ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年02月28日
 黎明のアルカナ / 3 (フラワーコミックス)

 正直、藤間麗の『黎明のアルカナ』に関しては、1巻、2巻の時点であまりおもしろがれなかった。少女マンガのジャンルで、ファンタジーの世界を舞台とし、架空の身分差別をバネにすることで展開をつくるというアイディアは理解できたのだが、ではそこからどこに飛躍してゆくつもりなのか、ほとんど描かれていなかったし、現実性で考えれば苛酷でしかありえない境遇の痛ましさを薄め、適度にぬるくしてしまっているため、ドラマティックに跳ねる面も乏しかった。しかしこの3巻に入り、ようやく作品の見晴らしが定まってきた印象を受ける。ヒロインであり赤毛の不幸を持つるナカバ、政略結婚で彼女を迎え入れた王子のシーザ、さらには従者としてナカバに仕える亜人のロキ、そうした三角関係の愛憎が重要な役割を担うだろう予感は、あらかじめ得られていたものだったけれど、それらの人物の自覚が具体的になることによって、メリとハリとがだいぶ筋書きについてきたのである。敵対するベルクート国に人質として嫁入りしたセナン国の王女、ナカバはしかし持ち前の気概で、夫のシーザ王子を牽制、対等の立場を保ちながら誇りを守ろうとする。彼女に手を焼き、苛立ちを募らせるシーザだったが、いつしかそれは想いのつよさへと変わっていた。一方、ベルクート軍に対する恨みを抱き、ナカバとともに入国したロキは、二人が次第に打ち解けていく様子を見、複雑に心境を揺らすのだった。国レベルの権力が、諍い、対立するという大状況と、そこに巻き込まれた個人がいかにして運命を生きるかという小状況とを、かろうじて合算させてはいるものの、あきらかに後者のほうに比重のおおきな作品であって、ラヴ・ロマンスのモチーフが高まることにより、足場のしっかりとした描写が増え、はっとさせられる場面も多くなってきたように感じられる。一つの転換点として見られたいのは、やはり、ベルクート国王の容赦ない仕打ちを前に、シーザ、ロキ、ナカバの三者が、惜しげなく、眼差しを一致させるシーンであろう。これは必然、世界の存在を外部とし、それを向こうに回した側から、銘々の意識もしくは内面を照射、際立たせる表現となっている。その後の、リトアネル国の第5王子、アーキルの物語への介入も、近しい効果をあげているといってよい。創作上で、大状況に巻き込まれた個人がいかにして生きるか、これはつまり、その個人の単位をいかにしてあらわすかという技法の問題に含意される。舞台を仮構、生まれや育ち、特殊な能力を設定するだけで、必ずしもストーリーに魅力が宿るわけではない。ここにきてようやく、たしかな手応えが備わりつつある。
 ダイヤモンド ビート (フラワーコミックス)

 しばの結花の『ダイヤモンドビート』は、高校生のバンドを扱っているが、それはあくまでも一途な恋愛をフォローするための材料でしかなく、音楽マンガとして読まれるべき点はほとんどない。したがって、ラヴ・ストーリーに描かれていることのどこに魅力があるのかのみを見ればよい。ヒロインの紗月がヴォーカルをつとめるバンドのライヴは、ギターである輝一の腕前とルックスもあって、評判は上々、メンバー・シップも固く、すべてが順調に思われた。しかし付き合っているはずの紗月と輝一の仲だけがまったく進展しない。だがあるとき、レコード会社の人間を名乗る吉岡が訪ねてき、紗月のスカウト、引き抜きを申し出たことから、事態は一変する。こうした筋書き上、もっとも注意されたいのは、バンドの活動がどうこうではない。吉岡の介入がトリガーとなって、紗月と輝一の心境におおきな波紋がもたらされることにほかならない。二人の関係は、きわめて単純化するのであれば、愛情や才能に欠損もしくはコンプレックスを抱える者同士が互いを特別だと認め合い補う、式の成り立ちを持っている。そのような構図の強調線が、家族やバンドの存在を通じ、わかりやすく引かれているのである。しかしてそれが、余計な憂鬱とならず、ピュアラブルでチャーミングなロマンスとなっているのは、同様のネガティヴ・ファクターを吉岡が肩代わりし、彼を悪役とした対比の内に、前向きとなるようなニュアンスが仕込まれているためだろう。展開はいささか子供じみている。でもその甘さが、かえって印象をよくしているところに作品の本質を求められるのは、表題作のほかに収められた二篇(「ユキ・ドキ・スキ」と「7DAYSシンデレラ」)に関しても等しくいえる。

 『1/3ロマンチカ』について→こちら
 『この空に響け』について→こちら
 『太陽が呼んでいる!』について→こちら
2010年02月27日
 姫剣 2巻 (ヤングキングコミックス)

 桑原真也のキャリアにおいて、相応のラストを迎えられたのは、結局のところ、初の連載作であった『0リー打越くん!!』ぐらいであって、いや『TO-mA』だって悪くはなかったよ、という熱心なファンもいるだろうが、佐木飛朗斗と組んだ『R-16』を含め、中途半端に終わらされてしまうケースの多いような気がする。だいたい『ラセンバナ』はどうなったの、ねえ。もちろんその原因をすべて、作者の力量不足に求めるわけにはいかないのだけれど、すくなくともトータルな完成度を極めることのできないマンガ家との印象が弱くはなく。反面、その、勢い、はったり、急展開をこしらえていく手つきこそが、桑原の真骨頂と見なせなくもない、か。とはいえ、『姫剣(ヒメハバキ)』である。わずか2巻で完結したわり、話にまとまりがなさすぎるよ、と思う。とりあえず、設定をやたらおおきくしておきながら、あまりよく生かされなかった。せっかく改変の許された古代を舞台に用意したのだから、もうちょい、荒唐無稽を貫いてもよかった。ヤンキー・マンガの作家にエントリーされてしまったことが、そのイディオムにいったん慣れてしまったことが、殺伐としたエロティックなヴァイオレンスと綱引き、インパクトを削いでしまったところがある。ヒロインであるサラと歌鹿の決闘は、両者の身体は女性でも、不良少年同士の牽制し合いみたいになってしまっている。それ自体が良いとか悪いとかではない。ただ、ファンタジーを題材にした作品の幅を必ずしもひろげていないので、もやもや、悔しさが残る。

 1巻について→こちら

・その他桑原真也に関する文章
 『ラセンバナ 螺旋花』(設定協力・半村良『妖星伝』)
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『[R-16]』(原作・佐木飛朗斗)12巻について→こちら
2010年02月26日
 Throwing.jpg

 THROWING KNIVESはオーストラリア出身の4人組であって、このバンド名ままのEPとなる『THROWING KNIVES』は、どうやらCD化はされておらず、iTunes Storeで購入した。という基本事項から書きはじめたのは、正直、それ以上の情報をよく知らないからなのだが、たしかREVOLUTION SMILE(FARのギターがやっているバンド)のMySpaceからリンクしていって知った。プロフィールを見ると、SOUNDS OF COMAやFRINGOといったバンドのメンバーによって結成されたらしく、いやそれらに関しては残念ながら未聴ではあるものの、フェイヴァリットとして90年代にオルタナティヴ系と呼ばれたアーティストがいくつも挙げられているとおり、なるほど、じっさいのサウンドにもそういうタッチがすくなからず含まれているように思う。より正確を期すなら、アフター・グランジにあたる時代の特性に近しいニュアンスを多く持ち、しいて喩えるとすれば、INCUBUSをずっと単純にハード・ロック化させたような感じだろうか。あるいは、FAITH NO MOREからミクスチャーとハードコアの要素を大胆に抜き、まっすぐギター・ロックに仕様変更した印象を受けなくもない。トリッキーであるよりもストレートに攻め込んでき、演奏は適度に激しく、重たく硬く、腰のしっかり構えたグルーヴを響かせており、抑揚のあるメロディを、ハンサムと呼んでも差し支えのない声量、声質で、熱っぽく入れてくるヴォーカルがじつに頼もしい。歌い回しは、それこそブランドン・ボイドを彷彿させるところもあるのだが、その、雄々しく際立ったエモーションの、実直なバンド・サウンドに合わさってゆくさまがたいへん決まっているのである。全7曲、どのナンバーも十分に引きのつよいフックを備えていて、ポテンシャルはかなり高い。ひじょうに好きだし、かっこういい。

 バンドのオフィシャル・サイト→こちら
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2010年02月25日
 地球の放課後 1 (チャンピオンREDコミックス)

 昔から吉富昭仁のマンガにはしばしば、達者な作家だな、と思わされるところがあるのだったが、いったいどこの部分がそう見えのるかといえば、おそらくは、その、語り口になるだろう。ここでいう語り口とは、さしあたりコマ割りや場面の構図、作品自体のデザインのことであって、ストーリーや設定のアイディア、概容は必ずしも非凡とは言い難いのに、なぜかしらはっと目を見張らされるものがあるわけだ。それは当然、この『地球の放課後』にも当てはまる。自分たち以外の人類がまったく消滅してしまった世界で、三人の少女と一人の少年が文明の残骸を借りながら、ささやかな共同生活を営む、こうした筋書きは、たしかに日常のイメージを逸脱してはいるものの、今どき斬新とはされないに違いない。にもかかわらず、白けることがないし、いや反対に引き込まれるほどの魅力にあふれているあたりに、吉富の達者さがある。題名は、この1巻で、早苗、八重子、杏南という三人のヒロインと並ばされ、たった一人配置されている男性の正史が、無人となった街並みのなか、次のように言うセリフに由来している。〈今はね…放課後みたいなものなんだよ いつか朝になって みんなが戻って来て 授業が始まる…きっと…今は地球が一息ついてるだけなんだよ〉。これは読み手の判断において、じょじょに人口を減らしてゆく一年前の事態にテレビのキャスターが〈良い終末を……〉と漏らしたのにかかっている、と考えてよい。いうまでもなく、そうした言い回しには学園生活の単位が比喩的に用いられているのだけれども、じっさい作中人物たちが生きている状況は決して平和とはなりえないはずなのに、彼らの暮らしぶりは、あたかもそれがアフター・スクールであり週末であるかのように、ほのぼの、安泰としている。現実社会にあって、終わりのない夏休みは存在しない。あるとすれば、非日常にほかならない。この非日常なシチュエーションが、にこやかな表情に、しかしときどき、不安をもたらすのである。ところで、これを読みながら、想起したマンガがある。意外かもしれないが、あずまきよひこの『よつばと!』であって、たぶん作品の温度や時間のありように通じる点がある、そう仮定することができるとき、スタティックな情景が描かれる『よつばと!』を、あくまでも物語として動かしているのが、あの、主人公の異彩さであるのに対して、『地球の放課後』の場合、現在がこうなってしまった原因、ファントムと呼ばれる生物の脅威が、物語の動力源にあたると推察される。同時に、というか、もちろん、というか、その存在は、たいへんな危険やおおきな秘密を孕んでおり、SF的な波瀾万丈の呼び水ともなっている。今の段階ではそうした展開はすくないけれど、やがて、順風を打ち消して逆さにするかもしれない可能性をうかがわせる。
2010年02月24日
 ねえ君、君がどれだけ尽くそうが、家族から見捨てられ、友情に裏切られ、恋人が離れていってしまう。それでも絶対に裏切らないし、裏切れない。間違いがないと信じられるものが残されているとき、いったい何と呼べばよかったのか。

 前巻で、作中においては完全無欠に等しい仁と義郎がまさか命を落としかけたその間一髪をアキラが救ってみせたのは、『仁義S〜じんぎたち〜』屈指の名場面に挙げられるだろう。じっさいそこでの立原あゆみの筆致には、突然放り込まれた手榴弾を掴み、迷わず、投げ捨てる主人公の姿からは、ひさしくなかったほどの興奮を得られる。そうしたハイライトを経て、関東一円会を割った六星会との抗争は新たな局面へ入ると同時に、アキラや大介、守の新世代たちの台頭は著しくなる。一方、出世するにつれ、彼らを取り巻く人間関係にも、もちろん女性の存在を含めて、変化が訪れていた。

 この12巻には印象的な箇所がある。それは江美に去られたアキラが、花いちというスナックのママさんと差し向かい、相棒であるドクター大内のことつについて交わす、次のような会話である(p97-98)。〈奴もバカだよな 大人しく医者やってりゃいいものを 何とち狂ってやくざとの二足のわらじ〉とアキラが述べるのに対し、ママさんが〈アキラを愛してるんじゃない〉と言う。これをアキラは〈やめてよ ゲイかい? 奴は〉とはぐらかすのだけれども、ママさんは〈そんな言葉でひとくくりにはできないわね 男が生きてゆくにはね 女ばっかじゃしょうがない 男がいなくちゃだめなのよ 女は男だけでも生きてゆける〉というふうに諭すのだった。こうした二人のやりとりはその前段(p-95)で、甲田に対する長峰の裏切りを思い、アキラが〈………何でもありなんか やくざは〉と言うのを聞き、大内が〈安心しろ 俺は アキラを裏切らん〉と答えるのを受けているわけだが、そこには『仁義S』のみならず、前作『JINGI』から、いやあるいは作者のヤクザ・マンガに脈々と連なる一つのテーマが見え隠れしているように思う。

 いわずもがな、『JINGI』とは、極左の天才テロリストであった義郎が、一介のちんぴらであった仁のなかに、いまだ自分の知らない世界を見、生き様をともにしてゆく物語であった。こうした基本線は『仁義S』にも継承されている。要するに、極道のアキラとエリート医師であったはずの大内の関係が、それ、である。仁と義郎の成り上がりが、お互いがお互いに命を賭すのも厭わなかったほどの信頼によって達成されていたのと同じく、アキラと大内のサヴァイバルも、彼らの名状しがたいコンビネーションを通じて果たされているのだ。

 さらにできるなら立原のヤクザ・マンガを一望されたい。驚くべきことに、その作品のほとんどは、『本気!』の本気と次郎を例に出すまでもなく、まさしく裏切らないバディを持った主人公が生き残る、かのような構造を持っていることに気づかされる。必ずしもヤクザ・マンガに当てはまらない『当選』にしてもそうではなかったか。反面、『花火』や『地球儀』、『弱虫』、『恋愛』などでは、バディを持たない孤独な主人公が、その逞しさとは裏腹に、はかなく散る、もしくは生死不明になってしまう。また以前にも触れたとおり、それらの主人公の大半が、肉親から見捨てられ、あらかじめ居場所をなくしてしまっていたことも忘れてはならない。

 たしか(うろ覚えになってしまって申し訳ない、いずれ該当箇所を見つけたら直接引用したいが)極道は自分のために捨て身となれる者が5人いれば全国を制覇できる、というような格言みたいなものが立原の過去作にはあるけれど、それもつまりは、絶対に裏切られることのない繋がりをいかにして望むか、を意味しているに違いない。

 そして、おそらくその繋がりは家族とも友情とも恋愛とも違う。似て非なる。あえて名指すとすれば、仁義、ということになるのかもしれない。仁や義郎は、アキラたち新世代のことをJINGISと呼ぶ。仁義たち。マンガの題名からメッセージを探るのが可能だとしたら、はたして真のJINGIを有した人間だけが争いのなかで生き残ることになるのだとしても不思議ではない。

 11巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 5巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他立原あゆみに関する文章
 『涙星〈アース〉チンピラ子守歌』1巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2010年02月21日
 さすが元『週刊少年ジャンプ』作家というべきか(いやいや)、たなかかなこの『秀吉でごザル!!』は、この5巻より本格的な異能バトルに突入する。しかも戦国武将その人たちが直接にぶつかり合うのではなく、憑き鬼神という、彼らの分身であるような存在が代理で行うのだから、さながらスタンド・バトルである(まあね)。と、述べてみたところで所詮それは表面をさらっているにすぎない。おお、と思わされるのは、やはり、宗教的もしくは神話的な構造が前面化すると並行し、そこに歴史上の有名人物たちが否応なく巻き込まれてゆく、そのスペクタクルに対して、なのだ。織田信長の背景にキリスト教を見出し、サタンと結びつけるアイディアは、ある意味、紋切り型であろう。だが、それを叩き台にしながらスケールをさらにひろげるさまは抜群であって、たいへんわくわくする。どこかに参考されている発想があるのかもしれないけれど、小さな島国である日本を〈自然神信仰においては超大国といってよい国である!!〉とするのは、〈かつて世界のほとんどの国は自然神信仰を持っていた…人間は善にも悪にもなりうる多様な神々と暮らしていたのだ〉ったが、一神教の拡大によって世界情勢は変動してしまい〈もはや世界に自然神のよるべき国は日本だけになりつつある…!!〉からであり、その結果、第六天魔王である信長を含め、多種多様な憑き鬼神と彼らを憑依する戦国武将たちの、まさしく決戦の場に相応しくなっている、こういう舞台設定の在り方に、おお、エキサイトさせられるものがある。朝廷の介入を通じ、天皇家がなぜ絶対なのか踏み込んでいるあたりもよい。しかしここで重要なのは、主人公はあくまでも木下藤吉郎(のちの豊臣秀吉)であって、物語の内容自体は、彼の身辺的な欲望に従っていることだ。そしてそれは、信長と藤吉郎の、一般にイメージされる主従関係を、必ずしも徹底しない、しばしば覆す仕様をもたらす。藤吉郎は、信長の妹である市姫に恋い焦がれ、熱心な想いを寄せている。彼が尾張に与する最大の理由はそれなのだが、身分の違いによって許されず、事態は二転三転してゆき、行きがかり信長の片腕にまで成り上がるのと同時に、先ほどの宗教的もしくは神話的な構造が絡んでくるのである。やがて、市姫の娘である茶々もまた、憑き鬼神との縁に繋がれていることを知った藤吉郎は、信長を仏敵と呼ぶ比叡山から、彼女や市姫たちを守らなければならない。このように、史実をベースにしながら、改変を加え、じょじょにスペクタクルをエスカレートする一方で、藤吉郎という矮小な個人に、さまざまな重責を背負わせることで、人格の成長を描く。これがすなわち、『秀吉でごザル!!』の魅力的な点にほかならない。

 4巻について→こちら
 
・その他たなかかなこに関する文章
 『たなかかなこ短編集』について→こちら
2010年02月20日
 アライブ最終進化的少年 20 (月刊マガジンコミックス)

 〈世界を否定することは 自分自身を否定することと同じよ だったらあなたひとりで死になさい‥‥!〉。超常現象を生き延びながら少年は、アクロの心臓を呼ばれる脅威に取り憑かれた親友を救うべく、彼と直接対決しなければならない、こうしたプロットは大友克洋の『AKIRA』に通じるものがあり、モノクロのページにおいて髪の色が黒と白に塗り分けられたライヴァル関係は、たとえば永井豪の『デビルマン』に象徴的なとおり、この国のマンガ表現においてスタンダードな対照をなしているし、そしてそれが、極端化すれば、女性の取り合いになっているのは、さしあたり現代ふうだといえる。しかして、叶大輔と広瀬雄一の、愛憎半ば、歪な友情劇も、いよいよ終局を迎えるのだった。あだちとか(作画)と河島正(原作)による『アライブ 最終進化的少年』の20巻であるが、人類規模の決戦が、日本の、東京の、高校の、屋上で、たった二人の少年によって繰り広げられるという、要するに、広い範囲の危機が狭い世界の葛藤に帰結してゆくような展開は、主人公である大輔が広瀬に向かい〈わかるか? ここ 全部 ここから始まったんだ もう 終わらせようぜ〉と言っているそのはまり具合からして、おそらくは物語の当初から予定されていた段取りであって、じっさいこれ以外のクライマックスはありえないだろう。そう考えるとき、やっとここまで来たか、と思う。登場する人物の数は多く、さまざまな紆余曲折はあったものの、筋書き自体はわりと一本道であったため、長かったなあ、という気がする。はたしてその過程のなか、しばしばうかがえたのは、命に価値はあるのか? 生きることに意味はあるのか? という問いかけであった。こうした問いかけは今やステレオタイプでしかない。だがそれがステレオタイプに感じられるのは、サブ・カルチャーの歴史においてさんざん繰り返され、慣れ親しまれてきた結果にほかならない。よく知られたテーマに対し、たしかに雰囲気は洗練されている一方、必ずしもイメージの新たではない作品が、いかなる決着を用意するのか。結局のところ、興味はそこに尽きる。『アライブ 最終進化的少年』は、次巻で完結する。

 10巻について→こちら
2010年02月19日
 Love yourself ~君が嫌いな君が好き~【初回限定盤1】 Love yourself ~君が嫌いな君が好き~【初回限定盤2】 Love yourself ~君が嫌いな君が好き~

 これは新展開といっても差し支えがないだろうね。いやもしかしたら予兆とすべきは、打ち込みの大胆な前シングル「RESCUE」の時点ですでにあったのかもしれないが、あの性急なビートが、「喜びの歌」もしくは「Keep the faith」以降におけるハード・ロックのモードを大きく裏切るほどではなかったのに対して、通算11作目となる今回のシングル「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」で聴かれる曲調、アレンジは、完全に過去との路線を異にしている。

 主題歌に使われているテレビ・ドラマ『ヤマトナデシコ七変化』のクレジットタイトルのイメージがあるからか、ストリングスと電子音的なリズムの入り混じったサウンドは、エレ・ダンサブルっている(おそらくこんな言葉はないのだが、まあ)。しかし初期の「SIGNAL」が持っていた軽快さともまた違ったアプローチとなっている点に、「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」の本領があり、KAT-TUNの新たな音楽性、方向性、引き出しがひらかれているように思う。

 これまで、すくなくともシングルに関しては、亀梨くんと赤西くんのヴォーカルが、交互に、あるいはダブルとなり、メインのパートをつとめるパターンが多かったわけだけれども、今回はかなりの部分、亀梨くんに単独で任されている。かわり、オートチューンを通じ、要所で、赤西くんはその存在感を見せている。亀梨くんの歌声にエフェクトのかかるところもあるが、コーラスのあと、機械仕掛けに変化させられたヴォーカルで、赤西くんの入れてくるタイトル名どおりのフレーズが、絶妙なアクセントとなっていることは間違いなく。また後半において、オートチューンを被せながら、英語詞をスピーディに挟んでくるあたりも、楽曲の印象を左右するぐらいのアピールがある。

 決してリニアーな連なりではないものの、赤西くんに担われた〈It's love, your love.....love yourself〉=「Love yourself」が一つのフックをつくれば、亀梨くんの担う〈その瞳を僕にあずけて / 君が嫌いな君が好き〉=「君が嫌いな君が好き」が一つのクライマックスをつくる、そのようなかたちで「Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜」という一つのバランスが取られているのでは、と解釈することもできる。他方、田中くん(JOKER)のラップは、以前にも増して、するどく、色気があり、赤西くんのオートチューンとはべつの角度から、楽曲の展開を、さらに魅力的になるようフォローしているのだった。もちろん、メンバーのユニゾンで盛り上がるメロディの、心地好さ、ひじょうにキャッチーですぐれていることが、すべてにたんなるギミック以上の恩恵をもたらしている。

 余談になるが、田中くんのラップに、中丸くんのビートボックス、赤西くんのオートチューン、これらのフルに機能させられたハイ・スペックなナンバーがやがて生まれる可能性を考えたら、わくわくしてしまうよ。すくなくとも、アイドルの枠内で、はたまたアイドルの枠内を飛び出し、それだけのことを実現させられるポテンシャルと期待を、KAT-TUNというグループは有する。

 だいたい、初回限定盤の2ヴァージョン、そして通常盤のぜんぶで、2曲目に収められている「THE D-MOTION」にしても、過去の楽曲を例に出すなら「12 o'clock」と似て非なるアプローチといえるかもしれないが、じつに冒険的な一作で、ここではもはや全員の歌にオートチューンが用いられており、じつは昨年のカウントダウン・コンサートで耳にしていて、そのさいDAFT PUNKかPerfumeかといった印象を抱いたのは、要するに、エレクトロニック・ミュージックを経由したアッパーなダンス・チューンだったからなのだけれど、各人にマークされた差異こそがウリになりうるジャニーズにあって、そのヴォーカルが、楽曲の仕様に合わせ、過剰に加工されることは、はたして吉となるかしら凶となるかしら、こうした問いに対し、真っ向から挑み、たしかな成果をあげている。

 どれだけエフェクトを施されていようが、ファンならば十分に聞き分けられる、というレベルにかぎったことではなく、メンバー6人が正しく適材適所のスタイルでコントラストをなし、それが反復するビートのなか、ある種の起伏を激しくしている。微かにグラデーションを変化させるバックのトラックはひじょうに楽しいのだが、中丸くんのビートボックスを含め、ヴォーカルのタッチがわかりやすく、さまざま、彩りを次々替えていくことで、楽曲の表情を豊かにしているのである。

 とくに終盤、〈まだ終わらない / 今夜What a party night / 乗ってかない? / 迷う気持ちはRight〉という亀梨くんの物憂げなパートを、赤西くんが〈I like that way ur move / I see ur body wave〉と受け、さらに〈Da da li da la da da la Shake it!Drink it! Pump it!〉というフレーズで勢いよくはじく、その瞬間のかっこうよさときたら。ああ、これがKAT-TUNだ、そう思わされるコンビネーションに胸躍る。

 通常盤3曲目の「HEART BEAT」は、疾走と爽快にあふれるアイドル・ポップスの佳作といってよい。ストリングスの明るみを主体にした曲調は、むしろ今の嵐に似合っていそうだが、個々のヴォーカルの際立ち、ドラムの強いアタックに誘われ、じょじょに熱っぽく、やがて重なり合うそれに、このグループならではの、しるし、が刻まれている。「THE D-MOTION」とはべつの意味で、匿名性のうちに記名性が立ち上がる。

 初回限定盤の片方で聴かれる亀梨くんのソロ・ナンバー「愛しているから」は、センチメンタルなピアノのバラード、悪くはないものの、他の収録曲と並んだとき、ややシンプルすぎ、あまりはっとしないのはもったいなく。もう片方、赤西くんが作詞作曲に関わった「A Page」は、彼のソロ公演でも披露されていたが、洋楽指向といえるような、打ち込み、全編英語詞の、メロウなナンバーである。ここでもオートチューンが大活躍しており、赤西くん、まじでそればっかだな、と思いつつ、楽曲の雰囲気を濃くしているのは、あきらか。

・その他KAT-TUNに関する文章
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら

・その他赤西仁、LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

 コンサート『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』(2010年2月8日・日生劇場)について→こちら
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2010年02月18日
 こちらのブログ「人面犬の『秋田に始まり、秋田で終わる』」さんから、『週刊少年チャンピオン』を読み続けてきたなかで好きだったマンガを10個、という企画に声をかけていただきましたので、挙げさせていただきたいと思います。『週刊少年チャンピオン』は、80年代の後半(終盤)ぐらいから目を通しはじめ、今も買っておりますが、こうしてフェイヴァリットなものを並べていくと、ああ、わりあい90年代頃の作品に偏っている気がしますね。さしあたり思いついたところから、順位は暫定的なものです。

 1)みやたけし『めざせ1等賞』
  マラソンという、マンガのジャンルには珍しい題材を扱い、どれだけの不幸にあっても逆境にあってもくじけぬほどストイックな少年の、そのがんばりズムを描いた傑作であって、とにかく何度読んでも励まされるし泣ける。取り柄のないとされていた人間が成長し、社会に出、世界に羽ばたくまでを現実とリンクさせるオーソドックスな手法、健全なスポーツ・マンガとしても文句のつけようがない。

 2)米原秀幸『箕輪道伝説』
  ハードボイルド不良マンガとでもいうべきレアなグルーヴ、殺伐さをエスカレートさせていき、最終対決の凄惨さが暴力の否定となっている点に本作の価値はある。

 3)みさき速『特攻天女』
  90年代の女性暴走族(レディース)ブームに着想を得ているが、本領は中盤以降の展開、すなわち裁かれない未成年の罪と罰をいかにして描くか。そしてそれは現在もまだアクチュアルな問題提起として機能しうる。

 4)菊地秀行・細馬信一『魔界学園』
  『魔界都市ハンター』と悩んだが、こちらを。後半はやや厳しいものの、ボクシング編の完結まではほんとうに驚天動地の展開続き。小山内との師弟関係にはたまらないものがあるし、壇隼人の生き方は紳士とは何かを教えてくれる。

 5)緋采俊樹『ひもろぎ守護神』
  『ゲッチューまごころ便』とどちらにしようか、死ぬほど悩んだ。じつは今も悩んでいるのだったが、いくぶんシリアスな要素が強く、ストーリー性の高いこちらを取ることにする。  

 6)浜岡賢次『4年1組起立!』
  個人的には『浦安鉄筋家族』よりもこちらをリアルタイムで読んだことの衝撃のほうが大きく。さらには今や作者からは失われてしまった荒々しい勢いがあって、とくに健ちゃんとブーの意地の張り合いが最高である。

 7)伊藤清順『ぶかつどう』
  大昔にPUFFYの人も『週刊少年チャンピオン』のアンケートにこれを挙げていたが、多くのファンにとってはもう、言わずもがな、といったところだろう。車田正美ふうの展開というか、いかにも少年マンガの学園トーナメントをオマージュし、ギャグに転がしながら、なぜか熱くなれるところのある不思議な作品であった。

 8)能田達規『GET!フジ丸』
  サッカー・マンガには食傷気味だった当時、きわめてオーソドックスな筋立てながら、ひじょうに興奮させられた。作者はその後もサッカー・マンガの佳作をいくつも描いているが、これを選んだのはやはり出会いのインパクトが強い。

 9)芹沢直樹『サムライマン』
  世間の評価は低いかもしれない。永井豪『デビルマン』もしくは『凄ノ王』のパスティーシュ的な作品であって、そのへんも含め、自分の趣味とたいへんマッチしていた。『池袋ウェストゲートパーク』のパスティーシュ的な『迷探偵史郎シリーズ』も好きである。

 10)小沢利雄『チェリー』
  あまりにも長く続いたため 『フジケン』は終盤テンションにむらがあったが、小沢としお(小沢利雄)の作品はどれも高く買えて、完結しているもののなかから一つ選ぶとすれば、整合性の面で、これかな。もちろん『ダンコン』も捨てがたく(月チャンでやってた『いちばん』ももちろんよいよ)。おそらくは『ナンバ』シリーズが完結したさいにはそれが最高作になるだろう。

 次点は、岩塚卓『デカポリス』、石山東吉『覇王の森』、どおくまん『超人S氏の奮戦』、大熊良『パーフェクティーチャー』、瀬口たかひろ『えん×むす』、曽田正人『シャカリキ!』、沼よしのぶ『白い弾丸』、細川雅巳『星のブンガ』、おおひなたごう『おやつ』、施川ユウキ『がんばれ酢めし疑獄!!』、と思い出しながら挙げていけばきりがなくなるので、やめる。
2010年02月17日
 おもいで金平糖 (りぼんマスコットコミックス)

 持田あきは良い。ほんとうに良い。何よりもそのポエジーは宝物のようであって、ほんのすこし触れただけで、不思議と心を満たすものがあるのだった。もちろんここでいうポエジーとは、少女マンガならではの、あのモノローグによって綴られる情緒に負うところが大きいのだけれども、いやしかし誤解を避けたいのは、そうしたポエムの決まり方のみを指すのではない。物語や展開、セリフ回し、すべてのカットがそこに集約されてゆく過程において、じょじょに立ち上がってくる感動の、まったくぼけていないことをいうのである。

 そしてそれを最良のかたちで実現しているのが、この『おもいで金平糖』ではないか、という気がする。テーマを等しくする四つの短篇、読み切りの作品が並んでいるが、どれもすばらしく鮮やかなポエジーによって、ああ、こんなにも人は悲しみからそれを越えてゆくための誓いを得られるのだ、と教えられる。要するに、どのエピソードもたいへん感動的に伝わってくる。

 SFのジャンルで語られるほどではないかもしれないけれど、基本的には、タイムスリップのアイディアを用い、オムニバスに、少女たちがその、まだ小さい人生のなか、後悔と現在、希望と未来とを、一連なりにし、ただ残念であったはずのことから、できるだけの幸福を強く、やさしく紡ぎ出してゆく様子を、描いている。〈今の子は知らないかもしれないけど このあまなつ屋の“おもいで金平糖”には不思議な言い伝えがあるんだよ 不思議な奇跡を起こす力があるとか〉と、これは第三話「さまざまなことを思い出す…」で年輩の教師が口にする言葉であるが、じっさい「おもいで金平糖」には、ある人びとを過去に連れて行ける効果があった。そうして時間を遡り、今の自分にかかるターニング・ポイントへと導かれたヒロインが、たとえ結果的には喪失であったとしても、決して誤りではない、このような境地を経、再起する姿を、とびきり健やかに表現化している。

 泣くだろう。第一話の主人公が、今は亡き兄と出会い、自分が誰かの代わりではなく、そして自分の抱えた不安を除けて、ふたたびがんばり、走り出すのを見、泣くだろう。泣くだろう。第二話「テイクオーバーゾーン」の主人公が、自分がいった何を忘れてしまったのか、失恋を受け入れることで、ようやく気づけたとき、泣くだろう。泣くだろう。第三話「さまざまなことを思い出す…」の主人公が、恩師であるような人物の挫折と関わっていき、諦めずにいれば、情熱は尽きぬのだと知ったことに、泣くだろう。泣くだろう。第四話「パンクロックマザーグース」の主人公が、自分は見捨てられたと母親を憎しむ、だが真実は違う、生い立ちと和解し、開かれた心に、泣くだろう。

 さすがに、泣きすぎだろう、おまえ。と言われてしまいそうだが、涙脆いことを差し引いても、こんこんと涙があふれてしまうのだから、弱るよ。仕方がない。とにかくそれぐらい、この作者の、『おもいで金平糖』のポエジーには、たしかなものがある。もしかしたらストーリー自体はどうということもない。ことさら絵が巧いわけでもない。にもかかわらず、はっとさせられ、目頭を熱くする。

 最初に述べたことの繰り返しになるけれど、たとえば第一話の、印象的な場面の、こういうモノローグ〈逢いたかった 逢いたかった 一目逢いたかった “もう会えない” それを越えて 「晴れた日ってどうしてこんなに切なくなるんだろう」 あぁ そっか お兄ちゃんが最後に見たのも こんな風に澄み切った空だったんだね〉そのありようにのみ、感動させられるのではない。物語や展開、コマ運び、マンガとしての総和が、そこでついにカタルシスをピークさせる。これにひたすら胸を打たれるのだ。

・その他持田あきに関する文章
 『君は坂道の途中で』
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2010年02月16日
 花宵道中 / 1 (フラワーCアルファ スペシャル)

 報われない恋も、叶わない夢も、悲しいね。報われないことを知りながら誰かを想い、叶わないことを知りながら夢を見て、だけどたったそれだけのことが救いになってくれないのは、なお悲しいよ。斉木久美子の『花宵道中』は、江戸時代、吉原、遊女の世界を舞台にしている。宮木あや子の同名小説のコミカライズであって、残念ながら原作のほうは読んだときがないのだったが、しかしその、マンガ版のせつなさにたっぷり酔わされてしまう。花魁もの、とでもすべきは、この国のフィクションにおいて連綿と受け継がれてきたジャンルの一つであり、近年では安野モヨコの『さくらん』のヒットが記憶に新しいけれども、そうした系譜に『花宵道中』も入れられるだろう。しかしこれがどうしたって胸痛ましいのは、すくなくとも1巻に収められたエピソードを読むかぎり、ヒロインたちの願いが次第に悲恋の色合いを濃く発し、そしてじっさい、はかなく壊れ散ってしまう、そこに焦点が絞られ、物語がつくられているためだと思う。花魁もの、において遊郭というのは、たとえば夜の商売を題材にしたストーリーが女性によって構成される社会の一片を比喩しうるとすれば、それをさらに寓話化することで直接的な現実のイメージを緩和、虚構のなかに共感の領域であるようなエモーションを生成する形式だと推察される。男性の権力が優位であり、金銭や身分の格差が明確であるあまり、立場が弱いほうに置かれた人間の、ある種の生きづらさが著しく見える、そこに感情移入のドラマが盛られているのである。と、仮説を立てるとき、『花宵道中』では、どれだけ環境が不自由であろうとも、心は自由でありたい、こうした願いが、だが空しく潰えてしまう、その情景がまさしく恋愛の姿を借りて、描かれている。もちろん、複数の人物が入れ替わり立ち替わり主人公となる、つまり連作のスタイルをとっているようなので、それがすべてのテーマであると現段階では言い難い。けれど、第一部のクライマックス、夢想のベールとともに述べられた〈あさ…おまえは もう 体に咲く花をだれにも見せなくていい〉という言葉の、ああ、なんて印象的なことかよ。そこでのヒロイン、朝霧がいったい何を望んだのか。当人と読み手以外は誰も知れない。報われることもなく、叶うこともなかったのだから、当然だろう。そう、たしかにそのとおりであることが、悲しい。せつない息吹を吐くのだった。

・その他斉木久美子に関する文章
 『ワールズ・エンド』について→こちら
2010年02月14日
 哀しき妖の恋 (講談社コミックスフレンド B)

 この、『別冊フレンド』周りで発表された読み切りをオムニバスで集めた『哀しき妖の恋』は、ヒナチなおの「天地神鳴!」(原作・天之ひるめ)のほか、仁の「月光蝶」、きだちの「死花−白薔薇−」、Ishikoの「奇妙な僕ら」、B型の「りんごのうた」という、五篇のマンガで入っている。その内、ヒナチなおと仁、きだちは同種のアンソロジーである『学校の妖』にも参加しており、「天地神鳴!」(以前は原作者いなかったよね)と「月光蝶」はそこに収められていたエピソードの続編的な内容になっている。まあ「天地神鳴!」に関しては、すでに連載が決定しているので、単行本にまとまったときにでも触れられればな、と思うだが、しかし正直なところ、どの作品も技術的には拙く、あまり褒められない。もっとも良いものを、ということであれば、「月光蝶」になるだろう。同級生の女子をバイクで轢き逃げし、両目を見えなくさせてしまった不良少年が、犯人は自分であることを隠し、彼女を見舞い、アルバイトで手術費用を稼ぐうち、二人のあいだに恋愛感情が芽生えるのだけれど、それはやがて当然のように、彼の罪を問うことになるのだった。と、大雑把にまとめられるストーリーは、いや要約の仕方のせいであったら申し訳ないが、わりあい凡庸なものであるし、いくら何でも学校の教室でタバコを吸わせたりするかい、あるいは少女の性格がよく出来すぎだよ等、細かい部分に難をつけられる。にもかかわらず、単層的な筋書きをドラマティックに見せるだけの工夫は凝らされている。いくつかの構図はもとより、ホラー寄りの要素も、いっけん薄口ではありながら、そこに貢献しているのである。次いでIshikoの「奇妙な僕ら」に好感を持ったが、それはあくまでもピュアラブルなラヴ・ストーリーとしての標準をクリアーしているからにすぎない。きだちの「死花−白薔薇−」は、見え透いてはいるものの、オチは強烈であり、読ませる。だが、そうした転調のためだけにストーリーが存在してしまっている印象を受ける。反対に、B型の「りんごのうた」は、これ、ぜんぜんオチてないよね。しいて解釈を試みるとすれば、内気なヒロインと殊勝な鬼、傲慢な王子の三者三様に、恋愛に対するアプローチを委ね、意味深長に掘り下げることは可能なのだが、それがどうこうというほどにはまとまっていない。
2010年02月13日
 近キョリ恋愛 6 (KCデラックス)

 ああ、みきもと凛の『近キョリ恋愛』たるや、こんなにもコミカルでありながらロマンティックでいてくれることがうれしい。6巻に入っても勢いは弱まらず、なおおもしろく読まされてしまう。たとえば「liner notes」という、「あとがき」めいた箇所で作者は、この巻の〈後半2話は中継ぎ的な話なので、テンション高めに描いてみました〉と述べているが、たしかにそれらが〈テンション高めに描〉かれているのは疑いようのない一方、どちらもたんに〈中継ぎ的な話〉として見てしまうのがもったいないくらいチャーミングなのであって、こういう一話一話の、内容のじつに富んでいるところが、最高に、好き、なのだった。

 ところでその、後半の二つのエピソード、23話目にあたる「天才少女の新年」と24話目にあたる「天才少女の親友」は、女子高生と男性教師の秘密にしておかなければならない恋愛を物語の中心の点としたとき、それを事情的に知っている周囲、周辺の人びとの態度を半歩ほどひろく足の伸びた範囲で盛り込んでいるのだけれど、何よりもまず、ヒロインである枢木ゆにのファミリーときたら、相変わらずの愉快な面々である。とくに、るーちゃん(ゆにの弟)に催眠術をかけられ、猫のぬいぐるみと戯れる親父さんの間抜けぶりがたまらない。催眠術を破られて、落ち込むるーちゃんも可愛らしい。ママさんも美人であるし、こんな家庭に生まれたかった。というのは、まあ冗談半分だが、ややまじな話をすれば、そうした家族の雰囲気が、ゆにの恋愛にとって、決して高い障害となっていないことに、『近キョリ恋愛』というマンガの特徴がよく出ていると思う。もちろん、それはギャグとしての評価で済ましてしまってよい部分ではある。しかし、同時にギャグでありえているのは、ゆにの奇抜な、独特な、とにかくチャーミングな個性を、登場人物たちは当然のこと、読み手の側も暗に認めているからなのであって、それに見合うだけの環境を作者が用意しようとしたことの必然によっている。ゆにの親父さんが、教師である櫻井ハルカとゆにの交際に反対的であるのは、必ずしもギャグではない。だからこそ、ゆにもハルカもそれをシリアスに受け止めねばならない。にもかかわらず、ゆにの変化球気質の言動がそのままストーリーの魅力になっている以上、作品の枠組みもまたそれに従っていかなければいかず、結果、他の登場人物たちをもそこに準拠させることとなっている。これがギャグに等しい傾きをつくっているのである。いっけんギャグのようでありながら、あくまでもゆにとハルカの恋愛がロマンティックなのは、作中のレベルにおけるコミュニケーションが、まじ(真剣)なためにほかならない。

 かくいう〈中継ぎ的な話〉として、ゆにの家族をアクセントに使ったのが23話目であるなら、24話目は彼女の親友であるナミ(名波菊子)に大きな役割を与えている。ナミ、今まであまり目立ってこなかったが、なるほど、こういう娘だったのかあ、ならば、ゆにの個性とも五分に付き合っていけるだろうね。いやここはふつう、少女マンガ的な展開を期待するとしたら、最初にゆにが誤解したとおり、真実を隠されていたことがある種の軋轢を生んでしまう、というふうに話は進んでゆくのだけれど、そうはなっていない。ちょうどそのようなセオリーをずらしてゆくかっこうで、エピソードは山折り谷折りされているため、これもギャグのように見られる面が多い。だが、先述したのと同様、作中のレベルでは、シリアスに友情の温度が確認されているので、きれいに畳まれた決着がもたらされるのである。

 5巻について→こちら
 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

・その他みきもと凜に関する文章
 『17歳』について→こちら 
 『水曜日のライオン』について→こちら
 『タイヨウのうた』(原案・板東賢治)について→こちら
2010年02月12日
 そもそも東直輝は『週刊少年ジャンプ』で東洋的なアイディアのファンタジーを描いていたマンガ家であり、佐木飛朗斗にしてもサイキック・バトル的なファンタジーの原作を書くことが少なくはなかったのだから、その『外天の夏』のコンビがこうして本格的なファンタジーをつくり出すことに別段驚かされなくともよい、にもかかわらず、やはりぎょっとしてしまうような気がしてしまうのは、古典的であるほどに本格式のファンタジーだからだろう、『妖変ニーベルングの指環』が。しかしそれもそのはず、ワーグナー作のオペラである「ニーベルングの指環」を直接の題材にコミカライズしているのであって、ここまで剣と魔法のファンタジーが多種多様にあふれかえった現代ではむしろ、ひじょうにオーソドックスな内容だとさえいえてしまうのである。このあいだヤンキー・マンガを手がけていたチームにこれを持ってこられたら、そりゃあちょっとは驚く。だが意匠は大きく異なれど、本質においては『外天の夏』と同じく、巨大な運命に翻弄される無垢な少年のサーガ、であることに相違ない。“恐怖を知らぬ愚か者”“ケガれた鍛冶屋の息子”そう呼ばれる主人公、ジグルトは、巨人族に蹂躙される大地を向こう見ずに生き、剣を振り、戦いながら、もしも恐怖というものがあるならそれを知りたい。眠りから覚めたワルキューレ(戦乙女)のブリュートゥが、巨人族を制圧すべく、地上に舞い降りたのとちょうど同じ頃、ジグルトの父親である鍛冶屋のもとに、天空の神々の盟主にして、戦いの神、覇神として知られるヴォータンが訪れたのは、正しく予兆であった。やがてブリュートゥと邂逅したジグルトは、炎を司る魔物ロキの協力を得、魔剣であるノートングを鍛え治し、伝説の巨竜ファフナーを倒そうとするのだった。数奇な巡り合わせのもとに生まれた主人公が、半自動的に要請されてくるクエストを次々とクリアー、英雄としての本分をまっとうしてゆくことになる、こうした筋書き自体は、なるほど、伝説や神話の基礎にほかならないし、『外天の夏』(や『特攻の拓』)ですら、じつはそのようなプロットをベースにしていたと解釈することも可能である以上、物語の構造に特筆すべき点は少ない。ではそこで『妖変ニーベルングの指環』の、作品の強度を高めているものがあるとしたら、いったい何か。ずばり、語り口、だということになる。語り口とは、この場合、佐木の独特な美学が、マンガ家のタッチでさえも影響を逃れられないぐらい、つねにダイレクトであることを指す。セリフ回しを含め、いわく言い難い情緒が踊っており、トータルの印象を左右しているのだ。それが、剣と魔法のファンタジーが多種多様にあふれかえった今日で、さらには古典的であるほどにオーソドックスな内容でありながらも、一種の異様、個性になりえている。ところで1巻とクレジットされているが、じっさいに2巻以降に話が続くのかどうか(少なくともこれ以降のエピソードは現時点で発表されていない)不明ではあるのだけれど、ストーリーにはいちおうの区切りがついていて、まずまずのスペクタクルを感じさせる。

 『外天の夏』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら

・その他佐木飛朗斗に関する文章
 『爆麗音』(漫画・山田秋太郎)
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら  
  1巻・2巻について→こちら
 『パッサカリア[Op.7]』について→こちら
 『[R-16]』(漫画・桑原真也)12巻について→こちら
 奥嶋ひろまさの『ランチキ』は、無気力に倦んでいた坊ちゃんたちが、つっぱることに青春を見つけ、活き活き生きようとする姿を、マンガに描いているが、この2巻で、彼ら坊ちゃんたち、不良少年に憧れ、チーム「シカバネ(鹿金)」を結成した鹿野乱吉と金田鉄雄の二人組は、中学生から高校生へとステップ・アップしてゆくことになる。中学卒業を目前にした乱吉のもとに、抗争し、くだした示現中のトップ、木場大輔が訪ねてき、〈俺とタイマンはってくれ〉と申し出る。〈頼む! 俺とタイマンはってくれ!! このままじゃ中学生活に後悔しか残らへんねん!〉と言うのである。もともと卑怯な手でケンカを勝ち抜いてきた乱吉は、それをむげに断るのであったが、相棒であるキム(金田)の説得や、進学せずに就職しなければならない木場の事情を汲み、ついにタイマンをはる気になったのだった。この、木場とのタイマンが、じっさいの卒業式を欠席する羽目になった乱吉にとって、一つの通過儀礼的な意味合いを果たしていることは、明らかだろう。しかして、それ以前に同級の小出水悟から〈あ…あそこは偏差値の高さより武勇伝の多さを誇るような高校やぞ!〉という話を聞き、〈俺たちの進む道は――降威高校や!〉と進路を決めた乱吉とキムが、その降威高校でいったい何を実現しようとしているのかが、物語を見ていくうえで、もっとも注意されたい点であると思う。もちろん、そこには彼らが「シカバネ」を結成するきっかけとなった椿屋が在学しているため、というのが大きい。しかしそうした導き手を得たことで、主人公たちは、何と訣別し、何を把握しようとしているのか。これが所謂ヤンキー・マンガのジャンルで読まれる作品である以上、表層的には、ケンカに勝利し、名をあげ、他から認められることにほかならないのだけれども、それを手段として考えるのであれば、深層のレベルで目的化されているのは、自己の将来をいかにイメージし、イメージされたプランに粉骨砕身到達せんとする、このような人生学上の理念を成就させることなのであって、たとえば乱吉が母親に言う〈夢やとかやりたいことって言われたらまだ分からへんけど でも降威高校で3年間 自分らしく過ごせたら 卒業する頃にはなりたい自分になってる気がするんだ!〉こうした志望理由は、まだ朧気ながらも、いや、いまだ十代であり未熟であるからこそ漠然としたヴィジョンの、たしかな起点になりえているのである。当然、その起点からどれだけ具体的な認識を取り込み、表現の幅を拡げていくのかが、やがて『ランチキ』の価値を定めることになるのは、いうまでもない。

 1巻について→こちら
2010年02月11日
 ナンバデッドエンド 6 (少年チャンピオン・コミックス)

 いうまでもなく、小沢としおの『ナンバデッドエンド』(当然、前身にあたる『ナンバMG5』のことも含めたい)は、ヤンキー・マンガである以上に、すぐれた学園ドラマであるのと同時に、すぐれた家族劇なのであって、本質的には、複雑に入り組んだ愛情と葛藤を期限付きだからこそ価値のある青春もしくはモラトリアム下の人間やコミュニケーションに託しているのだが、それをきわめて平易に、なおかつエンターテイメント性のひじょうに高いレベルで仕上げてしまっているため、むしろ正当な評価を受け損なっているんじゃねえの、と思うよりほかない。たいへんひらかれた内容であるし、もっと大勢に読まれてもよい作品である、というのは過去にもさんざん書いた。

 いやしかし、それにしてもじっさい、この6巻に描かれている光景の、適度に戯画化された現実の、日常生活の、なんて可笑しく、そして痛ましいことかよ。次々と県外の不良少年たちをのし、特攻服の猛者として、広く存在を認められてゆく一方、ふだんはごく世間並みの高校生として、学業はもちろんのこと、恋愛や部活動、生徒会の運営にいそしむ主人公、難破剛であったが、ついにその、是が非でも家族にだけは伏せておきたかった事情が、兄の猛に知られてしまう。すでに秘密を共有している妹の吟子が〈市松で全国制覇目指してるハズの兄ちゃんが 実は白百合の生徒会長だったってだけでも みんな気絶モンだぜ… 兄ちゃん これマジで カマだのホモだの言われるくれえじゃ済まねぇぞ…〉と心配するほどの、あるいはそれ以上の破滅が、とうとう剛のもとに迫ってくるのである。

 たぶんというか、当然というか、ほとんどの人間が、学生時代に、剛のような特殊な境遇を生きてはいない、生きてはこなかっただろう。にもかかわらず、彼にもたらされるピンチが、スリリングであればあるぶん、その苦悩が生々しく、著しい説得力を持つのは、まさしく作者の、マンガ技術の、とくにストーリー・テリングの巧みさによっているのだけれども、同時に作品世界を統べている認識、共感可能な領域のこしらえ方が、まったく正常だからであって、すなわち青春もしくはモラトリアム下にある人間とコミュニケーションとが、じつによく描け、丁寧に機能しているからにほかならない。それこそ、こうしたジャンルにおいてスペクタクルの担保たるケンカや抗争劇など、ヤンキイッシュな局面とはべつの部分で展開されるドラマに目を凝らされたい。たしかにそれらは、適度に戯画化されてはいるものの、どこにでもありふれた学園のひとコマ、家族のワン・シーンのように見られる。

 たとえば、修学旅行先での問題行動を咎められた剛が、停学明け、学校に復帰してからのくだり、半ばギャグに近しいテンションで和気あいあいが繰り広げられる場面からは、いっさいといっていいぐらい、過剰さを持て余した気配が排せられている。主人公の立場になって考えるのであれば、束の間だとしても自分がしりぞいていた世界に、ようやく戻ることができたとき、かつてとは違う場所のように感じられる変化があたっとしたら、どうだろう。おそらくは、寂しい。居場所の定かではなくなってしまったことが、寂しい。これは、時や場合、程度の差こそあれ、誰しもが経験則として知っている不安に等しい。こうした不安を踏まえたうえで、しかしそれでも、ねえ君の居場所がなくなることはないんだよ、と言わんばかりの健全さを、繰り返しになるが、半ばギャグに近しいテンションの和気あいあいに繰り広げることで、何気ない日々の積み重ね、そこまで積み重ねられた日々のありがたさが、しっかり示されており、だからこそ、それが失われることのこわさもまた如実になっているのであって、〈停学ぐらいで済んでよかった… やっぱ白百合はいいな 白百合にはオレの大事なモンがいっぱいある あと8ヶ月〉という剛の実感に、しかとした手応えの加わっている点が、つまり『ナンバデッドエンド』の、すばらしく達者なところなのだ。やがて卒業後の進路を、仲間と話し、悩むあたりもそうだよ。

 そしてそれはさらに、作品のもう一つの柱であるヤンキイッシュな局面と横並び、対照されて、遺伝と環境のノルマ(これについては以前にも述べたし、いずれあらためたいと思うのだったが、広島編におけるヤクザの息子の鋼一は、まさか某二人組アイドル・グループに由来しているのか、剛のオルタナティヴであると解釈することもでき、その広島編の解決自体が、鋼一と光一というライヴァルの名前の相似性にうかがえるとおり、『ナンバMG5』での横浜編の反復だとも解釈される)と抗い、もがき、ふんばり、自立しようとする主人公の姿に、フィクションとしての類い希なる深みを持たせることになる。

 にしたってまあ、『ナンバMG5』のラストに示唆的だったわけだけれども、キー・パーソンはやはり、関東最強でありながらニートと呼ばれるのをおそれる男、猛か。三下の態度から瞬時にして市松高校の上下関係を見抜き、剛をかばおうとする伍代や大丸でさえ躊躇なくぶん殴る、そのポテンシャルは、おっかなく、一目置くしかねえ。そいつがそいつなりの、きっちり筋の通ったロジックで立ちはだかるんだからな。ましてや、責められる剛にしても、自分の行いが必ずしも正しかったとは強がれない。こうして訪れたデッドエンドをいかにしてブレイクスルーしてゆくのか。ここに描かれる学園ドラマと家族劇は、ますます見逃せない境地へ達しつつある。

 3巻について→こちら
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 『ナンバMG5』
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  3巻について→こちら
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2010年02月09日
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 註)ショーの内容について、ある程度踏み込んでおります。ネタバレを気にする方はご注意ください。ふだんこのような但し書きをしないのですが、長い日程の公演がまだはじまったばかりの時期なので。


 昨日(2月8日)は、そう、『赤西仁 Star Live 友&仁 You&Jin』を観に日生劇場へと向かったのだった。が、いやしかしこれが、良くも悪くも、赤西仁というカラーが如実に反映されたステージとなっていたように思う。

 昨年、KAT-TUNのコンサートで披露されたソロ・ナンバー「WONDER」(クリスタル・ケイとのコラボレイト)からうかがえたとおり、ひじょうに洋楽指向が強いというか、モダンなブラック・ミュージック、R&B、ヒップホップのスタイルを大幅に取り入れるていでセット・リスト、ステージのおおよそは構成されていたのである。今回のために用意された楽曲のほとんどが英語詞であったのも、無意味に気取っているわけではなく、おそらくは、どのような音楽性を実現するか、のモチベーションをダイレクトにしていたためだろう。

 個人的にはすっかり、「WONDER」の、そのセンス、低音の響き、ヴォーカルのかっこうよさに魅了されてしまったタイプだから、否が応にも興奮し、体を揺らさざるをえない部分が多かったのだけれども、ショーの全体を敷衍してみれば、もうすこし緊張感があふれかえっていてもよかった。わっと幕が開くのではなしに、ゆるゆる、じょじょに熱を入れてゆくオープニングはともかく、ファンの思い入れとはべつのレベルで、圧倒的なカリズマに驚異させられるぐらいの展開、ハイなヴォルテージが臨界を越えてゆくほどの演出はなかった。まあ、まだ公演二日目であるし、今後に調整される点が出てくるのかもしれないし、はりきりが必ずしも目に見えず、どこかリラックスしたムードを漂わせているところが、じつに赤西くんらしい、といえば、たしかにね、頷くよりほかないんだ。

 印象深かったのは、英語詞のオリジナル・ナンバーが連続してゆく前半である。これがKAT-TUN本体からは離れたソロ公演であることの醍醐味は、ほとんどそこに集約されていたとさえ感じられた。先ほど述べた「WONDER」が披露されたのも同じ流れのなかであって、KAT-TUNのシングル『Love yourself 〜君が嫌いな君が好き〜』に収録のソロ・ナンバー「A Page」や、同じく『DON'T U EVER STOP』に収録の「LOVEJUICE」もばっちり決まっており、正直、このままの調子で最後までいったらけっこう自慢になるぞ、と期待させられたのだった。

 ただし、いささか時代的な傾向を踏まえ過ぎたせいか、オートチューンを使用した楽曲ばかりであったのは、せっかくの生の舞台で歌声を堪能するには、功となっていない。ぶっちゃけ、はじめて耳にするナンバーが多い以上、オリジナルのヴァージョンがどのような音程であるのか知れないので、じっさいにヴォーカルをとっているのか、はたしてリップシンクでしかないのか、自分がいた客席からはほとんど判別がつかなかったからね。シンガーとしての赤西仁を高く買っているだけに、残念を覚えるものがあった。

 他方、バックをフォローする外国人メンバーに、しばしばコーラスを委ねたり、ラップを任せたりしていたことに関しては、決して悪い印象を持たない。それはつまり、前記したとおり、どのような音楽性を実現するか、意識の面に由来しているのだと解釈される。もちろん、オートチューンだってそうじゃん、といわれれば、そうなのだけれど、たんにバランスの問題にすぎないのであって、もっと剥き身の歌声を響かせるシーンがたくさんあって欲しかった。

 しかして「LOVEJUICE」のあと、趣向に変化が訪れる。「BANDAGE」によって、ダンサブルな路線を離れ、ロックのモードへと突入していくのだった。LANDSとしてはすでにラスト・ライヴが行われしまったため、『Olympos』の楽曲ってやったりするものかしら、という疑問があったのだが、やっぱり、やった。だが、今回のヴァージョンはLANDSではない。あくまでもバック・バンドにFiVeを伴ったヴァージョンとして聴かれるべきだろう。上里くんと牧野くんのリズム隊は相変わらずタイトであって、低音のグルーヴをよく通らせる。中江川くんのギターがソリッドに決まる。そして石垣くんのキーボードの入り方に、LANDSとは異なる音色が預けられていたように思う。

 続く「care」を経、第一部が終了、30分の休憩が設けられる。どのような事情でそれが必要とされているのかはわからないが、さすがに30分のインターヴァルは長すぎるよ、と言いたかった。第一部、第二部ともに、一時間弱のセット・リストでは、それほどのクール・ダウンを欲しがれない。

 ここで空いた間を、しかし埋めるのではなく、生かすかのごとく、第二部は落ち着いたテンションで、はじまる。外国人メンバー数人と赤西くんが、椅子に腰掛け、輪になって歌うのは、レナード・コーエンのカヴァー「Hallelujah」だ。ほら、こういうところにも洋楽指向が見て取れるわけなのだけれども、ジェフ・バックリィのヴァージョンを挙げるまでもなく、アーティストの資質が直接に問われるナンバーなので、小節ごとにヴォーカルのパートを分けるというアイディアは、たしかに気が回ってはいるものの、ここでこそ赤西くんの独唱が聴きたかった、というのが正直なところ。「Hallelujah」のあともカヴァーを披露、そもそもはウィノナ・ジャッドのナンバーで、エリック・クラプトンのヴァージョンで知られる「Change The World」である。これは赤西くんが穏やかさの混じったエモーションでしっかり歌いあげる。

 MCのコーナーがやってくるのは「Change The World」の余韻が静かに残るなか、地べたに座り込んだ赤西くんが、感謝の言葉などを述べ、観客をいじり、そして次からの楽曲が公演のタイトルにかけ、友人たちとの共作である旨を伝える。

 まずは映画『BANDAGE』で共演した金子ノブアキが作曲に関わった「Paparats」で、なるほど、フラットなインダストリアルの質感からラウド・ロックのダイナミズムに変化してゆくナンバーには、そのニュアンスが備わっている。次いで錦戸亮とのレコーディング風景がVTRで流れると、アップ・テンポで賑やかな「Hey Girl」がスタートする。明るい曲調に合わせ、ダンサーや着ぐるみがアメリカン・コミックふうの寸劇をバックで織り成すのが、とてもキュートだ。全体的にセクシーな場面が多いなか、ここが一番カラフルにはじけていた。

 そうして「Hey Girl」が止むと、しばらくのあいだ、ダンスのセッションが繰り広げられることとなる。さまざまなジャンルのダンスを、外国人のダンサーを左右にしながら、次々と移り渡ってゆくのだが、ステージ前方に張られた薄いスクリーンとライティングによって描かれるマジカルな光景が、目に楽しく。この演出は、続く「ha-ha」でも効果的に発揮されていた。そして「ha-ha」から「My MP3」へ、前半のようにダンサブルな路線にいったん戻すと、いよいよショーも終盤に差し掛かる。

 終わりのときが近づいているのだ。ステージの後方、巨大な球状のセットが組まれており、その上部に立ち、歌われるのは、せつなさをいっぱいに込めたバラードの「Eternal」である。ああ、ここにきてついに、赤西くんのヴォーカルが、感動的な叙情を孕む。そこはかとなく悲しんだメロディに、泣いてもいいし、胸を熱くしてもいい、そうやって誰かのことを想ってもいい、ささやかな報いが、許しが、しかし確実に満ちていくみたいであった。

 ラストを飾ったのは、序盤にも披露された「Keep it up」であり、ふたたびこのアッパーな楽曲が持ってこられたことで、大団円の箔がつく。バックのメンバーも総出、一人一人の笑顔が眩しく。やがて皆、ステージを去る。残念ながら、どれだけの拍手が再登場を求めようが、アンコールはなかった。

 いくらか注文をつけてしまったのは、期待値が高かったからで、それを抜きにすれば、総じて楽しいパフォーマンスだったと思う。じっさい盛り上がるべきところは最高潮に盛り上がったし、ファンとしては、こういう機会はあればあったで、とても嬉しい。しかしながら、ソロ公演において支配的な、個の強さ、を、まざまざ確認できたかというと、少々辛くならざるをえない。今の段階では、翻って、KAT-TUNの、ピースの、一つであるときのあの輝きが、尊くなる。

・その他LANDSに関する文章
 『Olympus』について→こちら
 「BANDAGE」について→こちら

・その他KAT-TUNに関する文章
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE Break the Records』について→こちら
 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2010年02月08日
 週刊少年チャンピオン40th 創刊40周年記念特別編集

 巻頭に置かれた「ごあいさつ」に〈1969年7月、週刊少年チャンピオンは創刊されました(略)すでに通巻2000号を超える幸福な歩みを今日にいたるまで続けております。この記念の年、小誌では「伝説のキャラクターたちに再び会える!! 創刊40周年記念名作読み切りシリーズ」と銘打ち(略)あの名作を、あの素晴らしいキャラクターたちを、特別に描き下ろしていただく企画を1年に渡って続けてまいりました。ここにその珠玉の作品たちを一冊の短編集にまとめ、お届けいたします〉とある。自分が『週刊少年チャンピオン』を購読するようになったのは、80年代の後半ぐらいだったから、この『週刊少年チャンピオン40th 創刊40周年記念特別編集』に入っているもののうち、半数近くはリアルタイムで連載を読んでいたことになる。読者になったばかりの頃、一番の目当ては菊池秀行(原作)と細馬信一(漫画)の『魔界都市ハンター』であった。もちろん、その新作もここには収められているが、しかし本当に好きだった。同コンビの次に手がけた『魔界学園』にも夢中になった。やがて米原秀幸の『箕輪道伝説』がはじまり、通常のヤンキー・マンガとは一線を画すスタイリッシュなヴァイオレンスにはまった。そして曽田正人の『シャカリキ!』や、みさき速の『特攻天女』、緋采俊樹の『ゲッチューまごころ便』と、愛すべき作品に次々と出会う。『箕輪道伝説』と『シャカリキ!』の新作は、残念ながらないのだけれども、『特攻天女』や『ゲッチューまごころ便』の新作が、かつての面影いっぱいに描かれているのはとても嬉しく。まあ、あれやこれやの新作もぜひぜひ読みたかったという気持ちは捨てきれないものの、他誌の創刊○○周年特別企画などと比べても、たいへん豪華で好感の持てるアイディアだと思う。余談ではあるが、きくち正太や瀬口たかひろは昔のタッチのほうが好きである。山上たつひこの『がきデカ』だったり、石井ひさみの『750ライダー』だったりよりも、そちらのほうが気になってしまうのは、世代だろう。もちろん『がきデカ』も『750ライダー』も後追いで読んではいる。立原あゆみの『本気!』は続編になって掲載誌が変わってからもずっと読んでいた。そういう、個人的な思い入れの観点でこれを高く買ってしまう一方、ボーナス・トラック的な要素の(といったら失礼か)宮崎克(原作)と吉本浩二(漫画)による『ブラックジャック創作秘話』も、伝記的なマンガ家マンガとして、じつに読ませる。このような取材と証言でまとめられた内容のマンガ家マンガは、これだけマンガ家マンガが流行っているにもかかわらず、あんがい珍しい。さすが我が道をゆく『週刊少年チャンピオン』といったところ。誰かに壁村耐三レジェンドも描いて欲しい。それにしても、いつになったら伊藤清順の『ぶかつどう』を単行本化してくれますか、細川雅巳の『星のブンガ』の2巻は出ますか、水穂しゅうしの『LOOK UP!』は、と、最後に、そこそこの連載作が必ずしもコミックスにならない(秋田書店の)独特な方針に注文をつけて、終わる。いや、だいたい『ブラックジャック創作秘話』ってもう一話あるよね。

 樋田和彦『京四郎』描き下ろし新作について→こちら
 みさき速『特攻天女』描き下ろし新作について→こちら
 立原あゆみ『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
2010年02月07日
 文学界 2010年 03月号 [雑誌]

 『文學界』3月号掲載。同じく村上龍による『群像』の連載『歌うクジラ』が、今月、ひと足先に完結されたが、こちら『心はあなたのもとに “I’ll always be with you, always”』のほうも、そろそろ終局を迎えつつあるようである。つまりそれは、第一回の段階ですでに予告されていたとおり、ヒロインである香奈子の死に、語り手の西崎が、否応なく面せねばならぬことを意味しているのであって、この第三十四回のラスト、作中の時制はようやく、小説全体の冒頭に追いつかんとしている。ところで、先ほど挙げた『歌うクジラ』の内容を、たとえば、他の誰かに働きかける主体の顕在化、と仮定するのが可能だとすれば、『心はあなたのもとに』は、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、であると仮定することが可能であるように思う。『心はあなたのもとに』の主人公、西崎は当初、他の誰かに働きかけられる自分を拠り所としていたのであったが、それが香奈子との出会いや、彼女の闘病生活との関わりを通じ、あきらかに変容してゆく。前回(第三十三回、2月号掲載)における西崎のこういう所見、〈香奈子が不安や悲しみで泣き出してもいつか泣き声は止んだ。痛みや吐き気があってもいつか収まり、救急車で入院してもいつか必ず退院するときが来た。繰り返されるうちに、そういったことがいつの間にか特別なことではなくなった〉のは、体に怪我をしたときに痛みがあるのと一緒で〈痛みがないと人間は傷に注意を払わないからそうなっている、ただずっと痛かったら辛いので、しばらく時間が経つと痛みが中和される仕組みになってい〉て、そのさい〈身体の中でものすごい数の化学変化が起こっている〉ように〈精神にも、似たような変化が起こるのではないだろうか〉、すなわち〈香奈子が怒ったときには、どうやって謝ろうかとそればかりを考えて仕事が手につかなった。会うのが憂うつに思われるときがあって、ひどい罪悪感を覚えた。そういったことが起こり、収束するたびに、少しずつ何かが変わっていった〉わけで、〈わたしたちは何にでも慣れてしまう。痛みも不安も罪悪感も憂うつも、繰り返されるたび、気づかないほど少しずつだが薄くなっていく。いいことなのかどうか、わからない。しかし、香奈子が入院するたびに不安に駆られていたら神経が保たないかもしれない〉というのは、一般論である以上に、他の誰かからの働きかけによって成立しうる何某かの実感が曖昧になりかけていることの、自分自身に対するエクスキューズにもとれるだろう。じじつ、それがおためごかしにすぎないかのごとく、今回のくだりで、香奈子とまったく連絡がつかなくなってしまった西崎は、とたんに〈いやな予感が湧き上がった。棚にあった花瓶がいつの間にかなくなっているとか、見慣れた建物が取り壊されて空き地になっているとか、毎朝庭にやってきた小鳥が来なくなるとか、それまでずっと同じ場所にあった馴染み深いものがなくなっているのに気づく、そんな感じだった〉と、あまりにも漠然としていながら、しかし確実な不安を抱えることになるのである。そしておそらくは、そうした不安のありようこそが、他の誰かに働きかける主体を潜在化、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、を担う。かつて村上龍は、『音楽の海岸』という作品で、病床のとある人物にこう言わせた。「誰が何と言っても生きていく希望っていうのは、他の誰かへの働きかけと、その誰かからの反応だからね。他の誰かからの自分への働きかけと、自分の反応じゃ希望にならないから、妄想が起きるわけでしょう?」。以前にも触れたけれど、完全な別人であるにもかかわらず、その『音楽の海岸』の主人公の名前は、『心はあなたのもとに』の主人公の名前と等しく、ケンジという。とある人物は病床から彼に「ケンジは何も気にする必要がない。生きていく希望がないってことは、他の人の希望も奪うことはできないってことだからね。わたしが言っているのは、誰かの子供を殺すとか、母親が死ぬとかそんなこの国のテレビドラマみたいなことじゃないのよ」と語りかける。さて、大切な人間がやがて病気で死ぬ、こうした『心はあなたのもとに』の大筋は、それこそ、この国のテレビ・ドラマ、メロドラマみたいであり、テレビ・ドラマや実写映画の原作になりそうなケータイ小説に近しくもある。もしもそのなかで展開されているのが、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、だとすれば、フィクションの形式とテーマを考えるうえで見出せるものがある、という気がしてくる。近未来SF的なモチーフもしくは想像力を持った『歌うクジラ』との、語り口、プロットの大きな相違を含めて。だが、いやもちろんこれは現時点での推測にほかならず、『心はあなたのもとに』の物語が完結したとき、すべては、他の誰かから働きかけられる主体の顕在化、それを認めたのちでの抵抗、あるいはふたたび他の誰かに働きかける主体の顕在化、へと逆転する場合も考えうる(ややこしいな。いずれもうすこし丁寧にまとめたい)。

 第三十一回について→こちら
 第二十七回について→こちら
 第十九回について→こちら
 第十七回について→こちら
 第十一回について→こちら
 第七回について→こちら

・その他村上龍に関する文章
 『半島を出よ』について→こちら
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