ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年03月19日
 文学界 2010年 04月号 [雑誌]

 『文學界』4月号掲載。村上龍の『心はあなたのもとに “I'll always be with you, always”』が連載三十五回にして完結を迎えた。あらかじめ予告された愛する人間の病死、とでもすべき一昔前のケータイ小説的あるいはメロドラマの様式にそったプロットを、中年男性の慰みに改変したかのような内容は、おそらく多くの読み手にとってあまりはっとしないものであるかもしれない。が、しかし村上龍の作家性を基礎としながら考えるとき、部分部分には着目させられる点があった、というのは過去に述べてきたとおりであって、さしあたり私見を書き留めておきたい。

 今日において、村上龍はかつて並び称された村上春樹ほどの影響力を持ちえていないように感じられる。個人的にこれは、たとえば柄谷行人と東浩紀の、コジェーヴがいう動物化の理解の相違を参考にするのであれば、後者のそれが、すくなくとも文系的な認識のうちにあっては、一般的になりえたこととパラレルなのではないか、と受け取れる。いうまでもなく、この場合に読み返されたいのは、柄谷が村上龍について論じた「想像力のベース」であって、東が直接的に村上春樹を引用している『クォンタム・ファミリーズ』もしくは『ゲーム的リアリズムの誕生』であろう。

 柄谷は「想像力のベース」で〈コジェーヴは、ポスト歴史的な世界では「アメリカ的生活様式」が支配的になるだろうという。そこでは、(階級)闘争はなく、要求は満たされ、したがって、「〈世界〉や自己を理解する」という思弁的な必要性を持たないがゆえに、人間は「ポスト歴史的な動物」になるといっている〉として〈日本の一九七〇年代後半にポストヒストリカル(ポストモダン)な傾向があらわれたとしたら、その一つは明らかに村上龍にあり、もう一つは村上春樹にある。しかし、この二人は対照的である。春樹が「意味」を空無化するためのアイロニカルな自意識の繊細さを誇示しているのに対して、龍は圧倒的な動物性のなかから「意味」の萌芽を享受するといった感じである。たとえば、『限りなく透明に近いブルー』には、アメリカ的「動物性」に没入しながら、なおそれについて行くことに耐えきれないような「精神」の萌芽がある〉といっている。そこで掴まえられている村上春樹のイメージは、現在のものとさほど大きく変わるまい。

 ところで「想像力のベース」を念頭に置きつつ、「村上龍――反=人間の想像的経験」(『反=近代文学史』)という文章を書いているのが、中条省平である。中条は〈総体として見る村上(引用者注・村上龍)の「動物性」は、コジェーヴの描くそれよりはるかに攻撃的で、明確にまた即座に、反=人間主義を指向する〉と述べ、村上龍の作家性を探っているけれども、重要なのは〈『限りなく透明に近いブルー』では、ひたすらネガティヴで、受動的なプロセスでしかなかった事物の腐敗のイメージのなかに、『海の向こうで戦争が始まる』では、腐敗させるものと腐敗させられるもの、破壊するものと破壊されるもの、能動と受動の二面性が発見され、その闘いの局面に作者のまなざしが注がれていることがよくわかる〉といっていることであって、そしてそれが『コインロッカー・ベイビーズ』の出発点だとしていることだ。

 同じく中条は〈ミニチュア的ヴィジョンに執着する『限りなく透明に近いブルー』の主人公の人間造形は(略)『コインロッカー・ベイビーズ』のハシのそれと正確に重なり合う。ハシもまた見ることの完全な受動性に囚われた人物(略)なのだ。だが、『コインロッカー・ベイビーズ』では、ハシのかたわらにキクというもうひとりの主人公が配されて、制御のきかない能動性のカウンターパートを受けもつことになる。この受動と能動の衝突が、『限りなく透明に近いブルー』には欠けている『コインロッカー・ベイビーズ』のドラマティックな原動力となるのだ〉という。その、受動性と能動性の両端にかかる傾きのありようにこそ、もしかすれば村上龍と村上春樹における動物性の相違が顔を出している。

 そう、村上春樹の小説の主人公たちの多くは、他の誰かから働きかけられるのを待っているように、きわめて受動的な人物ではなかったか。一方、村上龍の小説の主人公たちの多くは、あたかも攻撃性の高い人物であるふうに思われるほど、他の誰かに対し能動的に働きかける。

 先般も引いたけれど、ここでもう一度、村上龍の『音楽の海岸』という小説の、クライマックスでとある人物が口にする一節を見ておきたい。「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。他の誰かからの自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」といわれているそれは、たしかに能動性のつよい肯定を示唆していると思われるのであって、受動的に喚起される妄想が必ずしも希望になりえないことを教えている。

 とりいそぎ注意を加えておかねばならないのは、中条がいうようにハシとキクの存在に象徴される〈受動と能動の衝突が、『限りなく透明に近いブルー』には欠けている『コインロッカー・ベイビーズ』のドラマティックな原動力〉であるとするならば、それはおそらく、87年の『愛と幻想のファシズム』におけるゼロとトウジ、フルーツのトライアングルを経て、92年の『音楽の海岸』における石岡とケンジ、ソフィ(またはサイトウとケンジ、ユリ)のトライアングルの形成が不十分であったことにより、完全に崩壊してしまっている点である。そしてその物語の先にあらわれているのが、前段の「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」という、一つの断言であるような仮定にほかならない。

 受動性と能動性の二項は、ともしたら、村上春樹がいうところの、あるいは村上春樹をめぐる言説がいうところの、デタッチメントとコミットメントに通じるものであるかもしれない。だがそうしたとき、コミットメントの一語は、他の誰かへの働きかけではなく、もっと大きな枠組み、社会や世界に対する働きかけにまで飛躍してゆき、自然と共同体の困難を包括しようとするのは、なるほど、いわゆるセカイ系に近しい態度だと解釈することもできそうだ。さてしかし、本題は村上龍の『心はあなたのもとに』であったな。

 たしょう乱暴ではあるものの、誤解をおそれずにいうなら、村上龍の『心はあなたのもとに』も、村上春樹の『1Q84』も、主体の意識のために他の誰かが犠牲となる、このような意味では、物語に等しい性質を共有しているのだし、じっさいそこまで還元してしまったならば、美嘉の『恋空』ともそう変わりはなくなる。にもかかわらず、三者はまったく違った位相に立った作品であると、たいていの場合、受け取られるに違いない。では『心はあなたのもとに』は、主体の意識のために他の誰かが犠牲になる、それがどういった結びを導き出しているか。

 この最終回において、あらかじめ予告されていたとおり、『心はあなたのもとに』の語り手は、ついに恋人であるような女性をうしなう。結果、喪失感や無力感に囚われるのであったが、当然、そこからどうやって回復するかが、小説の主眼となってくるだろう。正直な感想をいうなら、それはきわめて陳腐なお話しにすぎない。

 主人公の西崎健児は、亡くなった香奈子の弟との面会を約束し、ホテルのバーで彼を待っているあいだ、なぜかしらとあるアイルランドの女性ジャーナリストのエピソードを思い出し、考える。やがて弟がやって来、彼と話しながら記憶を辿るうち、こらえきれず、涙してしまう。なぜならば、ふいに〈なぜアイルランドの女性ジャーナリストのことを思い出したのか、わかった。女性ジャーナリストの死はアイルランドという国家を変えた。誰が考えても、その死には意味がある。生きていたという証しを残したということだ。香奈子は誰にも知られることなく、一人で自分の部屋で倒れたまま人生を終えた〉のだと感じ入ったからである。そして、香奈子の弟に向かい〈ぼくは、香奈子さんが確かに生きていたという証しを、何とか残したいです〉と申し出、自分以外には誰にも気づかれないかたちで、ある種の記念碑をこの世界に建てるのだった。

 たぶん、投資家として成功している主人公のビジネス面が、香奈子とのラヴ・ストーリーであるような箇所と、長らく並行して書かれていたことの理由も、その女性ジャーナリストのくだりを介することで、一点に折り重なる。要するに、個人と社会の関わりと個人と個人の関わりが、いわくありげな対照をなしていたのだという辻褄が合うのである。いやまあもちろん、それを汲んでもやはり陳腐さは拭いきれない。しかしながら『1Q84』や『恋空』と等しく、主体の意識のために他の誰かが犠牲になる、このような物語が追われているなかで、あくまでも他の誰かへの働きかけがペースメーカーの役割を果たしていたあたりに、作家性の、作品上の、意義を取り出せる。

 ほんとうは村上龍の小説における告白の機能についても触れるべきであったが、そこまでいけなかった。

 第三十四回について→こちら
 第三十一回について→こちら
 第二十七回について→こちら
 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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