ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年03月10日
 幻仔譚じゃのめ 7 (少年チャンピオンコミックス)

 すくなくとも自分にとって、梅田阿比の『幻仔譚じゃのめ』は、家族の繋がりをめぐりめぐるすぐれたファンタジーであった。精霊や化け物との共存が不可避であるような状況を解れ目とし結び目とし、子が、親が、弟や姉が、妻や夫が、お互いがお互いにお互いの必要性を心の奥深いところで確認し合い、次第に育ってゆくあたたかな温度をすばらしく繊細なタッチで描ききってみせたと思う。もちろん、さまざまなエピソードのなかには友情や恋愛の要素も多分に含まれてはいるけれど、この完結編となる7巻を読み終え、胸に去来するのはとくに、ああこうして家族は一つになることもできるのだな、という感動のつよさである。そしてそれは必ずしも血縁上の問題を述べているのではない。本来は他人であった者同士が一個の家庭を得、関係することで、遺伝や環境や運命すらも包括してしまう、かのような広さと大きいイメージを、なるたけ身近で小さな物語の延長線に掴まえているのだ。

 それにしても『幻仔譚じゃのめ』というマンガを語るうえで、ぜひとも触れておきたくなるのは、やはり父親の存在だろう。象徴的に見られたいのは、義理の姉弟となり、成り行きから不思議な能力を分かち合わなければならなくなった主人公たち、朝灯と邑の父親である伊原陽の、じつに頼りなく平凡な佇まいだと思う。物語の初期の段階において、彼はまさしく蚊帳の外に置かれていた。これはひじょうに重要な点であって、作者の意図したところに違いないのだが、父親の再婚相手である巴が蛇の精霊の末裔であったため、その息子である邑とともに数々の奇異と遭遇することとなる朝灯、たとえば彼女たち三人の生活が絶えず非日常と交わり続けることを不幸だとしたとき、それを知らず、のほほんと一人だけごく普通の日々を送る陽の、気楽ともとれるありようは決して責められるものではない。いやむしろ彼のそうした位置づけは、ある種の苛酷さと接することで消耗した妻や子供たちが、ひとときそれを忘れ、帰る場所として、要するに日常の重み、ありがたさを与え、休ませる役割を引き受けていた、と解釈することができる。

 かつてのフィクションであったなら、そのような役割は、母親もしくは母性によって補われていたものであったかもしれない。だが『幻仔譚じゃのめ』では、あたかも父親もしくは父性がそれを肩代わりしている。そこから批評性とすべきを指摘してもよいし、鋭敏な感性を見て取っても構わないのだけれど、このことが作品の終盤において、さらに印象的な場面をつくってゆくこととなる。6巻に収められたエピソードで、ついに陽は自分以外の家族が抱えていた秘密を知らされる(第48話)。そして誠実ともいえる対応をもって妻や子供たちを包み込もうとする(第49話、第50話)。このくだりに関しては、戸惑いや躊躇い、葛藤が足りていない、描写が十分ではない、と述べられる向きもあろう。しかし平凡な男性にすぎないはずの彼が、訳ありである家族の屈託を余すことなく抱きかかえ、すべてやさしさで覆ってしまう、これこそが物語の構造上、何よりも優先され、あらわされなければならなかったことは、7巻の、つまりは全体のクライマックスに至って、証明される。

 さまざまな因縁の入り混じる最終局面、その、直接の引き金となるのは、伊原家の主である陽と、邑の実の父親であり、志田家を代表する兵梧の面談である(第56話)。伊原家と志田家の対照は、作品の中盤よりこちら、本筋と呼んで差し支えのない部位を担っていたわけだけれども、それがとうとう陽を巻き込むのは、娘や息子、妻たちのただならぬ秘密を、彼自身が認めたためであった(第49話)。そこでようやく、志田家の長女であり、邑の腹違いの妹である出流の、伊原家への視線からうかがえるとおり、両家の立場は、完璧な反対性を帯びる。しかして、等しく四つのピースで出来上がった家族同士の、ちょうど長男である人間たちが、父親もしくは父性の一時的な喪失をきっかけに、死闘の様相を見せはじめる、そのことを看過してはならない(第56話)。伊原家の長男、邑は、危害を加えられ、記憶を奪われてしまった陽を前に、兵梧に対する怒りを爆発させる。一方、志田家の長男であり、邑の腹違いの兄、大和は、父親の愛情が自分には注がれていないと感じて、暴走、臥せった兵梧を踏み越える。このとき彼らはいったん、まさしく父親もしくは父性の、ワキに追いやられている、ワキに追いやっているのである。

 父親もしくは父性の、抑圧から逃れなければならなかった大和を、出流や朝灯たちが抑止しようとすればするだけ、事態は深刻さを増し、父親もしくは父性の、信任に値するものを取り戻そうとする邑が、それを説得するかのよう、決戦に応じるさまは、多少熾烈ではるけれど、じっさい兄弟ゲンカの類にほかならない。別々でありながらも、接点があるばかりにねじれ、望まれない対照となってしまった二つの家族が、ここでその、双方の欠損を通じ、代表者をしてぶつかり合い、同じく愛情というテーマのなか、収まっていく。死闘を経、傷を負った邑と大和に、あらためて家族の実感を諭すのが、それぞれの父親、陽と兵梧であるのは、たいへん印象的だ(最終話)。

 単行本化に際して、連載時にはなかった4ページの描き下ろしが付せられている。巳緒と呼ばれる小さな少女が、朝灯と邑の妹として登場している。三人の間柄は、当然、兄弟である。しかしラストのカットは親子のようにも見える。あるいは親子のようにも見えることが、朝灯と邑の、もっとずっと先の未来を暗示しているふうにも思われる。はたして二人はその未来で、夫婦となっているのだろうか、姉弟のままでいるのだろうか。正直にいえば、どちらであろうがどうでもよい。なぜならば、いずれであっても一つの家族であることに変わりなく。それだけは疑いようのない、真であることは、すでに描かれ、知っている。

・その他梅田阿比に関する文章
 『フルセット!』4巻について→こちら
 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら