのだと感じられる。

・その他小手川ゆあの作品に関する文章
 『ショートソング』(原作・枡野浩一)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『死刑囚042』第5巻について→こちら
2010年04月04日
 newbohemia.jpg

 まいったな。軽々しく傑作と口にすべきではないのだったが、しかしこれは傑作と言って差し支えがあるまいよ。フィンランド出身の3ピース、LAPKOの通算4枚目となるフル・アルバム『A NEW BOHEMIA』のことだ。08年の前作『YOUNG DESIRE』が個人的にジャストな内容で、すっかりと贔屓になってしまったバンドではあるものの、いやはや、それを上回りつつ、アグレッシヴ・メランコリーの何たるかをさらに聴かせてくれるのだから、諸手を挙げるよりほかない。サウンドは激しさを増し、メロディはなお印象的に、コンパクトなスタイルのなか、悲哀と高揚とが鮮やかなほどポップにめまぐるしくロックする。以前にも増してハードな触感がつよまり、また中性的な声質のヴォーカルも手伝って、90年代頃の、要するにストレートでグランジィなアプローチを採用していた時期のRUSHを彷彿とさせるところが大きくなった気がする。そしてそれが功を奏し、ドラマティックかつダイナミックな展開に魅せられるものも多くなったように思う。とりあえず、である。バック・グラウンドにスケールの広がりを演出、同時にトリオ編成ならではのスリリングな演奏を繰り広げる1曲目の「I DON'T EVEN KILL」で幕開け、ごつごつとしたリズムをともなってスピードを出していき、場合によってはTHURSDAYにも近しい衝動、轟音が強調された2曲目の「KING & QUEEN」へ雪崩れ込む、そのかっこうよさを耳にした時点でガッツ・ポーズをとったね。リード・トラックにあたる3曲目の「I SHOT THE SHERIFF」は、これぞLAPKOとでもいうべき旨みの詰まったナンバー、キャッチーでエネルギッシュな3分間にときめく。アルバム・タイトルでもある4曲目の「A NEW BOHEMIA」は、センチメンタルなメロディが魅力的である一方、コーラスに入ろうとする展開において、ドラムの猛烈になるさまがぐいぐいくる。前半はもちろん、後半にもナイスな楽曲が揃えられているのだけれど、7曲目の「PLEASE NEED ME」をハイライトに挙げたい。最高潮に好き。ミドル・テンポを基本に、低音はずっしりと重く、濃厚にグルーヴがうねるなか、きらきらとしたギミックの響きを得て、ソリッドなギターの切っ先が、題名どおりのフレーズが、どこまでもせつなく、鮮明にエモーションをシェイプする。一瞬、楽曲の冒頭に通じるかたちで、ラストを迎えたかを装い、その後、打音を重ねたエンディングを盛り込んだ構成も、なかなかに決まっている。スローなペースの6分間がそのまま、甘美な叙情を浮かび上がらせる10曲目の「SHARE TODAY」は、ひじょうに豊かな作品の、全体を締めくくるのに相応しい。『A NEW BOHEMIA』は、劇的なアルバムである。パセティックなアルバムであって、躍動にあふれたアルバムである。そうしたすべてに胸の打たれる。

 『YOUNG DESIRE』について→こちら

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2010年04月03日
 サンクチュアリ-THE幕狼異新 1 (ジャンプコミックスデラックス)

 野口賢、冲方丁の原作を得、新選組を描く。とはいえ、この『サンクチュアリ -THE幕狼異新-』の1巻において特徴的なのは、近作を経て、いよいよ個性となりつつある野口式のサイキック・バトルが、幕末を舞台に全開させられていることだろう。すなわち現在の段階では、冲方の貢献は、物語のレベルではなく、設定のレベルに大きい。新選組とは。と、わざわざ説明する必要はないと思うが、ここでのそれは、近藤勇の遺命を土方歳三と沖田総司が引き継ぎ、是が非でも存続させようとするものとして描かれている。すなわち近藤はすでに死んでいる。しかも池田屋の事件で命を落としたことになっている。かくして史実の改変が施されているのだけれど、新選組のなかで近藤の不在を承知しているのは土方と沖田のみであって、影武者のごとく幻術で近藤勇(いさみ)を演じるのが、深雪太夫という謎めいた妖女である。その、土方、沖田、美雪太夫、の三名が、近藤によって託された美意識を象徴的に指していうのが、つまり「聖域(サンクチュアリ」なのであり、なるほどタイトルもそこに由来しているわけだ。しかし先ほども述べたとおり、作中で展開されるサイキック・バトルのはったりこそが、最大のフック、新選組に加わった隊士たちの壮絶な生き様をもっともよく伝えてくるものになっている。野口は過去作の『BE TAKUTO!!』で、車田正美のマンガの一節を引いていたことがあったが、荒唐無稽なサイキック・バトルが野郎の信念をダイレクトに代弁するかのようなスタイルは、車田のそれに近しい。異能の力を使い、異能の力を持った敵と攻防する、そういう新選組隊士たちの姿は、まるで『風魔の小次郎』の戦士たちを思わせる。細かい点はさしあたり抜きにしたっていい。土方と沖田はもちろん、斎藤一や島田魁、井上源三郎らが、超常的な決戦を繰り広げることに燃えられたなら、じつにしめたものである。

・その他野口賢に関する文章
 『狗ハンティング』(原作・夢枕獏 / 構成・子安秀明)
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『KUROZUKA -黒塚-』(原作・夢枕獏)
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら