ときめいて死ね!!
いいや、戦って死のう。
2010年01月31日
 アルコ、やればできるじゃないか、アルコ。個人的には、大味なギャグでマンガをやられるより、こういうリリシズムの淡いストーリーに浸れるタッチのほうを、この作者には求めているので、連作仕立てとなる『終電車』にはひさびさ、そうそうこれ、これが読みたかったんだ、という感想を持つ。四つの編からなるオムニバスの作品集で、登場人物に多少の重なりが見られるのだが、あくまでも一話完結型の、その、ワン・エピソードから堪えきれずにあふれてくる情緒が、よい、好きなのである。

 たしかに、物語のつくりとして、特筆すべき点は少ないだろう。たとえば、1話目の内容は、周囲に流され、日常の惰性に倦んだ女子高生が、ふとしたきっかけを経、普段とは違う風景に足をおろす、というものであって、2話目は、かつての恋人を忘れられずにいる大学生の男が、追憶に苦しみ、悩み、ようやくそれを受け入れるまで、3話目は、決して恵まれてはいない容姿にコンプレックスを抱いたヒロインが、やがて諦めを乗り越え、片想いしている同級生に告白しよう、といったもの、4話目は、『ヤスコとケンジ』のスピンオフ的な設定で、上辺を取り繕い、何もかもうまくいけていると信じていた女性の編集者が、挫折、あらたな世界の認識を得、ほんとうの自分を見つめ直す、このようにいずれも各人に訪れる転機、分岐が、一日と一日と(すなわち、さっき、と、これから、と)を跨いで走り、時間的にも空間的にも遠くて近い場所に運んでくれる終電車の、そのイメージに喩えられているのだけれども、端的に述べるなら、どの篇も、ある程度に発達した自意識を題材化したフィクションにあって、ベーシックかつコンパクトな筋書きのヴァリエーションにとどまる。だがしかし、それがひたすらエモーショナルな余韻を連れてくるところに、アルコならではの叙情を見られたい。

 とくに作風、本質に相応しい面が顕著となっているのは、2話目と3話目である。2話目の、主人公の、いっけんストーカーの執着として仄めかされていた六年間の片想いが、じつはべつの理由によっていたという、こうした真相にピュアラブルな悲愴が預けられているのだが、はっきりといえば、その転調の仕方はかなり雑然としていて、ちょうど昔のカセット・テープが仕様上A面からB面に切り替わらなければならないのに似た荒っぽさがある。これはふつう汚点になりかねない。にもかかわらず、大きく割られたコマ、人物の身振りと素振りを前面にしたカット、振り当てられるセリフとモノローグが、印象のレベルで、寂しくひらいた心の空白をありありと述べる、かのようなテンポをつくり出しており、ラストのシーン、せつない希望を浮かび上がらせる。3話目に関しては、ほとんどギャグの作法で描かれているといってよい。ゴリラと罵られるほど、極度にデフォルメされた主人公の言動は、たいへん力強く、逞しい。要は、その、裏側、彼女にも十代らしいデリケートな内面のあることが本題になるのだけれども、展開は一本調子であって、凝ったドラマが用意されているわけではない。しかるに、無造作に概容を引っぱっていく手つきが、楽観とは異なるポジティヴなフィーリングを、苦慮の対極へと配置し、前者が後者を押しやり、後退させる励ましに、ささやかであることが最大限であるような詩情が託されていて、そこに、は、っとさせられる。

 たしかに、ストーリーやメッセージはありきたりではあるものの、思い切りのよいダイナミクスが、一篇一篇の好感触に通じている。

・その他アルコに関する文章
 『超立!! 桃の木高校』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら 
 『ヤスコとケンジ』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『Loveletter from…』について→こちら
 『三つ編と赤い自転車』について→こちら
2010年01月29日
 作風、物語のかっこう、もちろん絵柄も含めて、これがあの『B.O.D.Y. 』と同じマンガ家の手によるものかよ、と、少々戸惑わされるところのあった美森青の『シーイズマイン』だが、しかし、それが良いほうに転がったまま、この2巻で完結を迎える最後の最後までずうっと、楽しんで読める内容となった。作者がここで果たしているのは、極端にいうのであれば、ピュアであるあまり無自覚に小悪魔の素振りを見せる少女の内面をいかにして肯定的に描くか、というトライであって、それが結果的に、いまだ初心でいる二人の少年を、友情のなかに他愛のない葛藤を生じさせながら、振り回しているのだと思う。いつだって奔放な美礼の態度を責めるハルと遼太郎に、遼太郎の姉が〈なんで美礼ちゃんは悩んでいないって決めつけてんの? あんた達からしたら的はずれな言動でも 美礼ちゃんなりに考えて 真剣に答えようとした結果かもしんないじゃん まぁ変わった子なのは事実だし いろいろ納得いかないことがあんのもわかるけど それを全部「いいかげん」とか「やりたい放題」で片付けたら 美礼ちゃんがかわいそうだよ〉といっている言葉が印象的である。しばしば恋愛は、利己的な満足のみを要請するのであり、他人にも自分と同じように、たとえそれが薄っぺらだとしても、内面と呼ぶに等しいものが備わっているのだということを忘れさせる。これに気づかされることが、もちろん作中人物たちが若く純心だからというのもあるだろう、前向き、背中を押す力となりえているので、さわやかな結末を実らせる。

 1巻について→こちら 

・その他美森青に関する文章
 『B.O.D.Y.』5巻について→こちら
2010年01月27日
 何はともあれ、前巻のときに応募した「キャラクターブック バカ本」が、つい先日、手元に届いたのが、うれしい。薄っぺらい小冊子だけれども、登場人物の紹介とオマケのマンガに、はちきれんばかりのギャグがいっぱいで、あはは、と笑う。結局のところ、これなんだよなあ、佐藤ざくりの『おバカちゃん、恋語りき』の良さは、と思う。当然、この4巻でも、そうした魅力、要するに、はちゃめちゃな連中の真剣さが空回りしながら喜劇を装ってしまうようなラヴ・ロマンスは、存分に堪能できるだろう。

 だいたいさあ、ヒロインの〈ちょりーす☆☆☆ みなたんのアイドル 園田音色♪でっす(笑) 16歳でお年頃なもんで 恋がしたいわ! ラブりたいわ! と熱い想いを胸に西日本から東日本へ上陸(転校)してきたわけなんですけど…… 一目惚れした王子には だまされーの 野生児には告られーの つきあいーの 再び王子に告られーの…………って あらあらあら? なんだかんだいってラブ街道まっしぐらでないの? ラブコメってんじゃないの?〉という頭の沸いたモノローグではじまったエピソードが、大阪の不良、ヤンキーとの死闘編に突入していくんだからな。というか、である。音色、西日本最強の女だとは聞いていたが、まさか広島の出身だったとはね。それが大阪のチームまでのしちゃって、武勇を轟かせていたんなら、まともな恋愛は望めまい。ふつうの女子高生に憧れて、東日本に上陸でも転校でもすらあ。

 そうして京都、大阪への修学旅行で訪れた先で、かつて自分が打倒した東大阪鬼瓦連合に見つけられ、音色いわく王子である相澤深をさらわれてしまい、音色いわく野生児の栄山トキオをともなって、敵方のアジトに乗り込んでゆくことになるのだった。以上が、この巻のくだりになるわけだが、もちろん、こうしたヤンキー・マンガのオマージュもしくはパロディであるようなプロットが、本質的に見られるべき点なのではない。その最中にあって、深やトキオとの三角関係における音色のポジションが、ありありとしてき、それに従って、気持ちの所在もはっきりしなければならない、と、彼女自身に要請されていることが、物語としての機能を果たしているのだ。が、そこで成立したエモーションが、照れ隠しというには度を過ぎ、どたばたのコメディに回収されながら、ふたたび行方不明となってしまうところに、『おバカちゃん、恋語りき』ならではの楽しさがある。

 と、ここでいささかまじな話になるのだけれども、素敵な恋愛を得るため、女らしくありたいと願っているのに反し、男勝りの鉄腕ぶりを発揮すればするほど、音色の個性が際立ち、他にはないチャーミングさを備えさせていることは、作品の、重要な指針となっている。これは要するに、その人のコアであるような部分をどう描き、さらにはそれに対する周囲の反応、評価をどう描くか、という技法上の問題にかかっているのであって、たくさんのギャグが溢れているにもかかわらず、たびたび、真剣な顔つきのやりとり、ラヴ・ロマンスのときめきに、はっとさせられるのは、そういう勘所の押さえられた表現が成功しているからにほかならない。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら
 1巻について→こちら

 『otona・pink』2巻について→こちら
2010年01月26日
 足利アナーキー 2 (ヤングチャンピオンコミックス)

 以前にも記したとおり、近年、ヤンキー・マンガ(より広くいうならば不良マンガ)の系は、その総数を伸ばし、以前にも増してジャンルに勢いをつけつつあるわけだが、2010年代のヤンキー・マンガについて、さしあたり目を凝らしておきたいのは、やはり、この『足利アナーキー』の吉沢潤一や『クローバー』の平川哲弘、『ランチキ』の奥嶋ひろまさ、『A-BOUT!』の市川マサといった若い世代の台頭になるだろう。彼らの大半が1980年以降の生まれであることはつまり、70年代、80年代当時に育まれていた不良文化の土壌を正しく共有していないことを意味する。言い換えるとしたら、ノスタルジックなリアリティ、文脈では必ずしも括れない。作風にしても一世代上との違いを見せはじめているだろう。このジャンルにおける70年代生まれの作家の多くが、高橋ヒロシやハロルド作石、井上雄彦などのタッチをベースに、そうした直接の影響元や参照先を隠しきれないのに対し、もうワン・クッションなりツー・クッションなりの要素がミックスされていて、一概には誰彼のフォロワーとは判じられないところにきていると思われるのだ。必然、そのことは作品を構成するロジックや物語に内包される倫理にも及んでいるといってよい。詳しくはべつの機会に譲るけれども、端的に見て、暴力の使い途一つとってもひじょうにカジュアルな感性によっており、刹那的なアトラクションが表現の優位に立っている印象を受ける。もちろん、それは作者の若さに負っているのかもしれないし、結果的に良いとか悪いの問題はさておき、たしかな変移(変異)が、わずかでしかないとしても、あらわれている点は気に留めておかれたい、というのも以前に記したことがあったな。

 何はともあれ、『足利アナーキー』の2巻だが、やはり、刹那的なアトラクションを満載にしながら、ローを知らないテンションでがんがん攻めているところが、このマンガの本領にほかならないよね。まじとギャグの境目に引っ張られたロープを、勢い任せ、ぎりぎりのステップで渡り、どちらに転がり落ちても損なわれてしまいそうな破天荒さ、無闇やたらにアップするヴォルテージにこそ、最大の魅力を覚えるのだった。たとえば、90年代に『谷仮面』というヤンキー・マンガのオルタナティヴであるような位置からキャリアをスタートさせた柴田ヨクサルの作品がそうであるように、だ(もしかしたら吉沢にとって柴田は参考例の一つなのかもしれない)。じっさい、作中で展開されているケンカや格闘技、社会に関する蘊蓄が、どれだけまじであろうがギャグであろうが、『足利アナーキー』の本質を違えることはないのであって、それこそ、ここで主人公と教師が交わしている説教やイズム語りにしたって、たいていの思いなしなんてこれぐらい益体のないものでしょう、程度のリアリティに捉まえておけばよいのだし、いやむしろ、〈オレはよォ…日本一のギャングになるのが…夢なんだ〉という宣誓は、いっそ清々しく、そうした夢を叶えるためにヴァイオレンスが必要不可欠である以上、暴力がふるわれなければならないというのは、理に適ってさえいる。すくなくとも、作品を構成するロジックや物語に内包される倫理に破綻をきたさない、だろう。当然、ストーリーが進んでいけば、テーマとして総括できる部分も浮き彫りになってくる違いない(例を挙げるなら、作中で高校卒業が十代のラストだと考えられていることはモラトリアムの定義に深く関わるポイントだ)。が、しかし、今はこれでいい、このレックレスなグルーヴが心地好い、と言わざるをえない。

 足利市の、不良のシーンでその名を知られた高校生たち、ハルキ、カザマサ、タカシ、ヒカルに、「シルバーラット」の元キングであるテルを加えた五人は、自覚的な若気の至りで、足利市のナンバー1ギャングに、ひいては栃木一のギャングに、ひいては日本一のギャングになるべく、「ファックジパング」を結成、他のギャング集団はもとより、筋金入りのヤクザすらも向こうに回し、頂点を目指そうとする。いったその自信はどこからくるのか。たんなる恥知らず。バカなのか。調子よく余裕をかます彼らは、現在、栃木県のトップに立つ「ギルティージャンク」に宣戦布告、でぶ三人兄弟のキング、そして潰し屋のジェットと事を構えることになるのだった。はたしてどうなることやら、という次第なのだが、いずれにせよ、名前もふざけた「ファックジパング」の猛追、猛追、猛追には、生き生き、旬として認められるだけのカタルシスが、十分、ある。

 1巻について→こちら
 1話目について→こちら

・その他吉沢潤一に関する文章
 「ボーイミーツガール」について→こちら
2010年01月24日
 女王暗殺 (講談社ノベルス)

「そういう世界と自己をダイレクトに接続するような小説を書けば売れる。読者はみな、自分は特別であるという幻想に飢えているから。でもあなたはそういう小説は書けない。確かなことは、あなたがそういう小説を書けない言い訳に、自分が特別ではないと主張しているということです。そうでしょ? 自分が特別であるという物語は容認出来ない、でも作者の自分は特別としか言いようがない。こんな矛盾はありません。売れる小説を書いたら、あなたはどんどん特別になってしまう。あなたはそれを怖れた。自分の溢れんばかりの才能を怖れたんです」(P318)

 これまでにもさんざん繰り返しいってきたことだが、やはり浦賀和宏だけは別格だな。おそらくはこの作家のみが、90年代や00年代というディケイドの区切りに関係なく、そして2010年代の現在から先も、自意識の地獄の向こうにいっさいの救済の拒まれた驚天動地の物語を容赦なく創造し続けることだろう。すくなくとも、いや、まいった。あまりのインパクトに、『女王暗殺』を読み終えた瞬間、どっと重たい息をつく。率直に感想を述べようとすれば、うあああああああ、であり、があああああああ、であり、ぐわああああああ、であって、ほんとうはもうそれ以上の言葉が見つからない。

 要約のひじょうに困難な小説である。作品の性格上、たった一つでもネタを漏らしてしまったなら、すべての意味を損なってしまう可能性があるためなのだけれども、あえて試みるとすれば、世間知らずで童貞の坊っちゃん二人が、それぞれ、奇怪な殺人事件に巻き込まれながら、謎めいた女性にたぶらかされながら、やがてニアミスしながら、与野党の政権争いに深く関与していき、日本の将来をその手に握らされてしまう、といった具合になるのだが、もちろん、ぜんぜんそんな筋ではない。いや、まったくの嘘を書いているつもりではないものの、むしろ、これを真に受けてしまっては困るほど、多重の仕掛けが満載されているのだった。

 作中人物の一人が「クリストファー・ボグラーの『神話の法則』という本に、こんなことが書いてあった。物語はすべからくオーディナリーワールドから、スペシャルワールドへの移行を描くものだと。映画でも漫画でもアニメでも小説でも、読者や観客がいる世界がオーディナリーワールドで、物語の中の世界がスペシャルワールドだ。それを象徴する映画にヒッチコックの『鳥』がある(略)『鳥』の構成は、観客と映画との関係性のメタファーになっている(略)」(P179)と述べているのに忠実なとおり、『女王暗殺』もまた、「オーディナリーワールド」から「インターミッション」を経て「スペシャルワールド」への移行を捉まえていくのだが、結果として〈読者や観客〉が誰も必ずや物語の主人公に相応しく特別ではないことを曝いてしまう。

 帯のコメントに評論家の千街晶之が〈浦賀が描き続けるのは世界のありようへの懐疑なのだ〉と寄せているが、じっさい、ラストのセンテンスに到達するまでミスリードにミスリードにミスリードの束で構成されているような物語は、この世界に信じるに値するものは何もない、という真理が果たして誤りなく真であるとき、その真理自体がすでに疑われなければならない、こうしたパラドックスを丸ごと飲み込んでいるのであって、あまりにも頼りない足場がついに、ぼろぼろと崩れ去ってゆくクライマックスの、なんて残酷きわまりないことかよ。しかし、読み手がいくらそれを拒否しようとも、作中人物たちは否応なしにそれを受け入れざるをえない運命にあるので、悲痛さは増すばかり。難を逃れ、かろうじて生き残った人間より、主観的な愛情や正義をひたすら良しとし、犬死にしていった人間のほうが、よっぽど幸福に思われるのだから、たまらない。

 ところで『女王暗殺』には、浦賀の初期作においてキーの役割をつとめた安藤直樹の名が見つけられる。これをもって「安藤直樹シリーズ」の最新作と位置づけられるのだけれども、それ以上に前作である『萩原重化学工業連続殺人事件』の続編として受け取りたい部分が大きい。じじつ、カヴァーの折り返しには「萩原重化学工業シリーズ」とある。たしかに、本作のインパクトは『萩原重化学工業連続殺人事件』に目を通していなくとも、決して薄まるものではないだろう。しかし、両者のリンクがじょじょに明かされていったさい、ここに展開されている世界像は、さらに壮絶な歪みを見せはじめる。全貌のようとして知れない現実の、底の底を軽くさらって出てきたかのような、歪み、を、である。

・その他浦賀和宏に関する文章
 『萩原重化学工業連続殺人事件』について→こちら
 『生まれ来る子供たちのために』について→こちら
 『地球人類最後の事件』について→こちら
 『堕ちた天使と金色の悪魔』について→こちら
 『世界でいちばん醜い子供』について→こちら
 『さよなら純菜 そして、不死の怪物』について→こちら
 『八木剛士史上最大の事件』について→こちら
 『上手なミステリの書き方教えます』について→こちら
 『火事と密室と、雨男のものがたり』について→こちら
 『松浦純菜の静かな世界』について→こちら
 「三大欲求」について→こちら
 「リゲル」について→こちら
posted by もりた | Comment(0) | TrackBack(0) | 読書(2010年)
2010年01月23日
 ああ、〈この家族にこんな日がくるなんて〉。ほんとうだよ。武富智の『EVIL HEART』とは、要するに、家族の、あるいは家族を組織する人びとの、再生の物語であった。もちろん、合気道を直接の題材にしたマンガではあるのだけれども、いわばそれを、二つ以上の主体がコミュニケーションするさい、双方のあいだで自然に生じる力点、そして作用点の喩えとし、ひらかれていったドラマの先に、本質的な感動が在る。誰も一人では生きていかれないよ、とは単純に言わないが、他からの働きかけによって暗がりを救われることがある、このような可能性を、フィクションの、力強い描線に変えているので、心を押される。

 父親に起因する暴力のせいで、離散してしまった正木家。兄の滋は、自分を刺し、現在は服役中の母親を恨み、報復すべく、非情な裏社会で暮らす。そんな彼から家族を守ろうとして合気道を習いはじめた弟の梅夫は、教師のダニエルなど、さまざまな人たちと関わりながら、その、合気道の理念を身をもって知っていくうち、成長、次第に失われていたはずの穏やかで子供らしい表情を取り戻すのであったが、しかし父や兄に通ずる暴力の芽が完全に摘まれることはなかった。姉である真知子の心配をよそに、母親が出所する日が近づく。梅夫の、いまだ不甲斐ない自分に対する焦りは、ふたたび彼を深い孤独に引きずり込もうとする。

 全3巻で終わった連載ののち、すべて描き下ろしの「氣編」を経て、この上下巻となる「完結編」のリリースにまでこぎつけた経緯はまったく知らないのだけれど、とにかく、出てくれてよかった、読めてよかった、と、感謝できるだけの内容、十二分に価値のある結末を得られることが、うれしい。絶え間ない暴力の連鎖はいかにして否定されるべきか。さんざんに壊れてしまった絆の修復は為せるのか。幸福や希望はその対象に自分と他人とを一つにして含まなければならないのではないか。こういう普遍的な、いくとおりかになる問題の提起を、半径の狭い世界に投影しながら、ひじょうにエモーショナルな解答を導き出しているのである。

 物語全編のクライマックスにさしかかり、作中人物らの行動を通じて、大人は必ずや子供を守らなければならない、という意識が主張的になるのと同時に、子供は決して大人に庇護されるだけの弱小ではない、という定義が顕在化するのは、作品のなかにあらかじめひろがっていたネガティヴなヴィジョンを、思わず涙させられるほどのカタルシスへと傾かせるのに、おおきな足がかりとなっている。そこには、立場が異なれども、一個に数えられ、相互に干渉し合う人間の、真理めいた関係性があらわれているのであって、当然、合気道の描写もその具現に奉仕しているのだし、梅夫と滋の最終決着においてついに、鮮烈な実証を見ることになる。

 下巻のほとんどを費やし、展開される梅夫と滋の対決は、目を離せなくなるまでの迫力に満ちている。兄弟喧嘩といえばそうであろう。しかし、複雑な葛藤と愛憎を過分に孕んだそれは、暴力と破壊でしか果たせない惨劇の一幕にほかならなかった。膨大なページに渡って繰り広げられる殺意、憎しみ、攻防の、なんて痛ましいことかよ。だが、作者はたしかにその、絶望的な光景の向こうに、合気道のモチーフを、そうして和解と救済のもたらされる瞬間を、慈愛の吸い込まれる息遣いを描いている。感動するのだ。正木家の、母親が、兄が、姉が、弟が、父親が、やがて再会する場面、まさか〈この家族にこんな日がくるなんて〉。それは奇跡などではなく、一人一人が損なわれてしまった自分と繋がりを取り戻そうと懸命に生きた軌跡の。
2010年01月21日
 おかわりのんdeぽ庵 5 (講談社コミックスキス)

 借金のせいで土地をなくす、という受難は、いつの時代にあっても物語を転がすのに適しているのだろう。なかはら★ももた(漫画)とイタバシマサヒロ(原作)の『おかわり のんdeぽ庵』は、この5巻で、二人のヒロインが細腕繁盛させている居酒屋「ぽ庵」の入った長屋に、立ち退き要求、さてそれを斥けるには1億もの金額を用意しなければならない、を、周囲の人びととの関わりとともに描きながら、完結している。ファミリー・レストランをチェーン展開する親に反発し、家を出、料理人となった菜々葉と、実家の酒蔵を再建すべく、修行、菜々葉に協力する穂波、彼女たちの素性を踏まえると同時に、その友情を再確認しつつ、物語はきれいに収まっていると思う。前作との関連性を高めているのもサービスとしては上々である。が、しかし、少々あっさり、クライマックスにいたってさほどドラマティックに感じられなかったのは、雰囲気といおうか、ストーリー・テリングのあり方に従った結果だと見られる。とはいえ、まあたしかに、そのような、軽さ、こそが本作の持ち味、魅力ではあった。つまり、わざわざ、といった変調を用意しなかったことに価値を与えることもできる。個人的には、だいぶテイストの違うエロティックな近親相姦劇『世界はひとつだけの花』をすでに完結させているなかはらが、『おかわり のんdeぽ庵』も終え、今後、どういうスタンスでマンガを描いてゆくことになるのか、けっこう高く買っているだけに気になる。楽しみにしている。

 3巻について→こちら
 2巻について→こちら

・その他なかはら★ももたに関する文章
 『あかねSAL☆』(原作・岡田惠和)
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 正直なところ、今どきこんなに古くさいプロットをよくやる。山花典之の『ノエルの気持ち』6巻である。まあ、血の繋がらない兄妹が互いを意識しながら一緒に暮らす、このような初期設定自体がいかにも前時代的ではあるのだが、兄の尚人がかつていた『こひつじ園』が立ち退きを迫られ、その借金返済のため、フィギュアのスケーターとして活躍する妹のノエルは〈次のオリンピックで必ず金メダルを獲ること〉そして〈そのオリンピックの間出場するすべての試合で優勝し〉なければならない条件で、莫大な金額のスポンサー契約を青年実業家と交わし、もしも達成できなければ、彼との結婚を受け入れざるをえないというのは、さすがに見え透いている。もちろん、盛り上がるべき箇所はちゃんと押さえられているし、オーソドックスさのなかでこそ生かされている作者の良さはあるのだけれども、じつはそうした作風からしてハッピー・エンドになると約束されているのが丸わかりなせいで、いまいち、ぐっとこない。はたしてこの予想を裏切ってくれるだろうか。予定調和でしかありえない展開を必ずしも悪いとは言わない。もうすこし攪乱をつよめるだけの材料があって欲しい。もしかしたらノエルのパートを拡大し、スポ根の要素の高まる気配もあるが、ストーリーについた慣性、話の流れが大きく変わることはないと思う。

 1巻について→こちら

・その他山花典之に関する文章
 『オレンジ屋根の小さな家』7巻について→こちら
 『夢で逢えたら[文庫版]』第1巻 第2巻について→こちら
2010年01月20日
 涙 星 ―アース―1 (芳文社コミックス)

 『涙星』と書いて「アース」とある。立原あゆみの新シリーズである。副題は「チンピラ子守歌」となっていて、表紙カヴァーのカットやこの1巻の内容からあきらかなとおり、年端のいかぬ女児の存在が物語の重要なキーとなっている。テキ屋(的屋)の写楽は、腕っぷしがつよく、周囲からも信頼を置かれているが、女性にだらしない。そんな彼が、スナックの店員と行きずり、彼女の子供を預からなければならなくなってしまったことから、マンガははじまる。とにかく、歌という名のその四歳がやたらにかわいいのは、卑怯だ。喋り方は拙いのに、大人びてしっかりとした性格、作者の絵柄も手伝って、思わず目に入れたくなっちゃうじゃねえか。ちくしょう、あまりにも愛らしくて弱るよ。と、いきなりまじな話に入っていくが、少年や少女を題材とし、あるいは少年や少女と社会との対照に、必ずしも健全に機能していない現代をテーマ化するというのは、初期の頃から作者にとって重要な仕事の一つであった。もちろん、『本気!』における孤児院のエピソード等を例に出すまでもなく、ヤクザ・マンガの系にフィールドを移して以降もそれは変わらないし、そうした作品の主人公たちの極道がほとんど、親から見捨てられた子供の成長した姿であるというプロフィールを持っているのは指摘しておくべきだろう。そのような意識をおそらくは極端にまで徹底させていった結果、全体の構成を破綻させてしまったのが、過去作にあたる『地球儀(ほし)』なのだけれども、ストーリーのレベルでは関連性が見つけられないものの、この『涙星』とタイトルの部分で響き合うものを有しているのは、やはり興味深い。作者の熱心なファンにしてみれば、言うまでもないことかもしれないが、まだ自力では生きていかれない子供の未来を考えることが、この惑星を動かしているシステムの現在に向き合うことの、たぶん見立てになっているのだ。そうしてP100の〈かぐやかなんか知らねえが 月から地球を写していた そいつは地球が涙の粒に見えると言った かもしれねえな 悲しみばっかの星だもんな 地球は涙の星?〉というモノローグ、歌に視線を向ける写楽の表情が印象的にも思われる。しかし誤解を避けておきたいのは、『涙星』は決して徹頭徹尾シリアスな内容、重苦しく、息詰まるばかりの展開を備えているわけではない。たしかに、縄張りをめぐる闘争が背景に置かれてはいるのだけれども、『極道の食卓』以降とでもすべき、肩の力をすこし抜いた語り口が、一話一話の物腰をやわらかくしている。あくまでも日常の単位に付随するアップとダウン、微笑ましさ、やるせなさを際立たせているのである。

・その他立原あゆみに関する文章
 『仁義S』
  11巻について→こちら
  10巻について→こちら
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
 『本気』文庫版
  9巻について→こちら
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  1・2巻について→こちら
 『本気!〜雑記〜』第1話について→こちら
 『恋愛』
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『極道の食卓』
  8巻について→こちら
  7巻について→こちら
  6巻について→こちら
  5巻について→こちら
  4巻について→こちら
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『ポリ公』
  4巻について→こちら
  2巻について→こちら
 『月の教室』について→こちら
 『喰人』1巻について→こちら
2010年01月19日
 隣のあたし 3 (講談社コミックスフレンド B)

 三角関係上の恋愛が主題であるようなとき、自然と浮かび上がってくるのは、嫉妬、の感情だろう。すくなくとも、たった一人の存在をめぐり、はからずも対立状態に陥ってしまった二者は恋敵たるもう片方を(たとえ親交があろうがなかろうが)意識せざるをえないのだし、究極的にはどちらかが(あるいは双方が)敗者の立場に回らなければならない以上、もしも自分が選ばれなかったならば、もしも自分がそれを勝ちとれなかったら、という心理に余裕を保っていられるわけがねえんだ。兎角いま望んでいる相手こそが真であり絶対であると信じられれば信じられるほど、その苦しみ、呪われた気分は深刻となるに違いない。もしかすれば、過去作にあたる『先輩と彼女』や『スプラウト』の頃から一貫して、南波あつこというマンガ家は、本質的にはネガティヴな嫉妬の感情にとらわれる人間の心理にどれだけの純粋さが仕舞われているのかを描こうとしている、と、この『隣のあたし』の3巻を読みながら、思う。したがって、逆説になってしまうのだけれども、三角関係の葛藤をモチーフにすることがしばしばなのであって、むしろすでに作家性の一部として見られてよいのかもしれなかった。一歳上の幼馴染み、京介に想いを抱きながらも、彼に結衣子という恋人ができたことから、悲しみ、打ちひしがれなければならなくなった仁菜であったが、いくら断ち切り、諦めようとしても、好きになった気持ちは消えてなくなってはくれない。叶わないのを知っているにもかかわらず〈……京ちゃん 好き………「応えて」とか言わないから………せめて好きでいさして〉と告げる言葉が、京介の動揺を誘う。他方、久米川と別れ、京介との真剣な交際をはじめた結衣子は、今でも彼が仁菜に対して、やさしく接し続けていることに目をつむれない。笑顔でそれを許しているふうに装ってはいるのだが〈「彼女」は…「一番」は あたしなんだから……〉という苛立ちを秘め、京介への不審をつよめてゆく。たしかに、仁菜と結衣子とでは置かれているポジションが違うし、当然、アプローチ、意識のありようは異なってくる。だが、ある段階まで掘り下げて考えるならば、嫉妬の感情によって両者の行動は左右されている、その点において共通していることがうかがえる。とくに、ほんらい優位に立っているはずの結衣子の側の執着がありありとしているのは、それが物語を展開させるのに必要な動力になっているからなのだけれども、印象としては、女の子っておっかねえ、というのがよく出ていて、このへんの不穏さは、なかなか。ときおり結衣子の見せる表情はまじで油断ならない。ところでここで、この巻で、仁菜と京介、結衣子のトライアングルを中心としてきたストーリーに、仁菜のクラスメイトである上村が介入してくるわけで、彼の告白はいきなりすぎ、あまりの唐突さに、いやいや、君は誰だったかい、と、読み手の一人からすれば尋ねたくもなるのだったが、おそらくはこれが、京介を刺激し、わずかばかりだとしても嫉妬の感情を与えることになるのでは、と想像させる。

 2巻について→こちら

・その他南波あつこに関する文章
 『スプラウト』
  7巻について→こちら
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  4巻について→こちら
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2010年01月18日
 真実一郎さん、速水健朗さん、と御一緒させていただき、年明けにお知らせした座談会の後編、サラリーマン編が公開されております。題して、「サラリーマン漫画はどこへ行く【サラリーマン漫画座談会】」。ふだんマンガの批評では取り上げられない作家、作品を主にしていますので、興味のある方は、ぜひぜひよろしくお願いします。
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 終盤、物語を畳むべく、たいへん忙しない展開が続きに続くが、その、どたばた、落ち着きのなさがこのマンガにはぴったりはまっている。小桜池なつみの『フライハイ』、完結編にあたる3巻である。無垢で溌剌としたヒロインが、自分の通う中学校の荒廃を、持ち前の明るさで、次々改善してゆく、というのが、だいたいの筋書きであって、それをギャグに近しいハイなテンションでアップ・テンポに描ききったところが、作品の、最大の魅力だろう。いや、じっさいに最初から最後までとても楽しく読むことができた。ただし、アトラクションのスピードが心地好かったぶん、シリアスな問題のいくつかは置いてけぼりを食らってしまったかな、と思わないでもない。敵役のグループが、学園を独裁、他の生徒に危害を加えていたのには、相応の理由があったとし、過去に遡ることで、根は悪い子じゃないんだよ、のエクスキューズを与えながら和解の糸口を掴んではいるが、結局のところそれは責任の転嫁以上にはなっていないように感じられたのである。要するに、罪は描けているにもかかわらず、罰が描けてはいない。おそらく、こうした結末は最初の頃からすでに用意されていたものであり、伏線とおぼしき箇所も十分見受けられただけに、詰めの部分で甘くなってしまったのを、すこし、残念に受け取る。たしかに、敵役のグループの一人が自分たちの所業をかえりみて〈一番不幸なのは こんな僕らの自分勝手な計画のせいで 普通の学校生活を送れなくなった生徒たちですよ〉と言うのに対し、もう一人が険しく〈最初に裏切られたのは私たちよ〉と反論する。しかしながら〈そうです 確かに被害者でした 僕達が報復を始めるまでは でも もう僕たちは加害者なんです 泣きつく場所も 逃げこめる場所もどこにもありません〉と結論されているのは、贖罪にも似た印象を寄越す。だが、罪の告白は、どのようにしても告白にしかすぎず、罰を受けたことの代わりにならない。もちろん、中学生の幼さに罰を与えるべきかどうかの保留はあってしかるべきではあるけれども、別の人物をスケープゴートに立てて、そちらに罰を肩代わりさせている以上、作者が自覚的に論理をすり替えている、と見なされかねない危険性を併せ持つ。とはいえ、総体的にはひじょうに満足のいく内容であり、生徒による学園の自治という厄介なテーマを前に置き、きわめてポジティヴな脚力をゆるめず、最後の最後まで見事に走りきった点は、高く買いたい。

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2010年01月17日
 少女共和国 1 (講談社コミックスキス)

 この世界を、もしくはこの社会をいかにして生きるべきか、という問題は多くの未成年にとって、この学校を、この教室をどう生きればよいのか、という問題に置き換えられるのであって、それはすなわち、ほとんどの人間が義務教育のために学園生活を経験してゆくことが必定となっている現代の、正しく普遍的なリアリティとして機能しうる。学校や教室の、狭く小さい範囲を舞台にしたフィクションが、広い共感と深い主題、高い訴求力を得、表現と倫理の大きな可能性を持つのは、そのためにほかならない。もちろん、時代や世代がくだれば、学園生活の内情は様変わりするだろう。しかしそれというのは、しょせん様式の捉まえ方にすぎず、決していじめの文化がなくならないように、本質的あるいは根源的な転換が、すくなくとも今のところ、起きているわけではない。

 こうした認識の上に立ちながら、ぜひとも注目して欲しいマンガが森下薫の『少女共和国』である、といいたい。すくなくとも、この1巻で繰り広げられているドラマには、家庭と学校とを往復し、共同体に居場所を求めようとしているだけのことが、たくさんの不条理となり、主体を脅迫、傷つき、苦しめられるなかにも必ずや突破口はあるのだと信じながら、もつれてしまう足どりの、ひどく切実なステップが描き出されている。

 十四歳、中学二年生の主人公、透子によれば〈あたしが通っているのは地域でも評判の公立中〉で〈熱心な先生と優秀な生徒が集まってるということらしい〉のだが、教師たちは表面を取り繕うばかり、誰も何も〈生徒のホントの姿なんて――〉知らない。当然、学級委員として皆から信頼されている彼女がじつは〈いつ誰が敵になるかわからない中で うまくやんなきゃいけないからね〉と思っているただの傍観者であることも。クラスメイトの一人がいじめに遭っているのを無視することさえ、透子にしてみたら、自分が安全地帯に居続けるのに必要な日常の一部でしかなかった。だが、ルイという女子生徒が転校してき、無邪気にも教室内のアンタッチャブルに触れはじめたことから、苛立ち、陥れようとするのだけれど、それが次第に予想外の関わりへと転じていくことになるのだった。と、これはあくまでも導入を説明したにとどまるのであって、そこから物語が、そして透子の立場が二転三転するところに、は、と息詰まるぐらいのエモーション、並びに今日ならではの戦略的な思考が生まれている。

 万人が幸福になれるだけの容量を制度は維持していないので、必然、他の人間を蹴落とさなければならない。としたとき、『少女共和国』が特徴的なのは、大人対子供、の構図を明確に導入している点である。大人の存在を仮想敵に定めることで、あらかじめ寄る辺の失われていた子供たちは、自立的な姿勢を確保してゆく。たとえば、透子にとって最大の恐怖は、共同体の枠から逸脱してしまい、孤独にさらされることであった。学校にあっては、同窓や教師との関係を乱さぬようつとめ、家庭においては、実母や義父との関係を最善に保とうとする。フラストレイトからか、味覚障害や拒食とおぼしき症状を人知れず抱える羽目になってしまっている。しかしそれは、ルイとの出会いや、問題児扱いされている運野という男子生徒との接触を通じ、回復の兆しを見せるのだが、この、恩恵の価値は逆照射的に、自分に欠損を与えた者への敵愾心、抵抗となって、具体化されるのである。

 いくつものストレスが重なって、担任の女性教師の心ない態度に〈どうして……どうしてあたしたち 大人の都合で傷つけられなきゃならないの!?〉という憎しみを得た透子が、やがて〈先生 ここはさ 先生の王国じゃないんだよ あたしがそれを 気づかせてあげる〉と反旗を翻し、悪意に充ちたプランを企てるプロットは、なかなかの迫力を有している。

 しかして注意しておきたいのは、『少女共和国』に用いられている、大人対子供、の図式が、必ずしも権力や体制を向こうに回した(いうなれば前時代における)勧善懲悪の簡略になっていないことだろう。むしろ、権力や体制の構造は変えられない、そのような諦念のなかに限られてしまった幸福を掴むべく、主人公である透子は、悪役になるのも厭わぬほどに狡猾な表情を、見せているのではなかったか。もちろん、それが幼い独我論に走った結果であったり、利己的な心理の産物にすぎなかったならば、ばかばかしくて読んではいられない。嬢ちゃんや坊ちゃんの我が儘なんて聞いちゃられないからね。だが、そうではなくて、ここに描かれている子供の存在とはつまり、欠損を持った者同士がささやかに生きるよりほかないアサイラムの意味を指しているのであり、彼女はそれを守るため、懸命に身を挺し、踏み荒らされないよう、罠を張り巡らすのだ。

 あまりにも消極的な、あまりにも際限的な、あまりにも悲観的な防衛戦にも思われる。勝利に値する条件なぞ、はじめから用意されてはいない。いや、だからといって作品が、暗い認識ばかりを際立たせていないのは、たとえ一縷であったとしても、溜め息のつらさをよけて、光のごとく差し込んでくる希望が、透子や周囲の人びとの、束の間の笑顔を、あざやかに映し出すことができているからである。大人を抜きにした学園の物語をあえてつくらないで、このマンガは、学校や教室を、世界や社会そのものの、直接の現実として確立することに成功している。そうしたさい、生徒の、いま手にしている希望の、小ささにもかかわらず、なんて尊い輝きか。つい泣ける。
2010年01月15日
 ギャングキング 18巻 (ヤングキングコミックス)

 はたして「ワークマンズ編」とはなんだったのか。これに関しては、そのストーリーに感動した人間こそが詳しさを述べられたいのであって、ほんとうは口を挟むべきじゃないんだ、と思うのは、自分は内容をあまりよく理解できていない人間だからである。とはいえもちろん、極度に高度だったり難解な筋書きが描かれているわけではないだろう。いやむしろ、本質的には深みのあるテーマを安易なカタルシスへと落とし込んでいった結果、道理のかなっていないものになってしまっていると感じられるのだった。薔薇十字学園工業科2年生(通称・バラ学少年愚連隊)と、建設現場等で働く同世代(通称・ワークマンズ)の対立は、些細な行き違い、お互いがプライドを守りろうとし、なし崩し的に大規模な抗争にまで発展してゆく。これに収拾をつけるべく、当初は諍いを避けたいがために傍観を装っていた両者のリーダー、ジミーとベロとが、いよいよ直接に果たし合い、それぞれの想いを拳に託すこととなる、というのが、この柳内大樹の『ギャングキング』は18巻にあらわされているくだり、なのだけれど、当人が望まぬ事情のせいで学生と社会人にわかれてしまった少年たちの、ひじょうに複雑な立場の違いを題材にしながらも、結局は、タイマンはったらダチ、式の、この手のジャンルに有用なルールを、都合にあわせ、拡大解釈した以上の成果をあげられていない。したがって細かい点を見ていけば、様式にそったダイナミズムに任せるあまり、作中のロジックや倫理に綻びが出ているような気がしてしまう。もちろんそれは何も、道徳的であれ、ということではない。そうではなくて、物語をつくるうえでの技術を指したい。正直、ここで作者が挑んでいるテーマには、万鈞の重みが含まれている。モラトリアムに滞在することと社会に出立することとを線引き、境目で裂かれるほどに苦悩する若者の存在を、等しい傾向と資質を持ちつつも立場の異なった二者の並列によって、主張化しようとしている、これは労働のプライオリティが必ずしも保てなくなった現代において、重要な問題提起、一考に値する面を持っており、その志を高く買おう。としても、決して表現の、説得力、に対する好評価とはならないし、すべきではない。それをつよめるために必要なロジック、倫理に一貫性を求められないのであって、『ギャングキング』の場合、いくらかまずい箇所のほうが多くて目につきやすい。具体的に、もっとも大きなところを挙げるのであれば、やはり、主人公であるジミーのカリズマになるだろう。と、過去にもさんざん述べてきたことであるが、たとえば「ワークマンズ編」において援用されている、タイマンはったらダチ、式の展開がルールとして機能するためには、主人公の正義が十分に保証されていなければならない。そうしたときにはじめて、主人公の勝利が必然に、暴力的な行為が暴力的な行為にとどまらぬ意味、コミュニケーションの役割を得ることになるからである。にもかかわらず、その、いちばん大切な軸足が、ともすればおろそかになっているので、すでにいったとおり、安易なカタルシスとしか繋がっていかない。たしかに、ジミーとベロが雌雄を決するにあたり、〈今回は………負けるかもな――…ジミー……ジミーは昔から“怒り”の度合いで強さが変わるだろ…? 今回はアイツにその“怒り”の感情がいっさいないからなあ………………〉といわれていたはずが、〈ジミーくんの強さは………もはや“怒りの度合い”とかってレベルじゃなくなってるみたいだね――…〉と説明し直されることで、いちおう主人公が勝利するのに最低限欲しい条件は整えられている。が、しかし、そこに預けられているに違いない正義が、物語上のロジックや倫理の演繹とはなっておらず、不透明なまま、ひどく曖昧にも思われるので、素直に感動させられない。

 16巻について→こちら
 15巻について→こちら
 14巻について→こちら
 13巻について→こちら
 12巻について→こちら
 10巻について→こちら
 9巻について→こちら
 8巻について→こちら
 7巻について→こちら
 6巻について→こちら
 4巻について→こちら
 3巻について→こちら

・その他柳内大樹に関する文章
 『ドリームキングR』
  4巻について→こちら 
  3巻について→こちら
  1巻について→こちら
 『スマイル』(永田晃一との合作)について→こちら
 『柳内大樹短編集 柳内大樹』について→こちら
  「バンカラボーイズ」について→こちら
  「オヤジガリガリ」について→こちら
 『ドリームキング』
  3巻について→こちら
  2巻について→こちら
  1巻について→こちら
2010年01月14日
 Olympos(オリンポス)[通常版]

 ロック・ミュージックのヒストリーには、相当の注目を集める一方で、誰も幸福になれないバンドというのがいくつも存在してきたが、90年代に活動していたとされる架空のグループであるLANDSも、その音源を聴くかぎり、決して恵まれた軌跡を辿れず、必ずしも有意義な結果を残せなかったのではないか、と思う。現時点では、彼らのバイオグラフィにあたる映画『BANDAGE』を未見であるため、じっさいどのようなストーリーを歩んだのかは知らないのだけれども、小林武史が指揮のもと、赤西仁(劇中の役名でいうなら高杉ナツ)をメインにして制作された『Olympus』の内容から判断するに、たとえばそこに堂々と付せられた「ファーストにしてラストアルバム!!」というコピーが、ああ、たしかにこのぐらいの精度でしか個々の楽曲を完成させられなかったのだとすれば、大勢の認知を得たとしても、泡沫の夢と消えるよりほかなかっただろうね、と皮肉的に思えたところで仕方がない。率直にいって、もうすこしやりようはなかったのか。どのナンバーも、まず、作曲のレベルにおいて、先行シングルの「BANDAGE」の段階ですでにうかがえたマイナス、つまり抑揚のないメロディとビートを単調に反復していることが小林の手癖以上に感じられない点は、まったく払拭されていないし、次に、小林のみならず岩井俊二をもクレジットに加えた作詞は、君(もしくは、おまえ)と僕の関係式を、ネガティヴな世界像と安易に直結させたうえで、がんばれ、とエールする、いうなればセカイ系がんばれソングとでもすべきイメージを屈託なく抱え込んでいるのだが、いくらか調子外れなエモーションになってしまっている。いやそれが前々ディケイドのリアリティだったのだと開き直れるかどうかも疑わしい。また、ヴォーカルに赤西をはじめ、ドラムに金子ノブアキ(RIZE)、ベースに前田啓介(レミオロメン)やキタダマキ、ギターに名越由貴夫(COPASS GRINDERS)や西川進、等々のよく知られたミュージシャンを揃えているにもかかわらず、3曲目の「二十歳の戦争」や5曲目の「鼓動」で聴かれる名越のプレイ以外はほとんど、没個性の演奏となってしまっており、あまり奮わされない。全般的にカタルシスが乏しいのである。2曲目の東京スカパラダイスオーケストラのメンバーが参加した「ska version」と、8曲目のMr.Childrenの「Tomorrow never knows」ふうにアレンジされた「perfect issue」だけではなく、9曲目の「サンキュー」のあとにもシークレット・トラックとしてアコースティックの弾き語りが収められている「元気」は、じつはその3つ目のヴァージョンが、アルバム中もっとも鮮烈な響きを持っているように感じられた。しかしまるで映画のワン・シーンから引っ張ってきたかのような仕掛けで、〈ああ・夢の中でも・あなたに会いたい〉と、掠れながら消え入りながら歌われるフレーズの、ひどく寂しい、せつなげな印象は、この作品の並びにとって、やはり例外的なものにすぎないだろう。

 シングル「BANDAGE」について→こちら

・その他KAT-TUNに関する文章
 『Break the Records -by you & for you-』について→こちら
 「RESCUE」について→こちら
 「ONE DROP」について→こちら
 「White X'mas」について→こちら
 『KAT-TUN III - QUEEN OF PIRATES』について→こちら
 「DON’T U EVER STOP」について→こちら
 「LIPS」について→こちら
 「喜びの歌」について→こちら
 『Cartoon KAT-TUN II You』について→こちら
 『Live of KAT-TUN “Real Face”』DVDについて→こちら
 「REAL FACE」について→こちら

 DVD『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』について→こちら

 コンサート『不滅の10日間ライブ KAT-TUN TOKYO DOME 2009』(09年・東京ドーム)
  6月15日の公演について→こちら
  5月22日の公演について→こちら
  5月18日の公演について→こちら 
 コンサート『KAT-TUN LIVE TOUR 2008 QUEEN OF PIRATES』(08年8月5日・東京ドーム)について→こちら
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2010年01月13日
 文学界 2010年 02月号 [雑誌]

 『文學界』2月号掲載。青山七恵の小説において、東京を舞台にして生きる作中人物たちはたいがい、「どこか」から離れている自分のことを実感している。では日本を発ち、海外に渡った作中人物たちの場合、それはいかように変化するのか。ひどく簡単にいえば「どこか」と呼ぶべき地平がたしかにあるということを実感するのである。もちろん二つの「どこか」は持っている意味合いが大きく違っている。前者の「どこか」が既知の言い換えだとすれば、後者の「どこか」は未知の言い換えになるだろう。作家論的に考えるとき、作者にとっての東京とはすなわち、未知と既知とが入れ替わる途中にほかならない。このことはおそらく、『群像』09年12月号で青山が吉田修一の『横道世之介』にあてた書評「『東京』していたあの頃」からも推測可能であるし、また同時に栗原裕一郎が『國文学』09年6月臨時増刊号「小説はどこへ行くのか 2009」に書いた「吟子さん(『ひとり日和』)の家がある駅の名が伏せられているのはなぜか――青山七恵の場所」がひじょうに示唆的である。ところでおまえは何が言いたいのか、という話なのだが、要するに、今までの青山の作品に主張的であった既知の移行とでもすべき運動が、この短篇「ファビアンの家の思い出」では、未知への離陸という運動へと転じているように思われるのだった。すくなくとも、作者が海外の情景を描写した小説はこれがはじめてなのであって、同じく男性を語り手にしつつ「○○の××」の体裁で題された過去作「ムラサキさんのパリ」が、海外を遠くに、すなわち未知である「どこか」を向こうのほうに見ながらも、決して近づかないことで、いつの間にか既知に変わってしまった東京の空をあらわしていたのに対し、「ファビアンの家の思い出」は、未知である「どこか」、すなわち海外の〈長いあいだ、日本の電車に乗らず、日本の食べ物を食べず、日本の道を歩かない〉場所に、いやじっさいには短い日程なのだけれども、直接降り立った作中人物たちに、たとえばこのようにいわせている。〈「なんでここにいるのか、俺たちは不思議だな」 / 卓郎は唐突にそう言った。しかしそれは、この旅行中、普段考えないことを考えた後に必ず私の頭に浮かんだ言葉そのものだった〉のだ、と。そして次のように〈私は彼のあとに続けた〉のだった。「そうだな。旅行って、金かけて移動して、いろいろ不便な思いして、食べたことないもの食べて、見たことないもの見て、こういうもんかって思うだけだよな。でもその最中、そこにいる自分が不思議って思う瞬間は、気持ち悪いのも腹痛いのも忘れて、俺はなんだか、宇宙を飛び出してるみたいな感じがするよ」。たぶん、この、小さく新鮮な驚きのなかに、未知と既知とにまたがる、もっとも大きな核心が触れられている。さらにもちろん、以上に述べてきたことを鑑み、もしかすれば作者は新しいフェーズに入ろうしているのではないか、と考えてもよい。

 『うちの娘』について→こちら
 『山猫』について→こちら
 『ニカウさんの近況』について→こちら
 『出発』について→こちら
 『欅の部屋』について→こちら
 『お上手』について→こちら
 『かけら』について→こちら
 『新しいビルディング』について→こちら
 『松かさ拾い』について→こちら
 『やさしいため息』について→こちら
 『ひとり日和』について→こちら
 『窓の灯』について→こちら
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2010年01月11日
 Winds of Osiris

 これは待ちに待っていた作品の一つ。そして期待どおり、イギリスはリーズ出身の5人組であるPLIGHTが、ファースト・フル・アルバムの『THE WINDS OF OSIRIS』で轟かせているのは、荒削りのガッツをパワフルに駆使し、豪快にタックルしてくるかのようなサウンドだった。いわゆるストーナーの系に入るスタイルであって、70年代頃のクラシックなハード・ロックを下敷きにしながら、モダンなんて知ったこっちゃないよ、と言わんばかり、堂々と決めているあたりが、やはり、一番の魅力だろう。あえて、に違いない隙間の大きな音響のなかで、野郎のエキスをたっぷり注ぎ込んだグルーヴを、ぶんぶん、うならせているのだった。これまでに発表されてきた2枚のEP、06年の『THE PLIGHT』や07年の『BLACK SUMMER』が、わりとピッチの速い楽曲を充実させていたのに比べ、ミドルからスローにテンポを落としたナンバーを主軸にしているのは、いやいや、あのがっついたエネルギーをまったく隠していないところがおまえらの良さじゃなかったかよ、と思わないでもないのだけれども、バンド側の野心はおそらく、そうした仕様の微妙なチェンジによってこそ実現されている。スピードよりもダイナミズムを重視した結果、2本のギターの描く表情が、以前にも増して豊かになった。いくぶんリフはキャッチーになり、ソロのパートにおいては、まるでUFOやTHIN LIZZYをイメージさせるほどに、メロディアスなアプローチがきらりと光る。アコースティックとエレクトリックがたおやかに入り混じるインストゥルメンタル、5曲目の「LIFTED TO THE SUN」を経て、6曲目の「COUNTING TEETH」がヘヴィな地響きを立てるさまには、こう、ライヴの最前列で手すりに身を預けながら首を振りたくなるかっこうよさがある。もちろん、パンキッシュともとれるヴォーカルが、アップなテンポのビートに合わせ、ぶっきらぼうに叫び叫ぶ前半戦、2曲目の「LOVESICK MANIAC」 や3曲目の「INTO THE NIGHT」には、拳を掲げるしかねえんだ。よろしい。気概には気概で、無骨さで応えてやろう。

 バンドのMySpace→こちら
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2010年01月10日
 現在、マンガ家を題材にしたマンガがブーム状になっていることに対し、懸念を抱かざるをえないのは、同じジャンルのなかにあって質の良い悪いがあってしかるべきなのに、どうもその点があまり顧みられていない気がしてしまうからなのだったが、いやたしかにどれもおもしろいよね、というのはわかるのだけれども、たとえば自伝もしくは私小説的なアプローチや、エッセイまたはルポルタージュふうのアプローチ、まったくのフィクションを描くアプローチとでは、あきらかに評価の軸が異なってくるはずなのに、一部では混同されているように思えてしまうし、べつにそれが問題にはなっていない。ゆえに自分は、マンガ家マンガをあえて全面肯定しない、という立場をとりたいのだった。が、しかしまあ、そんな小さいことはどうでもいいじゃねえか、と、目の覚まされる作品にようやく出会う。それがこの、横山了一の『極☆漫〜極道漫画道〜(ゴクマン)』である。何よりも、すばらしくくだらなく、まじになっても仕方がないところをぐんぐん攻めていっているのが、よいよ。内容はといえば、徹底したフィクションであって、ギャグであって、むしろこれを今流行りのマンガ家マンガのカテゴリーに入れたら、怒られちゃいそう。でも現状においては、そういう、すがすがしいまでの馬鹿馬鹿しさ、いっさいタメにならないアプローチに、ある種の批評性すら感じられてしまう。鬼ヶ島香、40歳、〈武闘派で知られる“鬼ヶ島組”の2代目組長だ〉が、真の夢は〈あこがれの雑誌“花とまめ”で いつかきっと少女マンガ家デビューしてみせる…!〉ことであった。その〈昼はヤクザの組長 夜は少女マンガ家志望という二つの顔を持つ男である!〉彼が、次々とマンガ業界の片隅で引き起こしてゆく災難が、たいへん愉快だ。本質的には、外見と内面に著しいギャップを持った主人公の一挙手一投足が、周囲の人間に間違ったリアクションをさせ、当人は無自覚であるにもかかわらず、どつぼにはまらせてしまうのがおかしい、式の、昔からよくある手法のコメディにほかならない(『デトロイト・メタル・シティ』の作者が帯にコメントを寄せているのも道理であった)。かならずしもディテールが詳しく出来ている必要はなく、きわめて通俗的かつ大雑把な描写の連続に、むしろ、こんなやつ絶対にいねえだろう、と思わせたら勝ち、たいていのことは笑って許せてしまうのである。たとえば、白湯社の「花とまめ」を代表する人気マンガが「NINA」だったところで、どうでもいいじゃないか。要は、極端にデフォルメされた世界像が冴え渡ってさえすれば、作品の質は疑うべくもなく保証されるのであって、これは同じく、ヤクザを題材にしたマンガとして読み替えたさいにもいえる。ロシアン・マフィアのピョートルとかもう、ほんとうにあんまりすぎる。いずれにせよ、ローズマリー香(主人公のことね)が、「花とまめ」でデビューを飾る日を、ぜひとも見届けたく。それまで、このテンションを落とさず、キープしてくれたら、とてもうれしい。
2010年01月09日
 00年代が終わった。もはや忘れてしまった向きも多いかと思うが、00年代の途中頃にはヤンキー・マンガなんてもう萎みかけだとする風潮があった。たちまち廃れるだろう、と言った人もいた。しかし2010年代に入った現在の状況をいえば、ヤンキー・マンガの一群はかつてと同じか、あるいはそれ以上の市場と影響力を持ちかけてさえいる。このことの意味については、誰かが真面目に検討してくれてもいい、と願うのだったが、個人的には、同ジャンルのファンを自認しているにもかかわらず、こうした盛況を無条件に喜べないのは、質のレベルにおいて、必ずしもすぐれていると信じられないものが高く買われているように思えてしまう場面が多いからである。00年代のヤンキー・マンガが、いかなる系譜を持っていたかは、いずれ詳しく考える必要があるが、とりいそぎまとめるのであれば、99年から00年代にかけ、すでにベテランになろうとしていた高橋ヒロシと田中宏がそれぞれ、『QP』と『莫逆家族』で、不良少年のモラトリアムにも終わりがある、という真実を身も蓋もなく曝露、成熟できないことの不幸を厳しく追及したのと並行し、当時はまだ無名に近しかった山本隆一郎が、01年から06年に渡り発表した『GOLD』で、同じ問題意識を共有、その、限りあるモラトリアムの、絶望のなかにしかありえない不良少年の成熟を描き直してみせたのだった。けれども、こうしたシリアスな、普遍性が高く、ある意味で深いテーマ性を有した作品は、決して絶大な支持を得たわけではなかった。むしろ、このあたりが00年代におけるヤンキー・マンガの低迷期と見なされていたのではなかったか。ヤンキー・マンガというジャンルが、ふたたびのブレイクを果たすためには、03年に『ギャングキング』をスタートさせた柳内大樹を筆頭に、先行する作家や作品群からスペクタクルのみを引用、モラトリアムの苦悩と不良少年のイメージをステレオタイプ化したうえで、あらためて学園生活に夢を託そうとする若手作家たち(1975年前後の生まれが多く、高橋ヒロシのフォロワーと呼べるものも多い)の、そのわかりやすさゆえに若年層をも取り込むような活躍を待たなければならなかった。もちろん、高橋ヒロシが『クローズ』の続編である『WORST』を01年に開始、不良少年のモラトリアムを、軍記物、国盗り合戦のロマンへと、あらかじめ回帰させていたことは、大きな地盤となっていた。たしかに同時期、西森博之や加瀬あつし、小沢としお、(原作者として)佐木飛朗斗などの作家が、独自の路線で、不良少年の題材とテーマを更新し続けてはいたが、現在本流と呼ぶべきは、だいたい高橋ヒロシとその周辺の作家たちになる。しかるに、上述の理由で彼らの作風が少々表層的に感じられる点を、個人的に訝しんでいるのである。そうして2010年代の話をちょっとしたいのだけれど、すでにいったとおり、いまヤンキー・マンガ界の中核をなしているのは、1975年(昭和50年)前後に生まれた作家たちであるが、さらに若い年代がじょじょに登場しはじめていることは、やはり重要だろう。それというのはつまり、平川哲弘(『クローバー』)のことであり、吉沢潤一(『足利アナーキー』)のことであり、奥嶋ひろまさ(『ランチキ』)のことであって、彼らのセンス、とくに人生のプランや暴力に対するカジュアルな感性は、まあたんに実年齢の問題なのかもしれないが、上の世代の作家がやたらイズムをかざそうとするのとは、趣を違えるものだ。そのなかでいち早く頭角を現したのが、平川哲弘であるし、今や『クローバー』はストーリーが14巻も続くほどの人気連載となっている。にもかかわらず、『クローバー』のよさ、に関しては、いまいち掴みづらく、言語化しにくい。しいて挙げるとすれば、その、明るさ、軽さ、ということになるだろうか。いずれにせよ、先行する作家や作品群にはあまり類例のなかった屈託のなさが、一つの特徴をなしているのは間違いない。たとえば、主人公のハヤトやトモキ、ケンジが背景として持っている家庭環境は、決して恵まれてはいないのだけれども、そうした生まれや育ちに結びついていく問題が、物語の説得力を担うのでもない。前巻で彼らが2年に進級しても大きく変わらず、ただ、誰にでもモラトリアムを謳歌する権利があることを主張的にしていったところに、不良がいて、諍いがあって、友情があって、青春がある。そこにあらわされたいくつもの衝突に果たしてどれぐらいの価値があるのか。こうした問いはおそらく、2010年代のヤンキー・マンガを真剣に見ようとするとき、何かしらの目安をつくる。

 8巻について→こちら
 
 1話目について→こちら
2010年01月08日
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 前回の掲載がよほど好評だったのか(どうかは知れないが)、高橋ヒロシの『クローズ』をふたたび、直弟子にあたる鈴木ダイがアレンジ、リメイク、男性の登場人物を全員女性のイメージに置き換えるという、要するに二次創作的に再現した『クローズLADIES』の続編が、『月刊少年チャンピオン』の2月号に発表されたわけだけれども、その、先のエピソードがアクションとはったりの生き生きと生かせる場面をオリジナルから引っ張ってきたおかげで、わりとインパクトのある内容になっていたのに対し、今回のエピソードはだいぶ地味、いや、単純にイラストのレベルで見るなら見開きの2ページを使ったカットがふんだんであって派手なのだが、動きのあるマンガとして見ようとすればこれといってアピールしてくるところの少ないものになっている。正直、おお、と思わされたのは、メリンダ(リンダマン)の意表をつくデザインぐらいであって、それは結局、どれだけ原作を裏切っているか、飛躍しているかの驚きでしかない。もちろん、そうしたオリジナルとの比較を前提にするのが、二次創作的なアプローチの本質なのだとすれば、まったく正しい、というよりほかないだろう。このたび、トリビュートの題材として採用されているのは、『クローズ』本編の第51話である「桜の下で…」(ここでは「櫻の下で…」に改題されている)で、卒業間近のリンダマンと坊屋春道とがいよいよ決着をつけようとするのを見届けるべく、大勢のギャラリーが集まり、クライマックスへと向かうに相応しい緊迫が高まってゆくだりである。たしかにすばらしく印象的なシーンだったのだけれども、その触感はやはり、長篇のなかに置かれていればこそ、物語という背景を持っていたがゆえのものであった。『クローズLADIES』の「櫻の下で…」が『クローズ』の「桜の下で…」と違うのは、読み手は直接の物語の参照するのではないという点であって、一連なりの文脈にテーマを見るのではなく、春華と春道の相違、メリンダとリンダマンの相違、他の登場人物たちの相違、等々の細切れな描写のレベルにおいて、スペクタクルを得なければならない。そしてそのとき、高橋ヒロシのフォロワーによってスタンダード化したカット、カット、カットの並列で展開をつくっていくヤンキー・マンガの手法が、あるいは効果が、オタク寄りの作品にありえそうなそれと大差ないことに気づかされる。

 「逆転の発想!」(「海の見える街へ!」)について→こちら

・その他鈴木ダイ(鈴木大)に関する文章
 『春道』1巻(キャラクター協力・高橋ヒロシ)について→こちら
 『ドロップ』(原作・品川ヒロシ、キャラクターデザイン・高橋ヒロシ)
  7巻について→こちら
  5巻について→こちら
  1巻について→こちら