ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年03月30日
 my little world (マーガレットコミックス)

 この佐藤楓の読み切り作品集である『my little world』には、小さくて素敵な恋の物語が五つ入っている。なかでもとくに良いと思われるのは、連作仕立ての表題作にあたる「my little world〜若葉〜」と「my little world〜咲季〜」の二篇である。前者では市村若葉という中学一年生の妹を、後者では市村咲季という中学三年生の姉を、マンガの主人公に置きながら、それぞれの片想いを描いていくのだけれども、性格や印象、タイプの異なる二人の、しかし、その恋の実らないかもしれない可能性においては等しく胸を痛めなければならないことが、つまりは大勢にとって〈叶わなくて 苦しくて 誰にも言えなくて 私だっていっしょだよ〉という経験の決して他人事ではないところをよく掴むことで、こちら読み手との距離を近くしている。たしかに、幼馴染みへの告白に踏み切れない、年齢と立場が異なるため躊躇わざるをえない、といったストーリーは、紋切り型の一種であろう。だが、話の運び、ポエジー、作中人物の表情のよさが、いやこれもまた誰かの亜流といわれてしまいそうな部分もなくはないとはいえ、ああ、せつなさを噛みしめてあとに残る情緒の、なんて心憎いことかよ、を信じさせてくれる。不器用な少年の一途さを、ヒロインの視点から覗いた「コズミックワンダー〜乙女とライオン〜」もなかなかなのだけれど、デビュー作であるらしい「Sweetest goodbye」の、短いページのなか、ぎこちなくではあるものの、我が儘な恋人に振り回される側の弱気を精いっぱいのつよがりに持っていき、二人のあいだにコミュニケーションの魔法をかける、その手つきも悪くない。これは他の篇にもいえることだが、作者の魅力は、素直になれない男子のイメージとそれを視認しようとする具体的なプロセスによって、おおきく担われている。
 君じゃなきゃダメなんだ。 3 (マーガレットコミックス)

 もちろんのように、タネもハラも違えばまったくの他人になりえるものの、タネかハラが一緒であればまったくの他人というわけにはいかない。ふつう、近親相姦型のラヴ・ストーリーは、主体と対象の関係がそうした区別のどちらに分かれるのかを謎めかし、もったいつけながら、恋慕と抑圧のシーソーを盛んにしていくものであるが、田島みみの『君じゃなきゃダメなんだ。』の場合、わりとあっさりネタを割ったところから、イケメンさん二人とヒロインの、はらはら、をあいだに挟んだ共同生活を描いているのだけれども、これがなかなかにおもしろい構成を作品にもたらしている。要するに、血の繋がった兄妹がそれまで離ればなれであったのをどう歩み寄ってゆくか、と、血の繋がらない兄妹がお互いを異性として意識してしまうことの困難、を、ほぼ同時進行、パラレルに展開しているのである。物語のレベルにおいては、特筆すべき点はすくないかもしれない。たとえば前巻やこの3巻に見られるようなくだり、性格に裏表のあるワキの人物たちが、菜花、蒼と紅、の付かず離れずにちょっかいをかけてき、追い追い、雨降って地固まる、式の進捗をもたらすというのは、学園をベースにした少女マンガのジャンルにパターン化されたセオリーだろう。しかし『君じゃなきゃダメなんだ。』が興味深いのは、先述したとおりそのなかに、軸足を同じくする二つのステップを埋め込んでいる点であって、もちろんそれを可能にしているのは、主人公である菜花の、良くいえば純粋すぎる、悪くいえば世間知らず、な資質にほかならない。彼女は、血縁のある蒼を肉親として見るのに疑いがない一方、血縁ではない紅を素直なほど肉親から外れる可能性で眺めてしまう。これが結果として、蒼にも紅にも影響を与えることになっている。心理の部分に深い葛藤のほとんどないぶん、キュートな戸惑いを際立たせ、家族と恋愛のテーマをあっさり、一挙両得しようとしている機能性に、作品の魅力はあるのだと思う。

 1巻について→こちら

・その他田島みみに関する文章
 『学校のおじかん』
  17巻について→こちら
  13巻について→こちら
  12巻について→こちら
  9巻について→こちら
  5巻について→こちら
2010年03月29日
 だから恋とよばないで 1 (フラワーコミックス)

 この国のサブ・カルチャー、とくにマンガの表現において、学園をベースにした作品は数限りなく、尽きることがないし、増える一方ではあるのだったが、しかしここ最近、学校生活それ自体を豊かに描けているものは、ごく少数にとどまる。たいてい、作中人物の年齢や幼さが学生の立場上に設定されているにすぎず、たんにジャンルのコードにならっているだけにも思われてしまう。要するに、背景である以上の条件を出ない。場合によっては、背景にすらなっていない。どころか、題材が一本化し、都合よくそこに内包されるケースがしばしばなのであって、たとえば、恋愛であったり、友情であったり、青春であったり、情熱であったり、連帯であったり、挫折であったり、不幸であったり、葛藤であったり、いずれかのテーマが、たまたま、発生した場としてしかあらわれてこない。だがほんらい学園とは、そうした云々の、ありとあらゆるを包括しているのではなかったか。つまり、学校生活それ自体を豊かに描くというのは、その、ありとあらゆるの総和された空間をなるたけよく掴まえておこうとする、かのようなすぐれた手つきを、ここでは指したいのだけれども、ああ、藤原よしこの『だから恋とよばないで』などは、正しく好例の一つに挙げられる。

 鳴瀬心、17歳、ままならない片想いを仲の良い友人たちから応援され、奮起するほどに平凡な女子高生である彼女の、2年生の2学期、産休に入った担任のかわり、その若くて〈全然大人に見えない 全然ちゃんとしてない〉男性教師は、出席簿を片手にやって来たのだった。じっさい、25歳で「先生」になりたての高柳次郎には、子供じみた点が多く、職員室でも浮いた存在であるばかりか、一部の生徒からは「ジロちゃん」と呼ばれて、親しまれはしているものの、およそ低く見られがち、まるで教師のようには思われない。しかし、最初は頼りなく感じられた次郎とフランクに接し、いろいろなことを知っていくうち、心の注意はゆるゆる彼に引き寄せられてゆく。1巻に描かれているこうした筋書きをもって、なんだい、少女マンガのジャンルにオーソドックスであるような、教師と生徒のラヴ・ストーリーじゃん、と判じるのは容易い。でも、はたしてほんとうにそういったパターン化のみで説明に事足りる内容なのだろうか。たしかに物語は、初心なヒロインの、異性に対する視線を、メインにしている。けれども、くわしく読まれたいのは、それはあくまでも彼女の、主観によってのぞまれる学校生活の、大きな一部にほかならないことである。その大きさの、他に比べ、より大きくなっていく過程が、ある種の戸惑いをもたらすところに、おそらくは今の時点で『だから恋とよばないで』という題名の相応しさを求めてもよい。

 作中のモノローグはすべて、主人公である心の内面が、どう学園のなかで動き、生きているか、を代弁している。彼女の主観において、間違いなく恋愛の問題は大きい。そのとき次郎の境遇もまた、彼女の視線を通じた先に描かれていることは、必然、押さえておくべきだろう。だがそれは、若い年代にとって異性との出会いは重要である、といった程度や加減を描写するための作法であり、むしろどういう状況下でこそ意味や価値を持ちうるのか、学校生活という半径の狭い世界を広く見渡すことで、的確なエモーションを射ているのだし、この作者ならではとすべきデフォルメのタッチが、そしてそこにやさしさとあたたかみを与えているのだ。

・その他藤原よしこに関する文章
 『恋したがりのブルー』
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら 
  1巻について→こちら
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2010年03月27日
 Simple Pleasures

 大丈夫。大丈夫、たとえTHE HELLACOPTERSやBACKYARD BABIESが活動を休止してしまったところで大丈夫なんだぞ。思わずそう呟きたくなるようなロックン・ロールを聴かせているのが、ノルウェー出身の4人組、BLOODLIGHTSなのだった。上述した2バンドと縁の浅からぬGLUECIFERの元ギターが、メンバーを集め、06年に結成したグループであって、ここではヴォーカルもとっている。07年に発表されたデビュー・アルバムの『BLOODLIGHTS』では、痛快なロックとロールをびしばしと決めていたが、この今年リリースのセカンド・アルバムとなる『SIMPLE PLEASURES』でも、基本線は変わりなく、同時代的なギミックに頼らず、きわめてシンプルに、なおかつソリッドに、ギターのリフがぎゃんと高鳴り、アップなテンポで演奏が走り出せば、それだけでもう十分にかっこうのついた姿形をアピールしているのだから、そうそう、これ以上にいったい何が必要だったっていうんだ、と、勝手に盛り上がってしまう。複雑で高踏なサウンドはそれはそれでいて当然、えらい、けれども、1足す1が2のロジックが単純明快な強度を持っているのと同様、もっとずっと直感的に、あ、とくるものがある。わ、となるものがあるので、うずうずさせられるのだ。アグレッシヴな部分や音の厚みを計るなら、おそらくは前作のほうが上であろう。しかし、それらを薄く削いでいき、きめの細かな響きを際立たせているおかげで、力押しのGOを出すばかりではない、引きの美学を含むような色気が生じている。メロディのラインは意外なほどにキャッチーでありポップである。爽快なまでの親しみやすさ、ライヴ感と整合性とが、まさしくジャストのバランスで備わっている点に、GLUECIFERともTHE HELLACOPTERSともBACKYARD BABIESとも似て非なる個性を見つけられる。それこそ3曲目の、タイトル・トラックとなっている「SIMPLE PLEASURES」は、ハード目な2本のギターによって描かれるコントラストの、鮮やかな印象に、BACKYARD BABIESの「STAR WAR」を思わせるふしもあるのだったが、いやこれが、ある程度までスピードを落とし、メランコリックな情緒をつよくしながらも、黄昏に浸らないだけの熱を帯び、ぐんぐんガッツを高めてゆく、その、ひたすら魅力的なそぶりときたら。うんうん、ロックン・ロールってやっぱりいいよね、と言いたい。心地の好いロックン・ロールを耳にしていると、自然、元気がわいてくるものだけれど、このアルバムはちょうどそんな感じ、爛々として、嫌な感情をワキに除ける。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2010年03月26日
 サムライソルジャー 8 (ヤングジャンプコミックス)

 ああそうか〈俺は…まともなお前と違って……バカだ バカは一度信じたモンを忘れられねえ〉という言葉に、藤村新太郎のモチベーションは示されてゆく。そして彼はその前段でたしかにこうも言っていたのだった〈ナオト 誰かを信じるっつーのはよ そいつに自分を全部預けちまうことなのかよ!? 人を信じてやるってことはよ…そいつの人生とトコトン闘い続けてやるってことじゃねーのか!?〉と。青春やモラトリアムと呼ぶにはあまりにも血なまぐさい若者の抗争を描く山本隆一郎の『サムライソルジャー』であるが、この7巻では大半をワキの過去回想編に費やしながらも、話の進めるべきところは進め、作中人物たちの心情をざっくりえぐり出すことで、作品の彫りをまた一つ深くしている。

 かつて、たった二人で渋谷ENVYというチームを組み、結束の固かった鮫島正平と神波多ナオトが、なぜ袂を分かたねばならなかったのか、今やZEROの幹部として渋谷連合の頭として対立し合う両者の、中学生時代の交わりを通じ、その、悲痛な分岐点が描かれることとなる一方、作中の時制を現代に戻したところで、渋谷連合の暴走を止めるべく、単身、彼らの陣中に乗り込んだ藤村が、市川佑介の卑劣な提案を、やむをえず飲み、ナオトとタイマンを張るなか、口にすることになるのが先に引いたセリフである。それはもちろん、前もって述べられた〈ナオト…おめーは自分の大事なもんがいつだってきっちりわかってる奴だ…俺も自慢じゃねーがよ 大事なモンだけはわかってるつもりだ…それにバカな分 子供(ガキ)の頃から変わりゃしねえ ナオト…おめーなら わかってくれると思ったがな なんで俺が不良(ココ)の世界に戻ったか〉この本質を言い換えているのであって、前巻の〈………今じゃあ付き合いもねーが ジョーだろーが一度ツルんだ奴は死ぬまでダチのつもりなんだわ〉という主張を受けているのだけれども、ある意味、『サムライソルジャー』の物語におけるフック、エモーションの突端となる部分を教えているように思う。

 藤村の言葉を聞いたナオトが〈桐生のために不良の世界に戻ってきた…!?〉と察するとおり、それは表面上、友情のテーマに集約される。では、その友情を信じるとはどういうことか、主人公の口を借り、態度をもって示されている様子は、なるほど、胸を熱くさせるのであったが、看過されてならないのは、ほんらいであれば、藤村と桐生の関係もしくは藤村の個人的な理念にすぎないものが、ZEROの成り立ちを介し、あるいは鮫島とナオトの関係を対照にすることで、『サムライソルジャー』の、物語の全般にまで敷衍されている点だろう。

 いうまでもなく、鮫島とナオトの訣別は、桐生と藤村のそれの、オルタナティヴな位置づけを果たしている。お互いがお互いにお互いを他には決して替えられない同性だと認めながらも、何らかの不幸を契機とし、道を違えなければならなかったことが、結果的に、渋谷の街中を巻き込んだ抗争へと発展している、こうした確執に近似であるようなものが見られるのである。そのとき重要なのは、彼らの立場は同時に不良少年の異なったイズムを代弁していることであって、ひいてはZEROと渋谷連合に初代「藤村新太郎」を加えた三つのチームの、各自のイデオロギーに直接繋がっていることにほかならない。しかして物語の構造上、さらに注意されたいのは、ナオト(ZERO)と鮫島(渋谷連合)の葛藤が私怨を逸脱しようとしつつも私怨に絡み取られていくのに対し、藤村と桐生(ZERO)のそれは私怨にこだわりながらも私怨を逸脱していっていることだ。すなわち、後者のほうが前者よりもスケールが大きい。そこから見えてくるものもまた少なくはない。

 渋谷連合の面々、とくに現在のトップである鮫島とナンバー2の市川に色濃く投影されているのは、間違いなく、孤独であって孤立であろう。7巻で鮫島はたしかにこう、ナオトに向かい、言っていたのだった。〈お前も這いつくばるんだ 俺が生きてきた孤独って闇の中を〉と。市川の非情さが、彼の孤立した魂からやって来ているのは、ここまでの展開において、疑うべくもない。それが渋谷連合の根幹であると仮定したならば、ZEROの、すなわち桐生達也の本腰はもっとほかのところにある。たとえばこの8巻の、ZERO結成当初に時を遡った過去回想のなか、桐生の〈親に捨てられ 先公に無視され 家庭でも学校でもずっと用なしだった俺にとって やっと見つけられた居場所がこの渋谷の街だ その居場所を汚す お前らゴミどもがのさばるんなら 俺はたとえ一人でも戦い続けるつもりだが みんな勝てねえ喧嘩だって 俺をアホ呼ばわりするわけよ そんな俺以外にも 卑怯なお前等に 堂々と一人で立ち向かう 最高のドアホウ見かけちまったらよ 友達になりてえから体張ってみたくなるべ?〉という言葉が、ナオトの胸を打つように、おそらくは孤独や孤立を逆さまにしようとしている。

 しかしその桐生のスタンスが、いつしか、よじれ、べつのものとなってしまったのではないか、もしもそうだとしたら、他の誰でもない、彼をよく知る自分が厳しくあたるべきなのではないか、と信じることこそが藤村の友情でありモチベーションだといえよう。ここでもう一つ気に留めておきたいのは、藤村がいったんは不良(ガキ)の世界を退いたにもかかわらず、ふたたび不良(ココ)の世界にカムバックしてきた人物だということだ。換言するならば、モラトリアムの外側に出、成熟することを良しとしていたのだったが、上記の理由により、あえて少年の価値観に臨まなければならなくなったのが藤村なのであって、過去にも繰り返しいってきたのだけれども、そうした主人公の存在に対置されているのが、渋谷を統一し、永久的なモラトリアムのユートピアを実現せんとする桐生の企てなのである。

 じつをいうならそのような観点においても、ナオトと鮫島の関係は、藤村と桐生のオルタナティヴになりえていることが、中学生だった頃の姿に暗示されている。そもそもナオトとの一蓮托生を誓った鮫島が、孤独に陥らねばならなかったのは、博美という恋人の喪失によっていった。鮫島への友情から、敵対していたチームにさらわれた彼女を秘密裏に取り返そうとしたナオトは、だがその配慮が裏切りにとられ、反対に憎しみを買ってしまうのである。二人の行き違いが深刻化する過程においては、博美が女性であること、そして鮫島の子供を身籠もっていたことが、強力な変数として関わっている。正直なところ、この、中学生の妊娠を作中に導入する手つきは、やや乱暴であるし、表面的な効果はさほどないものの、踏まえることで、鮫島の人物像に、父親として成熟すべきを引き受けられなかったイメージが付加されているのだった。

 ここで見られたいのは、博美がナオトに妊娠を打ち明けたさいの、以下のような夢想だと思う。〈私の夢は子供のために一生懸命働いて 正平も私たちをしっかり守ってくれて 何か一生懸命がいっぱいの家庭(イエ)に ナオト あんたが おみやげにおやつを買ってきてくれて それを4人みんなで食べるの〉というそれは、甘やかであればあるほど、なおかつ決してありえなかったぶん、モラトリアムの外側に幸福を託すことの困難を喚起させる。そして、もしかすれば、ではあるが、藤村と桐生のあいだに横たわる暗く深い影、つまりは雫と呼ばれた少年の不在も、同様の困難にかかっているのではないか。

 不良(ガキ)の世界にとどまることと、そこから出てゆかねばならないこと、さらには別種の選択肢があるのかもしれないこと、すくなくともこれらの三つ巴が際立った図式のなかを『サムライソルジャー』の主人公たちは生きている、そう考えられるとき、誰もが同じ問いを前に違う答えを手にしているので、反発のための諍いにのめり込む。

 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 外伝「吉田薫」について→こちら

・その他山本隆一郎に関する文章
 『紙の翼』について→こちら
 『GOLD』
  16巻について→こちら
  15巻について→こちら
  13巻と14巻について→こちら
  12巻について→こちら
  11巻につてい→こちら
  10巻について→こちら
2010年03月25日
 dolcim.jpg

 ままならないことばっかりの世界に対して怒りのようにも悲しいようにも思う。はたしてその感情を何と呼べばよかったのか。苛立ち、の一言で事足りるのかもしれない。が、たしかな名前を与えず、抽象的なままするどく、アグレッシヴな音のイメージのなかに磨き上げ、一撃、耳に突き刺さってくると鼓膜の奥へまで切って入り、脳のどこかに達したところで、フラストレーションを追いやるほど、アドレナリンをサージさせる。米テネシー州ナッシュビル出身のトリオ、DOLCIMが昨年にリリースしたファースト・フル・アルバム『GUILLOTINE RIDE』で聴かせるのは、まさしくそんなサウンドであった。すなわち、かっこうよくて痺れるよ、ということである。前身のCEASE UPON THE CAPITOLも、方向性は等しく、なかなかにいけていたけれど、いやもしかすればそこにあった衝撃を上回りそうな勢いの、繊細でいて豪快なシュプールを描く。叫び、のたうち、急展開のうねりを持った楽曲がスピーディに解き放たれる様子は、要するに激情と喩えられるハードコアの路線ではあるが、とにかく、ソリッド、ソリッド、ソリッドに躍動のレンジを広げていき、随所に儚くも美しいタッチを滑り込ませながら、そのすべてが心地好い熱狂を完成させる演奏の、とくにダイナミズムに秀で、圧倒されるものがある。ひたすらテンションが高いのはいうまでもない。轟きのぎゃんぎゃん叩きつけられる向こう、華麗でいてフックのつよいメロディがひとしきり、苦悶を地上へ地上へと洗い流す雨のごとく降り注いでいるのも、ぐらっと心揺さぶる。1曲目の「ALVIS HAS LEFT THE BUILDING」から躊躇わずに前面化される超スペクタクル、静寂を中盤に持った8曲目の「SENIOR CITIZEN'S KANE」はノイズの絶景を描き出す。11曲目のラスト・ナンバー「#7」まで、ああ、全編がクライマックスとはこれのことかよ。それがたとえ怒りであれ悲しみであれ、剥き出しの衝動、迫力に充ち満ち、この世界の理不尽さに耐えなければならないことの憂鬱をいっさい、飲み尽くす。

 バンドのMySpace→こちら
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2010年03月22日
 たしか以前にも引いたようにヤンキー・マンガの現状について〈一部のものを除いて、ヤンキーエピソード集、ヤンキー出世物語集だよ。それって、「本当にあった○○話」じゃないの?(略)ああいう“実話”ものってほかにもたくさんあるけど、あれは読者の体験記を元にマンガを描くとか、マンガ家がそれぞれ自分の体験を描く体験エピソード集だよね(略)ヤンキーマンガが堕ちたっていったらなんだけど、作品ではなくなっているような感じが俺はしているんだよ〉と『このマンガを読め!2010』の座談会で言っているのはいしかわじゅんだが、これに関してはもうすこしべつの見方もできるように思う、というのはつまり、内面を語るメディアとしてのこのジャンルの機能が、時代をくだり、特化され、より多くのヴァリエーションを求めた結果、いわゆる体験談や自伝的な要素と結び付いたかもしれない可能性である。そもそも原作が、芸能人の書いた実話ベースの小説である点を踏まえてもいいし、逆に差し引いてもいいのだけれど、先立って品川祐(品川ヒロシ)の同名作を鈴木ダイ(鈴木大)がコミカライズした『ドロップ』にしても、この佐田正樹がオートバイオグラフィふうストーリーのゆうはじめによるマンガ版『デメキン』にしても、煎じ詰めれば、不良少年にも内面があるんだぞ、式の切り口をテーマの下敷きにしているのであって、これはもちろん、今日におけるヤンキイッシュな表現手法の拡張にほかならない。しかしながら自分があまりそのようなアプローチを高く買っていないのは、メッセージ性(まあね)を個人の葛藤に寄り添わせるあまり、ストーリーの立ち方はせこくなるしかなく、その内容にはっとさせられるものがほとんど見られないからである。かくして、この1巻では、子供時分にデメキンと呼ばれ、いじめられていた主人公が、一念発起し、不良少年となっていく様子があらわされているのだが、作中の人物たちがやたら盛り上がっているほどにはこちらのテンションはあがってくれないのが正直なところ。当時のヤンキー文化的な情報をディテールにストックしているあたり、半径の狭い世界を丁寧に描写しようとする誠実さがうかがえはするものの、残念ながら現段階では、それ以上の成果をあげられていない。

・その他ゆうはじめに関する文章
 『クローズ外伝 リンダリンダ』(監修・高橋ヒロシ)
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
  4話目について→こちら
  2話目について→こちら
  1話目について→こちら
2010年03月21日
 A−BOUT!(1) (少年マガジンKC)

 結局のところ、いま現在ヤンキー・マンガのジャンルに用いられるリアリティという形容は、不良少年にだって内面があるんだよ、といった程度のことを指しているにすぎないのであって、それはたいていの場合、生まれや育ち(遺伝や環境)の問題へ、からめ捕られていくのだし、シチュエーションの現実離れしたものが時としてリアルだと受け取られてしまうのも、所詮はそれによっている。この傾向は、高橋ヒロシのフォロワーであるような、要するに、1975年前後に生まれた作家たちに顕著である、というのは過去にも繰り返し述べてきた。が、しかし彼らよりも若い世代の、つまりは『クローバー』の平川哲弘であったり『足利アナーキー』の吉沢潤一であったり『ランチキ』奥嶋ひろまさであったり『A-BOUT!』の市川マサであったり、といった作家たちになってくると、そうした事情は少々違ってくるみたいだ、というのもさんざん述べてきたのだけれど、その特徴をわかりやすくすれば、さしあたり内面がどうというよりも不良少年を決して利口ではないものとして描いていること、になるだろう。いやそれは必ずしも悪い意味ではない。たとえば文学の歴史が証明しているとおり、内面に対する固執は軒並み表現と物語のあり方をせこくしてしまう。そのようなせこさをとっとと免れている点に、新しいヤンキー・マンガ作家たちの可能性を見ることができる。先ほど名前を挙げた市川マサの『A-BOUT!』に出てくる不良少年にしたって、この1巻を読むかぎり、たいへんバカだ。そして馬鹿さ加減がそのまま、作品の魅力へと通じているといっていい。不良の巣窟として知られる私立光嶺高校、そこに転校してきた主人公の朝桐慎之輔は、喧嘩上等のうえ、目立とう目立とうとするのだったが、じっさい彼の登場を期に校内のパワー・バランスは変わりはじめゆく。事の起こり自体は不良マンガにおける古典的なヴァリエーションにほかならないものの、主人公の頭の悪さをよくあらわせていることが、ページをめくった先、筋書きをわくわくさせるところにまで持っていっているのである。しかしバカバカくどくて申し訳ないが、シリアスに考えたときでさえとくに注意してきたいのも、やはり朝桐の馬鹿さ加減にほかならない。彼の、きわめて単純化された思考回路は、いうなれば内面のせこさに対するアンチテーゼなのであって、反証的なスケールの大きさをともなっているため、腕力のつよさやタフさとはべつのレベルでもライヴァルであるような他の人物たちのこだわりを小さく見立て、軽く凌駕する、その根拠たりえているのだ。
2010年03月19日
 文学界 2010年 04月号 [雑誌]

 『文學界』4月号掲載。村上龍の『心はあなたのもとに “I'll always be with you, always”』が連載三十五回にして完結を迎えた。あらかじめ予告された愛する人間の病死、とでもすべき一昔前のケータイ小説的あるいはメロドラマの様式にそったプロットを、中年男性の慰みに改変したかのような内容は、おそらく多くの読み手にとってあまりはっとしないものであるかもしれない。が、しかし村上龍の作家性を基礎としながら考えるとき、部分部分には着目させられる点があった、というのは過去に述べてきたとおりであって、さしあたり私見を書き留めておきたい。

 今日において、村上龍はかつて並び称された村上春樹ほどの影響力を持ちえていないように感じられる。個人的にこれは、たとえば柄谷行人と東浩紀の、コジェーヴがいう動物化の理解の相違を参考にするのであれば、後者のそれが、すくなくとも文系的な認識のうちにあっては、一般的になりえたこととパラレルなのではないか、と受け取れる。いうまでもなく、この場合に読み返されたいのは、柄谷が村上龍について論じた「想像力のベース」であって、東が直接的に村上春樹を引用している『クォンタム・ファミリーズ』もしくは『ゲーム的リアリズムの誕生』であろう。

 柄谷は「想像力のベース」で〈コジェーヴは、ポスト歴史的な世界では「アメリカ的生活様式」が支配的になるだろうという。そこでは、(階級)闘争はなく、要求は満たされ、したがって、「〈世界〉や自己を理解する」という思弁的な必要性を持たないがゆえに、人間は「ポスト歴史的な動物」になるといっている〉として〈日本の一九七〇年代後半にポストヒストリカル(ポストモダン)な傾向があらわれたとしたら、その一つは明らかに村上龍にあり、もう一つは村上春樹にある。しかし、この二人は対照的である。春樹が「意味」を空無化するためのアイロニカルな自意識の繊細さを誇示しているのに対して、龍は圧倒的な動物性のなかから「意味」の萌芽を享受するといった感じである。たとえば、『限りなく透明に近いブルー』には、アメリカ的「動物性」に没入しながら、なおそれについて行くことに耐えきれないような「精神」の萌芽がある〉といっている。そこで掴まえられている村上春樹のイメージは、現在のものとさほど大きく変わるまい。

 ところで「想像力のベース」を念頭に置きつつ、「村上龍――反=人間の想像的経験」(『反=近代文学史』)という文章を書いているのが、中条省平である。中条は〈総体として見る村上(引用者注・村上龍)の「動物性」は、コジェーヴの描くそれよりはるかに攻撃的で、明確にまた即座に、反=人間主義を指向する〉と述べ、村上龍の作家性を探っているけれども、重要なのは〈『限りなく透明に近いブルー』では、ひたすらネガティヴで、受動的なプロセスでしかなかった事物の腐敗のイメージのなかに、『海の向こうで戦争が始まる』では、腐敗させるものと腐敗させられるもの、破壊するものと破壊されるもの、能動と受動の二面性が発見され、その闘いの局面に作者のまなざしが注がれていることがよくわかる〉といっていることであって、そしてそれが『コインロッカー・ベイビーズ』の出発点だとしていることだ。

 同じく中条は〈ミニチュア的ヴィジョンに執着する『限りなく透明に近いブルー』の主人公の人間造形は(略)『コインロッカー・ベイビーズ』のハシのそれと正確に重なり合う。ハシもまた見ることの完全な受動性に囚われた人物(略)なのだ。だが、『コインロッカー・ベイビーズ』では、ハシのかたわらにキクというもうひとりの主人公が配されて、制御のきかない能動性のカウンターパートを受けもつことになる。この受動と能動の衝突が、『限りなく透明に近いブルー』には欠けている『コインロッカー・ベイビーズ』のドラマティックな原動力となるのだ〉という。その、受動性と能動性の両端にかかる傾きのありようにこそ、もしかすれば村上龍と村上春樹における動物性の相違が顔を出している。

 そう、村上春樹の小説の主人公たちの多くは、他の誰かから働きかけられるのを待っているように、きわめて受動的な人物ではなかったか。一方、村上龍の小説の主人公たちの多くは、あたかも攻撃性の高い人物であるふうに思われるほど、他の誰かに対し能動的に働きかける。

 先般も引いたけれど、ここでもう一度、村上龍の『音楽の海岸』という小説の、クライマックスでとある人物が口にする一節を見ておきたい。「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。他の誰かからの自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」といわれているそれは、たしかに能動性のつよい肯定を示唆していると思われるのであって、受動的に喚起される妄想が必ずしも希望になりえないことを教えている。

 とりいそぎ注意を加えておかねばならないのは、中条がいうようにハシとキクの存在に象徴される〈受動と能動の衝突が、『限りなく透明に近いブルー』には欠けている『コインロッカー・ベイビーズ』のドラマティックな原動力〉であるとするならば、それはおそらく、87年の『愛と幻想のファシズム』におけるゼロとトウジ、フルーツのトライアングルを経て、92年の『音楽の海岸』における石岡とケンジ、ソフィ(またはサイトウとケンジ、ユリ)のトライアングルの形成が不十分であったことにより、完全に崩壊してしまっている点である。そしてその物語の先にあらわれているのが、前段の「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」という、一つの断言であるような仮定にほかならない。

 受動性と能動性の二項は、ともしたら、村上春樹がいうところの、あるいは村上春樹をめぐる言説がいうところの、デタッチメントとコミットメントに通じるものであるかもしれない。だがそうしたとき、コミットメントの一語は、他の誰かへの働きかけではなく、もっと大きな枠組み、社会や世界に対する働きかけにまで飛躍してゆき、自然と共同体の困難を包括しようとするのは、なるほど、いわゆるセカイ系に近しい態度だと解釈することもできそうだ。さてしかし、本題は村上龍の『心はあなたのもとに』であったな。

 たしょう乱暴ではあるものの、誤解をおそれずにいうなら、村上龍の『心はあなたのもとに』も、村上春樹の『1Q84』も、主体の意識のために他の誰かが犠牲となる、このような意味では、物語に等しい性質を共有しているのだし、じっさいそこまで還元してしまったならば、美嘉の『恋空』ともそう変わりはなくなる。にもかかわらず、三者はまったく違った位相に立った作品であると、たいていの場合、受け取られるに違いない。では『心はあなたのもとに』は、主体の意識のために他の誰かが犠牲になる、それがどういった結びを導き出しているか。

 この最終回において、あらかじめ予告されていたとおり、『心はあなたのもとに』の語り手は、ついに恋人であるような女性をうしなう。結果、喪失感や無力感に囚われるのであったが、当然、そこからどうやって回復するかが、小説の主眼となってくるだろう。正直な感想をいうなら、それはきわめて陳腐なお話しにすぎない。

 主人公の西崎健児は、亡くなった香奈子の弟との面会を約束し、ホテルのバーで彼を待っているあいだ、なぜかしらとあるアイルランドの女性ジャーナリストのエピソードを思い出し、考える。やがて弟がやって来、彼と話しながら記憶を辿るうち、こらえきれず、涙してしまう。なぜならば、ふいに〈なぜアイルランドの女性ジャーナリストのことを思い出したのか、わかった。女性ジャーナリストの死はアイルランドという国家を変えた。誰が考えても、その死には意味がある。生きていたという証しを残したということだ。香奈子は誰にも知られることなく、一人で自分の部屋で倒れたまま人生を終えた〉のだと感じ入ったからである。そして、香奈子の弟に向かい〈ぼくは、香奈子さんが確かに生きていたという証しを、何とか残したいです〉と申し出、自分以外には誰にも気づかれないかたちで、ある種の記念碑をこの世界に建てるのだった。

 たぶん、投資家として成功している主人公のビジネス面が、香奈子とのラヴ・ストーリーであるような箇所と、長らく並行して書かれていたことの理由も、その女性ジャーナリストのくだりを介することで、一点に折り重なる。要するに、個人と社会の関わりと個人と個人の関わりが、いわくありげな対照をなしていたのだという辻褄が合うのである。いやまあもちろん、それを汲んでもやはり陳腐さは拭いきれない。しかしながら『1Q84』や『恋空』と等しく、主体の意識のために他の誰かが犠牲になる、このような物語が追われているなかで、あくまでも他の誰かへの働きかけがペースメーカーの役割を果たしていたあたりに、作家性の、作品上の、意義を取り出せる。

 ほんとうは村上龍の小説における告白の機能についても触れるべきであったが、そこまでいけなかった。

 第三十四回について→こちら
 第三十一回について→こちら
 第二十七回について→こちら
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・その他村上龍に関する文章
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posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2010年)
2010年03月17日
 これはたいへんキュートな初恋の物語であって、とにかくもう、ひよりん、というヒロインの一挙手一投足を目の当たりにしたとたん、ああちくしょう、そのたどたどしくぎこちない慕情を心から応援したくなってしまうよ。高校入学の前日に事故に遭い、12月になろうかという時期にようやくクラスに復帰した西山ひよりは、生来の人見知りもあり、はたして皆に溶け込めるかどうか、大きな不安を覚えながら、担任の教師に紹介されるのであったが、そのとき遅れて教室に入ってきた男子、広瀬結心とたまたま横に並ぶことになってしまい、二人の身長差があまりにも著しかったため、べつの意味で注目をされる。ひより、140p。広瀬、190p。席も隣同士となった二人は、見栄えばかりか、性格も対照的であり、人当たりもよく、大勢に好かれる広瀬と接するうち、ひよりは彼のことを意識せずにはおれなくなる。しかし広瀬と親しくなればなるほど、不釣り合いな自分を思い知らされる。以上が、雪丸もえの『ひよ恋』1巻に描かれている、だいたいのあらましである。最初に書いたとおり、広瀬から、ひよりん、と呼ばれるヒロインのいじらしさに、このマンガの魅力は負うところが大きい。いやまあ、正直にいって、現実で身近にいたならば、少々いらっとさせられるタイプであるかもしれない。けれども、そこを好感の抱ける人物像にまで持って行けているあたり、作者の手腕を買える。ひよりに対する周囲の人物たち、とくにやはり広瀬の態度がよいのだ。もしかすればネガティヴな印象になりかねない彼女の資質に、それ以上の、勇気や元気が前向きにあらわれてくるふうな一念を与えているのは、まず間違いなく、広瀬のあかるさ、おおらかさなのであって、もちろん、そうした影響のありようが、初心なラヴ・ストーリーの、片思いの喜びと辛さのよくすくい取られた展開、さしあたり、ひよりん、がんばれ、と声をかけたくなる瞬間をもたらしている。

・その他雪丸もえに関する文章
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2010年03月16日
 彼はトモダチ(7) <完> (別冊フレンドKC)

 ああ、これはよくまとめた。じつによくまとめられているのであって、全7巻という長さのなか、紆余曲折はあったけれども、吉岡李々子の『彼はトモダチ』は、たいへんに満足のいく落着、不覚にも涙させられてしまったほど、きれいなエンド・マークを打てていると思う。たとえば、両想いがいかにして実るかよりも、実った両想いをどうキープするかが、近年の少女マンガにとって重要なテーマになりつつある、というのは少なからぬ人間により指摘されているところではあるが、その観点からいえば、あきらかに『彼はトモダチ』は、前者の、要するに古式ゆかしいマナーに従っているといってよい。じっさい、いくらか見え透いたアイディアはあったものの、それらの総和が、正しく感動と呼んでも差し支えのないワン・シーンに収まろうとしていくクライマックスには、だめだ、自然と泣かされてしまうので、困るよ。ほんとうは好き合っていたはずなのに、結ばれるまであまりにも遠回りしてしまった二人、日和と佐々本の恋は、作中で、運命、の一語に集約されている。つまりは遠回り自体が物語化されており、その結末が運命に喩えられているわけだ。が、しかし、それはあらかじめ定められていた、と、すべてを簡略化しているのではない。最後の場面で〈あたしたちはなんで とても簡単なこたえが わからなくなるんだろう 悩んで 迷って まちがえて でも そうやって見つけた こたえが きっと 運命って 言うんでしょう?〉といわれているとおり、何もかもが不確かであやふやな道筋を、よれよれ、彷徨ってようやく辿り着いた結論を、受け入れ、肯定的に言い換えてみせる、そのような意識のあらわれを指す。たかが恋愛、もしかしればそう見なされるだろう。その、たかが、程度のことに熱を上げ、さんざん我が儘にも振る舞った末、各人が手に入れられたのは、一般論からすれば当然、たいして褒められたものではない。にもかかわらず当人たちにとっては、それが絶対にしか感じられない、だからこそ運命として認められる、これに対し、はたしてどれだけ共感のエモーションを持たせられるか、『彼はトモダチ』の説得力はほとんどそこにかかっている。作品の奥行きは決して深くない。だけど、恋愛がときおり浅はかなものだとすれば、その真髄を掴まえているので、ふと眼の前が霞むし、逆らえない。

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 4巻について→こちら
 3巻について→こちら
 1巻について→こちら

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2010年03月15日
 真夜中だけは好きでいて 1 (フラワーコミックス)

 しかしなぜに自分はこうも畑亜希美の作品が好きなのか。絶対に、すごいとか巧いとかどうとか何とか、そういう評価で語られるマンガ家ではないのだったが、ひじょうに好みなのは間違いがなく、いやまあ単純明快に考えるなら、この作者ならではのテンポがたしかにあって、それがこちらの趣味にはまっているせいなのだと思う。だいたい、登場人物たちの喜怒哀楽、テンションの持たせ方からして、独特なところがある。やたらハイではあるものの、それは必ずしも彼ら彼女らの不真面目さに由来しない。はしゃいだりとぼけたりすかしたりしているのが常日頃であるような人間だって、時と場合に応じ、他人や社会とシリアスな関係を結ばざるをえないのは当然のことであり、その様子が物語化されているとき、むしろ各人の個性を引き出し、伸ばし、十分な魅力を与えるのに適当なデフォルメとして見られるのである。この1巻が出たばかり、『真夜中だけは好きでいて』に関しても、そうしたカラーに変わりはないといえる。たしかに前作の『ベイビー☆キスをどうぞ』に比べ、ギャグの要素はあからさまでなくなっているのだけれども、劇中のトーンは決してダウンしておらず、真面目なやりとりにあってさえ、この作者ならではのテンポに勢いのよくついていることが、登場人物たちの表情と物語の内容とを生き生き、際やかにしている。

 中堅の広告代理店、ドリーム広告に勤める春日まどかは、駆け出しのCMプランナーであって、一所懸命仕事に励むのだったが、会議ではろくなアイディアも出せず、怒られてばかり、そんな自分に不甲斐なさを感じている。いつも同じく、深夜、職場からの帰り、落ち込みながら立ち寄ったスーパーでの出会いが、まさかいくつものドラマを運んでくるのだと彼女はまだ知らない。売り場で困っていたところをスーツ姿の若い男に助けられたまどかは、その笑顔とやさしさに元気をもらい、さらには着想を得、はじめて上司が認めるほどの企画を立てられたのだったが、翌日、自分の喜びと感謝を伝えようとする彼女に対し、彼は冷たい。にもかかわらず、まっすぐ向き合ってくるまどかの態度にその顔つきは緩んでゆく。お互いに名前を知ったまではよかった。しかし桐谷純という、その男がじつはライヴァル会社、MM広告のやり手営業マンであったことから、今にもはじまりそうであった二人の恋愛は、ねじれにねじれ、さまざまな障害を抱えることになる。

 以上の筋書きを、都会的な企業を舞台に社会人の恋愛を描いたものとしてはいささかステレオタイプ、紋切り型であるように思うかい。いやまったくそのとおりである。だが、そうしたプロットの手垢にまみれた部分をぬぐい去るとはさすがにいわないのだけれど、すくなくとも凡庸に戯画化された企業像と葛藤を前に、一組の男女がいかにピュアラブルなラヴ・ストーリーを築き上げるか、このへんに焦点の合わさっていく物語において、畑亜希美ならではのテンポが、登場人物たちの、しばしば考えなしで素っ頓狂な言動すらも新鮮みのあるアプローチにしてしまう、それがあたかも作品自体のテーマと不可分であるように受け取れることに注目されたい。ヒロインであるまどかが、桐谷の存在を介して(あるいは桐谷がまどかの存在を介して)直面するのは、公私の問題といえよう。想い、惹かれる相手とは、職業上、対立しなければならない。しかし恋愛の感情がプライヴェートにとどまるものであるかぎり、あくまでも可能性としては、企業上の倫理を持ち込む必要はないと考えられる。これがたぶん『真夜中だけは好きでいて』という題名の一端にかかっているのだが、当然、そのような線引きをきっちり、まったくの負い目を除けてしまうことは、人間の内面にとってたいへん難しい。まどかと桐谷の、ことあるごとにころころと表情を変える様子は、まるで極端な躁鬱を行き来しているふうである。だがそれは、公私の不自由なバランスの内側で、引き裂かれつつ、たとえ割り切ろうとしても、否応なく盛り上がってしまう主観を、肯定的に掴まえられているからなのだと思う。

・その他畑亜希美に関する文章
 『ベイビー☆キスをどうぞ』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

 『ベイビー☆お手をどうぞ』について→こちら
2010年03月13日
 恋をするまで帰さない 1 (フラワーコミックス)

 家事代行業の仕事に勤め、根は真面目な21歳の女性が、派遣先の高校生男子(もちろんイケメンさんである)に猛アプローチされ、歳の差や立場など、いくらかの葛藤に苦しみながらも、しかしほだされ、交際することになったのだけれど(当然、隙あらばセックスするのは前提でね)、その、受験生である彼氏の進路に関わる教師が、彼女の知人であるばかりか、かつて良い仲になりかけたことがあったため、ただでさえ気苦労の多い恋愛により厄介な影が差し込んでしまう。こうした筋書きは、俗情というよりも欲情と結託している以上のものではないのだったが、他人を思い遣ろうとする気持ちと自身では儘ならぬほどの執着が、入り混じり、たった一言、好き、の一言に単純化してしまえるはずの関係が、こじれにこじれ、当事者同士が互いに相手を傷つけ合わなければならない羽目になってしまう、それがちょうど、心と心の不安定な距離感をわかりやすく、明示するかっこうの表現となっているところに、織田綺の『恋をするまで帰さない』の魅力を見つけられるだろう。この1巻を読むかぎり、ラヴ・ロマンスをベースにしたマンガの手法上、もしかすれば心理の描写に特別な点はない。ストーリーの展開も紋切り型に近しい。にもかかわらず、そのオーソドックスな形式のなか、作中人物たちが持ちえるダイナミクスを、序破急ともいえるテンポの丁寧さでしっかり、切り出すことにより、自然と盛り上がれる部分が多くなっている。印象的なセリフがあった。晴れてヒロインと結ばれたはいいが、波風ばかり立ち、彼女が自分を遠慮しているふうに感じるあまり、切羽詰まった男子が、携帯電話を使い、直接問い質そうとする場面である(p-170)。〈好きな人のために無理することの何が悪いんだよ!!〉というそれは、たしかにありきたりであるし、子供じみた弁論にすぎないかもしれない。腐すのは容易い。が、しかしセリフ自体のインパクトがどうというよりも、だ。物語の内部において、すくなくとも彼がそう言うだけの必然があり、そう口にしなければならない道筋がちゃんと辿られているので、せつなく、頷かされるものがある。
2010年03月10日
 幻仔譚じゃのめ 7 (少年チャンピオンコミックス)

 すくなくとも自分にとって、梅田阿比の『幻仔譚じゃのめ』は、家族の繋がりをめぐりめぐるすぐれたファンタジーであった。精霊や化け物との共存が不可避であるような状況を解れ目とし結び目とし、子が、親が、弟や姉が、妻や夫が、お互いがお互いにお互いの必要性を心の奥深いところで確認し合い、次第に育ってゆくあたたかな温度をすばらしく繊細なタッチで描ききってみせたと思う。もちろん、さまざまなエピソードのなかには友情や恋愛の要素も多分に含まれてはいるけれど、この完結編となる7巻を読み終え、胸に去来するのはとくに、ああこうして家族は一つになることもできるのだな、という感動のつよさである。そしてそれは必ずしも血縁上の問題を述べているのではない。本来は他人であった者同士が一個の家庭を得、関係することで、遺伝や環境や運命すらも包括してしまう、かのような広さと大きいイメージを、なるたけ身近で小さな物語の延長線に掴まえているのだ。

 それにしても『幻仔譚じゃのめ』というマンガを語るうえで、ぜひとも触れておきたくなるのは、やはり父親の存在だろう。象徴的に見られたいのは、義理の姉弟となり、成り行きから不思議な能力を分かち合わなければならなくなった主人公たち、朝灯と邑の父親である伊原陽の、じつに頼りなく平凡な佇まいだと思う。物語の初期の段階において、彼はまさしく蚊帳の外に置かれていた。これはひじょうに重要な点であって、作者の意図したところに違いないのだが、父親の再婚相手である巴が蛇の精霊の末裔であったため、その息子である邑とともに数々の奇異と遭遇することとなる朝灯、たとえば彼女たち三人の生活が絶えず非日常と交わり続けることを不幸だとしたとき、それを知らず、のほほんと一人だけごく普通の日々を送る陽の、気楽ともとれるありようは決して責められるものではない。いやむしろ彼のそうした位置づけは、ある種の苛酷さと接することで消耗した妻や子供たちが、ひとときそれを忘れ、帰る場所として、要するに日常の重み、ありがたさを与え、休ませる役割を引き受けていた、と解釈することができる。

 かつてのフィクションであったなら、そのような役割は、母親もしくは母性によって補われていたものであったかもしれない。だが『幻仔譚じゃのめ』では、あたかも父親もしくは父性がそれを肩代わりしている。そこから批評性とすべきを指摘してもよいし、鋭敏な感性を見て取っても構わないのだけれど、このことが作品の終盤において、さらに印象的な場面をつくってゆくこととなる。6巻に収められたエピソードで、ついに陽は自分以外の家族が抱えていた秘密を知らされる(第48話)。そして誠実ともいえる対応をもって妻や子供たちを包み込もうとする(第49話、第50話)。このくだりに関しては、戸惑いや躊躇い、葛藤が足りていない、描写が十分ではない、と述べられる向きもあろう。しかし平凡な男性にすぎないはずの彼が、訳ありである家族の屈託を余すことなく抱きかかえ、すべてやさしさで覆ってしまう、これこそが物語の構造上、何よりも優先され、あらわされなければならなかったことは、7巻の、つまりは全体のクライマックスに至って、証明される。

 さまざまな因縁の入り混じる最終局面、その、直接の引き金となるのは、伊原家の主である陽と、邑の実の父親であり、志田家を代表する兵梧の面談である(第56話)。伊原家と志田家の対照は、作品の中盤よりこちら、本筋と呼んで差し支えのない部位を担っていたわけだけれども、それがとうとう陽を巻き込むのは、娘や息子、妻たちのただならぬ秘密を、彼自身が認めたためであった(第49話)。そこでようやく、志田家の長女であり、邑の腹違いの妹である出流の、伊原家への視線からうかがえるとおり、両家の立場は、完璧な反対性を帯びる。しかして、等しく四つのピースで出来上がった家族同士の、ちょうど長男である人間たちが、父親もしくは父性の一時的な喪失をきっかけに、死闘の様相を見せはじめる、そのことを看過してはならない(第56話)。伊原家の長男、邑は、危害を加えられ、記憶を奪われてしまった陽を前に、兵梧に対する怒りを爆発させる。一方、志田家の長男であり、邑の腹違いの兄、大和は、父親の愛情が自分には注がれていないと感じて、暴走、臥せった兵梧を踏み越える。このとき彼らはいったん、まさしく父親もしくは父性の、ワキに追いやられている、ワキに追いやっているのである。

 父親もしくは父性の、抑圧から逃れなければならなかった大和を、出流や朝灯たちが抑止しようとすればするだけ、事態は深刻さを増し、父親もしくは父性の、信任に値するものを取り戻そうとする邑が、それを説得するかのよう、決戦に応じるさまは、多少熾烈ではるけれど、じっさい兄弟ゲンカの類にほかならない。別々でありながらも、接点があるばかりにねじれ、望まれない対照となってしまった二つの家族が、ここでその、双方の欠損を通じ、代表者をしてぶつかり合い、同じく愛情というテーマのなか、収まっていく。死闘を経、傷を負った邑と大和に、あらためて家族の実感を諭すのが、それぞれの父親、陽と兵梧であるのは、たいへん印象的だ(最終話)。

 単行本化に際して、連載時にはなかった4ページの描き下ろしが付せられている。巳緒と呼ばれる小さな少女が、朝灯と邑の妹として登場している。三人の間柄は、当然、兄弟である。しかしラストのカットは親子のようにも見える。あるいは親子のようにも見えることが、朝灯と邑の、もっとずっと先の未来を暗示しているふうにも思われる。はたして二人はその未来で、夫婦となっているのだろうか、姉弟のままでいるのだろうか。正直にいえば、どちらであろうがどうでもよい。なぜならば、いずれであっても一つの家族であることに変わりなく。それだけは疑いようのない、真であることは、すでに描かれ、知っている。

・その他梅田阿比に関する文章
 『フルセット!』4巻について→こちら
 『幽刻幻談−ぼくらのサイン−』について→こちら
2010年03月07日
 肉の唄(3) (ヤングマガジンKC)

 コウノコウジが『肉の唄』というマンガにプロレスとして描き出そうとしたのはきわめて高度な表現である。だがそれは不首尾に終わったといわざるをえない。しかしまったく無視されてよいものではないだろう。この完結編となる3巻(要するに『ヤングマガジン』本誌から別冊や月刊に発表の場を移してから)の、およそ半分を費やし、展開されるクライマックスには、作者が意識的にある様式の過剰化をはかり、それによって目新しいフレームの今にも生じそうな手応えが、未遂ではあるものの、はっきり感じられる。大げさかな。自分ではそう思わないけれど、話半分に取ってくれて構わない。総合格闘技の世界を追われ、成り行きから「新世紀プロレス」の門をくぐることになった一色亮太であったが、真剣勝負(シュート)を志していた頃の記憶を拭うことができず、あくまでもエンターテイメント性を競うプロレスの、その稽古に熱を入れられない。マッチメイカーである涼子に才能を高く買われ、期待されながらも、たしかなモチベーションを得られないまま、とうとう彼のデビュー戦が決まろうとしていた。相手は、アマチュアレスリングの日本代表候補を経、プロレス入り、いちやく人気選手に駆けのぼった藤沢賢太郎である。一色の実績と浅からぬ因縁を持つ藤沢は、万全を期し、執念を傾け、リングに上がろうとする。はたして強敵である藤沢との勝負の最中、ついに一色はプロレスの真骨頂と出会うことになるのだった。これがたとえば、単純に藤沢をくだし、試合に勝利した結果、めでたしめでたしとなる物語であったならば、いっさい驚かされたりはしない。だがそうなっていない。あらかじめ一色は、負け役に徹せねばならず〈この試合のフィニッシュ技はプリンスドライバー フィニッシュの時間は試合開始後二十分過ぎ それだけは絶対に守るのよ!〉と、敗北しなければならない旨を涼子に伝えられている。こうした制約を前に、どうやって彼は面目躍如するのか、その、肉体と心理の複雑な葛藤を、プロレスの構造を通じ、直接に描こうとすることが、作品の、最大の見せ場をつくっていき、表現の、奥行きを、ああもうすこしですごいことになりそうだった、という惜しさへと深めているのである。ただしそこまでの助走が長かったのはたしかであって、おそらくは急ぎ足に結末を迎えざるをえなかったことが、はからずも功を奏し、終盤の迫力や緊張をもたらしている感は否めない。

 1巻について→こちら

・その他コウノコウジに関する文章
 『アウト・ロー』(原作・木内一雅)13巻・14巻について→こちら
 メルヘンちゃん(1) (なかよしKC)

 いちおうはまだ『小川とゆかいな斎藤たち』が続いているなか、茶匡が新たに送る『メルヘンちゃん』は、やはりこのマンガ家らしく、学園ベースの愉快などたばたコメディであった。13歳の伊達まりあは、スコットランド人の母を持ち、容姿は端麗だったが、人見知りがつよく、祖父からもらった妖精図鑑を肌身離さず、メルヘンの世界に浸りがちであるため、学校には友達が一人もいない。しかしふとしたきっかけを経、らびこ、という小さな妖精の姿を見ることができるようになり、そのせいでさまざまなトラブルに巻き込まれながら、クラスメイトたちとの関わりを多くしてゆく。こうした、他の誰かがクッションとなることでヒロインのコミュニケーションの幅がひろがる、という概容は当然『小川とゆかいな斎藤たち』に通じるものだろう。いやそれ以前に、現実離れしたマスコットの介入によってヒエラルキーにおける主人公のポジションが改まる、式のフィクションをヴァリエーション化しているにすぎない。たしかにらびこは、必ずしもまりあに協力的なわけではなく、妖精が見えてしまう人間の「おめめ」を狩らなければならない、このような使命上、共存、むしろスタンスは悪質であるものの、それは表面の設定にほかならず、本質をうかがうなら、きわめてオーソドックスなパターンをとっている。ただしここで注意しておきたいのは、1巻の1話目、つまりはもっとも大切な出だしに顕著なとおり、主人公が周囲にコミットするさい、ほとんど善意や努力といったものは払われていない、すくなくとも当人の意志とは関係のないラッキーばかりが助けとなっているふうに見えることである。まあこういったケースでは、主人公を駄目人間とするのが常であって、作中人物の幼さには相応しいのだけれども、いささかその我が儘に対し、都合がよすぎる。もちろんそれを作品の瑕疵とすることはできる。反面、現代性だとすることもできる。いずれにせよ、テンションの高さとテンポの勢いで読むようなマンガなんだから細かい点はべつにいいじゃんね、の一言で済ますことだってできる。

・その他茶匡に関する文章
 『小川とゆかいな斎藤たち』
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
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2010年03月05日
 Phoenix

 単純にサウンドのイメージは、エピタフ傘下であるヘルキャット・レコード所属のポップ・パンク、あるいは若手のいかにもLA出身であるようなパワー・ポップ、と言って察せられる範囲内に置かれてはいるが、いやしかし、かくいう文脈を差っ引いてみたところでまずは何より、その、フレッシュなメロディの、どこか甘く、どこか熱く、どこか切なくて、まざまざとした弾道に胸を打たれる。ああ、キャッチーに弾けてゆく演奏が心地好さを増し、体を揺らしたくなるなか、ついついぐっとくるものがあるぞ、と思わされるのである。05年のファースト・アルバム『WELCOME TO THE WORLD OF ORANGE』の段階ではまだ、中心のメンバーが十代だったせいか、荒削りであっても初々しさの直接的な疾走性でのりのり、押し切る部分がつよかった。もちろんそれは必ずしも低く見積もられるものではなかったろう。だが、07年のセカンド・アルバム『ESCAPE FROM L.A.』を経、このサード・アルバム『PHOENIX』に至っては、以前の勢い、エネルギーを失わないまま、より幅広に音楽的な思慮を掴みつつ、そしてすべての要素が、繰り返しになるけれど、フレッシュなメロディの、まっすぐに響き渡り、うずうずしてき、感情を動かされるほどの魅力へ、総和されている。ベースを構えながらフロントをとるジョー・デクスターのヴォーカルがよい。日本盤のライナー・ノーツで行川行彦が、彼の才能と歌声をGREEN DAYのビリー・ジョー・アームストロングの名前を引き合いに出しながら賞賛していて、うんうん、たしかに頷かされるものがあるのだったが、そこで一般的に想起されてくるのはもしかしたら、『NIMROD』もしくは『WARNING』以降のGREEN DAYでありビリー・ジョーではないか、という気がする。要するに、ジャンル上の方便を抜きに立派なのだ。そのことは、アコースティカルに綴られる6曲目の「I WITH」や、スローなテンポからダイナミックに盛り上がる10曲目の「FALL INTO THE SKY」、ルー・リードをカヴァーしたうつくしい12曲目の「PERFECT DAY」などで、とくに実感される。当然、ORANGEというバンドの本領発揮であるようなアップ・テンポのナンバーにおいてそれは、脳天気な空騒ぎとは異なるベクトルを得、歌われるエモーションを十分に信じられるだけの説得力を持ちうる。ラヴ・ソングみたいでありハッスル・チューンみたいでもある5曲目の「HOLD ON TO YOUR HEART」が、ひじょうに好き。バッキングはスピードを抑え、印象的なフレーズの並びによって、あかるく染まりきれない気分が次第に上昇されてゆく様子を、力強く叙情している。焦がれ、手を伸ばしても届かない。それでも諦めだけは引き受けまいとすることの誠実さを思う。

 バンドのMySpace→こちら
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2010年03月03日
 この、『らーめん才遊記』の1巻に付せられている帯で、谷口悟朗が『ラーメン発見伝』をベタ褒めしているのを見、けっこう驚かされたのは、個人的に好きなアニメーションの監督であるからなのだが、いわく〈“夢”と“仕事” 異なるこの二つを一つの道につなげるにはどうすればよいのか。私にとって、[ラーメン発見伝]という作品は、その問いかけに対しての道標でした〉なのだそうで、いやまあ、たしかにそういう内容を持ったマンガではあったし、初期はおもしろく読めたものの、正直、中盤以降の展開は、はっとしない部分もすくなくはなかったと思う。

 さて。久部録郎(作)と河合単(画)のコンビが、『ラーメン発見伝』に続き、タイトルどおり、ふたたびラーメンを題材にしているのが、『らーめん才遊記』である。主人公は別人に変わっている一方、前作と設定を共有している点も多いため、一種の続編として見られても差し支えがないのだけれど、物語上のメソッドはだいぶ異なっていて、しかしそこがなかなか魅力的な出だしの作品になっている。

 汐見ゆとり、22歳、半年前はじめてラーメンを口にした彼女はその味わいに感動し、主としてラーメン店を相手にビジネスをするフード・コンサルティング会社「清流企画」の中途社員に応募するのだったが、面接での印象は最悪、社長であり業界の有名人である芹沢達也の不興を買ってしまう。ところが、入社試験の実技で非凡な才能を発揮、それを認めた芹沢に、人間性は決して褒められないながらも、採用を決定されるのだった。こうして従来の社会からすれば、常識を知らない若い世代の女性が、ラーメン食に携わる職務を通じ、力量を得ていく経験が、おそらくは主要だと推測される。ここで注意しておきたいのは、どのような語り口をもってそれが実現されているか、である。

 入社試験のおり、芹沢に〈ラーメンとはなんですか?〉と〈半年前に生まれて初めて食べて、大好きになったというラーメンを、あなたなりに定義してみてください〉と問われたゆとりは、ラーメンとは〈「ワクワク」なんです〉と答える。このあまりにも曖昧な定義は、ついに芹沢を怒らせてしまう。反面、彼と懇意である評論家の有栖涼には〈これって実はかなり本質的な指摘ですよ〉と言われることになる。ではどこがどう本質的であるのか。じつはこうしたやりとりによって、物語の構造はほとんど説明されているといってよい。

 要するに、希有なポテンシャルのヒロインが、直感で差し出す抽象的な真理の、ラーメンの創作やアレンジの作業を介しての、適切なロジック化がそのままストーリーの進行を担っているのだ。芹沢という年齢や立場が上位である男性の、権威や知識は、それを補填する効力にほかならない。ゆとりと彼の意見対立は、いわばアウフヘーベン状に懐疑をめぐる循環となっている。もちろん、これは『ラーメン発見伝』のなかにもすでにうかがえたアイディアではあったろう。しかしあそこでの主人公が、会社員として十分に生きられるだけの資質を有した人物であった(だからこそ谷口吾朗がいうとおり、仕事と夢の両立であるような物語になりえた)のに対し、ここでの主人公は、そういった要素を極端にダウン・グレードさせられている。

 たとえば、芹沢は、前作においても主人公のよきライヴァルとして重要な役割を果たしていたわけだけれども、『らーめん才遊記』におけるゆとりとの関係は、彼女の幼稚さがひじょうに際立たせられているため、それと似て非なる意味合い、ベクトルを持つ。序盤だからかもしれないが、単純に師弟とは言い切れないものもある。すくなくとも今の段階では、ロジックの構築と検証とを徹底させる手法としてかなり冴えているのであって、そこをおおきな魅力とし、読ませる。

 『ラーメン発見伝』
  26巻について→こちら
  23巻について→こちら
2010年03月01日
 キミのとなりで青春中。 / 4 (フラワーコミックス)

 ああ、これはひじょうによいラブコメである。ねえ、教えてよ、胸がときめき、恋することの痛みを教えてよ、という要請に対し、ユーモア交じり、たいへん鮮明なタッチで答えている。彼は〈………………なんつ――か…自分の中にある気持ち 言葉にしなけりゃなかったことにできるのに ってのは…すげーわかるから〉と言い、〈――――なんか 七瀬 見てたら 他人事と思えなくて 大事なモン失くすのがこわくて ウソつこーとする気持ち すげ――――わかるからさ〉と言う。なるほど、片想いのプロフェッショナルは、ときおり片想いのよきアドヴァイザーになりうる。しかしそのことが誤解となって、自分たちの恋愛にいざこざを起こし、せっかく近づいた気持ちを傷つけてしまったなら、本末転倒じゃないか。藤沢志月の『キミのとなりで青春中。』が、前巻から引き続き、この4巻で描いているのは、せっかく両想いになれたはずのカップルが、いや両想いになったばかりだからこそまだ不安のたくさんなカップルが、小さなすれ違いをきっかけ、真剣交際することの難しさを、あらためて認識する様子だろう。幼馴染みの慶太とようやく恋人同士になれた美羽であったが、その喜びも束の間、ほんらいはもてる彼がべつのクラスの女子、七瀬と抱き合っているのを見、疑い、信じ切れないせいで、巨大な不安に苛まれてしまうのだった。一般的には、まあね、と思われてしまう展開には違いないものの、これがある種の説得力、キュートでありつつエモーショナルな引っかかりを持ちえているのは、小さなつっかえが大きな障害になるという、恋愛の遠近法を適確に採用、再現しているからにほかならない。遊びじゃないので余裕もない。深く考えるあまり、生真面目、狭量に陥ってしまう、そのような心境を、初心な高校生の恋愛を通じ、コミカルに共感の幅をひろげながら、まっすぐ指しあらわしている。たしかにこの手のマンガにパターン化されたくだりはすくなくないし、はっきりいってここから先どれだけエピソードのヴァリエーションをつくれるか危うい。以前はそれをステレオタイプと判じてしまったが、いや今なら実直な手つきの、ひじょうによいラブコメであると思う。

 1巻について→こちら

・その他藤沢志月に関する文章
 『ラブファイター!』
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら